2006年02月27日

美しき公式〜「博士の愛した数式」

博士の愛した数式博士の愛した数式
小川 洋子

新潮社 2005-11-26
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深津絵里演ずる家政婦が新たに任されることになったのは、80分間しか記憶を保つことが出来ない数学博士(寺尾聰)が住む大きな屋敷の離れ。博士の義姉(浅丘ルリ子)は、午前11時から午後7時まで博士の面倒をみること、離れの揉め事は一切母屋には持ち込まないことという条件を彼女に告げる。優れた数学者であった博士が今のような状態になったのは、能を観に行った際の交通事故が原因で、義姉もその事故のせいで右脚に障害を負っていた。博士と家政婦のそれからの毎日は、ある中学の新任数学教師(吉岡秀隆)が生徒達に自己紹介をするという形で語られて行く。彼は家政婦の息子で、当時十歳の彼は博士から「√(ルート)」という名で呼ばれていた・・・。

山田詠美の小説のタイトルを借りて言うならば「僕は数学ができない」のだが、映画「博士の愛した数式」は、そんな僕でさえ愛さずにはいられない愛しい数字であふれている。
友愛数、素数、完全数、虚数、階乗、そしてオイラーの公式。
博士は全ての事柄を数に結び付けて話す。だが、それは決して無味乾燥なものにはならず、深津絵里や「√(ルート)」を幸せな気持ちにさせる。いや、彼等だけではなく、僕もずっとワクワクしながら彼の、そして吉岡秀隆の話を聞いていた。どちらかといえば地味で静かな映画であるが、しかし僕はとにかく最後まで一瞬たりとも退屈することなどなくこの映画を観ていた。「博士の愛した数式」は、とてもユニークな娯楽映画でもあった。

この作品には、「eのπi乗+1=0」という公式(オイラーの公式)が出て来る。そしてこれこそが、本作品の「公式」であると僕は思う。「e」と「π」は共に小数点以下が無限大になる数。「i」は「ルートマイナス1」など本来存在し得ない数を表す「Imaginary Number」と呼ばれる「虚数」のことだそうである。
かつて博士が義姉に宛てた手紙には、自分達はいつまでも「eのπi乗=-1」なのだ(もしくは、でなければならないのだ)としたためられていたはずだ。しかし、ラスト近く、浅丘ルリ子が深津絵里母子にもう博士には近付かないでくれと詰め寄った際、彼は義姉にそっと「eのπi乗+1=0」と書かれたメモを滑らせるのである。

吉岡秀隆が彼の最初の授業を終え教室の窓から外に目をやると、その海岸の波打ち際では父と子がキャッチボールをしている。彼は夢想する。その想像の中では、キャッチボールをしているのは博士と彼で、そばでは母と博士の義姉が静かにそれを見守っている。
あれこそが「eのπi乗+1=0」であり、「0(無)」とはすなわち「完全」を意味しているのではないのか、と僕は思う。何故なら、明らかに彼等だけでは決して答えを導き出すことの出来ない「e」あるいは「π」とは博士と義姉のことであり、(多分)「i」は「√(子供)」のことだからである。そしてもちろん、最後に全てをあるべき答えに導く「1」とは、靴のサイズ「24」の深津絵里であろう(毎日の初対面のその度毎に、博士は彼女に靴のサイズを尋ね、そしてそれが「24」だと知ると、実に潔い数字だと言っては実に嬉しそうに目を細めるのだ)。

この公式は(優れた証明のように)美しい。
そして、クラスの誰かが授業の最後に「√(ルート)」に言った「ありがとう」は、そのまま僕の気持ちでもあったのである。

※秋田FORUSシネマパレで上映中。みなさん、是非観て下さい(ロード・オブ・ドッグタウン」もね!)。
posted by og5 at 20:55| 秋田 ☁| Comment(0) | TrackBack(1) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月26日

誰のために跳ぶのか、誰のために滑るのか

長距離走者の孤独長距離走者の孤独
アラン・シリトー

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トリノ冬季オリンピックがもうじき終わる。
今回も一部選手の言動に対し、国を代表して参加しているのにあの態度は何だとか、いや選手は誰のためでもない自分自身のためにスポーツをやっているだけなのだからそれがナショナリズムと結び付けられるのはおかしいとか、賛否両論様々な意見があった。これが、数年前秋田でも開催されたワールド・ゲームズなんかだとそんな議論の対象にすらならないのかも知れないが、サッカーW杯や今回のようなオリンピックともなるとやはり話は違って来る。これ等はそもそも国同士の戦いなのであり、彼等はどうしたってそこに国の代表として参加しているのである。

スポーツと全体主義的な気分、そしてその体制に反抗する選手と聞くと、僕はどうしてもアラン・シリトーの「長距離走者の孤独」を思い出さずにはいられない。これは、「アングリー・ヤング・メン(怒れる若者達)」と呼ばれた作家達のその代表格でもあったシリトーのおそらく最も有名な作品であり、1962年にはイギリスの映画監督トニー・リチャードソンによって映画化もされている。
とはいえ、「長距離走者の孤独」はオリンピックとは無縁の話である。主人公のスミスは、ちゃんとした訓練を受けたアスリートですらない。彼は(世間的に見れば)コソ泥で捕まったしがないチンピラであり、意に反して感化院に入れられている。ただ、彼は足が速かった。しかも、考えごとをしながらだったらどんなに長い間でも走り続けていられる才能に恵まれており、それが、国会議員や町のお偉方も集まる年に一度催される施設対抗のクロス・カントリー競技大会で優勝者を出すことで自らの名誉欲を満たそうとする院長の思惑と一致したのである。彼には、代表選手として、週に何度か一人だけ、感化院の敷地外へ見張りもなしにトレーニングに出る特権が与えられていた。
彼は走る。彼は走る。その吐く息と足音のリズム、そして労働者階級丸出しの彼の語り口調が、読む者を心地よく物語の中に引き込んで行く。
この短編は、シンプルな三部構成からなっている。第一部が、トレーニングに出たある寒い朝のスミスの独白、第二部が、彼が感化院に入れられる原因となったパン屋の金庫を盗んだ事件の顛末について、そして第三部が、クロス・カントリー大会当日の様子をメインにしたクライマックスである。

さて、僕は久し振りにかび臭いこの本を読んで思った。
スミスがここで言っているのは「誠実」ということ、しかも「自分に対しての誠実」ということに尽きる、と。そして、それがぶれたり揺れを見せたりすることは一切ないのだ。
何という強靭さだろう。そして何というシンプルさだろう。
これを踏まえて冒頭のオリンピックの話に戻れば、僕には言うべきことは一つしかない。
「自分自身に誠実であってくれさえすれば文句はない」である。
つまり、選手達は、もし「国の代表」という立場が嫌で、それが今まで与えられていた一切の特権と引き替えにしてもよいくらい強い気持ちだったなら、一位で到達したゴール寸前にリタイアすることも可能なのだということである。もちろん、代表に選出された時点で辞退することだって、出来る。
大顰蹙を買うだろうが、もしそれが彼等の「自分自身に対する誠実」から出た行動であれば、少なくとも僕はスミスに対するのと全く同じ気持ちで彼等を支持する。
まあ、僕の支持なんかあっても何の役にも立たないだろうし、そもそもオリンピックと感化院のクロス・カントリー大会を一緒にするなと厳しく突っ込まれそうだけどね。
posted by og5 at 16:21| 秋田 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月25日

素直に素晴らしかった「歓びを歌にのせて」

「歓びを歌にのせて」オリジナル・サウンド・トラック「歓びを歌にのせて」オリジナル・サウンド・トラック
サントラ ヘレン・ヒョホルム レイラ・イルバー・ノルゲン

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映画を観ながら何度も大声で叫びたくなった。やはり歌、特にコーラスには力がある。しかしこの映画は、そんな力に多くを頼っているわけでは決してない。
元世界的指揮者ダニエルと、彼が教えることになった田舎の聖歌隊を中心に物語は進んで行くが、その語り口調はとても丁寧で抑制が効いている。正直に白状すれば、鼻血をダラダラと流しながらオーケストラを指揮するダニエルの脳裏をよぎる、まだ幼い彼が一人黄金に輝く畑の中でバイオリンを弾いているシーンから、15歳のソリスト・コンテストの日に母が花束を手に二階の窓際にいる彼に満面の笑みを浮かべて手を振るシーンまでの描き方だけで、僕はもうすっかりこの監督を信頼してしまっていたのだ。

登場人物も実に魅力的である。
何といっても聖歌隊の女性達が素晴らしい。
雑貨屋で働く太陽のような笑顔を持つレナ。最後の最後に彼女はダニエルと愛を確かめ合うけれど、実は最初の出会いから二人は惹かれ合っていたのではないかと僕は思う。だって、彼女の笑顔はダニエルの母親にそっくりではないか。あの笑顔は、何もかも全てを受け入れる絶対的な笑顔である、そんな気がするのである。
また、抑圧的な牧師の妻であるインゲは、聖歌隊でのトレーニングを経て、まるでロシアの大地にいきなり春が訪れるように(「ベルリン・フィルと子どもたち」)解放されていくが、実はマグマのような情熱をその裡にずっと前から秘めていたのであり、歌うことによってそれが(はじけるように)一つひとつ解放されて行く様は最高にチャーミングである。
そして、夫の暴力に堪えながらそれでも歌うことをあきらめずについには自らの誇りを取り戻すガブリエラ。劇中のコンサートで歌われるこの映画の主題歌も彼女が歌っており、あのシーンの素晴らしさも間違いなくこの映画のハイライトの一つであったと思う。

さて、聖歌隊は最後、コーラス・コンテストに出場するために音楽の都オーストリアに向かう。かつての友人達と再会を喜び合うダニエル。その華やかな様を見て自らに引け目を感じその場から立ち去るレナ。そして・・・。
後は実際にこの映画を観た方がいいだろうと思う。
あの、大会場がコーラスに包まれる瞬間を、僕は是非たくさんの人に体験して貰いたいと思うのだ。

※「歓びを歌にのせて」は、3月5日(日)まで、秋田市有楽町のシアタープレイタウンで上映中(というか、金土日しか上映しないので、とにかく是非今すぐ映画館に走って下さい)。
posted by og5 at 17:42| 秋田 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月22日

「カメラ=万年筆≠言葉」

「アワーミュージック」の「アワー」にはどうやら自分は含まれていないようだとこの映画を観た直後に書いた。
ところが、正直に言うと、僕はこの映画のことをあれ以来しょっちゅう考えているのだ。考えて、そしてその度に少し驚いている。僕は何か大きなインチキに引っかかっている、そんな気がしてしょうがないのである(僕がここでインチキと呼んでいるものは、おそらくこの映画に対する世間の評価である)。
自分には荷が勝ち過ぎるものにでも何らかの意味づけをしないではいられない、それこそが僕の俗物根性の顕われではないのかとも思う。しかし、気になるものは(しょうがない)、やはり気になるのだから。

とにかく、最近考えていることを羅列してみよう。
まず、映画自体に意識的に付けられた音楽を除けば、あの映画で最も音楽的だと僕が思うのは「地獄編」であるということ。
音楽的であると同時に最も美しいとも思う。そして嘘がない。ここにあるのは、信じ難いが「調和」である。
逆に、「煉獄編」にあるのは断絶である。
ここで言われていることは、一貫して「言葉は通じない」ということだ。
言葉の集積である本は廃棄される。会話はすれ違う。そして、女子学生オルガは誤解によって殺される。
その知らせを自宅の庭で聞くゴダールは、必要以上に電話のコードをズルズルと長く引きずって歩く。線で繋がっていることが、反対に断絶を際立たせる。彼等は繋がっているが、全く別の場所にいて、別のことを考えている。
庭の花の手入れとオルガの死と、どちらが重いのか果たして一体誰に言えるだろうか。

そして「天国編」には、調和もなければ断絶もない。それどころか、あそこには多分何もないのだとさえ言えるかも知れない。
望遠鏡で遠くを見る少年。ライブハウスの受付係のようにオルガの腕に見えないスタンプを押す水兵。ボール遊びに興じる水着姿の若い男女。オルガに食べかけのリンゴを差し出す男(一度目は拒否され二度目に受け入れられる)。そして、おそらく何も書かれてはいない本を静かに読む青年・・・。
あるものは具象的で、またあるものは抽象的であるあの世界は一体何か。
彼等は一様に何ものかを認証する行為を行っている。そして、そこには何かが完全に欠落している。
それは、「言葉」だ。
前章において、いたる場面ですれ違い、そして廃棄されるべき対象として描かれていた「言葉」は、ここでついにその存在すら失う。
だが、果たして「言葉」さえなければ、僕達は全き相互理解を手に入れることが出来るのだろうか。そして、それは「天国」なのだろうか。

僕は、「言葉」が、あるいはこの映画において「言葉」というものに結び付けられて語られている人間同士の誤解やすれ違いやあらゆるよくないことがなくなってしまったら、この世には「音楽」など存在しなくなるだろうと思っている。そして、ゴダール自身がどのような「音楽」を求めているのか、この映画を観ただけでは僕にはついに感じることが出来なかった(想像は出来る。だが、皮肉なことに、ゴダール自身の「言葉」も我々にはなかなか届かない。彼は、まるで「カメラ=万年筆≠言葉」の実験をしているみたいだ)。
だから、僕は勝手に自分でこう思うしかない。
調子っぱずれだろうが何だろうが知ったことではない。サラエヴォもユダヤ人も関係ない。僕達は好むと好まざるとに関わらず「煉獄」の中で自分達の「音楽」を紡ぎ出すしかないのである、と。
かくして、僕の中では今、ほんの微かながら「アワーミュージック」が流れ始めている。
「アワー」の意味は相変わらず判らないままであるにしても。

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posted by og5 at 23:03| 秋田 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月20日

起て! 駆逐されつつあるキンカクシの下に

最近、会社でストレスがたまっている。
理由ははっきりしている。
今年に入ってから進められている、社内トイレの改修工事のせいだ。
改修工事・・・そう、我が社が入っているビルでは現在、和式大便器から洋式大便器+ウォシュレットへの変更が着々と進行中であり、トイレに籠もっている時と昼飯時間だけが楽しみの(洋式トイレがあまり好きでない)僕にとっては、由々しき大問題なのである。

僕が洋式トイレを嫌いだと思うのには、もちろんそれなりのわけがある。
まず第一に、不潔だということ。
どこの誰の臀部が触れたかも知れない便座に直接腰を掛けるなんて、出来れば避けたい。
まして、ウォシュレットなんてもっての外である(水を通して感染するような気がする)。
それに、あの腰掛け方だと、ズボンを膝上に止めておこうとすると便座の先端にズボンの股の部分の生地が触れてしまうし、それを避けようとすると膝下にズルズルと滑り落ち、これまた不潔な床にくっついてしまうわけで、何とも始末が悪いのだ。

第二に、機能的でないということ。
ズボンをどう処理するのかという前述の問題はここにも深く関係するのだが、それに加え、用を足した後の「例の始末」がしにくいという決定的に性質の悪い根本的欠点が洋式トイレには存在するのである。
一体どうやって拭けばいいというのか!

そして第三に、トイレに入っているという実感が乏しいということだ。
長時間個室に入っていても脚がしびれない。
いつまででも座っていられる。
本だって読み放題。
自分が一体何のためにこの場所にいるのかさえ忘れてしまうことも度々である。
こうなるともはや言いがかりだと思われるかも知れないが、僕はあの脚のしびれる感じが決して嫌いではないのである(実は更にもう一つ、第四の理由もあるのだが、かなり尾籠な話でもあるので、まあここでは言わないでおこうと思う)。

ところで、実はまだ我が社の和式トイレ全てが撤去されてしまったというわけではない。
ビル内にある一つしか個室のない型のトイレは全て洋式に替えられてしまったが、個室が二つ以上あるタイプのトイレにはまだ最低一つは和式が残っている。
僕は、わざわざエレベーターを使って、その馴染みのトイレまでいそいそと出かける。
それにしても、その和式がかなりの高確率で塞がっているというのはどういうわけだろう。
僕は、僕以外にも案外和式ファンが大勢いるのだと睨んでいる。
世の中、お尻をぬるま湯で洗浄したい軟弱者ばかりではないということだろう。
同志は、いつもドアの向こうなので未だその顔を見たことはない。
が、しかし、いつか連帯せねばなるまいと思っている。

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posted by og5 at 22:11| 秋田 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月19日

内山田洋とロキシー・ファイブ?

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内山田洋とクール・ファイブが聴きたかったのである。
というのは、坂上弘の「交通地獄そして卒業」を注文した時に、「このCDを買った人は、こんな商品も買っています」というAMAZONの戦略に負けてついでに購入した「ポマードとグラサン(秘密博士とエンペラーズ)」に彼等の「そして神戸」のカバーが入っていて、それを聴くにつけどうしても本家本元が聴きたくなってしまったからで、この前BSで聴いていっぺんで気に入った八代亜紀の「骨までしびれるブルースを」を注文する際、併せてショッピングカートにぶち込んだのである。

発見が二つあった。
一つは、前川清の声が記憶と大分異なり思いの他軽かったということ。
これは、一曲目の「長崎は今日も雨だった」を聴いてすぐにそう思った。
記憶の中では前川清はもっと力んで歌う人というイメージだったのだが、実はすごくエロエロでテクニシャンであった。
そしてもう一つ。
それは、彼等のコーラスがとても意外なグループのそれととてもよく似ていたということである。
そのグループとは、ロキシー・ミュージックなのだが。

ロキシー・ミュージックは、70年代あだ花のように咲いたロック+アバンギャルドの私生児であった。
というか、まあ当時のブライアン・フェリーはとにかくインチキ臭くて最高にカッコよかったのである。
すっかり洗練された8枚目の「アヴァロン」以降しか知らない人も結構いるであろうし、それどころかこのグループの存在さえ全く知らないという人も今では多いであろうが、僕は、4枚目の「カントリー・ライフ」、あるいはもう少し大目に見て5枚目の「サイレン」あたりまでが彼等のピークだと思っている。
その5枚目まででも、ブライアン・イーノが在籍していた2枚目までとエディ・ジョブソン加入後の3枚目以降という大きな変化がすでにあるのだが、僕が今回クール・ファイブのコーラスを聴いて強く想起したのは実は2枚目の「フォー・ユア・プレジャー」であった。
改めて曲名を見てみると、僕の連想は多分3曲目の「Strictly Confidential」あるいは7曲目「Grey Lagoons」あたりから来ている。
しかし、5曲目、永遠の問題作「In Every Dream Home a Heartache」を前川清が歌っている姿、その「歌」を戯れに想像した僕は、何故かクラクラと心地よい眩暈に襲われたのであった。

フォー・ユア・プレジャーフォー・ユア・プレジャー
ロキシー・ミュージック

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posted by og5 at 22:19| 秋田 ☔ | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月13日

微妙な「THE 有頂天ホテル」

「THE 有頂天ホテル」は、ひとことで言うと「全然面白くなかったということもない映画」であった。
面白かったかと訊かれれば面白くなかったような気もするし、面白くなかったかと訊ねられれば面白かったような気もするのである。

とにかく、リズムの悪い映画だなと思って観ていた。
各エピソードがぎくしゃくと非連続的に連続し、妙に芝居がかった演出と台詞がそれに輪をかける。
先月、WOWOWで「12人の優しい日本人」を観た時には江口洋介のしゃべり方がどうしても古畑任三郎にしか聞こえなくて困ってしまったが、この映画では役所広司の台詞はほとんど「王様のレストラン」の松本幸四郎であったし、川平慈英は一人「オケピ!」の舞台に立っているようにさえ見えた。
笑うべきポイント(であると思われるポイント)で、僕は常に「自分はここで笑ってしまって本当ににいいのだろうか?」と考えていた。

死にたがる演歌歌手「徳川膳武」役の西田敏行が出て来るまでの僕のこの映画に対する評価は、「ぜ〜んぜん駄目!」だった。
だが、何故なのか、その理由は判らないが、西田敏行が現れてから映画は一変する。
突然テンポがよくなり、それまでバラバラだった話の筋が大きなうねりになった。
西田敏行の話し方は、他の役者達とは違っていた。
舞台っぽくない。
それなのに全体が、あっと言う間にビシッと締まったのだ(役の上では彼の首が絞まるのだが)。
多分、西田敏行を見るためだけでも(そして彼のお尻を見るためだけでも)、この映画は観る価値がある。
三谷幸喜はそれでは嬉しくないだろうし、それにしても僕の感想はやはり相変わらず「面白いのか面白くないのかよく判らなかった」なのではあるが。

※佐藤浩市はどういうわけだか渡哲也に似て来たような気がする(あと、角野卓造はカンニング竹山に、松たか子はやっぱりホンコンにその頬骨から口元にかけてがそっくりであった)。
「好きな」三谷幸喜の映画はこの2本。
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唐沢寿明 三谷幸喜 鈴木京香

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2006年02月12日

物質としてのリインカーネーション

ブコウスキーの「くそったれ! 少年時代」を読んでから、僕の頭の中には、所詮人間も動物なのだという気分が充満している。
別にやけっぱちになっているのではない。
人間も動物なら、食物連鎖の中に組み込まれているのであり、そのことに僕は安心しているのだ。

人間同士にも強い者弱い者があるが、しかし強い者もいずれは死ぬ。
いくら権力を持っていても、金持ちでも、若く美しくても、このサークル・ゲームからは逃れられない。
そして土に還る。
あるいは灰になる。
煙になって飛んで行く。
何処へ?
宇宙へ?
いや、人間は死んだら人間ではなくなるが、物質として他の何かに姿を変えて、同じ他の何かと渾然一体となって存在し続けるのだ。

TVで嘘つき占い師が、「あなたは前世では平安時代のお姫様でした」とやっている。
あるいは、「あなたは戦国武将の生まれ変わりです」と。
僕はこれらのことをずっと鼻で笑っていた。
しかし、物質としてならば、これは実に正しいことではないか。
魂の輪廻転生を僕は胡散臭いとしか思わないが、物質としての輪廻転生は確かに「ある」のである。

僕達全員が、平安時代のお姫様や戦国武将や虐げられた農民や旅人を襲う山賊やアインシュタインや阿部定や絶滅したティラノザウルスやムカシトンボや三葉虫やエジプトで神の遣いと崇められたスカラベやただのゴキブリや蚤や奇声を発する極楽鳥や死んだあらゆる人や人でさえないモノ達の生まれ変わりなのである、ということ。
そんなことに、僕は今やっと気付いたのである。

※曲を作ったのはジョニ・ミッチェルです。映画「いちご白書」の主題歌でした。
        ↓
サークル・ゲーム~ベスト・オブサークル・ゲーム~ベスト・オブ
バフィ・セント・メリー

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posted by og5 at 21:22| 秋田 ☁| Comment(0) | TrackBack(1) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

もっと肉体を!

くそったれ!少年時代くそったれ!少年時代
チャールズ ブコウスキー Charles Bukowski 中川 五郎

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チャールズ・ブコウスキーの「くそったれ! 少年時代」を読んだ。
そこには、なあなあの人間関係なんかない。
弱い奴は軽蔑するし、自分より強い奴は憎む。
友達関係は長続きしない。
だって、彼は友達だろうが何だろうが、因縁をつけ、侮辱し、まるで挑みかかるかのように裏切るから。
だが、ごく稀に、そんな殺伐とした殴り合いの中に、互いの傷口から流れる血が混じり合って言葉には出来ない何かが生まれることもある。
表面上の下らない付き合いもご免だが、誰に対しても腹を割ってコアな部分の自分をさらけ出したりぶつけたりすることのない僕には、永遠に手に入れることの出来ないであろう「何か」が。

今日、僕はまだ、最近観たゴダールの「アワーミュージック」のことを考えていた。
だから、スノッブとそのスノッブに見下される「バカ」と、まだ幼いブコウスキーが直面しなければならなかった金持ちと貧乏人、あるいは美しい者と醜い者という対立関係が重なって見えた(念のために言っておくと、僕は別にゴダールをスノッブだと言っているわけではないし、「アワーミュージック」もまたそのような映画では決してない)。
「対立」は果たして悪なのか?
これが、「くそったれ! 少年時代」が僕に突きつけた問題である。

70年代、パンク全盛期に、「金持ちどもが淋しい人生を送っているとしたら、今日の仕事さえない貧乏人は一体どうしたらいいんだ?」とクラッシュのジョー・ストラマーが言ったという話を何かで読んだことがある。
結局彼は労働者階級の人間ではなかったにせよ、この指摘は正しく、そして肉体を持っている。
対立があるなら、きちんと憎むべきである。
憎しみからは何も生まれないとよく人は言うが、僕はそれは嘘だと思う。
むしろ、「口先だけの愛からは何も生まれないのと同じように憎むだけでは何も生み出すことは出来ない」と言うべきではないのか。
だって、憎むことは、生きている人間にとって、痛みを伴うとても大切なものだから。
ああ、やっかいな物を読んでしまった。

もっと肉体を!
ブコウスキーは僕にそう叫ぶ。

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posted by og5 at 21:10| 秋田 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 本・雑誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月07日

「魔法の鏡」の罪と×

ミスリムミスリム
荒井由実

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ユーミンがまだ荒井由実でしかなかった頃の「ミスリム」が僕は大好きである。
大好きであるが、あの中の「魔法の鏡」という曲を聴くたびに、ちょっと待てよという気になる。
問題は、「魔法の鏡を持ってたら あなたのくらし映してみたい♪」という冒頭の歌詞だ。
困ると思いませんか?

それから、この曲を男が歌ってると想像するとすごく怖い。
この男に好かれている女の人は夜も眠れないはずである。

まあとにかく、世の中には知らない方がいいということも結構多いという話である。
posted by og5 at 18:19| 秋田 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月05日

「アワーミュージック」は聴こえたか?

映画でも小説でも音楽でも、それらを受け止める時の僕の心の中には、いつでも相反する二つの気分がある。
それは、ごくあからさまに言ってしまえば、「大衆的に過ぎるのもイヤだけど、インテリぶってるのもごめんだ」である。

作り手は、彼(彼女)の作品を受け取るであろう人々に、どこまで予備知識や教養やセンスを求めるのであろうか。
それは資格か。
では、彼(彼女)の作品は人を選別するのだ。
もしそうだとしたら、なんといけ好かない話だろう。
だからといって、選別に結びつく要素を一切排除し、「あらゆる角度から見て同じように等しく程度の低いバカ」だけのために作品を作らなければならないとしたら、それもまたキツイ話だと思うのではあるが。

僕は、いつも「ポップ」について考える。
「バカ」でも「選民」でも楽しめる「ポップ」について。

心情的には、僕はいくらか「バカ」寄りである。
俗物にはなりたくないのである。
例えば、僕は映画を観る時、出来るだけ予備知識を持たない状態で映画館に行きたいと思う。
パンフレットを買った時も、自分の中でその作品に対する自分なりの気持ちがきちんと出来上がるまでは中身を読みたいとは思わない。
今まで50年近くも生きて来ているので、幸か不幸か完全な「バカ」にはなれないが、それでも出来るだけ白紙に近い場所からスタートしたいとは思っているのだ。
しかし、否応なしに経験は積み重なる。
そうして僕は少しずつ、何に対しても白紙からはほど遠い場所からしか第一歩を踏み出せなくなって行く。
でも、それはしょうがないことだ。

そして、僕はまた「ポップ」について考える。
「バカ」でも「ちょっと知恵のついた元バカ」でも、たっぷり楽しめる「ポップ」について。

「理論」があって、「テクニック」があって、そして「効果」がある。
僕の理想とする「ポップ」には、その全てが備わっている。
もし素晴らしい「理論」があっても、エモーショナルなものを何一つ生み出せないとしたら、その「理論」は立派なくずであろう。
それならば、「理論」など何もないが、熱くて、とにかく相手にエモーショナルな何かが伝わる、そんな「バカ」の方がよっぽどいい。
それは僕が理想とする「ポップ」からはやはり程遠いが、でも少なくとも愛嬌はある。

さて、ゴダールの「アワーミュージック」は、僕の「ポップ」ではなかった。
僕はどうやら、この映画のいう「アワー(我々)」には含まれていないようだ。
ということは、彼等のミュージックと僕のミュージックが違うということで、それが往々にしてこの世に「地獄」を作り出す元になるのだということを、彼等は多分知らないのだろう。

20代の頃に観た「勝手にしやがれ」は「バカ」にも充分に楽しめたのに、「アワーミュージック」に僕は、「相手に伝える気もないメッセージを一方的に言い放つだけの学生の作った映画」しか感じることが出来なかった。
相手に判りやすく「話す」ことは決して恥ずかしいことではないし、「前衛」や「表現方法の追求」と矛盾することでも決してあるまいと思うのだが、ゴダールの頭の中には多分そんなことを考える回路さえないのであろう。
75歳を過ぎてそのようであるということは、ある意味驚くべきことで、また素晴らしいことでもあるとは思う。
隠喩とコラージュと切り返し。
それは一体何のために存在するのだろうと、僕はただ首を傾げるしかない。
何故といって、僕にはゴダールのいう「私達の音楽」が何なのか、ちっとも判らなかったからである。

※また観たくなってしまったが、今観ると退屈なのだろうか。
          ↓
勝手にしやがれ勝手にしやがれ
ジャン・ポール・ベルモンド ジーン・セバーグ ダニエル・ブーランジェ

アミューズソフトエンタテインメント 1999-05-27
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posted by og5 at 22:13| 秋田 ☁| Comment(2) | TrackBack(2) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月03日

パーツが見えない!〜「マリ&フィフィの虐殺ソングブック」

マリ&フィフィの虐殺ソングブックマリ&フィフィの虐殺ソングブック
中原 昌也

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「となり町戦争」や「野ブタ。をプロデュース」、そして「グロテスク」と、最近読んだ小説の終わり方にどれもこれも納得のいかない何かを感じていた僕は、中原昌也の「マリ&フィフィの虐殺ソングブック」を読んで引っくり返った。
ここには、物語をどう閉じるかという問題は存在しない。
物語をどう始めるのか、どう展開するのか、登場人物の設定をどうするのか、彼等の人間関係は一体どうなっているのか、という通常これまで一般的とされて来た「小説」という表現方法に備わっていたはずの形は、ものの見事にその気配を消している。
いや、そればかりかここでは、そもそも何を語りたいがためにその話を書こうと思い立ったのかということさえ無意味に思えるほどだ。
言葉を変えれば、それら「小説」を構成しているはずの各「部品」の存在を、中原昌也の小説において我々は一切意識する必要がないということだ。
目から鱗が落ちるではないか。
僕は、「小説」を読む時に、実はその「部品」を見ていただけなのかも知れないのである。

中原昌也は(少なくとも「マリ&フィフィの虐殺ソングブック」は)、僕に「部品」を晒さない。
結果、どういうことが起こるのか。
僕は、「マリ&フィフィの虐殺ソングブック」をダイレクトに、ただ受け止めるのみだ。
「マリ&フィフィの虐殺ソングブック」は、僕の脳味噌を直撃する。
僕の脳味噌の、「笑う」や「怒る」や「悲しむ」や「イラつく」とタグのぶら下がった神経の一本一本を、悪魔が、ハープを弾くように狙いを定めて直接はじくのである(その爪の伸びたやせ細った長い指で!)。
驚くべきは、はじかれる神経の種類が短い一篇の小説の中でも無差別的であり、かつ何故そんな神経が爪弾かれたのかという理由が全く分析出来ないことである。
中原昌也は本当に「部品」を持っていないのか、それとも巧妙にそれらを組み立て、そして傷のない水晶だけを我々の目の前に差し出して見せているのか、それは僕にはまだ判らない。
しかし、「部品」を持たずに「マリ&フィフィの虐殺ソングブック」を書いたとすれば驚嘆する以外ないし、反対にこれがテクニックの発露だとしても、やはりそれはそれで別の意味でまた驚嘆するしかないのである。

見えない!
見えない!
パーツが見えない!
こんなにツギハギだらけなのに!
posted by og5 at 23:31| 秋田 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 本・雑誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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