2007年07月30日

パブロフの猿

妻には内緒だけれど、僕は出っ歯の女の人を見ると、ついつい「ああ、美人だなあ」と思ってしまう。これは間違いなくマザー・コンプレックスのひとつの顕現で、僕の母親がやはり少し出っ歯だったのである。
ミス・ワールド・グランプリに輝いたアメリカお墨付きの美女を、誰もがため息ついて見とれるなんて幻想で、人にはそれぞれのタイプってものがあるのだ。

また、僕は妻と知り合ってからというもの、学術的に妻と同じような「目(もく)」に分類されると思われるタイプの女性を見ると、理由もないのに勝手に好感を抱いてしまう、という癖(へき)を身に着けてしまった。
ちなみに、妻は出っ歯ではない。
人にはそれぞれのタイプってものがあり、しかもそれはひとつとは限らないということだ。

「パブロフの犬」は唾液の分泌量の実験であったが、「時計じかけのオレンジ」で主人公アレックス(マルカム・マクダウェル)が彼の大好きなベートーヴェンをBGMに拷問を受けて残虐性を封じ込められる、というシーンにもそれはつながるだろう。
「洗脳」から醒めること、すなわち残虐性を取り戻すことが、アレックスにとっての人間性回復であったが、僕達はこのパラドックスをどう捉えればいいのだろう。

恋愛感情における思い込み(好み)は、「洗脳」ではなく「刷り込み」というべきかも知れない。
卵から孵った雛が、「最初に目にした動くもの」を母親だと思い込むことを「インプリンティング=刷り込み」と呼ぶが、僕はこれは恋愛にも当てはまるのではないか、と思っている。
恋愛の「刷り込み」の便利なところは、「洗脳」や雛の「刷り込み」とは違い、「綴じ込み」が可能なことである。
まあ、時々ページがばらけて、訳が判らなくなってしまうことがありますけどね。

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2007年07月29日

洗面台でつかまえて

数年前買い換えた我が家の洗面台には、排水口部分に「ヘアーキャッチャー」という仕組みがついている。洗顔・洗髪時などに落ちた髪の毛をそこで受け止め、排水溝に流れ込むのを未然に防止しているのである。
これがなければどうなるのか。抜けた髪の毛で排水溝が詰まり下水が逆流するのか。と、問われても明確な返答は出来ない。
多分、大丈夫である。
大丈夫ではあるが、垂れ流しにするよりは多少は環境にいい、くらいの「気分」はする。

ところで、僕はここ1週間の間に3回ばかりこの「ヘアーキャッチャー」の始末をした。
髪の毛とはいえ、一箇所に集まれば当然徐々に水の流れを遮るようになるから、ある周期で掃除をしてやらなければならない。歯磨きの後など、「ヘアーキャッチャー」のせいで流れない水の澱みを見ていると、かなり苛立つ。
そんなに面倒な作業ではないから、さっさとしてしまえばいいのに、とも思うのだが、たいていすぐには掃除をしない。ごまかして済むならその方がいい、と何故か思ってしまう。
そんな僕が、1週間の間に3回も掃除をした。そして僕はそれを不合理だと思っている。

僕は別に「掃除をした」ということ自体に不合理を感じているわけではない。気付いた誰かがやればいいことであり、僕が「次にしよう」と思った直後に、妻あるいは義母が掃除をやってくれているということも数え切れないほどあるだろう。
僕に納得がいかないのは、「ヘアーキャッチャー」には僕の毛がほとんど引っかかっていない、という事実なのだ。
僕の抜け毛は細く短い。間違いなく、それは「ヘアーキャッチャー」のプラスティック製フィルターの規格を外れている。

僕の頭をあまり相手にしていない洗面台の掃除を立て続けにやらなくてはならなかった・・・。
僕は、そのことに、「叶えられない愛」みたいなちょっとやるせない不合理を感じているのである。
posted by og5 at 15:30| Comment(2) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「リンガー! 替え玉★選手権」〜オーソドックスで、いいコメディ

スティーヴは会社の上司に昇進願いを受け入れて貰う代わりに、用務員のスターブの首を切るよう命じられる。人のいい彼はスターブに「首」とは言えず、個人的に雇い入れ自分の家の芝刈りをさせることになる。ところが、スターブは芝刈り機で指を切断する事故を起こす。彼の指は外科手術によって元通りにすることが出来る、と医者は言う。期限は二週間以内。しかし、市民権のないスターブは保険にも加入しておらず、子沢山の彼にはもちろん、スティーヴにもそんなお金は捻出出来ない。自責の念に駆られたスティーヴは、叔父ゲイリーの発案にやむなく乗ることになるが・・・。

以上が、「リンガー! 替え玉★選手権」で、主人公スティーヴが身体や知能にハンディ・キャップを持つ障害者のオリンピック「スペシャル・オリンピック」への出場を決心するまでのいきさつである。スティーヴは優勝して賞金を得る。ゲイリーは借金相手から賭け金をせしめる、というわけだ。
元々俳優志望の彼は、「フォレスト・ガンプ」や「アイ・アム・サム」を参考に「役作り」に励む。彼自身は後ろめたい気持ちをずっと抱いているのだが、自らの借金返済もこの大芝居にかかっている叔父ゲイリーは全く意に介さず、あくまでも行け行けドンドンである。
罰当たり?
確かに。

「リンガー! 替え玉★選手権」はとってもオーソドックスで、かつ「いい映画」だった、と思う。「明日、君がいない」と比べてどっちがより「いい映画」だったと思うか、と問われれば、僕は迷わず「リンガー!」と答えるだろう。
だが、「リンガー!」は決して「立派な映画」ではないし、当然ながら、これを全く受け付けない人達もいるに違いない。
もちろん、「立派な映画」、「立派な音楽」、「立派な文学」には「価値」がある。そして、それは別に悪いことじゃないのだけれど、僕にとって大事なことは、「立派じゃない映画」、「立派じゃない音楽」、「立派じゃない文学(小説)」にも、ちゃんと「価値」があるってことなんだ。

スティーヴのインチキに気付いたジョニーやグレンその他「仲間達」が、ベッドの上のスティーヴをじりじりと追い込むシーンには、「フリークス」を思い出させられてついつい笑ってしまった。
また、小雨の早朝練習に励むスティーヴと「仲間達」を競技場の片隅でじっと見つめる「史上最高のチャンピオン」ジミーの横顔が、さり気なく物語に深みを与えていた。
僕が、この映画を「いい映画」だった、と感じるのは、「作者が何を言いたいか」ではなく、よく出来たストーリーとそんな印象的なシーンの数々が、実にバランスよく共存していたからである。
その上で、ちゃんと笑えるコメディだったということは、多分今とても「価値」のあることなのだ。

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2007年07月22日

王子づくし

ゴルフ界には今や「ぽっちゃり王子」なんて奴までいるらしい。
油断も隙もありゃしない。
「ハンカチ王子」や「ハニカミ王子」だけでは飽き足らないのか。
何処まで行ったら気が済むのか。

とまあ取りあえず怒ってはみたが、悪乗りしたくなる気持ちも判らないではない。
あれだけ世間が騒げば、柳の下のドジョウを、もういっちょ、もう一匹、と狙ってみたくなるのが人情というものである。
僕もいくつか考えてみた。

「ハジカミ王子」
王子なのに添え物。
意地になって王様の地位を手に入れたのに、「おい、王様、薪拾って来い」と西城君に命令されていたこまわり君を思い出す。

「ハニカム王子」
万国びっくりショーみたいな番組によく出て来るヒゲ男。ヒゲかと思って近付くと、何と顔中びっしりの蜜蜂というオチ。
多分打たれ強い(構造上)。

「ハニバル王子」
レクター。
ちょっとリアルに怖いな。

「カミカミ王子」
下手な二代目漫才師。

「アマカミ王子」
甘え上手。
でも、甘えてる最中びっくりするといきなり強く噛むことがあるから注意が必要。

「ハンケツ王子」
・・・。

「ポンコツ王子」
何かどうでもよくなって来た。

そういえば「監禁王子」なんて奴までいたんだったな、この世には。
お後がよろしいようで。

※「温泉王子」や「半熟王子」ってのも考えたんだけど、自重しました・・・。
posted by og5 at 20:36| Comment(5) | TrackBack(0) | TV・芸能人 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月21日

魔法を信じるかい?

※既にニュース等で報じられていることであるとはいえ、この記事には、「ハリー・ポッター」シリーズ最新作の内容について米紙が書評を載せ、それに対し著者が抗議した、という正にその「部分」の記述(引用)がある。その内容について知りたくない方は、以下を読まないようにご注意下さい。
========================
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J.K. Rowling

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今日、英国時間では午前0時、日本時間では朝の8時過ぎに、「ハリー・ポッター」完結編が(全世界で一斉に)発売された。題名は「ハリー・ポッターと死の秘宝」である。
ニュースによれば、著者J・K・ローリングは、出版元のブルームズベリー社を通じ、ニューヨーク・タイムズ紙が書評でこの新作の内容を一部漏らしたことに対し強い不快感を表明しているという。ところが、その「お漏らし」の内容というのは、「登場人物が少なくとも6人死亡する」という程度のもので、記事によれば、この6人が誰かにはついては触れられていない、というのである。
声明でローリングは、「一部の米国の新聞が文字通り、何百万人にも上る読者の希望を完全に無視し、書評の形で内容をばらしたことにぼう然としている〔AFP=時事〕」と批判したというのだが、そもそも、この最終話に関して「主要登場人物2人が死ぬ」と予告していたのは作者本人ではなかったのか。
僕には、その辺の感覚がちょっと理解出来ない。

ネット上の映画評や個々人のブログなどで、「ネタバレ注意」という表現は今や非常にポピュラーなものになっている。それ程情報量が増え、ありとあらゆる情報が不用意に人目につき易くなっている、ということでもあろう。
僕でさえ、このブログで何度かその種の注意喚起をしつつ記事を書く、ということをした。配慮が足りなくて顰蹙を買ったこともある。逆に、直截的な言及を避けようとするあまり、おそろしく意味の伝わりづらい回りくどい文章になってしまったことも二度や三度ではない。
それでも、僕は思う。一般的な推理小説のように、誰が犯人か、どんなトリックか等について推理する(もしくは、判らないまま読み進む)こと自体が読者の大きな楽しみである場合、あるいはまた、「シックス・センス」や「美しい人」におけるグレン・クローズとダコタ・ファニングのエピソードのように、「そのこと」を観客が自ら理解することに非常に大きな意味がある場合を除き、「ネタバレ」なんか気にしなくてもいいのではないか、と(「シックス・センス」は、「そのこと」を知った上で観てもなお素晴らしく、ある種の推理小説もまた、何度でも読み返すことに堪え得る力を持っているのだが)。

僕は、ここには巨大な「共同幻想」のようなものがあるのではないか、と思っている。作者自身もその幻想の中に取り込まれていて、他にもっと普通の(つまり「登場人物が少なくとも6人死亡する」くらいは言ったって構わないことだ、と暗黙の了解が取れている)世界があることを失念しているような気がするのだ。
「ハリー・ポッター」がもはやそれ程大きな「何ものか」になってしまった、ということなのだろうが、それにしてもやっぱり「魔法は、信じている者にしかかからない」のである。

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2007年07月20日

ラッパと太鼓

海辺の村であの子は死んだ
うち捨てられたクラゲのように
残ったものはラッパと太鼓
風に吹かれて小さく鳴った

何が幸せで
何が不幸なのか
誰にも判らない
今では判らない

残ったものはラッパと太鼓
風に吹かれて小さく鳴った

海辺の村で子供が歌う
あっけらかんとあの子の歌を
錆びて破れたラッパと太鼓
砂に埋もれて静かに聴いた

何が幸せで
何が不幸なのか
誰にも判らない
今では判らない

錆びて破れたラッパと太鼓
砂に埋もれて静かに聴いた

海辺の村で男は泣いた
砂のお城が崩れるように
残ったものはあの子の歌と
裸の胸に刺青ひとつ

何が幸せで
何が不幸なのか
誰にも判らない
今では判らない

残ったものはあの子の歌と
裸の胸に刺青ひとつ

−RUBBER SOLE「ラッパと太鼓」−
posted by og5 at 22:50| Comment(0) | TrackBack(0) | サルの歌詞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

愛しのアレルゲン

水曜日、仕事帰りにかかりつけの医者に寄った。
アレルギー性鼻炎の薬がなくなったのと、前回受けていたアレルゲンの再検査結果を確認するためである。
結果は、スギ花粉以外に陽性反応を示すアレルゲンはなかった、という実に意外なものであった。

僕は、年がら年中鼻をグズグズいわせている。目も痒い。かなりの頻度でそれは痛みに変わる。
これまで僕は、スギ花粉のアレルギーだという人達を心密かに羨ましいと思っていた。どんなにひどくてもそれが季節限定ならいいじゃないか、と・・・。
何故なら僕は、以前通っていた耳鼻咽喉科で、スギ花粉はもちろん、イネ科の植物、雑草、ハウスダスト等々、ほとんどあらゆる種類のアレルゲンに反応する鼻粘膜の保持者だと宣告されていたのである。
意外な結果、というのはそういう意味だ。

医師の説明では、この異なる結果は検査方法の違いによるものではないか、ということであった。
今回は採取した血液によって行われるアトピー鑑別試験(ファディアトープ)という検査だったが、20年近く前に僕が受けたのは、腕に何種類かのアレルゲンを植え付けて反応をチェックする、という方法だった。しかし、これだと、検査に使用する針や薬品自体に抗体が反応してしまう場合があり、正確な結果を得られないことも多い、というのである。

もちろん、今回も全てのアレルゲンをチェック出来たわけではない。
判りきったことだ、と動物の上皮・皮屑については、対象絞り込みの段階で外してしまった。
僕は猫を飼っており、たとえそれがアレルゲンだと判明したところで対応のしようがないので、最初から番外としたのである。
しかし、ではスギ花粉シーズン以外の長い長い期間、僕はいったい何に反応して、ああも苦しまなければならないというのか。

全てはこいつのせいだったのである。
     ↓
きゃんこサンタ3.jpg
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2007年07月19日

エゴバッグ対レジ袋、レフレジレイター組 第一回戦

どこぞのブランドがエコバッグを売り出したら客が殺到してしまい世界中でとんでもない大騒ぎになっている、というニュースを見た。
罵り合ったり、押し合いへし合いしたり、買ったバッグを何倍もの値段でオークションに出したり。誰かが、これじゃ「エコバッグ」じゃなくて「エゴバッグ」だ、なんて皮肉を言っていたけれど、あまりにその通りで笑うに笑えなかった。

確かに、レジ袋有料化や、買い物袋持参の客にはスタンプ・カードを発行していっぱいになったら商品割引、なんてことをあちこちでやるようになったのは実感していて、ゴミ袋に便利なんだよなあ、などと一向にレジ袋を貰うことを止めようとしない自分に若干の後ろめたさ感じている今日この頃ではあるのだ。
しかし、では日頃のゴミは何に入れて収集日を待てばいいのだろう、などと考える。また、レジ袋を作ってる工場の人はそれじゃあ困るだろうに、などといらないお節介、というか屁理屈をこね回したりする。
僕は、今のところ、世間の「反レジ袋」運動に少しばかり乗り遅れている。

僕は鍵っ子の小学生だったので、夕ご飯のおかずの買い物などもよくした(毎日ほとんど鯖)。竹だかビニールだかで編んだ買い物カゴひとつ持って、僕は毎日のように近所の八百屋や魚屋にでかけた。
そのカゴは、そんなに大きなものではなかった。だから一度に買える食材の量も知れているのだが、それでも困ったという記憶が僕にはない。
しかし、今の世の中ではあのカゴは通用しないだろう。普段、毎土曜日、買い物に出かける度に、レジ袋大を二つも三つもぶら下げて帰宅する僕は、極々自然にそう思う。

多分、毎日その日分の食材だけを買うのであれば、「カゴ」でもいいのである。
しかし、今では何処の家にも立派な冷蔵庫があり、みんな必死でその大容量の体積を埋めようと(だいたい一週間に一度きりの割合で)競争している。
まず、冷蔵庫にモノを詰め込む生活を改めなければ、レジ袋を必要としない生活など無理なのではないか。これは、得意の屁理屈でも何でもなく、僕の本心でありまたおそらくは正論でもある。
エコバッグもいいけれど、冷蔵庫の便利さを殺す覚悟が、果たして僕達にはあるのだろうか。

※全く関係ないのだが、記事タイトルにアルバム名を拝借したので・・・。
          ↓
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2007年07月18日

パジャマラマ

中学生くらいの頃、テレビでこっそり観る「プレイガール」だの「37階の男」だのいう番組では、女の人はよくネグリジェというものを着ていたものである。
しかし、今時ネグリジェを着ている人なんてこの世にいるのだろうか。
「おネグリ」は、もはや絶対的に時代遅れである。
多分。

パジャマを着て一日中過ごしていたい、と思う。
日曜日、昼近くなってからベッドを脱け出し、着替えもせず、そのままパジャマ姿で「笑点」が始まるまでのんべんだらりと世間から離れていられたらどんなにか幸せであろう。
実際それに近い休日を過ごすこともあるし、その気になればおそらく僕には毎週でもそのように時間を浪費することが可能なのだ。
多くの日曜日、それでも僕がそのように時を過ごさないのは、やはり何かもったいないような、そんな気がしてしまうからなのだが、これは貧乏性というよりは神様に対するアリバイ工作のようなものであろう、と思っている。

そういえば、ブームタウン・ラッツのキーボード奏者は、パジャマ姿がトレード・マークだった。
彼は多分、朝起きてパジャマから着替え、ステージに立つ際またパジャマに着替え、ステージを終えてからパジャマを脱いで帰宅し、寝るに際してまた再びパジャマを着るという生活を、何年か(実にご苦労なことに)ほとんど毎日のように繰り返していたのである。
想像するだけで不眠症になりそうではないか。

今ではもう全く使われることもなくなってしまったけれど、人から着ているものを褒められた時謙遜して言う言葉に「ほんの寝巻きです」というのがあった。
「素敵なパジャマですね」と褒められた時、ではどう言えばいいのだろう。

今ふと思ったのだが、ネグリジェはクラゲに似ている。
渥美マリからの連想かも知れない。
posted by og5 at 21:58| Comment(3) | TrackBack(1) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月14日

かわいいコックさん

一匹のゴキブリがいた。
彼は、居候しているアパートの一室でテレビを観ていた。
部屋の主は、節電などお構いなしに風呂に入っている。
テレビ画面には、レストランで薄汚いネズミが見習いコックの代わりに料理をするシーンが映し出されていて、そのシチューだかカレーだか判らない鍋の中には、きっとネズミの毛がたくさん混じっているのだろう、とゴキブリは考えた。
彼の自尊心は大いに刺激を受けた。
ネズミに出来てゴキブリに出来ないわけがない。
実際のところ、彼には少々の自信さえあったのである。
仲間内では、彼はグルメで通っていた。
他のみんなが添加物の入った生ゴミを美味しそうに食べているのを横目に、彼はたいていいつも腹を空かしていた。
彼は痩せたゴキブリだった。
だが、それが彼の誇りでもあった。

ある日、チャンスがやって来た。
部屋の主が、珍しく鍋の蓋をちゃんと閉めないまま寝てしまったのである。
彼女はあまり料理が上手ではない。
というか、興味がないのだ。
だから、いつも一味足りない。
それは、この部屋に住むゴキブリ達の一致した意見でもあった。
今日のカレーも、やはり何処か気の抜けたような匂いがしていた。
「俺ならこのカレーをグンと美味しくすることが出来る!」
と彼は仲間達に豪語した。
誰も取り合わなかった。
しかし、そんなことで彼はめげない。
ネズミにさえ出来ることを自分達ゴキブリには不可能だなどと考えている連中を気にかける必要などない。
今に見ているがいい、と彼は触角を動かしながら、手足をスリスリと翅に擦りつけた。

翌日、この部屋に住むOLは、カレーに火を通そうと鍋の蓋を持ち上げた途端悲鳴を上げた。一匹のゴキブリが、カレーの中で死んでいたのである。
もちろん、カレーは全て捨てられた。
まだ給料日前だったから、彼女はたいそう腹を立てた。
posted by og5 at 17:49| Comment(2) | TrackBack(0) | 人間けだもの | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月13日

コラ、ハタケヤマ

道を歩いていたら、今まで経験したことのない強い口調で突然呼び止められてびっくりした。が、実はそれは勘違いで、僕のすぐ斜め後ろを歩いている彼は、別に僕を呼び止めたわけではなかった。
「コラ、ハタケヤマ!」と彼は声を荒げている。
携帯で誰かと言い争いをしているのか、と僕は思った。相手は多分「ハタケヤマ」なのだが、僕がそっと、何気ない風を装って後ろを振り返ると、彼の手はビニールの透明傘とコンビニのポリ袋で両方ともふさがっていた。
「ハンズフリー」という言葉が一瞬脳裏をよぎったけれど、僕はそれを即座に自分の心の中のゴミ箱に放り込んだ。
彼は、歩きながら、ずっと一人で誰かと話している、ただそれだけなのであった。

喧嘩の相手は、今や明白に「ハタケヤマ」である。それも、今ここにはいない「ハタケヤマ」だ。しかし、彼にはもちろん「ハタケヤマ」が見えている。
どうやら「ハタケヤマ」は時折反論さえしているらしい。
すると彼は、また急に興奮し始める。
せっかく少し冷静になりかけていた彼に、この期に及んで「ハタケヤマ」はいったい何を言ってしまったのだろう。
いや、そもそも「ハタケヤマ」は何をしでかしたのか。
男なのか、女なのか。
若いのか、あるいはある程度の年配者なのか。
口ぶりからすると、「ハタケヤマ」はその若い彼の更に後輩であるのかも知れない。しかし、時々「イイトシヲシテ」とか、「シメシガツカナイ」とか、変にハードルの高いことを言われたりもしている。

しばらく僕と一緒に歩いた後で、僕の家に向かうT字路を右には曲がらずに、彼は「ハタケヤマ」と一緒に、相変わらず「コラ、ハタケヤマ」などと言いながら真っ直ぐ向こうに歩いて行ってしまった。
話は堂々巡りをしているらしい。
「ハタケヤマ」もいい加減謝ってしまえばいいのに、と僕はついつい呟いた。
posted by og5 at 18:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月12日

最後にやって来る強烈なコントラスト〜「明日、君がいない」

ムラーリ・K・タルリ監督の「明日、君がいない」が始まると、僕は少し居心地が悪くなった。予告編を観た感じ、観る前に妻と交わした会話などを思い出して、それにしてもあからさまに「エレファント」だなあ、と改めて思ったのである。

「エレファント」は、コロンバイン高校で起こった銃乱射事件を題材にして作られたガス・ヴァン・サント監督のカンヌ映画祭パルム・ドール(及び監督賞)受賞作で、事件前の高校生達の日常を、視点と時間をずらしながら織り合わせるように再構築するという独特な手法を駆使して作られた素晴らしい映画だった。

高校生達のありふれた日常の中にある日突然起こるショッキングな事件、という点がまず似ている。当然、舞台もほとんとがキャンパスの中だ。そして、「明日、君がいない」においても、視点と時間をずらして事実を多面的にとらえる、という手法がやはり使われている。
僕は思っていたのだ。
大丈夫なのだろうか、と。

しかし、カラーで描かれる「ドラマ」部分とモノクロ画面のインタビュー部分を積み重ねることによって徐々に明らかになる、そしてリアルになって行く高校生達の悩みやアンバランスが、僕のそんな不安をすぐにきれいに消し去ってくれた。
僕の興味は、いったい誰が死ぬのだろう、に変わっていた。

映画の冒頭で、「誰か」が死ぬ。閉じられたドアの向こう側で「誰か」が死に、ドアと床の隙間から「誰か」の血が流れ出す。
確かに「誰か」が死んだのだ。では、いったい「誰」が死んだのか。
高校生達の悩みや問題がシリアスなものだということが明らかになれば明らかになるほど、謎が深まって行き、そして僕の好奇心は刺激された。
正直に言えば、僕は楽しんでいたのだ。

そしてまたしかし、最後にその「誰か」が誰であったのかが明かされた時、僕は震えた。まず、生々し過ぎる「死」の場面に、次いでそのあまりの理不尽さに。
すごいのは、この時、死ななかった高校生達の悩み、数々の問題が、一気に、本当の意味でリアルになったことである。
彼等は生きている。最後まで本当に確かな理由など一切明らかにされず文字通り血の海の中で死んでゆく「誰か」と強烈なコントラストを作って、彼等の「生」が輝く。

この映画の原題は「2:37」という。
この時、「誰か」が死んだ。
ムラーリ・K・タルリは、見事に観客を操り、そして自らが伝えたいことを余すところなく伝え切った。
これはすごい映画である。

※「明日、君がいない」はまだDVD化されていないので。
        ↓
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2007年07月10日

思い出すことは暴力である〜「黒い夏」

黒い夏黒い夏
ジャック ケッチャム Jack Ketchum 金子 浩

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ジャック・ケッチャムの「黒い夏」を読んで唸った。
「隣の家の少女」、「老人と犬」、「オフシーズン」、そして「黒い夏」と読んで来て、初めてこの作家の描いているもの、あるいは描こうとしているものが見えて来たような気がしたからである。
ジャック・ケッチャムは、ホラー作家として世に知られている。もしくは、全く知られていない。知られているにしても、その印象は、おそらく大変に悪い。
何故なら、彼の小説は、残酷で、残酷で、残酷で、読む者の劣情に働きかけているとしか、(多分)とらえてもらえないのではないか、と想像されるからである。
これは僕の杞憂であろうか。そうであればいいのだが、と思う。

「黒い夏」の時代設定は1960年代のアメリカで、ニクソン大統領、ベトナム戦争、ウッドストック野外コンサート、シャロン・テート事件などが時折エピソードに絡めて語られる。主たる登場人物である残虐な殺人犯レイは、身長が足らず兵役を逃れているし、シャロン・テート事件の犯人であるチャールズ・マンソンには、その心の中の少なからぬシンパシーを隠そうともしない。
レイは、4年前、キャンプ場で、何の罪もない二人の少女を冷酷に撃ち、捜査線上に上りながらも逮捕されることなく現在に到っている。二人の被害者のうち植物状態になりながらも生き続けていたエリース・ハンロンが遂に亡くなったことをきっかけに、当時この事件を担当していた刑事チャーリーが再び捜査を開始する。
物語はそのように始まり、そしてクライマックスで再び身の毛のよだつような展開を迎える。

だが、僕はこの小説を感傷的だ、と思う。
解説によれば、原題「The Lost」には「正気を失った者」という意味があるとのことだが、同時にまたこの小説で描かれる多くの人がそれぞれに「Loser」でもあるのだ。
彼等は、愛する娘を失い、輝いていた自分自身の時(過去)を失い、恋人を失い、未来を失う。ここには喪失感が漂っている。だが、僕達がこの小説によって、「もはや失われてしまったのだ」と思い知らされる最も根源的なものとは、実は1960年代という「時代」なのではないか。
決してよき時代ではなかったのかも知れない。ある意味「狂気の時代」でもあった。だが、誤解をおそれずに言えば、それはまた、もはや帰ることの許されぬ、だからこそ愛しい世界でもあったのだ。

暴力に結び付けられた「時代」。
ジャック・ケッチャムは、思い出すことは暴力である、とでも言いたげに、独創的であること極まりないノスタルジーを描いてみせる。
「隣の家の少女」が、ケッチャムのよき理解者であるというスティーヴン・キングの「スタンド・バイ・ミー(The Body)」と比較されるのは、だから故なきことではないのである。
posted by og5 at 22:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 本・雑誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月04日

待合室

病院の待合室は面白い。
色んな人がいる。

じっと見ていると、医者にも、技師にも、看護師にも、結構変わった人は多いが、何と言っても一番面白いのは患者、あるいはその家族である。
いったい何処でこんな服を買って来たのだろう、と思わずにはいられないような服装をした人達がたくさんいる。何ともへんてこりんな靴(やサンダル)を履いている人も多い。
しかし、彼等は自然だ。病院の廊下を、自分の家の庭のように歩いている。

時には、見るからに柄の悪そうなあんちゃんが、彼のお祖母ちゃんと思しき老女の乗った車椅子の背中を押しながら、病院で知り合いになったらしい数人の老人達と挨拶を交わすなどという、僕の日常には普段全くあり得ない光景に出くわし、嬉しいようないたたまれないような変な気分になることもある。
車のついた小型の旅行バッグみたいなものから延びた長いチューブを鼻に差し、そのバッグの取っ手を引っ張ってゆらゆらと歩いて来た痩せた男と、おそらくその妻だと思われる中年女が長椅子の端っこに肩寄せ合うように座るのを見て、わけもなく泣きそうになってしまうなどということも、またある。

病院だから、具合の悪そうな人が多い。だから、元気だと場違いな感じがする。
看護師は、ちょくちょく場違いである。
そうでもしないと、やっていられないのかも知れないが。

自分の名前が呼ばれるのを待ちながら、ある者はずっと喉をゴロゴロと鳴らしている。またある者はプルプルと震え続けている。
名前は呼ばれないのかも知れない。
病院は面白いが、同時に寂しい。
posted by og5 at 23:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月01日

爪を切る日

僕は日曜日に爪を切る。風呂から上がって、というパターンが一番多い。
他の日には爪は切らない(切りたくない)。
そして、これは手の爪限定の話である。

週末には、ちょっとした瞬間に、例えば頬を掻いたとか掌を握ったとかした瞬間に、爪が自分の顔や手の皮膚にひどくとげとげしく感じられる時もある。だが、だからといって、金曜や土曜に爪を切ろうとは思わない。日曜まで我慢する。
いつからなのか定かではないが、これが習慣である。

しかし、時には(年に1〜2回あるかないかではあるけれど)日曜に爪を切るのを忘れてしまうこともある。
そしてそのことに思い至るのが週の半ばだったりすると、本当に困ってしまう。
問題は、では次にいつ切るか、だ。

こんな時、僕は二週間がかりで日常を取り戻す。
次に爪を切るのを、ほんの一日二日先延ばしにするのだ。
一週目には、だから金曜日あたりに、いつもより少しばかり長く伸びた爪を切る。
そしてまた一週間、非日常を過ごす。
次の金曜には、爪は既に肌に痛い。
しかし、ここで僕は、もう一度だけあえて鬱陶しいイリーガルな週末を我慢して、やっとのことで心地良いいつものスケジュールを取り戻す。

そんなに曜日にこだわるのなら、短かろうが最初の週末にとっとと切ってしまえばいいのに、というのが大方の人の考えることであろう。
しかし、僕には、まだ短い状態の爪を切ることが、日曜以外の曜日に爪を切るということ以上に抵抗があるのである。

僕は日曜日に爪を切る。
まだ短い爪は切りたくない。
また、足の爪はこの限りではない。
多分、理由なんかないのだ。
posted by og5 at 23:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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