2006年03月31日

言葉は残酷か?

朝日新聞社社長の息子が大麻不法所持で逮捕されたとのこと。これに関連付けて、朝日の最近のコマーシャルに対する揶揄が、あちらこちらで展開されているようである。
そのコマーシャルは言う。
「言葉は感情的で、残酷で、ときに無力だ。それでも私たちは信じている、言葉のチカラを。ジャーナリスト宣言。朝日新聞」・・・。

僕は、息子が大麻取締法違反で逮捕された朝日新聞社社長に何かを言うつもりはない。だが、改めてこのキャッチ・コピーを見て何だか心配になったのである。
だって、言葉自体は、感情的でも、残酷でも、無力でもないから。感情的であり、残酷であり、無力なのは、(ついでに言えば無責任なのは)、常にその言葉を発する人間だから。
人間でしかないから。
陳腐な例えで申し訳ないが、悪意に満ちた「幸運を祈ってます」という言葉もあれば、愛情にあふれた「死ね!」もまたこの世にはあるのである。
言葉に責任を押し付けるべきではない。
posted by og5 at 21:11| 秋田 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月27日

ノムさんは愛されているのか?

もう先週のことではあるが、WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)が終わった。
何と王ジャパンが世界一である。
韓国に二度負けているとか、ほとんどおまけのようにしてトーナメントに進出したとか、いろいろ疑問を呈する声もあるようだが、ルールがああなんだからしょうがないだろうと思う。
ここ何年か、パ・リーグの理不尽なプレーオフ制度のせいで、一番勝率が高いのに日本シリーズに出ることが出来なかった王監督が、同じようなルールの下で世界一になったというのも何だか皮肉な話ではある。

さて、僕は普段日本のプロ野球というものをほとんど観ないのだが、そんな僕には、今、不思議で不思議でしょうがないことが一つある。それは、何故楽天イーグルス監督の野村克也のことを、新聞でもテレビでも何のためらいもなく「ノムさん」と呼んでいるのだろうかということである。
かつて長嶋茂雄は「チョーさん」と呼ばれた。王貞治も「ワンちゃん」と呼ばれていた。金田なんか「カネやん」である。しかし、今彼等のことをどれくらいのマスメディアがそのように呼んでいるだろうか。
例えば、かつてライバルだった選手が、当時の対戦の思い出を語る時などにはそんな愛称も出るだろう。週刊誌の対談などでも、そのような場面を時たま見かけることがある。しかし、一般のテレビ番組やスポーツ新聞ではない一般紙上では、何故か「ノムさん」率だけが異常に高いような気がするのだ。

みんなそんなに野村が好きなのか?
いや、もちろんファンは好きでもいいのだが、何故新聞までがわざわざあの男に親しみを込めるのか、それが僕には判らないのである。
posted by og5 at 23:25| 秋田 🌁| Comment(5) | TrackBack(2) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月26日

サクラの誘惑

さくらさくら
ケツメイシ Naoki-t YANAGIMAN

トイズファクトリー 2005-02-16
売り上げランキング : 9,438

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

森山直太朗/さくら(独唱)、河口恭吾/桜、コブクロ/桜、ケツメイシ/さくら・・・。
日本人はやっぱり桜が大好きだ。
尾ひれがついてもいいなら、宇多田ヒカルにも「SAKURAドロップス」という曲があるし、ちょっと古いけれど福山雅治の「桜坂」も大ヒットした。

もうすぐ我が秋田にも桜の季節がやって来る。
最近自分の中が空っぽで、歌詞を書く気が全然起こらないが、日本人の桜好きにあやかってタイトルだけ一つ考えてみた。
「馬肉(SAKURA)」というのだが、あまり流行りそうにないな。

プレイモービル 農家 馬の親子 3114プレイモービル 農家 馬の親子 3114

アガツマ 2002-05-25
売り上げランキング : 12,070

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

posted by og5 at 15:15| 秋田 ☔| Comment(3) | TrackBack(2) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「蟻面罵」という脅迫

「蟻面罵ッ、バンッ!!(ピアノの音)」という綾戸智絵のコマーシャルを見る度に気分が悪くなる。
綾戸智絵は凄まじい人生を送って来たという。それらを乗り越え、彼女はなお(というべきか、だからこそというべきか)パワフルで常に前向きである。
彼女は「最もチケットが買えない歌手」という異名を持つ。彼女は彼女のパフォーマンスをこの上なくアグレッシブに(しかも明るく楽しく)表現し、彼女のファンはそれを熱く受け入れる。これはとても幸せなことである。何の不都合があろうか。
だが僕は、彼女のおしゃべりや演奏がテレビ画面に映し出されると堪らず耳をふさぎたくなってしまう。これもまた事実なのである。
綾戸智絵の一体何が、僕をこんなにウンザリさせるのだろう。
それはもしかしたら、僕が忌避し、それで何とか毎日のバランスを保ち得ている「一生懸命」や「命懸け」を、彼女があまりにもあからさまにむき出しにしているからかも知れない。
綾戸智絵は、僕を脅迫するのである。

※僕は最初この人のことを「アヤとチエ」というデュエットだと思っていた。
      ↓
マイ・ライフマイ・ライフ
綾戸 智絵

幻冬舎 2004-06
売り上げランキング : 36,217

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

posted by og5 at 13:30| 秋田 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

可哀想な犬

野良犬は可哀想である。
犬は愛情に飢えている。一人では生きていけない。そんな犬が飼い主を持たず、町をさ迷い歩いているなど、あまりにも憐れで正視に堪えない。
確かに、今では野良犬を見かけることなど滅多になくなってしまった。今たまに見かける野良犬は、首輪をつけリードを引き摺っていたりする。だから、あれは本当は野良犬ではなくて、迷い犬と呼ぶべきなのかも知れない。そして、迷い犬は野良犬よりもっと可哀想である。
野良犬は、もしかしたら生まれた時から野良犬だったかも知れない。しかし、迷い犬は確実に人の愛情を知っている。迷い犬は、失ってしまった愛の心地良さを知っている。耳の後ろを撫でる飼い主の手の撫で癖を知っている。迷い犬は、失ってしまった犬なのだ。

飼い犬もまた可哀想である。
愛されたことのない飼い犬が犬小屋から顔を出し、虚ろな目で青く晴れた空をぼんやりと見ている。散歩になど、もうどれくらい連れて行ってもらってないだろう。彼は飼われた当初から愛されていなかったかも知れないし、またかつては愛されていたが飽きられてしまっただけなのかも知れない。人間の何分の一しか生きられないというのに、何と遠い記憶だろう。
彼等には、少なくとも生だけは保証されている。だが、人にとって愛のない食事が餌であるならば、犬にとって愛のない餌は一体何だろう。愛されたことのない飼い犬は、この世に名前さえない悲しいモノを食べている。

犬は可哀想である。
そして、それは実は、ご主人様に深く愛されている飼い犬にしてもまた同様だ。
人に飼われ、その愛情を一身に集めている犬は、まるで麻薬中毒患者のようではないか。彼等は、愛を下さい愛を下さいと上目遣いに訴えかける。ハアハアと荒い息をして、涎の垂れる口からピンクの舌をダラリとぶら下げて、何でもしますから、お願いですから愛を下さいと恨めしそうに哀願する。
何故そんなに卑屈に愛を求めるのか。
彼等が哀しいのは、多分、愛を求めてやまないからである。愛を求めそれを手中に収めてももっと欲しい。また欲しい。手が届かないとなれば尚更だ。
橋の上から、川面に映る自らの姿を見て、その口にくわえた肉欲しさにワンと吠えて元も子も失くしてしまう。
それが、犬なのだ。

※ああ、可哀想で可哀想で堪らない。
      ↓
名犬ラッシー名犬ラッシー
トム・ギアリー ダニエル・ペトリ ヘレン・スレイター

パラマウント・ホーム・エンタテインメント・ジャパン 2005-10-21
売り上げランキング :

Amazonで詳しく見る
by G-Tools
盲導犬クイールの一生盲導犬クイールの一生
石黒 謙吾 秋元 良平

文藝春秋 2005-07-08
売り上げランキング : 29,536

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

posted by og5 at 12:40| 秋田 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月21日

一番好きな天気

一昨昨日はとても気持ちのいい曇り空だった。
空一面が鉛色に覆われて、その明るいような薄暗いような色あいが、町並みを居心地のいい程よい狭さに包み込んでいた。
僕は久し振りに荒井由実の「ひこうき雲」など取り出して、「曇り空」のまだ若い彼女の声を聴いた。
一昨日は明け方から強い雨で、予定していた今シーズン初めてのスノーボードを諦めたのだが、昼頃からは雲の切れ目から時折青空がのぞく天気となり、それどころか気温が下がってそのうち粉雪さえ舞い始めた。
そして昨日は一日中強い風の吹く月曜日。
仕事で本荘方面へ向かう途中車の窓から見た日本海は、まるで浮世絵の海のように荒れ、白い波頭を岸へ岸へと絶え間なく送り続けていた。

僕の一番好きな天気は何だろう。
人はからりと晴れ上がった青空を大好きだと言うかも知れないし、僕もそんな天気を決して嫌いだとは思わないが、しかし一番好きかと問われればやはり違うと答えるしかない。
曇り空の運動会は美しい。
台風や吹雪の強風の中歩いていると、時に笑い出したくなるのは何故だろう。
雨の音を聞きながら目覚める休日の心地よさは、どんな音楽よりも僕を透明にしてくれる。
もちろん、地上の何もかにもの輪郭を融かし、蝉の声さえ自分の一部になってしまったかのような錯覚を起こさせる、じりじりとした夏の暑さと太陽の熱も僕を幸福にする。

ここ数日、僕は自分の一番好きな天気について考えている。
もしかしたら、と僕は思った。
秋の終わり頃、雲の多い青空と冷たい空気、枯葉を巻き上げ時折ビュウと笛を鳴らしながら吹く強い風、そして突然バラバラと降り出しまたすぐに止んでしまう大粒の雨、湿った枯れ草や土の匂い、雲の向こうで光る太陽、揺れてさざめく水溜り・・・。
こんな季節のこんな天気を、僕は一番好きなのかも知れない。
何の合理的な理由もなく、ただそんな風に感じる。
それだけのことなのだが。
posted by og5 at 10:50| 秋田 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月20日

楽しいバス通学

小学校3年の頃からバス通学をしていた。いわゆる学区外児童である。僕は登校拒否気味の子供であったから、決してその小学校が好きだったわけではないのだが、引っ越し先の小学校でまた一からやり直さなくてはならない恐怖よりはまだましだった。僕が学校を大好きだと思うようになるのは、もっと後になってからのことである。

一家が引っ越したのは、親戚の畑の一角を無理矢理整地した公道に面していない砂地だった。おそらく父の仕事の失敗のせいで手放さなくてはならなくなった前の家から新居に越す前に、僕達は数ヵ月の間普通の家の二階を間借りしそこに一家七人で寝起きしていたから、今にして思えば狭くて雑な造りであったとはいえ、その当初はこの新しい我が家は僕にとってとても嬉しくまた誇らしいものだった。
この家の間取りは、僕と両親のための四畳半と二人の姉のための(やはり)四畳半、そして祖父母が眠る床の間のある六畳間の他には、元々は仕切るはずだったのがそれではあまりにも狭くて使い物にならないことに完成間近になってやっと気付いて結局その仕切り戸を取っ払うことにした居間と台所がどっちつかずにつながっている板の間があるだけであった。居間の天井には大工の足跡がくっきりとついていて、それは今でもまだちゃんと残っている。父は、嘘か本当か判らないが、この家は俺が設計したのだ、といつも自慢げに話していた。
僕は、そんな家からバスに乗って小学校に通った。

バス通学は楽しかった。
まず、定期を持っているということが嬉しかった。
もちろん、定期を買うのも僕自身である。営業所の窓口で申し込み用紙に必要事項を書き込んで渡す。それと引き替えに、市のマークがあしらわれた特殊な紙に有効期限日がスタンプで押された真新しい定期券を僕は受け取るのである。こんなことをやってる小学生は他にはいないのだと思うと、僕の心は高揚した。

当時のバスはまだワンマンではなくて、車掌が必ず乗っていたものである。その頃、車掌は女性の職業だった。いつも同じ路線に乗っていれば馴染みの車掌も出来る。もちろん、僕が勝手に馴染んでいるだけなのであるが、大きながま口様の革の鞄から、切符やハサミを取り出しててきぱきと仕事をする彼女達の中の数名に、僕は多分ほのかな憧れを抱いていた。
バス中央の乗車口後方にはパイプで区切られた車掌専用の一角があって、そのすぐ後ろの席が僕の特等席だった。座席とブースを隔てるパイプがちょうど車掌のお尻の部分に当たって、彼女達がそこに寄りかかると、僕の目の前には素敵な大人の世界が広がるのであった。
運転席のすぐ後ろも僕のお気に入りの場所であった。昔のバスは、二人一組あるいは一人掛けの前向きの座席ではなく、長椅子が窓に沿って全てバス中央に向き合う形で設置されていた。そして、運転席の脇には鉄人28号の胴体のようなタンクがあって、「ここに足を載せないで下さい」と赤のペンキで注意書きがしてあった。僕はあれを最高にカッコイイと思っていたのである。
僕は自分の小学校の最寄の停留所が近付くと、サッと手を挙げて車掌に意を告げる。
「次降ります!」
僕はバスが大好きだった。

ところで、いつぐらいからバスはワンマンバスに変わってしまったのだろう。確かその前に若い男が車掌だった時代もあったように思うが、女性との混在だったかも知れない。いずれにせよ、時代はいつの間にかワンマンの時代となり、車掌の甘い声は録音テープと運転手のだみ声に変わった。整理券はしょっちゅう詰まって出なくなった。運転手はイラつき機械をバンバン叩いた。テープと実際の停留所がずれて訳が判らなくなったり、そのテープ自体が絡まったり伸びたりして間の抜けた声を発した後とうとう切れてしまい、運転手はついには全てを自分一人で賄わなければならなくなったのだ。
自動ドアを開け、客を乗せ、整理券が出ないことをわび、ドアを閉め、運転し、次の停留所を告げ、料金表示の切り替えをし、客の両替に対応し、対向車線の仲間に片手を挙げて挨拶し、鳴るブザーに「次停まります」といい、停車し、自動ドアを開け、料金を確認し、また次の停留所に向かう。
何だか気の毒で、それにコミュニケーションの手段はボタンを押して鳴らすブザーになってしまったので、僕達はもう意気揚々と手を挙げて「次降ります!」と宣言することは出来なくなってしまった。
そして、その頃にはもう僕は、地元の中学校に余所者として進学していたのである。

バス・ストップ/女の意地バス・ストップ/女の意地
平浩二 千家和也 葵まさひこ

テイチクエンタテインメント 2005-12-07
売り上げランキング :

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

posted by og5 at 23:03| 秋田 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 記憶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月19日

文珍を聴いて泣く〜林家正蔵襲名披露公演

土曜日、珍しく落語会を聴きに行った。これは、九代林家正蔵を襲名した林家こぶ平が(というか、つまり林家正蔵が)昨年に続き来秋したもので、チケットには「凱旋再公演」と謳われていた。他の出演者は、桂文珍、春風亭小朝、林家いっ平、そして曲芸に翁家勝丸という顔ぶれである。

僕は、実はそれ程熱心な落語ファンではない。演芸は大好きだが、どちらかと言えば、落語よりも漫才の方が好きなのだ。秋田に住んでいるという理由もあって、僕が寄席に落語を聴きに行ったのは過去僅かに二回だけである。今回は「寄席」ではないが、僕が本格的に生で落語を体験するのは、だからこれが三回目ということになる。
正蔵の浅草練歩きの大盛況はテレビで観て知っていた。寄席で何十日も顔見世興行(というのかな?)をやったというのも知っていたが、しかし、襲名披露というものがこれ程長きに渡って行われるものだとは知らなかった。口上で、(こんなにお客が入るなら)もう十年くらい襲名披露をやろうかなと言っていた小朝の言葉も、あながち冗談ではないかも知れないなどと思ってしまうくらいのんびりした話で、何だかこの「襲名披露ツアー」自体が落語の中に出て来るエピソードのようであり微笑ましい。

演目は、文珍が「新篇 能狂言 商社殺油地獄(しょうしゃごろしあぶらのじごく)」、正蔵が「一文笛」、小朝といっ平は調べてみたがちょっと判らなかった。
ネット情報によれば、「一文笛」は元々上方の噺で桂米朝の持ちネタであるとのこと。正蔵自ら頼み込んで米朝に稽古をつけて貰いに行ったというエピソードもこの日語られていたので、ちょうどその頃に教わって覚えた噺の一つなのかも知れない。
さて、初めて正蔵の落語を聴いた感想は、何だかあっさりと終わってしまった、であった。元の噺がそもそもどういうものなのかも知らないので、これはあくまでも素人の一印象でしかないのだが、何だか本来はもっと長い噺を急いで途中で切ってしまったような、そんな気がしたのである。いっ平、小朝がそれぞれ20分、文珍が35分あまりの高座だったのに対し、正蔵の高座はちょうど30分程であったから、比べてそれ程短いということもないとは思うのだが・・・。

驚いたのは、文珍であった。
とにかく話が上手い。引き込まれる。そして面白い。この「新篇 能狂言 商社殺油地獄(しょうしゃごろしあぶらのじごく)」は、アラブ駐在の商社マンが、王位を継ぐことになった日本通の王子のために自分達で狂言を演じることになるという筋で、何とその狂言の題が「天才バカボン」であるというとんでもない話なのだが、「や〜な〜ぎ〜の〜し〜た〜に〜ね〜こ〜が〜い〜る〜」「だ〜か〜ら〜ね〜こ〜や〜な〜ぎ〜」とテンポよく繰り広げられるナンセンスな世界にもう大笑いである。
僕はこれを聴きながら三度泣いた。しかし、それは笑い過ぎて腹の皮がよじれて苦しくて泣いたのではない。この噺の中に人情噺的な部分があり、それでほろりとして泣いたのでも、もちろんない。僕は笑っていた。だが、同時に何かに感動して、あらがえず、目尻の辺りがじわじわと刺激されて、そして不思議な涙を流していたのである。
あれは一体何であろうか。
「可笑しくて涙が出る」とは、本来もしかしたらこういうことを指して言うのかも知れない、と僕の目からはまた人生何百枚目かの鱗が落ちるのであった。

桂文珍(5)「老婆の休日」/「ヘイ!マスター」-「朝日名人会」ライヴシリーズ7桂文珍(5)「老婆の休日」/「ヘイ!マスター」-「朝日名人会」ライヴシリーズ7
桂文珍

ソニーミュージックエンタテインメント 2001-05-23
売り上げランキング : 1,822

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

posted by og5 at 21:11| 秋田 ☁| Comment(2) | TrackBack(1) | 芸術 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月14日

僕等はなかよし

R0010224.JPG

わ、ボケボケ写真!
チビ太だけなんか縮尺が違うな。
posted by og5 at 22:29| 秋田 ☁| Comment(2) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

うちのフェリックス

R0010218.JPG

ああ、こんなふうに笑いたいな!
posted by og5 at 22:15| 秋田 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月12日

フランケン・ラブ

顔の縫い目が心の負い目
フランケン・ラブ
フランケン・ラブ
そっと優しくキスして
君を踏み潰したい

二人でいれば悲しみは1/2
二人でいれば喜びは2倍

誰もそんなこと信じちゃいないのに
フランケン・ラブ
フランケン・ラブ
本当はそんなこと信じちゃいないのに
フランケン・ラブ
フランケン・ラブ

本当のことを知るのは辛いね
嘘をつくより電話するより

花びらのように可愛くて
湖に投げただけさ
浮かぶと思った微笑んで
それなのに沈んでった

二人でいれば喜びは1/2
二人でいれば悲しみは2倍

誰もそんなこと信じたくないのに
フランケン・ラブ
フランケン・ラブ
本当はそんなこと信じたくないのに
フランケン・ラブ
フランケン・ラブ

そっと優しくキスして
君を踏み潰したい

−RUBBER SOLE「フランケン・ラブ」より−
posted by og5 at 16:23| 秋田 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | サルの歌詞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

第3の呪い〜「インサイド・ディープ・スロート」

ドキュメンタリー映画「インサイド・ディープ・スロート」を大変興味深く観た。映像のつなぎ方や音楽がかっこよく、当時の空気感もとてもスタイリッシュだった。
リアルタイムではただ漠然としてしか捉えていなかった「ディープ・スロート」という一ポルノ作品が、何故これ程のスキャンダルを惹き起こし、また社会やカルチャー、そして人の意識に様々な影響を与えることになったのかを初めて知った。黒人の公民権運動が思ったより昔のことではなかったということにショックを受けた時と同じように、僕にはこれ等の騒動が70年代のアメリカで起こったことなのだということが驚きだった。

「ディープ・スロート」は、「パンドラの箱」を三つ開けた。一つ目は(アメリカ)社会にとっての、二つ目はリンダ・ラヴレイスやハリー・リームズ等出演者達とジェラルド・ダミアーノ監督を初めとする制作スタッフ及びその関係者達にとっての、そしてもう一つ最後がこの映画を観た観客達にとっての「パンドラの箱」である。
最初の二つがごくスタンダードな意味における「パンドラの箱」であるのに対し、最後の一つはかなり性格を異にしている。もちろん、この3個の箱は微妙に重なり合い、ある時は同じ一つの黒い口を開けていたり、またある時は一つの口から湧き出たカオスがそのまま隣りの口に吸い込まれて行ったりもするわけだが、観客達の箱だけは、常に彼等の完全なるコントロール下におかれている。つまり、開け閉めが自由なのである。

人間は、生まれて、食べて、排泄して、子孫を残して、そして死ぬ。この逃れることの出来ない運命の中にはタブーがある。それは、明け透けに言ってしまえば、「汚いことは誰かにやらせておけばいい」であり、戦争や死刑執行なども当然この中に含まれるだろう。これ等「汚い仕事」を誰かに任せ、彼等を「汚れた者」として意識の、そして社会の外へ追いやることで、僕達は自分の中の「動物」を無きものとして生きている。
「ディープ・スロート」の観客達は、映画によって開けられた「パンドラの箱」の蓋を閉めて、また彼等の日常生活に戻って行く。時々は、また開けてみようと思うこともあるかも知れない。だが、彼等自らがリンダ・ラヴレイスやハリー・リームズになるという可能性は、まず最初の段階で完全に否定されている。そして、その欺瞞は、多分どうしようもなく健康なことなのだ。

「インサイド・ディープ・スロート」は、文句無くカッコイイ映画である。70年代がそうであったように、ある種の高揚感を観る者に与える。しかし、同時に苦い塊りをその裡に置き去りにして行く。僕の裡にもある、このどうにも扱いに困る苦い石は、奇妙なことにやはり70年代に僕が置き去りにして来たものによく似ている。人は、矛盾なしでは生きられない。
映画のラストで、ジェラルド・ダミアーノ監督の娘が火のダンスを踊る。あの突拍子のなさと炎が眼に焼きついて離れない。
「ディープ・スロート」は、おそらく永遠に生き続ける「呪い」の映画である。

※「インサイド・ディープ・スロート」公式サイト
posted by og5 at 16:14| 秋田 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月11日

徒然なるままに

津島佑子の「ナラ・レポート」を読んでいる間中、僕はまるで音楽を聴いているような心持であった。物語の中にも実際「歌」が出て来るけれど、そんなことではなくて、何だか全体が幾重にも重なり合いもつれ合った「音」に感じられたのである。そして、大仏について「大昔のブッダと呼ばれた外国人を記念して作られた」と語られた時、僕の胸は興奮のためにドキドキと大きく高鳴ったのであった。

昨日の秋田魁新報夕刊には笑わせられた。石川好の「眼」と「芽」というコラムのせいである。今回のお題は「社長ごっこと党首ごっこ」。メール問題に右往左往する民主党とライブドアの旧経営陣を「人間が未熟であったからだ」と断じている。まあそれはいい。それはいいのだが、同コラムにおいて石川が去年、秋田の元気のなさを嘆いてみせるその引合に「山形国際ムービーフェスティバル」を持ち出し、その審査委員長であった(当時の)ライブドア代表取締役社長堀江貴文についても「好意を持って」紹介していたような気がする僕は、「この人は本当に・・・」とただただ呆れてしまったのである。

黒木瞳は美人ということになっている。僕もそう思っていたし、また好きでもあった。しかし、最近彼女を見ているとどうにも居心地が悪くてしょうがなくなってしまう。彼女は一体何が目的なのだろうか。何が目的であれら一連のコマーシャルに出ているのだろうか。黒木瞳の出演するCMは何故かみな似たテイストを持っている。彼女はきっと自分が大好きだ。何だかその度合いがちょっと異常な気がして、多分僕にはグロテスクに見えてしまうのだろうと思う。

小屋の脇にあるイチジクの木が一月からの大雪に埋もれていた。以前は太かった木が病気にやられて根元から切られ、その切り株からそれでも芽が出てやがて枝となり去年は何個かの実をつけるまでになっていたのに、その2メートルほどの枝が今年は固いザラメ雪に押しつぶされて青い新芽が痛々しく斜めに突き出ていた。「折れているかも知れないね」と妻とも話していた。諦めていたと言ってもいい。しかし、今日気まぐれを起こしてスコップで周囲の雪を除けてみると、何と90度以上グニャリと幹を曲げながらも、このイチジクは決して折れてはいなかった。確かに、細い枝には千切れかかってブラブラしている箇所もある。しかし、それでも芽はしっかりと膨らんで、早い春の陽を静かに受け止めていた。

ナラ・レポートナラ・レポート
津島 佑子

文藝春秋 2004-09-25
売り上げランキング : 114,313

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

posted by og5 at 17:39| 秋田 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月10日

人間ドックにて神の啓示を受ける

ミッション:インポッシブルミッション:インポッシブル
トム・クルーズ ブライアン・デ・パルマ ジョン・ボイト

パラマウント・ホーム・エンタテインメント・ジャパン 2005-10-21
売り上げランキング :

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

今週の月曜火曜と、一泊で入院ドックに行って来た。
入院ドックというのは退屈なものである。検査と検査の間の待ち時間が非常に長い。これがもう5〜6回目のドックとなる僕は、もちろん退屈しないよう読みかけの本をちゃんと持参していたが、胃の内視鏡検査実施時に使用したゼリー状の麻酔薬のせいでぼうっとしてしまい、その時はたまたまテレビのワイドショーをぼんやりと見ていたのである。

テレビにはトム・クルーズが映っていて、M:Iシリーズ最新作のプロモーションでインタビューを受けていた。新しい恋人とのイチャイチャ振りや新興宗教に入信しているとかいないとかいう私生活ばかりクローズアップされ、最近本業以外で随分不必要に株を下げている観のある彼だが、世界的なスターでありいい男であることには何ら変わりはない(いつだったか、新聞の記事でシャーリー・マクレーンがそんな彼を批判して、役者はもっと演技だけに集中すべきだとか何とか言っているのを見た時は、彼女自身の「アウト・オン・ア・リム」絡みの一連のあれやこれやを思い出して、ちゃんちゃら可笑しい気分にさせられた。女優としての彼女はもちろん好きだし尊敬もしているが)。

さて、やや朦朧とした頭で、それにしても「M:I-2」は下らん映画だったなあと考えながら、結局大好きな一作目の雰囲気など微塵もなさそうな三作目のダイジェストを途中にはさみつつ進行するトム・クルーズのインタビューを見ていた僕に、突然、その「いい男」にある人物がそっくりであるという啓示が降りて来た。
それは、松尾伴内である。

しかし、いくら何でもトム・クルーズと松尾伴内とは。
僕も初めはその啓示を疑った。麻酔のせいで幻覚でも視たのではないか。眼底写真を撮った影響がまだ残っているのではないか。だが、爽やかに談笑するトム・クルーズは、どうしてもやっぱり松尾伴内によく似ているのであった。笑う口元、目尻のシワの按配、顎からエラにかけての骨格。そうなのだ。松尾伴内は、工作の下手な神様がトム・クルーズと全く同じ材料を使って適当に創ったように、トム・クルーズにそっくりなのである。

誰にも判って貰えないかも知れない。
でも伝えたい。
伝えてどうする、と訊ねられても困るけれどね。

※あと最近再認識したよく似ている芸能人。
三田佳子
 ↓
玉置浩二
 ↓
桂三枝

それから、
梨花(笑ってるとこ)
 ↓
小野伸二(芸能人じゃないけど、笑ってるとこ)
 ↓
駱駝(笑わないし、そもそも人間でもないけど
posted by og5 at 00:02| 秋田 🌁| Comment(2) | TrackBack(0) | TV・芸能人 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月04日

ブームとしての「イナバウアー」はいつまでもつか

トリノ冬季オリンピックが閉幕して、早や一週間が過ぎようとしている。
結局今回のオリンピックで日本は、女子フィギュアスケート荒川静香の金メダル一個しか獲得することができなかったわけだが、巷では今イナバウアーとトゥーランドットが大人気であるらしい。イナバウアーは、今や荒川選手の代名詞ともなりつつあるフィギュアスケートの技の一つで、何でもそれだけでは点数には結びつかないとか。また、この技は本来荒川選手がやるように大きく背を反らす技ではなく、滑る際の足の角度がポイントとなるのだという。何故「技」なのに点にならないのか、背を反らした段階でこれはじゃあもう何か他の技ではないのか等素人の疑問は尽きないが、素人なのでそれをまた突き詰めて解明してやろうとも特に思わないのであった。

さて、日本人は飽き易いとはよく言われることである。実際にそういう面もあるし、また当然そうではない面もある。しかし、今回の五輪に関して、女子フィギュアと並んで何故か頻繁にマスメディアに取り上げられている女子カーリングの変な持ち上げられ方を見ていると、僕は長野だったかどこだったかの冬季オリンピックの時のカーリング・ブーム(そんなものが本当にあったとしたらの話ではあるが)を思い出さずにはいられない。
あの時も確かカーリングは今と全く同じ扱いであった。すなわち、今までほとんど誰も知らなかった、簡単そうに見えるけれども実は奥が深い、これを機会にファンが増えそうです云々。
だが、その結果は今回のトリノでもほぼ同様のことが語られていることで察しがつこうというもので、多分4年後もまた同じ扱い(あるいはそれ以下の評価)を受けることになるのであろう。

とはいえ、荒川選手のイナバウアーは、きっとずっと語り継がれていくのだろう。プッチーニの「トゥーランドット」など、作曲されてから既に八十年以上の年月が経っている。しかし、今回のブームとしての「イナバウアー」や「トゥーランドット」は、一体いつまでもつのだろうか、という話だ。
マスコミは何でもかんでも「ブーム」にしようとするが、何もそんなにあらゆるものを無理して使い捨てにしなくてもいいのではないか、と思う。彼等は、一体何に駆り立てられて、手当たり次第に全てのものの価値を貶めようと努力しているのだろうか。

「カマドウマー」という新技を考えた。リンクの薄暗いところから、背中を丸めて、いきなり信じられないくらいの高さでジャンプするという技なのだが。誰もやらないだろうな。

白い恋人たち白い恋人たち
サントラ ニコール・クロワジール ピエール・バルー

キングレコード 1993-11-26
売り上げランキング : 216,788

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

posted by og5 at 15:22| 秋田 🌁| Comment(0) | TrackBack(2) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
with Ajax Amazon

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。