2006年12月31日

今日は大晦日

今日は大晦日、穏やかな年の瀬である。
あまりにも穏やかでのんびりした気分だったので、今日が元旦みたいだな、と妻に言ったら、さっきも同じことを言ってた、と言われた。
完全に気が緩んでいる。

大掃除は昨日までに済ましてしまった。受け持ちは玄関と風呂と玄関吹き抜け部分の照明。
去年までの数年間は、ドイツ・ケルヒャー社製のスチーム・クリーナーを使っていたのだが、思うところあって今年は家庭用洗剤とタワシで単純に洗ってみた。玄関も風呂場も、ずっと簡単に、かつ早く、作業を終えることが出来た。洗浄能力等比較すれば仕上がりにそれなりの差はあるのかも知れないが、全然気にならない。
ああいう道具は、セッティングまでが既に一大イベントだし、それを使った作業自体も、手でやった方が(ほどほどではあるが)ずっと効率的だ、ということにやっと気付いた。
確かに高性能であり、オプションで色んなパーツが揃えられるところなど道具好きには堪らない商品なのだろうが、根が適当に出来ている僕のような人間にはちょっと馴染まなかったようだ。
まあ、買う前に気付けよ、という話である。

大晦日には毎年茶碗蒸しを作る。茶碗蒸しは僕の担当である。
さっき、干ししいたけの出汁按配を見ていたら、昨日「まるごと市場」で買って来た銀杏がすごく臭い、と妻が言う。嫌がっているのではなくて、だからきっととても美味しい銀杏なのだろう、と言うのである。
鼻を近付けてみると確かに強力なニオイがする。昨日は値段も見ずに買い物カゴにぽいと放り込んでしまったのであるが、改めて確認したら、何と2,480円だった(袋を開けて何粒あるか数えてみたら133粒あった。つまり粒単価18.6円!)。
実はこれ、岐阜県は「うかい農園」というところの銀杏で、「丹精こめた本物志向の絶品」なのだそうである。
焼いてエメラルド色になった大粒の銀杏にちょっと塩をつけて食べてみたら、確かに、すこぶる美味であった。

まだ2時半過ぎだが、もう何もすることがない。
「琥珀ヱビス」でも開けてぐったりしようか。
「大笑点」って、いつだったかな。
ああ、幸せだ。
今日は大晦日である。
posted by og5 at 15:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年12月30日

「卒業式の歌」

年末に、何故か卒業式のことを思い出している。
思い出しているのは小学校の卒業式で、その時歌われた歌が僕は大好きだったのである。
普通卒業式といえば誰しも「蛍の光」あるいは「仰げば尊し」を思い出すのかも知れないが、僕にとって卒業式の歌といえば、何といってもそのものズバリ「卒業式の歌」である。

昭和30年代から40年代にかけて僕が通った小学校では、何かことがある度に椅子を胸の前に掲げて体育館まで行進した。イベントの重要度によって「椅子なし体育座り」か「椅子持参行進」かが変わるわけだが、卒業式はもちろん後者である。
卒業生、在校生、先生達は、みんなして実際に式のあるその日まで、何度も何度も本番に向けた練習をした。そして、そのメインがこの「卒業式の歌」の練習だった。

「卒業式の歌」は組曲になっている。
まず冒頭全員で「♪うららかに春の光が〜」と歌い出す。「♪良い日よ/良い日よ/良い日今日は〜」と続く。
次に歌うのは在校生で、「♪仲良く遊んでくださった6年生のお兄さん/やさしく世話してくださった6年生のお姉さん〜」と感謝の気持ちを述べると、それに対して卒業生が「♪ありがとう君たちありがとう〜」と応えるわけである。
僕が特に印象強く憶えているのは先生のパートで、「♪君たちよ先生はいつも待っている〜」と記憶していたのだが、調べてみたら正しくはどうも「待っている」ではなくて「見つめてる」であったらしい。
僕の記憶違いか、あるいは当時の音楽の先生が勝手にアレンジしたものだったのか、今となっては確かめるすべもない。

「卒業式の歌」を思い出したついでに、中学校の卒業式のことも思い出した。
当時、僕達の間では「レザーカッター」というものが流行していた。これは要するに、床屋に行って散髪するのがカッコ悪いという当時の風潮を反映したグッズで、よせばいいのに卒業式を間近に控えたある日、僕は友人数人と互いの髪をこのレザーカッターでカットし合った。
友人達にはなんの問題もなかった。しかし、僕の右耳の上あたりには、完璧なハゲが出来ていた。
僕はマジックでそのハゲを塗り潰して卒業式に出たが、マジックが油性だったために、角度によってそれはピカピカと光を放つのであった。
posted by og5 at 00:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 記憶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年12月26日

「M1グランプリ2006」を観た、というより「チュートリアル」を観た

「M1グランプリ2006」を観た。
結果は、「チュートリアル」の圧勝。史上初のパーフェクト優勝であった。

とにかく強く思ったのが、あんなに常軌を逸してるのに話題があくまでも「冷蔵庫」や「自転車のベル」でしかないという凄さ。
他の出演者達の方がもっとあり得ないシチュエーション設定だったりするのに、何故この二人のやり取りだけがこんなにも群を抜いてスリリングなのだろう、とずっと思っていた。
多分、それはずれ方の妙なのではないか、と僕は思う。この二人のずれ方、飛躍のし方は、とにかく肉体的かつ反射神経的で気持ちがいいのだ。

例えば、「チュートリアル」は、自転車のベルを盗まれたショックを忘れるために、行きずりの女と寝たことを告白する。あるいは、いきなりインドに行ってしまう。
ダイナミックだ。そして、鮮やかだ。
これに比べると、「笑い飯」の二人のやり取りなど、それがあのコンビの型なのだろうが、あまりにも作為的・予定調和的に見えてしまう。見た目とは裏腹に、「笑い飯」はとても箱庭的だという印象を受けるのだ。

他に最終戦に残ったのは「麒麟」と「フットボールアワー」であった。
優勝経験もある「フットボールアワー」は善戦していたとは思うが、何しろ勢いが違った。
初めはうるさくてわけが判らないだけだったおかしな居酒屋店員を、最後まで強引に演じ切ることでちゃんと「笑い」まで持って行くあたりは実力なのであろうが、残念ながら彼等には化学反応は起こらなかった。
いや、起こったのかも知れないが、試験管は割れなかったということか。

「チュートリアル」は凄く面白い。
今まで何故知らなかったんだろう、とくやしく思うくらいに面白い。
「ますだおかだ」のおかだがつぼにはまった時くらい面白い(たいていは何かずれててあんまり面白くないんだけど)。

ちなみに、僕は中田カウス師匠が大好きである。

※Amazonで注文してしまいました。
       ↓
チュートリアリズムチュートリアリズム
チュートリアル

ビデオメーカー 2006-07-12
売り上げランキング : 27

Amazonで詳しく見る
by G-Tools
posted by og5 at 22:16| Comment(2) | TrackBack(0) | TV・芸能人 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年12月24日

エロスと肝臓

血が流れてる
悪いことじゃない
低いとこから
高いところへ

君に通じる言葉があるうちは
まだ大丈夫

アヴェ・マリアより
それを歌う人
闇の底から
光の中へ

意味を探して涙を流してる
もう大丈夫

息が続いてる
悪いことじゃない
血が流れてる
悪いことじゃない

−RUBBER SOLE 「エロスと肝臓」(予定)−
posted by og5 at 15:45| Comment(0) | TrackBack(0) | サルの歌詞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年12月23日

Drコトー床屋に行く

木曜日の夜、会社の飲み会から酔っ払って帰宅したら、吉岡秀隆が手術室で悩んでいた。「Drコトー診療所2006」の最終回である。
「ALWAYS 三丁目の夕日」でコミカルな演技をするこの人を見て以来、従来の偏見をちょっと改め好印象を抱き始めていたのだが、世間はやっぱりこの人には愚直に悩む真面目な好青年を望んでいる、ということなのかも知れない。

さて、そんなことはともかく、ソファにグッタリと座って話の成り行きを見るともなく見ていた僕は、シリアスらしいドラマの内容とは無関係に、あることがとても気になってしょうがなくなって来てしまった。
それは、彼のヘアー・スタイルである。
何処となく「巨人の星」の花形満にも相通じる雰囲気の長い前髪が、悩んだり、グジグジしたり、うろたえたりしてうつむく度に、前方に鬱陶しく(それでも何故かあくまでも爽やかに)はらりと落ちて来るのだ。

ドラマの筋などもう全く無視して、僕はただただその髪の流れるような動きだけを見ていた。そして、Drコトーが床屋に行って、消え入るような声で理容師にこう注文するところを想い描いた。「あの・・・、前は切らないで、ワンレンっぽくして・・・」
あの髪型は、具体的な指示なくしては、絶対に成立し得ない。だとしたら、コトー医師は、浮ついたこととはまるで無縁のような顔をしているくせに、少なくともヘアー・スタイルにだけはとことん変なこだわりを持っているのである。

ドラマのラスト、彼はまた島に帰って行く。
そこに果たして彼の要求に応えられる床屋があるのかどうかが、今の僕の一番の気がかりである。
自転車をこいで、彼はいったい何処へ向かうのか。
もしかしたら、一軒目の床屋では満足出来なかったのかも知れない。

ドクター・モローの島ドクター・モローの島
バート・ランカスター

ソニー・ピクチャーズエンタテインメント 2006-07-14
売り上げランキング : 49257

Amazonで詳しく見る
by G-Tools
posted by og5 at 16:26| Comment(0) | TrackBack(0) | TV・芸能人 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年12月22日

「牛をつないだ椿の木」のこと

教科書が大好きだった。と言っても、それは国語の教科書に限ったことで、気に入った話があると、何度も何度も繰り返し読んだ。
小学校時代もそうだったし、中学高校になってからも、そのクセ(?)は変わらなかった。
新美南吉の「牛をつないだ椿の木」も、そのように読み親しんだ話のひとつだった。

何故中学生がこの素朴な話にそんなに惹きつけられたのか、今となっては不思議だが、何もそれは僕だけのことではなくて、当時の同級生の多くがこのメルヘンを好きであり、休み時間ともなると、物語の登場人物である海蔵さんや利助さんの台詞を真似て、「〜だがのォ」だの、「〜だて」だのとふざけ合っていたのだった。
しかし、それは決して馬鹿にしているのではなくて、むしろ親しみを込めた「愛」であった。

「〜でありました」という語り口調も大いに真似られた。また「人力車は牛ではないから、つないでおかなくてもよかったのです」、あるいは「木魚の音が、崖の下の道までこぼれていました」などという表現も、僕にはとても新鮮だった。
海蔵さんが井戸を作ろうと決心する街道沿いの一帯を示す「しんたのむね」という地名も、当時14歳か15歳だった僕達の間では、意味もなくもてはやされたのである。

僕が持っている角川文庫版の「牛をつないだ椿の木」には、他にも「久助君の話」、「嘘」、「屁」など僕の好きな話がいくつも収められている。
「久助君の話」の中で、久助君が友達の兵太郎君と取っ組み合いの喧嘩をする場面がある。新美南吉は、その状態を「くるう」と表現したが、まだ中学生だった僕にとっても、それは既にノスタルジーであった。

今改めて新美南吉の文庫本を手に取りその年表を見ると、彼は何と30歳の若さで亡くなっている。

牛をつないだ椿の木牛をつないだ椿の木
新美 南吉

金の星社 1982-01
売り上げランキング : 422217

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

posted by og5 at 21:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 本・雑誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「マッチポイント」を深読みする

例えば、コートのこちら側はアメリカ、あちら側はイギリスなのである。
そして今、ウディ・アレンはそのど真ん中で、ネットに弾かれてクルクルと回転している。
どちらに落ちるのか、いや、どちらに落ちたいと思っているのか。
運命はコントロール出来ないが、しかし、あちら側に行きたいと願い、その確率を上げるべく何事かをなすことは出来る。
それは、あるいは「決心」であるかも知れない。
ウディ・アレンの心は揺れている。
もしくは既に決心はついているが、それを声高に宣言する必要が、彼にはあるのかも知れない。

「マッチポイント」で唯一アメリカ出身のノラ(スカーレット・ヨハンソン)があのような運命を辿るのは、いや、あのように処理されるのは、だからウディ・アレンの意志なのであろう。
そうか、これは「決別」の映画なのだ。

※「マッチポイント」〜運命はコントロール出来ないが、映画はコントロール出来るということ
posted by og5 at 21:14| Comment(4) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年12月20日

「マッチポイント」〜運命はコントロール出来ないが、映画はコントロール出来るということ

マッチポイント 初回限定版 (特別ブックレット付)マッチポイント 初回限定版 (特別ブックレット付)
ジョナサン・リース・マイヤーズ ウディ・アレン スカーレット・ヨハンソン

角川エンタテインメント 2007-02-02
売り上げランキング : 391

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

ウディ・アレンの新作「マッチポイント」を観て感じたのは、何てイギリスっぽいんだろう、ということだった。それもそのはずで、この映画はアレン監督が長年住み慣れたニュー・ヨークに別れを告げ、ロンドンに拠点を移してから初めて撮った作品なのである。いくら情報に疎い僕でも、それぐらいは知っているわけだ。舞台はロンドンで上流社会。でも、だからと言って、それだけで単純にイギリスっぽいと感じたのか、というと実はそうでもない。もちろん、全編に繰り広げられる非常に癖のある発音(後半出て来る二人の刑事の会話、特に痩せてる方の刑事の喋り方なんて冗談みたいだった)の醸し出す雰囲気もそうなのだが、何と言ってもこの映画の一番イギリスっぽいところは、そのヒッチコック・テイストである。

ヒッチコックはイギリス出身だが、後にアメリカへ渡りサスペンスの巨匠と称されるようになる。作品のジャンルやキャリアを度外視すれば、ちょうどアレンとは逆のコースである。
ヒッチコックの映画は、とにかく洗練されている。あまりにスタイリッシュで、時に嘘臭いくらいだが、僕にはどうもそのあたりの映像スタイルを、ウディ・アレンがわざと真似ているような気がしてならないのである。
例えば、各シーンは全て画面としてきっちりとコントロールされている。役者の苦悩の表情も、言い争う男女の激しいやり取りも、ある一線で現実とは明確に切り離されている。
そして、スクリーン・プロセス。
スクリーン・プロセスというのは、ヒッチコックが好んで使った手法で、例えば移動する車中。窓の外に見える街並み。ヒッチコックはその背景を、セットに張られたスクリーンに、別撮りした街の風景を映写機で逆から映し出して表現したのである(つまり僕達は、車窓の景色として、その車の背後にあるスクリーンに映し出された全く別の場所の風景を見ているということ)。
僕の勘違いでなければ、クリス(ジョナサン・リース・メイヤーズ)が乗り込み、直前までの出来事に後部座席で慄くそのタクシーの窓から見えるロンドンの街は、何処か微妙に歪んでいたような気がするのだ。

他にも、テニス・プレイヤーが主人公である点(設定としては特に合致しないが、何となくヒッチコック監督の名作「見知らぬ乗客」を連想させられる)や、古くは「陽のあたる場所」(ストーリー的にもかなり近い)のモンゴメリー・クリフトや(ちょっと違うかも知れないけど)「太陽がいっぱい」のアラン・ドロンに遡る、貧しい青年が上流社会に入り込んで苦悩する、あるいはあがくというストーリー、そして何より冒頭のネットにかかるテニス・ボールの運命に関する比喩とラスト近くの指輪のシーンの対比(刷り込みとそれを利用した心理効果)と、実はノラ(スカーレット・ヨハンソン)もクリス自身もネットにかかったテニス・ボールに過ぎないのではないかという皮肉等々、この映画には観る者の好奇心を刺激する要素がふんだんに盛り込まれている。

とにかく、「マッチポイント」は面白い。ドストエフスキーの「罪と罰」も読みたくなるし、古いオペラのCDも欲しくなる。
僕など、痩せた刑事の訛りを聴くためだけにでも、実はもう一度、秋田FORUSシネマパレまで足を運んでこの映画を観たいと思っているくらいなのである。

見知らぬ乗客 特別版見知らぬ乗客 特別版
アルフレッド・ヒッチコック パトリシア・ハイスミス ファーリー・グレンジャー

ワーナー・ホーム・ビデオ 2006-04-14
売り上げランキング : 26848

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

陽のあたる場所陽のあたる場所
マイケル・ウィルソン ハリー・ブラウン ジョージ・スティーブンス

パラマウント・ホーム・エンタテインメント・ジャパン 2005-03-25
売り上げランキング : 42575

Amazonで詳しく見る
by G-Tools
posted by og5 at 18:36| Comment(2) | TrackBack(1) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年12月16日

イマジン

想像してごらん
埃っぽい道の向こうから
まだ若い小柳ルミ子が
八重歯をニョッキリと出して
歩いて来る

想像してごらん
あなたは酪農家の長男で
昨日は牛の出産があったのだ
それは学校を休むくらいの
ひどい難産だった

彼女は
あなたの
同級生だ

彼女は
あなたに
こう尋ねる

仔牛、どう?

心配そうな顔で
八重歯をニョッキリと出して
だが歌うように
posted by og5 at 15:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 人間けだもの | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

銀のクレーン

子供の頃、僕は、堤防の外側に長屋のような住宅がずらっと建ち並ぶ、太平川沿いのある町に住んでいた。僕の家は、その「長屋」の手前の、堤防と垂直にぶつかる砂利道に面した左側二軒目にあって、斜め向かいには、父親が新聞社に勤めるT一家が住んでいた。T家には二人の兄弟がいて、兄は僕よりも少し年上、弟は僕より少し下で、僕はもっぱらこの年下の弟の方と遊んでいた。
T家は我が家より裕福だったのだろう。遊びに行くと、自分では決して親に買ってとは言えないようなおもちゃがいくつもあった。銀のクレーンをぶら下げた、赤と黄色の塗料がピカピカ光るクレーン車も、そういうおもちゃのひとつだった。僕は、このクレーン車に、とりわけ長いアームから銀のチェーンで吊り下げられたキラキラ光る銀のフックに夢中になった。
僕は銀のクレーンに恋焦がれ、そしてある日、とうとうその鎖をちぎって盗んでしまった。

悪夢のような日々が始まった。ついに手に入れた銀のクレーンは、宝物として、夏休みの肝油の空き箱にきちんと収められていたが、そしてこっそりとその蓋を開け、蓋を開けた途端に中からピカピカの銀色が見えた時にはドキドキと胸がときめきもしたのだけれど、そこにはずっと払い除けようのない黒い霧のようなものが横たわっており、学校にいる時にも、夜布団の中で眠りに入ろうとするその瞬間にも、いつでも僕を苛むのだった。
結局、僕は罪の重さに耐え切れず、(多分)母親に付き添われて、T家に銀のクレーンを返しに行った。
新品を買って渡したのか、お金で弁償したのか、それともただそのちぎれた鎖とクレーンの残骸をT家の誰かに差し出して許して貰ったのかはもう憶えていない。

友達が大事にしていた蝶の標本を盗んでしまうエミールという少年の話を、僕はそれからしばらく後に国語の教科書で習うことになる。確か「エミールの蝶」という題名だったと記憶していたのだが、調べてもそんな題名の小説はなく、ヘッセ作の「少年の日の思い出」というのがどうやらその作品の元になっていたようだとやっと今日知ったのである。
エミールは、最後その蝶の標本を握りつぶしてしまうのではなかったか、と記憶している。
少なくとも、僕は銀のクレーンを相手に返し謝ることが出来た。あのまま知らんぷりをしたり、銀のクレーンを何処かに捨ててしまったりせずに本当によかった、と思うのだ。

※フォスカさんのブログ「黒い雑記帳」の記事を参考にさせて頂きました。
posted by og5 at 14:47| Comment(0) | TrackBack(2) | 記憶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年12月12日

「LOVE」を聴く

LOVE (DVDオーディオ付)LOVE (DVDオーディオ付)
ザ・ビートルズ

東芝EMI 2006-11-20
売り上げランキング : 46

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

ザ・ビートルズの新作「LOVE」を聴いた。
実はこのアルバムには悪意を持っていて、元々は購入する気もなかった。悪意というのは勝手な先入観であり、また偏見でもあったわけだが、具体的に説明するとそれは以下のようなものであった。

言うまでもなくビートルズは既に解散してしまっている。それどころかメンバーの内二人までがもはやこの世にはいない。だから「新作」など発表出来るわけがない。
また、今回のアルバムには全面的にジョージ・マーティンとその息子が関わっていて、過去の音源をコラージュしたりサンプリングしたりといった「改編」を行っているのだというが、しかしそれならば、ザ・ビートルズの「LOVE」ではなくて、マーティン親子の「LOVE」とすべきではないのか。
そもそも、ソロになってからオノ・ヨーコと一緒に「LOVE&PEACE」に邁進していたジョンならまだしも、現役の頃のビートルズが自分達のアルバムに「LOVE」などといういかにもへなちょこなタイトルをつけるわけがない。ここにはなんのひらめきも感じられないではないか・・・。

しかし、と僕はやがて思った。好きか嫌いかは別にして、まずは聴いてみなければ始まらない、文句を言うのはそれからだ、と。

はっきり言って、「LOVE」はビートルズだった(当たり前か)。
しかし、前評判やら何やら、色んな情報とそれに基づく偏った想像が頭の中で勝手にかつ激しく渦巻いていたので、実際に聴いてみるまで、僕はそんな単純なことにさえ思い到らなかった。
確かに、「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」のストリングスの昂揚に導かれ、「ア・ハード・デイズ・ナイト」のギターと「ジ・エンド」のドラム・ソロをイントロとして唐突に「ゲット・バック」が始まった時には(他にも何やらいろいろと混じってるけど)、そのあまりのカッコよさに唖然とし、心の中で思わず「ウヒャァ!」と叫んでしまった程だったが、それにしても(どうやっても)、これはやはり「ビートルズの音楽」以外の何ものでもないのである。
むしろ、一曲目「ビコーズ」の控え目な「加工」の方が余程違和感があり、ある意味ジョージとジャイルズ親子の才能(というかセンス)が強く感じられる、と言ったら考え過ぎだろうか。

ザ・ビートルズは既に解散してしまっており、メンバーも半分はあの世の人となってしまった。だからこれはやはり「新作」ではなく、あくまでも一種のベスト盤なのだと思う。
そして、ジョージ・マーティンは、かつてそうだったように、ここにおいても(息子と共に)やはり最高のプロデューサーなのだ。

アルバム・タイトル「LOVE」だけは認めたくないが、これは実に楽しいアルバムである。
posted by og5 at 23:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年12月10日

続・私は柿の木

少し前、ある柿の木について書いた。取り壊し工事をやっている共同浴場の駐車場に一本の柿の木があって、僕にはその柿の木が「私は柿の木」と囁いているように聞こえたという話である。
先週の木曜日、何気なく目をやると、工事はほぼ完了し、建物のあった場所も駐車場も一様にぬかるんだ泥に覆われており、柿の木ももはやそこにはなかった。
移植されたのかと一瞬思ったが、元駐車場の敷地のど真ん中に置かれた大きな鉄製の箱から、コブのある太い根が少しはみ出しており、よく見ると他にも何本か切断された木の幹が無造作に積み重ねられていた。それが、あの柿の木であることは疑いようがなかった。

一昨日、仕事で車を運転していたら、AMラジオから「千の風になって」という曲が流れて来て、秋川雅史という人が歌っていると紹介された。
僕は最初笑った。いかにも声楽家といったテノールで「私のお墓の前で泣かないで下さい」と歌われたら、居心地が悪くなって笑うしかないような日常を僕は送っている。
しかし、なかなか進まない渋滞の中にいて、歌の先を聴いている内に、僕にはもう笑うことが出来なくなっていた。アナウンサーの説明によると、作詞者不詳の英語原詩を新井満が日本語に訳し、その上で曲をつけたのだという。

「私のお墓の前で/泣かないでください/そこに私はいません/眠ってなんかいません/千の風に/千の風になって/あの大きな空を/吹きわたっています/秋には光になって/畑にふりそそぐ/冬はダイヤのように/きらめく雪になる/朝は鳥になって/あなたを目覚めさせる/夜は星になって/あなたを見守る」

僕は本来この手の歌は苦手である。
だが、この歌には嘘がない。真実しか書かれていないから、頷くしかないのである。
もちろんその「真実」は、オカルティックな「永遠の魂」のことではない。続いて行くのは物質あるいは故人の成した事柄の人による承継なのであって、魂が生き続けられるのはあくまでも残された者の心の中だけである。
そのように、この歌は清々しく「真実」なのである。

無残な柿の木を積んだ鉄製の箱には、白いペンキの筆文字で「廃棄物収集箱」と横書きしてあった。
この「墓」も間もなく撤去されてしまうだろう。
そして、僕はすぐにこの柿の木のことなど忘れてしまうだろう。
しかし、それでも、僕も時にはこの柿の木のことを思い出すだろう。
そして、「私は柿の木」という囁きをまた微かに聞いたような気がするのだろう。

千の風になって千の風になって
新井満 萩田光雄 Satoshi Yoshida

ポニーキャニオン 2003-11-06
売り上げランキング : 375

Amazonで詳しく見る
by G-Tools
posted by og5 at 12:33| Comment(2) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年12月06日

あらがえないひと

誕生日の夜
とろろご飯を
4杯おかわりしたひと

iPodに浮かれ
横断歩道で
サンバを踊りだしたひと

幸せすぎて
明日にでも死ぬのじゃないかと
心配したという

困ったひと

でも
あらがえないひと
posted by og5 at 20:04| Comment(7) | TrackBack(0) | 人間けだもの | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年12月05日

台無し

その時一人の少年が
群集の中より歩み出て
「王女様は裸だ!」
と叫んだ

やれやれ
子供というものは
時々
しょうもないことをする
posted by og5 at 21:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 人間けだもの | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年12月03日

「猿の手」と生まれ変わり

昔観た「オーソン・ウェルズ劇場」に「猿の手」というエピソードがあった。
老夫婦が、何でも願い事を叶えてくれるという「猿の手」を手に入れる。ただし、叶えられる願いは三つまでである。
夫婦は最初、半信半疑で「金持ちになりたい」と願う。夫婦の手元には大金が転がり込む。しかし、それは一人息子の死亡保険金なのであった。
失意の夫婦は、次に「息子を生き返らせて欲しい」と願う。すると、ある嵐の晩、誰も訪ねて来るはずのない家のドアが、突然何者かにドンドンとノックされる。夫婦は、それが誰であるかを直感する。
迎え入れるべきか否か。その「生き返った息子」とは、一体何者なのか。
結局、老夫婦は息子を迎え入れることが出来なかった。ドアを開けることなく、「息子を安らかに眠らせてくれ」と、「猿の手」に三つ目の願いをかけたのである。

最近、北九州市のマンションの一室で、ミイラ化あるいは白骨化した男女3人の遺体が発見されるという事件があった。この部屋を所有していた女は、死者を蘇生させるという祈祷師を信じており、かなり前にも同様の遺体放置事件を起こしていたのだという(この時の遺体は自身の母親で結局は不起訴処分)。
このような事件は度々起こる。それだけ「死者の蘇生」に何らかの意味を求める人達が大勢いるということなのだろうが、僕にはその気持ちが全く理解出来ない。多分、同じ精神の延長線上に、「輪廻転生」があり「前世(来世)信仰」があるのだろう。
現代の小中学生の多くは、何故か「生まれ変わり」を信じているのだというが、僕は、それが彼等の「自殺」に対する垣根を低くしてしまっている一因なのではないかとも感じている。

僕はゾンビ映画が大好きだが、蘇生などあるわけがないと思っている。だから、もちろん前世も来世も信じない。生まれ変わり継続して行くのは「物質」だけである、と以前ブログにも書いた。
何故人は生まれ変わりたいと願うのだろう。生まれ変わりさえすれば本当の自分になれるのか。だが、生まれ変わる自分が自分でないなら意味はなく、もしそうだとすれば、どうあがいてもやはり(たとえ来世に生まれ変わることが出来たとしても)結局は同じような自分にしかなり得ないのが道理ではないか。
「猿の手」には何の魔力もなかったと考えることも出来る、と確かオーソン・ウェルズは語っていた。つまり、息子が死んで保険金が入ったことだけが事実で、ノックの音は風のいたずら、三つ目の願いでその音が止んだのも単なる偶然だというのである。
全面的に同意する。

Sassy ミュージカル ・ モンキー Musical Monkey in the BoxSassy ミュージカル ・ モンキー Musical Monkey in the Box

Sassy 2005-10-07
売り上げランキング : 11284

Amazonで詳しく見る
by G-Tools
posted by og5 at 13:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年12月02日

居酒屋になります〜「BKHN(仮名)」にて

一人で飲む時は読みかけの文庫本を持参する。飲みたいのとゆっくり本を読みたいのが半々である。最近はしばらく家の近くの「IRUMA」を贔屓にしていたが、昨日はちょっと気まぐれを起こして「BKHN(仮名)」という居酒屋で飲んだ。
店内に入ってすぐ、僕はまず接客係の女子が非常に若いのに不安を抱いた。二人とも間違いなく十代であろう。(よく言えば)全然世間ずれしていない彼女達は、揃って、最近の居酒屋の店員がよく着ている作務衣の出来損ないのようなものを着ていた。
カウンター席に案内されて座ると、その内の一人が「おしぼりになります」と言って僕におしぼりの元を手渡した。僕は、米焼酎のロックをダブルで注文した。彼女は、最初「ダブル」が判らなかったが、少し待つと、「ロックのダブル」の元はお通しの元と一緒に無事に僕の前に並べられた。

カウンターには僕しかいなかったが、座敷には宴会客のグループがいて、やがて、「あの、すいません」だの「お願いします」だのと飲み物を追加注文する声が聞こえて来た。
しかし、客がかなりの大声を出しても、隅の方で何やらひそひそ話をしている女子達はどういうわけか全く反応しない。カウンターの向こう側で備長炭と格闘している板前(店主と思しき男)も全然反応しないので、僕は関係もないのにそわそわと落ち着かない気分になった。
もしかしたら一回目は無視するというルールでもあるのだろうか、と推理していたら、座敷から二度目の声が上がり、女子達と板前が同時に「はい、かしこまりましたぁ!!」と声を張り上げた。
僕はドキドキし始めた。持って来た推理小説よりずっとスリリングだ。大体、客の「スイマセン」に対して顔も上げずに「かしこまりました」と応えるのも相当不思議である。
「畏まった」女子達は、ズルズルと店内を歩き廻る。彼女達は草履のようなものを履いているのだが、そんな履物に慣れていないせいだろう、足の親指と人差し指に力がないから、その草履のようなものの底は常に床を擦って耳障りな音を立てるのである。
店内に、妙に間のある「かしこまりましたぁ!」と草履を引き摺るズルズルという音が響き渡る・・・。

僕はこの「BKHN(仮名)」に1時間程いたが、結局最後まで小説を読むことは出来なかった(店が面白過ぎて、またうるさ過ぎて)。
僕は、ヤリイカの元とシメサバの元と銀杏の元を食べた。
空になった結構大きなお通しの器を、作務衣ズルズル草履女子が下げに来たのは、二杯目のグラスも空になり、もう食べるものも殆どなくなってしまった頃だった。
「お下げしてもよろしいですか?」と彼女は僕に訊ねるのだが、どう見てもその器は完璧に空なのである。
彼女は、僕が皿を舐めるかも知れないと思っていたのだろう。
posted by og5 at 15:17| Comment(3) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
with Ajax Amazon

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。