2007年08月27日

さかなクン、戦わずして勝利す

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さかなクン

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「徹子の部屋」にさかなクンが出ているのを観た。僕が観た時にはもう番組は終わりに差し掛かっていて、二人の会話の内容すらよく把握出来なかったのだが、あの黒柳徹子がどうしてよいか判らずおろおろしているのだけは感じられた。
そもそも黒柳徹子はインタビューする相手に興味などない。ほとんどいつだってそうだ。
興味がないのだから、相手がどんなことをする人間だろうが、どんな考えを持った人間だろうが彼女には何の関係もないわけで、だから対談はかなりの頻度で不思議な一方通行に終わる。
多くの場合、ゲストは「徹子の部屋」という現象の周りをただグルグルと回っているに過ぎないのだ。

しかし、さかなクンは違った。彼は決して「徹子の部屋」の入り口を探しあぐねて逡巡する旅人ではなかった。
彼もまた「さかなクン」という現象であり、テレビ画面にはその時、「徹子の部屋」という現象と「さかなクン」という現象が向かい合って座っていたのである。
今までそんな相手にあまり会うことがなかったから、黒柳徹子はちょっと焦ったのだろう。「徹子の部屋」の秘密のドアの隙間から、黒柳徹子が不安げに顔をのぞかせて、「さかなクン」という現象を見ていた。
「さかなクン」という現象はゆるぎもしなかった。彼は、見事なまでにいつもの「さかなクン」だった。

おそるべし、さかなクン。
「踊る!さんま御殿」で初めて見て以来ずっと「嫌だな」と思っていたはずのさかなクンに、僕はいつの間にやら少なからぬ好感を抱いているのであった。

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2007年08月26日

「ボラット 栄光ナル国家カザフスタンのためのアメリカ文化学習」を褒める

萩本欽一は下ネタが嫌いなことで有名である。
誰がやっても受けるから、というのがその理由らしいが、果たしてそうだろうか。
以前このブログでも、「笑点」における三遊亭小遊三の下ネタについて、何故かこの人が言うと下品にならないから不思議だと書いたが、そういうことが確かにあるのだ。

多分、萩本欽一は、笑いに対する姿勢の問題として、安易であるか否かという観点から、「誰がやっても受ける云々」と発言しているのだろうと思うが、では、常識的レベルの不特定多数の笑い(支持)を獲得出来ないかも知れないリスクを犯してまで、これでもかこれでもかと下品に徹する映画「ボラット」の意味は何か。
それはもう、下品にすれば受けるから、などというレベルをはるかに越えてしまっているように僕には思える。
ある者はそのあまりの品のなさに閉口する。またある者はそのあまりの差別的内容と無神経に激怒する。激怒しないまでも呆れ果てる。

おそらく、それは「選別」であり「挑発」であり「挑戦」である。
あまりにセンスのよい「うわさの男」の使い方に唸って、僕はふるいの目をくぐり抜けることに成功した。そうなれば「挑発」は興奮を呼び、「挑戦」は拍手を持って迎えられる。もしあの時僕がふるいの目に引っかかり、ポイと外に捨てられていたら、もちろん「挑発」は反感を呼び、「挑戦」は無視されていただろう。
下ネタは、時に武器になるのだ(当然ながら、「選別」の権利は本来観客にこそあるもので、観客には「観ない」という究極の選択肢があるのだが、それは実は同時に、新しい映画的体験の機会を自ら放棄する、ということをも意味する)。

あの下ネタは安易な受け狙いでもなければ精一杯のギャグでもなく、もちろん練りに練られた必須の下ネタだった。そうしなければ表現出来ない何かがあったのだ、と少なくとも僕は確信している。
だって、あのグロテスクなまでの下品の果てには、妙に清々しい「真実」が見え隠れしていたから。フェリーニの「甘い生活」で乱痴気パーティの果てに訪れる醜い「真実」(怪魚)ではなく、その裏バージョンとでも言うべき、もっと明るくてナンセンスでバイタリティ溢れる肉体的な「真実」だ(僕はここで「彼の再婚」を意識して書いているわけではない)。

下ネタだらけだが安易ではなく、大いに笑えて、最後には清々しい(また同時に少し悲しい)気持ちになれる。世の中には「おバカ映画」というジャンルがあるそうだが、「ボラット」は、決してそこに括られるべき映画ではないだろう。
実は、DVDが出たら絶対買おう、と僕はもう決心しているのだ。

※萩本欽一はこの映画を好きだろうか?
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2007年08月23日

「『朝青龍問題』問題」を考える

マトリョーシカというロシアの入れ子人形がある。
民族衣装を着た女の子の木製人形を胴の部分で二つに割ると、また中に同じような人形が入っていて、それがどんどん繰り返されて人形が次第に小さくなって行く、という仕掛けだ。
ロンドンへの新婚旅行の途中、トランジットで立ち寄ったモスクワ空港で、買おうとしたがあまりにも高価で諦めたという記憶がある。

さて、「『朝青龍問題』問題」である。
何故「朝青龍問題」ではなく、「『朝青龍問題』問題」かと言うと、これが実はマトリョーシカのように入れ子になっているのではないか、と思うからである。
横綱にあるまじき行為があったので処分を受けた。本来はそれだけの話だ。
(多分、一部の人達を除き)誰も記者会見など求めていないし、今更親方の指示に従うことを以て反省していると見做すなどという者もいないし、医者が誰でなければならないとこだわっている者もいないのである。
みんなでわざと事を複雑にしようとしているとしか思えない。
まるで、カフカの小説である。

「大相撲マトリョーシカ」では、北の湖理事長を二つに割ると高砂親方が入っていて、高砂親方を二つに割ると朝青龍が入っている。朝青龍を二つに割ると、いったい何が出て来るのか。
内館牧子が出て来たら、それはそれで結構(ヴィジュアル的に)面白い、と思う。

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蛭子バイオレンスに癒される〜「歌謡曲だよ、人生は」

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困ったものだ。
せっかく「アキ・カウリスマキ特集」で労働者の悲哀と心意気にどっぷり浸かってお盆明けを迎えたはずなのに、仕事をする気が全く起こらない。
どさくさに紛れて観た「ボラット」がよくなかったのだろうか。

しかし、「ボラット」は、あのマイケル・ムーアと同じ何ものかが底に流れていると漠然と感じさせながらも決して嫌らしくならないという奇跡的な映画で、それはきっと偽善の臭いすら掻き消してしまうグロテスクの連鎖が、僕を有無も言わせず悪夢のようなナンセンスの果てに連れて行ってくれたからに違いない。
「ボラット」はどちらの側にも立っておらず、どちらの正義をも代弁しない。ニュー・ヨークを初めて訪れたボラットのお下劣の数々をバックに、ニルソンの「うわさの男」が、実にセンスよく、何もかにもを包み込むように、ただ流れるだけである。
僕はこれを、新たなカルト・ムービーの誕生だ、くらいに今思っている。

というわけで、今日は急遽会社をずる休みして「歌謡曲だよ、人生は」を観に行った。
どうしても自分自身を元気付けなければならない、と強く感じたのである。
元気付けられましたねえ。

まず、出だしの「ダンシング・セブンティーン」が素晴らしい。これはいったい誰が監督しているのだろう。日本の祭りの手捌き足捌きとオックスの曲が見事はまって一体となって、僕はもういきなり感動の涙の中だ。これは最高のオープニングである。
そして、何といっても蛭子先生監督の「いとしのマックス」が強烈。昔ガロに連載していた頃大ファンで、しかしその後下らないとしか言いようのない作品ばかり見せられ、「ああ、この人はホントに天才だったんだなあ」などと妙な納得をしていたのだが、テレビのバラエティー番組でおちょくられているのを見たりすると妙に腹が立って、心密かに「控え居ろう!」なんて叫んでいた僕は、これでまたこの人を正面切って「天才」と呼べるのだ、と今この上ない喜びに浸っているのである。いや、武田真治も凄いんだけどね。
あと素晴らしかったのは「ラブユー東京」。進捗している現実と無関係に人の唇が「ら〜びゅう」と動くのが秀逸である。
「ざんげの値打ちもない」、「逢いたくて逢いたくて」もよかった。全く違う意味で「女のみち」の宮史郎もよかった(リスペクト!)。
でも、感動したという意味では、「乙女のワルツ」が一番だったりして・・・。

さて、元気にはなった。
しかし、僕のお盆休み(気分)はまだ終わっていない。
それじゃあ駄目じゃん(笑)。

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2007年08月19日

予告編の楽しみ方

恋人たちの失われた革命恋人たちの失われた革命
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ほぼ1週間も同じ映画館に通い続けていると、何となく予告編とも馴染みになってしまうものである。「アキ・カウリスマキ特集」の各本編の前に、「恋人たちの失われた革命」の予告編が流れる度に、僕は心の中でツッコミを入れて楽しんでいる。

例えば、「一組のカップルが誕生するということは歴史が出会うことだ」という監督の言葉や、「1968年パリ五月革命」、「僕たちは自由を求めていた」などというカッコ良過ぎるキャプションに続き、「フランソワ<二十歳詩人>」と続くと、
<それってつまり「無職」ってことか?>
と、素直な疑問を投げかける。
また、主演のルイ・ガレルを「フランスの奇跡」と紹介されれば、
<お前は「ルルドの水」か?>
・・・。
共演のリリー役の女優に関する「新たなミューズ」というキャッチ・フレーズに到っては、
<新しいミューズは殺菌効果が20パーセントもアップしました>
などと、ついついわけの判らないことを声に出して言ってみたくなる始末なのである。

とは言え、僕は別にこの映画を馬鹿にしているわけではない(当たり前だ)。
モノクロの画面もスタイリッシュだし、わざと「圧」を強めたような台詞の録音按配もカッコいい。キンクスの「This Time Tomorrow」が、フランス映画と何故かぴったりはまっていて、ああこれが「時代」というものなのか、などと妙に感心したりもしているのである(曲の方がちょっと後だけど)。

「恋人たちの失われた革命」は、フィリップ・ガレル監督作品。1968年のパリ五月革命を背景に、フランソワとリリーという若い男女の「愛の誕生と喪失」、そして「情熱と絶望」を描いている(多分)。

※全然関係ないが、今日観て来た「ボラット〜栄光ナル国家カザフスタンのためのアメリカ文化学習」は最高だった。暴れまくりのやりたい放題。嫌いな人は嫌いだろうけど、僕は大好きですね。
「恋人たちの失われた革命」は、シアタープレイタウン秋田で9月7日から上映予定。「ボラット」は、8月24日までFORUS秋田シネマパレにて上映中です。
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2007年08月17日

悲しみの宇宙飛行士

月の記憶―アポロ宇宙飛行士たちの「その後」〈上〉 (ヴィレッジブックス)月の記憶―アポロ宇宙飛行士たちの「その後」〈上〉 (ヴィレッジブックス)
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もう半年以上も前のニュースなのに、何故か心を離れない。
スペース・シャトルにも搭乗したことのある女性宇宙飛行士が、勝手に恋敵と思い込んだ相手を襲い、誘拐未遂罪(後には第一級殺人未遂罪)で起訴されたという、あの事件である。

米航空宇宙局の女性宇宙飛行士だったリサ・ノワクは、スペース・シャトルの男性操縦士に恋をするが、彼と空軍基地に勤務する女性士官が恋愛関係にあると勝手に思い込んで、車で乗り付けたフロリダ州中部の空港で待ち伏せし、逃げる相手女性にスプレーを噴射した。
自宅から1500キロも離れた空港に車で向かった彼女は、時間のロスをふせぐためか、何とオムツまで着用しており、逮捕時、かつらやトレンチコートで変装していた彼女の車の中からは、空気銃、ハンマー、そしてナイフなどの凶器まで見つかったという。
彼女は現役宇宙飛行士であり、そして3児の母でもあった。

僕は、このニュースを一篇の悲しい詩のようだ、と思う。
特に、彼女が2005年、NASAのインタビューに応え、宇宙飛行士を目指した動機について、「5歳のときに見た(アポロ11号の)月面着陸に感動したから」と語っていた、というエピソードを知ってから、ますますその想いを強くした。
もちろん、罪は罪である。何の落ち度もない相手に危害を加えようとした被告は、厳しく(そして正しく)裁かれなければならない。
だが、人間は法だけでは割り切れない、不可思議としか言いようがない「心」というものを持っている。
この事件は、僕のそのしょうもない「心」の琴線に何故か触れるのである。

月の記憶―アポロ宇宙飛行士たちの「その後」〈下〉 (ヴィレッジブックス)月の記憶―アポロ宇宙飛行士たちの「その後」〈下〉 (ヴィレッジブックス)
アンドリュー スミス Andrew Smith 鈴木 彩織

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マッティ・ペロンパーに捧げられた映画

真夜中の虹/浮き雲真夜中の虹/浮き雲
トゥロ・パヤラ カティ・オウティネン アキ・カウリスマキ

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最初に観たのがそんなに昔だったというわけでもないのに、アキ・カウリスマキ監督の「浮き雲」がどんな映画だったのか、僕はほとんど忘れてしまっていた。
「浮き雲」の意味を、(多分)僕は今回初めて知ったのだ。

レストランの給仕長だったイロナと路面電車の運転手だったラウリは、それぞれほとんど同時に職を失ってしまう。4年ローンでラウリがカラー・テレビを買って、すぐの出来事だ。
職業安定所に行っても、飛び込みで自らを売り込んでも、不況のせいもあって2人にはどうしても仕事が見つからない。
実は2人には子供(男の子)がいたのだが、ほんの幼い頃に亡くしてしまっていた。子供もいない彼等に、未来が、墨を流したように茫漠と横たわる。

2人(とりわけイロナ)にとって、「生きる意味」とは即ち「働くこと」だった。彼女は、昔の仲間達を集めて、そしてかつてのオーナーの資金援助もあって、夫と共に「työ」というレストランを開く。字幕では「レストラン・ワーク」と訳されていたが、フィンランド語の「työ」には、行動する、仕事、職務、雇用、労働等の意味があるようだ。
そして、オープン初日、イロナ達の心配を杞憂に変えて見事満杯になった店内には、レストランの前をふさぐように停車したゴミ収集車から降り立った2人の男達の姿があった。

幸福感に満ちて煙草の煙を吐き出すイロナと、その側に寄り添い彼女の肩を抱くラウリ。そして、エンド・ロールで示される故マッティ・ペロンパーへの献辞・・・。

突然、僕は悟った。一瞬にして霧が晴れたかのように、全てが明らかになった。
この映画は、文字通りマッティ・ペロンパーに捧げられた「決意表明」だったのだ。
首になった昔の仲間達とは、そのままいつものスタッフ、キャスト達だろう。そこにはもはやマッティ・ペロンパーはいない。しかし、俺達はやはり映画を作る、と、こんな映画を作り続けて行くのだ、と、カウリスマキと仲間達は(「浮き雲」全編を通し)静かに叫んでいたのである。

これは、僕の勝手な想像だろうか。そうは思わない。だって、「レストラン・ワーク」オープンのテーブルに「招待」されたゴミ収集人は、本当は「パラダイスの夕暮れ」のニカンデル(マッティ・ペロンパー)だったはずなのだから。

映画館からの帰り道、僕は自分の思いつきを妻に語った。「そう云えば・・・」と妻が言いかけた時、僕は遮ってこう問いかけた。
「あの子供の写真、マッティ・ペロンパーの子供の頃の写真だよね?」

職を失った中年夫婦の話は、このようにして僕にその真実を力強く、しかし静かに明かしたのであった。
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2007年08月14日

アキ・カウリスマキ映画の女の顔について

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アキ・カウリスマキ映画やマッティ・ペロンパーに対する想いは妻にはかなわないので、僕は僕の個人的な驚きだけを書くことにしよう。

8月10日から19日まで、秋田有楽町のシアタープレイタウンで行われている「アキ・カウリスマキ特集」に通い、何本かの旧作と新作「街のあかり」を観た僕は、改めて「女優の顔が凄いなあ」と思ったのだった。
美人などまずいない。思わず、何故こんな顔なんだろう、と唸らずにはいられないような面相の女ばかり。しかもそれは、センスの悪さでもリアリズムの追及の結果でもなく、明らかにアキ・カウリスマキの「意思」なのである。

僕がそれを思い知ったのは、旧作「コントラクト・キラー」においてであった。
「コントラクト・キラー」は、ロンドンの水道局を解雇されたフランス人アンリ(ジャン=ピエール・レオー)が絶望の果て「契約殺人」を依頼するが、その直後トウの立った花売り娘マーガレット(マージ・クラーク)と恋に落ちて殺し屋から逃げ回る、という暗くてしみじみとしたコメディだ。
マージ・クラークは、常連カティ・オウティネンなどに比べればまだ可愛げのある方だが、それにしても、映画の常識的な意味における美人では決してない。化粧も濃いし、口紅や、いざという時に選ぶ服の色のセンスもどうかと思う。
だが、僕が打ちのめされたのは、そのすっぴんのどアップだ。

マーガレットは化粧の濃い女である。しかし、アンリと一夜を過ごした後の彼女は化粧を落としており、その顔にはシミがたくさん浮いている。やつれた肌がアップになると、僕達は、彼女の歩んで来た人生さえも(思わず)想像せずにはいられなくなってしまう。
アンリが、そっと彼女の頭部に触れる。
映画は女優を美しく撮る(見せる)ものではなかったのか、などと考えていた浅はかな僕は、その時やっと(アンリの気持ちになって)悟る。僕は今この上なく美しいものを見ているのだ、と。
確かに、アキ・カウリスマキは女優を美しく、そして最上にいとおしく撮り上げたのだ。
あのシミだらけの女の顔の大写しには、愛が満ち溢れている。

例えば、「マッチ工場の少女」のイリス(カティ・オウティネン)の惨めで不機嫌な顔とマーガレットの顔の意味はまた別であろう。
しかし、少なくとも、そこにおちょくりや浅薄な効果狙いはない。
僕の驚きは感動だ。
アキ・カウリスマキは、何故あのような顔の女を撮り続けるのか。
実はそれは単純なことで、彼がそれを美しいと思っているからなのである。
posted by og5 at 23:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年08月13日

スパイ小作戦

首相官邸の電話機に補聴器を仕掛けよ。
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2007年08月09日

ハエと言葉

他にも人はいるのに
僕にだけとまる
ハエ

追い払っても
追い払っても

逆回しの
フィルムのように
僕の肘に
とまる

あなたは
もしかして
僕の死んだ母さんですか?

想いは
言葉の壁を越える
でも

それを呑み込む時
僕は「ゴクリ」と言う
あまりに
自然に

追い払っても
追い払っても

猿回しの
猿のように
ハエは言葉に
すがりつく
posted by og5 at 21:25| Comment(2) | TrackBack(0) | 人間けだもの | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年08月08日

アンジェラ・秋子

AU(LISMO)のTVコマーシャルで、まっちゃん(松本人志)の母親がえらいノリノリで歌を歌ってるな、と思ったら、アンジェラ・アキだった。
posted by og5 at 18:38| Comment(3) | TrackBack(0) | TV・芸能人 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年08月07日

特筆すべき意味のなさ〜「キサラギ」

「キサラギ」は文句なく面白かった。
特筆すべきは、とにかく、中身が何にもないということである。なのにハラハラドキドキするし、笑えるし、わけもなく泣けたりもする。
これは決してけなしているわけではないのだ。
だって、実際すごいことじゃないか。

気にかかる部分は最初からあった。何故彼等があそこに集まって来たのかが理解出来ない。ネット(ファン・サイト)のオフ会のように説明はされているけれど、いや、集まるのなんか絶対的に不自然だ。
しかし、すぐにそんな「不自然」などどうでもよくなってしまう。
それほど、脚本が、演出が、演技が素晴らしいのである。
これはある意味「力技」だが、確信犯だってことは最後の最後で明白になる。
「遅れてきた清純派グラビアアイドル」如月ミキが実際に歌うシーンが画面に映し出されることに、僕は唖然として言葉を失った。そして、更にエースのジョーが・・・。

キム・ギドク監督の「絶対の愛」を「メビウスの輪」の物語だ、と僕はこのブログ上で書いたけれど、よく考えてみれば「キサラギ」だって「メビウスの輪」なわけだ。それも、とんでもなく意味のない「メビウスの輪」だ。
言葉はいつでも次の瞬間別の意味にすり替わる。登場人物の立場もころころと変わる。これは言葉の、論理の、そして真っ当な物語の破壊で、まるで不条理劇を観ているような気分にさせられる(でも、ちゃんとすじが通ってもいる!)。
そうか、そういうことなのかも知れないな。

自分の好みというこもあるのだけれど、僕の中で「キサラギ」の位置付けは非常に高い。そして、改めて思ったけれど、香川照之はすんばらしい。小出恵介も、ユースケ・サンタマリアもよかったな(だいたい、ユースケ・サンタマリアっていう芸名を、誰も不自然に感じていない、という現状が既にもの凄いわけであるが・・・)。
「絶対の愛」を観るまでは、「キサラギ」が今年度ベスト10暫定王者だった、というのは、別に冗談でも何でもない僕の本心で、それはまだちゃんと芽を残していたりするのです。
posted by og5 at 21:59| Comment(2) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「メビウスの輪」と放置された時間の復讐〜「絶対の愛」

時は連綿と続いて行く。人が何を思おうが、何をしでかそうが、そんなことにはお構いなく、ずっと、ずっと、果てしなく一方向に流れて行く。そうであるはずだ。
しかし、キム・ギドクの「絶対の愛」においては、その時が放置される。肉体のリセットによって、それまでの彼女の時間は、ぷっつりと切断されてしまったかのように見える。だが、実は放置されるのは彼女の未来であって、過去ではないことが判る。何故なら、彼女はまた必ずスタート地点に戻って行くからである。
彼女は、同じところをグルグルと回ろうとしているに過ぎない。二人の出逢いから、今現在までを、もしかしたら今度こそは、と半ば期待しながら、もちろん同時に、どうせまた、と半ば絶望しながら、そうして彼女は繰り返す。
「絶対の愛」は、「メビウスの輪」の物語だ。

オランダの版画家M.C.エッシャーには、そのものずばり「メビウスの輪」という作品があって、無限(あるいはどうしても脱け出せない日常)を象徴するかのような輪の上を、赤い大きな蟻が不気味に這い回っているのであった。
セヒは、時(未来)を置き去りにして、自分とジウの「メビウスの輪」を作ろうとした。あるいは、それこそがセヒにとっての「未来」であったのかも知れない。セヒの「メビウスの輪」の上では、サングラスに大きなマスクをかけて顔全体を覆い隠した赤い(あるいは黒い)コートの女が、ジウを追いかけて全速力で走っている。
おぞましい。だが、これはこれでまぎれもなく「メビウスの輪」である。

「メビウスの輪」の中央をずっと最後まで二等分して行くと、テープは大きなひとつの輪となる。ところが、最初テープの端と端を糊付けする時に、捻りを二回入れるとどうなるか。中央から二等分すると、チェーンのように結ばれた、しかし確実に切断された二つの輪が出来上がるのである。
僕は、映画の冒頭とラストで二回繰り返されるシーンを、どうしてもこの「ダブルメビウス」に結び付けてしまう。整形サロンの外で二人の女がぶつかる、あのシーンだ。そして、あれが失敗した「メビウスの輪」のチェーンの繋ぎ目なのだ、と思う。
わざわざ鋏を入れて、「輪」を綻ばせたのは誰か。いや、そもそも二回目の捻りを入れて「ダブルメビウス」を作ってしまったのは誰なのか。
それはセヒでもあり、スェヒでもあり、またジウでもあるだろう。やり直すためのリセットと逃げ出すためのリセットと、そして破滅。
これは、放置された時間が人間に復讐する物語でもある。

そして、僕は、ずっとこの映画のことを考えている。
まるで僕自身が、キム・ギドクという「メビウスの輪」に取り込まれてしまったかのように。
いや、確かに取り込まれてしまったのである。

※セヒがシーツを頭からかぶるシーンなども、実にエッシャーあるいはマグリット的。
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2007年08月03日

歌謡曲の作詞家、死す

作詞家の阿久悠が、1日、がんのため亡くなった。
そのため、昨日の朝のワイドショーでは、ピンク・レディーのメドレーや都はるみの「北の宿から」などをずっと流し続けており、ゲスト出演した元ピンク・レディーの未唯mie(これでミーと読むのだろうか)が思い出話を語ったりしていた。
僕は、まず新聞で、このことを知った。朝の慌ただしい時間ではあったが、隣の居間から聞こえて来るヒット曲の数々を半ば一緒に口ずさみながら、生前彼と親交のあった人々の追悼の言葉を読んだ(だから、最初は何故今ピンク・レディーなのか全く理解していなかった)。

その産経新聞の記事の中で、映画監督の篠田正浩がこう述べている。
「阿久さんの詞は、現代詩と変わらないみずみずしさを持っています。数々の作品は戦後日本の再生の象徴。言葉が聞こえる歌詞を書いた最後の人だった」・・・。
しかし、僕にとって、阿久悠はあくまでも歌謡曲の作詞家であり、またそのことこそが僕が彼を尊敬する一番の理由でもあった。
もちろん、篠田監督と親交を深めるきっかけとなった「瀬戸内少年野球団」を持ち出すまでもなく、小説家あるいは毅然としたエッセイストとしても活躍していたことは充分に承知している。
しかし。

例えば、尾崎紀世彦の「また逢う日まで」。あるいは山本リンダの「どうにもとまらない」。この曲達のイントロとメロディと歌(歌詞)が始まる時のあの感じ。知らない人には上手く伝わらないだろうことが悔しくてしょうがないけれど、僕はこの(歌詞と曲とアレンジとそして歌い手とが一体となった)奇跡的な瞬間を生み出した彼の歌謡曲の作詞家としてのセンスに驚くのである。
また、「津軽海峡・冬景色」の、歌い出し部分の畳み掛けるように連なる言葉達の「これでなくてはならない」という感じ、他に置き換えようがない「ヒット曲」としての歌詞にしびれるのである。
ここでは、何か化学反応のようなものが起こっている。

歌謡曲の歌詞は、「しょせん歌謡曲の歌詞じゃないか」と揶揄される存在であってもよいのだ、と思う。だが、時に「化学反応」が起こる。そして、阿久悠の書く歌詞においては、その確率がものすごく高かった。
それは、決して偶然ではない。
こんなことはきっと誰かが既に何処かで論じていることであろう。
しかし、それでも僕は自分自身のつたない言葉で確認してみたかったのだ。
阿久悠は優れた歌謡曲の作詞家であった。そして、それは素晴らしいことである、と。

ご冥福をお祈りします。

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尾崎紀世彦 阿久悠 筒美京平

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津軽海峡冬景色/能登半島津軽海峡冬景色/能登半島
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ラベル:阿久悠 歌謡曲
posted by og5 at 19:52| Comment(0) | TrackBack(0) | TV・芸能人 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年08月01日

無題

自分の
ことしか
考えられない

という才能がある
posted by og5 at 21:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 人間けだもの | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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