2005年09月27日

電動ろくろ始末

今回窯から無事に出て来たもの(一部)を一応ご報告。

R0010192.JPG R0010194.JPG R0010195.JPG R0010196.JPG

徳利は未だまともに作れない状況。まだまだ先は長い。
posted by og5 at 22:46| 秋田 ☀| Comment(5) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月26日

ヴィム・ヴェンダースってどうなんだろう?

「タナカヒロシのすべて」や「イン・ザ・プール」を観に行った時、予告編でヴィム・ヴェンダースの「ランド・オブ・プレンティ」をやっていた。
僕は前からどうもこのヴィム・ヴェンダースという人が苦手で、傑作ということになっている「パリ、テキサス」もちっともいいと思わない。「ベルリン・天使の詩」は前半は好きだが、後半は蛇足だと思っている。
そうなのだ。「パリ、テキサス」にしても「ベルリン・天使の詩」にしても、前半と後半がまるで違う映画なのだ。断絶していると言ってもいい。ヴィム・ヴェンダースが一人で撮った「パリ、テキサス」よりも、いろんな監督十人で撮った「10ミニッツオールダー」の方がより整合感があるというのはいったいどういうことなのだろう。

前半・後半のツギハギ感とともに僕がヴィム・ヴェンダースを好きになれない理由がもう一つある。
それは「フィルムじゃない」ってことである。
これをわざわざ括弧つきにしたのにはそれなりのわけがあって、僕だって最近の映画が実際には昔のようにフィルムでなんか撮影されていないらしいことくらいは重々承知しているのである。しかも、ヴィム・ヴェンダースがビデオで映画を撮っているのかどうかの正確な知識もない。だから、これは本当に「そう感じる」だけなのだが、とにかく、仮にも映画館で上映される作品を撮るのであれば、その出来上がった映像は少なくとも「フィルムの情緒」を備えていなくてはならないのではないだろうか、と思うわけである(そして、ヴィム・ヴェンダースの映画からはフィルムの美しさは感じられない、と)。
「ブエナ・ヴィスタ〜」も荒かったが、「ランド・オブ・プレンティ」の予告も本当に荒い(感じがする)。
これは、僕にとって「ツギハギ感」よりも決定的である。

「ランド・オブ・プレンティ」の予告では、彼は「巨匠」ということになっていた。
ということは、結構評価されていて好きな人も多いんだろうな。

※「ランド・オブ・プレンティ」の予告編で、主人公達がカメラの構図を決めるように手のひらを前(観客の側)に差し出す場面を観て、僕はその「遠近感が尋常でない感じ」に気分が悪くなってしまったが、あれはいったいなんなのであろうか?
みなさん、実際にシネパレに行って自分の目で確かめてみて下さい。


B000BDG2J4ヴィム・ヴェンダースセレクション

東北新社 2005-11-25
売り上げランキング : 1,399

Amazonで詳しく見る
by G-Tools


posted by og5 at 20:54| 秋田 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月25日

完璧カタルシス映画〜「イン・ザ・プール」

B0009ULBOAイン・ザ・プール
松尾スズキ 奥田英朗 三木聡

ポニーキャニオン 2005-10-19
売り上げランキング : 434

Amazonで詳しく見る
by G-Tools


注意!
未見で、かつ内容をあまり知りたくない人は読まないで下さい(特に4段落目、かな)。


人間というのは、バランスを取ろうとしてバランスを崩す生き物のようである。いや、バランスを崩したと感じると、そのフォローのために反対側にお尻が出てしまうというか。
そして、その突き出てしまったお尻を自覚して、僕達は「バランスが崩れてしまった!」と大慌てする。しかし、この時、実はバランスは見事に取れているのであり、では何がそんなに僕達を不安にさせるのかと言えば、そのバランスの取れ方が「いつもとは違う」というただその一点のみなのである(ああ、まわりくどい!)。
だけど、「いつもとは違う」を簡単に受け入れられれば誰も苦労などしない。
そうして、僕達は伊良部総合病院精神科を訪れる。
と、これは「オダギリジョーの場合」である。

「市川実和子の場合」も、本質は同じだと僕は思う。
彼女のバランスは「変化しないこと」で保たれているので、「大きな仕事」が目前に迫るとそれから逃げ出すこと、回避することで彼女の精神はバランスを取ろうとする。強迫神経症は、つまり彼女にとって非常に便利な「言い訳」なのだ。
もし、彼女が「変化しないこと」をはっきりと自覚して自ら選択しているのであれば何も問題はない。しかし、彼女はどうやら本心では何かもっと大きな仕事をしたいと思っているらしく、だからこそ両者の板ばさみになっておかしくなってしまっているわけである。
彼女は自分ではそれに気づくことが出来ず(このバランスの保たれている状態を受け入れられず)、全てを「道具」のせいにしてしまう。
そうして、彼女は伊良部総合病院精神科を訪れる。

それにしても、彼等が訪れた伊良部総合病院の伊良部一郎は最強だ。
もしかしたら、あのとんでもない挙動の全ては彼の医師としてのテクニックで、実際はものすごくスキルの高い精神科医なのでは、と一瞬思ってしまったくらいだが、いや、そんなわけはないとすぐに思い直した(でも、たまたまだろうが何だろうが、オダギリジョーがわざわざ身元引受人に指名するくらいなのだから大したものである)。だが、もしあれが彼のテクニックでないとすれば、人は何故彼によって救われるのだろうか。
それは、彼が抑圧されていない人間だからだと僕は思う。
彼は子供なのだ。しかも、現実には子供だって何かに抑圧されるのが当たり前なのに、彼は子供で、しかも何ものにも抑圧されていない奇跡的な存在なのである。
患者は、たぶん伊良部一郎の非常識な振舞に自分の中の「隠された何ものか」を観るのだ。

さて、長々と書いたが、実は「イン・ザ・プール」の最高の魅力は、そんな理屈など全く関係なく、とにかく良質のカタルシスを経験出来ることである。
市川実和子が落ち込んで一人西田佐知子の「アカシアの雨がやむとき」を聞いている同じラジオが、ベッドに横たわり咽び泣くオダギリジョーの部屋でも流れているという大好きなシーンを経て、次の日病院でいよいよ彼が怒りを爆発させ四階だか五階だかの窓から次々にモノを投げ出す場面では「それやれ! もっとやれ!」と思わず心の中で叫んでいたし、田辺誠一が背広姿のままでプールの飛び込み台に立ち、「心配ご無用!」と遥か下の水面に綺麗に飛び込んで行く姿を見た時は拍手したくなったほどである(実は小さくした)。

そうして、田辺誠一は伊良部総合病院精神科を訪れる。
この「田辺誠一の場合」については、実はあの地下にある精神科のドアをノックした瞬間に、何もかも全て解決してしまっているような気がするのだがどうだろうか。
是非、自分の目で確かめて下さい。

原作です。
 ↓

416320900Xイン・ザ・プール
奥田 英朗

文芸春秋 2002-05
売り上げランキング : 982

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

posted by og5 at 23:05| 秋田 ☀| Comment(4) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月23日

蜘蛛の糸

家の玄関を出て左手に、突き当たりに物置小屋のあるコの字型のちょっとしたスペースがあって、夏の終わりぐらいからそのコの字に蓋をするようにして、一匹の蜘蛛が大きな巣を作っている。
3センチくらいのジョロウグモである。
椿の木と無人の隣家のナミトタンの塀との間に糸を張り、プルプルと風に揺れている。
驚くのはその巣が二重になっていることだ。
蜘蛛というのは、巣が破けてつかいものにならなくなって初めて新たに次の住処を作るものだと思っていたが、このジョロウグモは前の巣がまだ形を保っているのに、それをトレースするかのように前のものに重ねてもう一つ新しい同型を作り上げたのである。
何故という理由もないのだが、僕は小屋へ行くのを止めにした。
くぐってだって行けるし、いっそそのキラキラした糸を手で払って切ってしまったとしても、蜘蛛はまたすぐに新しい幾何学模様を作るのだろうが。

夏休みの季節になると、毎年きまって何となく芥川龍之介の「蜘蛛の糸」が読みたくなる。
本当に読むかどうかはさておいて、とにかく本棚から抜き出して手元に置く。
そして、カンダタとお釈迦様のことを少し考える。
何故お釈迦様はカンダタの元に蜘蛛の糸を垂らしたのだろう。
カンダタが身勝手に他の亡者どもを蹴散らすことをせず、ただ蜘蛛の糸を頼りに上に登り続けていたらどうなっていただろうか。
罪人達が整然と天上を目指し登って来る様子を見たら、おそらくお釈迦様は身震いして(やはり)糸を切ってしまっていただろう。
どっちにしても同じことだ。
あれはお釈迦様のフォルトなのである。
posted by og5 at 01:36| 秋田 ☔| Comment(2) | TrackBack(1) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月19日

「武田百合子の文章」について

4309976727KAWADE夢ムック 文藝別冊 武田百合子

河出書房新社 2004-02-25
売り上げランキング : 14,308

Amazonで詳しく見る
by G-Tools


武田百合子の文章は生きている。
別に、文章で綴られる対象が現実のことのように目の前に迫って来る、などと言いたいわけではない。確かに、武田百合子は物事をとても的確にとらえ、そしてそれを文章で見事に表現するけれど、しかし僕が言っている「生きている」感じはそんな種類の「生きている」ではない。
武田百合子の文章は、「動物」なのだ。

例えば・・・。
武田百合子の「ことばの食卓」を読んだ日の夜、僕は妻の横で眠っている。胸の上(心臓の辺り)には猫が載っていて、フガフガと鼻を鳴らしている。僕は両目を閉じているが、それでも部屋の中が真っ暗でないことは知っている。電灯が点いているのではない。部屋の灯りを消して少しするとやって来る、あの夜の明るさだ。
武田百合子の文章が僕を噛みにやって来るのは、そんな時である。

あるいは・・・。
僕は出張で東京の知らない街を歩いている。カバンの中には、新幹線で読んでいた武田百合子の「遊覧日記」。僕は、ビジネスホテルの場所を捜しているうちに間違った路地に入ってしまい、誰かの家の裏側に出てしまう。ランニングシャツにステテコのおじいさんが何をするでもなく立っていて、僕ではない何かを見ている(決して僕だけは見ない)。ブロック塀には真っ赤なタオルがかけてあり、ズラリと並んだ植木鉢の脇でミドリ色のホースがとぐろを巻いている。
こんな時にも、武田百合子の文章は僕の足元に絡みつき、そして頭を脛に擦りつける。

武田百合子よりも文章の上手い人はいくらでもいるだろう。武田百合子よりも感動的な話を書く人も面白い話を書く人もまたいくらでもいるだろう(そもそも武田百合子にはそんな気はさらさらなかっただろうが)。
しかし、武田百合子のように、その文章が息をする一匹の動物となって勝手に自分の元を訪れるなどという経験をしたことは、これまで一度もなかった。
僕には、これらの現象(と言っていいのかどうかも判らないが、少なくとも僕が感じていること)が一体どういうことなのか全く上手く説明出来ないのだが、それはきっと、彼女が男女間のあれやこれやなど書く人ではないのに、その文章は何故かエロチックである、そのことと無関係ではないだろう、ということだけは今感じているのである。

4480025464ことばの食卓
武田 百合子

筑摩書房 1991-08
売り上げランキング : 28,727

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

4480026843遊覧日記
武田 百合子

筑摩書房 1993-01
売り上げランキング : 33,332

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

posted by og5 at 12:44| 秋田 ☁| Comment(2) | TrackBack(0) | 本・雑誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月18日

今日の電動ろくろ

今日は、先週作った小さな壷(らしきもの)を削った後で、小さな徳利(らしきもの)を作った。
壷は電動ろくろの上にあった時より既にかなり小さくなっていた。素焼きすれば更に小さくなるのである。多分高さ20センチを切るだろう。

まだ土をちゃんと上に上げることが出来ない。徳利を作り始めたのもその練習のためである。
土がちゃんと均等に上がっていないと、湯呑みくらいなら何とかごまかして形に出来るが、徳利となるとまず完成まで辿り着くことが出来ない。逆に言えば、徳利がまともに作れるようになれば、他のものを作るのにもそれほど難儀しなくてもよくなるということで、これはもうやるしかないのである。
作業場を使わせてくれるだけでなく、土の面倒まで見てくれる「あっけら館」の享子さんも、徳利作りには色んな要素が含まれている、と言っていた。

4キロくらいの土を使い、結局今日何とか形になったのは小さな徳利一個きりだった。それだって、歪みが口の辺りに出て来るのをどうにかこうにかごまかして、ほとんど反則のようにして作ったものだ。
でも楽しい。

ここ「サルの家」に時々コメントをくれるFumingは、よくあんな同じような形のものばかり作ってて飽きないね、みたいなことを言うのだが、実は僕にとっては全部違う形なのである。
そして、自分の腕も省みず、心の中ではちゃんと「こうしたい」という理想のようなものがあって、あの「似たり寄ったり」に対しても、ちょっとだけ他のより張りがあっていい感じだなあとか、何となくこれはいい味出してるような気がするなあとか、そんな極々個人的な思い入れはあるのである。

見た目の形ではなくて、土がちゃんと動いて形になっていて、その一番いい瞬間にろくろを止めることが出来て、まるで生きているような張りをその表面に漲らせているなんて器をいつかひとつだけでもいいから作ってみたい・・・そんなことを思っている今日この頃である(ホンマカイナ)。
posted by og5 at 23:53| 秋田 ☁| Comment(2) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

THE HUMAN MENAGERIE 2

今日、日本テレビの朝の報道番組を見ていたら佐藤ゆかりと片山さつきが出演していた。
竹村健一を相手に二人とも(特に片山は)しっかり自分の考えを述べており、大したもんだなあ、と素直に感心していたのだが、その画面を見ながら、僕はあることに気づき、誰かに言いたくて言いたくてしょうがなくなってしまった。

片山さつき(静岡七区)は温水洋一(犬とオジサン)に似ている。

目の印象や動き方、そして唇の感じはもちろんのこと、髪の毛が何となく怪しい感じもそっくりである。
その「怪しい」の意味は、当然片山と温水では全く異なるのであるが。
posted by og5 at 19:14| 秋田 ☁| Comment(2) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月17日

「肩にひとひら花が散る」季節

すっかり秋っぽくなった。
朝夕など肌寒いくらいである。
今日はひどい二日酔いだったにも関わらず、明日のキリタンポの材料買いに外へ出た時、青くて高い空と澄んだ空気の気持ちよさに思わず心の中で「若い力」を口ずさんだ。

「若い力」という歌が、僕は大好きである。
僕は運動が得意ではなかったから、小学生の頃も運動会など全然好きではなかったけれど、のろしが上がり、生徒全員が宮田グランドに整列し、大会本部の特設テント骨組みにくくりつけられた大きなスピーカーからちょっとひび割れたこの曲が流れて来ると、鼻の奥がツンとして、泣きたいような、誇らしいような、何とも言えないいい気持ちになったものだった。
「若い力」は、秋の大運動会と青い空によく似合う。

当時僕達は、運動会ではブタ皮の運動会用足袋をはいた。
コルクを引き伸ばしたような肌色の皮が底に貼ってある白い布製で、サイズによって縫い糸が赤・黄・緑の三色あり、小学校隣りの文具屋で売っていたこの足袋は、昼を過ぎる頃には底が抜けて全く使い物にならなくなってしまうので、僕達はいつも必ず「替え」を用意していたような気がする。

大好きな「若い力」が終わると、大嫌いな徒競走が始まった。
タンポポの汁をくるぶしに塗ると走るのが速くなるというおまじないがあったが、僕には効いたためしがない。
今でもあんなことをやっている小学生がいるのだろうか、と少し薄い色をした秋の空を見上げながらふと思った。
posted by og5 at 21:15| 秋田 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月13日

元祖・猫娘

「猫娘」といえば皆さんはどんな姿かたちを思い浮かべるだろうか。
おそらく大概の人が、あのアニメでもお馴染みの、いつも尖った歯をむき出して、両手を身体の前面に構え、いつでも飛びかかれますよとでも言っているかのように相手を威嚇している、サスペンダーのスカートをはいた女の子を想像するのだと思う。
もちろん、それが「猫娘」である。
しかし、僕の中にはもう一人の「猫娘」がいて、いったいいつから今ポピュラーなあの「猫娘」に主導権が移ってしまったのだろうか、と不思議な気がしているのである。

もう一人の「猫娘」は、「鬼太郎夜話」に登場する。
鬼太郎はどういうわけか小学校に通っていて、場面はちょうどお昼の弁当の時間。
鬼太郎は何故か自分の弁当の中身をフタで隠している。
そして、「あ、ぼくのべんとうはずかしくて出せないや」「おとうさんのつくるおかずはまったくセンスがないからなあ」などと言っているのである。
それでも父親の作ってくれた弁当をムシャムシャと食べる鬼太郎。
すると、同じクラスの美少女「寝子」ちゃんが、クンクンと鼻を利かせていたかと思うといきなり鬼太郎の背後に迫り、「鬼太郎さん! あなたの食べているのはどぶねずみでしょう」「あなたはなんでそんなものを学校に持ってくるのです」と化け猫の顔になって襲い掛かるのである。
とんでもないエピソードであるが、生臭いニオイを嗅ぐと居ても立ってもいられなくなる「寝子」ちゃんの性が悲しかった。

この「猫娘」は美少女であった。
それは「青葉の笛」などでも見られる水木しげるの漫画独特の妙に色っぽい表情をしたキャラクターで、僕はふと、そういえば変に大人っぽい女の子って絶対いじめられる対象になってしまってたよなあ、などと自分の子供時代をシミジミと思い出していた。

さて、どぶねずみを食べてしまった「寝子」ちゃんはすぐに元の美少女に戻るが、ねずみ男を見るとまた「猫娘」に変身し、ねずみ男の頭をカリカリカリと齧る。
命からがら逃げて行くねずみ男を見やり「大きなねずみをのがしましたねえ」と言う鬼太郎に、まだ半分妖怪の「寝子」ちゃんは、「くやしいわ わたしいまにきっと食べてやるから・・・」と応えるのであった。
そういえばこの「寝子」ちゃんも、サスペンダーのスカート(ちょっとおしゃれなチェック柄のスカート)をはいている。
この辺に水木しげるの個人的な憧れがなんとなく表れているような気がするのだが、それは考え過ぎだろうか。

※どぶねずみ弁当のエピソードはこの巻に収録されています。
         ↓
4063196763ゲゲゲの鬼太郎 (8)
水木 しげる

コミックス 1996-08
売り上げランキング : 784,741

Amazonで詳しく見る
by G-Tools


posted by og5 at 21:11| 秋田 ☁| Comment(0) | TrackBack(1) | 本・雑誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「金魚屋古書店」に嗚咽する

いや、泣いた、泣いた、泣いてしまった。
「タナカヒロシのすべて」を観た後でヴィレッジ・ヴァンガードで買った芳崎せいむの「金魚屋古書店」。
特に第二巻、「窓のむこう」と「1%の漢(おとこ)」には嗚咽した。
これは漫画専門の古書店を舞台にした連作なのだが、とにかく愛に溢れている。
なんというか、本当のことをポンと目の前で見せられて胸をわしづかみにされてしまうような、そんな感じである。
まだ買っていないが「金魚屋古書店出納帳」というのも二冊出ているのだ。
すぐ買う、明日買いに行く、あ、駄目だ、明日は会社の飲み会だ、いや、じゃあ昼休みに買いに行く、買いに行こう!

4091885543金魚屋古書店 2 (2)
芳崎 せいむ

小学館 2005-08-30
売り上げランキング : 2,129

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

posted by og5 at 19:45| 秋田 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 本・雑誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月12日

ウスバカゲロウ

愛知県の木曽川橋という所でウスバカゲロウが大量発生しているそうである。
ウスバカゲロウはアリジゴクの成虫で、昔は実家の畑にあるえんどう豆の葉っぱをゆすると無数にフラフラ飛び立ったものだが、最近はとんと見ない。
幼虫のほうは大食漢だが、親は餌を食べる器官がないのではなかっただろうか。
アリジゴクは英語で「antlion」という。
文字通り、すり鉢型の巣に落ちてくる蟻を地獄の底で捕まえその体液を吸ってしまうという結構怖ろしい奴である。
ムーミンにも出て来る。
物語の中では、ムーミン達と同じ不思議な生き物の一種として扱われているのか、本当にタテガミを生やしたライオンみたいな顔をしていた。
勅使河原宏の「砂の女」という映画があって、砂丘に一人で住んでいるアリジゴクみたいな女の話であるが、主演はムーミンの声でお馴染みの岸田今日子だった。

虫といえば、去年の夏も今年の夏もハエとゴキブリが異常に少なかった。
嫌な虫でも、いないとなると何だか気になるものである。

B000060NCX砂の女 特別版
岡田英次 岸田今日子 勅使河原宏

角川エンタテインメント 2002-04-14
売り上げランキング : 6,495

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

posted by og5 at 23:27| 秋田 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

THE HUMAN MENAGERIE

大騒ぎの裡に衆議院選挙が終わったが、何人かとても気になってしょうがない人がいた。

まず亀井静香。
この人はいつも疲れていた。
ヨレヨレであった。
最後ホリエモンをどうにか抑えて再選が確定した時など、長風呂して湯あたりしてしまった人のようにグッタリしていた(何故かほっぺたもちょっと紅いし)。
椅子に浅く腰掛ける癖があるようなのでそのせいかも知れないが、思わずちょっとボランティア精神がうずうずしてしまう、そんなタイプなのである(あくまでも具合の悪い人を助けるという意味で)。
親分肌ということになっているが、案外オバサンっぽい。

次に綿貫民輔。
この人は絶対に怪しい。
すごく立派な上半身をしていて、昔の手塚治虫の漫画に出て来るダブルの背広を着た人みたいに見える。
それになんというのか、あの「大霊界」の頃の丹波哲郎と非常によく似た何かが、この人からはまるで湯気のようにいつも立ち昇っているのである。
仇敵となったはずの小泉首相の話を何故かニヤニヤして聞いているところなど、ああ映画に出て欲しいなあ、と思わず口に出しそうになってしまったくらいである。

最後に福島瑞穂。
この人はちょっと辛い。
党首討論会で、小泉純一郎を「シュショー! シュショー!」と(手を挙げながら!)呼び、司会者に指名されると嬉々としていつもながらの平和主義を唱えるこの人を見ると、まるでそこが男女共学の高校の生徒会にでもなったかのような錯覚を覚えるのであった。
話し終えると必ず「ああ上手く言えた」みたいにちょっとほっとした顔で笑うのも辛い。
この人が「首相」と言うと、言葉としてはちゃんと言っているはずなのに、何故小さい「ュ」や小さい「ョ」が普通の人よりも多いような感じがしてしまうのだろう。

以上、何の役にも立たない僕の衆議院選挙雑感である。

題名は僕の大好きなスティーブ・ハーリー&コックニー・レベルのデビューアルバムの原題。「人間動物園」というような意味です。
       ↓
B0006IGTBAヒューマン・メナジュリー
スティーヴ・ハーリー & コックニー・レベル

ヴィヴィド 2004-04-25
売り上げランキング : 92,687

Amazonで詳しく見る
by G-Tools


posted by og5 at 18:32| 秋田 ☁| Comment(2) | TrackBack(1) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月11日

「テ・ハの会」に僕も入ろうかな〜「タナカヒロシのすべて」

「タナカヒロシのすべて」が面白かった。

まず冒頭、いきなり始まる西田佐知子の「コーヒールンバ」と、映し出される町の風景がよかった。
何やら思い詰めたように橋の上から川面を見下ろす男、自分のお尻と脚をわざと誇示するかのようにレストランのウインドウを磨くウェイトレス・・・その町はタナカヒロシ(鳥肌実)が(住んでいるのではないが)暮らす町で、後に、やはり冒頭のシーンと同じように橋の上に佇む男や自意識過剰のウェイトレスが、彼が帰宅を急ぐ姿と重なるように映し出されるのがイイ感じである。

かつら工場で働くタナカヒロシは、両親(上田耕一・加賀まり子)と三人暮らし(猫のミヤコを入れると四人暮らし)で、人づき合いをほとんど(出来ないではなくて)しない(またそのことに対し何も感じない)モラトリアムな人間である。
そんな彼を次々と不幸が襲う。両親の死、度重なる家の売却、会社の倒産、自らの尿道結石、そして最後にはたった一匹残された身内のミヤコまでが腎臓病になってしまう・・・これは、そんな彼がちょっとだけ「成長」する物語である。

好きなシーンがいくつもあった。
彼は、冷蔵庫の中のペットボトルに直接口をつけて飲む男で、しかも犬食いである。そしてそれを改める気などサラサラない。タナカヒロシは、要するにそういう男なのである。
そんな彼が「ちょっと変わって」から、ふと思い直したようにペットボトルの水をコップに注ぎ、それをゴクリゴクリと一気に飲み干すシーンがある。その時、母親(ペットボトルからの直飲みにいつも小言を言っていた母親)は既にこの世を去っている。
悲しいが、とても印象に残るシーンである。

家を売り払って線路沿いのアパートで暮らすようになった夜に、隣の部屋から青い光が漏れて来ることにふと気づく・・・あのエピソードもよかった。
いったい何だろうと彼が隣の部屋をのぞくと、そこには死んだはずの父親が座っていて彼にも気づかず夢中になってTVを見ている。青い光は、このTV画面の反射であり、そして、部屋の別の壁際では、やはり死んだ母親が、何故か真っ赤な洋服を着て艶然と微笑んでいるのである。
幽霊というのはこのように現れるものだと僕は思う。
映画を観終わった後のナガハマコーヒーで、僕と妻はこのシーンの話をしながらホットサンドを食べ、そしてちょっと泣いた。

これは、タナカヒロシの「成長」の物語であると言った。
しかし、その「成長」はあまりにもかすかで微妙であり、それはどちらかといえば「成長」ではなく「変化」と呼ぶ方がより適切であるかも知れないごく曖昧なものでしかない。
そこがよい。
彼は結局、前向きに生きよう、何とかなるさ、と思うに到り映画はそこで終わるのであるが、「何とかなる」根拠など実は何もないのである。
この映画は時間の使い方がとても贅沢だと思う。
事実としての各エピソードに費やされる時間は決して長くはない(むしろ非常に上手く縮められ省略されている)が、「映画的」なシーンに使われている時間がとてもゆったりとして贅沢なのだ。

最後に、好きだったシーンをもう一つ。
キックボードをリサイクルショップで見つけ即購入し、その帰り道、一蹴りする度に口元に笑みが広がり、やがて全力疾走で風を切るその背筋をピンと伸ばした姿のカッコいいこと!
鳥肌実を敬遠していたが、この作品で「微妙に」好きになった。

※「テ・ハの会」とは、タナカヒロシが所属する「テルミンと俳句の会」の略である(彼は二段の腕前!)。

B0007VLX94タナカヒロシのすべて o.s.t
サントラ 鳥肌実 西田佐知子

バップ 2005-04-21
売り上げランキング : 33,136

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

B0002T25YSトリズム
鳥肌実

インディペンデントレーベル 2004-08-01
売り上げランキング : 822

Amazonで詳しく見る
by G-Tools



posted by og5 at 19:16| 秋田 ☁| Comment(2) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月10日

「あき野とる子」ちゃんを知っていますか?

やまだ紫の「しんきらり」がちくま文庫版で出ていたので購入した(1994年11月の第7刷だから、出ているのを知らなかっただけ)。
青林堂バージョンを持っていたと思うのだが、いつの間に手放したのか思い出せない。以前、ある日突然持っている本を(「がきデカ」など数十冊を除いて)ほとんど全て売り払ってしまったことがあるので、その時に多分サヨナラしたのだろう。
今回この作品集「しんきらり」を再購入したのには理由がある。中に一話、とても心に残っているエピソードがあって、それをどうしても再読してみたくなりAmazonに注文したのである。
その短編の題名は「にんきもの」という。

「わたし」がある日、ヌカ漬を漬けていると、ふと子供達の会話が聞こえてくる。その中の「トルコ」という言葉の響きを訝しみ、「わたし」は子供達にその意味を訊ねる。すると長女はこともなげに「ああ とるこね」と応え、それは「あきのとるこ」のことなのだと言う(当時は、多分まだ「ソープ」が「トルコ」と呼ばれていた時代である)。
「わたし」はまだわけが判らずキョトンとしているが、「実物」を見せられてすぐにその名前が「にんきもの」という学校ごっこの紙人形につけられたものなのだと理解する(この紙人形というのは、もちろん折り紙の立派なものではなく、ごく普通のノートか何かに描かれた子供の絵を切り抜いただけの、ペラペラでフニャフニャな情けない感じのただの紙切れである)。
出社の身支度をする夫に、彼女は一枚一枚の紙人形を「にんきもの」と書かれた箱から取り出して、裏側に書かれたその名前を読み上げる。
「とる子」に始まって、まるこ田まるめ、かろ谷まるめろ、もっこりぎこり、ちび田かたかびち、ふらめたきずか、ゆみだけみ、おいざちび、おそなえさなえ・・・。
二人は吹き出し、涙を流し、そして腹をかかえて笑う。
ごく普通の名前の人形も含めて全部で99人いる「にんきもの」達について、「わたし」が娘に「変な名前ね」と言ったら、「ウン でもふつうのじゃつまんないでしょ?」という答えが返って来たという話を聞いて、夫は「うほー」と少し驚いた顔をして、それから(いつものように)会社へ出かけて行く。
閉じられたドアの前で、「わたし」は、「ねえ あなた---」「子供って育つんだね」「どんどん育つんだね」と心の中で呟き、そして泣く。

僕がこの短編を好きな理由は、今はしっかりとここにある美しくてかけがえのないものが、やがてはかなく消えてしまう運命を持っていることを、作者(やまだ紫)がしっかりと見据えているからである。小沢健二の「恋しくて」や「いちょう並木のセレナーデ」、そして「さよならなんて云えないよ(美しさ)」を聴く度に、胸が苦しくなってどうしたらいいのか判らなくなってしまうのもそのせいで、僕は多分自分はこういうものに強く惹かれる性癖を何故だか知らないけれど親からの遺伝か何かのせいで持ってしまっているのだろう、と思っている。

そういえば、自分達夫婦も、ある夜突然に下らないことをしりとりみたいに言い始めて止まらなくなり、笑い過ぎて目が冴え、翌日早起きしなくてはならないのに眠れなくなってしまったことが何度もある。
ああいうことが、人生で何よりも美しくそして幸せなことなのかも知れない。
その内容については、公序良俗に反するので、ここにはとても書けないが。

448002221Xしんきらり
やまだ 紫

筑摩書房 1988-03
売り上げランキング : 121,109

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

B0000AOD5N刹那
小沢健二

東芝EMI 2003-12-27
売り上げランキング : 4,646

Amazonで詳しく見る
by G-Tools



posted by og5 at 12:31| 秋田 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 本・雑誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月04日

日曜日の欲望

日曜の夕方になると、無性に「ああ、明日床屋に行きたい」と思うことがある。
そして、その直後「ああ、明日は月曜だったか」と脱力する。
いったいいつから床屋は月曜が休みと決まったのだろう。
月曜日に仕事をする床屋がいると、他の同業者が何か困ることでもあるのだろうか。

一般的なレベルでは、僕の髪の毛はまだ切らなければならない状態にはなっていないと思う。
しかし、頭頂部が薄くなってからそれを目立たなくするために全体的に短髪にしたので、周りが少し伸びて来るだけでまるで河童の皿のように禿が際立って来てしまうのである。
いっそ剃髪しようかと思ったこともあるが、あれはあれで面倒臭そうである。
煩悩を断ち切るために坊主は頭を剃るというけれど、禿をカモフラージュするために短髪にした僕は、あれも実はすごく人間的なある欲望を内包しているという事実に気づいている。
森羅万象に欲望あり。

今日、「海を飛ぶ夢」を観た。
尊厳死を望むラモンに近づくロサという女がひどく生々しかった。
厭な女である。
しかし、あんな「看護を必要とする人フェチ」みたいな人間も、やはり何かの役には立っているわけである。
ラモンが裁判所に行くために車に乗せられ移動するシーン。
窓の外を流れるラモンが見た当たり前の人々の当たり前の日常が胸に迫った。
不思議なことに、この映画を観終わってしみじみと感じるのは、「尊厳死」の是非でも、ラモンを取り巻く人々の愛や苦しみでもない。
何故かそれは「生きることの素晴らしさ」であった。

ああ、それにしても明日床屋に行きたい。
行ってみようか。
もしかしたら開いているかも知れない。

B000A6DLBE海を飛ぶ夢
ハビエル・バルデム アレハンドロ・アメナーバル ベレン・ルエダ

ポニーキャニオン 2005-10-05
売り上げランキング : 5,449

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

4902088738海を飛ぶ夢
ラモン・サンペドロ

アーティストハウスパブリッシャーズ 2005-04
売り上げランキング : 33,478

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

posted by og5 at 19:23| 秋田 ☔| Comment(0) | TrackBack(1) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月03日

MUSIC INDIVIDUAL MEDLEY その2〜溝の擦り切れたレコード

前回、「MUSIC INDIVIDUAL MEDLEY その1」で、ぱぱぼっくすのCDをとにかく夢中で聴いていると書いたが、ふと、こんなに同じレコードを繰り返し繰り返し聴くのはいったい何年振りのことだろう、こんなこともう十何年もなかったことかも知れない、と気づいた。

小学生の頃、家にはポータブルプレイヤーがあった。メーカー名などは憶えていないが、クリーム色のボディで、赤い蓋がついていて、持ち運びが出来た。
そのプレイヤーをしまってある棚には、村田英雄の「王将」、北島三郎の「なみだ船」、ザ・ピーナッツの「ウナセラ・ディ東京」、コロムビア・ローズの「東京のバスガール」などのシングル盤があって、何故か「相撲甚句」や映画メリー・ポピンズのサントラ盤などもそこには混じっていた(このサントラというのは、映画のシーンにそった本仕立てになっており、赤いソノシートが何枚か付いているもの。当時の流行だったのだろうか、アニメのシリーズなども同級生は持っていたようだ)。
そして僕は、僕が買ったものですらないそれらのシングル盤を、ジャンルにこだわるなどということもまだ知らずに、日に何度も、飽きることなく繰り返し聴いたものだった。
とにかく、レコードを聴くということがただ単純に楽しくてしょうがなかったのである。

初めて自分のお金で買ったレコードは、たぶん当時大流行していたテンプターズのシングル「今日を生きよう」と「神様お願い!」だったと思う。
洋楽のレコードを初めて買ったのは中学生になってからで、シングルはショッキング・ブルーの「ヴィーナス」、LPはゲス・フーの「アメリカン・ウーマン」だった。
本当は1910フルーツガム・カンパニーのアルバムが欲しかったのだが、レコード屋になくて、欲しいとなると待つということの出来なくなってしまう性分の僕は、しょうがないのでその代わりにこんな渋いものを買ってしまったのである。
当時は、ひと月に買えるレコードの枚数など限られていた。普段はシングル盤を何枚か買えばおしまいで、LPを買うことが出来るのは、正月か盆の臨時収入のある時期に限られていたものである。しかし、それで充分事足りていた。
ラジオや友達との貸し借りで、新しい情報や買うまでの決心はつかないが聴いてみたいと思っているものをとりあえず聴いてみるという機会には結構恵まれていたし、何より、自分で気に入って手に入れたレコードを、何度も何度も、繰り返し繰り返し、溝が擦り減ってしまうまで聴くということが、何物にも替え難い喜びだったのだ。

さて、社会人になって、自由に使えるお金が増えると、僕の部屋には新しいレコードがジャンルを問わずどんどん並ぶようになった。好きな音楽も、ミュージシャンやアーティストも、以前とは比べ物にならないくらい多くまた多様になり、たぶんそれらに対する僕自身のセンスや知識もいくらかは垢抜け向上もしたのだと思う。
しかし、持っているレコードを聴く時間、せっかく手に入れていつでも聴くことが可能なそれら音楽に接する時間は、月1〜2枚しかシングル盤を買えなかった頃よりも確実に減ってしまった。中には一度しか聴かず、そのまま棚に収められ、買ったことさえ忘れてしまったものさえある。
聴けば聴くほど擦り減り傷がつくレコードの時代にはあんなに繰り返し聴いていた音楽なのに、聴いても聴いても擦り減ることなどなく丁寧に扱いさえすれば傷がつくこともまずないCDの時代になると、一生懸命に聴いたり一緒に歌ったりすることもあまりなくなってしまったなんて、なんと皮肉で馬鹿馬鹿しい話なのだろう。

買ったCDは好きになるまで聴こう。
買ったものは好きになるまで使おう。
始めたことは好きになるまで続けよう。
その方が絶対楽しい(ような気がする)。
posted by og5 at 19:34| 秋田 ☁| Comment(2) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ゾンビ・ソング

僕は僕でも僕じゃない
君は君でも君じゃない
色んなものをぶら下げて
ショッピングセンターでまた会おう

朝は朝でも朝じゃない
夜は夜でも夜じゃない
ショクベラ腰にぶら下げて
ウインナワルツをまた踊ろう

だりらりらりら・だりら・りら
だりらりらりら・だりら・りら
独りぼっちじゃないんだね もう
だりらいらりら・だりら・りら
でも 誰が誰だか判らない

僕は僕でも僕じゃない
君は君でも君じゃない
色んなものをぶら下げて
ショッピングセンターでまた会おう
でも 誰が誰だか判らない

−RUBBER SOLE「ゾンビ・ソング」より−
posted by og5 at 08:32| 秋田 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | サルの歌詞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
with Ajax Amazon

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。