2006年07月31日

ハンケツの朝

今日、自転車で出勤途中、前方に妙なものを発見した。
ロー・ウェストというのだろうか、股上の浅い腰骨の下ではくタイプのジーンズとTシャツという恰好の若い男が、やはり僕と同じように自転車で、数メートル先の歩道をちんたらと走っていたのである。
最初はそれと気付かなかった。しかし、ある程度追いつくに連れて、すぐにそれが「ハンケツ」であることに気付いた。

朝の通勤時間の爽やかな青空の下で、小太り長髪男子の「ケツの始まる辺り」を見せ付けられるのはあまり楽しいものではない。どちらかといえばギョッとする。いや、腹が立つ。何の試練なのかと普段信じてもいないくせに急に神様を恨んでみたりする。
「見たくない、見たくない」と僕は思う。しかし、何しろ向こうも自転車に乗っており、しかも僕の少し先をほぼ同じスピードで移動しているのである。否が応でも「ハンケツ」は僕の眼に映る。追い越してしまおうと思うが、しかしそのためにはあの「ハンケツ」に極限まで近付かなくてはならない・・・。

「気付かないのか」と思う。「スースーしないのか」とも思う。「お前のその領域には風を感じる機能がないのか」と憤り、そして「もしかしてわざとやっているのか」と改めて小太り長髪男子の後ろ姿を凝視してみたりする。
嫌なのに目が離せないとはこのことだ。
お陰で、そういえばこまわり君はよくお尻で人に催眠術をかけてたなあ、などと馬鹿なことを考えながら会社に着いた。仕事をする気はすっかり失せていた。全く困ったことである。
posted by og5 at 22:36| Comment(2) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年07月30日

「リバティーン」〜僕は彼を好きか?

ジョニー・デップ・フォトブック ザ・リバティーンジョニー・デップ・フォトブック ザ・リバティーン
ジョニー・デップ・フォトブック制作委員会

廣済堂出版 2006-04-09
売り上げランキング : 81933

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

凄い映画を観た。
その映画とは「リバティーン」のことで、7月27日の木曜日、仕事が終わってから一人で秋田FORUS(シネマパレ)に出かけたのである。
予告編を観た段階では、あまり興味を持つことが出来なかった。だから妻はとっとと一人で映画館に出かけたのだし、僕はその間東京で酔っ払っていたのだ。しかし、妻の感想、またそのブログに対するコメント等を読んでいる内に、僕の中の何かが「観なくてはいけない」と僕を強く急き立てた。そして、観た。観て、本当によかったと思っている。

「リバティーン」は、17世紀ロンドンを舞台にしたジョニー・デップ主演のイギリス映画である。ジョン・ウィルモットこと第二代ロチェスター伯爵(ジョニー・デップ)は、芸術に造詣が深く民衆の人気も高いが、とにかく人に対して辛辣で情け容赦がない。酒色に溺れ、インモラルな放蕩三昧に明け暮れ、ついには梅毒に侵されて死んで行く。冴えない舞台女優リジー・バリー(サマンサ・モートン)の才能を見出し、彼女を愛し、そして彼女をロンドン一の女優に育て上げていく前半はともかく、フランス大使の面前で悪趣味で露骨で悪意に満ちた芝居を上演し、国王チャールズ二世(ジョン・マルコヴィッチ)の不興を買ったばかりか自らの精神のバランスをも崩して落ちぶれ果てて行く後半など、惨め過ぎて正視に堪えない程だ。

ひどい男だ。愛を語る資格があるとも思えないくらいにひどい男だ。ここには、通常映画で語られる美しい人間性も感動的なエピソードもない。誰にも感情移入することが出来ず、社会的正義の達成あるいは挫折に心を激しく揺さぶられるということもない。ここにあるのは、冷酷で身勝手で臆病で狭量で卑怯で小心な男の、ただありのままの姿である。
冒頭、「私はひどい男だ」「私を好きにならないでくれ」と観客に語った男は、最後にまた我々の前に現れ、まだ美しかった頃の姿のままで正面を見据え「これでも諸君は私が好きか?」と繰り返す。フェイド・アウトする声と深まって行く闇の中で、杯のワインを飲み干す彼に、僕達は(映画館のシートとその闇の中に)ポツンと取り残される。
僕は彼を好きか。答えはない。僕は彼を嫌いか。やはり答えはない。
結局、彼の心の深い闇の秘密は最後まで明らかにはされない。息子が死した後、息子が生前描いていた卑猥な絵の束や詩を燃やす母親、その母親への彼の(生前の)接し方、妻が「自分には判っている」と語った彼の心の中の悪魔の来し方、そんな僅かな手がかりから我々は何かを手繰り寄せようとすることも出来るが、そのことにどういう意味があるのかも僕には判らない。
「答えがない」。それが「リバティーン」の答えなのかも知れない。

映画館を出て、会社に自転車を取りに寄った。会社付近の道路を、ビル内でよく見かける数人の他課の連中が歩いていた。自転車置き場でも顔見知りの後輩に会った。彼等は、残業をして今帰宅するところなのだ。僕は、今の今まで自分が観ていた答えのない映画とこの日常生活のギャップにうろたえ、そしてたじろいだ。自分は非常な贅沢をしていたのではないだろうか、とその二時間のことを考えた。
本当に凄い映画を観た。
観て、本当によかった。
posted by og5 at 09:52| Comment(0) | TrackBack(1) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年07月29日

「臭い」の問題

子供の頃の父はポマードの匂いがした。そして、枕カバーやシーツに移ったその臭みは、メヌマかヤナギヤかは判らないが、僕をかなりげんなりさせた。

自分でも知らぬ間に、自分の臭いで他人に不快感を与えているのではないだろうかと時々気にかかる。明らかに「汗臭いなあ、自分は今」と感じている時はともかく、やはり一番心配なのは「加齢臭」である。僕はもう50歳だ。もしかしたら、自分ではそうと気付かない何か妙な臭いを、知らず知らずのうちに辺りに漂わせてしまっている可能性だってないとは言い切れないと思うと気が気ではない。

会社で、時々凄く臭い人とすれ違う。中年男の発する動物臭なのか、それとも安物のコロンの匂いなのかは判らないが、僕は密かにあれを「バニラの香り」と呼んでいる。僕は警察犬ではないが、その人の歩いた跡なら多分何十分か経った後でも間違いなく辿って行くことが出来るだろうという自信がある。この臭いが感じられるのだから、僕からはまだこの臭いは出ていないのではないだろうか、というのが僕の心の拠り所でもあったりするのだ。

シュークリームのシュー生地でカレーパンの具を包み込んだ「カレーシュー」という新商品を思いついて、一人ニヤニヤしていたのはもう2年以上も前のことである(僕は別にパン屋を経営しているわけではないので全く意味はない)。アイディアはいいがこのネーミングでは売れないだろうな、などと笑っていたが、あの頃はまだ自分が「加齢臭」を実際に心配する立場になろうとは、夢にも考えていなかった。

ギュンター・グラスの小説に、登場人物がごく当たり前のように砂糖水で頭髪を固めるというシーンが出て来る。もしかしたらグラスではなくて「ベニスに死す」だったかも知れない。
変な臭いはしないかも知れないが、これはこれで何かすごく嫌である。
posted by og5 at 20:44| 秋田 ☔| Comment(4) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

黒と白の間

日本人は何故、アフリカン・アメリカンを「黒人」と呼ぶようになったのだろうか。そして、何故何の疑いも持たずに、その表現を今でも使い続けているのだろうか。
僕は別に差別問題や表現の自由と人権などというものに入り込もうとしているわけではない。僕の疑問は、単純に以下のようなものである。すなわち、「だって黒くないじゃないか」・・・。

日本人は、「黒」という色を案外適当に使っている。例えば、数年前に一世を風靡(?)した「ガングロ」。彼女達は、そりゃあ普通の人よりは色が濃かったけれども、決して「黒」くはなかった。せいぜいこげ茶である。あと、日本の海水浴場にはかつて、日に焼けた子供達にその色の濃さを競わせる「クロンボ大会」なる催しがあった。それこそ差別的だという理由からであろう、今では見ることも聞くこともなくなってしまったが、昔は夏になると決まってテレビのニュースでも取り上げられる云わば「定番物」であった。そして、あれもまた決して「真っ黒」に日焼けしているわけではない。せいぜい「こげ茶色」に日焼けしている程度だと僕は思うのである。

さて、「黒人」である。言うまでもなく、彼らも決して単純に黒いわけではない。それこそ千差万別で、ある人は深煎りのコーヒー豆のようだし、ある人はチョコレートのようだ。そして、同じチョコレートにだってビターもあればミルクもある。明らかに「黒」ではない。茶色、こげ茶色、コーヒー色、しかし中にはそこに青や赤のニュアンスの混ざる人もあって、一概に括ることなどとても出来ない。あえて言うとすれば「茶人」かも知れないが、これでは「千利休」方面の人との区別がつかなくなってしまう(それに、色んな「茶」を単純に一括りにすることは、結局は全部ひっくるめて「黒」と表現するのと何ら変わりがないようにも思う)。

と、ここまで書いて、僕はふと思った。そんなことを言ったら、欧米人だって結構単純に物事を黒と白に分けて考えているではないか、と。
例えば、ブラック・メールは脅迫状のことだし、嘘をわざわざブラック・ライとホワイト・ライに区別してみたりする(そう言えばジョークもマジックもそうである)。
そのことと日本における黒白二極表現の間には決定的な違いがあるような気も実はしているのだが、まだそれを上手く説明することは出来ない。

スペシャルズスペシャルズ
ザ・スペシャルズ

東芝EMI 2002-06-19
売り上げランキング : 36850

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

posted by og5 at 16:18| 秋田 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

松本清張「点と線」のこと

点と線点と線
松本 清張

新潮社 1971-05
売り上げランキング : 66336

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

「点と線」は、松本清張の長編推理小説第一作であるという。このかなり古い日本推理小説界にとって記念碑的な作品を読んで僕がまず思ったのは、何と簡潔なのだろう、ということだった。

九州福岡県香椎の海岸で、心中と思われる男女の死体が発見される。二人は玄界灘を望む岩場で、揃って青酸カリを飲んで死んでいた。この男女の「情死」は、一見疑いを差し挟む余地などなさそうだった。しかし、福岡県警の一刑事(鳥飼)のふとした疑問をきっかけとして、事件は徐々にその全貌を明らかにされていく・・・。

毒を飲んだ二人は東京に住んでおり、またその男というのが、折りしも汚職事件で世間を騒がせている省庁の課長補佐だったため、鳥飼刑事の喉に刺さった魚のトゲは、すぐに警視庁の三原刑事に引き継がれることになる。
しかし、だからと言って捜査が急展開を見せ派手なドラマが繰り広げられるわけではない。物語はあくまでも淡々と、三原刑事の地道な捜査を丁寧に追いかける。時間軸の入れ替えもない。思わせ振りな「怪しい人物」が用意されているわけでもない。それどころか、小説のかなり早い段階で犯人は殆ど特定され、後はその人物の「アリバイ(トリック)崩し」が延々と続くばかりなのだ。

奇をてらった設定や複雑なストーリー展開、あるいはどろどろとした人間関係や残虐な殺人場面の連続といった「おかず」に慣れ切っている現代の読者には、この作品はいかにも淡白に過ぎるように思える。しかし面白い。とても面白い。そのけれん味のなさ、ストイックな様には、ある種の美学さえ感じられる。
この簡潔さは、明らかに松本清張に選択された一つの表現手段なのだと僕は思う。

推理小説「点と線」は、三原刑事から鳥飼刑事への手紙で幕を閉じる。その中で語られる三原刑事の憶測、本当の犯人、この事件の立案者と彼が確信するある人物についての記述は、僕の胸に言いようのない哀しみを残した。
その人物に対する描写は決して多くはない。また、三原刑事が思うような「真実」が本当にそこにあったのかさえ明確にはされていない。しかし、無造作に僕の心の中に投げ出されたこのやり切れない想い、「真犯人」に対する哀れみの感情は、「点と線」を、僕にとって単なる推理小説以上の何ものかに押し上げたのである。
posted by og5 at 11:43| 秋田 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 本・雑誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年07月23日

Shall We Dance?

どじょうさんお手をどうぞ!!



※いや、ちょっと思いついたものですから・・・。
posted by og5 at 19:53| 秋田 🌁| Comment(3) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年07月22日

辿り着けない私

僕は方向音痴である。
すぐ迷う。どこでも迷う。いつだって迷う。
思えば、小学生の頃、夏休み前に学校から渡された割引券の中から、「ガリバー宇宙旅行記」、「わんわん忠臣蔵」などこれと決めた映画を選んで観に出かけた時も、僕は上映後必ずと言ってよい程、映画館の出口から家とは反対方向に向かって歩き出してしまった。
また、何処かのビルに入って、階段を使って2階あるいは3階まで上った時には、僕は既にどっちがどっちの方角なのか(例えば、駅はどっちかとか何々通りはどっちかなどということが)まるで判らなくなってしまっている。つまり、踊り場でターンしてまた上に行くという階段というものの構造自体に、僕の脳味噌は全くついて行くことが出来ないのである。
さて、今回も僕はまたやらかしてしまった。7月19日から21日まで仕事で東京に行って来たのだが、しばらくぶりとは言え今まで何度も行ったことのある目的地に、自力ではとうとう辿り着くことが出来なかったのだ。

20日の朝、会議の主催者から事前に渡されていた地図を手にした僕は、到着の遅かった前夜の影響でやや寝不足気味ながらも、京王線S駅から徒歩で20分程のそのビルに向けて、何故かこの時点ではまだ「楽勝」だと思い込んだまま、意気揚々と歩き出した。会議開始時間の9時までにはまだ1時間くらいの余裕があった。東京でありながらブドウ畑が広がるのどかな風景など楽しみながら、僕は時折地図で目印を確認しつつ、のんびりと歩いた。
10分、15分・・・。しかし、やがて、僕の心の中に雨雲が一つぽっかりと浮かび、それはあっと言う間に空一面を黒く覆い尽くした。全体の3分の2程歩けば見えて来るはずの、「最終目印」がなかなか現れないのだ。おかしい。絶対におかしい。
とある交差点に差し掛かった時、いくら何でもこんなに遠いなんてあり得ない、と僕は意を決し、とうとう今来た方へと引き返し始めた。そして、適当に見当をつけたあたりで、とりあえず右手に曲がってみる。後はもう誤判断のオンパレードだ。
どこをどう曲がったのかまるで憶えていない。とにかく僕は歩き続け、どんどん目的地から遠ざかって行った。何度か人に訊ねてもみた。しかし、誰一人として僕に明確な答えを与えてはくれなかった。時間はどんどん過ぎて行く。信じられないことに、もう8時50分である。会議が始まるまで、あと10分しかないのだ。僕は焦った。変な汗が身体中から噴き出して来る。僕はタクシーを探した。人通りの多い通りへ人通りの多い通りへと気持ちは焦るのだが、運命は何故か閑散とした通りへ閑散とした通りへと僕を導く。タクシーなどいやしない。でもいないか。タクシーはいないか。遅刻するわけにいかないんだ!
結局、僕はたまたま通りかかった一台のタクシーに救われる(実際は通り過ぎたのを僕が無理矢理止めたのだが)。中年女性ドライバーが運転するそのタクシーは、僅か5分程で目的地に到着し、僕は何とか開始直前の会議に滑り込んだ。あの運転手は、きっと死んだ母だったに違いない。

一日目の会議を終え、ホテルに帰ろうとS駅に向かった僕は、何故か駅を行き過ぎて駅裏まで行ってしまった。駅がない、駅がなくなってしまった、と僕は少しパニックに陥った。最終日、新宿駅では、小田急線とJR線の乗り換えの仕組みが理解出来ず、自動改札機に二度程叱られた。
どうして判らないのだ、と言われても説明出来ない。どうして迷うのだ、と言われても困るのだ。歌が上手く歌えない人には「下手くそ」と言って済ますのに、何故人は(同じ音痴なのに)方向音痴には手厳しいのだろう。何故、「何故」と訊くのだろう。
最初の日、焦って引き返したあの交差点こそが、実は目指す「最終目印」だったのだと判るのは、同じその日の夕方のことであった。

DREAM PRICE 1000 渡辺真知子 迷い道DREAM PRICE 1000 渡辺真知子 迷い道
渡辺真知子 船山基紀 伊藤アキラ

Sony Music Direct 2001-10-11
売り上げランキング : 9285

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

posted by og5 at 16:33| 秋田 ☁| Comment(2) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年07月17日

「ブロークン・フラワーズ」〜時は流れ、花は枯れるが

映画「ブロークン・フラワーズ」オリジナル・サウンドトラック映画「ブロークン・フラワーズ」オリジナル・サウンドトラック
サントラ ザ・グリーンホーンズ・ウィズ・ホリー・ゴライトリー ムラトゥ・アスタトゥケ

ユニバーサルクラシック 2006-04-05
売り上げランキング : 5942

Amazonで詳しく見る
by G-Tools
※ストーリーの内容に触れる記述がかなりあります。今後この映画を観る予定があって、まだあまり内容について知りたくない方は、以下の記事を読まない方がいいかも知れません。

ある日届けられた差出人不明のピンクの封筒には、「私はあなたの子供を20年前に身篭ってそして出産した」という手紙が入っていた。その手紙の謎を探るため、おせっかいな隣人ウィンストン(ジェフリー・ライト)の、エチオピア音楽のBGMまでついた完璧なお膳立てにより、ドン・ジョンストン(ビル・マーレイ)は自らの過去に旅立つ。
ジム・ジャームッシュの「ブロークン・フラワーズ」は、そんな風にして始まる。そして、かつて「ドン・ファン」よろしく恋の遍歴を重ねていた頃の女友達を訪ね廻る旅から、何の成果もなくドンが帰宅するラスト近くまでは、僕には、これはゴダールの「アワー・ミュージック」みたいな映画なのかな、というぼんやりとした思いがあった。と言うのは、僕にとって「アワー・ミュージック」は明らかに「言葉の断絶」の映画であって、それと同じものをドンの女巡りにも強く感じたからである。

確かに、レーサーだった夫を事故で失い、現在は(「氷の微笑」の彼女自身のような)露出症気味の娘と二人暮らしをしているローラ(シャロン・ストーン)の場合はともかく、次に訪れる、元フラワーチルドレンで夫と共に不動産業を営むドーラ(フランセス・コンロイ)の場合には、その意思疎通の不全は明白だ。また、三番目に訪ねるカルメン(ジェシカ・ラング)の場合、そのコミュニケーション不全はもっとあからさまで、彼女は動物と会話を交わすことによってそのストレスを解消してやる「動物コミュニケーター」なる仕事をしているが、猫とも普通に意思疎通出来る彼女でさえ、ドンとはほんの日常会話ですら思うようには交わすことが出来ない。そして、四人目のペニー(ティルダ・スウィントン)とは暴力が、五人目のミシェル・ペペとは死が、それぞれのコミュニケーションの成就を阻害する。
ドンは、様々な原因によって、他人との心の交流を妨げられる。彼の言葉は相手に届かない。そしてこれもまた「言葉の断絶」の物語なのだ、と僕は思い込んでしまったのである。

しかし、ラスト近く、左目の痣以外には何の成果もなく虚しく帰宅したドンが、息子だと勝手に思い込んでサンドイッチをおごってやる相手の青年と交わすその言葉を聞いて、僕はやっと自分の勘違いに気付く。ドンは、旅の助言を求められて青年にこう言う。過去でも未来でもなく、現在が一番大切なのだと。
ピンクの封筒が届けられた日、恋人シェリー(ジュリー・デルピー)が家を出て行こうとしているまさにその時に、ドンは彼女に何一つとして言葉をかけてやることが出来なかった。部屋の花瓶にまだ美しく飾られていたピンクのバラにさえ、彼は気付いていなかったのかも知れない。そして、シェリーも今、あの5人の女達(ブロークン・フラワーズ)と同じように「過去」になろうとしている。綺麗に咲いていたバラも、今では枯れ、惨めにしおれた姿を空疎な部屋に晒している。
ドンは、女友達と言葉によって「断絶」しているのではなかった。彼は、彼自身が葬ってしまった、「かつて『現在』だった『過去』」と断絶していたのだ。だから、そこにあるのは「アワー・ミュージック」における「言葉」への不信などではない。ドンという中年男の生き方に対する憐憫が、ただ静かに横たわっているだけである。

作品中ただ一度だけ、ドンが能動的に、しかも全力で行動する場面がある。「幻の息子」を追いかけて、町を走るのだ。その時のアスファルトと靴底のぶつかる音、雨模様の湿った空気の匂い、呆然と立ち尽くす中年男の虚ろな眼差し・・・。
全編を通じて静かでひょうひょうとした空気に包まれていたはずの「ブロークン・フラワーズ」は、突然激しくもがき、ジム・ジャームッシュの作品にしては珍しく、明確で強い事実を観客に突きつけ、そして唐突に終わる。
しかし、だからと言って、この作品の後味が悪いというわけでは決してない。苦いものを美しく仕上げるのもまた、優れた映画監督の力というものである。
時は流れ、花は枯れる。
しかし、そのことが哀しいのではないのだ。
posted by og5 at 14:07| 秋田 ☁| Comment(10) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年07月15日

誰も口車に乗せられませんように・・・

石川好が、今度は秋田の夏祭りにいらぬお節介を焼き始めたらしい。
秋田魁新報夕刊に連載されている「石川好の『眼』と『芽』」に昨日掲載された「秋田夏祭り改造私案」と題されたコラムによれば、「竿灯の見事さはそれが天空に一斉に直立するときにすべてが表現される」が、「しかし、この祭りはそれ以上でもそれ以下でもない」のだそうである。よって「見物人たちは一瞬の光の乱舞に陶酔するのだが、その後は暑い会場で呆然とかかしのように立ち見をするだけ」で、「同じ明かりを三十分以上も立って見続けることは苦痛以外の何ものでもない」となる。
これは、あくまでも石川の個人的感想である。だから別に構わない。別に構わないのだが、ただ、僕はそうは思わない、と反論だけはしておきたい。

「それが天空に一斉に直立するとき」だけが竿灯の魅力の全てではない。もちろん、数え切れないくらいの竿灯が夏の夜空に一斉に立ち並び、あたかも豊かに実った秋の稲穂のように風に揺れる様は、幻想的で文句なく美しい。しかし、重さ50〜60キロにも達する大若を、手や肩のみならず腰や額まで使ってバランスを取り、時には強風の中、また時には雨にたたられながらも決して動じることなく天空に差し上げ続ける、経験に裏打ちされた差し手の技は、それにも劣らないほど感動的で美しいと僕は思うのだ。
残念ながら多くの差し手がそうであるわけでは決してない。しかし、発展途上の技もまたお楽しみの一つ。小若・幼若を上げる子供達の頑張りを手拍子を取りながら応援するのも、竿灯同士がぶつかり合い客席に倒れ込む迫力に思わずのけぞって歓声を上げるのも祭りならではの歓びではないか。それに、竿灯にはお囃子だってある。各町々で競い合うのは、何も竿灯を上げる妙技だけではないのだ。

石川は、竿灯祭りのやり方を変えるべきだと言う。その案とは、竿灯会場において竿灯以外の県内の主たる祭りのデモンストレーションを行い、移動の際などに県外観光客のためにアピールする場を設けるというものである。竿灯祭りの「秋田の祭り見本市」化だ。
同じその口で後段、西馬音内の盆踊りについては「美しさをさらに際立たせる」ための提案を行っているのだから理解に苦しむ。両者に矛盾はないのか。いや、おそらく、西馬音内の盆踊りはより美しくすることに意味があるが、竿灯にはその価値はないというのだろう。

我が秋田は、そして秋田魁新報社は、一体いつまでこの石川好という男を放っておくのだろう。
任期はまだ切れないのか?
posted by og5 at 15:20| 秋田 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「ママがこわい」の怖さの巧み

へび女へび女
楳図 かずお

小学館 2005-07
売り上げランキング : 35895

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

楳図かずおの「ママがこわい」は、実に巧みに作られた作品である。
入院していた母親と、同じその病院に隔離収容されていたへび女が入れ替わり、主人公の家にやって来る。主人公の弓子はすぐに母親の異常に気付き、何とか父や祖母にそのことを伝えようとするが上手くいかない。そして、ある日、とうとう正体を露わにしたへび女が、弓子を食べようと襲いかかり、二人はいつしか、二人が初めて出会った病院へと導かれるように足を向ける・・・。
何ともシンプルなこの作品の、一体何が「巧み」なのか。

特筆すべきは、まず何と言っても、へび女が弓子の母親と入れ替わってしまうというその設定であろう。
確かに二人は同じ病院に入院していた。それにどういうわけか顔も瓜二つであった。だが、何かのアレルギー(後に「多鱗症」と説明される)でカエルやネズミなどヘビの好物(と人が思っているもの)を見ると自らもヘビに同化してしまう病気の女が、偶然外れてしまった独居房の鉄格子の隙間から外に這い出て、何故赤の他人の病室に忍び込まねばならないのか、最初僕にはその意味がよく判らなかった。へび女が弓子の母親と入れ替わるメリットは何か。そんなことをしている間に、とっとと病院の外に逃げ出して、自由気ままにカエルを食べたらいいではないか、とそんな風に思ったのである。
しかし、へび女のこの行動には大きな意味があった。弓子に対する執着などではもちろんない。この時点では、へび女と弓子の間にはまだそんなに大きな結びつきはない。ではその意味とは何か。それは、へび女の知性の明示と、作者である楳図かずおのアドバンテージの確保である。

まず「知性」について言えば、へび女は、ただ単に自由になりたかったのではないということだ。カエルを食べたいだけだったら、単純に外に逃げ出すだけでいい。しかし、それでは自分の不在が病院側にすぐにばれてしまい、捜索され、捕まるのは時間の問題である。それではへび女の望みは叶えられない。だが、もうじき退院する自分にそっくりな女と誰にも気付かれずに入れ替わることが出来れば、人はへび女が逃げ出したなどとは夢にも思わないだろうし、自分も外の自由を長期的かつ安定的に享受出来るだろう・・・。
肝心なのは、その知性(狡猾さ)と、一般的なヘビという生き物に対するイメージのシンクロである。
そして、もう一つが作者のアドバンテージの確保、すなわち邪魔者の排除である。へび女にそっくりな女がそこにいたこと、その女がじきに退院する予定だったことは偶然で、ご都合主義と言えばご都合主義かも知れない。しかし、そのチープとも言える仕組みのお陰で、楳図かずおは、誰からも邪魔されずに弓子(つまり読者)をじっくりと恐怖に落とし入れる環境を手に入れる。つまり、ヒッチコックがサスペンスを盛り上げるために使った警察(邪魔者)を排除するというテクニックを、楳図かずおはここに用いているのである。

弓子の家にへび女がやって来てから(退院して来てから)がまた凄い。へび女が弓子の母親と入れ替わった理由からすれば、へび女にはとにかく弓子の母親として振る舞わなければならないという制約が生じる。それはへび女にとっての命綱だ。しかし、へび女は何故か不用意に弓子を「おいしそうだ」と言ったり、卵を丸呑みにしたり、鱗を落としたままにしておいたりする。まるで自分の正体がばれるのを促してでもいるかのようだ。
そもそも、何故へび女は弓子を襲うのか。言うまでもなく、「弓子」はへび女の好物ではない。だから、多鱗症の女が弓子を見たところで何の反応も起こすわけなどないし、実際へび女は夫や義母の前ではごく普通に弓子に接している。では、へび女が弓子を襲う理由とは一体何なのか。
実は、理由などないのである。弓子だけがへび女の正体を知っていなければならないのだし、「こんなに判りきったこと」であるはずのへび女の行動のあれやこれやは誰にも伝わってはならないのだ。そこには何が発生するか。いや、それは何を生み出すか。
僕は、ここにもヒッチコックが(例えば「疑惑の影」や「レベッカ」において)使ったと同様のテクニックを感じる。ここで生み出されるものとは、やはりサスペンスなのである。

「ママがこわい」は怖い。しかし、テクニックという観点から見れば、それはホラーとしてではなく、あくまでもサスペンスとしての作り上げられた怖さである。そして、そのテーマにおいても、楳図かずおは(ヒッチコックがしばしばそうしたように)精神病理学的な要素を物語のあちらこちらにちりばめている。
思春期の少女、母親の入院、存在の曖昧な父親、爬虫類への嫌悪感、そして「多鱗症」・・・。
僕は、ここにあるのは、誰もがその幼少期に(多分)少なくとも一度は感じるであろう「自分は本当にこの家の子供だろうか」という不安と裏返しの「母親への疑惑」だと思っている。
posted by og5 at 11:46| Comment(0) | TrackBack(1) | 本・雑誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年07月09日

鶴と雪女の話

アメリカンファミリーのCMが「鶴の恩返し」バージョンになっている。
僕は、その画面を見ながらふと思った。鶴は、何故お爺さんに、「自分が機織りをしているところを絶対見てはならない」と言い、そして実際その姿を見られてしまった時に、お爺さんとお婆さんの元から去って行かなければならなかったのだろうか。

鶴はお爺さんに助けられたことに感謝していて、どうにかしてその恩を返したかった。鶴に出来ることは、自分の羽を使って機を織ることくらいで、そしてそれは実際非常に高く売れた。鶴は恩返しが出来、お爺さんとお婆さんは金持ちになった。何の不都合があろうか。
確かに、お爺さんとお婆さんは慎みを忘れて欲をかいた。これきりにしてくれと言う鶴の言葉に耳を貸さず、もう一度もう一度と機織りをせがむ。鶴は何しろ自分の羽を抜いて機織りをしているわけだから、反物を織り上げる度にやつれて行くのだが、欲どしい老夫婦にはもうそんなことは見えなくなっている。
だが、それと「機織りしているところを覗いてはいけない」は、全く別の話ではないだろうか。だって、覗き見禁止は、老夫婦が欲をかくかどうかまだ不明なはずの一番最初の段階で、鶴の口から既に言い渡されていたのだから。

これと同じような話として「雪女」がある。
雪山で凍え死にしそうになった若者が、雪女の「情」により一旦は死ぬのを免れるが、自分と出逢ったこの雪山での出来事は決して他言してはならないという雪女との約束を破ったために、結局は命を奪われてしまうという怪談である。若者がその後結婚した女が実は雪女で、彼はその「妻」にせがまれて、ついつい約束を破ってしまう。僕が読んだ他のバージョンでは、二人の間には子供があり、その子供に免じて命だけは助かるのだが、いずれ彼が幸せな生活を失ってしまうという結末には変わりがない。
雪女は、何故男にわざわざ自ら約束を破らせようと働きかけるのか。男との生活は雪女にとっても幸福なはずなのに、何故それをあえて壊そうとするのか。雪女は、自分自身に嫉妬していたとでもいうのであろうか。

例えば、鶴が年老いた二人にこう言うことは不可能だったろうかと考えてみる。
「見てしまったのですね。そう、実は私はあの時助けてもらった鶴だったのです。残念ながら私はもうこれ以上反物を織ることは出来ませんが、でももしよければ、私を娘と思って、これからも一緒に暮らしては頂けないでしょうか…」
そして例えば、雪女が「夫」にこう言うことはあり得なかったのだろうかと想像してみる。
「あなたは遂に約束を破ってしまったのですね。私こそが、あの時の雪女だったのですよ。でも、あなたが約束を破るその相手が私でよかった。お願いです。もう一度誓って下さい。今後はもう決して誰にもこのことは言わないと…」
理屈は通る。しかし、そこには大事な何かが欠けている。
それは、多分「禁忌」である。

タブーには理屈などない。合理的説明がつきそうなものであっても、その説明と真実の間には何処かに決定的なズレがある。理由などないが駄目なものは駄目なのであって、人間はもちろんのこと、鶴にも雪女にも残念ながらそれを回避することなど出来はしない。
鶴は立ち去らなければならなかったのだし、雪女は「夫」を殺さなければならなかったのだ。何故なら、鶴も雪女も、抗いようのない何者かにその存在を支配されているという点では、僕達人間と全く同じだからである。

「禁忌」は、生命保険の約款には記されてはいない。しかし、誰かとの契約であるという点では、タブーも約款の禁止事項も、実は似たようなものなのかも知れない。
posted by og5 at 17:43| 秋田 ☔| Comment(2) | TrackBack(1) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年07月08日

映画映画している「間宮兄弟」

映画は割とよく観る方だと思うけれど、映画を撮るということについて学んだことなどないし知識もないから、もしかしたらとんでもなく見当外れなことを言ってしまうことになるかも知れないが、ええい言ってしまおう。
「間宮兄弟」は、とても映画映画している。とても絵コンテがしっかりとした映画だという感じがする。これは「大傑作」ではないだろうか。

俯瞰するカメラが、アスファルトの地面に止まる一台の(無人)自転車を捉えている。そこにもう一台がすうっと近づいて来て並び、痩せて背の高い男が降りる。彼が歩いて行く方向には白いフェンスがあり、遠く下方に見える夕景の操車場では、新幹線が、何両も白く長く横たわり、あるいはゆっくり右から左へと移動して行く。小太りの男がフェンスに寄りかかり、ぼんやりとそれを見ている。小太りの男はMDプレイヤーの音楽をイヤホンで聴きながら泣いている。痩せた男が気を引くように変な大股で歩き回ったりするので、小太りの男はその気配にハッとして後ろを振り向く。痩せた男が小太りの男の肩の辺りをポンと叩く。

映画が始まってすぐのこのシーンで、僕はもうジーンと来て泣いていた。これが、後に、失恋した弟(塚地武雅)とそれを探し迎えに来た兄(佐々木蔵之介)の二人がクイズを出し合いながら東京の街を走り抜ける美しいシーンにつながった時には、僕の頭の中には森田芳光監督の出世作「の・ようなもの」の一場面、落語家のタマゴ・志ん魚(伊藤克信)が「しんととしんとと〜」と呟きながら夜の街を歩き続けるあの名シーンが蘇っていた。

演出が(もちろん)しっかりしているということもあるからなのだろうが、ドランクドラゴン塚地の演技がすごく魅力的だった。また、繰り返しのギャグ、兄弟の暮らすマンションの一室をまるでコントの舞台のように四角く切り取って見せる「日常」、意味など多分ないのに気になって気になってしょうがない会話やシーンの数々。きちんと意識的に作り込まれたものが、本当に贅沢に織り込まれ、組み合わせられていた。軽いのに、映画として「濃い」のである。

言い直そう。「大傑作」でなくても構わない。僕はこの映画が大好きである。

※案外これに近い感じかも知れない。
      ↓
キッチンキッチン
吉本ばなな 森田芳光 川原亜矢子

バンダイビジュアル 2002-06-25
売り上げランキング : 23700

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

posted by og5 at 17:22| 秋田 ☔| Comment(0) | TrackBack(1) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「雪に願うこと」は僕にグッドラックと言う

直線200mのばんえい競馬場セパレートコース、その第二障害の坂の半ば、「ハイッ! ハイッ!」と鞭を振るう騎手の声に奮い立ち、崩れ、もつれる砂を両のヒヅメで懸命に掻き、掴み、ふんばり、あるいは「オウッ! オウッ!」と一気に最後の勝負をかけるため、その力を極限まで抑えつけられ、引かれる手綱、ぶるぶるわなわなと震える太い前脚と、そしてぐいと引かれた強い首。
ああ、僕は初めて、馬が立っているのを(それと意識して)見たのだ。馬の前脚、その力こぶを見て、僕は、馬が前脚で立っているということを、やはり初めて知ったのだ。
そして、早朝の訓練場、凍った土の上で熱く湯気を立てる馬糞、左右の鼻穴から強く吹き出される生命の印、逞しい背中から立ち上る熱気と寡黙。
冒頭の雪の平原、帯広の広大な自然を捉えたと同じカメラは、より小さな生命達、馬や人の息吹をも、かけがえのない美しきものとして、僕達の眼となってその網膜に焼き付ける。
僕にとって「雪に願うこと」は、とにかくそんな映画だった。

輓馬「ウンリュウ」は、最後の力を振り絞って、そしてもう一年、後一年の命を手に入れるために重い重いソリを牽く。重いソリを牽き、騎手に鞭を入れられることは、もちろん生き物としての「ウンリュウ」の生にとって必須などであるはずがない。しかし、走りたいのだ。前へ行きたいのだ。いずれ、遅かれ早かれ「馬刺し」になる運命だとしても、ふつふつと湧き上がる闘争心を抑え切ることなど出来ず、そしてアドレナリンを爆発させるあの瞬間に向かって走り出さずにはいられないのだ。そうだ、「命を手にいれるため」などという目的さえ、もはやそこにはない。
一体、必ずいつかは負けると初めから判っているレースに、何故僕達はこんなにもしがみつくのだろう。兄・威夫(佐藤浩市)が弟・学(伊勢谷友介)に吐き出すように言う「俺だって悩んでばっかりだ…」は、レースがいつだって自分自身との闘いだということを僕達に教えてくれる。誰だって、明日は「馬刺し」の運命なのだ。しかし、「長生きするため」などではなく、人は何かに突き動かされて生きて行く。生きて行かざるを得ない。
それが、多分「生きる」ということなのだ。

この映画は、多分特別なことなど何一つ語ってはいない。派手な演出もなければ、殊更感動を煽るような映画的ギミックもない。むしろ、その表現は、極力控え目に控え目にと抑制されている。ばんえい競馬のシーンも、だからこの上なく地味だが、しかし、そこには映画でなければ表現出来ない「力」が漲っている。
そして、この映画は清冽だ。描かれていることといったら「いずれ負けてしまうこと」だというのに、この清々しさは一体何処から来ているのだろう。
厩舎の屋根の上に雪だまを載せる祈りが二度繰り返される。僕は、そこにこそその答えがあるのだと思う。あの儀式によって願い乞われることは、決して「勝てますように」ではない。みんなの看病とそして祈りも虚しく死んでしまった一頭の輓馬がいたが、あの時みんなが祈っていたのは「生きられますように」、すなわち(競馬という意味ではなく)「レースに出続けることが出来ますように」であったはずなのだから。

映画「雪に願うこと」は、このようにして僕達に爽やかな「グッドラック」を送る。
そして、僕の中で今流れているのは、何故か小沢健二の「天使たちのシーン」なのである。

輓馬輓馬
鳴海 章

文藝春秋 2005-11-10
売り上げランキング : 69299

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

dogsdogs
小沢健二

東芝EMI 1997-07-24
売り上げランキング : 57713

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

posted by og5 at 16:16| 秋田 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年07月02日

「ある雨の日の情景」〜「傘かしげ」のない世界

梅雨である。
空梅雨かと思っていたが、やっとジトジトとした、いい感じの日本の夏になって来た。
今日、久し振りに、よしだたくろうの「人間なんて」を聴いた。このアルバム中の一曲、「ある雨の日の情景」が、無性に聴きたくなったのだ。

雨の中を歩いていると色々なことを考える。霧状になった雨のベールが何もかにもをやんわりと包み込み、人はその薄い膜の中で、あたかもそこに一人きりでいるかのような錯覚に陥ってしまうのかも知れない。
ぼんやりしていると人にぶつかる。まずその前に傘と傘がぶつかる。今では殆ど誰も「傘かしげ」などしはしない。

「傘かしげ」というのは、すれ違う時、相手の傘に自分の傘が当たらないように、双方外側に傘をちょっと傾げて、互いに道を(それぞれ半分ずつ)譲り合うという風習である。日本の伝統的な思いやりの心を表す美しい仕草であるようにも思えるが、野良猫が道でばったり他のノラに出くわした際、縄張りを護るためどうしても必要な時以外には互いに相手の目を見ずにやり過ごすという話をふと思い出し、この「傘かしげ」も、案外無用の軋轢を回避するために編み出された単なる生活の知恵だったのかも知れないななどと考えた。

それにしても、では現代の人間は、あえて軋轢を求めて雨の中を歩いているとでもいうのであろうか。反抗期真っ盛りの中学高校の生徒ならそんなこともあり得るかも知れない。何しろ何もかにもが気に入らない年頃なのだ。狭い歩道も気に入らない。暗い雨雲もびしょ濡れの靴も気に入らない。歩いて来る見知らぬ奴も気に入らないし、そいつが持っている傘のガラだって気に入らないのだ。わざと傘をぶつけてやれ。誰が避けるものか。バンバンバン……。
しかし、これがいい歳をしたサラリーマンとなると話はまた別である。分別もあるはずの大人が、何故わざわざ公の往来で赤の他人と軋轢を生じさせようと画策しなくてはならないのか。上司と折り合いが悪くストレスが溜まっているのか。出掛けに妻と言い争いをして言い負けたのか。娘に臭いと罵られた鬱憤がメタンガスのように噴き出して来たのか……。
しかし、中学生も高校生も、反抗心からあえてあのようなすれ違い方をしているわけでは実はないのだ。サラリーマン達も、何か腹にイチモツあってわざと人に自分の傘をぶつけているわけではない。結局は、あの中学生高校生達はあのサラリーマン達の子供なのであり、サラリーマン達もまた「傘かしげ」などしない何処かの誰かの子供だったのである。

雨が止めば、彼等はクルクルとたたんだ傘を、不必要に元気よく後ろに振り上げて歩く。まるでお尻をもがれたスズメバチが、それでも毒針を敵に向けてヒュンヒュンと繰り出し続けるように、鋭い傘の先が後方の歩行者を狙う。彼等は階段を上る時もこれをやるから、凶器はもろに人の顔、特に目をめがけて突き出されることになる。
どうして、尖った物だからあまり振り回さないようにしよう、という発想が出来ないのであろうか……。

現実の「ある雨の日の情景」は、結構僕をイライラさせる。雨の音を聞きながら、家でぼんやりしているのがどうやら一番いいようだ。

よしだたくろう 人間なんて(紙ジャケット仕様)よしだたくろう 人間なんて(紙ジャケット仕様)
吉田拓郎

フォーライフミュージックエンタテインメント 2006-04-05
売り上げランキング : 35944

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

posted by og5 at 14:05| 秋田 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
with Ajax Amazon

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。