2006年04月30日

「枠組み」の物語〜「夜市」

夜市夜市
恒川 光太郎

角川書店 2005-10-26
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僕の場合、ホラーと聞いてまず想起するのは血で、それはグロテスクな殺人鬼や何十年も前の虐待されていた子供の怨念と結びついていたりする。何と陳腐な、と自分でも思う。ホラーと冠のついた映画や小説が、元々は恐怖をエンタテインメントに昇華させたもの全般を指しているのだということも知らないわけではない。しかし、今一般にホラーとして流通しているものの中には、僕にはどうしてもそうとは認知することの出来ないものもかなりの割合で含まれており、その断絶は確かに僕の心の中に存在するのである。

第12回日本ホラー小説大賞受賞作である恒川光太郎の「夜市」を読んだ。そして、とても面白く読了したと同時に、ホラーという括りに思わず「うーん」と唸った。この小説が、僕の中におけるホラーというカテゴリーに合致しなかったからである。それは作品の良し悪しとは全く関係のない話ではあるのだが、どう位置付けるかということに関する世間とのずれを再認識してまた僕は少しだけ悩んだわけである。
人は何故これをホラーと呼ぶか。確かに、血は流れるが特に派手に表現されるわけではない。悪魔は出て来るがまるで人のようだし、第一これはそもそもエンタテインメントではないだろう。
「夜市」は、僕にはホラーではなく「枠組み」の物語であった。

角川書店刊「夜市」に収められている二作品(「夜市」、「風の古道」)は、どちらも日常と非日常、現世と異次元を結ぶその結び目の綻びや元々あった出入り口を行き来するこちら側の人間を主人公あるいは狂言回しとして描かれている。失ってしまった弟や友達を彼等は追い求め、あるいは蘇生させようと「旅」を続けるが、僕には本当のテーマは実は「あちらとこちら」、そして「あちらとこちらの結び目」の存在そのものではないのかと思われてならなかった。
今までもそのような世界を描いた作品は数多くあっただろう。しかし、(あくまでも主観だが)それらの作品における「異次元」が舞台装置でしかなかったのに対し、「夜市」においてはそれ自体が最大の語られるべき対象なのである。
この「枠組み」の存在こそが主題であるという新機軸は実に魅力的である。秘密を覗き見たような刺激と興奮を人に与える。しかも、その刺激、興奮はあくまでも密やかで情緒を湛えているのだ。

どう位置付けるかなんて結局はどうでもいいことなのかも知れない。だが、この作品における「枠組み」自体が、僕達の住む世界、僕達の心、僕達の物事の捉え方、それら全てと相似であるように僕には思える。つまり、「夜市」は僕に、あっちとこっちをよくご覧、と語りかけるのだ。
「夜市」は、優れたホラーが稀に詩的であるということとは異なる意味において詩的である。
僕はやはりこれをホラーとは呼ばない。
呼ぶことが出来ない。
posted by og5 at 19:11| 秋田 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 本・雑誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年04月29日

センチメンタルな彼は「シャワー」を朗読しながら泣いた

詩人と女たち詩人と女たち
チャールズ ブコウスキー Charles Bukowski 中川 五郎

河出書房新社 1996-10
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「ブコウスキー:オールドパンク」を観た。
ブコウスキーのことなどまだ少ししか知らないくせにおこがましいとは思うが、僕はこの映画の前半を観ている最中、何だ結局みんなでブコウスキーを褒めてばかりで終わってしまうのか、と思っていた。というのも、実際このドキュメンタリー作品に出て来てブコウスキーのことを語る人達は、妻も元恋人も昔からの友人も自称友人もファンも変なヤク中みたいな男も、誰一人として彼のことを悪く言わないからで、つまり、彼は「オールド・パンク」なのに、初めから認知されている存在として僕達の前に現れるわけである。だから正直に言うと、本人の語りや朗読の会の様子などに興味を惹かれつつも、僕は途中でかなり眠くなっていた。

しかし、ひどいアクネのため高校の卒業パーティにも出られず、記念アルバムの写真さえ他の生徒達と一緒に撮影されるのを拒んだ(しかしアルバムに彼の写真を載せないわけにもいかなかった学校側の「配慮」により、彼の写真だけ綺麗に修整されている)といった「くそったれ!少年時代」でもお馴染みの惨めなエピソードが実写とインタビューによる証言で再現されるあたりから、僕はどんどんこの映画に対する愛情を深めて行った。
そうだ、僕は別にブコウスキーの酔いどれ振りや女性に対する下品な振る舞いや絵に描いたような陳腐な社会からのはみ出し振りが観たかった訳ではないのだ。
パンクといえばすさんでいればいいのか、荒くれていなければならないのか、乱暴で非礼で非常識で薄情で洗練されていなくて誰とも仲良くなれなくて、不幸で悲惨な生き方をした挙句不幸で悲惨な死に方をしなければならないのか。いや、確かに彼ははみ出している。色んなものから。色んな所から。しかし、彼の言動から受ける印象は、一言で言えば「ナイーブ」だ。

全編を通して僕に最も印象的だったのは、彼ブコウスキーがいくつかの局面で度々「驚いて」いることである。彼は実に素直に驚く。それは女に何かを言われた時だったりボノにステージから声を掛けられた時だったりシチュエーションは様々だが、その「驚く」という馬鹿馬鹿しいくらいシンプルな反応を彼が示すということに僕は何故だか強く「驚いた」のだ。
では、彼が素直に驚ける人間であるということは一体どういうことか。それは、彼が瑞々しい感性を持った知的な人間であるということだと僕は思う。彼は知的だ。それは「パンク」と矛盾するか。いや、矛盾などしない。彼は知的に「既成の形式に囚われないという意味において」パンクなのだ。
考えてみれば、「くそったれ!少年時代」もその語り口調は実にジェントルだった。出て来る言葉は四文字言葉だらけのくせに、決してとげとげしてはいなかった。

父親に革砥でぶたれた幼い頃の記憶を、かつて住んだ家の正にその現場で語る彼は何を思っていただろうか。父親が自分を詩人にしたのだと語っていたが、それをそのまま受け取ってしまうのも違うような気がする。妻リンダが彼の死に立ち会った際の、息を引き取る瞬間の彼の変化が、全てを物語っていると思うのは考え過ぎだろうか。彼はやはり、周りの環境も全て含めて「このように生まれて来てしまった」ことと一生闘っていたのだと思う。知的に、ジェントルに、素直に、喘ぎ、あがいていたのである。
それにしても、ブコウスキーにせよサローヤンにせよ、詩人は何故郵便局に勤めるのか。ブコウスキーが故郷をドイツに持ち、サローヤンがアルメニアに心を置き去りにしたままでアメリカに生きたことは、全く別のことだとは思うが僕には非常に興味深い。
二人とも、僕の大好きな作家であり詩人である。

※「ブコウスキー:オールドパンク」〜5月5日まで、FORUS秋田8階シネマパレで上映中。
posted by og5 at 22:27| 秋田 ☁| Comment(2) | TrackBack(1) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年04月28日

洗車する男

公園などで派手やかに咲き誇る桜もいいけれど、ごく普通の家のブロック塀越しに見えるひそやかな風情の桜もまたいいものだ。
僕の通勤路にも何軒かそんな奥ゆかしい桜の咲く家があり、強い風にネクタイをばたばたさせながら、僕は今日秋田のちょっと遅い肌寒い春を楽しんでいた。
と、ある一軒の家の庭先で、一心不乱に車を洗う男の姿が急に僕の目に飛び込んで来た。
春である。風は強いがいい天気だ。愛車をピカピカにしたいという気持ちも判らないではない。しかし、その男は(多分)必要以上に熱心に車を磨いていた。そして、僕は突然ある衝動に駆られた。
ああ、あの車にフキダシをつけて台詞を言わせたい。
僕には、もう桜なんかどうでもよくなっていた。
そのフキダシに書き入れるべき台詞とは、こうである。

「ひざまずいてタイヤをお舐め」

上手く伝わらないかも知れないが、それほど見事な服従っぷりだったのである。
風情は、風と共に何処かに飛んで行った。
posted by og5 at 21:44| 秋田 ☁| Comment(2) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年04月23日

無限の網に囚われて

今日はいい日曜日だった。
何がよかったのかなんて上手く説明出来ないけれど、何となくそう思う。

妻と一緒に出かけた草間彌生展は、そのパワーにたじろぎながらもエネルギーを吸い取られることもなく無事3カ所(フォーエバー現代美術館ギャラリー、ココラボラトリー、佐々木商店)を回り終える。
秋田市内の全4カ所に彼女の彫刻、版画、アートグッズ等それぞれ異なる内容の作品が展示される今回の展覧会は、フォーエバー現代美術館ギャラリーの開館記念イベントなのだそうで、日曜が休館日ということで今日行くことの出来なかったギャラリーソフィーにも、ゴールデンウィークの連休中には絶対足を運ぼうと思っている。
視覚的な作品を言葉でくどくどと説明してもしょうがないから一言で感想を言えば、草間彌生の作品はダイレクトに心に飛び込んで来る、である。恐怖も、驚愕も、ウキウキも、アハハも、そしてグルグルも、全てが実に真っ直ぐなのだ。そして、パワー全開なのに、これっぱかしも押し付けがましいところがないのだ。

草間彌生のアートグッズを販売している新屋の佐々木商店を後にして、久し振りに石田珈琲店に行った。
店の裏側にある桜は既に花を開いていたが、種類が違うのか、カウンター席から見える向かいのお寺にある大きな桜にはまだつぼみしか見ることが出来なかった。
「エチオピア・イルガチャフェ・ブルーホース」という、今まで飲んだことのない味の実に美味しいコーヒーを飲みながら、「桜の木の下には死体が埋まっている」と言ったのは、坂口安吾だったろうか梶井基次郎だったろうかなどと考えていたら、なるほど向かいの大きな桜の木の下には確かに死体が埋められているのだ、と突然気付いた。
まあ、骨だけだけどね。

※草間彌生展「YAYOI in FOREVER」は、フォーエバー現代美術館ギャラリーにて、5月14日まで開催しています(入館無料)。その他市内3カ所でも関連企画展開催中(ただし終了日が若干早いのでご注意を)。

無限の網―草間弥生自伝無限の網―草間弥生自伝
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posted by og5 at 20:13| 秋田 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

寛容なるエンタの神様

「エンタの神様」をダラダラと見ていた。
時間は短いながらネタをちゃんと演じさせるという最近のこの手の番組の作り方それ自体は好ましいとは思う。しかし、見ていて辛くなるほどつまらない。全然面白くない芸人がいてもいいけれど、それに駄目出しをする権利と義務をああやって完全に放棄してしまって果たしていいのだろうか、と思うのである。

例えば、小梅太夫という芸人がいる。彼は花魁の恰好をし白塗りで片手には扇子を持っている。自ら踊りながら三味線の音色を口ずさみ、それに続けて耳障りな裏声で「〜してみようとしたら 〜が〜でした♪」というパターンの(おそらく自分ではギャグだと思っているらしい)字余りの小唄(?)を一節唱えるのだが、ほとんど何のひねりもセンスもなく、いちいち必ず最後に付け加える「チクショーッ!」という叫び声が鬱陶しく神経に障る。

「エンタの神様」は芸人が客を前にして演じるという形式をとっていて、多くの場合客席では、若い男女が無批判にゲラゲラと腹を抱えて笑っている。昨日の小梅太夫の「自虐ネタ」に対しても、彼等は無邪気に笑い転げていたのだが、僕にはそれは理解不能な異次元的光景であった。

確かに、面白くもないものを面白がるという感覚は人間の裡に存在するものではある。だが、それはあくまでもひねくれ者や暇な道楽者の遊びであって、エンターテインメントという王道からは最も遠い位置にあるものであろう。
エンタの神様は、多分そんな「お芸術」なんか嫌いだと思うのだが。

果たして「エンタの神様」の客達には、面白くないものを面白がっているという自覚があるのだろうか。嫌らしいことではあるが、それならばまだ救いはあるのだ。しかし、彼等が無自覚に「アレ」を本当に面白いと思って笑っているのだとしたら・・・。そう考えると、僕の脳味噌はますます保守的になっていくのであった。

エンタの神様はあまりにも寛容である。
もしかしたらいないのかも知れない。
posted by og5 at 12:52| 秋田 🌁| Comment(5) | TrackBack(2) | TV・芸能人 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ルシアンの居場所

よせばいいのに昇級してしまい、お蔭で忙しい新年度を迎えている。
例えば、上司から昇級試験を受けてみないかねなどと言われた時に、即座にNOと言える人を僕は尊敬する。僕にはそれが出来ない。ついつい流れに身を任せてしまう。そして後からぐじぐじと悩むのである。
今の状況には満足している。以前よりは仕事も面白い。ボーっとしている合間に仕事をしていたのが、仕事でいっぱいいっぱいで考えごとをしている暇なんかない、に変わったというのは、とても正常なことで、多分至極幸せなことでもあるだろう。
では何を悩むのかといえば、それはやはり優柔不断な自分というものについてである。
僕は人に褒められるのが好きだ。いつもチヤホヤされていたいと思っている。口に出して大したものだと言われるのが嬉しいのはもちろん、陰で(予想以上に)高く評価されているのをひょんなことから知るのはもっと心にぐっと来る。
要するに馬鹿なのだが。

ルイ・マルに「ルシアンの青春」という作品がある。未見だが、ずっと観たいと思っている。これは、レジスタンスに参加しようとして断られた少年が、その反動もあってナチスに協力するようになり、次第に自分を見失っていくという物語で、そのナチスへの傾倒振りが実に生々しいというのである。つまり、彼はとにかく自分を認めて欲しい、そういう精神を持っていて、多分それはレジスタンスであろうがヒットラーであろうが関係なかった。
もう二十年も前にこの映画の存在を知った時、僕はここには絶対的な真実があると直感したものだったが、今はその直感を(すこぶる卑小な実体験から)再認識しているわけだ。
当たり前だが、僕が勤めている会社はナチ党ではない。しかし、僕の中にはルシアンがいて、自分が認められるにはどうしたらいいんだろうと機会ある毎に上司という仮ヒットラーを上目遣いに見ている。主義主張だの事の重大さのレベルの話ではなく、そういう精神というものは確かにあるものなのだ。

自分の中にルシアンを見るのはあまり嬉しいことではない。だが見えない振りをしたところで、そんな精神が魔法のように消えてくれるなどということは決してないのだ。
人には居場所が必要である。アイデンティティなどと軽く言うが、人の居場所が常に相対的なものでしかないとしたら、自分自身だって常に相対的にしか存在し得ないものではないか。そこにあるのは、自己同一性ではなくてただの立居振舞であろう。
僕はもう子供ではないから決してその立居振舞を否定しようなどとは思わないけれど、今自分は浅ましくないだろうか、卑しくはないだろうかと、それだけはいつも心の片隅に留めておこうと考えている今日この頃なのである。

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posted by og5 at 01:00| 秋田 🌁| Comment(0) | TrackBack(1) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年04月12日

舘ひろしに捧ぐ

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「俺たち、カルタす」
posted by og5 at 18:32| 秋田 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | TV・芸能人 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年04月10日

「猫ひろし」に関する一考察

昨日テレビを観ていて、猫ひろしがワハハ本舗の一員であることを初めて知った。知ったからといって別に何がどうするということもないのであるが、最初から面白いことをやろうという気もないあの芸風(と言ってよければの話だが)に何となく納得がいった次第である。
さて、そんなことはどうでもいいのだ。問題は猫ひろしという芸名である。

女性同士の同性愛において、「ネコ」と「タチ」はワンセットである。つまり、「ネコ」が受身で「タチ」が能動的。語源や歴史についてここで触れる気はないしまた知識も持ち合わせていないけれど、この二つの言葉が実際ちゃんと流通している表現方法であることだけは確かである。
では、「猫」と「舘」はどう対比させられるべきか。

残念ながら、この両者には今のところ名前が「ひろし」であるという以外何の接点もない(ようにしか僕には思えない)。あえてこじつければ、「猫」はやはりネガティブ(マイナー)で、「舘」がポジティブ(メジャー)であるということくらいであろうか。だが、困ったことに、この「猫」は(「舘」が「猫」を求めていない以上に)「舘」を求めてはいない。

ワハハ本舗の同僚の単なる悪ふざけかも知れないし、あるいは偶然の符合かも知れない。しかし、この両者があまりにも綺麗にあっちとこっちにいるために、僕はどうしても(屁)理屈をこねる誘惑に勝てなかったのである。
それにしても、猫ひろしはつまらないと思う。
僕には、この人を「面白がろう」という気は全くない。

猫ひろしがやって来るニャー!ニャー!ニャー!猫ひろしがやって来るニャー!ニャー!ニャー!
安齋肇 銀杏BOYZ 大槻ケンヂ

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posted by og5 at 18:45| 秋田 ☀| Comment(2) | TrackBack(0) | TV・芸能人 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年04月09日

いちみこちゃんといもぼうや

姉が二人いる。僕は引っ込み思案だったので、幼い頃にはいつもこの二人の姉(特に下の方)の後をくっついて歩いていた。だから、遊びも男の子の遊びよりも女の子の遊びである毬つきやお手玉の方に馴染みが深い。

最近古谷三敏の「寄席芸人伝」を読み返しているのだが、あるエピソードの中に文明開化の頃の手毬唄が出て来た。こういった遊び唄というものは、地域や時代によってその内容が全く異なったりするものなのだろう。また、そもそも古谷の創作であったという可能性だってある。だからそのせいなのか、その手毬唄自体は僕には全く馴染みのないものだったのだが、何となく、自分が昔聞いた秋田の手毬唄(遊び唄)をふと思い出してしまったのである。

一つは「いちみこちゃん」。これはきっと子供の名前で、だから「いちみ子ちゃん」と書くべきなのかも知れない。二番になると「にいみこちゃん」となり、三番になると「さんみこちゃん」となった。確か「いちみこちゃん お山を越えて ハイキング♪」というような歌詞だったはずであるが、あまり自信はない。
「いちみこちゃん」というのは、一体誰なのか。何故あの頃の子供は、こんな変な名前に誰一人として疑問を抱かなかったのか。数え唄のような構成だったように思えるのだが、「よんみこちゃん」以降があったかどうかさえ実は憶えてはいないのだ。

もう一つは「いもぼうや」。これまた訳の判らない唄である。「いもぼうや 帰ろうよ もうそろそろ3時頃 お家では 母さまが おいもをふかして 待っている♪」・・・。
「いもぼうや」とは一体何者なのか。この「いもぼうや」に「もう帰ろうよ」と言っているのは「いもぼうや」の兄なのかはたまた弟なのか。でも、ああ、でも、僕はこの「いもぼうや」の顔を知っている。着ていた服も思い出した。それは首周りだけ白い毛糸で編まれたえび茶色のセーターで、そして「いもぼうや」はいつも濃紺の半ズボンをはいているのだ。
これに二番以降があったかどうかも(「いちみこちゃん」の場合と同じように)思い出すことが出来ない。僕は毬つきも下手くそで、この一番でさえまともに最後まで毬をつき切ることは出来なかったのだ。

こうして思い出しているうちに、これらの唄が果たして本当に毬つき唄だったのか、それとも実はなわとびの際に歌われる唄だったのかさえ僕の中では不確かになって来る。それ程に僕の記憶は曖昧だ。ただ、今からおよそ四十年前に、僕は「いちみこちゃん」や「いもぼうや」と確かに遊んでいたのだ。つまり、彼等はそこにいた。僕の姉と、姉の友達と、そして僕と一緒に。
一つだけ言えるのは、彼等がもうこの世にはいないということである。「いちみこちゃん」も「いもぼうや」も何処かに消えてしまった。
小学校の卒業アルバムにも載っていない。

寄席芸人伝 (1)寄席芸人伝 (1)
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posted by og5 at 22:43| 秋田 ☀| Comment(1) | TrackBack(0) | 記憶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

サンドイッチに気をつけろ!

ハムサンドが好きである。
カラシを塗ったパンに薄いハムを一枚だけはさんだ「喫茶店の昔ながらのハムサンド」とでもいうべき長方形のシンプルなサンドイッチもいいが、やっぱり僕が一番好きなのは、たっぷりのレタスと何枚も重ねた薄いハムが切り口からはみ出さんばかりになっている三角形のハムサンドだ。幾層にもなったあのハムの歯ごたえが堪らない。「頬張ってる」感たっぷりで、口の中が幸せで満たされる。

ところで、僕は最近コンビニエンスストアでその手のハムサンドを買う度にがっかりしている。というか、そういうことが頻発するようになって来ている。
コンビニエンスストアのサンドイッチの棚は、大抵おにぎりとか弁当の棚のすぐそばかまたはそれらと一緒の段違いの場所にあって、半熟玉子や、ポテトサラダや、ツナとゆで卵とハムや、キュウリとトマトとレタスや、ハムカツや、エビカツや、あれやこれやが実に楽しい色合いで、且つ互いにいい塩梅に調和し合って並んでいるものだ。三角形のタイプは、どれも切り口を包装の透明な前面にきちんと向けて、自分のセールスポイントを客にアピールしている。
一ヵ月程前のあの日も、僕はいろいろ迷った挙句、やっぱり今日はハムサンドにしよう、とその中の一つを手に取った。レタスもハムもたっぷりだ。申し分はない。僕はそう思った。
しかし、家に帰って包装を破りそのハムサンドを直に手に持った瞬間、僕の頭にクエスチョンマークが浮かんだ。パンの三角形がいびつなのである。つまり、薄い所と厚い所があるのだ。嫌な予感を抱えつつ、僕はとりあえずその三角形の鋭角の方から一口かぶりつく。嫌な予感は当たった。案の定、「上げ底」だったのである。
購入前の客に見える部分は確かにボリュームたっぷりだ。しかし、具(この場合はハムとレタス)はその三角形の最も長い一辺である切り口の辺りだけに集中しており、二つの鋭角と一つの直角に向かうに従って急激に痩せ衰えて行くのであった。これを上げ底と言わずして何と言おう。いや、サンドイッチに上げ底というのはおかしいかも知れない。しかし、やっていることは、つまりはそういうことなのである。
浅ましい。実に浅ましいではないか。

僕はそれ以来、コンビニエンスストアに行く度にサンドイッチをチェックするようになった。そして、ある現実に気がついた。どうやら、この上げ底サンドがコンビニエンスストアで幅を利かせつつあるようなのだ。まだ主流にはなっていないのかも知れないが、しかし安心はしていられない。だって、コスト的には確かに安く上がるだろうし、優しい日本人は殆ど誰もクレームをつけたりはしないだろうから。
少し前まではこんなサンドイッチは見たことがなかった。それとも、僕が知らなかっただけでこれは昔からあったことなのか。
サンドイッチを買う時は全体の厚さを確認してから買え。
この警句が、朝も昼もそして夜も僕の裡で教会の鐘の音のように鳴り響いている。
コンビニエンスストアのサンドイッチの棚の前に佇み、一心不乱にあらゆるサンドイッチの厚さを確かめている中年男がいたら、それは僕である。

※タイトルを「サンドウィッチに気をつけろ!」にすると、何だか砂の魔女が出て来るおとぎ話みたいになりますね。
バーント・ウィーニー・サンドウィッチバーント・ウィーニー・サンドウィッチ
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posted by og5 at 12:43| 秋田 ☀| Comment(2) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年04月02日

お日様の下のメランコリー

The Velvet Underground & NicoThe Velvet Underground & Nico
The Velvet Underground

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ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの「サンデー・モーニング」を初めて耳にした時、僕には明るい日差しの中、一人だけうらぶれていじけたように日陰から人を見やる自分が見えた。友達から、この曲について、明るさの中だからこそ一層際立つ孤独、というような話を聞かされていたせいかも知れない。そして、それは正にこの曲のテーマでもあった。
詞の内容だけではなく、曲調がまた素晴らしい。深刻な表現を徹底的に排除したアレンジ、そして決して多くを語らないルー・リードの気だるいボーカルとニコの妙に明るい(まるで天国から聞こえてくるような)コーラス。
このようにロックは真実を語る。限られた時間で、限られた言葉と音で、決して押し付けがましくはなく、だが本当に本当の真実を。

キンクスの「サニー・アフタヌーン」は哀愁に満ちている。しかし、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの「サンデー・モーニング」との類似点は多い。まず、これもあくまでもまだ日中の出来事を語っているのだということ。そして、その音触りである。
歌っているのは、破産し何もかもを税務署に持っていかれてしまった男である。ガール・フレンドも彼の元を去り、彼は一人でビールを飲んでいる。何故ビールのコマーシャルは決まって真昼のシチュエーションばかりなのだろうと僕はいつも不思議に思っているが、真昼のビールはこの曲にこそ相応しい。
レイ・デイビスのうら悲しい声と、そしてデイブのハスキーで美しいコーラス。「いい音」を手に入れた現代のミュージシャンは、その代償として何と多くの表現を失ってしまったことだろうと、この曲のサウンドを聴くにつけ僕は思わずにはいられない。
この曲はテクニックでは作れない。

キンクスといえば、もう一曲、僕が大好きな「ウォータールー・サンセット」を忘れるわけにはいかない。
こちらはもう夕暮れ時だが、町は夕日で明るく照らされている。空気は少し冷たくなって来たが、それは日中の温かさからの変化があればこそ感じられる肌寒さである。
一日、一週間、一年と、僕達は人生の縮図を繰り返し生きている。だから、夕暮れ時に感じる寂しさは、夕焼けが作る単純なセンチメンタルなどでは決してない。ウォータールー駅を見下ろす恋人達は、寂しいと同時に実はこの上もなく幸せなのである。
僕も人生の黄昏時に、少しでもいいから幸せを感じることが出来ますように。そして、その時愛する人が僕の隣で同じ夕焼けを見ながら、僕より少しでも多くの幸せを感じてくれますように。
キンクスの曲はひねくれているし、また彼等の伝記など読むと実際半端でなく嫌な奴らなのだが、この曲を聴いているとそんなことなどどうでもよくなってしまう。
この曲は、前二曲とは若干ニュアンスが異なるとは思う。だが、この寂しいけれど幸せだという感覚には、やはり「サンデー・モーニング」や「サニー・アフタヌーン」につながる同じ種類の何かをしみじみと感じるのである。

※このライブ盤の音はとにかくひどいのです。しかし、このライブ盤中の「サニー・アフタヌーン」はとにかく最高なのです。
       ↓
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The Kinks

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F感覚の欠如

カラー新版 指輪物語 全3巻 ― 旅の仲間/二つの塔/王の帰還カラー新版 指輪物語 全3巻 ― 旅の仲間/二つの塔/王の帰還
瀬田 貞二

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ファンタジーに興味がない。
昨日たまたまテレビでやっていた「ロード・オブ・ザ・リング/王の帰還」を横目で見ながら妻と交わした会話も、
「これ、最後のやつ?」
「うん、多分」
「ホビットだっけ、この小さいの」
「うん」
「何か、全然興味ない」
「指輪がどうなろうが知ったこっちゃないもんね」
であった(映画第一作は、二人とも一応観ている)。

ファンタジーと聞いて僕の頭に浮かぶイメージは、もの凄く陳腐である。
列挙してみると、まず、いつの時代か判らないが何となく中世っぽい。それから、長い衣をまとった人が出て来る(それは、鬚を生やし杖をついた老人だったりする)。あと、勇者とお姫様が出て来るとか、(男も女も共同参画で)戦争をするとか、みんな鎧を着てるとか。他にも、物言いが仰々しい、楽園と荒野が対比される、女の人は大抵えらく美人、必ず裏切り者が出て来る等々。特に「ロード・オブ・ザ・リング」のことを言っているわけではないのだが・・・。

「ハリー・ポッター」シリーズは好きで読み続けている。妻は「十二国記」も大好きだし、「ピーターパン」や「オズの魔法使い」には別に恨みは無い(「十二国記」については、僕は結局のめり込むまでには到らなかったが何冊かは読んだし、読んだものについては面白かったと思っている)。
では、これらの「ファンタジー」と「ロード・オブ・ザ・リング的ファンタジー」では一体何が違うのか。妻は「大掛かり過ぎてどうも・・・」と言うが、僕にあるのは「面倒臭くて堪らない」という感覚である。

とにかく回りくどい。映画ならまだしも、本など最初の数章さえも僕には読み終えることが出来なかった(「指輪物語」)。
何故あんなにくどくどしくて長いのだろう。それがファンタジーのファンタジーたる所以か。独自の世界に浸るには、それは避けては通れない儀式なのか。しかし、僕の場合、その結果手に入れることの出来るイメージは所詮前述の程度でしかないわけで、つまりそうまでしてあの世界に行かなければならない理由など僕には全くないのである。
指輪がどうなろうが知ったこっちゃないし、何故戦っているのか理解する気にもなれない僕には、つまるところ「ファンタジー」を楽しむ器がないということなのであろう。
posted by og5 at 17:43| 秋田 ☁| Comment(7) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ペーとパー子の凄い世界

芸能人・タレントの誕生日をほとんど全て記憶している男林家ペーを久し振りに見た。「笑っていいとも! 増刊号」の「ちょい不良(ワル)オヤジコンテスト」コーナーに、彦摩呂、木村祐一と共に出演していたのである。推薦者はもちろんパー子で、彼女はいつものように全身をピンク色のドレスにつつみ、嬌声を上げながら写真を撮っていた。

ペーパー夫婦は相変わらず凄かった。
この二人の凄さは「本物である」ということである。しかし、何が「本物である」のかは簡単には説明出来ない。
林家一門の芸人であるが、その芸が「本物である」というわけではないし、人間として素晴らしい(つまりそういう意味で「本物」である)というようなことを言いたいわけでもない。
僕には、ただ昔見たあるテレビ番組における二人の印象が強烈に残っているだけである。

どういう番組名だったのか、司会が誰だったのかはもう忘れてしまった。それはよくある、「無名の、あるいはあまり売れていないタレントに危険なことをさせて笑い者にする」という類のスペシャル番組だった。
もはやうろ覚えなのだが、ペーの使命は確か、何処か海外の沼で、そこに住む獰猛なワニに餌をやるというものだった。彼は粗末な桟橋の先端に身を乗り出して、餌のニワトリを沼の水面近くに差し出している。と、突然桟橋がくずれ、彼は手に持ったニワトリもろともワニがウジャウジャいる沼に落ちてしまう。
この時、このシーンの冒頭からずっとカメラで写真を撮りまくり、嬌声を上げ続けていたパー子はどうしたか。
シャッターを切り続けたのである。笑い続けたのである。パニック状態におちいり、くずれた桟橋の残骸につかまって虚しくバシャバシャと水しぶきを上げている夫に手を差し伸べるでもなく、ただただ彼女ははしゃぎまくっていたのである。
僕はただこう思うしかなかった。
「この二人は本物だ」と。

「ヤラセ」だったのかも知れない。しかし、そうであるにしても、あのようなシチュエーションを可能とする夫婦とは一体何だろう。
林家ペーとパー子は、夫婦として、どちらかというと人間よりも動物に近いのではないか、と思う。蔑みの意味で言っているわけではない。ある種の尊敬と畏れ、そう畏怖の念を抱きながら、僕はあれ以来彼等二人を見ているのだ。
彼等二人の棲んでいる世界には、僕など怖くてとても近寄れないけれども。

林家ペーの有名人マル秘お宝写真林家ペーの有名人マル秘お宝写真
林家 ペー

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posted by og5 at 13:00| 秋田 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | TV・芸能人 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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