2007年02月25日

探し物

探し物をしています
「FANCL(ファンケル)」の「E」です
もしかしたら
洗面台のパイプの
あの曲ったところに
「ヨ」になって
引っかかっているのかも知れません
posted by og5 at 19:39| Comment(2) | TrackBack(0) | 人間けだもの | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

何かが動き出す瞬間〜「上海の伯爵夫人」、「ミッドナイトムービー」

昨日、「上海の伯爵夫人」を観た。
事故で視力を失った元外交官ジャクソン(レイフ・ファインズ)と運命的な出逢いを果たす元伯爵夫人ソフィアを演じるナターシャ・リチャードソンは、「長距離ランナーの孤独」や「トム・ジョーンズの華麗な冒険」、あるいは「ホテル・ニューハンプシャー」などで有名なトニー・リチャードソン監督と、本作でも共演しているヴァネッサ・レッドグレイヴの娘だそうである。
この人、母親ゆずりか、とにかく身体(骨格)が立派。貧乏暮らしをしているにも関わらず気品をしっかり保っている元伯爵夫人、という役柄にぴったりとはまっていた。
そして、同じように、第二次世界大戦前夜の上海租界地区を舞台とし、陳腐なメロドラマになりかねない「運命的出逢い」を描きながら、映画自体にも実に確固とした品格が漂っていた。
これが、カズオ・イシグロとジェイムズ・アイヴォリーの実力というものであろうか。

さて、この映画は決して悲劇ではない。自らが創り上げようとする「理想のバー」の中心には「完璧な女性」であるソフィアが必要不可欠なのだと熱く語るジャクソンに、戸惑いながらもやがて共鳴する何ものかを感じ、微笑み、「では、踊りましょう」と手を差し伸べるソフィアと、それに呼応しゆっくりと立ち上がるジャクソンの間に漂っていたものは、互いの運命が溶けるように動き、そして破裂する、この上もなく眩い光なのであり、この映画は、その「何かが動き出す瞬間」を、それはそれは見事にとらえ切っていたのであった。

ところで僕は、「何かが動き出す瞬間」をとらえた映画を、今日もまた観ることになった。「ミッドナイトムービー」である。
こちらは、「エル・トポ」、「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド」、「ピンク・フラミンゴ」、「ハーダー・ゼイ・カム」、「ロッキー・ホラー・ショー」、そして「イレイザー・ヘッド」といった、1970年代に制作されたカルト映画を、それぞれの監督自身はもちろん、当時の関係者達の証言を織り交ぜてオムニバス的に綴ったドキュメンタリーである。
ジョージ・A・ロメロ監督やアレハンドロ・ホドロフスキー監督のインタビューもものすごく怪しくチャーミングだったが、何と言っても「ロッキー・ホラー・ショー」が制作者側の意図とはまるで無関係に(勝手に)盛り上がって行く様が圧巻であった。
同映画の深夜興行に、毎週末集い、まるで自らがキャストででもあるかのように歌い、踊り、ついには映画の登場人物と同じ扮装でスクリーン前で画面と一緒になって演じる「普通の人達」。
何かが動いている。目には見えないし、誰も言葉で説明することなど出来ないのだが、確かに何かが動いている、奇跡的なその瞬間を、僕達は映画館で見ることが出来る。

「上海の伯爵夫人」はシアタープレイタウンで、「ミッドナイトムービー」はシネマパレで、それぞれ上映中である。

ミッドナイト・ムービーミッドナイト・ムービー
アレハンドロ・ホドロフスキー スチュアート・サミュエルズ ジョージ・A・ロメロ

キングレコード 2007-01-24
売り上げランキング : 15147

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

シアタープレイタウン(秋田有楽町)
シネマパレ(秋田FORUS8階)
posted by og5 at 19:32| Comment(4) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年02月22日

一年間

年を取るにつれて、一年の長さというものが徐々に短く感じられるようになって来る。
実はこれにはちゃんとした理屈があって、かなり以前、あるラジオ番組でそれを聴き、なるほどと頷いた。
その理屈というのは至って簡単で、つまり、1歳の赤ん坊にとって一年は自分の全人生だが、2歳の幼児にとっては既に二分の一になってしまっている、というのである。
後は確実に分母が大きくなって行くだけ。当然それは年を経る毎に一方的に膨れ上がって行くのであり、言ってみれば相対的に分子(一年)はどんどん目減りして行ってしまう、ということになるわけである。
僕は今50歳だから、僕の今の一年間は50分の1である。これを小数で表わせば0.02。来年には0.0196になる。
年を取る毎に一年はどんどん短くなって行くが、その減り方の割合も同時にどんどん小さくなって行く。

さて、年を取ったお陰で、僕は昔のようには時間の急激な目減りを経験しなくてもよくなったわけだが、しかし、残された時間はますます少なくなって行く。そしてそれ故、全く違う意味で、僕の一年間は僕の中でその重みを加速度的に増して行かざるを得ない。
「もう過ぎた一年」はどんどん小さくなって行くけれど、「残された年月の中の一年」は逆にどんどん大きくなって行くのだ。
そして、この場合の「大きくなる」とは、つまり「失う時間の割合が増えて行く」という意味なのである。
何だか怖いようでいとおしい。
posted by og5 at 21:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年02月21日

泣いたアカオーニ

オイシイ ピザガ ゴザイマス
パンナコッタモ ゴザイマス
posted by og5 at 20:57| Comment(4) | TrackBack(0) | 人間けだもの | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年02月18日

「フフフ」でシシシ

「看護師」のことをネタにして、じゃあ逆に女弁護士を「弁護婦」って呼んだらどうだろうなどと考え始めたら、どんどん下らない妄想が湧いて来てしまったのでメモしておくことにした。

看護婦 ⇒ 看護師(通常パターン)
弁護士 ⇒ 弁護婦(時代逆行パターン1)
機関士・運転士 ⇒ 機関婦・運転婦(時代逆行パターン2)
家政婦 ⇒ 家政師(なんか勉強も教えて貰えそう)
サギ師 ⇒ サギ夫・サギ婦(夫婦でサギ師)
ホステス・ホスト ⇒ ホステ師(男女雇用均等法適用)

何だか眠くなって来た。
posted by og5 at 16:26| Comment(2) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ポイントカード

ポイントカードの類が嫌いである。
500円毎にスタンプを1個押し、それが20個たまると千円割引、とかいうアレである。
いいではないか、得ではないか、という人もいるであろう。妻も、この手のカードが大好きである。
が、しかし、鬱陶しいとは思わないか。行く店毎に「カードはお持ちですか?」と尋ねられ、持っていないと答えると、「ではお作りしましょうか?」と返って来る。
「いらない」あるいは「忘れました」と言う時に、何だか済まないことをしてしまったような気がするのも癪に障る。
第一、あんなものを言われるままに行く先々で作っていたら、あっと言う間に財布がパンパンに膨れ上がってしまうし、持っていたってどうせ今度いつまた使うか判らないのに、捨てると案外すぐに「お作りしましょうか?」が来るような気もして、実に始末に困るのである。

そもそもカードのくせしてあれらのものは効率が悪過ぎる。「ほっぺちゃんカード」のように加盟店全てで使用可能というものもあるが、それにしたって「加盟店以外の店」の方が圧倒的に多いわけである。
あれを全ての店舗に適用出来ないのか。ポイントカードは全て「ほっぺちゃんカード」に統一。割引も何処で受けてもOK。
そうなったら少しはポイントカードを見直してやってもいい。
考えてみれば、診察券というものも病院毎に発行されているわけで、ポイントカードと同じかそれ以上に無駄である。いや、そもそも健康保険証もカード化されているというのに、何で病院に行く度にまたいちいち診察券を発行されなくてはならないのか、全く理解出来ない。
こうなりゃ病院の診察券も「ほっぺちゃんカード」に統合しよう。
じいさんばあさんのポイントは凄い勢いでたまるぞ。

でも、多分全店舗・全病院「ほっぺちゃんカード」加盟は絶対無理だろうな、と思う。
もしそうなったら、確実にポイントがたまってしまうからである。
ポイントカードの本当の目的は、「客を得した気分にさせる」であって、実際に得させることではない。多くのポイントはたまる前に捨てられるか、期限が切れることになっている。その前提がなければ、店側にポイントカードを発行するメリットはないのである。

僕はますますポイントカードが嫌いになった。

※「ほっぺちゃんカードについて」
posted by og5 at 13:59| Comment(6) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「看護師」に引っかかる

昨日テレビの二時間ドラマを観ていて、主人公の医者が言う「看護師」という言葉に引っかかるものを感じた。相手は女性であり、つまり彼女は、以前ならごく自然に「看護婦」と呼ばれていたはずなのである。
このようなドラマの中においてさえ「看護婦」が「看護師」と言い表されるようにになったのは、職業上の扱いで女性を差別してはならない、といういわゆる男女雇用均等法施行をきっかけとして、あるいはそれに前後して、「表現」分野にまでそれを適用するようメディアが自主的に申し合わせたものだ、と僕は勝手に理解している。
言うまでもないが、性差による職業差別は許されるものでない。しかし、「表現」にはニュアンスというものがある。

病院の廊下を今通ったのは誰なのか。一人なのか二人なのか。老人なのか若者なのか。医者か患者か、それとも「看護師」か。でもそれは男なのか女なのか。
映像の場合、これは問題にならない。一目瞭然だからである。冒頭記したテレビドラマの場合も、台詞だったから僕は引っかかりを感じたのであり、彼女が実際どう呼ばれていようと、白いナース・キャップをかぶり「看護婦」の白い制服を着ている限り、視聴者には何の混乱も生じないわけである。
だが、同じシーンが文字で表現される場合、話は途端に面倒臭くなる。
書き手は、以前であればひと言「看護婦」と書いて済ましていたところを、「看護師」なら更に「男」あるいは「女」と付け加えなくてはならないのだ。
一番困るのは、これが単なる状況説明の場合で、「男女の別は雰囲気として明確にしておきたい。しかし、読者にはそんなに引っかかりを持たれたくもない。さて、どうしよう・・・」といったような余計な悩みが生じることになる。

それも書き手の腕の見せ所、と言ってしまえばそれまでである。便利な言葉に寄りかかっていることは、怠慢と言い換えることもまた可能であろう。
だが、「自主」かどうかは判らないが「表現」を規制して、世に馴染んでいる言葉を機械的かつ一律的に駆除することも、ある意味メディアの怠慢であると言えるのではないだろうか。
「弁護婦・猫島貞子の事件ファイルE 〜 失踪した夫の残した3粒の銀杏の謎」などという気合の入った二時間ドラマを、僕は観てみたい。

※彼女(スーザン・サランドン)は「女弁護士」ではなく「弁護婦」。
         ↓
依頼人〜ザ・クライアント〜依頼人〜ザ・クライアント〜
ジョン・グリシャム ジョエル・シュマッカー スーザン・サランドン

ワーナー・ホーム・ビデオ 2000-04-21
売り上げランキング : 58746

Amazonで詳しく見る
by G-Tools
posted by og5 at 12:14| Comment(4) | TrackBack(0) | TV・芸能人 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年02月17日

「たぬき学校」の生徒だった

僕は、特に本の好きな子供というわけではなかった。しかし、小学校の図書館に、僕はとても心馴染むものを感じていた。それは、多分、自分の大好きな本がいつでもそこにあったからだろうと思う。
ディズニー映画にもなった「三匹荒野を行く」やSF「五次元世界の冒険」にも夢中になったが、僕の図書館の本ベスト・ワンは、何と言っても「たぬき学校」であった。

「たぬき学校」は、そのタイトルが示す通り、たぬきの子供達の学校生活を描いた物語である。先生ももちろんたぬきで、子供達の名前は、ポン太だのタヌ八だのといういかにもそれらしいものであった。
ストーリーは至ってシンプル。特別なことなど何も起こらない。そこに描かれているのは、当時それを読んでいた僕達人間の子供の日常生活そのものと言ってもよいくらいだった。
しかし、僕はこの本に夢中になった。まるで、その中にこそ僕の本来あるべき子供の日常があるかのように、またその中にこそ僕の学校生活、あるいは友達が現実に存在しているかのように、僕は何度も繰り返し図書館に通い、そしてこの本を手に取った。

ところで。
たぬきの子供達が、しおれた葉っぱだったか花だったかを自分達の鼻の下にくっ付けて「人間の子供の鼻たらし」の真似をして遊ぶ・・・。実は、それが今僕が思い出すことの出来るこの物語唯一のエピソードなのである。
あんなに好きな本だったのに、今ではほとんどその内容を思い出すことが出来ない。
記憶というものは薄れて行ってしまうものだ、とつくづく思う。

僕は、中学生以降、ほとんど図書館という場所に行くことのない人間になってしまった。
それが何故なのか、僕にはよく判らない。

※大阪府立国際児童文学館HPの「子どもの本100選」で、「たぬき学校」が紹介されていました。
posted by og5 at 20:40| Comment(0) | TrackBack(1) | 本・雑誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年02月14日

そんな人

あなたは
間違わないのでは
ない

ただ
謝らないだけだ

何故だか知らないが
決して

そんな人.JPG
posted by og5 at 18:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 人間けだもの | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年02月12日

「オーラの泉」に思う

テレビ朝日の深夜帯で好評だった「オーラの泉」という番組が、ゴールデン・タイムにその放映時間を移すという。公式HPによれば同番組は、「国分太一が誘う『スピリチュアル・トークショー』」で、「愛の伝道師・美輪明宏が人々を幸せな人生へと導き」、「心の救世主・江原啓之が様々な人生の謎を解き明かします。」というもの。
一緒くたにするとそれぞれから異論もありそうだが、僕の中では「オーラの泉」も過去数え切れない程垂れ流しにされた心霊番組も同じ「オカルト」である。詰まるところ人生相談ならばはっきりとそう言えばいいのであって、何も手段に「霊」を持って来る必要はない、と思うからである。

しかし、僕は別に今この番組の内容について云々しようとしているわけではない。
ただ、人間って懲りないもんだなあ、と思っているだけである。

ひと頃、この手の番組が一斉に放映を自粛した時期があった。
言うまでもない。地下鉄サリンに代表される一連のオウム事件で、その手のものに世間が厳しい目を向けていたあの「健康的」な一時期のことである。
だが、問題は、あれが「一時的な自粛」に過ぎなかった、ということである。
つまり、人は別に「オカルトは公共の電波に乗せるべきものではない」と思ったのではなかったのだ。ただ「ほとぼりがさめるまでじっとしていよう」と思っただけだったのである。
「イニシエーション」や「ポア」など、オカルト番組よりよっぽど「オカルト」で刺激の強い現実が連日各局のニュース番組で取り上げられていたから、実は僕達はただ「作り物」を必要としていなかっただけなのかも知れない。
結局僕達は、あの事件をオカルト番組の代用品として愉しんでいたのだ。
そう思うと暗い気持ちになる。

だが、人は常に「オカルト」を必要とするものである、と言い切ってしまっていいのだろうか。「恐怖」や「不思議」、あるいは「神秘」は、人間にとって必要不可欠なものであると思う。しかし、「オカルト」は必要だろうか。
「オカルト」を辞書で引けば「神秘的なこと。超自然的なこと」と解説されているが、僕はそれが金儲けや支配欲と結び付いた時に、初めて「オカルト」になるのだと思っている。

「オーラの泉」に話を戻せば、美輪明宏は何故こんなことをやっているのだろう、ということだ。
僕は彼の歌にこそ、余程「神秘的な力」を感じるのである。

”愛”を歌う”愛”を歌う
美輪明宏

キングレコード 2001-02-21
売り上げランキング : 9759

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

美輪明宏 テイチク・ワークス 1970-1971美輪明宏 テイチク・ワークス 1970-1971
美輪明宏 丸山明宏 古賀政男

テイチクエンタテインメント 2006-04-26
売り上げランキング : 60765

Amazonで詳しく見る
by G-Tools
posted by og5 at 12:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

長過ぎるPV〜「マリー・アントワネット」

マリー・アントワネットマリー・アントワネット
サントラ スージー&ザ・バンシーズ バウ・ワウ・ワウ

ユニバーサルクラシック 2006-12-13
売り上げランキング : 406

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

妻と一緒に「マリー・アントワネット」を観に行った(妻は二度目)。
映画を観て、こんなにマイナスのエネルギーで満たされたのは、実に久々のことだった。
「『13階段』より駄目だった?」、と妻は数年前に観て二人で呆れ返った反町隆史主演の邦画を引き合いに出したが、比べものにならなかった。
去年観たばかりの、宮崎あおい主演の「初恋」や堤真一主演の「地下鉄(メトロ)に乗って」、それから愛と感動の「ナイロビの蜂」もかなり「嫌い」だったが、多分そのうち忘れてしまうだろうと思う。しかし、「マリー・アントワネット」を忘れることなど、おそらく僕には出来ない。単なる駄作ではないのだ。

主演のキルスティン・ダンストがまず駄目である。意地の悪い婆さんにしか見えないこの貧弱でやや品性に欠ける女主演の映画が、どうして多くの女性達に熱烈に受け入れられているのだろう、と不思議に思う。
70年代ニュー・ウェイヴ以降のヒット曲をふんだんに取り入れているのも何だかあざといし、演出も僕にはちぐはぐにしか思われず、オペラ観劇での拍手のくだりから噴水が勢いよく噴き出すシーンが象徴的に続くあたりではちょっと「おっ」と興味を惹かれて観たが、結局はなんの展開もないまま行き過ぎる無駄カットであった(一応、拍手のエピソードは、後半のあるシーンにだらしなく結び付いてはいるが・・・)。
更に、乱交パーティのシーンでは、思わず「いい加減にしろ!」と叫びそうになった。モラリストとしてではなく、あまりにも下らなくて、である。ハッとして辺りを見回し、「ああ、よかった。叫んでいなかった」と僕は本気で安堵したものである。
とにかく、長い映画であった。3時間以上は椅子に座っていた、そんな気がした。

僕には「ガーリー・ワールド」は無理だ。いや、そうじゃないな。僕にはソフィア・コッポラは無理だ、と言い直そう。
きっと、彼女のやることなすこと全てが、僕には気に入らないのだ。
あの靴が素敵だった、とか、あのドレスの感じが堪らない、とか妻が言うので、それなら映画なんか観てないでその靴だの服だの売ってる店に直接行けばいいじゃないか、と悪態をついたら、判ってないなあ、という顔をされた。どうやらそういう問題ではないらしい。
そして、そこで僕は、この映画の主演が何故キルスティン・ダンストでなければならなかったのかが、何となく理解出来たような気がしたのだ。
これは「広告」だ。つまり、ここで大々的に行われているのは、映画作りではなくて、マーケティングに基づく一大プロモーションだ、ということなのである。
でも、何の?
posted by og5 at 09:32| Comment(13) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年02月11日

LIFE'S A GAS

電気の武者電気の武者
T.レックス

ユニバーサルインターナショナル 1999-01-13
売り上げランキング : 28707

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

水木しげる先生が「本日の水木サン」で言っている「屁のような人生」とは一体どのような人生なのであろうか、と考えていたら、「あ、そう言えば」とT.レックスの「電気の武者」を思い出した。
「電気の武者」は、彼等が人気絶頂だった1971年の作品で、トニー・ヴィスコンティがプロデュースを務めている。
僕が思い出したのは、このアルバム中の「LIFE’S A GAS」という曲で、歌詞は次のようなものであった。

<惑星のように君を愛してたのかも知れない/君の心を星に縛りつけて/でもそれは意味のないこと/全く意味のないことだ/人生は面白い/ずっとそうだといいな・・・>

「Life's A Gas」という歌詞の「a gas」には「fun」という意味もあるので勝手にこう訳したのだが、「gas」自体には「wind」、つまり「おなら」の意味もあり、そんなことから水木先生のお言葉との関連性を妄想したのである。

これ以外にも「電気の武者」に収録されている曲には、「マンボ・サン」、「コズミック・ダンサー」、「モノリス」、「プラネット・クィーン」などといった宇宙系のものが多い。
妖怪漫画の第一人者でありながらオカルトとは最も遠い場所に位置する水木先生と、アルバム・タイトルとは裏腹に実は結構アコースティックで渋い「電気の武者」を作り上げたマーク・ボランの歌詞世界には、何処か共通する部分があるような気がする、と僕は思っている。
posted by og5 at 19:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

僕がチューニングを替えたわけ

僕が週末以外で車を使うのは、基本的に、妻を駅あるいは職場まで送って行くためであり、CDだとこれから仕事をするという気分にそぐわないということで、そういう朝の車内では、もっぱらラジオを聴いている。
以前はFMを聴いていた。僕達の頭の中には、AMラジオを聴く、という選択肢は端からなく、FMの放送局(それがFM秋田であれNHKであれ)に周波数を合わせるのは、極々自然なことなのであった。

TOKYO FMをキー・ステーションに放送されている一連の朝の番組がある。「コスモ アースコンシャス アクト ずっと地球で暮らそう。」や「WONDAモーニングショット WAKE UP NEWS」などがそれで、以前この時間帯は七尾藍佳(あいか)という女性が担当していた。
この人は、最近の多くの人達がそうであるように、「〜です」や「〜と思います」の「す」を必要以上に強く発音した。僕には、それがとても気に障った。
また、この人の話し方からは、聴き手を馬鹿にしているのではないか、という印象を受けることがたまにあった。
七尾藍佳の番組が癇に障り出すと、僕は周波数をNHKに替え、好きでもないクラシック音楽を聞いた。
それでも、僕達の朝の基本は、まだFMラジオであった。

しかし、いつだったろうか、同時間帯のパーソナリティーが、七尾藍佳から石川實という人に代わったのをきっかけにして、僕は、この朝のひと時にFMラジオを聴くことをほぼ完全に止してしまった。
石川實の話し方や声は、今の「話す職業の男性」にありがちなものである。
まず、低音である。喉の奥を広げて音を響かせる感じの話し方で、こんな話し方をレクチャーしているトレーナーでもいるのか、と思うくらい巷に蔓延している。
そして、石川實は、この「正しい」発声をするために全神経を集中してしまっているのか、肝心の言葉遣いが投げやりである。だから、この人のインタビューは、いつも相手に対してぞんざいで無礼な感じがするのだ。
僕は、一日の始まりである朝の数十分を、こんなことで台無しにされたくない、と思った。

そんなわけで、今僕は朝の車の中ではAMラジオを聴いている。
AMラジオは地味である。華がない。使われている音楽も古臭いし、アナウンサーの声も何処か深い穴の底から聞こえて来るようだ。
しかし、必要なことを、過不足なく、聞き取り易い話し方で、聴取者に伝えてくれる。
それで充分ではないか。
posted by og5 at 11:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年02月09日

Dの悲劇

ある年齢以上の人は今でも「Tシャツ」を「テーシャツ」と言ってしまうし、「ディズニーランド」も「デズニーランド」である。
高校の頃、「ZZ(ズィーズィー)トップ」を、高校生のくせに「ゼーゼートップ」と呼んでいる奴がいて、それを聞く度に、「疲れ切って息切れを起こしながらも必死になって演奏しているロック・バンド」を想像して、妙に可笑しかった。
小さい「ィ」を付けるべきところをそれなしで発音してしまうのは、実際は「オヤジ」ばかりではない。

逆の場合もある。

かなり前になるが、テレビで、中村雅俊がギター1本持ったアコースティック・ライブのようなものをやっているのを見たことがある。
彼は、そこで情感たっぷりに、ビートルズの「イエスタデイ」を歌っていた。
ところが、何だか違和感がある。耳がこそばゆいというか、尾てい骨の辺りがムズムズするというか、とにかく気持ちが悪いのである。
実は、中村雅俊は、「♪イエスタデ〜イ♪」と歌うべきところを、全て「♪イエスタディ〜♪」と歌っていたのである。

僕はこれを「Dの悲劇」と呼んでいる。

Rio Grande MudRio Grande Mud
ZZ Top

Warner Bros. 1990-10-25
売り上げランキング : 82664

Amazonで詳しく見る
by G-Tools


俺たちの旅・青春の詩~俺たちシリーズ主題歌・挿入歌集~俺たちの旅・青春の詩~俺たちシリーズ主題歌・挿入歌集~
中村雅俊 小椋佳 喜多條忠

コロムビアミュージックエンタテインメント 2004-08-25
売り上げランキング : 3211

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

posted by og5 at 19:42| Comment(6) | TrackBack(0) | TV・芸能人 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年02月08日

水木先生に諭される

本日の水木サン―思わず心がゆるむ名言366日本日の水木サン―思わず心がゆるむ名言366日
水木 しげる 大泉 実成

草思社 2005-12
売り上げランキング : 13962

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

今日は会社で落ち込むことがあったので、気を楽にしたくて「本日の水木サン」を開いた。
この本は、漫画家・水木しげるの名言の数々を、大泉実成という人が編んだもので、タイトルが示すように、日めくりの格言のように、一年を構成する一日一日に、先生のありがたいお言葉が朝鮮人参のように配されている。

例えば、1月29日は「自動車に乗ると自転車に乗ってる人間がバカに貧乏人に見えるもんだねぇ」で、1月31日が「屁のような人生」であった。
基本的にはもっと長いお言葉の日が多いのであるが、この二つは特に僕が好きなものなので、チョイスしてご紹介したのである。

さて、今日の日付分をパラパラとめくると、サブタイトルが何と「人肉食ツアーについて」で、最近「テキサス・チェーンソー ビギニング」を観たばかりの僕としては、ちょっと弱気になっていることもあって「うひゃあ、なんか出来過ぎだあ!」と心の中で叫んだ。
そして、思わず次のページへと指を滑らせると、2月9日のお言葉は、「努力は、人を裏切る」で、イラストのいかにも性質の悪そうな猫が、こちらを振り向いて僕に「バカ」と言っているのであった。

まいっちゃうなあ。
タグ:水木しげる
posted by og5 at 19:53| Comment(2) | TrackBack(0) | 本・雑誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年02月07日

「失言」が炙り出すもの

柳沢厚生労働大臣が、またまた「失言」したとして槍玉に上がっている。
「失言」にカッコがついているのは、僕にはどうしてもこの顛末が理解出来ないからである。
今回の「失言」とは、要するに「(若い人達は)結婚したい、そして子供を二人以上持ちたいという極めて健全な状況にいる」ということでしかない。これを非難している(主に野党の女性議員の)皆さんの意見によれば、「じゃあ子供が一人しかいない、あるいは子供が出来ない夫婦は不健全なのか」ということになるらしく、この場合「結婚」自体にも疑問符がついているのであろうことは容易に想像がつく。

人間も所詮は動物なのである、と今までも散々言われて来たし、また今後も言われ続けるのであろう。何故こんな判り切ったことをこうして繰り返し確認しなければならないのだろうと不思議に思っていたが、今回やっとその謎が解けた。
つまり、人はどうやら自分を動物だとは思っていないようなのである。しかも、その度合いは、いわゆる「リベラル」になればなるほど強くなって行くようだ。
動物ならごく当たり前であるはずの「子沢山は生命力が強い=正しい」が、ここでは全く通用しない。

僕は50歳になる今まで子供を一度も持ったことがない。東京は人が多いから嫌いだし、怖い。日本の、いや世界の人口が少なくなるのならそれに越したことはないとさえ思っている。社会の仕組みが人口減少に対処出来るかどうかという問題はあるにせよ、「少子化」に対して僕はそんなに悲観的になることが出来ないでいる。
だが、こんな僕でも、(動物である)人間が子供を作ることは健全なのだ、ということくらい(二人以上という数字はともかくとして)知っている。
僕がスタンダードになるような世の中ではいけないのだ。

僕は別にホラー映画を昼日中茶の間で家族と一緒に観たいわけではない。僕はパンク・ロックが「みんなの歌」の今月の歌に選ばれるような社会を好まない。「みんな」で社会に反抗して校舎のガラスを割るなんてまっぴらだし、船底に穴の空いた船だけが大海に出て行けるのだなんてことは嘘っ八だと知っている。
メインストリームをメインストリームと認めることは、決してオルタナティブを否定することではないのに、何故人は安易に主流をないがしろにしようとするのだろう。
posted by og5 at 22:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年02月06日

惹句はダテじゃない「テキサス・チェーンソー ビギニング」

2月3日、人間ドック明けの僕は、妙に軽くなって少しふらふらする頭で「テキサス・チェーンソー ビギニング」を観に行った。
そして、結局、更に頭がふらふらするはめになってしまった。
ひと言で言えば「やり過ぎ」。
「伝説はここから始まった」と言いつつも、オリジナル版「悪魔のいけにえ」にあった「無常観」や得体の知れない「怖さ」、後を引く厭な「不安な感じ」はここにはない。
おそらく、あまりにも全てがあからさまに過ぎるのである。

今思っているのは、「『悪魔のいけにえ』のレザー・フェイスって愛嬌あったんだなあ」である。
あれ程おぞましいと思っていたレザー・フェイスが今では可愛いとさえ思える。上半身だけ太ってて、脚が不自然に細くて、チェーン・ソーの動かし方も何だかぎこちなくて・・・。
しかし、だからこそ怖くて怖くてしょうがなかったのではないか。
「ちょっと愛嬌のある得体の知れないモノ」が意味もなく襲いかかって来る。それがレザー・フェイスの「怖さ」だった。
だが、この新作のレザー・フェイスは、とにかくただただ醜くてでかくて強い。

そもそも、この映画を観る時、観客は既にその十年後を知っているわけだ。この一家は捕まりもしなければ死にもしない。つまり、可哀想な犠牲者達は間違いなく殺されるということが、最初から前提となってしまっているわけである。
それでもハラハラドキドキはする。ビックリもする。逃げまどう女の娘のジーンズはお約束のように股が浅く、屈む度にお尻がチラチラと見える。偽保安官・ホイトに扮するR・リー・アーメイの怪演は、それにしてもやはりもの凄いとしか言いようがない、等々、確かに見所は随所にあるのだが・・・。

「テキサス・チェーンソー ビギニング」にはムードというものが全くない、と僕は思うけれど、反対にそこがいい、と言う人ももちろんいるだろう。
よく憶えていないのだが、R・リー・アーメイは、やはり僕の大嫌いな「セブン」にも出演していたそうで、あれが好きな人なら本作も気に入るかも知れないな、などと無責任なことをちょっと考えたりもする。
いずれにせよ、「覚悟がなければ、観てはいけない」という惹句は、なるほどダテじゃあなかったのである。

悪魔のいけにえ スペシャル・エディション コンプリートBOX(3枚組)悪魔のいけにえ スペシャル・エディション コンプリートBOX(3枚組)
マリリン・バーンズ トビー・フーパー ポール・A・パーティン

ビデオメーカー 2007-06-08
売り上げランキング : 207

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

テキサス・チェーンソーテキサス・チェーンソー
ジェシカ・ビール マーカス・ニスペル エリック・バルフォー

ポニーキャニオン 2006-07-19
売り上げランキング : 50331

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

テキサス・チェーンソー・ビギニング アンレイテッド・コレクターズ・エディション (初回限定生産)テキサス・チェーンソー・ビギニング アンレイテッド・コレクターズ・エディション (初回限定生産)
ジョルダーナ・ブリュースター ジョナサン・リーベスマン マット・ボーマー

角川エンタテインメント 2007-03-23
売り上げランキング : 533

Amazonで詳しく見る
by G-Tools
posted by og5 at 21:12| Comment(2) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年02月05日

我が愛しの「順序」

風呂で身体を洗うのにも順番がある。まず湯舟からお湯を汲んで足を洗う。それから顔、髪。そして最後に身体を洗う。湯につかるのは全身を洗ってからで、「まずつかる」ということは絶対にしない。
身体を拭くのにも順番がある。最初に髪の毛を拭いて、それから顔、首、肩から腕、腹、背中、ここで一旦耳穴に入ったお湯をよく拭ってから、腰、脚の順に拭く。

当然、朝の身支度にも順番があって、まずパジャマを脱いでパンツだけになり、靴下、シャツの順に身に付ける。ワイシャツは袖も含めてボタンを全て留め、次にズボンをはく。ベルトを締める。上着をハンガーから外す。同時にネクタイを1本選ぶ。上着はまだ羽織らず、一旦ソファの上に置いて、鏡を見ながらネクタイを締める。最後に上着の袖に腕を通し、腕時計をはめ、財布、キーホルダー、ハンカチ、携帯電話、名刺入れをそれぞれ所定のポケットに収めて階下へ向かう。

人のことはよく判らないが、僕はこうしたきまりを破ることが好きではない。いや、むしろ嫌いである。
云わば、これは僕の愛しき「順序」なのである。

だが、僕はつい最近、何故だか判らないが朝の身支度のこの順番を間違えてしまった。ワイシャツの袖のボタンを留める前にズボンをはいてしまったのだ。
ぼんやりして、身支度をちゃんと終えたつもりでそのまま出社したのだが、会社に着いてから、自分がベルトを締め忘れていることに気付いた。
一日中何だかふわふわした気分だった。まるで雲の上を歩いているみたいだった。ベルトをしていないだけなのに、何でこんなに落ち着かないのだろうと思ったが、帰宅するまでその妙な感じは続いた。

その朝僕は、いつもと異なる順番で袖のボタンを留めた。そして、その拍子に、どういうわけだかベルトのことを完全に失念してしまったらしい。袖のボタンを留める順番が前後しただけで、僕の中の何かが微妙に狂ったのだ。
愛しき「順序」ではあるが、逆に僕はこのルールに縛られて生きているのかも知れないな、とふと思った。
posted by og5 at 22:19| Comment(4) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年02月04日

歪んでゆく「失言」

柳沢厚生労働大臣の失言問題について最も気になるのは、その内容を人々がどう伝えようとしているか、ということである。
ほとんどのマスコミ、そして同大臣の辞職を求める(当然多くの女性議員を含む)野党議員達は、彼が「女性は産む機械だ」と発言した、として批判している。
しかし、柳沢大臣は、決してそのようには言っていない。エクスキューズをまじえつつ、「機械、装置の数は決まっている(限られている)」と女性を機械に譬えたのである。
だからと言って、彼の発言が正当化される、ということではもちろんない。ただ、批判するなら正しく批判するべきだ、と思うのである。
相手が非常識なことを言ったからといって、事実を捻じ曲げていいということにはならない。
どちらが厭かと問われれば、僕は迷わず、事実をわざと歪めて、世論を自分達の都合のいい方に誘導しようとしている人達、と答える。

「女性の一番大事な部分を傷つけてしまった」という、彼が陳謝の際口にした表現の方が、僕にはよっぽど「衝撃的」だったのだが、世間的にはどうなんでしょうね。
posted by og5 at 20:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
with Ajax Amazon

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。