2006年09月27日

ねえ、教えて。

福島瑞穂と小林稔侍はどうやって見分けるの?
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2006年09月26日

悩みの泉

悩みは、一体何処から湧いて来るのだろう。考えたくなくても、次から次へと頭の中に溢れて、考えないようにすればするほど、それは脳みその一番奥深いところ、掻き出そうとしても引っ張り出そうとしても指先すら届かない最もやっかいな場所にこびりついて離れない。
明け方に、僕は悩みと共に時計のカチカチと鳴る音を聞いている。その刻まれる一秒一秒毎に、悩みは温く膨張を続け、限りのある僕の頭蓋の裡で容積を増して行く。このままでは頭の中が悩みで一杯になってしまう。僕は寝返りをうつ。そして、その度に僕の目は段々と冴えて行く。
だが、その時、悩みはその日の仕事や人生のあれやこれやが積み重なったものではなく、結び付いたものでもなく、たった一つの、輪郭の曖昧な、それでいて確かな質量を持った実体になっている。
僕は、悩みという実体を裡に抱えて目を覚ます。いや、もうとっくに目は覚めていたのかも知れないが、とにかくベッドの上に半身を起こす。悩みは、僕の口から外へ出ようとする。逃げたければ逃げるがいいのだ。必死になって身をよじる悩みの襟首を、だが僕はあくまでもしっかりと掴んで放そうとはしない。
悩みは、外気に触れると収縮を始める。完全に消えるわけではないが、頭はずっとはっきりとして来る。そして、そのうち、悩みの原因など何もなかったのだと僕は気付く。少なくとも、僕はそれを忘れる。まるで、交通渋滞の先へと進んだ時に、何故それまであんなにノロノロとしか車が進めなかったのか、誰にもその理由が判らないように。
ナフタリンの臭い。急にミュートになってしまうこと。騒音の中で固まって行く蝶番。ねじの回転の繰り返し。
僕が怖れているのは、例えばそんなものだ。
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「花よりもなほ」〜潔くか、それとも

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僕は「幻の光」を好きではなかった。
もう10年以上も前の十文字映画祭で観た是枝裕和の初監督作品は、僕の気持ちを苛つかせるだけだった。
テーマがどうのテクニックがどうのといった問題ではない。僕には、是枝監督がわざとやっていたに違いない観客を拒絶する演出が堪えられなかったのである。

闇さえも、光を以って表わすのが映画なのだと僕は思う。そして、「ミツバチのささやき」におけるビクトル・エリセの映像が、そのことを雄弁に物語っている。
あそこには何と美しい光が満ち溢れていることか。そして、何と深い闇が密やかに、しかし豊かに横たわっていることか・・・。
しかし、「幻の光」には、決定的に光が足りなかった。「幻の光」の光は、ある意図を持って観客から遠ざけられていた。僕は、それを彼の驕りだと思った。

だが、「誰も知らない」には、「幻の光」のような青臭さは微塵もなかった。子供達を見つめる眼は決して情に流されず、まるで硬く尖った彫刻刀で彫り出されたオブジェのように観る者に真摯な問いを投げかける。
ある意味、「誰も知らない」は情を拒絶した作品だった。
そして、「花よりもなほ」には情が溢れていた。

青木宗左衛門(岡田准一)が如何にして「仇討ち」から逃げ出すかを描いた「花よりもなほ」は、生きようとする者を肯定する映画である。「仇討ち」は「しがらみ」であり「大義」だが、そんなものより生きることの方が大事なのだとこの映画は言う。
思えば、「誰も知らない」において大人はいつも無責任だったが、「花よりもなほ」における「逃避」はしっかりと誠実さに支えられている。
綺麗ごとだけでは済まない現実を知りながら、あえて「こういう道もありますよ」と言っているわけで、だからこそこの映画はしみじみと奥深い。
「誠実に逃げる」とは、実は狡猾だということでもある。
花は翌年もまた綺麗に咲くことを知っているからこそ潔く散るのであれば、自らを花になぞらえ(死んでしまったらもうお仕舞なのに)潔く散ろうなどとは愚の骨頂であろう。

「花よりもなほ」に続くひと言が何であるのかは明白である。
そして、ここで僕は、情に溢れた「花よりもなほ」と対比すべきは、情を拒絶した世界で生きている「誰も知らない」のあの子供達だったのだと初めて気付くのだ。
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2006年09月24日

「アーティスト」と「デジアナ」と「人格者」

この頃気になっている巷の物言い。

まず「アーティスト」。
これはもう随分前からテレビの音楽番組などで使われている表現だ。どう見てもただのアイドルなのに司会者は「アーティスト」と紹介し、そう呼ばれた方も特に照れ臭い様子もなく、もしかしたら馬鹿にされているのではないかといった疑問も全く持たずにニコニコと笑っている。
確かに英語には「芸能人」を表わす「artiste」という言葉もあるのだが、この世には「アーティスト」以外にも「ミュージシャン」という言葉も「シンガー」という言葉もある。そもそも英語である必要もなく、例えば歌を歌う専門家であればそれは「歌手」でいいのである。

次に、地上デジタル放送のキャンペーンで頻繁に耳にする「デジアナ」。
これは別に、言葉遣いがどうとかいうことではなく、それ以前の問題である。
いや、コマーシャルの意図は判りますよ。これは、2011年の夏までには現行のアナログ放送が終了し、地上デジタル放送へ移行するというテレビのキャンペーンであり、語呂合わせ的に「女子アナ → デジアナ」と言っているだけなのだ、と。「アナウンサー」の「アナ」と「アナログ」の「アナ」をわざと混同させて、結果「デジタル」と「アナログ」が情けなく同居する、というナンセンスを醸し出しているのだ(多分)、と。
「でもそれでいいのか?」「『女子』は何処へ消えたのだ?」と思うのである。

最後に「人格者」。
さすがに大分落ち着いて来たようではあるけれど、夏の甲子園大会優勝投手の「ハンカチ王子」こと斎藤祐樹選手を巡るマスコミの大フィーバー振りは凄まじかった。確かに彼は好青年だし、「ハンカチ王子」という愛称もなかなか可愛らしい。
だが、フィーバー真っ盛りの頃、あるワイドショーで女性司会者の一人が、ゲストとして電話インタビューに応えた彼の兄の礼儀正しさに関して次のような意味のことを言った。
「斎藤祐樹選手本人もそうですが、お兄さんの受け答えにもとても感動しました。兄弟揃って本当に『人格者』ですね〜」
僕は、これが気になってしょうがなかったのだ。
「人格者」とは「優れた人格を備えた人」のことであるから、意味としては別に間違ってはいない。間違ってはいないが、しかし、相手は何しろ18歳の高校三年生とその兄なのである。
せいぜい、「行儀のいい若者」くらいが適当なのではないか、と僕は思ったのである。

僕はどちらかと言えば迂闊な方で、自分でもしょっちゅう変な言葉遣いをしてしまう。だから、厳格な言語学者みたいに人の物言いにとやかく口を挟むべきではないのかも知れないが、「こんな僕でさえ気になる言葉遣い」が巷には結構ある。
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2006年09月21日

ネクタイと「こしみの」

クールビズでいるのもそろそろ寒くなって来た。朝など、玄関を出た瞬間、上着持って行こうかな、と思うくらいである。
しかし、それでも出来ればネクタイはしたくない。ネクタイをすると気が滅入る。そもそもアレの存在意義が僕には判らないのだ。

サラリーマンが身に付けるもので、ネクタイ程役に立たないものが他にあるだろうか。ワイシャツも、上着も、ズボンも靴も、そしてもちろん靴下も、明らかに何かしら僕達の役に立っている。しかし、ネクタイだけは、なくても誰一人として一向に困らない。

双子で、互いにいがみ合っている上司が揃って同じフロアにいて、しかも二人は恰好までいつも同じなのだが、唯一ネクタイだけは色違いのものを着用しているという場合以外、僕にはネクタイが人の役に立つ場面を想像することが出来ない。

「きちんとした恰好」という意味をネクタイに求める人もいる。しかし、これも怪しいもので、だって、「きちんとした恰好」が本当にサラリーマンにとって必要なもので、ネクタイをしめるということがその条件の一つだとするならば、どんなに猛暑だろうが省エネのためだろうが、クールビズなどするべきでないと僕は思うからである(いや、例えばの話ですけど)。

だが、僕達は夏になるとネクタイを外す。
本当は必要がないからである。

皇太子さまが前トンガ国王の葬儀参列のため同国を訪問された、というニュースを見た。
葬儀はキリスト教式で、皇太子さまはモーニング姿で参列されていたが、国民の多くは浦島太郎が着けているような「こしみの」姿であった。
トンガではこの「こしみの」が正装であるとのことで、アナウンサーは「日本でいえばネクタイをしめている状態」なのだと解説していた。

トンガの人々も「こしみの」を着けた時に「ああ窮屈だ」と感じるのだろうか、と僕はふと考えた。
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2006年09月19日

牛丼リターンズ

昨日、吉野家で、牛丼の販売が約2年半ぶりに再開されたそうだ。
これは一日限りの限定販売で、各店には多くのファンが詰めかけ、夕方までには完売する店も続出したという。

実は、僕はこのニュースを冷ややかな目で見ていた。
というのも、僕はあまり牛肉というものと縁のない子供時代を過ごし、成長した後も牛肉にはそれ程親しみを感じることがなかったからである。
社会人になるまで、僕は(多分)牛肉を食べたことがなかった。家では、すき焼きも焼肉も豚肉だった。結婚前、初めて妻の家を訪れ昼食をごちそうになった時も、僕は牛肉を食べながら、「美味しい鯨だなあ」と間抜けな感想を述べたくらいであった(ああ恥ずかしい)。

だから、それ程まで牛丼に恋焦がれる気持ちがまず理解出来ない。それ程までして牛丼を食べなければならない理由も判らない。食べられなかったから憧れるという気持ちすらなく、要するに、僕にとって吉野家は、なきゃないで全く困らない、その程度の存在だったのである。

しかし、皮肉を言いたくてうずうずしていた僕の気持ちは、ニュースを見ているうちにいつしか微妙に変化して来た。
まず、何故吉野家はアメリカ産牛肉にこだわっているのか、ということ。その理由を聞いて、僕はちょっと「ほう」と思ったのだった。
実はアメリカ産牛肉は、オーストラリア産などと比べると脂身が多く、牛丼がより柔らかく仕上がるというのだ。そう解説するナレーションをバックに映し出された牛丼のアップ映像は、確かにとっても美味しそうだった。
また、吉野家ファンだというある夫婦のエピソード。
彼等がまだ結婚する前に、デートの際二人でよく食べたのが吉野家の牛丼だったというのである。
画面には、妻のために開店前の吉野屋に急ぐ夫の姿が。若かったあの頃、何もこわくなかった、ただあなたの優しさが、こわかった。と、僕は何故か「神田川」を口ずさみ、その頃にはもう皮肉な気持ちは完全に消えていたのである。

僕は今、一度くらいなら吉野家の牛丼を食べてみたいな、と思っている。
吉野家では、来月と再来月にも、今回と同様の限定販売を実施するというのである。

ああ、でもやっぱり並ぶのは絶対嫌だな。

※これは「乳牛」か。
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タグ:吉野家
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2006年09月18日

「君とボクの虹色の世界」の奇妙な世界

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「君とボクの虹色の世界」は、とっても変わった映画である。監督ミランダ・ジュライの色彩感覚はかなり独特で、主演も兼ねている本人のルックス及びファッション・センスも相俟って、この映画をひと際風変わりにしている。しかし、一番「変わっている」のは(多分)登場人物達の観客に対する位置関係であり、その意味だろう。

高齢者専用タクシーの運転手をしながらアートビデオ制作に忙しいクリスティーン、離婚したばかりでその影響からか二人の息子とギクシャクした関係しか持つことが出来ない靴屋の店員リチャード、パソコンでチャットばかりやっている彼の二人の息子達、その兄ピーターの同級生でちょっと好奇心過多気味のヘザーとレベッカ等々。
彼等の見た目は、みんなあまりにも「普通」で、お世辞にも魅力的だとは言い難い。少なくとも、アメリカ映画では珍しいパターンだと、かなり偏った経験から勝手に僕はそう思う。
ところが、この映画の中では、そのごく「普通」で魅力に乏しい彼等が、実に効果的なのだ。

「君とボクの虹色の世界」の住人達は、揃いも揃って少し不自然に不安定で危うい。
クリスティーンは自分がアーティストとして認められないのではないかと不安な日々を送っているし、偶然知り合ったリチャードに対する恋愛感情もちょっとストーカーっぽい。リチャードはリチャードで、ライターのオイルを手にかけて自ら火を放ち大火傷を負うようなかなりエキセントリックな男である。ピーターは現実世界の人間関係から逃げ出したいパソコンおたくだし、弟のロビーに到っては、兄の真似をして勝手にパソコンをいじり、見知らぬ女と「うんちの出し入れ」を語り、挙句の果てには公園のベンチで待ち合わせまでしてしまう。そして、ヘザーとレベッカの妄想は、自分達にちょっかいを出した中年男の家の窓ガラスに、男の願望として貼り出される。

これは、かなり危険な世界である。等身大でありながら危険であるということが、この映画を際立たせている。結果、僕達は非日常の世界で、初めて「鳥の眼」を手に入れることが出来る。
ドットやセミコロンを使ってピーターが作り出した「立っている人、横になっている人、それを見ている人」(Me and You and Everyone We Know)の世界は、ピーターの現実逃避であると同時に、実は突き詰めればこの世界そのものでもあるということなのだろう。そして、その現実世界で、彼等も僕達も、皆どう他人と関わったらいいのか判らず右往左往している。
「ウンチの出し入れ」はロビーにとっては単純に母を求める行為であるが、大人にとっては、もはや失われてしまった究極のコミュニケーションへの強烈なノスタルジーなのだ。

ここに描かれているものは、「ガーリーワールド」などではない。これは、愛に満ちた「ヌーベル・バーグ」である。

※ロビーがチャットで用いたお尻の図 → ))<>((
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2006年09月17日

聖なるかな願い

高校生の時のことである。
僕はバスに乗っていた。バスは秋田駅前ターミナルで出発時間を待っており、僕の座った側の窓からは緑屋前の歩道が見えた。
僕は、じっと窓の外を見ていた。実は、あるものを見続けるために、わざとこちら側に座ったのである。
バスに乗る前に、僕は今自分が見ている歩道のちょうどその辺りでひどく逡巡していた。緑屋に向かって左手にある地下道の出口付近に、身体に障害を抱える高校生くらいの男女が数人立ち並んで、募金箱を抱え、懸命に、通行人に何事かを訴えていた。
僕の心の中には強い葛藤があった。そのために、僕はそこから簡単に離れることが出来ず、行きつ戻りつを繰り返していたのである。
結局、僕はそこから逃げ出した。募金箱に僅かな小銭を入れることも出来ず、バスターミナルに向かったのだ。
後悔と自己嫌悪と論理的な言い訳が、僕の中でグルグルと回っていた。

と、広小路側の角を曲がって、一人のシスターが歩いて来るのが見えた。年の頃は60台半ばくらい。眼鏡をかけ、杖を手にし、そして(確か)グレーの頭巾をかぶっていた。
僕の胸はドキドキと高鳴り始めた。僕は、遂に自分に罰が下されようとしているのだと思った。僕の言い訳、自己正当化のための屁理屈の数々が、消し難く、窓にうっすらと映る僕の顔に「恥」として刻み込まれているような気がした。
彼女は、ゆっくりと、募金箱を持った一団に近付いて来る。僕は、もちろん「神」にではないが、何か名前もない大きなものに祈るような気持ちでそれを見つめている。
彼女なら、彼女のような人達なら、何の躊躇もなく彼等に施しをするだろう。僕のような、小市民的な悩みなど微塵もなく、息をするように、ごく自然に、困っている人達を助けるだろう。
しかし、そのシスターは、何の躊躇もなく、身体障害者達の前を通り過ぎた。息をするように、ごく自然に、あまりにもあっけなく。

バスは、ポカンとしている僕を半分その空間に残したまま、黒い煙を吐いて発車した。
我に返った僕は、もうキリスト教なんか信用しないと身勝手に憤ったが、そもそも募金箱に小銭を入れるということ自体、彼等の神とは一切関係のない行為だったのではないか、と今では思う。
この「事件」には、いくつかの教訓が含まれている。
ある場面に遭遇した時に問題になるのは、結局自分自身がどうするかだけなのだということ。見た目やどんな団体に所属しているかだけで人を判断してはいけないということ等々。
この世には聖なるものなどないし、また聖なるものでないものも存在しないのだ。

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2006年09月16日

男と女のラブゲーム

子供の頃はよく背中に字を書いて遊んだものである。
相手の背中に、指先で何か任意の文字を書く。書かれた方は、その感触だけを頼りに何が書かれたのかを言い当てる。極めて単純なゲームだ。
しかし、このゲームには勝ち負けはない。書いた方も正解が出ると嬉しいのである。

さて、この遊び、書かれる文字は大抵ひらがな一文字であったが、果たして海外にもこのような遊びはあるのだろうか。
例えばアメリカで、ロシアで、中国や韓国で。
欧米では基本的にアルファベットで問題ないのかも知れないが、中国には漢字しかないわけで、それはそれで遊び辛いだろうなと思って勝手に同情する。

かなり前に、この「背中文字書き遊び」で変な妄想をしたことがある。
互いに相手の背中に文字を書き合っているのは、不倫関係にある男女である。
男が女の肩甲骨の辺りに指を置く。女は期待と不安に身を固くしている。
彼女は思う。ああ、「わ」だったらいいのに。私は「わ」が好き。
男がゆっくりと指を動かし始める。もちろん、彼は女が「わ」と書いて欲しがっていることを知っているのだ。
まず、縦棒、そして横にスッと短く指を滑らしてから、一気に左斜め下腰骨の近辺までそれを引き下ろす。
女の背中が小刻みに震え始めるのも構わず、男の指は冷静に先を続ける。再び上向きに、右方向に大きく弧を描くように。
ああ、これは!
だが、女が歓喜の小さな叫びを上げようとする正にその瞬間、男の指は最後の刹那、そのまま女の背中から静かに離陸するかと思いきや、くるりと小さな輪を描いたのである。
「ね」!?

男も女も苦労は絶えない。
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キトゥンをずっと見ていたい〜「プルートで朝食を」

Breakfast on PlutoBreakfast on Pluto
Original Soundtrack

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とにかくキトゥンが魅力的だった。
少年時代の彼も良かったけれど、やはり何といっても十代後半以降の、キリアン・マーフィー演じるキトゥンが最高だった。あまりにもはまっていて、途中から、「パトリック”キトゥン”・ブレイデン」を見ているのか、「キリアン・マーフィー」を見ているのか判らなくなってしまった程である。

キトゥンの描き方が実に巧みである。
いつも笑顔でいることで外の世界と向き合って来た彼にだって、一人きりの時には暗く思い悩む瞬間は何度もあっただろうに、そんなシーンはまず殆ど出て来ることがない。
どちらかというとキトゥンはいつも上滑り気味で、時としてこのような描写はその人物を深みのない単なる記号にしてしまうものだが、しかし、にも関わらず、彼に対する我々の印象は決して上滑りになることなく、キトゥンは「生きた人物」としてしっかりと観る者に印象付けられる。身軽でありながら深みを失っていないのだ。
音楽も実に効果的に使われている。細かな章立てになっている各エピソードは、その一つひとつにまるでテーマ曲のように音楽が寄り添い、そして画面に勢いを与える。
僕は「プルートで朝食を」を観ながら、思わず踊り出したくなっていた(特に、モホークスの歌と演奏、そしてそれを観て飛び跳ねるキトゥンが最高!)。

キトゥン自身が折に触れ「うんざりだ」と独白しているように、物語の背景自体は北アイルランドを巡るテロ事件が頻発する「シリアス」な時代である。
だが、この映画は決して暗くならない。幼馴染のローレンスやアーウィンの死といった重い出来事もたくさん起こるが、それら「シリアス」な事件がどういうわけか孤立せず、成り行き任せのキトゥンの日常や妄想とごく自然に共存しているのである。そう、まるで僕達の実生活のように。
僕は、この映画の「理由もないのに前向きな感じ」から、「ホテル・ニューハンプシャー」を連想していた。もちろん、両者に関連性などないだろうし、僕の連想は極々個人的なものでしかない。しかし(上手く説明出来ないのだが)、「プルートで朝食を」と「ホテル・ニューハンプシャー」の間には、何か非常に似通った精神が流れていると思うのである。
「作り物として構築することによって得られた生命力」と、僕はそれを取りあえず呼ぼうと思う。

僕は同性愛者ではなく、また女装趣味を持っているわけでもないけれど、ずっとずっとこのままキトゥンを見続けていたいと思った。
キトゥンは、それ程僕を幸せな気持ちにしてくれた(妻には内緒)。
人は映画を観て様々な感情を喚起される。「幸福感」もその一つであるが、「プルートで朝食を」あるいはキトゥンを観て僕が感じた「幸福感」は、何とも独特な色あいと匂いを持っている。

ホテル・ニューハンプシャーホテル・ニューハンプシャー
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2006年09月13日

愛に関する物語〜「変態村」

変態村変態村
ファブリス・ドゥ・ヴェルツ ローラン・リュカ ジャッキー・ベロワイエ

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人は、結局、それぞれ自分勝手にしか人を愛することが出来ない。時に、それは相手が誰であろうが関係ない妄想になる。そして、それは大なり小なり、誰もが日常的に行っている愛の営みでもあるのだ。
マルクは、意味もなく人に愛される。老婆に、小屋主に。
彼女達の愛は、果たして異常だろうか。
人の想いは止められない。人の想いは、少なくとも「想う」という次元においては、正常も異常もないのである。

「変態村」は愛に満ちている。マルクに恋焦がれる女達。行方不明の愛犬を探すボリス。そして「グロリアの帰還」に心掻き乱され、喜びに(あるいは嫉妬に)身を打ち震わせる男達。
しかし、注目すべきは、実は彼等にとって相手はマルクでなくても愛犬ベラでなくてもよく、もう死んでいると判っているかつて恋焦がれた女でさえなくてもいいということである。
相手は誰でもいいのだ。もし「愛」が「想う気持ち」でその軽重を量られるなら、彼等の愛は文句なく「至上の愛」である。

映画はまた、「自分のもの」にこだわる。独り占めやジェラシーが「愛」の発露の一つであることは百も承知だが、彼等の独占欲の底なし加減にはただただ唖然とするしかない。
何故か。本当は、「アレ」が極々自然な姿であるということを、僕達が知っているからである。
「見たいけど見たくないもの」には真実がある。いや、少なくとも無視出来ない何物かが含有されている、と言うべきかも知れないが。
グロリアを巡るバルテルと村人の確執と、ベラとしてボリスに確保される牛と村人のエピソードは全く同質なのだ。

愛に盲目となった者は、対象が何であろうととにかく奪う。奪われた者は、死に物狂いで奪い返す。奪い返そうとする。
奪う者と奪われる者は判る。だが、その奪われる対象としての存在を、僕達は一体どう考えたらいいのか。
誰が誰から奪うのか。そして、誰を奪うのか。
原題「CALVAIRE」は、ネット翻訳によれば「殉教」である。「愛」はいつでも「犠牲」なくしては成り立たないというのか。だとしたら、この映画はもはや「哲学」だ。

激情ピアノ、必ずペアで踊られるゾンビ・ダンス、「ペアがいないから」一人パブの椅子に腰かけてじっとしているしかない老人・・・。
その老人は(まるで「愛」のような)底なし沼に沈んで行ったが、最後にマルクから発せられるひと言に、僕の魂は震えた。
あの老人が沈んで行ったのはどのような世界であるのか。一方的に奪われた者が、何故最後にあのようなひと言を発することが出来たのか。

「みんなあなたが大好き。でも本当はうんざりしてるの」

これは「愛」に関する物語である。

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2006年09月12日

旧町名が知りたい!

最近ひょんなことから秋田の旧町名にすごく興味を惹かれている。
少し前に「金座街」という記事を書いて、そんなことから秋田の昭和50年代の町並みの写真など探して見ているうちに、無性に昔のことが知りたくなったのである。
知りたくなったといっても、別に佐竹藩の歴史とか市政の歩みとかそんなことが知りたくなったわけでは全然なくて、要するにただ単純に、本当に純粋に、まだ賑やかだった頃の秋田の町の様子やそのものずばり旧町名が知りたくなっただけなのだが、これが何と全くといっていい程資料らしい資料がないのだ。

まず出版物がない。回った何店かの一般書店では、無明舎出版に昭和の秋田の写真を載せた本が僅か数冊あるだけで、その中のキャプションに断片的に旧町名と現在の町名が併記されているに過ぎない。
古書店には「町名大辞典」のような立派な本が何冊かあったが、秋田市以外の県内全ての地名が(僕にとっては不必要に)網羅されているし、何といっても値段が「万」のつく値段だったので買うのは諦めた。
本がないならと検索してみたインターネットでも望ましい結果は得られず、秋田市のホームページに到っては、「地名小辞典」というそれらしいページが思わせ振りにあったものの、旧町名に到るリンクどころか現在の町名さえちゃんと表示されておらず、全くお話にならない状態であった。

ざる町、茶町、追い回し、馬喰労町、くろべいとの町(漢字が判らない)・・・。
きっと黙っていたらすぐにこんな町名など誰にも判らなくなってしまうに違いない。僕は郷土愛に燃える人間では決してないのだが、それでもこれではあまりにも悲しい。
以前、よく飲みに行く店で、そこの常連達と、「駐車場のない食堂ツアー」をやろうと盛り上がったことがある。結局あれも未だ果たせないままだが、今度は「住所を旧町名で呼ぼう」運動というのを提案してみよう。
取りあえずは秋田市中心部の大雑把な地図を手に入れて、そこに判明したものから順にちょこちょこと旧町名を書き込んで行こうと思っているのだが・・・。
図書館に行けば、何か判るだろうか。
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2006年09月11日

寺島しのぶの「匂い」の映画〜「やわらかい生活」

昨日、「やわらかい生活」を観て来た。
妻は僕に、「この映画そんなに観る気ないんじゃなかった?」と念を押したのだが、「いや、観たいと思ってたよ」とか言って同行したのである。
が、映画が始まってすぐに、僕は自分の間違いに気付いた。いや、正確に言えば、本編が始まる前の予告編を見ている時点ですでに、僕の頭の中にはクエスチョンマークがたくさん並んでいた。何のことはない、僕は、「やわらかい生活」と「ゆれる」を混同していたのである。
「何故?」と尋ねられても困る。本当に困る。

さて、期せずして観た「やわらかい生活」は、僕に日活ロマンポルノを想起させた。風景の湿った感じとか、起こることがとにかく個人的なことでしかないというのもそうなのだが、僕にそんなことを思い起こさせた最も大きな要因は、やはり何といっても寺島しのぶである。
寺島しのぶは、僕に強く日活ロマンポルノを意識させる。彼女主演で、誰か日活ロマンポルノの新作を撮らないかなと思ったくらいだ。
それ程、寺島しのぶは生々しくて、そして独特の匂いに満ちていた。

日活ロマンポルノの女優達は、映画館の暗がりの中に棲んでいた。だから、彼女達の裸は、映画館から白日の町に一歩足を踏み出すと途端に色褪せてしまった。しかし、彼女達の匂いだけはいつまでも残った。それは、生活の匂い(臭い)だった。
寺島しのぶには、その匂いがある。
あのブーツ、あの歩き方、そしてあの目。
妻夫木聡がどうしてもヤクザに見えないことも、映画自体がちょっと長過ぎることも、どうでもいい。この映画が「いい映画」なのかどうかさえ、僕にとってはもうどうだっていいことなのである。
日活ロマンポルノの脚本も多く手がけている脚本家・荒井晴彦の存在も、この作品に大きな影響を与えているのだろう。しかし、この映画の何とも言えない薄青い雰囲気を、果たして寺島しのぶ以外の一体誰がこのように演じることが出来ただろうか。

ところで、「やわらかい生活」は女性のための映画なのだろうか、とふと思う。
実は、僕はまだそう簡単には割り切ることが出来ないでいる。
心の何処かに、これは本当は男のためのお伽話なのではないか、という気持ちが消し難くあるのだ。
だって、優子は理想的な女ではないか。それが証拠に、この映画に出て来る男達は、誰一人として傷付かないではないか・・・。

足踏みポンプでビニールベッドに空気を送り込みながら、現実逃避する。
ああ、これはやっぱり「お伽話」だ。

※同じコンビ、というかトリオである。
      ↓
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2006年09月08日

I LOVE MY SHIRT

ドノヴァンの「BARABAJAGAL/バラバジャガ」という傑作アルバムに、「I LOVE MY SHIRT」という曲がある。
「それを着た時に、本当にいい気分になるようなお気に入りのシャツをあなたは持っていますか」、とこの曲は始まる。手元に訳詞がないので自分で適当に意訳したのであるが、まあこんな感じである。
シャツ、ジーンズ、そしてシューズ、とドノヴァンの歌は続く。古くなっても、擦り切れても、穴が空いても気にしない。だって、僕はこのシャツが、ジーンズが、靴が大好きだから・・・。

子供の頃は、本当にお気に入りの服というものがあった。理由なんかなくて、だけどとにかく大好きで、何処かへ出掛けようという時に、その服が洗濯中だったりすると、もうそれだけでその日は一日台無しになるのだった。
何故あんな服が好きだったのかなんて、今更思い出せない。でも、理由がないだけにその想いは強烈で、抗い難い何かを持っていた。
ライナスの毛布と同じように、それは何処かで「安心」というものと強く結び付いていたのかも知れない。

そういえば、姪っ子も、小さい頃は抱かれている誰かのシャツの襟を必ずつかんでいたものだった。僕の襟の端っこを握ったまま幸せそうに眠っている姪を、僕もまた幸せな気持ちで見ていた。
あの時、僕のシャツの襟は何に繋がっていたのだろう。何処に結び付いていたのだろう。僕は、多分、その時の彼女を本当に安心させてやれるような物など何一つ持っていなかったはずなのに、彼女は一体何を感じ、何を信じて、あんなに健やかに眠っていたのだろう。
小さな手がしっかりと握った小さな布切れは、本当にただの布切れでしかなかったのに。

大人になって僕は、大好きなシャツや大好きなジーンズや大好きな靴を持たなくなった。いや、好きなシャツや好きなジーンズや好きな靴はあったが、それはもはや「どうしてもこれでなくてはならない」ではなくて、「気に入っている」という気持ち以外の何かとも特に結び付いてなどいないのであった。
これは不幸だろうか。僕にはよく判らない。
世の中には、大人になっても、いや死ぬまで、「大好きなもの」を失わない人もいる。
でも、何となく、多くの場合それは「お金で買えるもの」に過ぎないような、そんな気もするのである。

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2006年09月07日

ご出産

秋篠宮妃が出産された、しかもそれが男のお子であったということで、連日マスコミは大騒ぎである。
天皇制に賛成の人も反対の人も、また天皇陛下は尊敬するが今の天皇制には問題点もあるとする人もそうでない人も、新たな生命の誕生には素直におめでとうと言うべきであろう。
しかし、僕は今朝、フジテレビの「とくダネ!」を見ていて我が目を疑った。別に、小倉智昭が場違いな皇室批判をしていたなどというわけではない。ごく普通に「お祝いムード」一色の番組編成であった。
では、何が僕をそんなに驚かせたのか。

番組では、紀子さまと同日に妻が出産することになりそうなある一組の夫婦が紹介されていた。予定よりも出産日が延びており、とうとう9月の6日になってしまったのだという。
それはいい。どうせなら紀子さまと同じ日に、と彼等が考えること自体には何の不思議もない。驚いたのは、朝の茶の間のテレビ画面に、いきなりこの若夫婦の出産シーンが映し出されたことである。
夫が妻の出産に(待合室でオタオタするのではなしに文字通り)立ち会うというのは全く個人の自由であるし、その気持ちも判る。百歩譲って、それをビデオ撮影するというのも、この際まあよしとしよう。しかし、それを他人に見せるな。

新たな生命の誕生には、誰も文句は言えない。しかし、だからといって何でもありというわけではないだろう。
どさくさに紛れて、「超個人的な幸せ」を垂れ流すテレビ局もテレビ局だと思う。
僕は古いのだろうか。
posted by og5 at 20:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月06日

吐き気と僕

緊張感は僕に吐き気をもよおさせる。この四月、同じビル内ながら職場を変わった僕は、未明に目が冴えて、そのままうつらうつらと朝を迎えるというようなことを頻繁に繰り返している。そして、そんな朝は決まって吐き気に襲われる。
僕と吐き気の付き合いは長い。もの心ついた頃から、僕はずっと吐き気と一緒に過ごして来た。僕は、そんな子供だったし、少年だった。だから、もちろん今でもこんな中年なのである。

僕が初めて吐き気を「諦めた」のは、19歳の時だった。
ちょっとでも緊張すると吐き気に襲われる僕は、家以外の場所で食事をするのが大の不得意だったが、その年、僕は会社の研修で寮生活をせざるを得なくなった。
高校までの三度の修学旅行は、何とかごまかすことが出来た。それらはせいぜい長くて5〜6日であった。しかし、その研修は、一ヵ月以上もあった。
僕の吐き気はあくまでも精神的なものだったので、いくらひどく喘いでも、本当に吐くということなどまずないということを僕は知っていた。それに、僕が吐いたからといって、一体誰が気になど留めるだろうか。僕はそう思い、開き直って、自分自身を寮の食堂のテーブルの片隅に放置したのである。
「諦めた」とは、そういうことだ。

だから、仕事から来るストレスで、最近毎朝のように吐き気に苛まれているとはいっても(矛盾していると思われるかも知れないが)特に気に病んでいるというわけではない。僕はこうして吐き気と付き合って来たのだし、多分これからも変わらず付き合い続けるのだろうと、ただ自然に思っているだけである。
それに、仮に仕事を辞めたとしても、それだけで吐き気から解放されるなどということは絶対にあり得ないということも僕は充分に知っている。
スノーボードで安比高原に行って、ああ何てふわふわの雪なんだ、さあ今からたっぷり楽しむぞ、とリフトに乗っている時でさえ、僕は妻の隣でゲエゲエと涙を流しているのだから。

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2006年09月04日

金座街

昔、秋田駅前には金座街という一画があった。子供の頃の僕も、東京に銀座というきらびやかな街があることだけは知っていたから、秋田はきっと真似をしているのだ、などと何となく思っていた。

金座街には、決して一人では行かなかった。親と一緒であっても、金座街に足を運ぶ機会は年に数えるくらいしかなかった。金座街はごみごみとしていて、まるでマッチ箱を組み合わせた迷路のようで、子供の僕には何だか少しこわい場所だった。

千秋公園の花見の後には、それでもいつも家族揃って金座街に行った。家族揃ってといっても、そこに父がいたかどうかについては記憶が定かではない。そして、食堂やおもちゃ屋や洋服屋が際限なくあるその場所は、僕にはやはり異界だった。

僕は、子供の頃から、予め言い訳を考えてしまうような性格だった。金魚すくいも、何度かやってはみたかも知れないが、上手くいかないことへの恐れや、人に見られているという自意識が僕をカチカチにし、そのことが僕を、わざとモナカを乱暴に水にくぐらせて一瞬にして全てを台無しにしてしまうという行動へと駆り立てた。僕はすぐに、金魚すくいの嫌いな子供になってしまった。

一匹もすくえなかった子供には、金魚すくい屋のおじさんは決まっておまけをしてくれた。赤や黒の小さな金魚の入った透明なビニール袋を手に持って、僕は家族と一緒に金座街の食堂に入った。
注文した中華そばが来るまでの間、食堂のイスの背中に引っ掛けた透明なビニール袋を、僕は飽きもせずに眺めていた。

金魚は、多分すぐに死んでしまったのだと思う。僕には、あのビニール袋を家に持ち帰ったかどうかの記憶すらない。
金座街も、もう何十年も前になくなってしまった。
posted by og5 at 23:06| Comment(2) | TrackBack(0) | 記憶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月03日

むし二題

日中、セミの鳴き声が全く聞こえて来ないことに突然気付いた。
妻や義母に訊いたら、もう数日前からそうだと言われ、何を今更と馬鹿にしたような顔をされた。更に、じゃあヒグラシの声は聞いたのかと訊ねると、ちゃんと鳴いていたと言う。
何ということだ。二日前の夜、帰宅時に玄関前でコオロギやキリギリスを見つけ、ああもう秋なんだなあ、などと悦に入っていたが、そもそも僕は夏の終わりすらちゃんと感じ取れていなかったわけである。
あれほどやかましく鳴いていたセミは一体何処へ消えたのか。いや、死んだに決まってはいるのだが、そのあまりの潔さに僕は呆然とする。
彼等は、また来年の夏になれば、のこのこと土の中から姿を現す。
そして、また忽然と、一斉に消えてしまうのだ。

ここ数年、ゴキブリが異常に少ない。
今年も、たまにもそもそと歩いているのを見掛けはしたが、以前のようにしょっちゅう叩き潰したり、マメに「ホイホイ」を仕掛けたり、食べ物の器の蓋を気にしたりするというようなことはすっかりなくなってしまった。
そういえばハエも滅多に見なくなった。
僕自身にはそんな新聞記事やテレビニュースを見た記憶はないのだが、何か今、ゴキブリやハエなど害虫界によくない異変でも起こっているのではないかと心配になる(まあ、ハエについては、彼等の繁殖する環境自体が少なくなったという単純な話なのかも知れないが・・・)。
沈没しそうな船からはネズミが逃げ出すというが、我が家は大丈夫なのだろうか。
害虫でも、いないとなると何だかすごく気にかかる。追記
posted by og5 at 19:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「そんな時代があったんだ」〜「ヨコハマメリー」という青春群像劇

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「ヨコハマメリー」というのが、このドキュメンタリー映画のタイトルである。しかし、これは「メリーさん」の映画ではない。いや、少なくとも、「メリーさん」だけを深く掘り下げようとした映画ではない。
フィクションである映画がまるで現実のように迫って来ることもあるし、またその逆もある。「ヨコハマメリー」は、ドキュメンタリーでありながら、僕にはまるで「青春群像劇」のように見えた。

終戦から戦後間もない頃の横浜の、それも更に限定された何ヵ所かの盛り場や繁華街に生きた、娼婦や、芸者や、商売人や、学生や、愚連隊や、その他様々な職業や過去や未来を持つ人々の「横浜青春物語」。かつて確実に一世を風靡していた大衆酒場「根岸家」の、今ではもう駐車場になってしまった跡地に立って、元愚連隊と「聞き書き横濱物語」の著者が、ここはカウンターだった、ここにステージがあった、と焼けてしまった自分達の「青春」の図面を再構築するシーンで、ふと呟かれる「そんな時代があったんだ」は、だからこの映画全体を方向付ける重要なキーワードである。
「そんな時代があったんだ」、しかし今はもうそれは何処かに消え失せてしまった。「メリーさん」は、「そんな時代」を大きなバッグに詰めて、ゆっくりと横断歩道を渡る。そして、確実に年老いて行く。

永登元次郎というシャンソン歌手が、「メリーさん」との交流を語りながら、映画の太い縦糸となる。彼は末期がんに侵されており、映画撮影後に亡くなっている。彼は男娼をしていた過去や、恋人の出来た母を「パンパン」と罵り家を出たこと、そんな母に対する済まない気持ちが「メリーさん」と母を重ね合わせて見るきっかけになったこと等を語るが、その話し振りは実に淡々としていて穏やかである。山のような薬や健康食品を飲みながら、煙草だけは止められなかった元次郎の、それが人柄であろう。
今気付いたのだが、インタビューを受ける人々は、概して皆穏やかである。「メリーさん」を熱く語るのは舞踏家や女優であるが、彼等は多分自分自身のことを語っている。

まるで幽霊のようだった、と何のシンパシーもなく「メリーさん」を語る団鬼六は清々しい。「メリーさん」を気持ち悪いと思う人々、彼女と同じカップで紅茶を飲みたくないと言った人々に僕は同調する。「メリーさん」が何者かは判らないが、彼女が引きずっていたものは、人をギョッとさせ、嫌な気分にさせた。それは紛れもない事実なのだ。
この「青春群像劇」において、「メリーさん」が象徴していたものは一体何だったのか。
おそらくその問いに対する答え(正解)はない。彼女に憑いていたものの正体も、やはり誰にも判りはしないだろう。
ただ一つ言えることは、彼女は人に嫌われもしたが愛されもし、そしてそのどちらの感情も持たない人ももちろんいた、ということである。

最後に、映画冒頭とエンディングにおけるテーマ曲「伊勢佐木町ブルース」に対する僕の印象の変化について書かねばならない。
最初、僕は何故「渚ようこ」なのだろう、と思った。何故「青江三奈」ではないのか。
しかし、映画を観終わった時、その理由は明らかになっていた。
「そんな時代があったんだ」という「青春群像劇」を彩るのは、どうしても「現在(いま)の歌手」による「伊勢佐木町ブルース」でなくてはならなかったのである。

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posted by og5 at 10:29| Comment(5) | TrackBack(1) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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