2008年03月31日

モノクロが美しい優れたアニメーション〜「ペルセポリス」

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イラン出身であり現在はフランスで活躍する漫画家マルジャン・サトラピが、自身の自伝的作品をアニメーション化したのが映画「ペルセポリス」である。
「ペルセポリス」という耳慣れないタイトルは、実在したペルシャ帝国(現イラン)の都の名で、紀元前331年、アレクサンドロス(アレキサンダー)大王によって火を放たれ廃墟となった。
ちなみに、「ペルセポリス」という呼び名はギリシャ語によるものであり、ペルシャ人自身がこの都をどのように呼んでいたのかについては、未だに明らかになっていないという。

映画は、イスラム革命前夜の裕福なイラン人一家の日常を映し出す。全面的に米国の支援を受けていた国王の政策は反イスラム・反共産主義であり、その崩壊により一気にイスラム至上主義に向かう革命勢力と、結局はついに実権をつかみ得なかった共産主義者達の思惑とが美しいモノクロ画面で淡々と描かれる。マルジは家庭環境のせいもあり共産主義にシンパシーを感じて育つが、事はそれほど単純ではない。「他者」に対する排斥と非合理は、親米だろうがイスラムだろうが親ソヴィエトだろうが同様に存在するだろう。それに、マルジ一家よりももっと貧しい人々(たとえば、パンク・ロックになど縁のない青春を送る若者達)には、またそれなりの生活があったはずなのである。
が、「ペルセポリス」という映画は、そんなことに首を突っ込んだりはしない。マルジャン・サトラピは、誠実に、自分の見たこと、そして知っていることしか描こうとはしない。おそらく、そこがこの映画の美点である。

白と黒が素晴らしい効果を生み出す。銃で撃たれ倒れ込む青年。そのシルエットを変形させていく流れ出る血。息絶えた青年に差し出される仲間達の手、手、手。あるいは、カセットから流れるアイアン・メイデンの曲に合わせて激しく身体を揺さぶるマルジの髪の豊かさと、そのぽっかりと白い顔のコントラスト。そして、ユーモア。
あまりにもアニメーションが素晴らしくて、マルジが、あるいはその他の人々が走るあの走り方を、僕はついついうっとりと追いかけてしまう。それが、たとえどんなに悲惨なシーンであったとしても、である。

冒頭、本編にも登場する様々な景色の中を、一輪の花がクルクルとうつろって行く様子が映し出される。後にその「意味」を知る我々は、主義主張に関係なく、しみじみとマルジの心情を思わないではいられない。
お祖母ちゃんのジャスミンの匂いとともに。

※秋田FORUS8階シネマパレにて、4月11日(金)まで上映中。

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2008年03月30日

カッコいいジャケット

かつて音楽をレコードで聴いていた時代には、ジャケット買いなどということをよくやったものである。知らないアーティスト、聴いたこともないレコードを、ジャケットのデザインや雰囲気のみで判断し、(時にはひどく迷いもしたが)それこそ衝動的にレジに走った。不思議なことに、あまり失敗したという記憶はない。

さて、僕が今まで出会ったレコード(CD)ジャケットの中で、「これこそ最高傑作!」と思うものはいったい何であろうか。
真っ先に頭に浮かぶのは、ザ・ダムドの「地獄に堕ちた野郎ども」と、スパークスの「キモノ・マイ・ハウス」である。これは優劣つけ難い。

「地獄に堕ちた野郎ども」の方は、真っ黒な中に太い字体で「DAMNED」の文字が黄色く浮かび上がるのを背景に、4人のオリジナル・メンバーが顔中をクリームだらけにして、白目を剥いたり他メンバーの髪の毛にくっついたクリームをなめたりしているもの。これはパイ投げの後というシチュエーションか、はたまた人様の誕生日パーティにでも闖入して滅茶苦茶に暴れまくった挙句の記念撮影か。
原題は「Damned Damned Damned」というのだが、「地獄に堕ちた野郎ども」という邦題もまた素晴らしい(ちなみに「damned」は「呪われた〜、忌々しい〜」という意味。まさにドンピシャである)。

一方「キモノ・マイ・ハウス」のジャケットでは、くすんだ若草色をバックにしてキモノ姿の二人の東洋系女性が艶然と(もしくはグロテスクに)佇む。派手な柄のキモノ。だらしない着こなし。中途半端に剥げかかった白塗りとほつれた髪。明らかにモロその手の女性が「ウチニオイデヨ」と誘っている図である。この怪しいドアの向こうにスパークスの世界があるんですよ、ということなのであろうが、それにしてもそのインチキ臭さが最高である(モデルのひとりが山内テツ夫人であるという話を聞いたことがあるけれど、真偽のほどは定かではない)。

デザインの良し悪しは、媒体がCDになってからもやはりそれなりにその作品の魅力を大きく左右するひとつの要素ではあるが、レコードジャケットほどの磁力はもはやそこにはないような気がする。これはひとえに「大きさ」の問題であろう。何しろ、CDでは、時に解説の字さえ(小さ過ぎて)読めないことがあるのである。
また、美しいという意味ではパティ・スミスの1枚目「Horses」、あるいはブライアン・イーノの一連の作品なども思い起こされるのだが、僕には芸術的に過ぎて今ひとつガツンと来ない。

地獄に堕ちた野郎ども地獄に堕ちた野郎ども
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2008年03月26日

チビTの呪い

「ニューヨークの朝は早い、って。何処の朝だって早いッチュウネン!!」というのは、誰のネタだっただろうか。
いずれにしても、朝は早いものと、全世界、だいたい相場が決まっているようである。
しかし、(それにも関わらず)我が家の朝は遅い。
ドタバタしている。
つまり、ネボスケなのだ。

ネボスケの朝は慌ただしい。そういう意味では、我が家の朝も「はやい(速い)」と言えなくもないのだけれど、慌ただしいからこそ、ネボスケの朝は、決まった手順に沿って整然と進行されなくてはならない。
トイレに行く。(パジャマのまま)1階に降り、洗面所でひげを剃る。顔を洗う。朝ごはんを食べる。歯を磨く。洗面所にある整理タンスから下着と靴下を引っ張り出して、それを持って2階に上がる。パジャマを脱ぐ。靴下をはく。シャツを着る。ワイシャツのボタンをはめる。ズボンをはく。ベルトをしめる。ネクタイをしめる。上着をはおる。腕時計をはめる。財布、名刺入れ、ハンカチ、キーホルダー、携帯電話等を、それぞれいつもの決まったポケットに入れて、そして部屋を後にする。

ところが、たまに、洗濯した後で間違って僕の「段」に入れられていたものであろう、2階に持って行ったシャツが妻のものだということがあるのだ。
そんな時、僕は本当にがっかりする。がっかりして、身長が2センチほど縮む。
妻の「チビT」を前にして、靴下とパンツだけという間抜けな格好で、僕はそこに立ち尽くす。
プログラムは中断されてしまった。
僕は、1階に、今度こそ自分自身のシャツを取りに行かなくてはならない。しかし、1階には義母もいるから、パンツ一丁でウロウロするわけにはいかないのだ。
僕はまたパジャマを着る。階段を下りる。整理タンスからシャツを取り出す。今度は一応広げてみて、そのシャツが確かに自分のものであることを確認する。また2階に戻る。パジャマを脱ぐ。シャツを着る。ワイシャツのボタンをはめる。ズボンをはく・・・。

時々やって来るこの状態を、僕は「チビTの呪い」と呼んでいる。そして、そんな時、僕は「出たな、チビT」と小声で呟くのである。
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2008年03月24日

フレガタキ薔薇

薔薇は生きてる薔薇は生きてる
山川 弥千枝

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新聞の書評欄にて、「美しいばらさわって見る、つやつやとつめたかった。ばらは生きてる」あるいは、「はきたる血、目の前にして看護婦のおどろいた顔じっと見つめる」という歌を見て、僕は即座にこの本を買おうと決めた。この本とは、1917年に生まれ、僅か16歳で肺結核のためこの世を去った山川彌千枝の「薔薇は生きてる」のことである。
この本は、実は短歌集ではない。全部で300頁以上あるうちの、それはたった20頁ほどを占めるに過ぎない。「薔薇は生きてる」は、およそ120ページが「小品」と題された8歳から16歳までに書かれた作文、次いで短歌、後は日記や手紙、そして関係者の回想などで構成されている。
つまり、これは早世した少女の記念文集なのである。

歌人の穂村弘や芥川賞作家・川上未映子が解説を書き、帯には緒川たまきの「永遠の少女」を愛しむ素直な気持ちが記されている。
感動は量ではないから、そして断片的なものであろうと力強く光り輝くものは確実にこの世に存在するのだから、彼等の言葉は真摯だしまた嘘であるはずもない。先に例に挙げた二つの短歌をはじめとする作品群はもちろんのこと、後に歌にしようと母親に書かせていたという「肺臓を出して床にたたきつけたくなった」を含む文章など、山川彌千枝は僕の心の中にももうしっかりと深く鮮やかなイメージを刻みつけてしまっている。
しかし、僕は、この「本」を読むという行為そのものに、どうしても馴染むことが出来ない。ある違和感を覚える。特に、8歳の子供の作文を読むということが、僕にはどうしても普通のことではないように思えてならないのである。

「山川彌千枝」という少女を巡る世界、「門外漢」の僕などが決して踏み込んではいけない世界が、ここにはある。
僕は、多分この本をこれ以上読むことが出来ない。
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2008年03月23日

「鴨川ホルモー」〜マキメはやめられない!

鴨川ホルモー鴨川ホルモー
万城目 学

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万城目学のデビュー作「鴨川ホルモー」を読んだ。
玉木宏主演でTVドラマ化もされた「鹿男あをによし」の舞台が奈良だったのに対し、本作では隣接する古都・京都が物語の舞台となっている。作者は大阪府出身で京都大学法学部卒とのことだから、奈良にしても京都にしても非常に親しみのある、ある意味描き易い「背景」なのだろうが、とにかくこの「鴨川ホルモー」、デビュー作にして文句なしの一大エンタテインメント。その「やめられなさ度」の高さと来たら、「鹿男〜」以上であった。

全くの予備知識なしに本書を手にした僕には(誰だってそうだろうが)、まずそもそも「ホルモー」の意味が判らない。冒頭「はじめに」において、主人公・安倍の一人称によって語られる第一声も、「みなさんは『ホルモー』という言葉をご存じか」である。
その語るところによれば、「ホルモー」とは、「敵と味方それぞれ十人ずつ」、「相手と競い、勝敗を決める」のを目的とした「一種の競技の名前」で、競技を続けられなくなった競技者が発しなければならない叫び声がその名の由来なのだという。これが、京都の地で、遠く平安の時代から秘密裏に引き継がれて来たというのだから、そしてまた「柳田國男先生や折口信夫先生に訊ねることができたとしても、わかりはすまい」というのだから、読者としては、もう素直に説明を聞き、物語に身をゆだねるしか他に道はない。
すなわち、この「はじめに」は、主人公の口を借りた作者・万城目の「荒唐無稽宣言」なのである。

その「宣言」どおり、物語はこの上もなく荒唐無稽に突き進む。
ポイントは、ここにはちょっと書けない、「ホルモー」を巡る陰陽五行や「オニ」絡みのあれやこれやの荒唐無稽が、小難しい学問的解説に堕すことなく、かつ安倍の冴えない大学生活(切ない片思い、高村との友情、自己嫌悪、サークルメンバーとの反目等々)と不思議に調和しているということであろう。「鴨川ホルモー」は、とんでもないエンタテインメント作品であるばかりでなく、ちょっと懐かしい、ホロリとさせられる青春小説としても成立しているのだ。

実は、僕はこれから、本書のサイド・ストーリー集ともいうべきオムニバス「ホルモー六景」を買いに行くところである。
マキメは、どうにもやめられない・・・。
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2008年03月20日

松太郎をどうする?

のたり松太郎 (20) (小学館文庫)のたり松太郎 (20) (小学館文庫)
ちば てつや

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ちばてつやの「のたり松太郎」をちゃんと読んだことがなかったので、思い切って小学館文庫をまとめ買いした。
この作品は、帯の惹句によれば、ちばてつやの「最高傑作」あるいは「最大傑作」ということになっている。しかし、僕はこの「最高(最大)傑作」を読みながら、途中で何度もうんざりし、「もう止めようかな」と思ったことを告白せねばならない。
その理由は単純明快であって、松太郎に我慢がならなかったからである。

松太郎は乱暴者である。成人近い年齢になりながら中学校に通い、そこでも落ちこぼれている。近所でも、ただの鼻つまみ者でしかない。憧れの女教師を強姦しそこね、退学になって職を探しているうちに、ひょんなことから大相撲の地方巡業に乱入し、力士をぶちのめしたことから各相撲部屋の親方連の目に留まりスカウトされる、という筋書きで物語は進む。
松太郎の素行は雷神部屋に入門してからも改まることはない。相変わらずただただ粗暴で怠惰なだけの日々を送り、そこでたまたま知り合った田中(秋田出身。普段は大人しいが酒乱の気あり)と一緒に部屋を追い出されてしまう。
物語はここから二人の奇妙な友情と、引き取って貰った伊勢駒部屋での力士としての生活に移行して行くが、結局最後まで松太郎は(幕内優勝をしてさえ)松太郎のままである。

松太郎は一切成長しない。いや、それでも別に構わないのだ。「おれは鉄平」の鉄平だって(その親父も込みで)成長とは無縁だし、ある意味世間の常識から外れたニヒリズムこそ、ちば漫画の魅力であると言えるかも知れないからだ。
しかし、松太郎は、もういい加減いい歳をした大人なわけである。鉄平はモラトリアムでも許容されるが、いかに一般社会から切り離された大相撲という特殊な世界に住んでいようと、松太郎にそれが許されるべきではない(周囲に与える「被害」の度合いが違い過ぎる)。

最終巻、物語は駒田中(田中清)のエピソードで幕を閉じる。驚くべきことに、ここに至って、松太郎はもはやいてもいなくてもよい存在になり果てている。さすがはちばてつや、それでも充分に面白いし、何しろ田中は愛すべきキャラクターであり、申し分なく感動的でもあるのだが、僕には、結局ちばてつやが松太郎を扱いあぐね、描き切ることを放棄してしまったようにしか思えなかった。
「真っ白な灰」にならず、「そこ」から逃げ出しもしないアウトローの物語は、おそらく失敗した。
「松太郎をどうする?」
連載途中から、ちばてつやは、ずっとこう思っていたのではないだろうか。
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2008年03月18日

「taspo」導入

「taspo」の導入が始まった。
「taspo」とは、未成年者の喫煙防止を目的としたICカードのことで、制度導入後は、これなしでは自動販売機でタバコを購入することが出来なくなるのである。
(カードを)不正に貸し借りしてでも買いたい奴は買うだろう、とか、登録時に運転免許証等のコピーを提出させるのは個人情報保護の観点から問題があるのではないか、とか様々な指摘があるようだが、個人的には、まあ悪いことではないのではないか、と思っている。

ところで。
何か新たな制度、あるいは新サービスが導入されるといった場合には、首都圏から施行されるのが普通である。東京や神奈川あたりから導入が開始され、次いで各政令指定都市にエリアが広がる。僕の住む秋田なんて、何だって年単位で後回しになるのが当然なのだ、と思っていた。
しかし、不思議なことに、「taspo」はそうではない。
つまり、全部で4次(パイロットエリア〜第3次)に分かれている導入段階の、しょっぱなが九州の宮崎と鹿児島。そして、次が青森、岩手、秋田など東北各県を含む全21道県で、東京は何と一番最後の第3次導入なのである。

これではいつもと全く逆である。いったい何故この順番なのか。
誰からも待ち望まれている新サービスは東京(首都圏)から始めるが、何となく抵抗(あるいは混乱)が予想される制度等については、「地方」で実験して様子を見てから後の対応を考える、ということなのだろうか、などと少しひねくれた考えも頭をかすめる。
もちろん、各自治体の導入判断の後先によるスケジュールの違いもあるのだろうが、常日頃の地方モンのひがみ根性は別にしても、何だかとても特殊で不思議な感じがするのである。
タグ:taspo
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2008年03月16日

春だから

春だから、近所の堤防まで行ってみた。
冬の間ずっと小屋に仕舞い込んでいた自転車を引っ張り出し、タイヤに空気を入れ、出かけた。
堤防のすぐ手前にある、昔住んでいた家は、もうなくなっていた。そこら辺り一帯に、新しい家が建ち並び、かつての面影はもうない。
僕は、堤防に自転車で入って行く。堤防の上は、細く舗装されていて、ゆっくりとカーブしながら左右に続いている。
散歩する人。犬を散歩させている人。川べりで釣りをする人。それを見る人。中には、まだシベリアに帰る決心をつけられずにいる白鳥に、餌をやっている人もいる。
すれ違う人々は、やはり老人が多い。
自転車に乗っている人も、たまにはいる。
堤防には、太い桜の樹が、ずっと向こうまで植えられている。対岸にも、同じように、太い桜の樹が、等間隔で並んでいる。
自転車に乗っていると、張り出した枝が頭に当たりそうになり、思わず肩をすくめる。
桜の樹の幹は、太いのになると3メートル以上もある。そこから伸びた細い枝は、節くれ立って、僕には何だか枯れているように見えた。
堤防の上から川べりまでは、冬を耐えた野の草と枯葉が地面をおおっている。5メートルほど下ると春の川。向こう岸までは約10メートルだ。
ぷかぷかと川面に浮かぶカモや白鳥。案外悪声の鳴き声が響く。それに混じって、時々カラスの声も聞こえる。
もう一ヵ月もすれば、ここは一面ピンクに染まるのだろう。
だが、今はまだふきのとうの季節である。
帰り道、僕は妻に頼まれていたイチゴを3パック買った。
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2008年03月15日

歌詞を書く

テレビの歌番組などで歌詞がテロップ表示されるようになったのはいつ頃からのことであろうか。僕が子供の頃には、もちろんそんな親切な仕組みなどなく、だから好きな歌手の新曲が初めて披露された番組で、もしその歌詞を憶えたいと思えば(そして、「明星」や「平凡」の付録の歌本が待ち切れないとなれば)、僕達はそれを必死になってメモするしかなかった。
筆記はどうしても歌に追いつかない。最初はいいが、すぐに遅れ出す。僕は、「シャボン玉ホリデー」で歌われるザ・タイガースの新曲の歌詞などを、よく姉と1フレーズ交替で書き取ったものだった。

学校で使うノートに、好きな歌の歌詞を丸々書き写すということもよくやった。既に入手済みの「ヤングソング」や「平凡ソング」から、正確にコピーするのである。歌本は、時には同級生から借りた物であったかも知れないが、そこに「知るための記録」としての意味はあまりない。
好きな歌手がいる。憧れのアーティスト、あるいはミュージシャンがいる。もしかしたら、単に心惹かれた歌そのものであったかも知れないけれど、僕は多分それをもっと身近にしようと、もっと自分の中で確固たるものにしようと、大切なノートの1ページを費やしたのである。
それは、どちらかといえば「コピー」ではなく「取り込み」もしくは「共有」であった。そして、それは、おそらく、ある種の「自己主張」、もしくは「表現行為」でもあった。

今では、歌以外の普通の会話にさえ常に流れる録画可能なテロップと、更にはまたインターネットのお陰で、その気になれば、歌詞はいつだって知ることが出来るし、また再確認出来るものになった。
歌詞を書き取る、などということを、僕はもはやしなくなってしまった。
最近、歌詞は、いつだってそこにあるのに疎遠である。
近頃の中高生が、いったい何をノートに書き、また何を書いていないのかについて僕は一切知らないし、自分の好奇心や感性の衰えを、全て「他人」のせいにするわけにはいかないのだけれど。
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2008年03月13日

「夢はかなう」

今回、名古屋国際女子マラソンで高橋尚子選手が、27位という本人にとっても不本意な成績に終わったことを受け、僕が一番強く感じたのは、「夢はかなう」と思っている人、もしくは「夢はかなう」と信じたがっている人がこんなにもいるのか、ということであった。
皮肉を言いたいのではない。僕はとても飽きっぽく、努力する才能にも恵まれていないから、その感覚がただ単に判らないのである。
第一、「夢はかなう」と思っているということは、今現在叶えようとしている夢を持っているということであろう。そんなに多くの人が夢を持って生きているのか、と怠惰な僕はまた唖然とする。

考えてみれば、僕はそもそも、未だかつて一度たりとも叶えるべき夢というものを持ったことがなかった。人並み以下の惨めな人生を歩んで来たというわけではない。自分のことをどちらかと言えば幸運な方だと思っているし、日々のあらゆる欲望も、そこそこ叶えられて来た。
そう、それは夢ではなく欲望だった。あるいは、希望、望み、願いと時に名前を変えながらも、少なくともあまり向上心のない自分自身の身の丈に合った、もっともっと現実的な「何か」であった。

(よい夢でも悪い夢でも)夢は醒める、と僕は思う。それは、人間にとって幸せなことではないだろうか。そう思ってしまうから、「夢はかなう」は僕にとって、やはり永遠にまぶし過ぎる水晶球なのである。
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2008年03月11日

「ヒューマン・ルネッサンス」、加橋かつみ

ヒューマン・ルネッサンスヒューマン・ルネッサンス
ザ・タイガース

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ザ・タイガースのタローこと森本太郎が初めて作曲した曲「青い鳥」は、アルバム「ヒューマン・ルネッサンス」に収録されている。ザ・タイガース屈指の名盤と評価も高い本作では、森本だけではなく、トッポこと加橋かつみも曲作りに取り組んでおり、ヒット曲「廃墟の鳩」をはじめとしてリード・ヴォーカルをとっている曲も多い。
驚くべきことに、これは立派にコンセプト・アルバムで、前年(1967年)既にザ・ビートルズの「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」が発表されているとはいえ、デビュー3作目のGSのアルバムでこの完成度はやはりすごいと思う。

作曲ということに関しては、ザ・テンプターズの松崎由治も、デビュー当時からごく当たり前のようにして優れたオリジナル曲(たとえば「忘れ得ぬ君」など)を作っていたわけで、これは何もザ・タイガースがパイオニアであるなどということではない。有名無名を問わず、オリジナル勝負のGSバンドは他にもいた。しかし、何といってもアイドルの(ある意味当時アイドルでしかなかった)ザ・タイガースがこれを作ったということに、僕は感動するのだ。
これも結局は「作られたもの」でしかない、という見方もあるであろう。実際、演奏面におけるバンドとしての存在感は甚だしく低く、オーケストラによるクラシカルなサウンドが全体の印象を支配している。
しかし、それでもやはり僕は、これは彼等のオリジナルな名盤なのだ、と思う。何故なら、ここには、何かを創造する喜びがあふれている。聴く度にそれがひしひしと伝わって来るからである。

収録されているのは全部で12曲。「光ある世界」で始まり「廃墟の鳩」で終わる37分間は、とにかくヨーロピアンで中世的な魅力と詩的情緒に満ちている。このアルバムで、加橋かつみの果たした役割は大きい。
玉置宏がラジオ番組中、このアルバム発表の翌年起こった加橋の「失踪事件」を、「実に下らねえ」と吐き捨てるように言っていたのを僕は強烈に記憶しているが、実は渡辺プロのヤラセだったという「失踪事件」前から、加橋は強くザ・タイガース脱退を求めていたのだという。
このタイトルを「人間再生」と訳すことが出来るだろうか。その結果はともかく、アルバム「ヒューマン・ルネッサンス」の世界観と、加橋の「失踪・脱退」は、見事にシンクロしている。

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2008年03月08日

何と言えばいいのでしょう

昨日、妻と待ち合わせ、「4分間のピアニスト」を観た後で、軽く飲もうかということになって、近くの居酒屋に入った。少し待たされてから、奥のテーブル席に案内され、まずはそれぞれ日本酒を頼んだ。妻が「明鏡止水」で僕が「九平次」。長野と愛知の酒である。
酒が来るまでの間、メニューをチェックする。選んだのは、刺身盛り合わせと大根のサラダ。その店はにぎり寿司も注文出来る店だったので、「馬刺しのにぎりもいいね」と言う妻に同意し、〆鯖、まぐろと併せ、二貫ずつ注文することにした。

日本酒が運ばれて来た。開いたままのメニューを見ながら、僕が注文する。
「刺身盛り合わせの三種盛りと、大根のシャキシャキサラダ。それから・・・」
と、僕はしばし絶句する。それは、寿司ダネがずらっと並んだメニューのページを見ながら、「馬」のにぎり寿司をどう相手に伝えたらいいのか、突然判らなくなってしまったからである。
メニューには単純明快にそのものズバリ「馬」と記されている。無難なのは「馬刺し」だと判っているが、それでは何だか違うような気がした。「サクラ」も脳裏をよぎったが気取っているようで気恥ずかしい。しかし、だからといって「う・ま」と発音するのはちょっと・・・。

結局、僕は、照れ笑いでごまかしつつ、「う・ま」と言った。店員はあっさりと「馬刺しですね」と言い、注文を書き留めた。「あ、あと〆鯖とまぐろも」と慌てて付け加える僕のドギマギには、彼は全く気付かないようであった。
店員が去ってから、僕と全く同じことを考えていた、と妻が笑った。
そうなのだ。あの明るく清潔な店内で、「う・ま」と言うのは、本当に気の引けることだった。
相手にそう告げる時の自分の口元の間抜けな感じをまず想像してしまったのが、そもそもの失敗だったろうか。
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2008年03月06日

ラスト・ショー

かつて、映画館には、通路まで人があふれるということがよくあったものである。
僕が一番よく憶えているのは「ジョニーは戦場へ行った」で、確か有楽町パンテオンの通路が、文字通り立錐の余地もなく観客で埋め尽くされていた。
1時間半から2時間の間、僕達はずっと立ったままスクリーンを見つめ続ける。人と人の頭の間から垣間見えるティモシー・ボトムズを、いや、戦場で両手両脚を失い包帯で全身グルグル巻きにされた男の姿を、僕達は食い入るように見つめ続ける。
かつて、映画とは、それほどまでして観なければならないものであった。

ところで、僕にとって、今、映画館とは、いったいどんな場所なのだろう。
独りきりで楽しめるビデオやDVDに依存する、いわゆる個人主義が映画を衰退させたという説もあるようだが、では現在の映画館という場所は、それほどに「非・個人的」な場所なのか。
しかし、最低限のマナーというものはあるにしても、映画館では人は基本的に皆ひとりではないか。茶の間で、いつ鳴るか判らない電話の呼び出し音や、突然の来客や、家族のあくびや、生活感あふれる床や壁やカーテンや更にはぶら下がる洗濯物を見ながら、僕は真に物語に没入して泣けはしないし、また笑うことも出来ない。僕は、プライベートな空間としての映画館に、映画も込みで、その対価としての入場料を支払っているのだ。

実は、映画館にあまり人がいないと、僕は少なからずホッとする。それは、脚を棒にしながら「ジョニーは戦場へ行った」を観たあの映画館とは全く異質の空間である。
異なるのは、もちろん人の多さだけではない。本当に違ってしまったのは、むしろそこにいる人間の心である。僕達は、いや少なくとも僕は、長い年月をかけて、そうした「個人主義的映画館」を自ら作り上げてしまったのだ。
それがいいことなのか悪いことなのか、僕にはまだよく判らないのだけれど。

ラスト・ショ−ラスト・ショ−
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ジョニーは戦場へ行ったジョニーは戦場へ行った
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2008年03月02日

極限状態にて〜「明日への遺言」、「28週後」

昨日今日観た2本の映画について。

まずは「明日への遺言」。
素晴らしく抑制のきいた、静かながら緊張感にあふれた作品だった。
藤田まことがとてもよかった。思想や哲学とは無関係に、誠実であること、誇りを持って生きること(あるいは死ぬこと)の意義を、それこそ誠実に、誇りを持って演じ切っていた。
小泉堯史監督の演出は、いい意味で「古い」と思う。彼が師事していた黒澤明の影響もあるのかも知れないが、僕は黒澤作品「生きる」において、同僚(部下?)が渡邊課長(志村喬)の人柄と功績を涙ながらに語る葬式のシーンを何となく思い出していた。
こんな上司が身近にいたら気詰まりでしょうがないだろうなあ、などという下らないこともちらと頭をよぎったが、それは単に僕の不誠実で誇りなき毎日故の戯言である。
竹野内豊のちょっと合わない感じのナレーションも、僕は好きである。

そして今日は「28週後」。
「28日後...」の続編ということだが、僕は前作を観ていない。是非観なければ、が今の強い気持ちである。それほど面白かったのだ。
僕には、ヨタヨタとしか歩けないからこそ怖いのがゾンビだ、というこだわりがあった。だから「速く走るゾンビ」は大嫌いだったのだが、この映画を観て考えを改めた。「28週後」の怖さはそもそもゾンビ(実際は「レイジ・ウィルス」に侵された感染者)にはない。いや、彼等は充分におぞましい。しかし、この映画で本当に恐ろしいのは、僅かな希望があっけなく次々と裏切られて行くそのスピードではないだろうか。
詳しいことを書くのは、いやいや内容を少しでも書くのは止しにしておくが、あのラスト・シーンは秀逸。最高だ。
前作監督のダニー・ボイルが構想しているという3作目「28 Months Later」の制作も、是非とも実現させて欲しいと思う。
だが、その前にまず1作目を観なければ。主演は何とキリアン・マーフィだ!

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posted by og5 at 15:46| Comment(4) | TrackBack(1) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

漫画の大きさについて

文庫本サイズの漫画を最初に売り出したのは小学館だったと記憶している。とすれば、それは多分「小学館文庫」で、つげ義春の「ねじ式」などが最も初期のラインナップだったはずだ。決して主流になっているとは思わないが、今では各社が同サイズの漫画本をコンスタントに出し続けている。
僕は当初、文庫本サイズで漫画を読むことにすごく抵抗があった。月刊週刊の少年漫画雑誌や貸本漫画を読んで子供時代を過ごした僕には、慣れ親しんだ画や活字の大きさがあったからで、文庫本以前からあったコミックス単行本サイズが許容出来るギリギリのラインだったのである。

ところで、つい最近、やはり漫画には適したサイズってものがあるのだなあ、と改めて思い直す機会があった。それは、お昼を食べようと入ったラーメン屋で、「ビッグコミックスペリオール」を読んだ時のこと。漫画は「新・味いちもんめ」であった。
「新・味いちもんめ」は、コミックスでもう20巻を数える。「新」とつくくらいだから「新」なしの「味いちもんめ」も当然あって、そちらなど何と単行本33巻に達する(原作者急逝のため中断。その後「新」として再スタートし、未だ連載中)。
僕は、この作品が大好きである。しかし、単行本及び文庫本でしか読んだことがなかった。

秋田市出身で、元々はちばてつやのアシスタントをしていたという倉田よしみの画を、はっきりいって僕はずっと野暮ったいと思っていた。もちろん、連載を続ける中で確実に洗練されて来てはおり、連載初期と現在では、単行本レベルで見比べても、その技量には明白で大きな差がある。
しかし、僕がラーメン屋で受けた感銘は、決して本人の技術的上達にのみ起因するものではなかった。
雑誌の版の大きさ。ざらざらした安い紙の肌触り。そして、そこにくっきりと、ある時は太く、またある時は細く軌跡を残す、まるで息遣いが聞こえて来るような、描線の、生々しくも柔らかなインクの色合い。ああ、この大きさなのだ。この大きさでなければ表現し得ない世界が、確かにあるのだ。
そう思ったわけである。

それにしても、(今ふと思ったのだが)「雑誌」の方が実は贅沢だなんて、いかにも漫画らしい価値観の逆転具合ではないか。

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posted by og5 at 09:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 本・雑誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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