2007年09月30日

9月最後の日に

6.jpg「陶芸小屋」で土を捏ねたりろくろを回したりしていると、身体がねっとりする。僕は元々ねとねとした人間なので、会社で仕事をしている時などもかなりの頻度で粘着成分に全身を覆われているのだが、土をいじっている時の粘り具合はまた格別だ。2〜3時間も小屋にいると、皮膚が半ば土に同化したかのように感じられる。空気中に漂う土の成分が、ピタピタと肌に貼り付いて、そして僕の皮膚呼吸と共に身内に取り込まれて行く。
成形し損じた器や削り屑を再生させてまた使えるようにしようと手で練っていると、爪が削れる。最初は気付かなかったのだが、何気なく頬を掻いた時に、そこに傷がついたのではないかと思うほど神経に障り、確かめてみたら右手指の爪が尖っていた。陶芸用の土には砂も混じっているから、多分ヤスリのように作用するのだろう。手袋をはめればいいのだが、ついつい面倒で素手のまま作業をしてしまうのだ。

2.jpgねっとりした手でねっとりした首筋を撫でて、窓の外を見る。痩せた爪で頭を掻くと、そろそろ床屋に行かなくてはならないとずっと思っている髪の毛までねっとりとしている。
昼過ぎ、結構強い陽が差していたので外に出したサボテンの鉢が、今はもう日陰に入って寂しそうにしている。
風が急に強く吹いて、そこいら中の木々の葉っぱをざわざわと揺らした。
2週も続けて月曜が休みだったので、何となく明日も仕事をしなくていいような気がしていたのだけれど、冷静に考えればそんなわけもなく、僕は今騙されたような、ちょっと損をしたような、そんな妙な気分になっている。
陶芸用に取り付けた玄関先の水栓から出る水は温い。
間違えて一輪だけ咲いたタンポポの花が、場違いに黄色く鮮やかに、9月最後の日を惜しんでいた。
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2007年09月29日

人間の条件

人間はやっかいな生き物である。
成長しないと罪悪感を感じるように出来ている。

例えば、びっくりすると気を失ってしまう山羊がいる。スカンクは敵に襲われると臭いガスを出す。亀は何かあると手足を引っ込めて時が経つのをじっと待つばかりだし、コバンザメなんて奴までこの世にはいるわけである。
もし自分がこれ等動物達と同じ特性を持っていたとしたら、と想像してみる。
僕は、自分では出来もしないのに、すっかり人間教育に慣らされているから、びっくりする度に足をすくませる自分を恥ずかしいと思うだろう。逆襲のためとはいえ、武器がおならというのはちょっとどうか、と悩むに違いない。そして、引っくり返されても何も出来ず、ほとぼりが冷めるまでじっと身を縮めて待ち、そろそろ安全かも、と辺りをうかがってからやっとじたばたと手足を動かし始める臆病さと、自ら荒海を泳ぐ努力もせず、ただただ「親分」にすがり、そのおこぼれを頂戴することだけがヨスガという他力本願、自立精神ゼロのていたらくに、思わず赤面せずにはいられないのである。
しかし、彼等はそれを恥とは思わない。
恥ではないからだ。
身を挺して他者を救う、という行為が、仮に彼等の世界にあったとしても、それは決して、「ここで何らかの行動をとらなければ○○として恥ずかしい」というような、不自然かつ強迫観念的考えに基づくものではないのである。

僕は、あるべき姿と現実のギャップに悩む。
仰天するようなことが起こっても涼しい顔をしていたいし、男らしい手段で敵に相対したい。不合理には毅然と立ち向かいたいし、常に一個の自立した存在でありたいと願う。
今の自分がそうではないからだ。
四捨五入すればもう20年も前の話ということになるのだけれど、肉親の不幸に際し、何となくではあるが(そして、ほんの一瞬のことではあるけれど)、自分が「あるべき姿」に近付いたような、そんな気がしたのはいったい何故だったのだろう、とふと思う。
それは本当に勘違いだったから、僕はすぐにまた元の自分に戻ってしまった。
メッキは剥がれる。
すぐに剥がれるメッキなら最初からしない方がいいようなものだが、それでもメッキをかけようとするのが人間なのだ、とも思う。
自分が決して「金」や「銀」ではないことを知りながら、それでもなおかつそこに近付くよう一生努力し続けるのが人間の条件なのだとしたら、メッキは偽善である。
だが、その偽善は可愛い。
僕は偽善なしでは生きて行けないし、神様もそのへんは大目に見て下さるのではないか、と淡い期待を抱いている。
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2007年09月24日

第2のビートルズ

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「第2のビートルズ」という言い方があった。
今でもあるのかどうかは知らない。音楽雑誌を全く読まなくなってしまったからだ。
50年代がプレスリーの時代だったのに対し、60年代をビートルズの時代だという。異論もあろうが、まあ、そういうことになっている。
では、70年代は、というのが「第2のビートルズ」のそもそもの語源である。
バッド・フィンガー、デビッド・ボウイ、ベイ・シティ・ローラーズ、僕の記憶が正しければアバまでもが確かそう呼ばれていた。

結局、「第2のビートルズ」は現れなかった。
それは、当然の話である。
候補として名の上がったアーティストやミュージシャンに魅力が足りなかったとか、力不足だったとか、そんなことではない(いや、実際の話は置いておいて)。彼等に何かが足りなければ「第2〜」に成り得ないのと同じように、仮にビートルズ以上の才能と運に恵まれていたとしたら、それはそれでまた彼らを誰も「第2の〜」とは呼べないのである。
つまり、元々「第2の〜」には意味がないのだ。

しかし、それでも人は、ひと頃「第2のビートルズ」にこだわった。あるいは今でも求めている人はいるのかも知れない。何故だろう。
これは僕の想像だが、それは彼等が抱く欠落感のせいではないだろうか。
今現在、生まれて初めての音楽無我夢中期を送っている少年少女は、間違っても「第2の」何かなど求めたりしないだろう。彼等には多分何もかにもが「第1の」何かであろう。
「第2の」何かを求めるのは、僕達が「第1の」何かを知っており、そこから素晴らしく充実した何物かを受けとったが、しかし今は既にそれを失ってしまったからなのではないか。

音楽ではないが、僕はこのことからウディ・アレンの「アニー・ホール」の1シーンを思い出す。
それは、アニーを失った後の主人公が、ロブスターを茹でている際、ふざけても何の反応も示さない新しい恋人について、何かが違う、と愚痴るシーンであった。
もう詳しくは憶えていないが、それは、やっぱり彼女でなければならないというある「感じ」について語った言葉で、つまり彼にとってアニーは「第1の」ではなく、ただひとりの特別な女性だったのであり、「第2の」アニーなどそもそもこの世に存在しないということなのである。
それでも、人は多分求め続けるのであるけれど。
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草を刈る

僕はそもそも庭に雑草が生えていようが、一向に気にしないタイプだ。年に数度義母が頼む庭師は、僕が好きなヒナギクやタンポポやシロツメクサなど、彼が庭木あるいは草花と認めないものを、僕達夫婦がわざわざ植えたローマン・カモミールを含めて全て殲滅してしまうので、反感を抱いているくらいだった。
しかし、この前の台風の前後、どうにも薄気味の悪い事件が起こる。
台風の不穏な風の中帰宅した僕は、庭と駐車場の間に植わっている大きな紅葉の木の周辺の雑草だけが、約1平方メートルほど、四角くきれいに抜かれていることに気付いたのである。
義母に尋ねても知らないと言う。
では、いったい誰の仕業なのか。
確かに、最近の我が家の庭先は草ぼうぼうのすごい状態ではあった。それを見かねた誰かの親切だろうか。いや、しかし、仮に親切だとしても、これはやはり随分と失礼な話である。
僕は猛烈に気分を害した。
こんなことがあった後で「対処する」なんて屈辱的だ、とも思った。
しかし、結局は自分で雑草を何とかしなければ、と決心して、そして「刈払い機」を買った。

20070924135756.jpgせっかく買ったのに、天気が悪くて使わずじまいだった敬老の日から一週間が経った。
曇り空。ひと時、ほんの少しだけ雨粒が落ちて来たが、何とか持ちそうだ。墓参りの後で、やるなら今日だな、と僕は思った。
「刈払い機」本体や燃料である混合ガソリンの取扱説明書にはやたらと気持ちの悪いことが書いてある。やれ火事になるだの、やれ失明するだの、やれ人を死傷させる恐れがあるだの、ととにかくおどろおどろしい。買った直後、最初にこれを読んで、すぐに店に返しに行こうかと思ったくらいである。
再読して、僕は再びびびった。しかし、側に寄って来る猫と弱気を家の中へと追い払い、僕は勇気を振り絞ってエンジン始動のノズルを引いた。

20070924135850.jpgエンジンを切ってもしばらく僕の右手は震えていたが、庭は見違えるようにすっきりした。
ジーパンの裾にはびっしりと草の砕片がこびり付いていた。そこら辺一帯に青い匂いが強く立ち込めている。
プロがやるようにはいかず、刈り残しも多いけれど、妻と一緒に熊手や箒で後片付けした後の庭は、秋の風に吹かれて、気持ちよさそうに小さく揺れていた。
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2007年09月17日

愛すべき建物

フランク・O・ゲーリーとMIT ステイタセンターのデザインと建設のプロセスフランク・O・ゲーリーとMIT ステイタセンターのデザインと建設のプロセス
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シドニー・ポラック監督の「スケッチ・オブ・フランク・ゲーリー」を観た。
天才と呼ばれるような人達は、才能が並外れているということはもちろんなのだが、何よりその頭の中身自体(物の感じ方とか整理のつけ方とか)がとにかく尋常ではないのだ、とずっと思っていた。
ところが、このフランク・ゲーリーという人からは、ちょっと違う印象を受ける。もっと普通というか、ちゃんと社会生活も送れる常識的な人、というイメージなのだ(セラピーに通っている、というのも、その印象を更に強める)。

とはいえ、彼の構築した作品はどれもすこぶるユニーク。「普通」でも「常識的」でもない。
ハサミで厚紙をジョキジョキと切りながら作る模型は、それがそのまま芸術作品ででもあるかのような彼のスケッチとともに、美しく洗練された魅力に溢れている。
子供の直感と経験を積んだ大人の緻密な計算とが一体となった彼の構造物が、パソコンの3Dデザインや気の遠くなるようなディスカッションの果てに、それでも結局は労働者達の手によって現実のものになって行くということに、僕は感動する。
いわゆる「天才」とイメージが異なって感じられるのは、もしかしたらこの後に控える「工程」のせいなのかも知れない。

「おそ松くん」には、チビ太とイヤミの大工がそれぞれ競い合ってデカパンの家を作る、というエピソードがある。そのイヤミの作る家が、何故か全て出っ歯をモチーフにしたデザインになってしまうのだ。
また、「天才バカボン」には、バカボンのパパが大工の弟子になる話があって、親方のいない間に勝手に作ってしまった家は、「まずげんかんをあけると すぐおトイレになって」おり、便器を通り抜けると台所へ出る。床にあるドアから入る応接間は、床が斜めで普通に立っていることも出来ない。寝室は狭いが、その代わり押し入れは「フトンが一万枚ははいる」広さである。そして、壁には、小さな小さな「ネズミさんのドアー」までついている・・・。

朝の、昼の、そして夕方の陽を受けて、キラキラと表情を変える彼の美しい構造物の壁面を見ながら、実は僕は全然関係のないことを考えていた。
フランク・ゲーリーの作品が町中にあるのは確かに刺激的で、またそれは実際すごく美しくもあるのだが、僕は、昔ながらの制約に縛られたごく普通の家々をも、また深く愛するものなのである。
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2007年09月16日

カルト・ムービー賛歌

スキヤキ・ウエスタン ジャンゴ公式画報スキヤキ・ウエスタン ジャンゴ公式画報

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カルト・ムービーというものがこの世にはある。「ミッドナイト・ムービー」で紹介されている、「エル・トポ」、「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド」、「ピンク・フラミンゴ」等々の唯一無二の映画達。でも、唯一無二なのは、多分これ等の映画を撮ってしまった監督達自身なのである。

「スキヤキ・ウエスタン ジャンゴ」を観た。この肌触りは、間違いなくカルト・ムービーである。しかし、実はそうではない。カルト・ムービーをカルト・ムービー足らしめる「生理」がこの映画にはないのだ。だって、これは監督の三池崇史が、あらゆる憧れとテクニックを駆使して作り上げた、カルト・ムービーへのラブ・レターだから。

「スキヤキ・ウエスタン ジャンゴ」は、文句なく面白い。
まず、スクリーン左右両端を覆っているカーテンがスルスルと引かれて画面がワイド・スクリーンになるのが堪らない。これは「チーム・アメリカ:ワールド・ポリス」でも感じたことだが、こうされると「これから始まるんだ(馬鹿馬鹿しいことが!)」という期待感が否が応にも盛り上がらざるを得ないのである。
僕の中では、何と言っても伊藤英明の存在が絶対的だ。画面に「伊藤英明」とその名前が出ただけで笑い出しそうになる。何だろう、この何とも表現し難い間抜けな感じは。
伊藤英明はヒーローだ。暗い過去を背負っているという設定なのに、そんなことを微塵も感じさせない張りぼて感。ヒーローの条件とは、実は「実際にはいない人」なのだ、ということを改めて実感する。素晴らしいのひと言に尽きる。
そして、香川照之。「ゆれる」はただの序章だった、と僕は笑いながら深く納得した。この映画における香川照之は、もはや人間ではなく妖精である。劇中、シェイクスピアが持ち出されるのも、だからあながち故なきことではない。
告白すれば、僕は桃井かおりを初めていいと思った。顔のでかさはこの際どうでもいい。タランティーノへのオマージュであろう「ブラッディ・弁天」PVのカッコよさはもちろん、今は亡き今村昌平監督へのオマージュかとも思える立ちしょんシーンも、変な話だが実にカッコよかったのである(背中の弁天は、何故か細木数子似だったけれど)。

村長の同時通訳、まるで志村けんみたいなタランティーノの車椅子移動、伊勢谷友介の意味のないカッコよさ、木村佳乃のギリギリで感動的なダンス、「ヘンリー」等々、笑えるポイントを挙げればきりがない。とんねるず石橋の最後が無意味にしつこくてまるで無駄だとは思ったけれど、そんなものは微かな傷だ。
繰り返しになるが、これはカルト・ムービーではない。だが、面白い。
それでいいではないか。
いや、それでいいのだ。

※北島サブちゃんの主題歌「ジャンゴ」も英語で歌ってもらえれば、もっとよかったのにな。

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2007年09月15日

たばねら

「あの時こうしていたら」とか「あそこで反論すれば」とかいった意味のない後悔を戒めて、会社のお偉いさん達はよく「『たられば』を言うな!」と部下を叱る。
だが、今から書こうとしているのは「たられば」ではなくて、「たばねら」である。

先日、6つの小さな鉢にそれぞれ植わっているサボテンを植え替えてひとつにまとめようと思い、適当な大きさの植木鉢及びサボテン用培養土を買いにホームセンターまで行った時、同行した妻の所望で切り売りのネットなどを見ていたその同じコーナーの向かい側の棚に、面白い物があるのを見つけた。
スーパーで売られている青果物(特に長ネギやアスパラなど長くて数本単位で売られている物)を束ねる紫色のテープ、アレが、あったのである。

もちろん、アレはむき出しで売られていたわけではない。僕は、最初「アレ」とは気付かず、ただ単にそのあまりにもユニークなネーミングに興味を惹かれただけであった。
僕は、「たばねらテープ」と記されたその箱をすぐさま開けにかかった。するとそこには、あの見慣れた紫色のテープが、普通のセロテープ様に輪っかになって、ちょっと「あ、見つかっちゃったか」といった感じで収まっているのであった。
僕が、即座に妻を呼んで、(何故か自慢げに)「たばねらテープ」を見せたことは言うまでもない。

「たばねらテープ」があるなら、「たばねら」本体もあるはずだ、と僕は思った。
而して、それはあった。
要するにテープ台であるが、束にした野菜を上から押し付けて、そこにテープを巻き付けながら適当な長さで切断することが出来るようになっている(らしい)。
テープには、紫色の他にもグリーンやイエローがあって、いずれも「FRESH VEGETABLES 新鮮やさい」と白抜きの文字が入っている。
黄色いテープの文字は、ちょっと見づらい。
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ねばならない世界

こんな話を聞いた。
RCサクセションが秋田に来た時、おそらくもう25年ほども前のこと、ある店に、ルードボーイファッションに身を固めた男達がたむろしていた。
「ルードボーイ」というのは、黒いスーツと細いネクタイ、それに山高帽といういでたちをしたある一群の若者達を指す言葉で、スペシャルズなどの2トーン・スカの連中やそのファン達のスタイルを想像して貰えれば判り易いのではないかと思う。クラッシュを支持する若者達も、確か同じような恰好をしていた。
そこに、RCサクセションのライブを観終わった数人の客がやって来る。
僕も多分その同じライブを観ているが、観客の中には忌野清志郎やチャボを真似て化粧をした者も結構いた。そして、その夜その店にやって来たのも、そんな連中だった。
当時としては異様だったツンツンにとがらせた髪、アイシャドーと口紅、イヤリングやブレスレットやネックレスをジャラジャラとぶら下げ、あるいは派手なバンダナを頭に巻いて、はいているのは穴だらけの細身のジーンズにブーツ。だが、彼等の着ているシャツの胸には、同時にまた、金色に輝く小さな熊が、しっかりと縫い付けられていたのである。
「こいつ等は偽者だ」
ルードボーイのひとりは吐き捨てた。
それだけの話なのだが・・・。

考えてみれば、既存のハード・ロックやプログレッシブ・ロックに厭き厭きした職もない若者達がパンク・ロックを始めた、というのも実のところ全くの真実ではなかったわけである。だが、少なくともそれは様々な意味における「閉塞」に対する反動で、そこから派生したニュー・ウェイヴや2トーンなどの動きも、やはりまた、それに呼応した「何ものか」だったはずなのである。
しかし、人は結局「ねばならない」から逃れられない。
革命家が独裁者になったって、もう誰も驚きはしない。壊すだけでは駄目なのだとすれば、いずれはそこに体制が出来上がる。政治的世界だけではなく、音楽だって何だって、壊す者が次の壊される者になるのだ。

ルードボーイ組とゴールデンベア組がその後どうなったのか、僕は知らない。
ルードボーイにとっては、日常から脱け出したつもりで日常を引き摺ったままで、しかもそれに気付いてもいないゴールデンベアが許せなかったのかも知れない。
ゴールデンベアは確かに偽者だ。
だが僕は、こんなささいなエピソードの陰にも潜む「ねばならない世界」の存在に、今かなりうんざりしているところなのである。

※こんな恰好ね。
   ↓
SpecialsSpecials
The Specials

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2007年09月13日

はな

それは、67歳で亡くなった母の出棺の日の出来事であった。

霊柩車に乗り込んだ僕は、棺の扱いや手順に間違いがなかったかどうか葬儀社の男に訊ねた。車はもう動き出していた。運転しながら男は、「ええ、何も問題はありませんよ。大丈夫です」と言った後、ふと思い出したように、「ただ、お棺に花を入れてあげればよかったなと思いますけどね」と付け加えた。
僕は、取り返しのつかないことをしてしまった、と思った。そのように、悟った。僕は、母にただ一輪の花も手向けずに、棺に釘を打ってしまったのだ。

霊柩車は斎場に着き、母は焼かれて骨になった。
ハナというのが、僕の母の俗名であった。

ある日、母の日に亡くなった僕の母のためにと、妻は大きな大きな花束を用意してくれる(それは豊かな花束だった。美しい花束だった)。
僕は声を出してオイオイと泣く。イタリアン・レストランの駐車場で、おんぼろ車の運転席に座り、僕はとにかくずっとずっと泣き続ける。
助手席で、妻も一緒に泣いている。

その花束は、実は僕のための花束であった。
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2007年09月12日

「?!」について

これ「?」がクエスチョン・マーク。疑問の存在を表すのに使われる。
そして、これ「!」がエクスクラメーション・マーク。驚きを表すのに使われる記号で、「ビックリマーク」などとも呼ばれる。
では、これ「!?」は何か?
更に、これ「?!」は?

実は、僕は「!?」は理解出来るが、「?!」をどうしても理解することが出来ないのだ。
純粋な疑問や驚きがあるのと同じように、ビックリするのと「はてな」がほとんど同時(あるいは全く同時)にやって来ることもこの世にはある。
しかし、疑問を持ったと同時にショックを受けるということが、果たしてあるのだろうか。
僕は、その状況をどうしても想像することが出来ない。

例えば、ほんの少し開いている地下室のドアをおそるおそる覗いてみたら突然中から血まみれの手が突き出て来て顔面をわしづかみにされた、というような状況。
これは「?」の後に「!」が(なるほど)やって来てはいるのだが、僕にはこれは「?!」ではなくてあくまでも「?」+「!」であるように感じられる。
それにひきかえ、何気なく地下室のドアを開けたら見たこともないグニャグニャしたモノが突然目に飛び込んで来て一瞬身を固くした、という場合は、「!」+「?」ではない「!?」的状況が確かにあるように思えるのである。

どうでもいいことだろうか。
どうでもいいことなのかも知れない。
しかし、テレビや漫画や小説や広告等々で、「?!」を目にする度に、僕は何故か堪らなく居心地が悪くなってしまうのである。

ところで、安倍総理の「辞任」は、やっぱり「!?」だよなあ。
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2007年09月10日

オーダー

もうかなり前のことである。
休日、ひとりで入った喫茶店で朝食を食べた。
その店のモーニング・セットは、パンと玉子料理をそれぞれ二種類の中から選ぶことが出来るというシステムになっていて、クロワッサンではなくトーストを、スクランブル・エッグではなく目玉焼きを、僕は選んだ。
その頃夢中になっていた佐藤多佳子の「一瞬の風になれ」が佳境に入っていたのでぐいぐい読んでいたら、すぐに大きな皿に乗った僕の朝ごはんが運ばれて来た。
大き目のカップにたっぷり注がれたコーヒーとこんがり焼けたトースト。そしてサラダにベーコン。ところが、玉子料理が目玉焼きではなくてスクランブル・エッグだった。
僕とウェイトレスはほぼ同時にそのことに気付き、まず最初にウェイトレスが「目玉焼きでしたよね」と言った。
「そうですけど・・・」と口ごもって、僕は考えた。
このほかほかと湯気を立てているスクランブル・エッグは、せっかくフライパンで炒られてきれいに皿に盛られたというのに、おそらくは誰の口に入ることもなく捨てられてしまうのである。僕には元々、そこまでして目玉焼きを食べたいという気はない。目玉焼きでなくても、一向に構わないのである。
「これ、捨てることになるんですよね」と僕は訊ねた。
相手は、しかしそれには答えず、「5分くらいで出来ますから」と、もう既に皿ごと引き上げようとしている。
「それを食べますから」と僕は3度申し出た。そして、その3度目で、相手がどうもそう言われて困っているようだ、ということに気が付いた。
店内には、僕の他にもまだ数人の客がいた。僕とウェイトレスのやり取りなど多分誰も聞いていなかっただろうが、僕は人目が気になった。我が儘を言っているのは、僕なのであった。
僕は、遂に諦めた。
相手の言いなりになって、スクランブル・エッグを捨てて、作り直された目玉焼きを食べることに同意したのだ。
目玉焼きは美味しかった。
そして、確かに、それが僕のそもそものオーダーだったのである。
posted by og5 at 22:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 記憶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月09日

知らない自分

ホントの自分を探しに行こう
知らない町へ探しに行こう
知らない町の地図はあるかな
知ってる町の本屋で訊いた

知らない町ってどんな町かな
知ってる本屋で訊き返された
知らない町のことは知らない
知ってる町の名前答えた

知らない町
知ってる自分
知ってる町
知らない自分

ホントの自分を探しに行こう
知ってる町へ探しに行こう
知ってる町の地図を片手に
知ってる町の自分を探そう
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2007年09月06日

鞄の中身

僕は、会社に行く時鞄を持たない。
週に3〜4日は弁当の入った小さな紙袋をぶら下げて行くが、そうでない時は手ぶらである。
同僚には、「え? 手ぶらなの?」と驚かれる。
僕には、彼のその驚きの意味が判らない。
個人情報や会社機密の取り扱いが厳しくチェックされるようになり、また仕事を家に持ち帰るということも建前上は禁止されていることであるから、本来なら会社から家に(鞄に入れて)持ち運ばなければならないものなど、空になった弁当箱くらいしかないはずなのだ。
では、何故彼等は鞄を持って歩くのか。

もし電車通勤をしているのであれば、車内で、あるいは待合室で暇潰しに読む小説や雑誌がその中に入っているのだ、ということはあるかも知れない。
それとも彼等は実は隠れた投資家であって、会社のパソコンとは別に、いつでもどこでも市況が確認出来るように、自前のノート・パソコンを持ち歩いているとでもいうのであろうか。
最初の想像は可能性がなくもないが、二番目の想像は可能性ほぼゼロに近い。
しかも、彼等の鞄は、小説を入れるためだけにしてはやけに立派ででかいのである。

もしかしたら、あれは鞄ではないのではないか。
鞄のように見えるが、実は全体が保温機能を備えた弁当箱になっていて、パカッと開けると超豪華なランチが現れるとか、小さな山水があって、そこの瀧で流しそうめんが楽しめるとか・・・。

昔読んだ漫画で、いつも鞄を持ち歩いている男がいて、実はその中には銃が入っていた、というのがあった。彼はその銃によってアイデンティティを保っている。仕事においても、異性関係においても、誰にも見せないが彼だけはそこにあることを知っている銃の存在が、彼に自信を与え、他者に対する優位を何の根拠もなく保証するのである。
もしかしたら、そうなのかも知れない。
銃こそ入っていないが、いや、それどころか何ひとつ入っていないのかも知れないけれど、あの鞄はやはり彼等にとって、なくてはならないものなのである。

僕も、空の鞄を毎日持ち歩いてみようか。
人生が(遅まきながら)変わるかも知れない。
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2007年09月04日

小さな秋

今朝出掛けにオニヤンマを見た。近所の駐車場、停車中の黒い自家用車のサイドミラーの辺りを、すいーッと横に飛んで行った。
トンボを見たこと自体が、多分今年初めてである。昔は夏休みに見たような気がするオニヤンマであるが、もしかしたら元々秋のトンボだったのかも知れない。

今年は、シャワーの温度でまず秋を感じた。
夏の間は、冷たい、ほとんど水のようなシャワーを気持ちいいと思っていたのに、お盆を過ぎるあたりから温めのお湯を心地よいと感じるようになった。
気が付けば、庭では、セミと秋の虫の合唱の引き継ぎが、いつの間にか粛々と執り行われている。

秋の空は気持ちがいい。秋の空気もまた気持ちがいい。何か、息を吸う度に、その都度空気がずっと遠くからやって来るような感じだ。
夏の暑さにグッタリしていた慢性腎不全の家の猫も、少しばかり食欲を取り戻して元気にしている。これがいつまで続くのかは不明だが、取りあえずはよしとしよう。

僕も秋のお陰で少し元気になった。
秋の空気を吸えば、何となく日々の悩みもほんの少しだけ遠くに行くような気がする。
posted by og5 at 19:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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