2007年11月25日

「砂消しゴム」と「人権」

中学時代、「砂消しゴム」というあだ名のの社会科(公民)の先生がいた。短く刈り込んだ(決して坊主頭ではない)髪型と顔の按配が、製図を書く時などに使うあの灰色と白い部分とに分かれたザラザラの文房具に似ていたため、代々そう呼ばれていたらしい。
その「砂消しゴム」に、僕達は「人権」という言葉を教わった。それは、良いことも悪いこともひっくるめて知恵がつき始め、フォーク・ソングなど聴きながらぼんやりと「反戦」や「反体制」などという言葉の響きに憧れを抱き始めていた14〜15歳の子供には、充分過ぎるほどに刺激的だった。

僕達には教育を受ける権利がある。
僕達と先生は平等だ。
主張が正しいかどうかに大人も子供もない。
僕達には「人権」があるのだ。

ある日、僕を含めた4〜5人の生徒が、その日授業時間中にやらかした何かのせいで職員室前の廊下に正座させられていた。
僕達は、痛み始めた足首や脛をもじもじさせながら、自分達に課せられた不当な懲罰と人権蹂躙、あるいは教育を受ける権利の侵害について小声でゴニョゴニョと、しかし熱く語り合っていた。
僕達の頭の中には、「砂消しゴム」がいた。あの先生なら、この横暴にきっと何事か正しい対処をしてくれるに違いない。
と、正にその時、「砂消しゴム」が職員室の戸を開けて外に出て来た。
「先生、これは人権侵害ですよね?」
誰かがそう問う。
「砂消しゴム」は、困ったように笑った。そして、何も言わずにさっさと帰宅の途についた。
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2007年11月24日

雷雨の日の午後の安心

物置小屋を改築して陶芸環境を整えたのが今年の3月末。早いものであれからもう丸8ヵ月近くになる。
その小屋には、今年中にでかしてしまおうと素焼きまで済ました60個以上のカップやら皿やら壷やら鉢やらぐい飲みやら片口やらスプーンやらが、僕達一体どうしたらいいんでしょう、という顔をして肩を並べている。
僕は多分もう今年は本焼きをしない。先週以来の急激な寒さのせいで、何だかタイミングを逸してしまったのである。
あせって無理をしてもろくなことにはならない、と今は思っている。

今日の雷雨はもの凄かった。
ひとりで部屋の模様替えをしていた僕は、慌ててパソコンの電源を切り、コンセントを抜いた。
土砂崩れを起こしたような有様の部屋の中で、猫は不安げにミャアミャアと鳴いている。
シアタープレイタウンに映画を観に行った妻が帰って来てから、雨と雷はますます強くなり、電気を点けていない家の中は真っ暗になった。
食堂の窓からブラインド越しに外を見ると、そこはボルネオの熱帯雨林だった。
行ったことなどないから、本当はどうかなんてまるで判らないけれど。

気持ちのいい雨だね。
そうだね。

暗がりの食堂の椅子に座ってこんな会話を交わしてから、妻がふと「こんな風に感じられるのも、明日が休みだって判ってるからなんだよね」と呟いた。
全くその通りだ、と雨の朝出勤するずぶ濡れの自分の姿を大急ぎで頭の中から追い払いながら、僕は心の底から安心した。
そして、妻の入れた軽やかに苦いコーヒーを飲んだ。
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2007年11月23日

シネパレ死闘篇〜仁義通します

仁義なき戦い 完結篇仁義なき戦い 完結篇
菅原文太 深作欣二 飯干晃一

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「仁義なき戦い 完結篇」を観た。
当然である。これを観なけりゃ「仁義」が立たない。

実は、初期五部作の中で、これだけは未見であった。1作目から深作監督と名コンビ振りを見せていた笠原和夫も脚本を外れている。何でも、自分(笠原)の中では4作目までで既に完結している、というこだわりがその理由らしいが、それが原因なのか、明らかに肌触りが違う。
村岡組は天政会という政治結社に姿を変えており、神戸の組織とのいざこざもない。話のメインは、天政会会長の武田明(小林旭)が服役中にその代行を務めた同会理事長松村保(北大路欣也)の「仁義ある戦い」であり、広能昌三(菅原文太)等主要メンバー達も、世代交代の波に呑まれ、ある者は死に、またある者はついに引退を決意するに至るのである。
しかし、この「ちょっと不幸な完結篇」は、とにかく面白い。

一番の魅力は、やはり何といっても北大路欣也であろう。もちろん、2作目とは全くの別人という設定。そして、小林旭がまたカッコいい。不思議なのは菅原文太、というか広能昌三であり、主人公でありながら常に(多くの場合)不在なのである。彼はある意味語り部、あるいは狂言回しなのであり、時代の目撃者、証言者なのかも知れない。
山守の親分(金子信雄)は、既に引退しているという設定で出番も少ないが、それでも存在感は抜群である。結局、やはりこの人は決して負けないのだ。
(前述したとおり)脚本家が替わったせいか、ちょっとした(今までにはなかった)ユーモアも感じる。千葉真一に代わり大友勝利を演じた宍戸錠が(すぐに大勢の警官に取り押さえられてしまうが)「二挺拳銃」で殴り込みに行こうとしたり、広能組のチンピラ桜木健一が映画館前の銃撃戦で死ぬ時、倒れた看板の藤純子の顔が寄り添うようにそこに並んでいたり(あれは、もしかしたら「緋牡丹博徒 仁義通します」だろうか)。

瀕死の松村の襲名披露の日、その内一緒に飲まないか、と武田が広能に声をかけるシーンがある。
「そっちとは飲まん」と広能。
「なんでじゃ?」
「死んだモンにすまんけえのう」
不謹慎かも知れないが、カッコ良すぎる。
とにかく、1本の映画として、素晴らしくよく出来ているのだ。

「シネマパレ、間尺に合わない仕事をしてしまいました・・・」(魁夕刊の広告より)
でもね、間尺になんか合わんでもいいじゃない。
こんな、ええモン上映してくれたのう。
ラベル:仁義なき戦い
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2007年11月20日

木枯らし吹いて

18日、東京に木枯らし1号が吹いた。その同じ日の夕方から秋田では雪が降り始め、翌朝起きてみたら、屋根も庭も家の前の道路もみんな真っ白だった。
車通勤なのにまだタイヤ交換をしていない者も中にはいて、予想以上に滑る路面でいつものようにスピードを出すわけにもいかず、後続のスタッドレス組をイラつかせている。
僕は、そんな車の空回りするタイヤを横目に見ながら、今シーズン初めてのコート姿で会社に急いだ。

職場でも話題はやはり天気のことが中心となった。
横手では29センチの積雪があったとか、いや(隣の県ではあるが)青森の酸ヶ湯では79センチだったとか。今年は去年のようにはいかないよなあ、などと嘆きながらも、そうやって冬の来るのを少しずつ受け入れているのである。
昼休み、窓の外が真っ暗なのに驚いた。
すぐ近くで、雷が光った。

帰宅途中、ふと児童唱歌「たきび」のメロディーを口ずさみ、「木枯らしピープー」だったか「木枯らしピーピュー」だったかとずっと考えながら家に着いた。どうにも気になってしょうがないので調べてみたら、「木枯らし」ではなくて「きたかぜ」が「ぴいぷう」なのであった。
それにしても、改めて考えてみると「木枯らし」というネーミングの何と味わい深いことか。
何処にも「風」という文字が入っていないのに、僕達にはこれが判る。

「あっしにはかかわりのねえことでござんす」と言いながら、11月が去って行く。

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2007年11月18日

「仁義なき戦い」と「忘れられた人々」のある地平

ルイス・ブニュエル監督に「忘れられた人々」という作品がある。主な舞台はメキシコ・シティ。1950年のメキシコ映画だ。
これは、リアリスティックであると同時にシュールリアリスティックかつシリアスなモノクロ作品で、主人公の少年ペドロが、不良達のリーダー格であるハイボのために転げるようにどんどん不幸になって行く救いようのないストーリーには、結局最後の最後まで一筋の光も差すことはない。
そして、僕はその地平に、「仁義なき戦い」を見ずにいられない。

自主上映会の16mmフィルムで、かなり前に一度観ただけなので、細部に関してはもうほとんど忘れてしまったが、僕は未だに、この作品において、子供達がからかい半分に盲目の老人を襲うシーン、及びその後に続く老人の行動を、心の中から消し去ることが出来ずにいる。
社会の矛盾が、必要以上に、富める者と貧しい者とを分かつ。虐げられた大人は子供にその矛先を向けるが、子供の中にも弱肉強食はある。ハイボは子供の世界に君臨する。しかし、彼自身もまた虐げられた子供なのであり、全くの相似形で彼に支配される子供達はただ更に弱い者を探すだけだ。
それが、盲目の老人だった。
だが、僕が本当に驚いたのは、その「最下層」にいると思った老人が、持っていた杖を乱暴に振り回して、飼っている鶏を叩き付けたことである。
そして、間違いなく、鶏にも「もっと下」があるのだ。
富める者、貧者、支配する子供、支配される子供、盲目の老人、物言えぬ鶏。
繰り返すが、僕はその同じ地平に「仁義なき戦い」を見ずにいられないのだ。

特筆すべきは、深作欣二が(もちろんブニュエルも同様であるが)、その「構造」を決して単純に糾弾しているのではないということだ。
そのような「構造」を作るのもまた人間なのであり、多分、人間はそのような「構造」がなければ生きて行くことが出来ないのである。
「忘れられた人々」と「仁義なき戦い」の相違は、そこにダイナミズムとエンタテインメントが盛り込まれているかどうか、にあるであろう。
だが、これはどちらがいいという問題ではない。
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2007年11月17日

シネパレ死闘篇〜せめて打本を観よ!

仁義なき戦い 代理戦争仁義なき戦い 代理戦争
菅原文太 深作欣二 飯干晃一

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昨日は、昼から仕事をさぼって「仁義なき戦い 代理戦争」及び「仁義なき戦い 頂上作戦」へ。
ワシャこんなことばかりしちょってええんかいのぉ。
しかし「代理戦争」からはいよいよ打本(加藤武)の登場だ。これでいいのだ。

それにしても、村岡組の跡目を山守(金子信雄)と争う立場であり、それなりに人から立てられている存在でもあるのに、打本には決定的に威厳というものが欠けている(ついでに付け加えると、根性も、かますだけのはったりも、ない)。
酒席で山守に侮辱され、悔し涙を流して歯ぎしりするシーンがあるけれど、あれも男泣きというよりは、ただいじめられて泣きべそをかいているだけにしか見えない。
自分の身可愛さに子分を敵に売る。その時ついでに2千万円の借金を申し込んで、そんな奴が何処にいる、と武田(小林旭)に怒鳴られるに至っては、まさに呆れて開いた口がふさがらなかった。

元々「仁義なき戦い」である。しかし、いくら何でも打本のその「なさ加減」は度を外れている。なにしろ、あの山守がまだ一本筋が通っているように思えてしまうくらいなのだ。
その金子信雄のますます脂の乗った怪演に、加藤武は一歩もひけを取っていない。いや、喰ってしまっているほどだ。

実は僕は、明日もまた「代理戦争」を観に行こうと思っている。
もちろん、打本に会いに行くのだ(笑)。

※だから、FORUS秋田8階シネマパレにて上映中だってば!。
『仁義なき戦い 代理戦争』『仁義なき戦い 頂上作戦』11/15〜11/19
『仁義なき戦い 完結篇』11/20〜11/22


仁義なき戦い 頂上作戦仁義なき戦い 頂上作戦
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2007年11月15日

「××ジャパン」待望す

バレーボールW杯女子、今日はまた特に為す術もなくアメリカに敗れてしまったわけであるが、それにしても気になるのはあのキャッチフレーズ、というか妙なニックネームである。
キャプテン竹下の「世界最小・最強セッター」はともかく、「スピード&ビューティ」だの「世界が恐れるニッポンの元気印」だの「鉄腕エリカ」だの「プリンセス・メグ」だの「ミラクル・サオリン」だの(ああ、頭が痛くなって来た)、極めつけは「道産子シンデレラ」だ!
これでは勝てない、ような気がする。

ふと冷静に眺めてみれば、何故かレギュラー全員が「子分肌」である。「俺が、俺が」というエゴを感じない。みんな誰か強烈なリーダーについて行きたがっているのだが、そんなリーダーは何処にもいない。だからきっと今ひとつのところで弱いのだ。

それはともかく。

ちょうど今秋田FORUSシネマパレで「仁義なき戦い」を上映しているせいで思いついたのだが、もし山守の親分(金子信雄)みたいな奴がひとりでもメンバーにいたらどうなのだろうか。いや、どうせなら監督がいい。監督が山守のオヤジなら、少しは展開も変わるのではないか。
失敗は人になすりつける、人は責めるが自分は逃げる、ごまかすためなら平気で泣く、人望はない、だが絶対的に親分で、最終的に(何故か)常に勝っている。
子分は、こんな親分に盃を貰った自分が馬鹿なのだとほとんど必ず後悔するが、組織は確実に大きくなって行く。

「山守ジャパン」、本気で見てみたい。
もし結果が全てなら、最高ではないか。
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2007年11月13日

ある暴力

「アフタヌーンショー」という番組があった。
秋田ではテレビ朝日は当時まだチャンネルを持っていなかったから、日本テレビかフジテレビがメインのチャンネルで、本来正午の番組であったにも関わらず、午後の2時から放映されていた。
司会が桂小金治から川崎敬三に替わってからだと思うが、確か、ばばこういちという人が担当するあるコーナーで、それは起こったのだった。

番組には、ある大学のプロレス同好会のメンバーが招かれていた。紹介の仕方は、「今学生の間でプロレスをやるのがはやっている」というような、ごくごく軽いものだったと思う。
だから、力道山っぽかったり、デストロイヤーもどきだったり、いかにもな日系悪役プロレスラーのふん装だったりする大学生達も、最初はすごく嬉しそうだったし、また楽しそうにもしていたのである。

ところが、ばばこういち(確かそうだったと思う)が、急に彼等を非難し始める。学生なのになんだ、というようなやり取りもあったのかも知れないが、僕が憶えているのは、その中のひとりの「ふん装」に対する激しい糾弾である。
「それは弁髪といって中国の人を侮辱するものだ!」と(確か)ばばがひとりの学生を罵った。「別に差別とかそんなつもりはなくて・・・」と彼は弁明しようとしたが、それは間髪を入れず、「意識しない差別が最も悪質だ!」という正論によって粉砕された。
「弁髪」が中国人を侮辱するものなのかどうかについては議論が分かれるところであろうが、どっちにしても彼等、「ゲスト」の大学生達に、もはや逃げ道はなかった。

機嫌良く招き、退路を塞いでから手の平を返したように痛めつけるこの「つるし上げ」は、僕が生まれて初めて意識した、テレビを制作する側の「暴力」であった。そして、これはまた、周到に計算された「陰湿な正義」でもあった。
プロレスに興じる大学生には、何一つ共感するところはない。しかし、彼等は、少なくとも、あの時の「アフタヌーンショー」の作り手ほどには、卑怯でも卑劣でもなかった。
posted by og5 at 23:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 記憶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月12日

世界最小七不思議(の3〜お終い)

世界最小七不思議(の3)
同じ町内に住んでいるのに
一生会わない人がいる


世界最小七不思議(の4)
「ごっつんこ」後の
様子を見ていると
どうやら蟻も
悩んでいる

世界最小七不思議(の5)
昨日生きていた

世界最小七不思議(の6)
今日も生きている

世界最小七不思議(の7)
名無しのナナフシ
仕儀はギシギシ
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2007年11月11日

シネパレ死闘篇〜「仁義なき戦い」を観よ!

仁義なき戦い仁義なき戦い
菅原文太 深作欣二 飯干晃一

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「グラインドハウス」の予告編が終わる。
実にあっけなく終わる。
スルスルと幕が引かれてスクリーンがワイドになる。
いきなり岩に打ち付ける波しぶきと三角の東映マーク。
原爆のキノコ雲のモノクロ写真に時代を思う間もなく、まっ赤な血の色の文字と唐突な管弦楽器の音が「仁義なき戦い」の始まりを告げる。

ここで既に感動して震えている僕は馬鹿か。
いや、場内の男ばかり5〜6名の観客全てが、きっとあの東映三角マークに抗い難い何事かを思ったに違いない。
FORUS秋田シネマパレのアニバーサリー企画は、何と「仁義なき戦い」初期5部作の一挙上映だ。
はっきり言って、これは事件である。
絶対に見逃せない。

改めて観ると、1作目「仁義なき戦い」は記憶に残っている以上に端正な作品だった。過不足なく時代背景や人物の相関が語られ、そこに騙す者と騙される者、利用する者と利用される者、裏切る者と裏切られる者の図式が浮かび上がる。血しぶきは飛ぶが、静かだ。怒号が飛び交い、ハンディ・カムで撮影された画期的映像はぶれにぶれて時に焦点さえ合わなくなるが、そこには確固とした様式がある。
2作目「仁義なき戦い 広島死闘篇」は、とにかく北大路欣也に驚く。若い。そしてギラギラしている。ジョニー・デップを彷彿とさせる目の力と、そこに漂う純情、そして絶望に打ちのめされる。
だが、これを支えるのもやはり深作欣二監督の徹底した美意識なのであり、追い詰められた山中(北大路欣也)が暗闇の中でもがくあまりにも痛いシーンは、また同時に限りなく美しい。

変則的上映で期間も限られているから決して観易くはない。
だが、多くの人に是非観て欲しい、と心から思う。
僕は、とにかく観ずにはいられない。

※FORUS秋田8階シネマパレにて上映中。
『仁義なき戦い』、『仁義なき戦い 広島死闘篇』11/10〜11/14
『仁義なき戦い 代理戦争』『仁義なき戦い 頂上作戦』11/15〜11/19
『仁義なき戦い 完結篇』11/20〜11/22


仁義なき戦い 広島死闘篇仁義なき戦い 広島死闘篇
菅原文太 深作欣二 飯干晃一

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アドリアーナ! アドリアーナ! 喉が渇いた!

Adriana PartimpimAdriana Partimpim
Adriana Calcanhotto

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例えば、声がキレイじゃなきゃ歌手になれない、とか、そんなことに反発を覚える気持ちが強かったからこそ、僕はロックというものを聴いて来たのかも知れないのである。
だから、ロックの中でも、テクニック重視の風潮がはびこり出すと、僕はその息苦しさから逃れるように、「演奏なんか下手クソでも出来る」パンク・ロックに、あくまでも「自分ではやらない人」として、ある意味他力本願な無責任さで飛びついたのだ。

また僕は、癒し系などと呼ばれる音楽が大嫌いである。
映画でもよく思うことであるが、何かの目的のために存在する「表現」は、いかにその目的がご立派で有無を言わさぬ真っ当なものであるとしても、そもそもが単なる「手段」でしかない。もしかしたら、「それ」でなくても全然構わないのかも知れないのである。
「映画」がそうであっていいとは思わない。「音楽」もまた、そうであっていいとは思わない。

でも、キレイな声はやっぱりキレイで気持ちいい。
それに癒されたとしても、それは決してその声の罪じゃない。

妻の熱意に引きずられるようにして観に行ったアドリアーナ・カルカニョットのライヴは素晴らしかった。が、僕が本当に彼女のファンになったと自覚したのは、実はほんの最近のことである。
今僕は、とにかく暇さえあればアドリアーナのCDを聴いているのだ。そして、その声にほれぼれしているのだ。

アドリアーナの歌は、僕の下らない反抗心を骨抜きにする。
アドリアーナの歌は、僕を癒しもするが同時にまた孤独にもする。

ああ、喉が渇いた。
聴いても聴いても、僕は彼女の歌をなお渇望する。
posted by og5 at 19:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月10日

世界最小七不思議(の2)

次のポストで
投函しようと思うが
ポストの側を
通り過ぎる時には
葉書のことを
必ず忘れている
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2007年11月09日

世界最小七不思議(の1)

右手でも
左手でも
肩から回しても
脇の下から伸ばしても

届かないところが
痒くなる
posted by og5 at 20:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 人間けだもの | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月08日

おふたりさん、いらっしゃい

会社の飲み会の帰り、まだ少し飲み足りないな、とひとりで家の近くの居酒屋に立ち寄った。
暖簾をくぐり、自動ドアの開いた入り口を入ると、威勢のいい声が響く。のべつ幕なくキンキンした声で「いらっしゃいませ」とやっているコンビニエンスストアの店員には憎しみさえ覚えるが、居酒屋の店員は元気な方がいい。
週の半ばの平日ということもあって、店はそんなに混んでいなかった。テーブル席に二組くらい、カウンターにはひとりしか客がいない。
店に入る前から、僕は注文する物を大体決めていた。飲みたいのは生ビールで、食べたいのは塩焼きそばだった。
空いていればいつも座る壁際の席に座り、僕は若い女店員に「生ビール」と告げた。
彼女は、お通しと箸、そしておしぼりを僕と僕の隣のカウンターに並べて、大きな声で「生二丁入りましたーッ!」と叫んだ。
僕は、誰かが一緒に店に入って来たのかな、と思った。でも、僕はひとりだったし、そんな「他人」の姿もない。ところが、僕の隣にもきちんと箸は並べられ、僕のと同じ帆立貝柱の和え物が、小鉢に入ってちょこんと置かれているのである。
僕と「目に見えない誰か」の間に注文書きをはさんだバインダーがひとつしかないことに気付き、僕はやっと彼女が勘違いをしているのだ、と理解した。
両手にジョッキを持ってやって来た彼女に、僕は自分がひとりであることを告げた。
彼女は謝り、ジョッキを僕の前に置き、注文書きを書き直し、「目に見えない誰か」の箸とおしぼりとお通しをお盆に載せて、店の奥へと下がって行った。
僕は生ビールを飲んだ。
それから、僕は僕と一緒に店に入って来たはずの誰かのことを考えた。
そして突然、深い孤独を感じた。
初めから居もしなかった彼は、あるいは彼女は、もうそこにいなかった。
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2007年11月06日

親切の後味

なかなか口に出しては言えない他人の身だしなみというものがある。こう言うと何だか大袈裟だが、要するに本人だけが気付かないちょっとしたアクシデントということだ。

男の場合、よくあるのが、ズボンのチャックを閉め忘れて、不必要に風通しが良くなってしまっているという状態である。が、実はこれは案外声を掛け易い。実際、本当にままあることだからである。
しかし、相手が女性だとそうはいかない。教えてあげた方がいいのかも知れない。でも、声をかけることで逆に恥をかかせることになるのではないか、とも思う。変な目で見られかねない、という、よく考えればおかしな不安も、その根底にはある。

会社に向かって歩いている時、前方を行く女の人の左腰のあたりに、何かがくっついているのに気付いた。その人は短いコートを着ているのだが、そのグレーの地味な色合いの中に、一カ所だけ、葉書大くらいの白い部分があるのだ。遠目には、四角い穴のようにも見える。
僕は、少しだけ歩を速め、その人に近付いて行った。気になって気になってしょうがなかったからである。
実は、それは使い捨てカイロだった。かつてコートの内側(多分更にその下の何処か)に貼られていたものが、何かの拍子にずれて、移動に移動を重ねた結果、ついに自由を手に入れたのだろう。あるいは、脱ぎ捨てた服の重なった中にずっと潜んでいて、ある時その上に置かれたコートにくっつき、今日とうとうそのまま「お出かけ」と相成ったのだ。

結局、僕はその人に声をかけた。何しろ「モノ」がカイロということもあって、あまり悩みもしなかったのだが、しかしそれでも、「何だか悪いことをしたなあ」というイヤな感じは、理不尽にしばらく残っていたのであった。
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2007年11月04日

イメージ図

いつからだろうか、テレビCMの画面に、「イメージ図」という断りのコメント文字が入るようになった。
例えば、若い主婦が、最近腸の具合が悪い、としかめっ面をしてタレントに訴えかけている。次いで、画面には、小学校の理科の時間に習ったような人体図が出て来て、すぐに腸の部分だけがクローズアップされる。すると、大腸が、まるで空気入れで空気を送り込んだかのようにプクッと膨らんだり、また縮んだりして、最終的には赤く腫れ上がって危険信号を発し始める。そんな時に、この「イメージ図」という文字が現れるわけである。

これは、いったい何のための注意喚起なのか。あれを、実際の人体の映像だなんていったい誰が思うというのか。どう考えても「イメージ図」である。それ以外の何物でもない。つまり、余計なお世話なのである。
腸が赤く膨らんだり、イガイガ虫が掃除機に吸われるのを必死になってこらえたり、毛根が急に元気になったり、温湿布からオレンジ色の効能がジワジワと発生したり、その度に「イメージ図」が現れる。しかし、考えてみれば、普通の主婦がタレントに身体の不調を訴える、というシチュエーションの方が、よっぽどあり得ないことなのではないだろうか。

今、ある「お通じ」関係の宣伝に吉永小百合が出ているが、本物の人間だという感じがあまりしない。まるで3Dで作ったみたいだ。
ここにこそ、「イメージ図」と入れて欲しい、と僕は思う(いい意味で)。
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「転落」あれこれ

最近、階段を下りるのが特に不細工になって来たような気がする。元々敏捷ではないので、トントントン、とは階段を下りられない。反復横跳びなども不得意だったし、何も気にすることはないのかも知れない。しかし、普通に道を歩いていても、時々靴の底が意に反してアスファルトを擦る(つまり、自分で思っているほどちゃんと足を地面から上げて歩くことが出来ていない)ことがあるし、やっぱり年なのかなあ、などと少し心配になったりするのだ。
とにかく、冗談ではなく、ヨタヨタと階段を下りている時、料理上手な若妻が朝の味噌汁のネギを刻んでいるかのようなテンポの良さで、トトトトトッ、と若い奴に後ろから迫られたりすると、それだけでもう脚がもつれて転げ落ちそうになってしまったりするのである。
労災になるのだろうか。

転げ落ちると言えば、カミュに「転落」という小説があった。読んではいない。カミュで読んだのは「異邦人」と「ペスト」だけで、「ペスト」の方が断然面白かったという記憶があるけれど、今読み比べたらどうなのだろうか。
「異邦人」の冒頭に「ママン」という表現が出て来る。これについて、僕はずっと、主人公がマザコンだからこんな言い方をしているのだ、と思っていた。一人称で語る時、わざわざ「お母さんが〜」と言うのは、やはり何か意図があるに違いないと考えたわけである。
しかし、フランスでは、これがごく一般的なことらしい。フランス人は、いい歳をしたひげ面の中年男でも、人と話す時には、誰でもごく普通に「ママン」を使っているというのである。
でも、ホントにそうなのかな、と僕は実は今でもまだ自説を捨て切れないでいる。

コックニー・レベルの二枚目のアルバム「さかしま」には「転落」という曲が入っている。原題は「Tumbling Down」。正確な訳かどうかは別にして、いい邦題だと思う。
当時僕はコックニー・レベル(及びほぼその実態の全てであったスティーブ・ハーリー)のことを、グラム・ロックのカテゴリーの中でとらえていた。レコード会社の売り方も、メディアの評価も、やはり確かにそうだったのであるが、彼等にはどこか二番煎じ、あるいは偽物のイメージがつきまとっていた。僕が彼等をこよなく好きなのも、そんな「匂い」があるからこそではあるのだが。
ところで、スティーブ・ハーリーがいったい誰の影をまとっていたのか、僕は最近になってようやくその本当のところを理解したような気がしている。
それは、ボブ・ディランである。

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posted by og5 at 20:59| Comment(3) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月01日

「西野」という装置のことなど〜「クワイエットルームにようこそ」

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あの気持ち悪い気持ち悪い西野(大竹しのぶ)が、佐倉明日香(内田有紀)には絶対的に必要だった。つまりそれは、この映画「クワイエットルームにようこそ」に必要だった、ということではないのか。
あの精神病院は、優れて実効性の高い自己啓発セミナーだ。西野は、佐倉にとって、まるであつらえたみたいにぴったりのセラピストだった。西野が佐倉に近付いて行くということは、佐倉が西野を呼び寄せているということだ。
逆に栗田(中村優子)の不幸は、西野に相手にされないこと、いや、西野を寄せ付けないこと、すなわち本当の自分を見ることを永遠に拒絶してしまっているということに尽きる。
「西野」とは、実はおだてられて木に登ってしまった豚にとっての忌まわしい忌まわしい(だが、なくてはならない)タブーなのである。

人は往々にして豚である。豚ほど木に登りたがる動物はいない。だから、豚はおだてられたくておだてられたくて、いつもそわそわしている。
木に登った豚は、しばらくはいい気持ちだ。下を見ないから。見ることを忘れているから。だが、当然いつまでもそうしているわけにはいかない。
ふと下を見る。自分が、想像以上分不相応に高いところにいるのだ、ということにやっと気付く。だが、気付いたところでどうしようもない。自力では降りることなど出来ない。猿ならば隣りの木の枝に飛び移ることも出来るだろう。猫ならば、木の皮に爪を立てて難なく下まで駆け下りることが出来るだろう。だが、悲しいかな、豚は結局どうしようもなく豚なのだ。
誰かが必要だ。誰か、わざと枝をワサワサと揺らして、あるいは木の幹を思いっ切り蹴飛ばして、愚かな豚をペシャンコになるくらい強烈に地面に叩き付けてくれる、そんな誰かが。
それが、「西野」という装置だ。

この映画のことは、このようにしか書くことが出来ない。観てから、もう既に4〜5日経つというのに、全く「感想」が頭に浮かんで来ない。この映画に対する自分の気持ちが、全然「像」を結ばないのだ。
「面白かったか面白くなかったか」と問われれば「面白かった」と答えるしかないのだが、でも、それでは正確じゃないような気がする。
憶えているのは、映画を観て実に久しぶりに声を出して笑ったということ。例の「トイレじゃないんです〜、トイレじゃないんです〜」のくだり。
また、ミキ役の蒼井優が松尾スズキに「目を四角くまわして」と演技指導された、というのをある雑誌で読んで変に納得したりもした。

ところで、佐倉が鉄ちゃん(宮藤官九郎)と向き合う病院の面会室。テーブルをはさんで座る彼等の間には、鉄ちゃんの連れて来たオウムがいるのだが、僕はあのシーンが大好きだ。
佐倉がまたあそこに戻らないという保証は一切ない。だが、それでもやはり「人生はハッピーだ!」と心底感じさせてくれるのが、この映画の何ともいいところである。

※秋田FORUS8階シネマパレにて、11月30日まで上映中。

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posted by og5 at 20:09| Comment(2) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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