2005年08月31日

神〜米式フロアポンプ

フロアポンプ.jpg前から困っていることがあったのだ。
それは妻の自転車に関することで、空気を入れなくてはならないとなるといつもイライラしていたのであった。
妻の自転車はアメリカ製である。知らなかったのだが、アメリカ製の自転車のタイヤにはアメリカ製のチューブが入っていてアメリカ製の空気入れでなくては空気を入れられないのであった。
購入した自転車屋で貰ったアダプタ(単なる金具)を妻は僕に手渡しながらこう言った。
「これがあれば大丈夫よね。いや、大丈夫なはずなんだけど・・・」
しかし、その金具は家にあるごく普通の空気入れにはちゃんと固定出来ず、僕は空気を入れる度に、金具を手で押さえ、一回ポンプを押すごとに外れる金具をまた空気入れの洗濯バサミみたいになっているポンプの口に装着し、また手で押さえ、二回目にポンプを押すとまた外れる金具を睨みつけ、てなことを繰り返さなければならなかったのである。

しかし、ついに買った。
アメリカ製自転車にも対応出来る優れもののフロアポンプだ(名前までカタカナだ)。
今回初めて知ったのだが、自転車の空気入れには、英式・仏式・米式の3種類あって、日本で一般的に普及しているのは英式なのだそうである。
自転車売る時にちゃんと説明して下さいよ。
それに、お金は払うから、ちゃんとそれ用の空気入れも紹介して下さいよ。
(僕が専用の空気入れが欲しいと言った時、その自転車屋は何故か話をごまかした)

いや、愚痴るのはもうよそう。
今はもうこの素敵な空気入れがあるのだから。
何しろ、英式・仏式・米式全てに対応可能な上圧力計までついているのだ。
嬉しい。
嬉しくてしょうがない。
とにかく空気が楽に入る。
全然疲れない。
あんまり空気を入れるのが楽しくて、毎日空気を抜いてまた最初から入れ直したいくらいである。

posted by og5 at 17:49| 秋田 ☁| Comment(0) | TrackBack(4) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「アクロイド殺しの真犯人」が導くクリスティの奥深さ

時々、アガサ・クリスティの推理小説が無性に読みたくなる。
元々推理小説は嫌いな方ではないが、同じ作家の同じ小説を何度も、しかも何冊も読み返すというのはアガサ・クリスティくらいである。
そして、不思議なことに読む度に印象が違う。読む度に新たな発見がある。しかも、それはトリックについてだけではなく、登場人物の魅力だったり、物語の進め方の上手さだったりと実に様々なのである。

「アクロイドを殺したのはだれか」という本を数年前に読んだ。
これは、アガサ・クリスティの「アクロイド殺害事件」を徹底的に分析し、そしてその結果「犯人は一般に信じられているAではなくB以外には考えられない」という結論を我々の目の前に突きつける、精神分析の専門家だというピエール・バイヤールによる大胆不敵な著作であった。
彼の分析の矛先は、作者であるアガサ・クリスティにではなく、むしろ犯人Aを追い詰めた名探偵ポワロに向けられている。つまり、物語には瑕疵はないが、探偵の推理に大きな問題がある、と彼は言っているのである。そして、同じ物語から自分が再推理をすれば、真犯人はB以外にはあり得ないと。

「アクロイドを殺したのはだれか」は、僕がアガサ・クリスティという作家の奥深さを改めて認識するきっかけになった。
「アクロイド殺害事件」は、その前代未聞のトリックにより、未だ賛否両論ある問題作で、かなりデフォルメして言えば、否定派は「Aが犯人だなどというのは、推理小説のテクニックとしてルール違反ではないか」と口を尖らせ、肯定派(というか信奉者)は「こんな推理小説は今までなかった。これは天才にしか出来ない仕事だ」と褒め称える、という感じか。
そして、この両者の間に何の矛盾もなく「アクロイド殺害事件」を存在せしめるのが、ピエール・バイヤールの「B真犯人説」ではないか、と僕は思うのである。

「アクロイド殺害事件」というのは、当初から(意識的に)真犯人に言及せず物語を閉じるように作られた、アガサ・クリスティの(未だ発し続けられる)読者への挑戦状なのではないか・・・、つまり「アクロイドを殺したのはだれか」で語られる真犯人Bは、アガサ・クリスティ本人の中でもやはり真犯人として最初から設定されていたが、彼女は物語の中でそれを明らかにすることをあえてせず、Aが犯人であるという仮の結論を出すことで物語を「完」とし、カーテンの向こう側で例のポートレイトのあの表情をしてこちらを向いて微笑んでいるのではないか、というのが僕の「推理」である。

もしそうであるならば、否定派のいう「ルール違反」という批判はもはや成立しなくなるだろう。何故なら、この仮説に立てば、あのトリック自体がトリックであり、その目的は犯人Aの悲痛な選択に到る悩み深き心のドキュメンタリーを描き切るための手段であったということになり、そういう意味でこの作品はもはや単純な推理小説とは呼べず、(否定派の言うところのいわゆる)ルールの範疇外にあると思わざるを得ないからである。
そして同時に、肯定派の意見もまた的外れとなるであろう。しかし、こちらの方は、言葉の表現としてはそのままで何の違和感もないのであるが。

実は、同じようなトリックを用いた小説が本作に先駆けていくつか存在したらしい。しかし、現在に到るまで人々に読まれ、かつ語られ続けているのは「アクロイド殺害事件」だけであろう。
それは、何十年経っても諸説が(僕の勝手な想像を含めて)、一人で歩き出す広がりを持ち続けられる物語を彼女が書いたのだということの何よりの証明だと僕は思う。
アガサ・クリスティは、やはりちょっと格が違うのである。

これは絶対本編を読んだ後で。
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posted by og5 at 17:05| 秋田 ☁| Comment(0) | TrackBack(1) | 本・雑誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月29日

寿司はごちそう

寿司はごちそうである。
子供の頃、家で寿司を食べるなどということは滅多になかった。
お盆、そして大晦日。
一般的ではないかも知れないが、これが我が家の「寿司を食べる日」であった。

寿司は楽しい。
だって、ご飯の上に刺身がちょこんと乗っかっているのである。
そしてそれにワサビと醤油をつけて、手づかみで食べるのである。
こんな楽しいことが他にあるだろうか。

僕には、美味しい寿司もまずい寿司もなかった。
寿司でありさえすれば、それでよかった。
だって、寿司はごちそうだったから。
寿司は楽しいものだったから。

寿司はごちそうである。
就職して自分のお金で食費をまかなうようになってからも、それは変わらなかった。
小僧寿しの寿司も、僕にはごちそうだった。
自分が注文した寿司が、店の奥でちょっと化粧の濃いおばさん達の手によって型にはめられポコポコと作られている間に、ショーケースに並べられている「あじさい」だの「こすもす」だのというセットの中身を見比べているのも、僕の楽しみの一つだった。

スーパーマーケットの寿司も僕にはごちそうだった。
ちょっとひからびたマグロやタコが、自転車のかごの中ではずんで、家に帰るまでに全部バラバラになってしまうのも、それはそれでまた楽しかった。
480円の寿司には480円の、680円の寿司には680円の、楽しさがあった。
寿司は寿司で、寿司であるというだけで、もう僕には特別なものだった。

だが、こんな僕にも唯一つだけ嫌いな寿司がある。
それは回転寿司である。
僕は今まで、たった二回しか回転寿司屋に行ったことがない。
しかし、それで充分であった。
僕は打ちひしがれて店を出た。
僕の寿司はこんな寿司じゃない。
そう思ったのだ。
あれはブロイラーだ。
僕達は生まれてから死ぬまで鶏舎の中でただ与えられた餌を食べるだけの鶏で、だから回転寿司屋は僕達に餌を投げつけるのだ。
餌だ、餌だ。

寿司はごちそうである。
餌なんかでは決してない。
そうだ、今度の土曜日にはぐるまんの寿司を食べよう。
実は僕は、あの袋に入った「ガリ」も大好きなのだ。







posted by og5 at 23:19| 秋田 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月28日

「ランド・オブ・ザ・デッド」〜これは最高だ!

※ジョージ・A・ロメロの映画は、何が起こるかをあらかじめ知っていても何ら影響を受けることなどないと僕は思っている。そして、僕が書いているのはほんのさわりだけであり、またほとんどは僕個人の思い込みでもあるかも知れない。だが、しかしそれでもやはり変な先入観を持つのはいやだし、映画はまっさらな気分で観たいという方は、以下の駄文を読まないようにお願いする。
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凄い。
どうしよう。
これは傑作だ!

今日、ジョージ・A・ロメロの新作「ランド・オブ・ザ・デッド」を観て来た。
昨日「妖怪大戦争」を観て、今日妻と一緒に「さよならさよならハリウッド」を観た後で、僕は一人イオン東宝シネタウンへと向かったわけである(だって、次の週末までやってるかどうか不安だったから)。
一番いい映画は何かと問われればまた別である。しかし、一番好きな映画は何かと問われれば、迷うことなく僕は「ゾンビ」と応える(あのショッピングセンターのやつ)。
僕にとって、ジョージ・A・ロメロのリビングデッドものは「別格」なのである。

映画が始まる前、まず僕の頭の中にあったのは、去年観た「ゾンビ」のリメーク版「ドーン・オブ・ザ・デッド」であった(元々原題はそうなのだが、ここでは本家をあえて「ゾンビ」と呼ぶ)。
これも面白かったが、僕には「ああ、ゾンビが速く走れるようになってる!」というのが全ての映画であった。
だって、それまでのゾンビは(集団暴行モノのようなインディーズ系ゾンビを除けば)ヨタヨタ歩くもので、怖いけど差し迫って追い詰められるものではなく、そこがまた逆におぞましい怖さの元でもあったのである。
なんと言えばいいのだろう、「怖い」というよりも「やっかい」がより強い感覚、と言えばいくらかは雰囲気が伝わるのだろうか(だからこそ僕の中では、ゾンビはゾンビになってからも生前まだ人間だった頃の習慣のままの行動を取るという設定が、現代社会のいわゆる「ボケ老人」等の問題と重なって実にリアルに迫って来るのである)。
だが、やはり本家ジョージ・A・ロメロはスピードによる恐怖などには走らなかった。
見事に、そんなチープな手段に走ることを拒否してくれた。
では、彼はいったい何に新機軸を求めたか。
それは、「知性」であった。
この新作では、ガソリンスタンドで働いていた黒人の大男ゾンビが、キューブリックの「2001年・宇宙の旅」の猿人のように、我々観客には見えないモノリスによって「怒り」や「恐れ」を感じるようになり、そしてついには道具を使うことさえも会得するのである。
もはや彼等は生ける屍ではない。
新たな人類である。
そして、彼等の「知性」の萌芽は、彼等の新たな悲劇の始まり(現代人と同じになってしまうという悲劇の始まり)を強く示唆するのである(河を渡るシーンなど聖書ものを観ているような錯覚にさえ陥った)。

そして、これはとにかくアイディアに溢れた映画である。
特に好きだったのは、背後にゾンビが迫っているのを感じ振り返ると首のないゾンビが立っているという場面。
言うまでもなく、ゾンビが怖いのは、噛まれると自分もゾンビになってしまうという点であるが、首のないゾンビには噛まれる心配がないわけであるから、つまり怖くなどないということになるわけである(見た目の怖さを除く)。
当然、振り返った男も観ている我々も少しホッとするわけだが、実はこのゾンビは首がもげかけていて、薄皮一枚で首が背中にぶら下がっているのである。そして、次の瞬間、ジャックナイフのように首が男の腕を噛む。
それから、ジョージ・A・ロメロのゾンビには、必ず忘れがたいリビングデッドが登場するのも素敵だ。
「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド」の人肉を食らうデブ親父や二作目の剃髪のモンクもいい味を出していたが、今回の僕のお気に入りは、頬が破けて歯茎の見えるゼッケン9の赤い女と、最初楽団ゾンビの一人としてタンバリンを持っていて、やがてそれを人間を襲う武器に持ち替えるMr.タンバリンマンである。
また、デニス・ホッパー演ずるカウフマンが君臨する上流階級オンリーのタワービルに最後にゾンビの群れがなだれ込む時、そこに設置されている作り物の小鳥が作り物の小枝にとまってさえずっているガラス張りのディスプレイに、一人の年老いた女ゾンビが顔を近づけるシーンがあって、フォーカスが老女から作り物の小鳥にスッと移る演出がある。
周りでは要するに殺戮が繰り広げられているわけであるが、ああいう繊細なショットに僕は詩情を感じてうっとりとするのである。

ジョージ・A・ロメロ自身がもうゾンビになってしまっているのだ、と僕は思う。
だが、この映画監督はすごくかっちりとした演出をするしスタイリッシュでもある。
こんな人は滅多にいない。
こんなにジョージ・A・ロメロが好きな僕も、いつかどこかで彼に噛まれてしまったのかもしれないが、その頃の記憶はもうない。
だが、生前彼の映画を大好きだったので、ゾンビになってからも僕は彼の映画を観るために映画館へヨタヨタと足を運ぶわけである。
もちろん、それでいいのだ。

とにかく、これは傑作である。
変な話、僕はこれを観て、明日から生きていく勇気が湧いて来た。
posted by og5 at 23:47| 秋田 ☁| Comment(4) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

そして、秋は静かに染み込む

イベント「ひねもす」がきっかけとなって、二十年近く前かなり夢中になってやっていた「土いじり」を週一回くらいのペースでまたやるようになってからもう一ヵ月ほど経つ。
「土いじり」といっても畑を耕しているのではない。そうではなくて、いわゆる「陶芸」である。しかし、自分のやっているのが「陶芸」だというのはちょっと気恥ずかしく、あんな中途半端な湯呑みだか茶碗だか判らないような物を作っているのが、何だか土に申し訳ないようなそんな気もするのである。

さて、昨日その「土いじり」の帰り道、道路の左右に広がる田圃の上を、無数のトンボ(多分アキアカネ)が飛んでいるのを見た。
トンボは道路にも飛び出して来て、車にぶつかりそうになりながらもスイと上に逃げ、また反対側の青々とした稲の海へと帰って行く。
思い返してみると、今年今までトンボを見たという記憶がない。オニヤンマやギンヤンマはもちろん、シオカラトンボやムギワラトンボも見なかった。いや、今年だけではなく、ここ十何年もの間、僕はアキアカネ以外のトンボを一切見ていないのではないだろうか。

先週の日曜日、僕達(妻と義母と僕)は、居間に面した中庭でサンマやカルビを焼いて、蚊に刺されながらワインを飲んでいた。夕方から雨の予報が出ていたが、それはどうやら外れてくれたらしく、日の暮れる時もまだ雨の降り出す気配はなかった。
妻が家の中で空いた皿を洗っている間、僕は義母とバーベキューコンロを挟んで座っていた。居間でかかっていたCDの音楽がいつの間にか終わり、中庭は静寂に包まれた。だが、それが本当の静寂ではないことに僕はすぐに気づく。
セミが鳴いていた。アブラゼミの合唱の合間をぬって、ヒグラシが独特な合いの手を入れる。ここのところずっと、朝から晩まであまりにも聞かされ続けた音だったので、最初それを認識出来なかったのである。
ああ、夏だな、と僕は思った。
それから、どれくらいそこに座っていただろうか。あたりは、もうすっかり暗くなっていた。僕は確かにセミの声を聞いていた。しかし、次の瞬間、まるで指揮者がタクトを振って合図でもしたかのようにセミの声のシャワーが忽然と消えて、そして、その一瞬の後、今度はキリギリスやコオロギ、その他名前を知らない秋の虫達が一斉に第二楽章を奏で始めたのだ。
それは、見事な、いわば暗黙の了解であり、夏と秋との完全な棲み分けであった。

その夜半、天気予報を少し後から追いかけるような強い雨が降って、秋田はまた少し秋に近づいた。
もうすぐ窯入れである。
posted by og5 at 15:53| 秋田 ☁| Comment(2) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月23日

今そこにある逆境

少し前(数時間前)に駒大苫小牧高校の暴力事件について書いたけれど、不屈闘志だったらこの状況に対していったいどう行動しただろうか。

これは逆境である。
まぎれもない逆境である。
なにしろ本大会は既に終了してしまっているのである(しかも優勝してるし)。
つまり、彼等に出来ることはもはや何もない状況なのだ。
これほどの逆境があるだろうか。
だが、不屈闘志なら、彼ならどうにかして、この最低最悪の逆境を乗り切るはずである。

そうだ!
頑張れ、不屈闘志!
頑張れ、駒大苫小牧高校ナイン!
(マネージャーも)

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posted by og5 at 23:23| 秋田 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

美しき高校野球の広い守備範囲

夏の甲子園大会で、2連覇した高校の野球部部長が部員に暴力を振るっていたのに高野連に報告していなかった、ということが問題になっているらしい。
「暴力は許されない」とかいろんな立場のいろんな人が言っているけれど、これ殴ったのは生徒じゃないんでしょ?
だったら、こんな暴力的な部長の下にいながら頑張って優勝した、ってことで更に褒めてあげるべきなんじゃない?

こんなことやってたら、その内部員の一人の親が実はヤクザで予選期間中に弟分を殴ったから出場辞退とか、そんなことまで連帯責任を取らなければならなくなってしまうのではないだろうか。
そうなれば、結局ヤクザの子供は高校野球大会には絶対出られないのであり、ある意味彼等には人権がないのである。
posted by og5 at 19:53| 秋田 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

エビのシッポ

今、「伊東家の食卓」で、「エビフライのシッポの中身(の身)まで美味しく食べられる裏ワザ」というのをやっていた。
エビのシッポの固い三角の部分を事前に取り去ると、身とシッポを両方向に引っ張った時、シッポの根元の殻の中に入っている身も簡単に本体側にくっついて抜けて来る、ということらしい。
でも、僕の場合、エビフライだろうがエビの天麩羅だろうが、いつだって全部そのまま殻ごと食べてしまうからこの裏ワザは全く必要ないのだ。
シッポの殻を食べずに残すなんて、エビに対して失礼だと思う。

バリバリ。

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posted by og5 at 19:24| 秋田 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

電信柱のある風景

欧米先進諸国の主要都市には、あまり電信柱というものがないらしい。
こんなにあちこち電柱が立っているのは日本ぐらいで、恥ずかしいから地下に埋めて見えなくしてしまおう、という計画があって、実際にもうかなり実行に移されている。
僕などは、電信柱のあるちょっとしみったれた日本の風景がとても好きなので、別に何でもかんでも欧米先進諸国に合わせなくったっていいじゃないか、と思ってしまう。
第一、糞をする場所がなくなってカラスが困るじゃないか。

電信柱の根元の地面にはよくカラスの糞が集中して落ちている。
それほど集中的ではなくても、不思議なもので、カラスの糞は何故か人間が歩くラインに沿って白く汚れを付けていることが多いのであるが、考えてみればこれは不思議でもなんでもなくて、電線が電信柱と電信柱の間に張ってあって、カラスはただその上にとまって糞をしているだけで、人間の方が勝手にそういうルートを選んで歩いてしまっているだけの話なのである。
まあ、カラスは落ちているコインを使い自動販売機で缶コーヒーを買うくらい頭がいいらしいので、厭な奴を見つけてわざとそいつ目がけて爆弾を落としているのかも知れないが。

カラスは頭もいいし人にもなつく。
小学校高学年の頃、家の近所の神社の境内で怪我をしたカラスを見つけ、数日間同じ境内の大木の根元の穴にかくまっていたことがある。
実際そのカラスは、怪我をしている足に薬(オロナイン軟膏)をつけて絆創膏を巻く間も大人しかったし、残飯を持って行って呼びかけるとちゃんと穴からぴょこぴょこと跳ねて出て来たものだった。
数日したら勝手にいなくなってしまっていたので、もしかしたら利用されただけかも知れないが、確かにあのカラスは僕を認識していた。

それに引きかえ、スズメは人に慣れない。
僕の実家の居間は、親戚のかなり広い畑に面しており、その先はちょっとした森になっている。居間の窓が大きな透明ガラスなので、スズメやウグイスが先に何もないと勘違いして飛んで来てガラスにぶつかりそのまま失神してしまうことがよくあるのだが、ある時小学生の僕は、失神したスズメを鳥かごに入れて飼ってみようとした。
しかし、結局スズメは僕の手からは決して餌を食べようとしなかった。
飼い方自体が間違っていたのかも知れないが、スズメは間違いなく僕を拒絶していた。
あんなに小さな身体で見た目から受ける印象も可愛いのに、スズメは実は野生のものなのである。

そういえば、スズメも随分電線にとまっている。
もし電信柱とともに電線が地下に埋め込まれて全て地上から消えてしまったら、あのカラスやスズメはどこで羽を休めるのだろう。
僕はやっぱり、街中に電柱と電線があり、そこにカラスだのスズメだのがとまって人に糞を落としているあの何処か垢抜けない日本の風景が大好きである。
posted by og5 at 18:07| 秋田 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月22日

「姑獲鳥の夏」〜実相寺様、不思議な方ですわ。

僕は、それほど熱心な京極夏彦ファンではない。
京極堂シリーズは「陰摩羅鬼の瑕」を除いて既読だし、「嗤う伊右衛門」なども大好きな作品なのだが、「どすこい(仮)」以降は読もうとするのさえやめてしまった(実は「どすこい(仮)」も買って途中まで読んだのだが、結局読了することは出来なかった)。

更に、僕はこれまで実相寺昭雄の作品をきちんと意識して観たことがない。
かなり熱烈なファンを持ち、研究本が何冊も出ているらしいことも知ってはいる。しかし、「ウルトラQ」や「ウルトラセブン」のどのエピソードが彼の手になるもので、それがどうだったかなどということは、今までまるで興味の対象外であった。

さて、そして「姑獲鳥の夏」である。
これは、意外と言ってはなんだが、すこぶるよく出来た映画であった。何よりも感心したのは、物語の筋がちゃんと判ったという点である。

ミステリ、というか、物語がある謎をはらんでいる原作を映画化した場合、そしてそれが地方の旧家だの名門の家系だのと絡んだりしていると特に、話がややこしくなって観ている者は途中でわけが判らなくなってしまいがちなものである。
過去、例えば市川崑の横溝正史(金田一耕助)シリーズのようなヒット作品もあったけれども、あの日本映画史上に輝く名監督の作品であってさえ、僕には話の筋、ミステリの部分はかなり判りづらく、途中でどうでもよくなってしまったというのが本音である。
だからあれらの作品は僕にとってはいわゆるミステリではなくて、モダンな映像と日本的なある種の耽美を楽しむため(だけ)のものであったのだ。

結局何を言いたいのかというと、要するに、小説は読み返せるが映画は(少なくとも映画館では)巻き戻して話の筋を確認することは出来ない、ということなのだ。そして、それなのに実相寺昭雄の「姑獲鳥の夏」は、とてもよく判るように作られていたのである。
もちろん、映画は筋が判ればいいというものではない。あえて言ってしまえば、判らなくても一向に構わないのだ。しかし、「姑獲鳥の夏」は、よく判る上に恐らくとてもマニアックな映画でもあった。

突然、時計回りに、またその逆にグルグルと回転するカメラ。夢あるいは白昼夢を表現するためか、いきなり挿入されるチープな映像コラージュ。まだ昼間で天気だって悪くないはずなのに、唐突にバリバリと轟く雷鳴と稲妻。夜なのか昼なのかすら判然とせず、思いつくままただこうしたいという監督の趣味があっただけとしか思えない神経に触る光の点滅。温室の原田知世が映し出されると、脈略もなく(たぶん天国の方から)流れて来る池辺晋一郎による弦楽器の時代錯誤な旋律。提灯を持って歩く永瀬正敏を、思いついたように追いかける(ムードのかけらもない)スポットライト等々。
まさに、突然、いきなり、唐突に、脈略もなく、思いついたように、のオンパレードである。

しかし、これら顰蹙もののアクの強すぎる仕掛けの数々は、思いのほか変な統一感を持って観る者に(少なくとも僕には)迫って来る。
そして、その「統一感」とは「昭和」だ、と僕は思う。
これはどこかで観たことがあるはずだ、と考えていたらすぐに思い出した。
昔観た(確か)「土曜ワイド劇場」で、明智小五郎役の天地茂が忍び込んだ秘密クラブのステージ。そこで繰り広げられている怪しげなショーの雰囲気、あの照明の感じそのものなのだ。それから、武智鉄二の「白日夢」で愛染恭子が変な歌を歌うシーンなどにも近いだろうか(「白日夢」は全然面白くなかったが、あのシーンだけはシュール過ぎてわけが判らず心を離れない)。

いい。これは、僕の中ではかなりいい。

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posted by og5 at 16:33| 秋田 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月20日

MUSIC INDIVIDUAL MEDLEY その1〜ぱぱぼっくすのとりこ

今一番頻繁に聴くCDは、ぱぱぼっくすの「ぱぱぼっくす」と「花降る午後」である。そしてその中の何曲かは、ふと気づくと知らず知らず勝手に頭の中で繰り返し口ずさまれているくらい、僕の中に深く深く浸透してしまっている。

彼等の存在を知るきっかけとなったのは、「ソー・ファー・ソングス」というオムニバスで、これは友人のK君から借りた。同じK君から以前借りた渚にての「夢のサウンズ」を夫婦してすっかり気に入ってしまったのを彼が覚えていて、渚にての「あなたを捨てる」も収録されているこのCDをわざわざ持って来てくれたのだったと思う。

ぱぱぼっくすは強烈である。
まず、何といってもボーカルの澤田智子の歌が強烈である。
誤解を恐れず判り易く言うと、戸川純が中島みゆきみたいに歌っているという感じだろうか。いや、それでは本当に誤解されてしまいそうだ。澤田智子の歌声は戸川純のように何かの目的のために再構築されたものではないし、また中島みゆきのように大仰でもない。しかし、彼女の声は、確かに戸川純のように聴く者を不安にさせると同時にその分独特で微妙なバランスで安心させてくれるし、中島みゆきのように大胆で実は図太いのである。
僕は、言葉の発音にも音程にも癖の強い訛りの入った(案外、カントリーを歌うカーリー・サイモンのような雰囲気さえかもし出している)彼女の歌声が大好きだ。

そして、その歌詞。
例えば、「ゆううつ」の「僕にとっての優しさが君にはそうじゃないのかな。」であるとか、「春眠」の「もう眠ってしまうよ。あなたは、おそすぎるよ。」であるとか、「いつか」の「あのネ、本当の事を言うと、明日が とても こわいの」などという言葉は、いったいどこから出て来たのだろうか。
普通の言葉である。驚くほど普通の言葉である。だが、これをこのように歌詞としてポンと書いてしまえる人などそうはいないと思う。しかも、彼等の歌詞は美しい縦書きで、例に引いた言葉にも見られるように、句読点の使い方やセンテンスの切り方が独特である。「!」が優しい言葉の後ろに突然現れたりするので(本当に)びっくりする。
「花降る午後」についてはクレジットを見つけられないので想像するしかないが、ほとんどの歌詞は澤田智子が書いている(はずである)。この言葉のセンスもまた、彼女の強烈な才能の一つなのだと思う。

「ぱぱぼっくす」の頃のメンバーは、澤田智子(ボーカル、ギター)、玉井晶子(ドラムス、ボーカル)、樽谷敏(ギター、ボーカル)の三人であったが、「花降る午後」では玉井が脱けて澤田・樽谷の二人組になっているようだ。
彼等の曲は、スローからミディアムくらいの速さの曲がほとんどで、とにかくゆったりとしていて揺るぎがない。上手いか下手かといえばたぶん上手くはない。しかし、これほどシンプルで力強い演奏が出来るなら、小ざかしいテクニックやギミックなど全く必要ないと僕は思う(「雲の行方は?」などまるでヴェルヴェット・アンダーグラウンドである)。
「花降る午後」を最初聴いた時、前作よりもかなり明るく軽い感じがしたが、聴けば聴くほど味わいが深くなる。

そして、切なくなる。


以前「MUSIC BATON」というのがあったが、ここは袋小路で誰にもBATONを渡すことが出来なかった。そこで、それならいっそ、と思いつき「MUSIC INDIVIDUAL MEDLEY(音楽個人メドレー」)を勝手に始めることにした。
今回はその第一回である。


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posted by og5 at 14:38| 秋田 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月15日

肉獣

やっとお盆休みである。
本当は13日の土曜日から普通の週休に続けて15、16と四連休になるはずだったのだが、14日上司から突然仕事の呼び出しをくらってしまったのだ。
だから13日は普通の土曜日。昨日は仕事で、今日からやっと盆休みだ。

昨日の課長の電話のせいで、今日もなんだか落ち着かずそわそわしている。
暑さと湿気の中、いつ呼び出し音が鳴るかいつ呼び出し音が鳴るかと不安な状態なので、頭に浮かぶのも下らないことばかりだ。
でもまあ、一応書いておきます。
「厭な漢字の書き間違い」

その瞬間、僕の口の中いっぱいに肉獣が溢れ出した。

なんかイヤでしょ?

あまり関係ないけど。
   ↓
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posted by og5 at 16:31| 秋田 ☁| Comment(3) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月13日

霊能者 お盆休みが 稼ぎ時

お盆である。
そして、テレビではまるで約束事のように「霊」だの「呪い」だの「怨念」だのといって、頼まれてもいないのにそういうスポットを探し出して来ては「最強の霊能者」を派遣して、放って置いて欲しい幽霊達を、まるで穴から狸でも炙り出すかのようにわざわざ刺激しては大騒ぎしている。

そもそも僕は、「わたしは霊感が強い」とか「あの人は霊感が強くて」とか言っているのを聞くと、もうそれだけでその人とはまともな話などできないなと思ってしまう性質である。
理由はただ一つ。
ゲゲゲの鬼太郎は、自分で「僕は霊感が強い」などとは決して言わないからだ。
それどころか鬼太郎は、人から感謝されたりほめられたりすると、逆に照れて赤くなったりするのが関の山で、間違っても謝礼など受け取ったりはしない(いつでも金儲けを考えるのは、人と妖怪の「HALF BLOOD」で、それがコンプレックスでもあるねずみ男の方である)。
いったいいつから人はこんなにも「霊能者」好きになってしまったのだろうか。
死んだ人の無念や恨みなど、普通の想像力があれば判るはずではないか。

NHKの「生活笑百科」にゲスト回答者で出演した際、故・岡本太郎は、自殺者が出たマンションをそのことに触れず賃貸した大家を訴えられるかどうかという相談にこう答えたものだ。
「昔から人間はあらゆる場所で死んでいる。人間が死んでいない場所などこの世にはない。どこで誰が死んだかなどということにこだわるのは馬鹿馬鹿しいことだ!」(大意)

拍手。

僕は、「霊感」のことをなんだかんだとファッションのように言ったりする人というのは、本当は相手に対して何か別のことを言いたくて(あるいは判ってもらいたくて)、そのために「霊感」を利用しているだけなのだろう、と理解している。

腹が立ったので、これから仏壇に行って般若心経を唱えてくる。
posted by og5 at 20:37| 秋田 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月10日

カニ採り

十三歳の夏、真夜中に部屋を脱け出してカニ採りに行った。
自転車に乗って、友達と友達の兄貴と三人で、汗をかきながら静かな町を海へと急いだ。
直径50センチあまりの針金で出来た仕掛けに、赤い布切れやイカの足、魚の頭をくくりつけて、浜田浜の暗い海に(出来るだけ遠く)投げた。
ロープを手繰ると、波の間から仕掛けがズルズルと、何か生き物が這って来るかのように光りながら近づいて来て、その中でコブシ大のカニが泡を吹きながら悲しそうに蠢いていた。
生まれて初めてのカニ採りは、とても楽しかった。

2〜3時間して、僕達はその浜辺から引き上げた。
少し明るくなり始めた町を家へと向かう僕の自転車のかごの中では、5匹のカニがガサガサと音を立てていた。ハンドルにぶら下げたパナソニックの球形ラジオからは深夜放送が流れていて、岸部シローが、「♪右のポケットにゃ夢がつまってる〜♪」と「ポケナン・ポケタン・ポケット」を歌っていた。
僕は、そっと、部屋の窓から外より暗い家の中に忍び込んだ。

翌日、母にカニを見せた。
母は、「これは凄い」と驚き、一応鍋で煮てはくれたものの、何だか気持ちが悪いと言って結局は全部捨ててしまった。

これは別に悲しい思い出というわけではなく、どちらかといえば楽しい思い出だが、それ以来、カニ採りには行ったことがない。
posted by og5 at 23:30| 秋田 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 記憶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

今も心に残る「回文」

昔「ビックリハウス」という雑誌があった。
この雑誌は、読者の投稿が誌面のかなりの部分を占める構成になっており、パロディコマーシャルや回文のコーナーには僕も何度か投稿して採用されたことがある。
ただ、この雑誌には当時相当強い風当たりもあって、椎名誠などは「こんなのを見てパロディが判ったような顔をされちゃ困る」みたいなことを何かに書いていた。
椎名誠が何を「これぞパロディ!」と思っているのかは判らないが、まあ元々そんな高尚なものを目指している雑誌でもなかったと思うし、そういう意味では彼の指摘はなんだかいちゃもんっぽい感じがしないでもない。

さて、言いたかったのはそんなことではない。
この「ビックリハウス」のある号の回文コーナーに、今でも時々心に浮かんでは、ああなんて美しいんだろう、と溜息の出てしまう大好きな作品があったという話である。

「騾馬の背に 私挿したわ 偽の薔薇」

漢字が違っているかも知れないが、音としてはこのとおりだったはずである。
言葉に出した時の音の感じとイメージが素晴らしい。
僕の「罠にうとい怪盗に縄」とは大違いである。
posted by og5 at 20:53| 秋田 ☁| Comment(2) | TrackBack(0) | 本・雑誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月09日

祭りのあとの「BAD・〜tion」

竿灯最終日の二日酔いもなんのその、日曜日、アルモドバルの「バッド・エデュケーション」を観に行った。
FORUSの駐車場が満車状態で、道路にも空き待ちの車が列を作っていたので、また広小路をくるりと回るようにして中央通りに抜け駅の駐車場まで行かなくてはならなかったが、3時からの上映にはなんとか間に合わせることが出来た。

映画を観ての素直な感想は「ホモばっかり!」。
妻は、「ゲイ映画が不得意な人にはキツイかも知れないね」と言っていたけれど、何々映画だからどうだとかそういうことではなくて僕にはよく判らなかった。特にガエル・ガルシア・ベルナルがムチムチずんぐりしていて、あまり美しくなく、なんとなく滑稽に見えてしまうので困った。
オープニングのアートワークのセンスなど文句なくカッコよかったし、少年時代のイグナシオが神父の隣に座って「ムーン・リバー」を歌うシーンには、そのあまりの危うい美しさにクラクラめまいを感じてしまったのだが。
ちなみに、この映画、妻は最後まで完全に作品の中に引き込まれ日常を忘れてしまうほどだった、と言っている。
考えてみると、アルモドバルの映画を観るのは初めてである。
この話、監督がブライアン・デ・パルマならどうだっただろうな、などと意味のないことを少し考えた。

ところで、映画が終わってから入ったイタリアンの店で急に具合が悪くなってしまった。
まず、注文を取りに来た女の子の「〜でよろしかったですか?」攻撃にうんざりし、かなりぐったりする。
注文したのは、アボカドのサラダと生うにの冷たいスパゲティ、そして茄子の入ったトマトソースのスパゲティ。最初にサラダが来て、その量の多さにまたぐったり。自分がすごく疲れていることに気づく。やがてテーブルの上に載せられたスパゲティにも、全然食欲がわかない。「無理しなくていいからね」という妻の言葉に虚勢を張るように頑張って食べてみたが、なんだか胃の中に変な泡のようなものがあってあっちに行ったりこっちに来たりしているような妙な気分に陥ってしまい、結局少し残してしまう。
本当に珍しいことだ。
昼まで寝ていたのに、前日(正確には朝の3時半過ぎまで)の疲れは、どうやら取れてはいなかったらしい。
最後、レジでお金を払う時、とどめを刺すように「一万円からでよろしかったですか?」と言われて、とっととおつりを貰って店を後にした。

エレベーターのガラス越しに見える秋田市駅前の風景は、とても昨日まで夏祭りで賑わっていたとは思えないほど閑散としていて、なんだか煤けたゴーストタウンのように見えた。

EDUCATION CONDITION SITUATION
posted by og5 at 18:38| 秋田 ☁| Comment(4) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月08日

僕のサブカルチャーの夜明け

中学二年の現代国語の時間、僕は「漫画に対する自分の気持ち」を作文のテーマに選ぶという大間違いを犯してしまう。
その頃の現代国語の教師はクラスの担任でもあり、後に俳句の研究だったか短歌の研究だったか、あるいは俳人としてだったか歌人としてだったか忘れてしまったが、いずれにせよその功績が高い評価を受け県から表彰までされたという人物だった。
僕の作文はクラス中にお披露目され、一節一節彼の分析と批判を受けた。何故かクラスのみんなは、単に読み上げられ注目されたということで勘違いしたのか、その後の休み時間に「いい点数だったろう」などと僕に羨ましそうに声をかけて来た。僕は曖昧に笑いながら答えをごまかし、帰り道、担任に対する罵りの言葉とともにその作文をびりびりに破いて家の近くの沼に投げ捨てた。

四百字詰め原稿用紙にわずか2〜3枚程度何事かを書けばよいだけのその作文授業は、文章を書くということに僕達を馴染ませようとしたその教師の施策で、誤字がなく段落さえきちんと分かれていれば最低でも15点は貰えるというものだったが、その時の僕の点数はわずか12点だった。
だが、僕は別にその点の低さに怒りを覚えたわけではない。
僕が許せなかったのは、自分と意見が違う者を晒し者にして貶めるという彼のその卑劣なやり口である。そして僕は、「ああ、内容を自ら判断することもなく、そのジャンルによって(ただそのジャンルによってのみ)作品の優劣を決め付けるという、これが文学を愛する教師という立場にいる者のすることなのだろう」とはっきり理解したのだ。

今となれば、たまたまその教師がそうだったからといって教師が全てそんな人間だなどと思うこと自体が大きな過ちだということは判るし、僕の作文自体もまた子供じみたものだったのかも知れない。しかし、僕の主張は幼稚で、またその分単純明快でもあった。
要するに、今の自分にとっては、矢吹丈や銭ゲバの蒲郡風太郎、そしてニャロメの方が他の文学作品と呼ばれるものよりよほどリアルでありかつまた大切である、ということが言いたかっただけで、文学作品をけなすつもりなど毛頭なかったのである。
第一、「今の自分にとって」という前提がある以上、それを人にとやかく言われる筋合いなど微塵もないのであるが、その教師は文学と漫画などという低俗なものが同等に論じられているそのこと自体がもう許せなかったのであろう。

とにかく、こうして僕は、この世にはサブカルチャーとそうでないものとがラインのあっち側とこっち側に明確に分かれて存在していることを初めてはっきり意識したのである。
それは、僕の遅い遅いサブカルチャーの夜明けであった。
そして思えば、あの頃はまだ「常識」や「大人の考え」がちゃんと幅をきかせていて、それ故にサブカルチャーもまた何に反抗したらいいのかちゃんと判る幸せな時代だったのである。

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posted by og5 at 23:57| 秋田 ☔| Comment(4) | TrackBack(0) | 記憶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ウェンツと一緒

最近とっても気に入っている発見がある。

それはマギー司郎の「マギー」が苗字だということ。


ね、他の人ってちゃんとカナの部分が名前でしょ?
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マギー司郎 ダーク大和 ゼンジー北京 ジャック武田

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posted by og5 at 23:31| 秋田 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | TV・芸能人 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月03日

ところで、「逆境ナイン」と「コーヒー&シガレッツ」と、そしてアラン・レネの「夜と霧」の関係

「逆境ナイン」について、感情移入を許さないのが偉い、と書いたが、関連でもう一つ。

最近観た映画にたまたまもう一つ感情移入を許さない(というか感情移入を必要としない)映画があることに気づいた。
その映画とは、ジム・ジャームッシュの「コーヒー&シガレッツ」なのだが、「何も起こらない」ことが魅力のこの作品のことを考えていたら、さらに昔観た「夜と霧」のことを思い出してしまった。

「夜と霧」は、アレン・レネがナチスドイツの犯罪を冷徹な眼差しでモノクロのフィルムに焼き付けたドキュメンタリー映画の傑作である。
この作品は以前所属していた自主上映サークルの定例会で観たが、会員の感想の中に「もっと感情に訴えればいいのに・・・」というものがあった。。つまり、この映画があまりに淡々としているために、彼(彼女)は感情移入が出来なかった(それが残念だった)というのである。しかし、だからこそこの作品は素晴らしいのである。可憐なユダヤ人少女が出て来て観客の同情を一身に集め、その上でガス室送りになればよかったのか、いや、そんなものでは真実など描けないし、ナチスの許し難い犯罪も「同じ人間がやったこと」として人に伝わらない、そういう信念があったからこそ、アラン・レネはあの表現方法を選択し、そして完璧に表現しきることができたのだ、と僕は思う。
つまり、ここにも感情移入の意識的な排除が存在するのである。

ところで、これは蛇足だが、「夜と霧」を撮ったアラン・レネのもう一つの傑作「去年マリエンバートで」とジム・ジャームッシュのとぼけた新作が、「感情移入の排除」以外にも何か目に見えない綺麗な糸で繋がっているように感じるのは単純に僕の気のせいなのだろうか。

B0009J8JHI夜と霧
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posted by og5 at 21:46| 秋田 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「逆境ナイン」〜ああ、これは「海猿」も観なければ!

「逆境ナイン」の胆は何かと問われれば、それは「エンタテインメントの中でも最も『感動』と縁遠い『ギャグ・ナンセンス』の世界で、『ロッキー』を実現すること」であったと思う。そして、それはものの見事に成功している。
もちろん、羽住英一郎監督をはじめこの作品に関わった人達がこれを意識していたかどうかなど僕には判らない。それは単に偶然の産物だったのかも知れないし、原作が元々そういうものだったのかも知れない。だが、僕がこの映画を観て、大笑いしながら大感動してしまったのもまた確かな事実なのである。
そして、何より素晴らしいのは、この映画が一切の感情移入を拒否していることである。

例えば「ロッキー」に何故我々が感動するかといえば、自らの誇りのため限界に挑むロートルボクサーに絶対的なシンパシーを感じるからだろう。
みんなロッキーが好きなのだ。そして、そんなロッキーに勝って欲しくて、勝たせてやりたくてしょうがないのである。だから、最後壮絶な死闘の末判定負けしようが、ロッキーが、リングの上を煌々と照らすライトの中、潰れた目で頭をめぐらせながら愛するエイドリアンの姿を探し、そしてその名を呼ぶ時に大喝采するのである。
普通は、そうなのである。
しかし、「逆境ナイン」はそうではない。

通常であれば、恋愛をとるか野球をとるか悩むキャプテン・不屈闘志(玉山鉄二)は間違いなく感情移入の対象であるはずだし、大事な試合をすっぽかした彼が野球部にまた復帰するにはそれなりの「儀式」が必要であり、それがまた観客の感情移入を促し、その後に続くクライマックスは否が応でも盛り上がっていく、というパターンがとられるはずである。
だが、恋愛に悩む彼の姿自体が馬鹿馬鹿しくシリアスになりようがない上に、遅れて行った試合に合流する時も、彼はものの見事に謝るということをせず、「儀式」の介入を完璧に排除する。
結果、僕は(少なくとも僕は)、不屈闘志には一切の感情移入をせずに、しかも大いに感動するという奇跡を経験することになる。
これはもしかしたら凄いことなのではないか。

まさに、これこそ「それはそれ! これはこれ!」である。

自分でも観ていないのに、ノリだけで推薦。
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posted by og5 at 21:27| 秋田 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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