2005年07月30日

じょんのたましー

今年も恒例の「ジョン・レノン追悼コンサート」が開催されるそうである。
そして、今回はオノ・ヨーコが単独でパフォーマンスを行うとのこと。
わぁ〜、見たくないよぉ〜!!
posted by og5 at 12:14| 秋田 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「愛の神、エロス」で何が一番好きか?

最近回りで、「愛の神、エロス」の中で一番好きなのはアントニオーニの作品だという人が結構いることを知った。
妻は最初ウォン・カーウァイのが好きで、アントニオーニのはあの男の顔がもう駄目だし気持ち悪い、と言っていたのだが、その彼女も最近ではすっかり「肉体派」である。

「塔に住む女」が「馬に乗って」現れたり、パリにいる夫と電話で話す妻が「逃げた馬を捕まえようとしている」最中だったり、というあからさまに夢診断っぽいシーンがあって、「ちょっとストレート過ぎない?」と言いたい気にもなったのだが、それさえもあの「肉体」の前ではどうでもよくなりかすんでしまう。というか、逆にある種の様式を形成するのに役立って、「肉体」のシーンを際立たせることに成功している、とも思える。
塔の中の一室で全裸で絡み合うシーンや海辺で(やはり全裸で)踊るシーンも大好きだ。
「生命力」に圧倒される。

ウォン・カーウァイのは「箱庭の中」という感じがする。
また、ソダーバーグの作品には、とにかく笑わせられました(あの博士最高です)。
B00005R233欲望
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posted by og5 at 11:27| 秋田 🌁| Comment(2) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年07月27日

DNA

嫌いなところはみんな
あんたに似てる
困ったところもみんな
あんたに似てる

可愛いところはみんな
あんたに似てる
愛しいところもみんな
あんたに似てる

大嫌い
なのに
愛してる
DNA

大嫌い
なのに
愛してる
DNA

−RUBBER SOLE「DNA」より−
posted by og5 at 22:20| 秋田 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | サルの歌詞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

父の自転車

小学校三年の時に、僕は市の中心地にあるN町から、同じ市内だが5Kmほど南側にあるA町に引っ越した。
転校はしなかった。僕はちょっと手のかかる子供で、やっと慣れてきた学校を替わるのはリスクが大き過ぎると親が判断したのだろう。

その頃、父は寝具の訪問販売の仕事をしていた。訪問販売と言えば聞こえはいいが、別に背広姿でパンフレットを鞄に入れて歩くわけではない。ジャンバー姿で自転車に毛布や布団カバーを積んで、親戚や昔の知り合いを頼りに、市内のごく狭い範囲をあちこちと廻るのである。自転車は、酒屋で使うような荷台が大きくスタンドもがっしりとしたタイプで、その頑丈な荷台に大きな荷物をくくりつけて「営業」に出かけるわけである。
父はよく仕事を替えた。一発当てたい、楽して儲けたい、という考えが根っこの部分にある人で、68歳で亡くなった母は、あの人は結婚する時無職だったとか、あれは根っからのヤマ師だからとか、生前よく父の悪口を言っていた。実際父は、岩手と秋田の県境で、炭焼き(山師)をしていたこともあるらしい。
父が安定した職についていなかったため、母は勤めに出ざるを得ず、僕は母に見捨てられたような気持ちになっていた。僕は、底なし沼のように母に甘えたかったのかも知れない。

引っ越して間もなく、祖母が亡くなった。
夜布団に入る、寝小便をする、祖母の部屋に逃げ込み朝を迎える、というパターンが崩壊し、夜布団に入る、寝小便をする、そのまま朝を迎える、というパターンになった。
寝小便の後始末を祖母に任せるわけにいかなくなった母にとって、僕はどんなに鬱陶しい子供だっただろう。
僕の寝小便の始末をしてから、それでも家族の中で一番早く、母は仕事に出かけた。二人の姉は、それぞれ中学と高校へ、そして僕はバスで学区外の小学校へと向かう。父が何時頃家を出るのか、家族の誰も知らなかった。
父はたいてい酔っ払って帰宅した。金もないのに、一体どこで飲んで来るのか、僕達には見当もつかなかった。

僕はいわゆるカギっ子になった。
家に帰っても誰もいない。しかし、それは、僕にとって決して不幸なことではなかった。甘えたいのに一人でいるのがとても心地よいという一見矛盾したこの心境が、当時の僕の中には確かに存在したのである。
僕は一人で、貸本屋で借りて来た漫画本を読みふけり、そしてテレビを見た。当時は夕方の数時間、テレビ放映のない時間帯があり、その間、白黒のテレビ画面にはずっとテストパターンと呼ばれるいつも決まったマークが映し出されていた。僕は、友達が家に帰ってしまったような、淋しくてやり切れない気持ちで、その動かない画面をぼんやりと眺めていた。だが、それは同時に何モノにも束縛されない、僕だけの自由な時間でもあったのだ。

その頃、僕は雨の日が大嫌いだった。
バスから降り、傘を差し、家へと続く坂道を登る。玄関脇を右にそれて、そして勝手口へと回る。
カギっ子とは言え、僕はその頃別に家の鍵を持たされていたわけではない。何故なら、家の勝手口はいつでも開けっ放しだったからである。そして、雨の日には、必ずそこに父の自転車があった。
父がジャンバーを着たまま居間でテレビのワイドショーを見ているので、僕はしょうがなく部屋に閉じこもり、雨の音を聞きながら、ぼんやりと何かを考えていた。何を考えていたのかは、もう忘れてしまったが、ただ、勝手口の前に、父の自転車を見つけた時のあの雨の日の何とも言えない嫌な気分は、今でもよく憶えている。

雨降りにまで自転車をこいで仕事に行けと言うのか、と父は母と何度か口論していた。それが身勝手な言葉であることは子供の僕にもよく判ったが、父は、雨の日には何か救われたような気持ちになって家にいたのではないかと今では思う。せっかく一人でゆっくりしているのに、友達のところにも行かず真っ直ぐ家に帰って来る僕が、邪魔で邪魔でしょうがなかったのではないかとさえ思うのだ。
僕は、特に引っ越しをする小学三年の中ほどまでの僕は、なかなか学校に馴染めない登校拒否児童気味の子供であった。しかし、その頃にはまだ、この全く相似形の雨の日の父の心には、まるで気づいていなかったのである。
posted by og5 at 15:34| 秋田 ☁| Comment(4) | TrackBack(0) | 記憶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年07月22日

バカボンスタイル

4884752945天才バカボン (2)
赤塚 不二夫

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赤塚不二夫の作品タイトルには、連載を重ねるに連れてだんだん作品自体と無関係になって行ってしまう、というものがよくある。
例えば「もーれつア太郎」は、いつの間にかニャロメやココロのボスに乗っ取られてしまったし、「おそ松くん」も、物語の中心はやがてチビ太やイヤミに移って行った。
「おそ松くん」に関しては、ギャグ漫画の主人公にしては魅力に乏しいと言わざるを得ない子供達が(六つ子だから当然)6人もいるという設定自体スゴイという話もあるのだが、作者が最も感情移入し易かったのは、やはりチビ太だったのではないかと思う。

さて、「天才バカボン」である。
これも、バカボンはいつの間にか脇へ追いやられ、メインで暴れるのはその父親と関係者達ということになってしまっていた(「天才バカボンのおやじ」という別作品まであるくらいだ。ただし、こちらはタイトルと内容の乖離がない)。
実はある話の中で、彼等一家の表札が「バカボン」となっていて、それを発見した当時中学生だった僕は、「じゃあ、バカボンのフルネームは『バカボン・バカボン』か?」などと、友人と一緒になって不毛な話題で盛り上がったものだった。
「バカボン・バカボン」・・・、まるで「キャッチ22」の「メイジャー・メイジャー」みたいだ(あるいは「ロリータ」の「ハンバート・ハンバート」か)。
とにかく、主人公がいつの間にか脇役に主導権を奪われることを、僕は「バカボンスタイル」と呼んでいるのだ。

ところで、丈の短い着物に短靴という別の意味での「バカボンスタイル」もまた凄い(決してスニーカーではない。あくまでもズックの「たんくつ」)。
多分、同じ作者名義の「メチャクチャNO1」のスタイルから引き継がれたものだと思うのだが、今年49歳の僕にとって、これは実にリアルな(リアル過ぎる)スタイルである。
というのも、僕が十代の半ば頃までは、近所に一人くらいはこんな恰好の大人(もう年齢的に子供ではないという意味における大人)が実際にいて、何故か普通に僕達と一緒に遊んでいたからである。
あれは正に「バカボンスタイル」であった。

子供にそんないかにもな恰好をさせているなんてママはなんて人なんだろう、と思ったが、そんなことを言うなら、それ以前にあの人はバカボンのパパと当たり前なような顔をして結婚しているわけである。
最も異常なキャラクターかも知れない。
posted by og5 at 18:42| 秋田 ☁| Comment(6) | TrackBack(0) | 本・雑誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年07月18日

「オバケのQ太郎」とは何者か?

子供が子供として何の疑いも持たずに暮らすことが出来るという意味において平均的な家庭の平均的な子供が、ひょんなことから「彼等」と出遭い、そして絶対に大事には至らない珍騒動がいくつも繰り返された後で、やがて別れの時がやって来る、という物語のパターンがある。
すぐに頭に浮かぶのは、「ドラえもん」や「オバケのQ太郎」といった藤子不二雄作品であるが、「快獣ブースカ」なども同じパターンだし、他にもバリエーションを変えながら実にたくさんの子供向け作品が(ジャンルを問わず)存在する。
「彼等」の住む世界とは、オバケや快獣やロボットが側にいても誰も大騒ぎしない世界であり、毎日遊んでいられる世界であり、毎食20杯のご飯やラーメンを食べても誰も困らない世界である。
つまり、子供のユートピアだ。
では、ユートピアの中に存在する「彼等」とはいったい何者なのだろう。

藤子・F・不二雄(発表当時は藤子不二雄)に、「劇画・オバQ」という作品がある。最初ビッグコミックに掲載されたと記憶しているが、定かではない。
子供時代に別れて以来、実に久し振りに、今ではもうサラリーマンとなり結婚もしている正ちゃん(大原正太)と再会したQちゃん(オバケのQ太郎)が、結局自分の居場所を見つけられず、数日後にひっそりと寂しくオバケの国に帰っていく、という切ない切ない物語である。

Qちゃんは昔のままである。しかし、正ちゃんは(会社勤めに疲れていて、脱サラしようかどうか悩んでいる、というさえない状況ではあるものの)もう大人になっているから、Qちゃんをかつてのようには受け入れてやることが出来ない。そこが切ない。
例えば、Qちゃんは毎日正ちゃんと遊ぼうと大はしゃぎだ。しかし(当然ながら)正ちゃんは会社に行かなくてはならない。Qちゃんは昔のようにご飯を毎食20杯以上食べるのだが、正ちゃんの妻にしてみればこれは迷惑以外の何物でもない。
「招かれざる客」であるQちゃんは、だから自分との約束を忘れて、妻の妊娠に大喜びする正ちゃんには別れも告げずに(告げることも出来ずに)大原家を後にする。

しかし、この物語は、こう読み替えることもまた可能である。
正ちゃんは「大人」として暮らすのに疲れ、甘えたくて甘えたくてしょうがない精神状態に陥っている。思い出すのは、何不自由なく暮らし、遊んでさえいればよかった子供の頃のことばかりである。彼はもう少しで、前向きに人生を生きて行くのを止めてしまうところだった。しかし、そんな時、彼は妻の妊娠を知る。自分は父親になるのだ、という想いが彼を救い、彼はまた大人として生きて行こうと決意する。
ここにはマイナスのイメージが入り込む余地はない。
むしろ、正ちゃんが大人であることを妨げようとするQちゃんの存在こそがマイナスなのだ。
発表当時、この作品には、夢が壊れた、Qちゃんが可哀想、という意見・感想が多く寄せられた。しかし、これはそんな感傷を、乗り越えて行かなくてはならない「過去」としてとらえた成長の物語である。

この作品によって、僕は「彼等(Qちゃんやドラえもん)」とはいったい何者か、という問いに対する答を見つける。
「彼等」とは、つまり主人公(正ちゃんやのび太)自身、特にまだ自立していない子供時代の彼等自身なのである。
だとすれば、このパターンの物語が全て「別れ」で終わらなければならないことの必然性も理解出来る。
彼等は彼等の子供時代に別れを告げなければならない。
これは一種の「儀式」なのだ。

僕は、最近の漫画はいたずらに長過ぎると思っている。
シリアスなストーリー漫画でもないのに、平気で単行本20巻にも30巻にもなる。
それは、読者である子供達から、「通過儀礼」を体験する貴重なチャンスを奪う「罪なこと」だと思うのだがどうだろうか。

「劇画・オバQ」は下記短編集で読めるそうです。
4091762018藤子・F・不二雄SF短編PERFECT版 (1)
藤子・F・不二雄

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posted by og5 at 09:47| 秋田 ☁| Comment(2) | TrackBack(0) | 本・雑誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年07月13日

ひかる家

小学校の国語の教科書に「ひかる家」という話が載っていた。
詳しい内容は忘れてしまったが、大好きだったというその記憶だけは残っている。

確か、男の子がお祖父さんと二人きりで暮らしているのだった。
彼等の暮らしはひどく貧しくて、そのせいか、彼はいつも夕方になると遥か遠くの山並みの連なる辺りに見える「ひかる家」に憧れ、いつか自分もあんなきれいな家に住んでみたいものだ、と思っている。
ある日、彼はとうとう「ひかる家」を探しに家を出る。
パンとチーズだけを持って一人で遠い道を行く彼は、途中で同じ年くらいの女の子と知り合う。
彼等は友達になり、そして一緒に「ひかる家」を探して歩き続ける。
結局最後に「ひかる家」が見つかったのか見つからなかったのかは、忘れてしまった。
もしかしたら、「ひかる家」は女の子の家だったかも知れない。
しかし、彼女の家もまた貧しい、小屋のような家だったような気がする。
僕が憶えているのは、こんなシーンである。
二人は、最後に、遠く自分達の歩いて来た方角を見やる。
その方向には少年の家があるはずだった。
しかし、彼等が見たものは、夕日にキラキラと光るもう一つの「ひかる家」だった。

僕は小学三年生の頃まで、今暮らしている家のすぐそばに住んでいた。
今暮らしている家というのは妻の実家で、だから僕は時々、二人は子供の頃遇っていたかも知れないね、などと彼女に話す。
もう十数年前になるだろうか、僕はかつて自分が住んでいた家に行ってみたことがある。
悪いことをしているわけでもないのにちょっとドキドキしながら、何故か人目をはばかるように道の端っこを歩き、僕はやがて「僕の家」を見つけた。
大きかった石の門は自分の背丈ほどもなかった。
犬と遊んだはずの中庭は猫の額と形容するにふさわしい狭い隙間だった。
捕まえてきた小魚をタイル張りの四角い貯水槽に放すために駆け抜けた、裏の勝手口に通じる隣家との境界線の垣根の脇道は、今の自分にはすり抜けることさえ不可能に思えた。
僕はちょっと後悔し、そして「僕の家」を後にした。

「ひかる家」と「僕の家」には何の関連もないはずだが、ふと頭の中で結びついてしまったのである。
posted by og5 at 23:58| 秋田 ☁| Comment(2) | TrackBack(0) | 記憶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年07月05日

「コーラス」〜”譜面台”で破綻するえせヒューマニズム

「コーラス」を観ている時の落ち着かない妙な気分は、前にも何処かで経験したことのあるものだった。いったい何だったかと考えていたら、ふと思い出した。
ロアルド・ダールだ。

ロアルド・ダールは英国の作家で、短編集「あなたに似た人」が有名だが、子供向けの本も多数書いていて評価も高い。「チョコレート工場の秘密」、「おばけ桃の冒険」、「オヤサシ巨人BFG」、「マチルダ」等々。
僕は彼の子供向け文学を悪く言う人を知らないが、自分ではいいと思ったことがない。読む度に腹が立つ。一見ユーモラスだが、ひどく残酷で誰も愛していない・・・。
「コーラス」は、あの感じにとてもよく似ている。

何しろ劇場で一回観ただけなので記憶違いや勘違いがあるかも知れないが、恵まれない子供達の施設「池の底」に舎監として赴任して来た挫折した音楽家であり元教師であるマチューが、ちっとも言うことを聞こうとしない子供達に音楽を教えようと思い立つのは、ハーモニカを吹きながら彼のはげ頭をはやし立てる歌を歌っていた音痴の少年がきっかけだったはずである。
そして、その少年は、一人一人の声質によって合唱のパートをソプラノ、アルト、バリトンと振り分けられる際、音痴だという理由でマチューに”譜面台”をやるように告げられる。

だが、自らハーモニカを持ち、歌を作り、この映画の主題である合唱団結成のきっかけにもなった彼に、最後まで歌うことが許されないのは何故だろう。”譜面台”の彼は、歌いたい衝動に駆られ、ほんの数小節コーラスに参加しようとしただけで、優しいマチュー先生にたしなめられ、そして黙らせられる。

そうだ、僕はこのことにずっと引っかかっているのである。

マチューは何のために合唱団を作ったのか。子供達のためではないだろう。「池の底」は音楽学校ではないのだから、上手下手など本来の主眼ではないはずだ。それなのに彼が「質」を求めているのは、彼が自分のために合唱団を作ったことの証明であろう。向上のための努力は必要だとか、そういうレベルの話でもない。彼はあの少年をスポイルしている。また、あの少年がそれほど傷ついているようには見えないということも何の救いにもならない。あのシチュエーションを、ユーモラスなシーンででもあるかのように描いて平気な作り手の感性が堪らないのである(二十万フランが出て来た時、何か展開があるのかと期待したが全く何も起こらなかった)。

「コーラス」には、明らかに深い人間描写が欠けている。教師も生徒も紋切り型で、しかもそうでありながら、彼等の人格は都合によりフラフラし、一貫性がない。
この映画を作った人達は、人間の本質に迫ることを捨てて、一体何を表そうとしたのだろうか。僕はそれは多分「ヒューマニズム」ではないかと思っている。

僕は、人間を深く描くことが、常に求められる一番重要なことだなどとは思っていない。
例えば、ある種のコメディやミステリーでは、登場人物がステレオタイプの記号となることによって観客との間に約束事を成立させ、そして主目的であるギャグや謎解きが効果的に展開されることを可能にする。完璧に排除されるのは、このとき人間描写ではなく、実は通俗性だったりする。
だが、人間描写のない(あるいは人間に対する愛情の浅い)ヒューマニズムは、結局「えせヒューマニズム」にしかなり得ないのである。

もっとも、傷つき易い教え子の母親に平気で色目を遣うことも含め、あれがフランスというものなのですよ、と言われたら、僕には返す言葉もない。
フランスの名誉のために、そうでないことを祈るばかりである。
posted by og5 at 23:12| 秋田 ☔| Comment(5) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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