2007年12月28日

この人を観よ! 「この人」ってギュウチャン!

前衛の道 (GYUCHANG EXPLOSION!PROJECT)前衛の道 (GYUCHANG EXPLOSION!PROJECT)
篠原 有司男

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アンフォルメル、アンデパンダン、ネオ・ダダ、ポップ、オップなんて、はっきりいって丸っきり意味など判らないのだ。たとえそれが「非定型芸術」のことだの「無審査・無賞の展覧会」のことだの何だのかんだのと聞いたところで、結局ピンと来はしない。しかし、アクション・ペインティングやボクシング・ペインティングなら何とかなるぞ。いや、何ともならないかも知れないが、取りあえず像は浮かんで来る。それでいいのだ。

篠原有司男の「前衛の道」を、ラッパ吹きの友人から一方的に貸されて読んだ。彼からは他にも佐伯俊男だの山下菊二だの借りていて、そういえば山下菊二展の図録と一緒に渡された「超芸術(Art in Action)前衛美術家たちの足跡1963-1969」という本の中にも、実に楽しそうにモデルにペンキをぶちまける「ギュウチャン」の勇姿があった(「有司男」は「うしお」と読む。それで「ギュウチャン」。ちなみに本名は「牛男」!)。

驚くのは、「超芸術〜」のタイトルが示す通り「この時代」が今から40年も前のことだということで、僕には篠原有司男は(モヒカンだし、モットーは「早く、美しく、リズミカル」だし)どうしたってパンク野郎にしか見えないのである。
その「パンク」だって今からもう既に30年も前の「爆発」で、未だに爆発し続けているこの人は凄いとしか言いようがない(そう、「ギュウチャン」は未だバリバリなのだ!)。

爆発し続ける「ギュウチャン」の「今」は、彼自身のブログで観たり読んだりすることが出来る。畏れ多くてトラックバックなど出来ないが、リンクだけは貼らせて頂く。

<篠原有司男公式ブログ〜篠原有司男ことギュウチャンブログ

2007年12月4日付けの最新記事「樋口一葉と前衛画家」を読んで、買ったままになっている「にごりえ・たけくらべ」を、早速読もう、今すぐ読もう、と即座に決意した。
ロスアンジェルス。イエローの蛍光色甚平に身を包み、残り少ない頭頂部の毛をモヒカンにして、12メートルもあるド派手な壁面にボクシング・ペインティングを決める75歳。
カッコ良過ぎる(溜息)。

篠原有司男対談集 早く、美しく、そしてリズミカルであれ (GYUCHANG EXPLOSION!PROJECT)篠原有司男対談集 早く、美しく、そしてリズミカルであれ (GYUCHANG EXPLOSION!PROJECT)
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タグ:篠原有司男
posted by og5 at 22:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 芸術 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月25日

筝曲教室

悲しい琴が
アルトの響き
開くか
和の拍子

嬉しい琴が
ソプラノ奏で
届くか
ハの調子

コロリンシャーン
コロリンシャーン

いろはにほへと ことならふ

お稽古帰りの
あの人は
優しい
目をしてた
posted by og5 at 22:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 人間けだもの | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月24日

気分はシュパドーン〜「カンニバル! ザ・ミュージカル」

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TSUTAYAにぶらりと立ち寄ったら、目の前にDVDの安売りコーナーがあった。
普段ならそんなものは見ないのだが、ほんの気まぐれで棚をゴソゴソやっていたら、「トレイ・パーカー」という名前がいきなり目に飛び込んで来た。
トレイ・パーカーというのは、マット・ストーンとともに超お下劣アニメ「サウスパーク」を世に送り出した鬼才で、最近では大傑作「チーム★アメリカ ワールドポリス」なども同じくこのコンビにより制作されている。
大の「チーム★アメリカ〜」好きである僕は、迷わずそのパッケージを手に取った。タイトルは「カンニバル! ザ・ミュージカル」。

しかし(何が「しかし」か自分でもよく判らないが)、この映画は面白い(あ、DVD持って即レジに向かったのは言うまでもないので省略しました)。確かに、映画は冒頭いきなり人食い(カンニバル)シーンから始まる。趣味の悪いゲチョゲチョが趣味悪く映し出される。が、別に全編これが続くわけではない。実は、これは裁判の検事側陳述を、あるいはそれを聴いた傍聴席の町民達のイメージを一方的に映像化したものでしかないのである。

被告パッカーは、少し足りないが愛馬リアーンをこよなく愛す好青年である。彼に好意を寄せる女性新聞記者のインタビューという形をとって再現される「事実」の舞台はゴールドラッシュ真っ盛りのアメリカで、何故か彼等は「ゴー・ウェスト」ではなく「ゴー・イースト」とばかりに東(コロラド)を目指し真冬のロッキー山脈を越えようとする。この案内人がパッカーで、実はよく道を知らない彼のせいで、メンバーは案の定道に迷い、極限状態の中、遂に人間として超えてはならないある一線を超えてしまう・・・。
これが明るい(明る過ぎる)ミュージカル・ナンバーの数々に彩られ展開する。面白くないわけがない。というか、馬鹿馬鹿しくないわけがないではないか。

この作品を観て、僕はトレイ・パーカーという人についてあるひとつの印象を持った。それは、彼はクリエーターではなくて本当は職人なのではないか、ということである。というのも、この作品には、その完成度はともかくとして、「チーム★アメリカ〜」に続くたくさんのモチーフが既に見て取れるからである。彼はもしかしたらずっとこれをやり続けたいのかも知れない。大工が、素人には同じにしか見えない家を毎年毎年作りながら徐々に腕を上げて行くように、料理人が伝統的な調理技術を年を経る中で少しずつ少しずつ磨き上げて行くように。

因みに、パッカーが一線を超えなかったわけでは、決してない。それがいつの間にかどうでもいいことになってしまっているのも、馬鹿映画の醍醐味である。シュパドーンッ!
posted by og5 at 20:27| Comment(4) | TrackBack(1) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ポッキー好きの鹿に会える「鹿男あをによし」

鹿男あをによし鹿男あをによし
万城目 学

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最近、本屋の店先で何の予備知識もないままただ何となく面白そうだなと思ったその第一印象だけで買った本を立て続けに読んでいる。
万城目学(まきめまなぶ)の「鹿男あをによし」もそんな一冊。

話は単純というか複雑というか、とにかくひと言で説明すると、「神経衰弱」を理由に研究所を追い出され奈良の女子高校に臨時講師として赴任して来た主人公が、いにしえより地下の大なまずを鎮めるため営々と続けられて来た儀式を執り行うための必須アイテム「目」を、鹿(何故かポッキー好き)の「運び番」となってわけも判らず捜し求めるというもので、彼の他にも狐や鼠の「使い番」、そして彼と同じく鹿に選ばれた「使い番」も入り乱れて、大エンタテインメントを繰り広げるのである。
面倒臭い理屈はほとんど出て来ない。この手のストーリーにありがちな余計な薀蓄は二の次で、読者は単純に物語を楽しむことが出来る。何しろ、鹿、狐、鼠の(本来ならややこしいことこの上ないと想像される)やり取りが、そのまま奈良、京都、大阪の3つの女子高の体育大会「大和祭」として描かれるので、何とも楽チンなのだ。
でも、この判り易さって、結構すごいことなのではないだろうか(狐の「使い番」とのやり取りに若干の矛盾があるけれど、まあそれもさほど気にはならない)。

実は、このよく出来たエンタテインメント小説を読み終えて僕が思ったのは、「奈良に住んでみたいなあ」ということだった。これは僕にとっては意外なことで、何故ならそれまであまり奈良を好きではなかったからである(特に嫌いでもなかったが)。
奈良に行ったことは、今まで二度しかない。一度は修学旅行で、二度目は義父の病気療養先を見舞って、である。
憶えているのは、柿の葉寿司が美味しかったこと。チャイの味。ゴマ豆腐。抹茶の爽やかな苦味。
せっかく古都奈良を訪れながら印象に残ったものが全部食べ物というのは自分でもどうかと思うが、抹茶などはちょっと足を伸ばして立ち寄った京都での記憶が交じり合っているのかも知れない。
いずれにしても、あれ程好きだった津島佑子の「ナラ・レポート」を読んだ時にさえ感じなかった奈良への憧れを、「鹿男〜」は僕に感じさせてくれた。
これは特筆しておくべきであろう、と思う。
posted by og5 at 17:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 本・雑誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

検査を待ちながら「火星年代記」を読む

レイ・ブラッドベリ「火星年代記」を、今まで読んだことがなかった。「ウは宇宙船のウ」や「スは宇宙のス 」は、萩尾望都に夢中になっていた20代前半に読んだし、その後「十月はたそがれの国」、「とうに夜半を過ぎて」なども続けざまに読んだはずなのだが、何故かこのあまりにも有名な古典には手が出なかった。
今回、年に一度の人間ドックの友として秋田市内のある医院に持って行って読み終えて、ふと発表年度を見たら驚いた。1946年。何と、これは僕が生まれる10年も前の作品なのである。
それにしても、何と叙情的なことか。SFというジャンル、言葉から受けるイメージを、レイ・ブラッドベリは軽々と超えて、宇宙の砂の上に浮かんでいる。そんなこと、最初に短編集の何冊かを読んだ時既に感じていたはずなのに、迂闊な僕は改めてそう思う。そして、あるサイクルを感じる。

僕は、ごく自然に、「火星年代記」を映画化した時のヴィジュアルを想像していた。それは、絶対に最新鋭のCGでもなければ、大掛かりなスペクタクルでもない。不思議なことに、僕の映画「火星年代記」における理想のヴィジュアルは、時代遅れのセット、古臭い色合いの小道具達、いかにも手動式で操作していると丸判りな照明など、どちらかと言えば、映画ではなく、昔のTVドラマの宇宙ものに見られたようなチープな「画面」感なのであった。
何故なら、「精密」は何も生み出さないからである。「火星年代記」という、この上なく叙事的タイトルでありながらあまりにも叙情的な作品を作り出したレイ・ブラッドベリに、「精密」な再現ほど不似合いなものはないだろう。
叙情をこそ再現しなければならない。
それにはTVドラマ的セットが最適だ。

何度も何度も火星探索に失敗した末のウィルダー隊の「成功」を描いたエピソード、「月は今でも明るいが」が好きである。スペンダーの苦悩はあまりにも痛く、だがそこにこそ希望がある(と思いたい)・・・。
人類の行く末を案じながら、同時にベッドの上、下剤を飲みながら「ウッはマンボNO.5のウッ」などと全く叙情とは縁遠いことを考えてひとりニヤニヤしていた僕に、若い女性看護師が「はい、これに着替えて下さい」、とお尻の部分に大きく穴の開いた検査服を差し出した。
叙情的じゃないなあ。

※記事を書き終えてから発見。これが「原作に敬意を払った映像化」であるらしい。イメージが合致しているかどうかは不明だが、製作された時代的には悪くないように思う。
          ↓
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posted by og5 at 16:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 本・雑誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

素直に心に沁みる「神田川デイズ」

神田川デイズ神田川デイズ
豊島 ミホ

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豊島ミホ「神田川デイズ」を読んだ。
東京のある私立大学に通う学生達の青春オムニバス。6話とも一人称で語られ、その語り手は一話毎に全て異なる。
が、登場人物は微妙に相互に関係しており、それぞれが有機的にではなく結びついている。
「有機的でない=無機的」ということではない。不自然に濃密過ぎることなく、緩く強く関係性を保っているということで、それによりこの作品はある種の普遍性を獲得することに成功している、と僕は思う。

第1話「見ろ、空は白む」は、冴えない若ハゲ「原田」が、いつも一緒につるんでいる陸奥男と仁田(デブとしゃくれ)とともにお笑いユニット「童貞メガネーズ」を結成して「青春のどん詰まり」を突き破ろうとする話。第2話「いちごに朝露、映るは空」は、青森から上京して来た「道子」が、自分の疎外感を唯一掬い上げてくれた「不戦をうったえる会」という政治サークルの先輩「緑」に心惹かれ、やがてある静かな決意を固めるに至るまでを描く。第3話「雨にとびこめ」は、その「道子」とクラスコンパの席がたまたま近くだった「準」が主人公。彼は高校以来の「センチメンタル病」を、何も余計なことを言わず極々自然に受け止めてくれた「道子」に好意を寄せる。第4話「どこまで行けるか言わないで」は、有言不実行でぐだぐだ言ってばかりいる映画サークルに愛想をつかした女子三人組が、「女性向けピンク映画」を作るべく奮闘し、そして挫折するまでの話(いや、「香純」と「マルちゃん」は挫折するが、「奥村」は挫折しないか・・・)。
エピソードは他愛もない。しかし、充分に切ない。それは、第5話「リベンジ・リトル・ガール」で「めくるめかない日々」を送る「小林貴理子」にしても、第6話「花束なんかになりたくない」の挫折しかけている学生作家「三島貴男」にしても同じで、ごく普通の心象、等身大の人間というものが、実に生々しくそこにあるのだ。
「神田川デイズ」は、人の心に素直に沁みこんで来る力を持っている。

比喩に「なまはげ」が出て来たり、(お隣青森県ではあるが)郷里の母と「道子」の会話がとても自然に感じられたりしたので「おや」と思っていたのだが、作者紹介欄によると、豊島ミホは秋田出身なのだそうだ。
「女による女のためのR−18文学賞」読者賞を受賞した「青空チェリー」も、ちょっと気後れするけれど是非読んでみたい。
タグ:豊島ミホ
posted by og5 at 14:53| Comment(1) | TrackBack(0) | 本・雑誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月09日

エキスポランド休園について

太陽の塔38.jpgエキスポランドが休園するという。
今年5月のジェットコースター「風神雷神U」の死亡事故を受けた全面的営業停止の後、徹底した安全点検を行った上で再開された運転だったにも関わらず、主たるアトラクションのひとつ「オロチ」においてまたもトラブルが発生してしまったことや、それによってますます深刻となった信頼失墜を挽回することがこのままでは困難であると判断されたらしい。
事故の前から既に入場者数は芳しくなかったというが、あの事故が起こってしまった後では、経営は更に苦しく、打つ手もほとんどなかったのではないか、と想像される。

観覧車.jpgエキスポランドは、1970年に開催された大阪万博に併せて作られた遊園地で、敷地面積は約20万平方メートル。2005年5月、カエターノ・ヴェローゾ大阪公演の折、大阪モノレールの傾いた車窓に突如現れた「太陽の塔」をドキドキしながら観ていた妻の横顔を思い出す。
そして、エキスポランドは「太陽の塔」の庭だった。広大な敷地に、観覧車やジェットコースターのレールが見える。だが、それは遊園地の一アトラクションではなく、スケールの大きな子供のおもちゃだった。その感覚はおそらく、「太陽の塔」がまるで幼き暴君のように見えたことに起因する。
「太陽の塔」は昭和の子供だった。

観覧車モノ.jpgエキスポランドの公式HPによれば、休園はあくまでも「当分の間」のことだというのだが、営業を再開する日は果たして本当に来るのだろうか。いや、仮に再開出来たとしても、かつてのような賑わいがそこにはあるのであろうか。
僕は「太陽の塔」を死ぬまでに是非もう一度観たいと思っている。その時、「太陽の塔」が淋しい子供の顔をしていたのではあまりにも悲しい。
青空の下、そこで遊ぶ蟻のような人間も込みで、陽の光にギラギラと輝く観覧車やジェットコースターを睥睨する不機嫌な「太陽の塔」であって欲しい、と僕は願っている。
posted by og5 at 17:21| Comment(0) | TrackBack(1) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月05日

靴の階級闘争

妻からは「サラリーマン靴」などと言われながらも、僕はここ最近ずっと履いている自分の靴をとても気に入っていた。何しろ雨の日でも滲みて来ないのだ。そして、雪の日でも滑らないのだ。僕が靴に求めることのほとんど全てはこれで叶えられている。
ところが、今週月曜日に、経年劣化のためその靴が漏っていることが判明した。大した雪ではなかった。ベショベショしたみぞれっぽい雪で、僕はふふふんと半分鼻で笑いながら出勤したのである。
何しろ僕には心強い味方がいる。こんな雪何するものぞ。
しかし、会社までの道のりを半分も行かないうちに、僕の靴下はずぶずぶになっていた。

以前にも、何故革靴はデフォルトで雨が滲み込むように出来ているのだろう、というようなことをちょっと書いた。今また僕は改めてそのことに強い疑問を抱いている。
例えば、靴を二重構造にすることは出来ないのか。あるいは、少なくとも地面から2センチ程の高さまでは縫い目を作らないという設計にすることは出来ないのか(つまり標準的に、という意味)。
無理ではないような気がする。無理ではないでしょう。いや、絶対に無理じゃないよなあ。
では、何故そういった靴をくつらない、いや、作らないのか。
これはもう、多分明らかに意識的に作っていないのである。

おそらく、そういったことはゴム長靴に任せていますから、というようなことなのだろうと思う。
靴の世界にもどうやら差別があって、革靴はゴム長族を自分達よりも一段低く見ているのである。そこには機能的であることへの軽蔑もあるかも知れない。機能を追及することは、エレガンスを失うことと同義である、と多分革靴族は本気で考えているのだ。
由緒正しい革靴族にとっては、だから「サラリーマン靴」など許せない存在であろう。
奴等は裏切り者だ!
裏切り者には「ダサイ」の烙印を!
高貴なる雨漏りよ、永遠なれ!

と、まあちょっと妄想しつつ、土曜には新しい靴を買わなくちゃな、と思っている週半ばなのである。
posted by og5 at 22:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月04日

余韻

あれはエンド・ロールというものであろうか。
要するに、映画のラスト、物語の全てにケリがついてしまってから、キャストだのスタッフだの「スペシャル・サンクス」だのが次から次へと映し出される、あの退屈な時間のことである。
1本の映画が完成するまでに、いや、それが上映という段階に達するまでに、いかに多くの人間のアイディアと労力とそして軋轢とが費やされなければならないのか、僕にだって想像出来ないわけではない。しかし、それを全て観客に紹介しなければならないのか。

実は僕は館内の照明が点灯するまでは決して席を立たない人間である。もちろん、話もしない。まだ場内が暗いのに、次々と席を立ち出口に向かう奴等を、僕は内心罵っているくらいなのだ。
しかし、それにしても、最近の映画のエンド・ロールは長過ぎると思う。何しろテーマ曲がひとつでは足らないのだ。ヴィジュアル・エフェクトが何たらというような細か過ぎる文字が下から上に延々と流れて行くのにまぎれて、恥ずかしそうに、かつ無様に2曲目が始まる。ひどい時には、更に3曲目が始まることさえある。
トイレを我慢してここまで耐えたその忍耐は、もはや限界を超えている。

昔の映画は実にあっさりと終わった。
つい最近「仁義なき戦い」を観たばかりなので例に出すが、この深作欣二作品においては、ラストにキャストあるいはスタッフのクレジットが我々観客に示されることは決してない。〆のナレーションが流れると、殆ど間髪なく禍々しい音楽が鳴り響き、画面に「終」あるいは「完」の文字が浮き出て、それでお終いである。
実に潔い。気がつけば館内には照明が点いており、僕達は既に現実の中にいる。
「仁義なき戦い」シリーズにおいては、映画の冒頭、おそらく最小限のスタッフ及びキャストが観客に紹介されるだけなのだが、逆に僕はその限られた情報を心に刻みつけようと必死になっている。

都合というものも確かにあるのであろう。人間関係や権利の問題、製作資金に関わるやむを得ぬ事情もあるのかも知れない。
しかし、何事も長ければいいというものでは、ない。
ぶった切ったように終わってしまう映画と、延々とクレジットを流し続ける映画と、果たしてどちらがより強く観客の心に残るであろうか。
正直言って、キャストの名前を二度にわたってだらだらと流さなければならない、その理由が僕には理解出来ない。

映画は潔く終わって欲しい。
そして、余韻は、暗闇から現実へと引き戻される、その一瞬にこそあって欲しいと思うのである。
posted by og5 at 21:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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