2007年05月28日

座布団の意味

大相撲夏場所が終わった。
先場所に引き続き優勝した大関白鵬を横綱に推薦することが、今日、横綱審議委員会において、満場一致で決まったそうである。
白鵬は、千秋楽で横綱朝青龍を上手出し投げで破り、堂々の全勝優勝だった。

さて、大相撲に関して、僕にはずっと気になっていることがあった。それは、何故、いつから、大相撲の観客達は、あのように無遠慮に、かつ行儀悪く座布団を投げるようになってしまったのだろうか、という疑問である。
僕は、自分の限られた記憶だけでものを言っている。だから、もしかしたら正確ではないかも知れないが、しかし、かつては、あのような「座布団投げ」は滅多になかったのではないか、というのが実感である。
「かつて」が、いったいどれくらい前を指すのかは、自分自身でもはっきりとは判らないのであるが。

確かに、以前も「座布団投げ」はあった。だが、それは余程の大番狂わせがあったとか、あまりにも情けない取り組みに観客が怒りを表したとか、それなりの理由がちゃんとあっての行為だったはずだ、と思う。
昨日の結びの一番でも、大量の座布団が宙を舞った。だが、果たしてそのような事態を招かざるを得ない何らかの理由があの取り組みにあったであろうか。
結びの一番、朝青龍−白鵬の取り組みは、両者力の拮抗したいい勝負であった。だから、期待外れに終わった凡戦に観客が怒ったのでは、もちろんない。
それに、白鵬は前日既に優勝を決めている。彼が勝っても、別に「大番狂わせ」ではないのだ。
残るは「八百長疑惑報道」に同調した観客が、座布団を投げることによって、二人の勝負に異議を唱えている、という「想像」であるが、そんな人間が、高い金を払ってあの場に集結するということはあまりに馬鹿馬鹿しいことだ(あり得ない)、としか僕には思えない。

おそらくは、単に行儀が悪くなっただけなのであろう。自分の投げた座布団が、誰に当たろうがお構いなし。いかに見苦しかろうが、騒げればそれでいいのである。
僕などは、「座布団投げ」をした客は二度と大相撲観戦が出来ないように、例えばサッカーのフーリガン対策のように、入場時にチェックしてあの場から完璧に締め出してしまえばいいのに、と思うのだが、集客が大きな命題になってしまっている今の日本相撲協会に、それは無理な注文というものなのであろう。

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タグ:大相撲 白鵬
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2007年05月23日

曖昧な「ときわ荘」

牛島商店街に
コーポ藤本A
という
アパートがある

ドラエもんなのか
怪物くんなのか

ちょっと悩む
posted by og5 at 22:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 人間けだもの | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月20日

キスマーク

キスマーク
僕の胸の
キスマーク
いつか消える
キスマーク
バラのように
キスマーク
傷のように
キスマーク
風に散って
キスマーク
いつの間にか

ずっと見ていたんだ
君を忘れないように

キスマーク
憶えている
キスマーク
あの指先
キスマーク
嘘のように
キスマーク
夢のように

ずっと見ていたのに
君を忘れないように

キスマーク
僕の胸の
キスマーク
いつか消えた
キスマーク
痛みもなく
キスマーク
血も流れず

−RUBBER SOLE「キスマーク」(予定)−
posted by og5 at 18:41| Comment(0) | TrackBack(0) | サルの歌詞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

古典的かつ斬新〜「13/ザメッティ」

まず第一に映像(え)が美しい。モノクロの黒と白で構成された各シーンの素晴らしさは、写真集としてまとめ上げ、手許において、出来れば一日中ずっと観ていたいと思わせるほどだ。
また、台詞による状況説明がほとんどないのもいい。全てが映像によって語られるストイックな構成。それでいて作品全体に漲っている奇妙なイマジネーションとモダンなセンス。
そして何と言っても、これが(予想に反して)勧善懲悪の物語である、という点。
面白かった。カッコよかった。斬新だった。
しかし、そうでありながら、「13/ザメッティ」は古典的な映画でもあった。

富裕者達のアンモラルな遊びのために自らの命をかけてロシアン・ルーレットを行う13人の男達。ぐるりと輪になって、たまたま自分の前に並んだというだけの理由で、見も知らぬ相手(プレイヤー)の後頭部に弾を込めた拳銃を押し付けて、電球の点灯を合図に一斉に引き金を引く。呻き声とともに崩れ落ちる敗者達。頭からはどす黒い血・・・。
だが、意外にも、それは決して観る者の目に必要以上にグロテスクには映らない。
これをもっと残酷にしよう、ショッキングにしようと思えばいくらでも出来たであろう。しかし、ここには徹底的に抑制を利かせた、だからこそ極めて高いレベルで維持される緊迫感だけがある。
純度が高いのである。

まるで硬いガラス質の緻密な物質で作り上げられたひとつの物体のように切れ目ないこの映画の魅力に完璧に囚われながら、それでも実は僕には初めからずっと気になっていることがあった。それは、もしかしたらこの映画はジェットコースターなのかも知れない、という思い、ある種のTVゲームのように、興奮させることそれ自体を目的とする「非・映画」でなければいいのだが、という危惧であった。
「非・映画」はそこかしこに存在する。もちろん、その目的は何も「興奮」だけではない。時には政治的メッセージだったり、あるいはまた単なる自己満足だったりする。共通しているのは、映画が単なる「手段」に堕してしまっている、ということである。
しかし、「13/ザメッティ」の「興奮」の後に来たものは、実にまともな(映画としての)「調和」であった。「13/ザメッティ」は、僕の勝手な危惧を見事に裏切って、最高にバランスよく終わった。

僕は、主人公セバスチャンの暮らし振りを見て、ある懐かしさを覚えた。郷愁と言っては語弊があるかも知れないが、あの「貧しい感じ」は、確かにかつて映画館でよく目にしたものだ。
セバスチャン一家はグルジア移民という設定であるが、それにしても僕は実に久し振りに「地に足のついた貧困」を映画で体験したのである。
「貧困」を底流とする映画というのも、実に古典的ではないか。

※5月25日(金)まで、FORUS秋田シネマパレにて上映中です。
posted by og5 at 14:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月14日

「ふはっ」の顔

「ムーンライダーズ 30年のサバイバル Who's gonna die first?」を観ていた時、ふと思ったことを書き留めておく。

鈴木慶一が、水木しげる先生の漫画に出て来る「妖怪に驚いて『ふはっ』となっている人」にそっくりだった。
posted by og5 at 22:50| Comment(0) | TrackBack(0) | TV・芸能人 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月13日

ノースポールを買った日

20070513214608.jpg雨上がりの日曜日、ネギを買いに車で出かけた。CDプレイヤーからはPIL(パブリック・イメージ・リミテッド)の「フラワーズ・オブ・ロマンス」。1曲目「フォー・アンクローズド・ウォールズ」の強烈な太鼓の音とジョン・ライドンのひねこびた声を聴きながら、「まるごと市場」へと向かう。
買い物を終えた頃に雨が降り出して、家に着いたらまた日が照り始めていた。
僕は、綺麗に洗ってから天日に干して色を塗り直そうと思っていた円テーブルのことを思い出したり、また諦めたりしながら、キッチンの椅子に座ってカップ・ヌードルを食べた。

今日は一日中変な天気だった。
昼食後、「笑点」が始まるまでずっと陶芸をしていたのだが、その間も、急にバラバラと雨が降ったり、カラッと晴れたり、風が強く吹いたりした。
これから冬が来るみたいだ、と思いながら作業小屋の後片付けをして、そこに立ちすくみ、僕はふと自分の幸福を思った。
この平穏な一日、何も逼迫したことのない家庭、下らないことで愚痴を言っていられる安定した仕事、そして休みといえば好き放題どっぷりと浸っていられるこの自分だけの時間。
幸せでも、人は泣きそうになるものだ。

20070513214758.jpg昨日観た「今宵、フィッツジェラルド劇場で」については、何も感想を書かないのが礼儀だろう、と思っていたのだけれど、ひとつだけ、覚書として書き留めておく。
ロバート・アルトマン監督はマルクス兄弟を崇拝していた、と小林信彦が「世界の喜劇人」に書いていた。「マッシュ」の有名なフットボールのシーンも、実はマルクス兄弟の「ご冗談でショ」の再製(リメーク)なのである(これも小林信彦の指摘)。
そういえば、劇場の保安係ガイ・ノアール(ケヴィン・クライン)のやることなすことは、本来ならグラウチョ・マルクスが演じるべき場面として撮られたのではないか、と思い当たる。
特に、ステージマネージャー助手のモリー(マヤ・ルドルフ)を電話で呼び出すシーンなど、間違いなく「グラウチョ」だった。

また一週間が始まる。
買い物のついでに100円で手に入れたノースポールを、明日はもっとちゃんとした鉢に植え直そう。
posted by og5 at 22:20| Comment(3) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月08日

「カラスの死骸」考

UFO番組のプロデューサーとして有名だった矢追純一という人が、昔、「カラスの死骸はなぜ見あたらないのか」という本を出版した。かなりブームになったはずで、テレビ番組でも紹介されていたし、この人自身も、かつてのUFO番組以来実に久し振りにテレビ出演していたのを観た記憶がある。
岡本敏子の「太郎さんとカラス」を読んでいたら、そこにも、「だって、東京にこれだけカラスが跋扈しているのに、死骸を見たことがないということだけでも、不思議ではないか。公園でも、道路でも、庭にも落ちていないのだ。いったいどこに行ってしまうのだろう」という記述があって、それで僕は矢追純一のこの本を思い出したのである。

「太郎さんとカラス」は素晴らしい本であったが、僕にはここの部分だけは同意出来ないし、また納得も出来なかった。
実は僕は、カラスの死骸は見たことがあるのに、スズメの死骸も、ツバメの死骸も、ハトの死骸も見たことがなかったのだ。
つまり、では皆さんはハトの死骸を見たことがありますか、ということである。カラスを目にする機会が圧倒的に多いから、人はただ「その割には」と不思議に思っているだけなのではないだろうか。
確かに、スズメの、ツバメの、ハトの、そしてカラスの死骸はあまり人目に触れるということがない。だが、スズメの、ツバメの、ハトの、そしてカラスの死骸がいったい何処に行ってしまったのか、といえば、おそらくは他の動物や虫が食べてしまったのであろう、と単純に思うのだ。

普段我々が目にする機会の最も多い動物は、間違いなく「人間」である。そして、多分、その割合に比して、死骸を見るという機会が最も少ないのも、また「人間」なのである。

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2007年05月06日

ルドビグの静かな革命

ハリネズミのルドビグは、いつもドジばかりふんでいる。
愚図な怠け者だし、情けないくらい臆病だし、その上ひどい花粉症だ。
いいことなんかありゃしない。
でも、レオドルと一緒に、「イル・テンポ・ギガンテ号」に乗って、ピンチクリフ・グランプリで優勝してから、何かが少し、本当にほんの少しだけ、変わったんだよ。

僕は、それを「ルドビグの静かな革命」と呼ぼう。
そして、ルドビグと一緒に口琴を鳴らそう。

※詳しくは、興奮気味の妻のBLOGでどうぞ! ⇒ Chicken's Everyday
posted by og5 at 19:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

電気の神様

suyaki_2.jpg自宅電気窯にて、ついに第一回の素焼きを行った。
5月4日午前6時、早起きして、前日用意しておいた「神頼みセット」のぐい呑みにお神酒を注ぎ、小屋へと向かう。お神酒の脇には、塩と米の盛られた小皿。作法上どうしてよいか判らなかったのだが、「それなりに」ではあるにしても、神様には一応筋を通しておいた方がよかろうと判断したのである。

思ったよりも時間がかかった、というのが率直な感想である。電気窯なので、つきっきりであれやこれや面倒をみるという必要はないのであるが、予定時間を過ぎてもなかなか設定温度に達しないので、随分と気を揉んだ。結局、同日中に中を覗いて見ることは出来ず、ブレーカーを落とし、窯の蓋を持ち上げたのは、やっと翌日(5日)の朝になってからのことだった。
早朝、雷が鳴り出したので窯に悪影響がないかと心配したが、結局は特に何事もなく、45個中割れたものが1個だけという(思いの外の)好結果であった。

suyaki_1.jpg少し風邪気味だったので、即日施柚して本焼きへ、という、まるで海外ツアー客の名所巡りみたいなスケジュールは断念した。一日予定をずらし、一部焼成温度の異なる釉薬をかけようと思っている物を除き、今日午後、無事施柚を完了。なおも、今からでも焼けないかなあ、などと未練たらたらだったのだが、どうもまだ完全に乾燥し切っていないようだったので、本日二度目の断念をした(断念ばかりしている)。
こんなことは人には全く興味のないことであろうが、覚書として書き留めておくことにしたのだ。

ところで、素焼きが無事に終わったところで、僕はあることに気付いた。僕は「神頼みセット」を(当然のごとく)「火の神様」にお供えした。しかし、うちにあるのは電気窯なのである。
僕は本当は「電気の神様」にお供えをしなくてはならなかったのではないか。受験合格のお願いを安産の神様にしてしまったようなものなのではないか。
そしてこの時、僕の脳裏にぱっと浮かんだのは、T−レックスやクラフトワーク、それに寺内タケシなのであった。

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posted by og5 at 18:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

光る風

はげていた
いつか知らずに

はげている
いまも自然に

はげていく
もっと確かに

でもね
悪いことばかりじゃない

無意味にかいた
お皿の汗に
五月の風が
さざ波を立てる

健髪者には
この喜びは判るまい
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2007年05月04日

木瓜々々日記

ゴクゴクとSPRITEを飲んだ男の背中から水の(スプライトの?)翼が生えて、空中を飛んで行くCMがある。
身体中の水分が全部出尽くしてしまうのじゃないか、と心配になる。

アコムのコマーシャルにカンニング竹山が出ている。駅の改札を抜けると(多分新婚の)妻が迎えに来ていて、ちょっと照れ臭そうに微笑む、何だかほのぼのとするような、あのCMだ。
だが、僕はあれを見るといつも、「ああ、この人は相方を失ってしまったんだなあ」と少し淋しくなる。

映画「クィーン」の邦題は変である。発音出来ない。何とか音にしてみようとすると、限りなく「キーン」に近づく。
あれは是非とも「クーン」とすべきである。

革靴は、雨が染み込むのを何故恥ずかしいと思わないのだろう。特殊なサラリーマン靴以外の革靴は平気で雨漏りする。ひどいのになると、「雨の日には履かないで下さい」などと開き直る始末だ。
何とか工夫しろよ、と言いたい(いや、お願いしたい)。

特待制度がらみで高野連が批判されているようだ。その時、ほぼ決まって「子供の夢」が引き合いに出される。しかし、いったいいつから「子供の夢」が世の中の最優先事項になってしまったのだろうか。
あれはどうも「子供の夢」という名の「権益」のような気がしてならない。

赤ん坊を捨てるポストが出来たそうだ。
ねずみ男がいたずらで護符をはがして大変なことが起こる、というのは「ゲゲゲの鬼太郎」のひとつのパターンであるが、今ものすごく大事な護符がはがされてしまったのだな、と感じる。

裏庭の木瓜(ぼけ)の花が満開である。
何だか、つげ義春の世界だなあ。

boke.jpg
posted by og5 at 13:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月03日

「太郎さんとカラス」の話

太郎さんとカラス太郎さんとカラス
岡本 敏子

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「太郎さんとカラス」と題された本の表紙には、実に柔和に笑う岡本太郎の顔がモノクロ写真で大きく在って、僕はそれだけでもうこの本を買おうと決めたのだった。
著者名は「岡本敏子」となっているが、彼女の書いた文章はそれほど多いわけではない。実際には、いくつかの彼女の愛情あふれる文章と、太郎本人の言葉(エッセイ)や対談、それにもちろん絵画と、太郎とカラス、あるいは太郎のオブジェをとらえた何人かの手による素晴らしい写真で本は構成されている(それに、写真には撮影者不明のものもかなり含まれている)。
だから、普通の感覚で言えば、この本の著者が岡本敏子だとはちょっと言い難いのかも知れない。しかし、それでいながら、これはやはり岡本敏子が著した本なのであって、というのも、彼女の存在なくして、この本がこのような形で世に出ることなど決してなかっただろう、と(おそらく)誰もが静かに納得せずにはいられないからである。

さて、カラスである。
岡本太郎は、何とアトリエでカラスを飼っていたという。太郎自身は「一緒にいるだけだ」とそれを否定していたらしく、なるほど彼等の関係は、決して、いわゆる飼い主とペットというようなものではなかったのではあろうが、そのカラスが人の言葉を語り、しかもあの「太陽の塔」のモチーフだったのかも知れないとなれば、否が応にも興奮は高まる。
カラスの名は「ガア公」。
1959年頃、「動物」というモニュメントを作るために、太郎は長野県のスポーツランドに通っていた。その現場近くにある飯場の小父さんが、巣から落ちてしまった赤ん坊のカラスを拾って育てていたのだが、太郎はすっかりこの「憎たらしい」生き物が気に入ってしまい、小父さんに頼み込んで家に連れ帰った。
この時、小父さんにより、既に「ガア公」という名前はつけられていたというが、それが馴れ初めである。

「太郎さんとカラス」は、序章と終章を含めて、全部で五つの章から成っている。
序章「太陽の鳥」と岡本敏子の序文に引き続き始まる第一章が「太郎さんのガア公」。カラスに関わる太郎のエッセイと、花田清輝との対談が収められている。
第二章は、岡本敏子が、太郎と「ガア公」の出会い、アトリエでの彼等の微笑ましい日常、そしてこの本を編もうと思い立った気持ちなどを綴る「カラス万華鏡」。
そして、「白い馬」あるいは「残酷について」など、その強烈なイメージに心が震える太郎の素晴らしいエッセイが並ぶ第三章「人間と自然」と、叩きつけるような太郎の言葉を集めた終章「現在(いま)を翔ぶ」。

僕が特に激しく感動したのは、エッセイ「白い馬」であった。ショッキングであり、ひどくおぞましいのだが、そこにある根源的な美しさ(厳しさ)に、抗いようもなく圧倒される。
ちょっとユーモラスなこの本は(もちろん、実際とてもユーモラスでもあるのだが)、その奥にしっかりと「岡本太郎」を湛えている。
posted by og5 at 13:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 本・雑誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月02日

虫は何処から

作業小屋(陶芸が出来るスペース)を作ってから、早くも一ヵ月が経つ。だが、今書こうと思っているのは、焼き物の話ではない。
虫の話である。

この前、こんなことがあった。

棚で乾燥させているコーヒー・カップ(と自分では思っているもの)の脇にパチンコ玉大の粘土の欠片が転がっていたので指でつまもうとしたら動き出した。
それは、実は、粘土ではなくて、ワラジムシであった。
僕は一瞬たじろいだが、すぐに吹き出した。吹き出さずにはいられなかった。

虫はいったい何処から来るのだろう。

そう思って床や壁を注意深く見ていると、今度は小さなクモがちょこちょこと飛脚のように電動ろくろの陰に走って行くのを見つけた。

まだ真新しくて木材やコンクリートの臭いのするこの小屋も、こうやってだんだん地面に馴染んで行くのだろうな。

僕は、何だか嬉しくなった。

そのうち、クモがあちこちに絹のような小さな巣を作り始めるだろう。
そのうち、小さな蛾が窓辺でひっそりと死んでいるのを見つけるだろう。
そのうち、電動ろくろも電気窯も、色褪せた景色の一部になってしまうだろう。
そして、その分、僕もまたいくつか年を取るのだろう。
posted by og5 at 22:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月01日

「クィーン」について

「クィーン」が面白かった。以下、断片的な感想を書く。

まず、新首相ブレアの謁見の際、エリザベス女王がハンドバッグを携えていたことに新鮮な驚きを感じた。女性にとっては常識なのかも知れないが、僕には、あのような正式な場で、絶対にその口を開くことなどあり得ないであろうバッグを自らの傍らに置く、ということがとても不思議に思えたのである(そういえば、ダイアナの事故の知らせを受けて、深夜、ガウン姿で廊下に出た時も、女王はやはり手に何か袋のようなものを抱えていた)。

次に、僕が興味を惹かれたのは、女王の歩き方である。
つま先を外に向けて、堂々と歩く。それは、僕が勝手に思っているロイヤルで上品な感じとは程遠く、どちらかと言えば、男っぽく逞しい歩き方であった。
しかし、これが僕には非常に魅力的に映った。
エリザベス女王が実際あのような歩き方をするのかどうかは判らない。ヘレン・ミレン(あるいは監督)が本人のスタイルを研究して、リアルに演じている(もしくは演出している)のかも知れないし、映画を成立させるための「創作」なのかも知れない。だが、その「演出」は、大英帝国の女王たる者、あの逞しい脚がなければとても務まるものではない、と実に強い説得力を持って観る者の心に落ちるのである。

広大な領地内の川のほとりで大鹿と邂逅するシーンについては、様々な解釈が可能であろう。
自らの運転する車で無理矢理川を渡ろうとして立ち往生してしまった女王は、携帯電話で救援を呼ぶ。その助けが来るまでのひと時、川のほとりに腰掛けて、彼女は(多分)ダイアナの事故を知らされて以来初めての涙を流す。そこに、忽然と大鹿が現れる。彼女は、大鹿としばし対峙した後、夫達が鹿撃ちに繰り出していることを思い出し、早くここから立ち去るように、と(鹿に)語りかける。
後にどのようなシーンが展開されるかについて書くのは控えるが、これが多分この映画の最も象徴的かつ重要なエピソードである。
「大鹿」はダイアナだろうか。それとも、エリザベス自身だろうか。
いずれにしても、その「象徴」の運命が、彼女にある重大な決意をもたらすのだ。
ダイアナにも、それによって引き起こされたイギリス国民の集団ヒステリーにも全く興味はない。しかし、この映画は面白かった。それは、これが本当はダイアナの死や英国王室の危機の話などではなく、自らの運命を選択した一人の女性の物語であったからなのだ、と僕は思っている。

映画の冒頭、斜め前方を向いていた女王が、ふいにすっとこちら側に顔を向けるシーンがあった。
その目は何も見ていない目であった。しかし、また同時に、全てを見ている目でもあった。
仮に(映画でも冗談めかした台詞で触れられていたように)、ダイアナの死に英国王室が何らかの関わりを持っていたとしても、この映画は成立する。
そこがすごいところである。
posted by og5 at 20:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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