2006年11月30日

朝ごとの母

寒くなるから
コートを着てね
折りたたみ傘を
持って行くのよ

肌着を一枚
多く着て
使い捨てカイロ
コンビニで買ってね

そして今日もまた
「いってらっしゃい」と
お天気お姉さんは言う

あなたは僕の母ですか?
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月曜日は可哀想

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The Fine Art of SurfacingThe Fine Art of Surfacing
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ブームタウン・ラッツなんてもう誰も知らないだろうが、昔結構はやったのだ。ボーカリストのボブ・ゲルドフはチャリティーの人としてもひと頃有名だったが、やはり「A Tonic For The Troops」から「The Fine Art Of Surfacing」あたりまでが花だった、と思う。
「The Fine Art Of Surfacing」中のヒット曲「哀愁のマンデイ(I Don't Like Mondays)」は実際にあったライフル乱射事件を題材にしていて、犯人の少女の動機が「月曜が嫌い」だったのである。

月曜が嫌いといえば、カーペンターズにも「雨の日と月曜日は(Rainy Days and Mondays)」という曲がある。こちらは特に何かの事件と関係があるというわけではなくて、一人の(多分)中年男性あるいは女性が、雨の日と月曜日にはいつも憂鬱な気分になってしまう、と行きつけのバーか何かで、気のおけない「いつもの誰か」を相手にぼやいている、という歌である。
考えようによっては「ミスター・グッドバーを探して」っぽい感じもするが、あちらは「夜毎」だし、だからこれはまあ考え過ぎというものであろう。

日曜日の夕方にはもうすでに落ち着かない気分になっている。翌日からまた始まる一週間が、何となく重荷に感じられてしょうがない。明日から休みだと自分を励ました金曜の午後が、もう遥か昔のことのようだ・・・。
人によって違うだろうが、僕が日曜の終わりを強く感じるのはテレビ番組によってである。昔は、「シャボン玉ホリデー」が始まるともう悲しい気分になっていた。楽しいのに悲しい。くつろいでいるのに落ち着かないのだ。
今「シャボン玉ホリデー」は僕の中でその座を「ちびまる子ちゃん」に譲っているが、もっと遅くなってからの番組よりも、この時間帯(午後6時台)の方がより「日曜の終わりの哀愁」を僕に強く感じさせるようである。

一週間の7日間を表す「月火水木金土日」のうち、太陽と月を除く他の星は全て太陽系の「惑星」である。
日曜(太陽)は「恒星」であり、これが他の曜日と異なる位置付けを与えられていることについては何となく理解出来る。しかし、月曜(月)についてはどう考えたらいいのだろう。
月は一週間の中で唯一の「衛星」なのだが、僕には、どうしても一つだけ場違いなものが紛れ込んでしまっているようにしか思えないのである。

月曜は、ちょっと可哀想である。
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2006年11月27日

不細工なお姫様はお好き?

「エラゴン 遺志を継ぐ者」という映画のコマーシャルをテレビで見た。
何気なく思ったのが、この手のファンタジーってみんな綺麗なお姫様みたいのが出て来るよなあ、であった(「エラゴン〜」のことはよく知らないから、もしかしたら僕の感想は本当に勝手な思い込みに過ぎないかも知れないのだが)。
これらの物語で、お姫様が不細工で、しかも意地悪だったら(例えばつる姫みたいだったりしたら)、ストーリー展開は一体どうなってしまうのだろう。
主人公のやる気も半減、いや完全消滅、とても命をかけて得体の知れない敵と戦おうなんて思わないだろう。
きっと、綺麗なお姫様は、馬の鼻面にぶら下げられた人参なのである。

ところで、僕はついでにシンデレラのことも考えてみたのである。そして、もしもあの人の足が臭かったら物語は一体どうなっていただろうか、というのがその下らない妄想の全てなのである(本当に下らない)。
まず、王子は舞踏会会場に残された片方だけのガラスの靴を拾い上げた瞬間、こう叫ぶであろう。
「わ、クセッ!」
そして、靴を放り投げ、可哀想な家来がその臭い靴を顔をしかめながら始末するのである、以上。
あの王子はそもそも靴フェチの気配濃厚だから、臭ければ臭いほど逆に恋はなお一層のこと燃え上がったというのもあり得ないことではないが、まあ、だとしたら、靴のサイズじゃなくて、最初から「匂い」でシンデレラを探しただろうけどね。

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2006年11月26日

スケープゴートを探してる

いわゆる「いじめ問題」について語る時、人は何故単純化しようとするのだろう。
僕の言う「単純化」とは、つまり「犯人探し」のことなのだが、テレビを観ても新聞を読んでも、多くの人が結局は特定の悪者を決めつけることにしか興味を持っていないように感じられてしょうがない。
親、学校、教師、教育委員会、教育政策全般、地域の人間関係、マスコミなども含めた社会環境、そしてもちろん「いじめる」子供達・・・。
本当は「特定の誰か」ではなく、彼等の全てに、是正すべき問題があるのではないのか?

食物連鎖のように、あるいは三すくみのヘビ、カエル、ナメクジのように、何もかもがグルグルと輪を作って繋がっている。
そういう意味においては、「いじめられる側にも問題がある」という「いじめる側」の勝手な言い草にすら、僕は一理あるような気がしてしまう。もちろん、「いじめられる側」にこそ大本の原因があるなどと言いたいわけではないし、「いじめ」に正当性を与えたいわけでもない。例えば、「いじめられる子供」に「いじめられる原因」があるとすれば、それを作り出しているのはもしかしたらその親かも知れず、その親がそんな親である原因もまた他に繋がっているだろう、ということである。

教育基本法の改正を批判する人達がいる。
石川好なども、一昨日(11月24日)付の秋田魁新報夕刊紙上で次のように述べている。

《近日中にも安倍政権の公約の一つである、教育基本法の改正が成立しそうだが、皮肉なことにそれを待っていたかのように日本中で子供の学ぶ現場で死者が出ている。これは、法律の条文の改正によって解決できる問題ではないだろう。共同体内部における人間同士の信頼関係が問われているのである。であるはずなのに、政治は教育基本法改正にまっしぐらに進んでいる》

彼等は決して対案を出さない。その内容についての論議は当然あって然るべきだが、全てが繋がっており特定の犯人などいないのだとしたら、それ(教育基本法改正)もひとつのなすべき取り組みだと、何故考えられないのだろうか。
それが、僕には不思議なのである。

特効薬がないとしたら、人はあがくしかない。現時点では、教育基本法改正も「あがき」のひとつでしかないだろう。しかし、「悪あがき」になるかどうかはまだ判らないにしても、とにかくやってみるしかない、と僕は思う。
今「いじめ問題」を語っている人の多くは、スケープゴートを探しているだけである。そして、この状況自体が、実は「いじめ」と同じメカニズムにより成り立っているのである。
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2006年11月25日

「エイージ」と唸る虎

肩の凝らないものが読みたくなって、随分前に買ってあった「怪盗ニック登場」を読み始めたら、いきなり虎を盗む話が出て来たので「トレーシィの虎」を思い出した。

「トレーシィの虎」は、ウィリアム・サローヤンの中編小説で、ハヤカワ文庫の「サローヤン短篇集 わがこころ高原に」に収められている。
思い出したら読みたくて読みたくてしょうがなくなり、乱雑な本棚を何度も何度も探したが見つからず、何だったら買い直してもよいとインターネットで調べてみたら、新品はおろか古本すら手に入れるのは難しいということが判った。
あきらめ切れずに最後にもう一度と本棚をかき回したら(結局)奥の奥にやっと見つけることは出来たのだが、ある時期、たいていの書店にこの人の本がごく当たり前のように並んでいたのを記憶している僕は、何だか少し淋しくなった。

さて、久々に読んだ「トレーシィの虎」はやはり素敵だった。
17歳の時に一人で入った動物園で自分の「虎」と出逢ったタマス・トレーシィを主人公としたこの物語は、訳者の古沢安二郎があとがきで述べているように、小説というよりは「詩的象徴ともいうべき一種の散文詩」である。
まず、タイトルが素晴らしい。
そして、出だしの次の一節がまたまた素晴らしい。

《タマス・トレーシィは一匹の虎を持っていた。
それは実際は黒豹だったのだが、そんなことは問題ではなかった、なぜなら彼はそれを虎だと思っていたのだから》

「エイージ」と唸る虎なんて、僕はこの作品で初めて知ったのである。

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2006年11月23日

奇妙な果実のようなもの

DSC09703.JPG家の小屋の脇にナツメの木が生えている。
そんなに太くはないが高さは結構あって、毎年秋になると数え切れないくらいの茶色い実を実らせる。
10月の初め頃、最近やけにカラスがうるさいなと思っていたら、誰も収穫しようとしないこの小さな実を、彼等は毎日毎日二三羽で連れ立って我が家を訪れては試していたのである。
今ではナツメの実はほとんど落ちてしまった。枯葉や石ころに覆われた地面は、茶色い小さな木の実で更にびっしりと覆われて、歩く度に乾いたような、それでいて微かに湿ったような不思議な音を立てる。

一週間程前、そのあらかた裸になってしまったナツメの木を見ていたら、奇妙なものがぶら下がっているのに気付いた。およそ4〜5メートル程もある木のかなり上の方に、何かが黒くシルエットを作っているのである。
近付いて見ると、それは巾着袋のように木の中心部にあって、逆光の中静かに佇んでいた。
その巾着袋は、ソフトボールくらいの大きさの、スズメバチの綺麗な巣であった。
もう寒くなっていたし、スズメバチが活発に飛び廻る季節でもなかったが、すぐに始末するのはためらわれた。どうやら最も獰猛なオオスズメバチではなさそうだったが、それにしても気持ちが悪く、もっと寒くなってから落とそうと、結局はまだそのままになっている。

最初、僕は次のように考えていた。
家の軒下でも小屋の後ろの廃材置き場でも、もっと安全な場所などいくらでもあるはずなのに、何故蜂は、秋になって葉が散ってしまえば周囲から丸見えになってしまうと判り切っているナツメの木に大切な巣を作ったのだろう(だいたい、木の上に巣を作るスズメバチなど聞いたこともない)。
どっちにしても、初雪が降ったら僕はこの蜂の巣を落とす。つまり、蜂達の血の滲むような生きるための作業は、全て無駄になってしまうのだ。巣の中の、安全に冬を越すはずだった何匹かの成虫、何匹かの幼虫も全て死んでしまう・・・。

こうして僕は、ほとんど本能で生きているはずの蜂ですら「無駄」を犯すのだ、という思いつきに囚われ、感傷に耽ろうとした。
しかし、僕のその目論見はあっけなく崩れてしまう。
調べてみると、庭木や生垣の木の枝に巣を作るコガタスズメバチというのがいることがまず判った。それに、スズメバチというものは、新たな女王蜂だけが木の洞などで冬を越すのであって、冬が来る前に、それ以外の蜂は、前の女王を含め全て死んでしまうというのである。
巣も「使い捨て」らしい。

自然は感動的だが感傷的ではない、ということか。
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2006年11月20日

「いじめ」と「蠅の王」

一概には言えないが、やはり人は言葉に縛られる生き物だと思う。
だから、殺人を犯しても「少年」だと言われれば保護すべきだと思ってしまうし、売春をしていても「援助交際」と言われれば今時の女子高生の単なる一トレンドのように感じてしまうのである。
そして、「いじめ」という言葉も、僕達の脳味噌に確実に誤ったイメージを植えつける。

よく、「いじめ」などというものは昔からあったのだという人がいる。確かにそのとおりなのだが、困るのは彼(彼女)の「いじめ」とその話している相手の「いじめ」が多分全く違うということである。
双方違うことを話しているのだから、あるいは相手の言葉をそれぞれ勝手に「自分語」に翻訳しているのだから、議論がかみ合うわけなどないのだ。

「いじめっ子」という言葉に、何らかの郷愁を覚える人はいるだろう。そしてその人は、自らの思い出の中の「いじめ」しか語ろうとはしない。
しかし、今問題になっているのはそんな牧歌的な「いじめ」ではない。
例えば、あれをまずは「集団リンチ」、あるいは「集団暴行」と呼んではどうだろう。それでもまだ彼等は、あんなものは昔からあったのだ、と訳知り顔で言えるだろうか。

ウィリアム・ゴールディングに「蠅の王」という作品がある。
無人島に漂着した少年達が、そこで生きていくために彼等なりの新しいルールを作るが、しかしやがて徐々に狂気に呑み込まれて行くという物語だった。
「蠅の王」における少年達の「神」は、地が見えなくなる程びっしりと蠅のたかった豚の生首だったが、果たして平成18年の子供達の「神」はどんな顔をしているのだろう。

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2006年11月16日

私は柿の木

通勤途中に、大きな柿の木がある。
そこは今取り壊し真っ最中の共同浴場の駐車場で、敷地は重機で埋まっている。
秋の初めにはまだ駐車場は営業していたようだが、その頃から既に柿の木の根元には、かつて共同浴場で使われていたと思しき椅子やテーブル、空調設備の室外機や埃だらけのマットレスなどが積み重ねられていて、たわわに実った柿の実の下でバリケードを築いていた。

南通りを駅方面に歩いて、秋田銀行の通路を横切る時、僕はいつもこの柿の木を横目で見る。
そして、この柿の木が「私は柿の木」と小さく囁いているような気がする。
廃墟になった風呂屋のバリケードのせいで、この柿の木の下には誰も近寄れない。数え切れない程実った橙色の果実は、誰からも等しく遠ざけられている。
空にはバリケードはないのに、カラスさえ、この柿の実をつつこうとはしない。

高い高い秋の青空と、何百という柿の実の色が眼の奥に黒く焼き付く。
あられをバラバラと降らせる強い風と、妙に明るい灰色の空に、何百という柿の実の色が一斉に揺れる。
この柿の木は幸せなのだろうか、とふと思う。
それとも不幸なのだろうか、とまたふと思う。
「私は柿の木」という囁きを聞きながら、僕は無言で光る水溜りの上をまたいで行く。
posted by og5 at 19:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

朝の嫌がらせ

毎朝毎朝
12分の1の確率で
最悪の運勢がやって来る

友達に裏切られるだの
仕事で大きなミスをするだの
勝手に人の一日を
決め付けないで下さいね

ラッキーアイテムが
刺身の盛り合わせでは
困ります
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私だけ?

「AKTスーパーニュース」(「FNNスーパーニュース」の秋田ローカル枠)の現在の進行役は、武田哲哉・武藤綾子の両アナウンサーであるが、僕には、この二人のあることがいつもとても気にかかる。

まず、武田哲哉アナウンサー。
この人は、次のニュースを読み始める直前に、必ずと言っていい程大きな摩擦音を立てて息を吸う。きっと、唇を半開きにして、前歯の隙間から強く息を吸い込んでいるのだろう。
この「音」は、僕の中では、反省もしていないのに反省した振りをする時の音、または相手を尊敬もしていないのにへりくだった振りをする時の音であり、慇懃無礼な印象を強く受ける。
まあ、そんな個人的な印象はともかく、「いらない音」には違いない。

そして、武藤綾子アナウンサー。
この人の番組最後の挨拶は、決まって「また明日です」である。
僕には、このひと言がひどく不自然に思えてならない。
親しい友人同士や会社の同僚相手なら「また明日」でもいいだろう。しかし、それに「です」を付けたところで、一般視聴者への挨拶にはならないような気がするのだ。
「また明日お目にかかります」とは言えない、何か深いわけでもあるのだろう。

不思議なのは、これが一向に変化の兆しも見せないということである。
AKT(秋田テレビ)の人は、アレを誰もおかしいと(あるいは耳障りだと)思わないのだろうか。
思わないのだろうな。
posted by og5 at 19:04| Comment(0) | TrackBack(0) | TV・芸能人 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年11月13日

みつを

みつを
どうするの

みつを
はこぶの

ブンブンブン
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愛のメモリ

心に目盛があったなら
恋の悩みもなくなるだろうに
5以上なら可
5未満なら不可

でも
やっぱり

心の目盛が見えたとしても
ちっとも役には立たないだろうな
5以上だけどイヤ
5未満だけど大好き

だからドキドキする
posted by og5 at 18:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 人間けだもの | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年11月09日

寿司とギター

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東京に行って来た。
ジョアン・ジルベルトの三度目の来日公演が主目的であったが、寿司屋に行くことも予定に組み込んでいた。

そもそも僕はあまり寿司屋というところへ行ったことがない。
怖いのである。
何が怖いと言って、まず何よりもカウンターが怖い。カウンターにはたいてい職人気質の親方がいて、客を値踏みしている(ような気がする)。
まず何から頼むのか、作法を知っているか、食べてどういうひと言を発するのか・・・。
つまり、僕は大好物の寿司を食べに来たはずなのに、いつの間にやら面接を受けているわけである。
ああ、小僧寿しが懐かしい、と僕は思う。ト一屋のグルマンが恋しい、と僕はおののく。
こんな僕に「トロ」など頼めるわけがない。せいぜい「中にぎり」あるいは「竹」である。
つまり、わざわざ寿司屋のカウンターに座って、僕は出前を頼んでいるのである。

しかし、今回は頑張った。自らを鼓舞し、妻と一緒に渋谷の某寿司店に殴り込みをかけたのだ。
並んだのは長い列の最後尾だったが、それでも思ったよりはずっと早く順番が回って来た。
たまたま案内されたのがテーブル席だったのも幸運だった。
僕達は上から二番目に高いにぎり寿司のセットをメインにし、あと数品を好みで注文することにした。活タコぽん酢、ウニ江戸焼き、茄子にぎり、和牛のあぶり焼きにぎり、どれもこれも美味しかった。
そして、ついに僕達のテーブルにメインの大皿が運ばれて来た。
「トロ」はどでかい皿の一番目立つ場所でテラテラと光っていた。
僕は、わざと「トロ」を避けるように一貫また一貫と食べ進める。
海老も、カニも、ウニも、イクラも、ホタテも、穴子も、玉子も、美味い。納豆巻きなどここにはない。
そして、僕の手はいよいよ「トロ」へと伸びる。

口に入れた瞬間、それはジュワッととろけた。口いっぱいに魚の甘い脂の味が広がり、温かい酢飯とほどよく交じり合い、鼻から何かがハフーンと抜けて行った・・・。
しかし、はっきり言って、僕は「トロ」を美味いとは思わなかった。
炙ればもっと美味しくなるだろうに、と思った。生々し過ぎて、何だかゲテモノのような気がした。ああ、赤身が食べたい、と思ってしまったのだ。

その夜のジョアン・ジルベルトの歌とギターは、「トロ」とは最も縁遠いところで、寄せては返し、そして静かに波打っていた。

ジョアン 声とギタージョアン 声とギター
ジョアン・ジルベルト

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2006年11月08日

「わたしを離さないで」〜僕達はみな、ヘールシャムの子供

わたしを離さないでわたしを離さないで
カズオ イシグロ

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カズオ・イシグロの「わたしを離さないで」を読んだ。
一人称で語られるこの長編小説は、多くの謎を内包したままで淡々と先へ進む。ここで語られていることは驚くべきことである。おそらく、極々近い未来の、もしかしたら僕達がもう既に片足を踏み込んでしまっているかも知れないくらいに近い未来の物語である。
不思議なことに、僕にはこの小説の「謎」を語ることが出来ない。「ネタばれ」になってしまうからなどということではなく、この小説においては、あらすじを語ることがそもそも不可能なのである。

「わたしを離さないで」は、例えば大きな象のようなものかも知れない。盲人が3人巨象に触れて、それぞれが我こそはこの不思議な生き物の確かな理解者だと主張する。しかし、彼等に語ることが出来るのは、巨象のほんの一部分にしか過ぎないというあの話を、僕は今思い出している。
「わたしを離さないで」が、難解であるなどと言いたいわけではない。むしろ、この小説は読み易く、ある意味シンプルでさえある。しかし、僕が「読み易い」、あるいは「シンプルだ」と言うことは、やはり巨象に触れた盲人の独りよがりにしかならないのではないかと思うのだ。

「わたしを離さないで」は分かち難い。そして、この巨象は、この上なくセンチメンタルでもある。
原題「Never Let Me Go」を、僕はわけもなく突然に思い出す。それは、会社に向かう途中の信号待ちの交差点だったり、昼食後の窓の外に見える雨の町を見下ろしている瞬間だったりするのだが、そんな時、僕は確実に泣きたくなるのだ。
「Never Let Me Go」というこのひと言に結び付けられた(あるいは込められた)重層的な意味の複雑さには、ただただ驚嘆するしかない。

僕達はみな、いずれは別れなければならない愛する人と、吹きすさぶ風の中で抱き合っているヘールシャムの子供に過ぎない。
それは、「アルジャーノンに花束を」を初めて読んだ時に感じた、身の置き所がなくなるような切なさを僕に思い起こさせ、そして苛む。
これは、素晴らしい小説であり、そして構築物である。

アルジャーノンに花束をアルジャーノンに花束を
ダニエル キイス 小尾 芙佐

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2006年11月03日

そぐわない私

今日は、妻と二人、徒歩で石田珈琲店のイベントに行って来た。
豆腐を売っていたり、綿の花のついた枝を売っていたり、姫リンゴのつかみ取りをしていたり、ブリキのおまるを売っている若者がいたり、モンゴルの切手を売っていたり、陶器を売っていたり、布製品を売っていたり、そしてもちろんコーヒー豆を売っていたり。
妻はこんなイベントが大好きだ。そして、同行した僕がいつも思うのは、自分はこの場にそぐわないなあ、ということである。

今日も、偶然遭遇したさるとびE様及びお友達と自家製きりたんぽやすし屋の話で盛り上がって、タコだのトロだのカウンターで緊張する話だのを大きな声で話していたら、妻にちょっと恥ずかしがられた(さるとびEさんは、このブログによくコメントを下さる妻のお友達)。
妻はもう僕のことをよくよく知っているので、恥ずかしがりながらも、別に僕を批判するとかそんなことではなく、「ちょっとちょっと、もう!」というような感じなのであるが、そぐわないなあ、と僕は勝手に思って勝手に溜息をついているのである。

とにかく、他の人達がカッコよく見えてしょうがない。着ている物も立居振る舞いも、何だか自信に満ち溢れている。いや、自信に満ち溢れているとかそういうことではないのかも知れないが、何だかそこにいるのが本当に極々自然に見えるのだ。
僕は浮いている。誰も僕など見ていないと判ってはいるが、それでも人目が気になる。思わず、「僕、雰囲気壊してないですか?」と尋ねてみたくなる。でも、そんなことを考えていること自体が雰囲気を壊しているような気もして、ますます身の置き所がなくなる。

とはいえ、妻とそういうイベントに出かけるのが嫌いというわけでは決してない。妻はおしゃれが好きだし、ウキウキしている彼女を見るのは楽しい。
妻はあれもこれも欲しいがこれとそれだけにしようかなどと迷い、結局これだけにしたとか言いながら華やいでいる。単純なものだ。
この単純(複雑)で、本当は複雑(単純)な妻と、僕は明日東京にジョアン・ジルベルトのコンサートを聴きに行く。東京、ボサノバ、そしてもしかしたらすし屋にも行くらしい。

多分僕はまたそぐわない感じにそわそわし、妻に迷惑をかけるのだろうな。
今のうちに謝っておこう。

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H.G. ウェルズ 雨沢 泰

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2006年11月01日

約20mlの過ち

不当表示というのは、食品メーカーにしてみたらやはり大変なことなのであろう。
ここに一枚の紙切れがある。それは、ベルメゾン「ぎゅっとしあわせ2006」というスープ詰め合わせセットの「芙蓉魚翅湯〜ふかひれ姿煮のかき卵仕立て〜」と名付けられたスープの(他に比べて)一際立派な金色の袋にセロテープでぺたりと貼り付けられていた「お詫びと訂正」である。
ちょっと長いが、全文を引用する。

このたびは「ぎゅっとしあわせ2006」をお買い上げ頂きましてありがとうございます。金のスープ「芙蓉魚翅湯〜ふかひれ姿煮のかき卵仕立て〜」個装袋の戻し湯量の表記に誤りがありましたので、お詫びと訂正をさせて頂きます。

@個装袋裏面、【内容量】の欄
(誤)160mlで一食分 ⇒ (正)180mlで一食分

A個装袋裏面、【お召し上がり方】の欄
(誤)熱湯を約160ml注ぎます ⇒ (正)熱湯を約180ml注ぎます

どうでしょう。
まあ、「@」の方は判る。不当といえば不当である。実際は180mlあるのに、表示を信じて一食分160mlだけわざわざこそげて食べた人の、残った20mlを一体どうしたらいいのだろう、という魂の叫びが聞こえて来るようである(空耳かも知れないけど)。
しかし、「A」はどうであろう。お湯20mlとは、一体どれ程の量なのであろうか。
そう思って調べてみたら、コンビニエンスストアでも売っている「ソルマック」が50mlであるから、この誤差はあれの約半分以下ということになる。
何と、二日酔いの朝の「ゴクゴク」の「ゴク」よりも少ないのだ。

毎日弁当を持って会社に通っている僕にとって、このスープは非常にありがたい存在である。通常はマルちゃんのもずくスープか何かなのだが、この詰め合わせの方がやはり楽しい。バラエティーに富んでいる。ちょっとした当たり外れもご愛嬌だ。
だから、謝られても困るのだ。
元々の「(正)」にすら、既に「約」の一文字がくっついているではないか、と僕は思うのです。

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馬の耳

僕を軽蔑するかい
君を怒らせたから
だけど嘘はついてない
みんなただのスタイル

ディランは好きだけど
ディランの言葉なんかいらない
君のIDには
ダミー番号が振られてるんだ

全部同じことさ


君に好かれるためには
椅子に座らなくては
だけど君に見えてるのは
どんな色の椅子だい

ディランっぽく見える
ディランのフレームが欲しいだけ
君のIDには
誰もクレームなんかつけやしない

僕は立っているよ

全部同じことさ
全部同じことさ

−RUBBER SOLE 「馬の耳」(予定)−
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