2007年10月28日

預けた鳩は

預けた鳩は
今何羽なのかと
突然訊かれた

鳩小屋なんか
もう2年と3月
見ていなかった

鳩は
きっと死んでいるだろう
僕が
君を忘れたように

預けた鳩は
卵を産んだか?
預けた鳩は
今でも飛べるか?

忘れた君が
クックルクックルと
小首を傾げる
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沈黙の居酒屋

個人情報保護法の施行以来、小学校のクラス連絡一覧表のようなものすら、父兄からの協力が得られず、作ることが出来ない事態になっているのだという。
情報化時代になれば、それで金儲けをたくらむ人間が出て来るのは当然の成り行きで、ただ困るのは、違法にせよ合法にせよ、それら入手した情報が、金になるばかりではなく、命を手に入れて勝手にひとり歩きを始めてしまうということである。
子供を持つ親の身であれば、どうしても神経質にならざるを得ないだろう。それも、理解は出来る。
僕の会社でも、毎日のように、顧客情報漏洩について注意喚起が行われている。酒席では仕事の話を一切するな、という御達しまで出た。
確かに、お客さんの情報や取引先とのあれやこれやが外部に漏れることなど、絶対にあってはならないことだ。「壁に耳あり障子に目あり」という諺は、情報化時代にこそ相応しい。
しかし、と僕は思う。では、居酒屋で僕達はいったい何を話せばいいのだろうか、と。

サラリーマン同士が居酒屋のカウンターに並んで安い酒を飲んでいる。話題は今日の大リーグWシリーズのことと、趣味のゴルフの話。だが、一方は全くゴルフをしないので、相槌を打ちつつも、実はさっきからもうひどく退屈している。
何故こんな所にこんな奴と来てしまったんだろう、と彼は思う。理由はある。上司の仕事のやり方に、課員のひとり残らず全員がどうしても納得の行かない「あること」が起こったのである。一番の被害者が、彼と、今隣りで真っ赤な顔をしているN氏だった。だから、彼はN氏を飲みに誘ったのだ。
しかし、N氏と彼は全く話が合わなかった。共通の話題がないのだ。せめて仕事の話が出来れば、あの嫌な課長の悪口が言えたなら、と思ったが、会社の業務内容に触れざるを得ない事柄を社外で話題とすることは規則でかたく禁じられている。
かと言って、わい談をするのもためらわれた。以前、調子に乗って騒いでいたら、隣り合った席の女性ばかり5人のグループから、露骨に嫌な顔をされたのである。
今では、意図しようがしまいが相手の受け取り方ひとつでセクハラに結び付けられてしまうから、迂闊に冗談も言えない。
彼等二人のストレスは、それを解消しようと立ち寄った居酒屋で、更に濃く深くなって行くのであった。

今、居酒屋で話すことはあまりない。
たまに(本当に、本気で)イニシャル・トークをやっているグループを見かけるが、聞いているこっちまで頭がグラグラして来る。
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2007年10月25日

そんなチキンに騙されて

「偽装」だらけだ。
ミートホープ、白い恋人、赤福と来てついに比内地鶏である。
そういえば、雪印や不二家だってまだそんなに昔の話ではない。
比内地鶏偽装のニュースを初めて聴いた時には、何とも言えない不可思議な気分になった。
嘘だろ、と、ああついに来たか、とがないまぜになった、妙に醒めた感覚である。
今朝観たニュースでは、数日間姿をくらましていた社長が、記者会見で何事かもごもごと釈明していたが、何でも、自殺まで考えて方々を彷徨っていたのだという。

ひどい話だ。
だが、僕は、どうしてもこの事件を強く一方的に非難するという気持ちになれない。
それは、おめおめと姿を現した社長があまりにも情けない田舎爺キャラだったとか、「比内地鶏は今まで一切使ったことがありません」、あるいは「全て私が指示しました」といった案外潔い物言いにちょっと好感さえ抱いたからなどという理由ではなく、単に僕があれら「偽装」の品を、美味しい美味しいと言って喜んで食べていたからなのである。
もしかしたら違う商品かも知れない。いや、しかし、多分「アレ」である。

僕に何を言えようか。僕が、若鶏ではなく親鶏を好む者である、などということももはや何の意味も持たない。確かに、年取った鶏の方が歯ごたえがあって美味しい(と僕は思う)。そして、今回比内地鶏の代わりに使用されていたのは、もう卵を産まなくなってしまった「廃鶏」というそれはそれは安い鶏だったというのである。
これではまるで結婚詐欺にあった女のようなものである。騙されたと聞かされても、どうしてもそれをそのまま信じる気持ちになれない。少なくとも、あの日あの時の彼の言葉に嘘はなかった、と信じたいのだ。

「彼」って、鶏なんですけどね。

※これにも凄い「チキン」が出て来ます。

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ラベル:比内地鶏 偽装
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2007年10月24日

右手と左手の話〜あるパン屋にて

楳図かずおの作品に、「神の左手悪魔の右手」というホラーがある。これは本当にホラーだ。とにかくおぞましく怖い。あまりにダイレクトなので、僕は未だに買うのを躊躇している(本当はコミックスを一冊買ったのだが、あんまり怖くてすぐに売ってしまった)。

さて、これは、先週あるパン屋で経験した出来事である。実は、別に怖くもないし不思議でもない。だが、とりあえず右手と左手に関するエピソードではある。

妻と僕は、先週、そのパン屋で食パンを買った。他にもシナモン・ロールや何かを買ったのだが、詳しくは憶えていない。
食パンは、二斤の大きさで売られていた。しかし、それでは僕達には多過ぎるので、妻は一斤にして欲しいと店員に頼み、ついでにスライスもして貰うことにした。
店員は、レジ・カウンターの下から、透明な手袋を取り出した。
神経質な性質の僕は、衛生に気を使っているのだな、と納得し、心の中で頷いた。
彼女は、右手にその薄い手袋をはめた。
しかし、何故か左手にははめようとはしないのであった。
彼女は、右手だけで注意深く食パンを持つと、僕達に背を向けた。そして、壁際にあるスライサーに片手で器用に食パンをセットし、スイッチを入れた。
スライサーが低く唸ってパンをカットする。切られた端の部分がまず左側面から落ちて来る。彼女は、ごく自然に左手で、つまり素手で、それを受け止める。受け止めて、そして、次々と積み重ねて行く・・・。
僕達は支払いを済ませ、車に乗り込んだ。車の中には、すぐに、焼き立てパンのいい匂いが漂い、そして空間を満たした。

手袋をはめない左手に意味があったのか、それとも、手袋をはめた右手に意味があったのか、僕には判らない。
インドでは左手は不浄の手とされており、だから、カレーを食べる時も、右手だけが使われるという。
冒頭紹介した楳図かずおの漫画では、左右の位置付けがそれとは逆になっており、左手はいわば癒しの装置となっているのだが、果たしてパン屋の彼女は、不浄のパンに秘蹟を行おうとでもしていたのだろうか。
今、僕に想像出来るのは、彼女は多分ヒンズー教徒ではないだろう、ということくらいである。

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2007年10月22日

カクテルが飲みたくなる〜「バーテンダー」

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何気なく入った本屋で平積みになっている最新刊を読んだら面白かったので、原作・城アラキ、漫画・長友健篩の「バーテンダー」をまとめ買いした。
「バーテンダー」の主人公は、まだ26歳という若さながらフランスのカクテル・コンテストで優勝した経歴を持ち、その腕前を「神のグラス」と称される佐々倉溜という青年。バーテンダーがちゃんといるバーのカウンターというのは僕にとってはほとんど縁のない場所だが、読んでいる内にカクテルが飲みたくなってしまった。

僕にとって、カクテルとはお洒落な飲み物であった。お洒落と名のつくものは、僕の天敵であった。だから、僕は今まであまりカクテルという物を飲んだことがない。
唯一、川反にあったオヤジさんが独りでやっているカクテル・バー(「サンボア」だったか「ザンボア」だったか今となっては定かでなし)に数回通ったことがあるくらいで、何故ならそこはちっとも気取ってなくて、しかもジンライムがとっても美味しかったからである。
でも、それも長続きはしなかった。結局、僕にはバーという場所が、やはり馴染まなかったのだろうと思う。

外国の小説には、よくカクテルを飲むシーンが登場する。
サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」では、確か主人公のホールデン・コールフィールドが、まだ子供のくせにギムレットをがぶ飲みしていたし、同じサリンジャーの「大工よ、屋根の梁を高く上げよ」では、グラース家の次男バディが、兄・シーモアの結婚式で、トム・コリンズを飲み過ぎて具合が悪くなるかどうかしていたはずだ(記憶が曖昧)。
不思議なことに、ここにも気取りはない。それとも、カクテルが気取ったものだという感覚にとらわれている僕がおかしいのだろうか。

「バーテンダー」は面白い。第9巻まで一気に読んでしまった。
だが、登場人物の顔に若干問題があって、僕は今それがとても気になっている。それは、横顔(それも特に女性の横顔)が、ナウマン象かバクに見えるということである。
いくら漫画の顔のパーツは記号のようなもので必ずしも写実的じゃなくてもいいとはいえ、歯がないのはやはり気持ちが悪い。というか、口の描写が中途半端にリアルなのだ。

バカボンの親父にだって歯があるのに、などとついつい下らないことを考えてしまうシラフの月曜の夜なのであった。
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2007年10月21日

少な過ぎる思い出〜「天然コケッコー」

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「天然コケッコー」を観た。
監督が「リンダ リンダ リンダ」の山下敦弘で、脚本が「ジョゼと虎と魚たち」などの渡辺あや。長過ぎるのが難点だが、気持ちよく観た。
出だし、田圃や森が連なる田舎の風景が、「殯の森」のそれとあまりに違うので吹き出しそうになった。「殯の森」のイントロは、それだけで素晴らしい沈黙の神曲だったが、僕にはちょっと立派過ぎて近寄り難かったので、「天然コケッコー」の普通の田舎の光景に少しほっとしたのだ。

小学校から中学校まで全生徒合わせても6人しかいない村の学校に東京から転校生がやって来る。主人公の右田そよと同じ中学2年の大沢広海だ。二人は、ごく自然に互いを好きだと思うようになる・・・。
僕は今「ごく自然に」と書いたが、この映画は(もしかしたら原作の漫画自体が)すごく自然なのである。何かとんでもない事件が起こるとか、そんな派手なことは何ひとつない。だが、ずっと何かがピンと張りつめている。それを「緊張感」と呼んでもいいのではないか、と僕は思う。「天然コケッコー」には、呑気とデリケートが同居している。

そよに好意を抱いている郵便局員のシゲちゃんをわざと一緒に祭りに行くよう仕向ける友人達と、その祭りの夜に起こる残酷で繊細な(しかも自然で当たり前な)言葉のやり取りにも僕は感心したが、やはり一番胸を打たれたのは、東京の高校に行くと言う広海に、そよが離れ離れになってからのことを話すシーンである。
そよは広海の学生服のボタンを繕っている。もうこんなことも出来なくなるとうつむくそよに、郵送するからボタンをつけて送り返してくれ、と広海は言う。線路で転んだら抱き起こしに来てくれるかとそよは問う。広海は、もちろん飛んで来る、と答える。
僕は、二人にはまだあまり思い出がないのだ、と突然気付く。

別れる二人に思い出がたくさんある物語なら、今までにも随分たくさん見て来た。しかし、彼等は若く、出会ってから日も浅く、そして行動範囲もごくごく狭い。
二人にはまだあまり思い出がない。
広海も多分そのことに思い至り、そしてもっともっとそよとの思い出を作ろう、と、いや、もっともっとそよと一緒にいたい、と思ったのだろう。

僕はこの映画がとても好きである。
くらもちふさこの原作も読みたくなったな。

※秋田FORUS8階シネマパレで、10月26日(金)まで上映中です。

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手鼻をかむ人

スキーのノルディック競技などを観ていると、選手はみな洟を垂らしている。中には鼻の下につららをぶら下げている選手もいて、目のやり場に困る。
マラソンの選手もよく洟を垂らしている。こちらは冬ではないからつらら化はしていないが、その代わり彼等は手鼻をかむ。他の方法で処理をする人達も当然いるわけで、もちろん全員ではないのだけれど、かなりの選手が、これは男女の区別なく、実に上手に「ぴッ」とやる。

今そんなことをする人はいないが、昔は一般市民も道端でごく自然に手鼻をかんでいたのではないか。
僕が子供の頃(昭和40年代)には既に、手鼻をかむなんて公序良俗に反する、下品だと考える方が一般的で、だからたまに見かけてもそれはかなりの年配者か、昔気質の大工やとびといった職人さん達に限られていた。
子供は、職人の「自分にとっての非日常」に憧れを持って接していた。独特の恰好、様々な道具類、でかい弁当箱、実に旨そうに煙草を吸う様子、そして癖のある口調やちょっとこわい感じ。

「手鼻をかむ職人」あるいは「職人の手鼻に憧れる子供」なんて、もしかしたら僕の「創られた記憶」なのかも知れないが、少なくともマラソン選手の手鼻よりはロマンチックである。
posted by og5 at 18:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

トレンチ・コートの男

一昨日の秋田市の最低気温は7.1℃、最高気温は17℃だった。
昨日の予想は、最低が12℃で最高が18℃。僕好みの「如何にも」な秋の気まぐれ天気だった。

金曜日、会社に向かう途中で、トレンチ・コートを着た男が僕の歩く歩道の向かい側から自転車をこいでやって来るのとすれ違った。
コート姿は、もう珍しくはない。しかし、さすがにトレンチ・コートは今季初めて見た。
僕の中ではまだまだ「そんな季節」ではなかったので、自転車をこいだら体温だって上昇するだろうし暑いくらいじゃないのか、と余計な心配をした。
トレンチ・コートの男は、実際少し辛そうだった。
脱げばいいのに、と僕は思った。

トレンチ・コートの男は、トレンチ・コートを着たまま僕の脇をすり抜けて行った。
トレンチ・コートの男は、多分トレンチ・コートを着たまま出勤したのだろう。
その時ふと、何故かと訊かれても説明など出来ないのだけれど、トレンチ・コートの男のトレンチ・コートの下がパジャマ姿であるような気がして、僕は後ろを振り向いた。
トレンチ・コートの男の後ろ姿は、何だかタガメに似ていた。

自転車をこぐトレンチ・コートの男の足元に、パジャマのズボンの裾が見えたかどうかについては、よく憶えていない。

今、絶滅の恐れがある水辺の生き物たち―タガメゲンゴロウマルタニシトノサマガエルニホンイシガメメダカ (ヤマケイ情報箱)今、絶滅の恐れがある水辺の生き物たち―タガメゲンゴロウマルタニシトノサマガエルニホンイシガメメダカ (ヤマケイ情報箱)
内山 りゅう

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2007年10月17日

ルール

ルールとはいったい何だろう。
人は、ルールを破る者を手厳しく非難する。
しかしまた、時に人は、ルールを破る者をやんやと褒めそやしもするのだ。
破られても構わぬルールと、守らねばならぬルール。
その違いは何か。
いや、そもそも違いなどあるのか。

おそらく、ルールは、守るべきものだからこそ、破ることにも意味がある。
破ること自体に、元々意味があるわけではない。
だから、破るためには、守ること以上に「意味」が必要なのだ。
それは、(多分)、後からつけられた屁理屈でも、集団的勘違いでも構わない。
とにかく、「意味」さえあればいい。
その「意味」とは、「今あるルールを守る」ということに対するアンチテーゼだ。

ルールを守るなんてかっこ悪い。
ルールを守るなんて馬鹿げている。
ルールを守るなんて無意味なことだ。

しかし、ルールのない世界でルールを破ることは出来ない。
ルールを破ること自体が、実はルールの中に取り込まれている。

今あるルールに取って替わることが出来るのは、新しいルールだけである。
もちろん、新しいルールには「意味」がある。
新しいルールに到る混沌にも「意味」がある。
新しいルールたる「意味」も、新しいルールに到る混沌たる「意味」も持たない破壊は、単純に無意味である。

破壊が行われている正にその時、僕達は案外そのことに無頓着だった。
「意味」があるのかないのか、ぎりぎりまでニヤニヤしながら、あるいはどうでもいいような顔をして、ただただ推移を見守っていた。
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2007年10月16日

チェリー・ダーリンにぞっこん

映画『グラインドハウス/プラネット・テラー』ポスター映画『グラインドハウス/プラネット・テラー』ポスター

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「グラインドハウス」というのは、公式HPによれば「かつてアメリカの大都市周辺に数多く存在し、刺激的なインディーズ系映画ばかりを2〜3本立てで上映していた劇場のこと」だという。そして、本作「プラネット・テラー in グラインドハウス」は、実はタランティーノ監督の「デス・プルーフ in グラインドハウス」とセットで、かつての「グラインドハウス映画」の再現を目論んで作られた「企画物」の片割れなのだという。
「デス・プルーフ」の方は観ていない。上映終了前日にかろうじて「プラネット・テラー」を観て、そのあまりの面白さにガラガラの館内で快哉を叫んだ時には、「相棒」の方は既に上映が終わってしまっていた。
正直なところ、僕は、タランティーノ好みの「70年代の再現」にはあまり興味がない。要するに、映画は面白いか面白くないかである、と思うからで、時にタランティーノの「おひれはひれ」が、僕には鬱陶しく感じられるのだ。
が、しかし、ロバート・ロドリゲス監督の「プラネット・テラー」は、とにかく面白かった。

テキサスの軍事基地で「DC−2」という生物化学兵器が漏出する。辺鄙な田舎町は、このガスに侵され、細胞が変化して「ゾンビ」化してしまった感染者達で溢れかえる。
しかし、中には、これに全く影響を受けない耐性のある者もいた。保安官とその兄JT(究極のソース作りに燃えるステーキハウス屋のオヤジ)、DVに悩むエキセントリックな女医(麻酔注射の早撃ちが得意)、ちょっとイカレタ双子のベビーシッター、そして謎の解体屋エル・レイと元ダンサーのチェリー・ダーリン。
彼等はやがて一致団結して「ゾンビ」の群れ、そして基地の部隊長(ブルース・ウィリス)率いるアメリカ軍に敢然と立ち向かう・・・。
圧巻は何といってもチェリー・ダーリン。彼女は「ゾンビ」に膝から下の右足をもぎ取られるが、恋人エル・レイに、最初は折れた椅子だかテーブルの脚を、最後はマシンガン(!)を「装着」されて、ステージ上で舞うかのごとく、ケレン味たっぷりに敵を撃ちまくるのである。
これがゾクゾクするほどカッコイイ。自分の中で眠っていた「フェチ」が呼び覚まされる不安と快感に、僕は戸惑い、そしてやがて酔い痴れた。

B級映画専門の「グラインドハウス」とゴーゴー・ダンサーにはつきものの「グラインド」。そのダンサーの振り付けがそのまま右脚のマシンガンを撃ちまくるアクションになり、敵の放った火の玉が、華麗に弓なりに反ったチェリーの柔らかな身体の下をくぐり抜けて行く。
僕がこの映画に出て来る「ゾンビ」にわざわざ括弧をつけるのは、これが僕の中における本当の「ゾンビ」ではないからなのだが、まあそんなことはこの際置いておこう。
とにかく僕は、チェリー・ダーリンにぞっこんなのである。

何だか無性に「聖獣学園」が観たくなって来たぞ。
あと、「ヴァネッサ・パラディVSエイリアン」にもちょっと近いかも知れないな。

※何故かポスターはマシンガンが反対側になっている(かなりいい加減)。

聖獣学園聖獣学園
多岐川裕美 山内えみこ 谷隼人

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2007年10月11日

先を急ぐ人

朝、いつも僕を追い越して行く人がいる。
そんなに早足でもないのだが、スタスタと先を行く。
そして、角を曲がってすぐに見えなくなってしまう。

この前、夕方その人を見た。
もうすっかり日の暮れてしまった、いつも僕が彼を見失う辺りの小路から、ひょいと飛び出して来たのである。
ところが、僕の前を歩く彼の背中が、朝とは逆にどんどん近付いて来る。
そして、僕はとうとう彼を追い越してしまった。

彼には、朝、出勤を急ぐわけでもあるのか。
そして、夕方、帰宅を先延ばしにしたいわけでもあるのか。

僕には、出勤を先延ばしにしたいわけがある。
だが、まあ何とか毎日遅刻もせず会社に辿り着くわけである。
そして、一日の仕事を終える。

僕は、家路を、少なくとも彼よりは軽やかな足取りで辿っているらしい。
”ホーム”に向かって。
スキップはしないまでも。
posted by og5 at 22:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 人間けだもの | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年10月10日

話しかける人

仕事中に話しかけて来る人がいる。まあ、誰だって勤務時間中、同僚とコミュニケーションを取りながら仕事をするのが普通なのだし、無駄なおしゃべりもある意味職場の潤滑油的役割を果たしているわけで、一切の私語を禁ずるなんて会社は僕だって御免だ。だから、話しかけて来ること、それ自体はいい。しかし、相手の都合も考えず、ずっと話しかけ続ける、というのはいったいどういう神経から発する行為なのであろうか。

例えば、いくら僕でも会社に行けば仕事をしないでいるわけには行かないのであるから、締め切りの迫った報告書を作るため、必死になってパソコンのキーを打っていることだってあるわけである。しかし、「話しかけて来る人」はそんなことには頓着がない。
「昨日国体の応援に言ったんだけどよぉ」と彼は言う。
無碍に無視するのも大人気ないと思い、最初は僕も軽く「へえ、何の応援に行ったんですか?」などと水を向ける。
「バスケット」と答えるから、ろくに興味もないのに「あ、優勝したんですよね」と言った僕の言葉を、相手はもう聞いていない。
「そういえば、カメラはやっぱりフィルムだな」と、彼は勝手に話をあらぬ方向に持って行こうとしている。僕には、それを引き止める気はない。とにかく話を切り上げて、報告書に集中したいのだ。
僕の相槌は曖昧になる。適当になる。多分、「迷惑なんだけど」があからさまに全身から立ち上っている。
だが、彼にはそれがまるっきり通じない。

会議中にやたらと話しかけて来る人もいる。発言している人の言ったことをちょっと確認したいとか、自分達の思惑との一致あるいは相違を目配せと共に隣り合った人と確認し合うという程度なら何の問題もないのだ。
だが、進行と何の関係もない話を延々と続ける人がいる。いや、これも最初は確かに発言内容との関連性があったのだが、次第にどんどんずれて行ってしまった結果なのである。
彼にも、「迷惑なんだけど」は全然通じない(おまけに、進行役から僕が注意を受けたりする)。

これ等の人々とは絶対一緒に映画なんか観に行きたくない、と心からそう思う今日この頃なのであった。

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2007年10月09日

貰った元気の使い道〜「それでも生きる子供たちへ」

「それでも生きる子供たちへ」を観て元気になった。
元気になった僕が一番最初にしたいと思ったのは、「何か買いたい!」ということだった。次に僕は「美味い酒が飲みたい!」と思った。そして最後に、購入したもののある事情から未だ愛情を持てずにいる自転車に、またちゃんと乗ってみよう、と思ったのだった。
物欲に食欲に、最後のは何と呼べばいいのかよく判らないが、とにかくあまり「ご立派」ではない。しかし、僕は確かにこの映画から素晴らしい活力を貰ったのであり、そして、言い訳がましいかも知れないが、その活力ゆえに、何かを買ったり、何かを飲食したりしたい、と強く思ったのである。

生命力が、そうそういつも健康的に、仕事に向かうエネルギーや周囲に無条件で注がれる愛情に結び付くとは限らない。
例えば、前にも書いたが「時計じかけのオレンジ」のアレックスが人間性を取り戻すのと下劣さを取り戻すのはほとんど同義だし、抜け殻のようになってしまった「ミッドナイト・エクスプレス」の主人公(ブラッド・デイビス)に再び魂を吹き込むのは恋人の「性」なのだ。
「お葬式」で、まるで死に触発されたかのように交わる山崎努と高瀬春奈も、そういえば哀しいくらい「生命」を求め、そしてまた同時に飢えていたではないか。
生命力は道徳では測れないのだ。

映画の最後に、サン・テグジュペリの「星の王子さま」の一節が引用されていることを考えれば、原題「All The Invisible Children」はなかなかに意味深長である。「目に見えない子供」とは誰なのか。タンザやウロスやビアンカやビルーとジョアンやジョナサンやチロやソンソンとシャオマオなのか。あるいは彼等が象徴する「不幸」だが「それでも生きている」子供達全てのことなのか。いや、僕はそうではないと思っている。
僕は今充分過ぎるくらいに幸せだが、ブラジルの貧民街で暮らす仲のよい兄妹よりも幸福だとは思わない。「星の王子さま」のキツネが言うように「目に見えないものこそ大事」なのだとすれば、「目に見えない子供」とは僕自身のことだ。そして、「目に見えない子供たち」とは、全ての大人達の中に潜む「子供」のことだ。そうでなくてはならない。そうであればこそ、この映画は観る者に、これ程のエネルギーを与えることが出来るのである。

「自転車にまた乗ろう」の理由はよく判っている。第4話「ビルーとジョアン」のビルーなら、僕が今持っている自転車を見たら飛び上がって喜んで、毎日得意になって乗るのだろうな、と思ったからである。
そうだ、僕もまた得意になってペダルをこごうではないか。

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2007年10月08日

秋の(どうでもいい)徒然

行列のできる法律相談所」の北村弁護士が金正日に似ているとか、谷亮子の笑顔の何処かに福山雅治と同じテイストが隠されているとか、あるCMの山口智子がTEKE2の深沢邦之に見えてしょうがないとか、いろいろと気になることの多い昨今ではあるが、今一番気になるのは、森泉は何かが外れている、ということである。
何が外れているのかは判らない。が、(物理的に)絶対何かが外れている(きっぱり)。

(現役の相撲取りだったら、腰の重いのは長所なのだろうけれど)相撲協会がやっと重い腰を上げて時津風親方に処分を下した。しかし、事実関係がまだ充分明確になっているとは言い難い現時点での「解雇」という処分は妥当なのだろうか。
その朝のワイドショーで、今までの経緯を伝える女性レポーターが、「時津風親方」を思わず間違えて「時津風親分」と呼んでしまうのを聞いた。僕は、笑うに笑えず困ってしまった。

sugi.gif「ニュースで「秋田わか杉国体」の競技模様を見た。何だか知らないが秋田勢がやたらと優勝したり2位3位に入ったりしている。
これは異常なことではないのだろうか。
地元開催は有利、という話は聞いたことがある。例えば、移動がないとか、勝手知ったる会場で試合が行われるとか、応援が多いとか。しかし、それだけでこんなに成績がよくなるものだろうか(考え杉?)。

新作映画の舞台挨拶における不貞腐れたような態度が元で、沢尻エリカが槍玉に上がっているという。その後謝罪インタビューで号泣したとか、和田アキ子が「コンドシメル」と発言したとか、しばらく謹慎するのではないかとか、いろいろ情報が飛び交っているようだが、僕は一切直接には見聞きしていない。
公の電波で中途半端な「ワル」を見るのが嫌だからだ。

春と秋には必ずテレビの編成替えがあり、しばらくは特番の嵐が吹き荒れるわけだが、これはいったいいつからの慣わしなのだろうか。
面白い時は面白いが、つまらない時はとことんつまらない。
困るのは、面白い時でも、長過ぎて途中でうんざりしてしまうことである。
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2007年10月05日

プチ・気になるアクション

水曜日、「はねるのとびら」の特番を観たくなかったのでチャンネルを替えたら「クイズ タイムショック」をやっていた。実はこれも特別番組で、「タイムショック最強クイズマスター決定戦」というのが正式なタイトル。司会は中山秀征と新山千春であった。
そういえば、この二人が司会をしているレギュラーの放送も、僕は何度か観たことがあった(確か鹿賀丈史と一緒に出ていたのではないか)。
結局、敗者復活戦から決勝に進んだ松尾貴志が「最強クイズマスター」となったのだが、そんなこととは関係なく、この番組を観ながら、僕は実に久し振りの懐かしい居心地の悪さを感じていた。そしてそれは、中山秀征と新山千春のあるアクション、いや、厳密に言えば新山千春のあるアクションに起因する。

司会者用演台の向かって右側に中山、左側に新山が立っている。ゲストが解答席(正解数が少ないとぐるぐる廻るアレ)に括りつけられ、さあいよいよクイズが始まるという時に、二人は揃って「クイズ タ〜イム ショック!」とポーズを決める。「タ〜イム」と言いながら、右手に左手を重ねた彼等二人の身体はぐうっと後方に引かれ、左半身になって、次の「ショック!」で一気に解き放たれる。それは、まるで一世一代のジャンケンのようでもある。
この時、中山秀征は(当然ながら)大きく後ろに引かれていた右手を、勢いよく前方に突き出す。しかし、新山千春が前方に突き出すのは、何故か後ろに引かれた右手ではなく、カメラにより近い左手の方なのである。

これは、彼等二人が進行役のレギュラー版「タイムショック」が毎週放映されていた頃からずっと継続されているアクションであるはずだ。それで僕は思わず「懐かしい」と言ってしまったわけである。
しかし、僕にはこれが気持ち悪くてしょうがない。ジャンケンで「ズル」(というか悪ふざけ)をされてるようなムズムズした気分になる。
決めのポーズを(鏡に映したように)左右対称にしなくてはならない絶対的制約でもあるのか。でも、だったら「タ〜イム」の時、新山に最初から右半身になるよう指示すればいいだけのことではないのか。

本当にどうでもいい話なのだが、気になるし、また不可解でしょうがないのである(あくまでも「プチ」だけど)。
posted by og5 at 16:32| Comment(0) | TrackBack(0) | TV・芸能人 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年10月04日

寝小便たれの夢

僕は筋金入りの寝小便たれで、それは11歳の頃まで続いた。逆に、何故そのタイミングでおさまったかというと、小学校の5年生には修学旅行という行事があったからである。
僕は甘ったれだが、またそれ以上に見栄っ張りでもあった。小学生の僕は、多分恥をかきたくなかったのだ。

僕はよくトイレに入る夢を見る。
そのトイレはある寮のトイレで、僕は会社の研修でそこに長期滞在しているのである。
研修は明日で終わる。だから今日は寮で過ごす最後の日ということになる。僕は、食券を持って食堂の長い列に並んだり、二人部屋のドアをノックして同じクラスの研修生達を訪ねて回ったりしている。
浴衣を着た僕は、トイレを探している。いや、トイレはあるのだが、いつも満員だったり、汚れていたりして、どうしても目的を達することが出来ないのだ。エレベーターを使ったり、また時には「木造校舎の3年生の教室につながる階段」を上ったり下がったりして、僕はトイレを探し続ける。
僕は汽車を待っている。研修が終わったのだろうか。大きな鞄を持ち、その中の切符を何度も何度も確かめて、でも結局は乗るべき汽車には乗り遅れてしまう。
僕は汽車に乗っている。その汽車はワンマンバスで、「新屋支所前」のひとつ手前のバス停で、整理券と小銭を運賃箱に入れて僕は下車する。
僕はやっとトイレに入ることが出来たらしい。イルカのショーを見ながら、僕は安心して膀胱を空にしている。だが、そのトイレは詰まっていて、どんどん「水位」が臨界線に近付いて来る・・・。

僕は、はっとして目を覚ます。そして、ああよかった、と安堵する。
僕はふらふらとトイレのドアを開ける。
現実のトイレは、味気はないがいつでも頼もしい。

僕のかつての寝小便癖とこれら夢の間に何らかの因果関係があるのかどうかについては全く定かではない。決して見て楽しい夢ではないが、しかしまた嫌な夢でもない。
これは不思議なことである。
トイレの夢を見るということが一般的にどういう意味を持つのか、またどれくらいの人がどれくらいの頻度で見るものなのかも判らないけれど、僕にとってこれはもしかしたら一種のノスタルジーなのかも知れない。
posted by og5 at 21:49| Comment(1) | TrackBack(0) | 記憶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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