2006年10月29日

遠浅な私

私という人間は底が浅い
しかも遠浅である
休日ともなれば
子ども達や
老人や
家族連れが
潮干狩りにやって来る

何が採れているのか
何も採れていないのか

私という底の浅い人間の
しかも遠浅なこの海で
子ども達や
老人や
家族連れは
日が暮れるまでしゃがんでいる

何を求めているのか
何も求めていないのか
posted by og5 at 18:49| Comment(2) | TrackBack(0) | 人間けだもの | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

人の作った道でもいいじゃない
ありがたく歩かせてもらいます
自分の
自分の
と言ってると
すぐに道だらけになっちゃうよ
エコロジーに反します

posted by og5 at 18:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 人間けだもの | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「北風と太陽」について

「北風と太陽」というイソップ物語がある。僕はこの有名な物語について、ずっとちょっとした思い違いをしていた。
ストーリー自体には、思い違いの余地などない。

ある日、太陽と北風が賭けをする。二人の遥か眼下には、先を急ぐ一人の旅人が見える。旅人の上着を脱がせることが出来るかどうかというのが、北風と太陽の賭けだった。
勝負の結果についても、知らない人はいないだろう。結果は太陽の勝ちで、北風がどんなに強く吹いてもますます上着をきつくかき合わせるだけだった旅人が、太陽のじわじわと照りつける熱には、ついに自ら上着を脱ぎ去ってしまうのである。

僕の思い違いとは何か。
僕は、「太陽はよくて、北風は駄目だ」と思い込んでいたのである。つまり、この「二人」を、「要素」ではなくて、別々に存在する別個の「人格」だと考えていた。
しかし、太陽も北風も共に自然の一要素でしかないのであり、むしろ総体的にはただ単に「自然」である。
「自然」を「人間」に置き換えてみれば、「北風」も「太陽」も僕という一人の人間の内側に共にあるのだから、それを分かつことなどそもそも出来ないはずなのだ。

相反する性格を持つ二人の登場人物(?)が、実は一人の人間の心の中に元々存在している何かの象徴だという設定は、イソップ物語には結構多い。「アリとキリギリス」にしても、「ウサギとカメ」にしても、そうである。そして、この二作の場合、キリギリスやウサギが「北風」と同じ役どころであると言える。
しかし、この「と」で結ばれた両者には本来善悪などない。また、実は「ジキル博士とハイド氏」と同じように、彼等は同一人物であるはずだ。彼等は、相反する性質を持ちながら、目標に向かって二人三脚を強いられている。

例えば「北風と太陽」の勝負が真夏に行われていたとしたらどうだったろうか、などと考えてみる。旅人はもちろん軽装であり、勝敗を分けるのも「どちらが厚い上着を着せることが出来るか」である。
太陽に勝ち目はない。
イソップではない僕は、ついついそのように考えてしまうのだが、もちろんこれでは正しい「教訓」にはならない。

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2006年10月23日

「ブラック・ダリア」、「フラガール」そして「ゆれる」

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今日は午後から会社が休みだったので、一人で「ブラック・ダリア」を観に行った。
文句なしの傑作である。何というのか、成分がとにかくピュアなのだ。
パロディというと何だか今ではもうすっかり手垢のついたものみたいなイメージがあるけれど、ブライアン・デ・パルマはやっぱり別格である。
ニヤニヤ(時にはゲラゲラ)笑える上に、たたみかけるようなクライマックスでは、サスペンスの醍醐味ももちろんたっぷりと堪能出来る。
「ブラック・ダリア」は、今日今現在の僕の心のベストテン第1位である(ヒラリー・スワンクとそのママがとにかく怖い、そしていい)。

そういえば、先週末辺りから「フラガール」のことをちょくちょくと思い出している。
そしてそれは、感動的なフラのダンスシーンでも、女達のカッコイイ啖呵でもなく、実は町中からかき集めたストーブで、やっとこさ椰子の樹を暖めて「裏切り者」の男達が未来を掴もうとしているあの場面なのである。
時代は変わる、などと言ってみる。
ちょっとイヤらしいんじゃないのかい、などとも言ってみる。
しかし、あれが「石炭ストーブ」でなくて「石油ストーブ」だったということに、僕は改めて唸っているのである。

一昨日「ゆれる」を観た。これは日本版「カインとアベル」の物語であろうか。
権利を保障される代わりに束縛を余儀なくされた兄と、居場所がないが故に自由に生きるしかなかった弟。智恵子は、彼等双方にとって同時に「永遠に持ち得なかったものの身代わり」として存在してしまったがために、あの悲劇が起こったのだろう。智恵子は、ある意味「生贄」なのだ。
ところで、この映画、確かに面白くはあったのだが、僕には何となく頭でっかちに思えてならなかった。映画自体がゆれている、そんな感じがした。
何故、あの女の子は、赤い風船に全く興味を示さなかったのだろう。
何故、稔は精神鑑定にかけられなかったのだろう。
これは、素人の疑問である。
posted by og5 at 22:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月22日

長い日曜日

酒を抜くと一日が長い。
例えば、土曜日曜と酒を抜くとする。
日曜の朝は二日酔いに悩まされることもなく、目覚めも爽やかで、しかも早い。これが前日深酒をしたとなるとこうはいかない。
前夜酒抜きの朝は、8時に起きても、午前中だけでまだ4時間もある。
朝ごはんをゆっくり食べる。
新聞もゆっくり読む。
テレビだってゆっくりと見るし、トイレだってゆっくりじっくりと入る。
それでもまだ時間が余るので、本など読みながらブラブラしていると、やっと昼になる。
何と、ここに到っても夕方「笑点」が始まるまで、まだ4時間半もあるではないか。
頭が痛くて唸りながら過ごす午前中というものは、実にこんなにも長かったのだ、と愕然とする。

酒を抜いた日曜は夜も長い。
「笑点」を観ながらご飯を食べる。
ノン・アルコールだから、いつまでもそこにダラダラと座っているなどということももちろんなく、「笑点」が終わる頃には食事も殆ど終わっている。
僕は、さっさと風呂に入る。
まだ、7時前である。
いつもなら、ハッと気付くと「行列ができる法律相談所」が既に始まっているのに、寝るまでまだ4時間以上もあるのだ。
暇なので、いろいろと下らないことを考える。
僕に必要なのはこんな時間だったのだ、などと考える。
自分に何か素晴らしいことが待っているような、そんな気もする。
まあ、あり得ないけどね。

ふと気付いたのだが、酒を飲んだ日の説明には「もう」が多いが、飲まない日の説明では「まだ」が必要以上に幅を利かせているようだ。
驚いたことに、「まだ」やっと8時なのである。

今夜、すべてのバーで今夜、すべてのバーで
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posted by og5 at 20:04| Comment(2) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

人は「僕は誰とも違う」と皆同じように思っている

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このブログによくコメントをくれるFumingから、「あのIBMのCMで使われてるキンクスの曲持ってる?」と訊かれたことがある。
その「IBMのコマーシャル」というものを観たことがなかったので即答出来なかったのだが、ネットで調べてみたらそれが「I'm Not Like Everybody Else」という曲であることが判った。試聴してみたら、確かに聞き覚えがあった。が、僕の持っている「FACE TO FACE」にはボーナス・トラックが収録されておらず、他のベスト盤・企画盤にも該当曲は見当たらなかった。多分、以前ベストか何かで持っていたのだが、中古屋にでも売ってしまったのだろう。

遅ればせながらIBMのCMも観た。なるほど、カッコイイ。結構な歳の男女が、「人と同じ人生なんか嫌だ」っぽいことを叫んでいる(というか、まあ、この曲の歌詞がそういう歌詞なのだ)。
しかし、と僕は思った。というのも、この曲「I'm Not Like Everybody Else」の邦題は「僕はウヌボレ屋」というのであって、邦題が適当なこともよくあることではあるけれど、原曲の歌詞を読んだ限りでは、極々妥当な訳し方なのではないかという気がしたからである。
つまり、この曲の「I」は、自分は誰とも違うのだ、人と同じであるということなど受け入れられない、と強く主張するのだが、そう言えば言うほど、「誰だってそうなんだよ!」というツッコミが、天上の何処かからチラチラと聞こえて来てしまうのだ。
だって、レイ・デイヴィスが作った曲だもの。

「人と違う」ことと「人と同じでしかない」ことの狭間で揺れ動く市民の心を、レイ・デイヴィスはよく歌にする。彼は、そのどちらがいいなどと別に断言するわけではなく、ただ人はそのように思うものなのだ、という事実が示されるだけだ。
これは皮肉だろうか。きっと実生活では嫌な奴に違いないレイ・デイヴィスではあるが、その言葉の裏側には案外優しさが見え隠れしている。
だから、IBMのあのコマーシャルにおける「I'm Not Like Everybody Else」は、僕にはちょっとカッコよ過ぎる。ザ・キンクスの様々な曲を聴いて僕が勝手に受け取っていたメッセージは、実は、あのように声高に「自分」を主張し過ぎるとその内足元をすくわれるよ、ということだったのである。

Face to FaceFace to Face
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posted by og5 at 17:15| Comment(2) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月18日

「NO DIRECTION HOME」と夜明けの口笛吹き

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驚くのは、ボブ・ディランが、「こんなのはフォークじゃない」と非難されていたことである。
コンサート会場出口で、あるファンは「(ディランは)大衆に迎合している」と言い、その「ロック」転向を蔑むように笑った。彼(このファン自身)は大衆ではないのだろう。また、彼が言うところの「フォーク・ソング」は、大衆の音楽ではないのだろう。
多分、この時、ボブ・ディランは、既にアイドルだったのだ。
彼がもしアイドルでなかったならば、これほどまでに非難されることはなかっただろう。

彼は、音楽以外の何物かを背負っていた。表向きにはたまたま「フォーク・ソング」と呼ばれていたけれども、それは実は大衆の欲望だったのだと思う。
彼には、大衆にこびへつらう義理もなかったし、そういう感性も(もしかしたら)なかったから、気持ちのおもむくままに自分自身の歌を作った。彼は、もしかしたら、自分が背負わされていたもの、あるいは勝手に結び付けられていたあるイメージに、本当に無自覚だったのかも知れない。が、もし、自覚しつつあえて「ロック」に転向したのだとしたら、それもまた驚くべき反射神経である。

ボブ・ディランは「フォークじゃない」と非難されたが、70年代にはインテリの評論家に「ロック」じゃないと批判された多くのバンドやミュージシャンが存在した。インテリにとっては、自己投影して自分に都合のいい何事かを都合よく物語ることの出来る都合のいいものこそがいつだって真実である。だから、彼等を単純に信用することは出来ない。彼等は、決してそう告白することなしに、いつでも自分にしか興味がないからだ。
そして、困ったことに、それは何もインテリだけの特権ではないのだ。

ジャンル(あるいはステレオタイプの一切の取り決めごと)にとらわれない、ということが確かに一時期「ロック」の謳い文句ではあった。しかし、人は、とらわれないということにさえとらわれてしまう生き物である。つまり、何ものにもとらわれないのが「ロック」だと言えば、その「何ものにもとらわれない」ということにこだわるあまり、自ら拘束衣の中に自分自身を押し込めてしまうのである。
そして、ここに「何ものにもとらわれてはいけない音楽」という、世にも不自由なジャンルが誕生する。

牧歌的に自身の裡にある雛型に当てはめて音楽を選別するか、わけの判らない理屈の自家中毒に陥って何でもかんでも取りあえず拒んでみせるか、それは結局全く同じことなのだと僕は思う。「NO DIRECTION HOME」を観て僕が感じたのは、ロックでもフォークでもいいのだ、というごく単純なことであった。
呼び名などどうでもいい。
スタイルなどどうでもいい。
何か心にグッと来る物があるかどうか、心にグッと来る「何か」を感じる心を持ち続けることが出来るかどうか、ただそれだけが夜明けに誰にも聞こえない口笛を吹き、そして「これ」と「それ」とを分かつのだ。
posted by og5 at 22:06| Comment(4) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月15日

「けど」の問題

サッカー選手や野球選手のインタビューなどを聞くといつも気になることがある。例えば、次の大事な試合に向けた決意を訊かれたような場合でも、何故か彼等はその語尾に、かなりの頻度で「〜けど」と曖昧なひと言を付け加えるのである。

「見事な勝利でした。おめでとうございます」
「ありがとうございます」
「さあ、いよいよ明日の騎馬戦で今年度のクラス対抗運動会の王者が決定するわけですが、最後の決戦にキャプテンとして臨むその決意をお聞かせ下さい」
「まあ、今までやって来たことをどれだけ出せるかが勝負の分かれ目になると思いますから、とにかくリラックスして、この一年間積み上げて来たことを全て出し切りたいとは思いますけど」

僕の中ではこれは決意表明ではない。そもそも「思います」というのが断定を避けているわけだし、この「〜けど」の次にマイナスの意味を持つ何らかのエクスキューズが続くことは明らかで、だから彼等は最初から言い訳をしているのである。
更に、上の例でいえば「出し切りたいとは思いますけど」の「は」がある。「〜けど」をくっつけず「出し切りたいとは思います」と言っても、やっぱり何だか最初からあまりやる気があるようには聞こえない。
彼等は多分、無意識のうちに三重に言い訳をしているのである。

さて、僕はといえば、この言い回しをとても重宝して使っている。会社で、本当はこの仕事にはあまり自信がないのだ、ということを上司に伝えたいが、しかしもろに「自信がありません」とは言えない立場に置かれてしまったような場合、実に便利なのである。
言ってどうなるというものでもないが、何となく心が軽くなる。

そうか、普段自信満々に見えるサッカーや野球の代表選手達も、ファンやマスコミから、本当はあまり期待をかけられたくはないのだな・・・。

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posted by og5 at 12:51| Comment(0) | TrackBack(0) | TV・芸能人 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

けだものだもの

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鯨の年齢は耳垢で調べるのだと知った時は驚いた。切り株のように年輪があって、その数を読むことで何歳なのか判るのだという。小学生の僕は、人間も耳掃除をしなければ耳垢で歳が判るようになるのかな、などと下らないことを考えていた。

生物の年齢はその種毎に全く異なる時間軸を持っているという。犬や猫の年齢を「人で言えば」とわざわざ断って言い表すのも、つまりは人と彼等が同じではないスケールを持っているからである。
猫の場合、大体1年半で20歳になって、後は1年毎に4つずつ歳を重ねて行くと言われている。その計算でいけば、ウチのアホ猫「きゃんこ」など、今年で御年84ということになるわけだ。
もう完全なババである。

怪我をしてアパートの玄関前に捨てられていた「きゃんこ」は、いくら駄目だと追い返しても我が家の玄関に何度も何度もヨタヨタと入って来た。おそらく必死だったのだろう。飼うことは出来ないがこのまま見殺しにも出来ないと考え、取りあえずと医者に連れて行ったのが運の尽きだった。
結局、妻の実家で飼い、我々夫婦もそこで暮らすことになった。
まあ、それには他にも事情はあるのだが、名前をつけたらもうお仕舞いということである。

当時買った猫の飼い方の本によれば、猫は歳を取ると歯が弱り、高い所にジャンプ出来なくなり、仕舞いには失禁までするようになるのだという。
昔に比べれば歯は弱くなったが、「きゃんこ」はまだまだ元気である。ジャンプ力はちゃんとキープしている。トイレ後の砂かけは時々サボるようになって来たが、トイレの場所を間違えるということもまだない。
僕が「きゃんこ」の歳を感じるのは、足の爪である。

まだ若い頃の「きゃんこ」の後足の爪は、常に先端が擦り減っていた。ところが、それが最近では前足の爪並みに尖っているのだ。つまり、それだけ歩いたり走ったりすることが以前に比べ減ってしまったということなのだろう。
だって一日中寝てるもんなあ。

こうして段々とこの猫の足腰も弱って来るのだろうか、と何だかしんみりする。
しんみりとして、思わず抱きしめ頬ずりしてみる。
そして、その口のあまりの魚臭さに鼻が曲がる。
だって、けだものだもの。

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2006年10月14日

「学級崩壊」と犬の町

学級崩壊が問題になり、新聞等でも大きくクローズアップされている。10月13日付産経新聞によれば、従来の「反抗型」ではなくて「なれ合い型」が増えているのだという。
「なれ合い型」とは耳慣れない言葉であるが、要するに「友達感覚の優しい先生とのなれ合いの末に秩序が乱れる」ということらしい。

仲良しなら問題など発生しないのではないかと思いがちだが、人間は常に他人と仲良くしているわけにはいかない。一緒にいる時間が長ければ長いほど軋轢も生じ易くなるのが当たり前だ、と僕などは思う。
もしもそのクラスが日頃から全く上下関係の存在しない状態にあるのだとすれば、そんな時(軋轢が生じた時)、その先生がおそらく何らイニシアティブを取り得ないであろうことは容易に想像がつく。上下関係は、「威厳」あるいは「システム」と言い換えてもいいかも知れない。

これは、つまり、人間の子供と飼い犬を同等に扱ったために、やがて犬が子供を軽んじて、自分の家来のように見下し始める、というのと全く同じなのではないだろうか。
犬にはやっぱり躾けが必要なのである。
犬と人間の子供を一緒くたにしてはいけない。しかし、きちんと躾けなければ、人間の子供も案外簡単に犬化してしまうのではないか。僕には子供はいないが、犬化した子供が支配する社会に老人になった自分がいることを想像すると、何だか怖くてしょうがない。

犬化した子供が犬化した大人になって作る犬化した世界がもうすぐそこまで来ている。もちろんその犬は、愛を求めて人間を見上げるペットではない。遇った途端に相手を値踏みし、どうやったら最も美味しいご馳走にありつけるかを瞬時に判断する、他人を利用しようとしか考えていない野性の犬である。
彼らを野に放てば、そこはおそらくすぐに「犬の町」に成り果ててしまうだろう・・・。

僕は、「犬の町」には住みたくないなあ、と思う。
posted by og5 at 16:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月13日

意味もなく面白く、身震いするほどおぞましい〜「隣の家の少女」

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僕はまんまと罠にはまってしまったのか。それとももうじき痛い目に遭うことにまだ気付いていないだけなのか。
僕は今、ジャック・ケッチャムの小説について書いている。意味もなく面白い、身震いするほどおぞましい小説について。

「隣の家の少女」は、ごく健康的に始まる。これからワクワクするような冒険物語が始まるかのように。だが、始まるのは汚辱と残虐の物語であり、そこには何一つ救いがない。
何かが狂い始める萌芽の垣間見えるほんの序盤から、僕はこの小説を買い求め読み始めたことを既に後悔し始めていた。だが、結局僕は「隣の家の少女」のページをめくる誘惑に、最後まで克つことが出来なかった。
面白かったのだ。

何がそんなに僕を後悔に駆り立て、また同時に夢中にさせたのか。
後悔について説明するのは簡単だ。理由はたくさんある。陰惨なのだ。とにかく、陰惨極まりないのだ。それは、エンタテインメントの許容範囲をはるかに越えている。そして、自分がこの小説を面白がって読んでいるそのこと自体をまた後ろめたく思う。自分は誤解されないだろうか。変態だと思われないだろうか。だが、そう思う一方で、間違いなく「隣の家の少女」を「愉しんでいる」自分がいる。決して「残虐」自体を「愉しんでいる」わけではないにしても、である。
こんな気持ちになる小説はあまりない。面白いか面白くないか、あるいは好きか嫌いかで大概のけりはつくものだ。しかし、「隣の家の少女」は、(誤解をおそれずに言えば)面白くて好きなのに、面白くて好きだと言うことが憚られる小説なのだ。
後悔について話しているのにいつの間にか魅力について語っている、これがつまり「隣の家の少女」が僕を夢中にさせている理由である。

僕の手元には今、ジャック・ケッチャムの(僕にとっての二作目)「老人と犬」がある。「隣の家の少女」の文庫紹介欄で、解説を中原昌也が書いていると知って、迷わず購入したのである。
だが、まだ読んではいない。楽しみが半分、怖さが半分。いや、それは「半分」に分けられるような感情ではない。その感情に、僕は名前を付けられない。読み始めたら、最後まで、おそらく止めることも出来はしない。

ジャック・ケッチャムの小説は、意味もなく面白く、身震いするほどおぞましい。
これは、「悪魔のいけにえ」を初めて観た時のショックに似ている。

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2006年10月12日

魔法の言葉

僕には今「魔法の言葉」がある。
仕事のことが気になって明け方目が覚めてしまうことが増えていたのだが、その「おまじない」のお陰で最近はあまりそんなこともない。いや、相変わらず目は一旦覚めるのだが、「おまじない」を唱えると何故かまたすぐに眠りに落ちてしまうのである。

仕事中にも、この「おまじない」はよく効く。
頑張らなくてはと思うほど空回りしたり、全く気分が乗らないのに焦る気持ちばかりが膨らんでしまう時には、この「魔法の言葉」を心の中で数度呟く。すると驚くくらいすっと頭の中がシンプルになり、その結果、余計な力も抜けるし、出来ることから確実に片付けて行こうという前向きな気分にもなるのだ。

その「魔法の言葉」、「おまじない」とは次のようなものである。

僕は弱虫だ。
僕は泣き虫だ。
僕は意気地なしだ・・・。

どういう理屈でこれが効くのかは判らない。
でも、確かに効くのである。
posted by og5 at 21:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ヤクザ坊主の首飾り

昨日、実に久し振りに、ある一定以上の時間、日本のプロ野球というものを観ていた。NHK・BS1のプロ野球、パ・リーグプレーオフ「日本ハム×ソフトバンク」戦である。
結果は、ダルビッシュの好投により、3−1で日本ハムが25年振りというリーグ制覇に王手をかけたのだが、僕はこれを観ながら、今年3月のWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)以来のある疑問、というか違和感を思い出していた。
僕に甦った違和感とは、実に単純なことで、ひと言で言ってしまえば「あの首にかけた物は一体何であろうか?」ということである。

春のWBCと昨日の試合に共通して出場していたソフトバンクの松中選手は、首にある物をかけている。昔から野球選手のファッション・センスを云々する際には、よく彼等の多くが何故か身に着けている金のネックレスについて言及されていたものだが、松中の首を飾っているものはそんなありふれた代物ではない。
それは、多分糸、あるいは細布様のものをよって作られたと思しき随分と無粋な二色の紐で、そのかなりボリューム感を持つ大きな輪っかが、松中選手のユニフォームの襟のあたりで、まるで土佐犬の特注首輪か、はたまたヤクザ坊主の首にかけられた大玉の数珠のごとく、素振りの動きなどにつれてかなり目立って揺れるのである。

しかし、ヤクザ坊主は何も松中選手だけではない。WBCの時にも、他にも(イチローではないが)まだ何人かそんな選手がいたし、昨日のダルビッシュも、タイプは松中等とはちょっと違うのだが、おそらく同種に分類されると思われる細くて白っぽい首輪を2本着けていた。
これは何を目的としたファッションなのだろう。いや、僕にはこれがファッションなのかどうかも実は判らない。
チームの枠も越えているようだ。ひと頃盛り上がったホワイト・バンドのようなものかも知れないし、何だか宗教っぽい感じがしないでもない。もしかしたら、それで僕は「ヤクザ坊主」を連想してしまったのだろうか・・・。

僕はそもそも野球がそんなに好きではないし、「野球人」と自ら名乗るかの人々がどんな恰好をしようが基本的にはどうでもいいのだが、違和感だけは勝手に湧いて来てしまうので困っているのである。
楽天イーグルスにもあんな恰好をした選手がいるのだろうか。
「茶髪とピアス絶対駄目!」の「ノムさん」は、「ヤクザ坊主」に如何なる感想をお持ちであるのか・・・。
結構「アレ」が気に入っているかのごとく、下らない想像は尽きない。
posted by og5 at 19:08| Comment(2) | TrackBack(0) | TV・芸能人 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月09日

ああ、泣き死にしそう!〜「フラガール」

フラガールフラガール
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豊川悦司も劇中やや呆れ顔で言っていたように、この映画の中の女達は本当に強い。強くて、そして逞しい。

自堕落な中年男の僕には少々眩し過ぎる蒼井優(紀美子)の、まるで若い木の幹が何かにぶつかりながらも真っ直ぐ空に向かって伸びて行かずにはいられないように上へ上へ前へ前へと突き進む様や、母親の借金により都落ちし不本意ながら炭鉱娘達にフラダンスを教えることになった松雪泰子(平山まどか)の侠気満点の男湯襲撃(少しの躊躇も見せず湯舟にザンブと飛び込んで取っ組み合いを始める)シーンなど、本当に力強く逞しく、そして感動的だった。
しかし、僕にとっては、何と言っても富司純子(谷川千代・紀美子の母)が最高だった。

この映画の中の富司純子は、かつての東映仁侠映画における、愁いを秘めながらも凛とした女侠客でもなく、最近出演した「寝ずの番」で見せた、歳をとっても可愛く色っぽい「女」でもなかった。
富司純子は、本当に炭鉱町の女だった。それも、最高にカッコイイ炭鉱町の女だった。
ピンと伸ばした背筋、微動だにしない視線、その語り口調、そしてきっぱりと人生を受け入れる勇気。
千代は、感動的に美しい。
僕は、こんな富司純子を見せてくれた李鳳宇監督に心から感謝する。

「フラガール」は王道である。次に何が起こるのか、大体の予想がつく。それなのに僕達は泣き、笑い、そして感動する。王道の王道たる所以である。

古いものが廃れて行く時に、そこでしか生きて行けない人々と変わって行こうとする人々の間に起こらざるを得ない軋轢と、彼等全ての裡に生ずる葛藤とを、映画は過不足なく描く。
どちらがいいとか悪いとか決め付けられることではない。個別に見れば、ある状況においてはその時々に善悪はあるだろう。しかし、歴史はあまりにもゆったりと(あるいは時に急激に)動き、そして繰り返す。
だから、いいではないか、と僕は思う。新しい波がやって来て、今後どうなるかは誰にも判らないけれど、ステージ上では炭鉱娘達が見事にフラを踊りきり、千代は感極まって歓声を上げ、しかし同時に今日もまた坑口に向かうトロッコに乗り込む男達がいるのだ。

あの炭鉱町の女達や男達の着ている物の温か味と懐かしい匂いを、僕は知っている。あの長屋の土埃が口に入ったじゃりじゃりした感じとその味を、僕は知っている。
もちろん炭鉱町ではないけれど、かつて自分の周りにもあのような古臭い昭和の景色があったのだ。
そして、僕は何故かステージ上のしずちゃんを必死で目で追いかけながら、当時父が買って来た「石炭飴」は、もしかしたら「常磐ハワイアンセンター」土産だったのではないかと、あのニッキの不思議な味を思い出していたのである。
泣き死にしそうになりながら。
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2006年10月07日

語られることのないモチーフ〜「呪われた町」

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スティーブン・キングの「呪われた町」は、不思議な小説である。
僕はこの小説を読むよりも以前に、これを原作とした映画「死霊伝説 セーラムズ・ロット」を観ており、そのポスターのガリガリに痩せた吸血鬼の顔は何度も夢に出て来た。実はこれは元々TVドラマだったものをかなり適当に編集して映画に仕立て上げてしまった代物だということで、キング自身もあまり気に入っていなかったというようなことを後に聞いた。

小野不由美の「屍鬼」を僕は大好きだが、キングの「呪われた町」の焼き直しじゃないかという人は多い。確かに、登場人物や物語の背景がとても似通っているし、そもそも「起こる事」自体がそっくりなのだ。小野不由美自身が「屍鬼」は「呪われた町」へのオマージュであると語っているくらいで、それは当然といえば当然でもあるのだが、しかし、僕はそれでも両者の間には、(いい悪いではなく)もの凄く大きな隔たりが存在すると思う。
モチーフが決定的に違うと思うのだ。

「屍鬼」においては、物語られていることがすなわち物語であった。僕達の目に触れる(「おきあがり」を含む)登場人物達の行動や想いが、つまり作者のモチーフを語るのだ。
しかし、「呪われた町」では、多分スティーブン・キングの語ろうとしていることは巧みに覆い隠されている。何によってといえば、それは物語によってなのであり、だから登場人物達の行動や想いは、「屍鬼」における直截的な印象とは真逆に常に僕を曖昧な気分に陥れる。
ここでは、誰もモチーフを語ろうとはしない。

「屍鬼」は、文句なく感情移入し易い。舞台が日本であり、登場人物も日本人であり、吸血鬼と対峙するのも僧侶なのだから、それは当然のことだろうか。しかし、小野不由美の吸血鬼物語からは、僕は何故か「洋物」っぽさを感じてしまう。僕の心には、「呪われた町」の方がより「日本的」に映るのである。
「呪われた町」を不思議な小説だと思うのは、ここだ。僕にとって、「呪われた町」は「侘び寂び」の物語なのである。

「呪われた町」における語られることのないモチーフは、僕を容易に物語に近づけようとはしない。僕は、物語の周辺をただウロウロと彷徨う。そして、そこから離れることもまた出来ないでいるのだ。

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マイ・ビッグ・フット

足の大きいことが、僕のコンプレックスだった。僕は今、身長175センチで靴のサイズは26.5くらいだから、特に大足というわけでもないのだけれど、小さい頃はもっとバランスが悪かったのだろう。
僕は、しもやけにもひどく悩まされていた。靴下をはくのが大嫌いだったこともその一因だったのかも知れない。僕の足指(特に小指)は、寒い季節になるとしょっちゅう赤くぷっくりと腫れ、チリチリと痛痒く疼き、トックトックと脈打っていた。冷やすといくらかその痒さ痛さは紛れた。しかし、裸足でいると当然血のめぐりが悪くなり、ますます僕のしもやけはひどくなっていった。悪循環であった。
とにかく、僕は足の大きい(少なくとも自分でそう思っている)子供で、その足はしもやけで不恰好に腫れていた。また、足が大きいと笑われたことが、僕の父嫌いの大きな要因でもあった。

中学校に入り色気づく頃には、僕のコンプレックスは最高潮に達し、僕はやがて意識して小さめの内履きや靴を履くようになっていた。この「プチ纏足」は、僕の足の血のめぐりをより一層悪くし、しもやけを悪化させ、指の形をいびつにした。
友達と遊ぶ時も、僕の足はきつい靴の中でいつも悲鳴を上げていた。
水が高い所から低い方へ流れるように、欲求不満や鬱憤も、より低い所、より弱い者へと自然に流れて行く。
僕の中で一番弱いのが、僕の足だった。

不思議なことに、いつ、何がきっかけでこのコンプレックスが解消されたのかを、僕は全く憶えていない。気がつくと、僕はしもやけのない冬をごく普通に毎年迎えるようになっており、靴のサイズにももはや悩まなくなっていた。
僕は、今では(少なくとも)自分の足には、全く劣等感を持っていない。むしろ、自分の足が好きなくらいで、足は大きい方がいいとさえ思う。
実際、(特に男で)足の小さい人(小さい靴を履いている人)を見ると、何だかその人の器が小さいような、信用がおけないような、そんな気がしてしまうほどなのである。
本当は今でもまだコンプレックスが残っていて、この感情はその裏返しなのではないかと考えると、ちょっと嫌な気分になるのだが。

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2006年10月01日

ベッツィかクリスか

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時々無性に昔の曲を聴きたくなる。で、AmazonでCDを注文したりするのだが、多くの場合は1〜2度聴いただけで後はほこりをかぶるだけみたいになってしまい、結局は買ったことを少し後悔する。
後悔することになるのかどうかは別にして、先月僕はベッツィ&クリスのベスト盤を買った。「夏よお前は」はリアルタイムではあまり聴くことはなかったが、ウェンディ&ボニーにも通ずる「夏の寒さ」を感じさせる名曲であると思った。

さて、僕は今そういうことを言いたいのではなかった。
このベスト盤を聴きながら、僕は中学校時代のことを思い出していたのである。「ベッツィとクリスのどっちがいい?」と、それがさも重大事であるかのごとく友達同士で訊ね合っていたあの夏のことを。

何故人は優劣をつけなければ気がすまないのだろう。ミーがいいのかケイがいいのか、ランかスーかミキか。あるいはザ・ピーナッツの姉がいいのか妹がいいのか(古くてごめんなさい)。
結論としては、「どっちでもいい」でしかあり得ない。大体、彼女達と僕達の間には一切プライベートな関係などない。当たり前である。
しかし、僕達は比較する。比較せずにはいられない。そして、自分がどっちを選ぶのか、同級生達が自分と同じなのか、あるいはそうではないのか、に心をくだく。

実際に僕がベッツィとクリスのどちらをより好きだったのかといえば、ちょっと愛嬌のあるクリスの方だったと思う。ベッツィは何だか冷たいような気がしていた。叱られそうだと思っていたのかも知れない。だから何を、と訊かれても困る。困るというか、恥ずかしいからどうか訊かないで欲しい。
ただ一つだけ感じているのは、僕達は多分、彼女達のどちらに好意を抱くかというリトマス試験紙を、互いに相手に差し出していたのではないか、ということである。
僕達はきっと、ベッツィ&クリスの話をしながら、何かを構築しようとしていたのである。

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あらかじめ失われた父を求めて〜「花よりもなほ」再び

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宗左衛門は如何にして「仇討ち」から逃げおおせたのか、と再度考えてみた。
彼が「へっぴり侍」だったこと、既に天下泰平の世になっていたこと、長屋の人情に囲まれて日々を過ごしていたこと、おさえという女性に恋心を抱いていたこと、仇の親子とその暮らし振りを見てしまったこと・・・。
しかし、一番の要因は、彼と父との関係性の中にこそあるだろう。つまり、彼は、父の死にそれ程の憤りを感じることが出来なかったのではないか、と僕は思うのだ。

宗左衛門は、父にいつも頼りにならない長男だと言われていた。彼は剣術がからっきし駄目で、しかし、映画後半に到るまで、そのからっきし駄目な剣術しか父から教わったものはなかったと思い込んでいる。
宗左衛門の弟は、仇の屋敷のその朽ち果てた様を見て憐れを口にした兄に向かって、あなたには父の墓を参る資格がない、とまで言う。このいかにも武士然とした弟が、父にとって大のお気に入りであったろうことは明らかである。
おそらく、宗左には居場所がなかったのである。

そんな父が、あろうことか、待ったするしないの口論の末、碁会所で若い侍にあっさりと斬り殺されてしまった。その時、宗左衛門は一体何を思ったか。
肉親が突然死んだ。しかも理不尽に殺されたと知った時、彼の心の中にあったものは怒りか憎しみか悲しみか嘆きか。いや、それともそんな風に言葉で明確に言い表すことの出来る感情ではないもっと曖昧なもの、あるいは武士としては決して口に出してはならない、心の中に思うことさえ憚られる類のものではなかったのか。
それは、例えば「安堵」を伴う何かではなかったのか、と僕は思っている。

宗左がもし、父から解放されたのではなく、父を失ったのだとしたら、彼の「生きる」は全く違ったものになっていただろう。仇は正に仇であり、彼の物語はあんなには温かいものにならなかったに違いない。だが、それは決して否定されるべき生き方ではない。愛する者、尊敬する者を自分から奪った者に復讐心を抱くこともまた、人間にとってごく普通の感情だと思うからである。
「仇討ち」という制度の是非を別にして、宗左衛門のようには「生きる」ことの出来なかった多くの侍達の存在を考える時、僕にはやはり手放しで宗左衛門ばかりを褒め称えるわけにはいかないのではないかという思いが残る。
どちらもやはり、間違いなく、それぞれにそれぞれの「人生」なのだ。

宗左衛門の父は、失う前から失われていた。そして、彼の旅は、そのあらかじめ失われていた父を探し求め、父の再発見と共に自らの人生の意味をもまたそこに見出す旅であった。
「花よりもなほ」は、僕にとって一つの可能性であり、また同時にファンタジーでもある。
posted by og5 at 13:49| Comment(0) | TrackBack(1) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

進化するルビ

昨日、買い物の途中お昼を食べに寄ったラーメン屋で読んだ漫画について。

そのラーメン屋には少年マガジンと漫画ゴラク、そして漫画サンデーが置いてある。僕が昨日読んだのは漫画サンデー(9月12日号)で、その中に「警視庁特科捜査隊〜究極兵器将太郎」(画・片山誠、作・北芝健)という作品があった。
そして、とあるページまで読み進めた僕は、思わずそのページを切り取って持ち帰りたいという強い衝動に駆られた(結局は携帯電話のメモ帳に打ち込んだのけれど、よっぽど店員にペンを借りようかとも思った)。
何が僕をそんなに駆り立てたのか。それは、あるコマに次のような衝撃的な台詞(会話)があったからである。

「捜査一課が吉祥寺警察署の捜査本部に出張ってるから被害者が割れりゃあ今晩にでも住居めっけて打ち込みだ」
「はずしゃしねえと思うが逃ばれた場合特科捜査隊にお座敷がかかるな」

あまり「衝撃的」ではないですか?
では、これにルビを振って(つまり、実際のページにあったように)引用してみましょう。

「捜査一課(いっか)が吉祥寺警察署(キチジョウジ)の捜査本部(ほんぶ)に出張(でば)ってるから被害者(マルヒ)が割れりゃあ今晩にでも住居(ヤサ)めっけて打ち込みだ」
「はずしゃしねえと思うが逃(と)ばれた場合特科捜査隊(ウチ)にお座敷がかかるな」

まだ別に「衝撃的」ではないですか?
いや、僕には凄い「笑撃」だったのです。

内容からみると、これにはまだ必然性とルールがちゃんとあるように思われる。しかし、昨今のJポップの歌詞の奇妙なルビのこともあるから、そのうちどんどん意味なんかなくなって来るのかも知れない、とも思う。

例えば、「藍子は徹の肩に手をかけて、立ち上がろうとする彼をかろうじて押し止めた」が、「藍子(がっきゅういいんちょう)は徹(となりにすわっていたふりょうとみんなにおもわれているがほんとうはやさしいせいかくのおさななじみ)の肩(むかしやきゅうしょうねんでぴっちゃーをやっていたしあわせなかこをおもわせるあんがいがっしりとしたからだ)に手(ほそくてしろいゆびさき)をかけて、立ち上が(またいつものようにじぶんをいっぽうてきにひなんしたきょうしにとびかか)ろうとする彼(とおる)をかろうじて(きょうのおひるはやきそばぱんをたべた)押し止めた(そんなゆめをみた)」みたいに。

ああ、レコードのタスキの惹句で「退廃」に「デカダンス」とルビが振られているのを見て喜んでいた高校生の頃が懐かしい。
posted by og5 at 13:00| Comment(3) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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