2008年04月29日

眠れない二人

空が白み始めて
僕はしらけ始める
眠れない二人は
何処へ行こう

中途半端な嘘を
幾度も飲み込んだ
眠れない二人は
何処へ行こう
夜を抱えたままで

ラベルの剥げた希望が
やっと自由取り戻す
何にもなかったんだと
ようやく気づく

夜明けのファミレスにて
君はしらけ始める
眠れない二人は
何処へ行こう
朝に侵されるまで
posted by og5 at 20:47| Comment(0) | TrackBack(0) | サルの歌詞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

夢でよかった

昨夜、夢を見た。
すごく老けたザ・たっちが、旅番組のレポーターをしていて、旅館の仲居さんに「ちょっと、ちょっとちょっと〜」とつっ込んでいた。
目が覚めて、ああ夢でよかった、と思った。心から。
posted by og5 at 17:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月28日

僕の貧弱な「文才」と潜水服の内側

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僕は文章を書くのが苦手である。こんなブログの記事でさえ、実はひどく時間がかかっている。あることを人に伝えようとしても、それを瞬間的かつ的確に表現するということが出来ない。書いて、何度も何度も読み返し、そして書き直してはまた書き直す。時には、おかしな言い回しをしていることに後で気付き、何日も前に書いた記事をわざわざ遡って修正することさえある。
僕が「潜水服は蝶の夢を見る」に感情移入出来なかった原因は、案外そんなところにあるのかも知れない。

時折、文章を妄想するという癖が起こる。その時点においては、僕は素晴らしい文才の持ち主である(そのような気がしている)。しかし、その傑作はたいがい風呂を出る時には消え失せている。あるいは会社に着いた途端に雲散霧消する。たまに僕は茶の間でも夢想するが、その時ちょっとでも家族に話しかけられたらそれでもうお終いである。それ程に僕の記憶は頼りなく、またチャンスは常に僕の手から逃げることばかりを考えている。
ボビーの文章は完璧過ぎる。多分、僕はそのように嫉妬しているのだ。

例えば、雨の日の午後、閑散としたJR駅に人が立っているということを人に伝えようとするだけで、いったいどれくらい多くの異なる表現が考え得るであろうか。ボビーはその中で最良の表現を選択し、気の遠くなるような手法で相手に伝え、「文字」にするのである。「最良の表現」の寿命と煩わしい推敲の存在を、僕はあの映画からついに読み取ることが出来なかった。
だから僕は「潜水服は蝶の夢を見る」にリアリティを感じなかったのかも知れない。あれが実際の実際ボビーの真実であっても、人はあくまでも自分自身の物差しでしか物事を計れないものだから。
posted by og5 at 20:48| Comment(5) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月27日

「す」か「すぅ」か

人と話していて、あるいはテレビ番組を観ていて、あることがすごく気になる。「す」か「すぅ」かということである。
「お早うございます」あるいは「ありがとうございます」などと言う時の「す」を、僕は例えば英語で「ice」と言う時のように子音の「s」で小さく発音するが、子音「s」の後に母音「ウ」をくっつけて、それをすごく強調するようにしゃべる人も今結構いるのである(もしくは「す」と「そ」が混ざったように言う。いずれにしても母音が強い)。
僕には、それがひどく耳障りに感じられるのだ。

昔はテレビのアナウンサーがそんな発音をすることなどまずなかった。日常会話でも耳にする機会はなかったように思う。
あるいは、関西人が「ネクタイ」と言う際「ク」の部分にとても強くアクセントをつけるのと同じように、元々は何処か地方の方言(訛り)だったのが一般化したものか、そういえば関西の芸人は「すぅ」と言っているな、などと考えても本当のところは判らない。
いや、方言ならそれはそれでちっとも構わない。ただ僕は、それが(鼻濁音の曖昧化の時と同じように)いつの間にか「普通」になりつつあることに、違和感を覚えているだけなのである。そしてまた、実際なんて聞きづらいんだろう、と思っているだけなのである。

「唐獅子牡丹」の高倉健が、キメの台詞で「死んで貰いますゥ」と言ったのではやはり締まらない。加賀美幸子さん(元NHKアナウンサー)も、絶対こんな風には発音しないぞ、とも思う。
posted by og5 at 20:52| Comment(1) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

そんな秋田が好きなのよ

4月26日付産経新聞東北欄に面白い記事が載っていた。秋田県庁が事務局となって進めている「秋田県人変身プロジェクト」を取り上げた記事で、そこに紹介されている秋田県民の様々な分野における「1位」がとにかくスゴイのだ。

自殺率、がん・脳血管疾患・肺炎それぞれによる死亡率、出生率及び(人口)自然増加率、婚姻率などがいずれもワースト1位で、多重債務相談件数や不慮の事故による死亡率も全国2位となっている。
一方、ハンドバッグ購入費、子供服購入費、美容院の人口比率、刑法犯認知件数、中学2年の身長(男女共)、小学生の学力調査結果などでも1位となっており、悲しいのか嬉しいのかよく判らない気分になって来る(プロジェクトのホームページで確認したら、使途不明のこづかい県庁所在地別1位なんてのもあった)。

これら順位の調査年度や条件はそれぞれ異なる。必ずしも今現在の秋田の状況を鏡のようにそのまま映し出すものではないかも知れない。しかし、がん死亡率で10年、自殺率や出生率に至っては12年連続でワースト1位なのだから、これはやはり「県民の特質」であることに間違いはないであろう。

ところで、悲しいのか嬉しいのかよく判らない気分になって来る、なんて言いはしたが、僕はこれらの結果に必ずしも落胆しているわけではない。いや、どちらかというと「ますます秋田が好きになったような」気分なのだ。
秋田県人の性格を表す例え話として「俺もやらないからお前もやるな」というのがあるそうだ。自殺はしない方がいいに決まっている。それは当然である。しかし、同時に、この例え話からそこはかとなく漂って来る(ある意味ラテン系的な)気質を、是非ともだらだらと継承して行って欲しいものだなあ、と思ってしまうのもまた事実なのである。

「だから駄目なのだ!」とプロジェクト推進派からは叱られそうだ。
でも、いいなあ秋田。
特に、ハンドバッグ購入費が高いあたりがものすごく好きである。
posted by og5 at 15:48| Comment(3) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月22日

「レテラ帯」の思い出

いったい何の番組の際流れていたコマーシャルだったのかさえ、今では思い出せない。もしかしたら深夜のスポットCMだったのかも知れないが、僕が中学生の頃に、クラスの馬鹿な男子間で大流行した幻のCMがあったのだ。
「レテラ帯」(れてらたい、と読む)は、別に怪しい商品ではない。今ネット検索で調べてみてもほとんどヒットしないから、一般的知名度はあまりなかったのかも知れないが、そしてまた今ではもう販売すらされていないのかも知れないが、要するにアミアミの、伸縮性に富んだ医療用包帯の一種であったのだ。
ところが、そのCMがとにかくすごかった。

暗い、いかにも予算がなくて照明にお金をかけられませんでした、といった雰囲気が充満する映像。具体的にそのヴィジュアルを表現するのも憚られるほど不細工かつ不健康そうな(何故か下着姿の)モデル。わざと10年間お蔵入りさせていたかようなフィルムの傷み(いや、実際は「新作」なんですよ)。そして極めつけは、オリジナルなことは間違いないが、いったい誰が何の目的でこんな妙な歌を作ったのか、と思わずにはいられないオリジナリティ溢れ過ぎるコマーシャル・ソング。
医療に関わる商品なのに清潔感の欠片もない。誰の好みか、エログロなエッセンスが溢れる返っている。思わず「ピンク映画」、それも「大蔵映画」という単語を思い浮かべてしまう圧倒的ないかがわしさ・・・。

<いくら〜 傷ついたあなたでも〜(あなたでも〜) 優しく〜 優しくつつむレテラ帯〜(レテラ帯〜> ※括弧部分コーラス。
単調かつ短調なメロディーに乗せて、頭部などにレテラ帯を装着したカストリ雑誌から抜け出て来たような半裸のモデルが中途半端にトランポリンをやっている。
激しく動いてもずれないとでも言いたいのか。「ならばもっと活き活きと動け!」と思いつつ、僕のかなりコアな部分を形成するこんな記憶とあんなものが実際にあったのだという「事実」が、平成まで生き延びた僕を少しだけ幸せにする「事実」もまた「事実」なのである。
posted by og5 at 21:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 記憶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月20日

バターがない!

昨日買い物に行ったら、立ち寄った2店のスーパー両方でバターが品切れ状態だった。
1店は「品薄のためお一人様1点までのお買い上げと限定させて頂きます」という張り紙がしてあったが、棚には既に商品がなく、もう1店では、そもそもバターの商品陳列棚自体を見つけることが出来なかった。
バターが店頭から消える(?)というような噂はあった。何でもバターの原材料の生乳生産量が減少しており、その原因のひとつが生産調整で乳牛を減らしたためというのだから、明らかな政策ミスであろう。様々な要因から食料自給率の向上が叫ばれつつある現状であるのに、何とも心細い限りである。

恥ずかしいのは、自分でも一瞬「買い占めなきゃ」と思ってしまったことである。白状すれば、昨日行ったスーパーで、僕はちょっと必死になってバターを探した。3個くらいは買っておいた方がいいかも、などと考えた。「買占め」の規模自体がせこくて何とも情けない。
考えてみれば、バターがないのであればバターを使わなければいいのである。日常のたいていの料理は他のオイルで代用が利く。パンに塗るのも、しばらくはジャムにすればいい。
気の毒なのはどうしてもバターを使わなければならない業界、レストランやパン屋、お菓子屋などで、こちらはバターを使った味そのものが売りなのだから、まさか他のもので代用するというわけにも行かないだろう。

この「バター・ショック」はいつまで続くのだろう。
この際、業界最優先にして、一般消費者に売るのをきっぱり止めてもいいのでは、とも思うが、まあこれはあくまでも高コレステロール保持者の個人的意見である。
いざとなれば、トラを4頭連れて来るという手もないではないが、上手い具合に木のまわりで追いかけっこをしてくれるという保証は何処にもない。

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青春の残像

また「デス・プルーフ」のことである。
最初はノリノリの後半にばかり目が行ってしまっていたが、後に前半のセンチメンタリズムに気付かされ、その奥行きの深さに感動した、というようなことを以前書いた()。

<スタントマン・マイクの、バタフライ=アーリーンに対する残酷な指摘。まだ来ぬ恋人にメールを送るジャングル・ジュリアの純情。雨に濡れて光る脚。女の友情。女だけの週末。「その」直前、ラジオから流れる「デイヴ・ディー、ドジー・ビーキー、ミック&ティッチ(&ピート)」の曲に合わせてドラムを叩く真似をするシャナ。隣であきれたように笑っているアーリーン。
そして、結末。>

実は、僕は最近、あの前半最後のシーンを頻繁に思い出している。
そして、その度に泣きたくなる。

これもやはり自分のブログ記事からの引用になるが、「明日、君がいない」の<最後まで本当に確かな理由など一切明らかにされず文字通り血の海の中で死んでゆく「誰か」と強烈なコントラストを作って、彼等(死ななかった高校生達)の「生」が輝く。>の「輝き」とはまた違った「輝き」がここにはある()。
「明日、君がいない」のそれがあくまでも生きている者達(残された者達)の「特権」であったのに対し、「デス・プルーフ」において、それは実は、他の誰のものでもない、ジャングル・ジュリアの、アーリーンの、そして(地味な地味な)シャナの、絶対的に個人的な永遠の「宝石」なのである。

これは「青春の残像」だ。
そして、それが僕の心のドアを、まるで記憶にかけられた呪いででもあるかのように、繰り返し繰り返しノックするのだ。
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2008年04月17日

吉田照美の相槌

たまに朝のABSラジオで「吉田照美ソコダイジナトコ」を聞くことがある。妻を勤務先まで送る時、この番組がちょうどカーラジオから流れて来る時間帯なのである。元々は文化放送の番組で、ニュースの後、事件や政治情勢を語るゲストに吉田照美が絡むという構成である。

さて、この番組における吉田照美は、とにかくうるさい。この人のラジオ番組を他には聴いたことがないのでいつもこうなのかどうかは判らないのだけれど、少なくとも「吉田照美ソコダイジナトコ」における吉田照美は、おかしいくらい落ち着きがなく、ちょっとじっとしていろと言いたくなるくらい浮ついている。特に、その相槌のやかましさがただ事ではない。

そもそも、相槌というのは、相手の話の先を促したり、私はちゃんと聴いていますよという意思表示の表明だったりするわけである。つまり、話し手が話し易いように、との気配り、潤滑油だ。
しかし、吉田照美の相槌は違う。まるで、あえて邪魔をしているかのようでさえある。変な例えであるが、何かラップ合戦を聴いているような、あるいは、昭和のいる・こいるの漫才を聴いているような、そんな錯覚にさえ陥るのである。

ゲストも何だか話し辛そうである。そして、そんな吉田照美の相槌は、たいていはゲストに無視されている(ような気がする)。

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タグ:吉田照美
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2008年04月15日

花のかおりに

20080415202105.jpg玄関先で、新聞を取ろうとつま先だって、郵便受けの方に手を伸ばした時、不意にひどい汗臭さが鼻をついた。僕は顔をしかめ、何がそんなに臭うのかと靴箱の上に目をやった。
原因はすぐに判った。それは花瓶に生けられた春の花束だった。

「花のかおりに つつまれて 口づけかわし なみだぐむ♪」とザ・フォーク・クルセダーズの「花のかおりに」は始まるが、花の香りは実は結構強烈だ。
それは当然といえば当然で、植物だって生きているのだから(直接的にはミツバチを誘うためのものであるかも知れないけれど)雄は雌を誘う匂いを発し、またメスはオスを誘う匂いを発しているに違いないのである。花のフェロモンが人間の汗の臭いに感じられたからといって、いったい何の不思議があるだろう。

考えてみれば、春に憂鬱になる人が多いのも、この「香り」のせいかも知れない。ある単一の匂いではなく、そこいら中に充満する圧倒的なフェロモンが、人間の何かを狂わせるのだ。
花の香りはまた猫のマーキングの臭いにも似ているが、春に恋を語らうのは何も猫ばかりではないということであろう。
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湧いて出るモノ

ブリキ男ブリキ男
秋山 祐徳太子

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秋山祐徳太子の自伝「ブリキ男」を読んだ。
僕が知っている秋山祐徳太子は、東京都知事選挙泡沫候補の変なおっさん、時たま藤本義一司会の11PM(木曜日)に出て来る変なおっさん、そして言わずもがなグリコのキャラクターに扮しところかまわず出没する変なおっさん、である。
11PMについては「記憶」であり、実際に出演していたのかどうかは自信がないのだけれど、とにかく、つまり、要するに、早い話が、彼はいつでも「変なおっさん」なのであった。

「マッカーサーを射殺せよ!」などという小見出しからも判るとおり、秋山祐徳太子は結構な軍国少年であった。しかし、そのまま右翼になるわけではなく、武蔵野美術大学在学中には学生運動に傾倒し、社会人になってからは組合運動にのめり込むという、全くよく判らない経歴を辿る。そして、その時々常にあるのが「芸術家」としての彼一流のパフォーマンスなのである。
ここでは、芸術はまだカウンター・カルチャーと一体で、いや少なくともある部分で様々な時代の青さとシンクロし、周囲に荒い息を吐いていた。
しかし、同時代のアート集団が「儀式」と称し過激なパフォーマンスに突っ走るのを傍目に、ナンセンスと笑いに自らの存在意義を探る秋山祐徳太子は、もはや既に別格である。そしてまた、そうでありながら彼が決して他者を排除しないことに僕は驚く。
この本を読んで判ることは、秋山祐徳太子は秋山祐徳太子だということだ。「右翼」も「学生運動」も、そして温泉の中の放尿も、いずれも確実に彼の裡から出たものであり、一切矛盾がないのだ。
また、彼の母親以外には彼を育てることは出来なかったであろうということ。この本は、まるで母親へのラブレターのようである。

芸術とは何か、と問われれば、人である、と今僕は思う。
秋山祐徳太子は迷惑である。勝手に湧いて出る。だから芸術だ、などと言うつもりはないが、それが(単なるこじつけとしか思えない「一発ギャグ」をも含めて)芸術の大きな要素のひとつであることは否定しようがない。
「文化・芸術を育てる」ってよく言うけどそんなの変だよね、といきつけの店のマスターは言うのであった。僕も、もちろんその意見に激しく同意した。
そんなものは育てるものではない。除草剤を撒いても勝手に湧いて出て来る迷惑なモノ。それが「ブリキ男」で呼ばれているところの「芸術」というものなのではないか。

※これも最高だ!
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2008年04月13日

気になる席

「笑点」で、冒頭司会の桂歌丸が挨拶をする。
それは観客席のど真ん中で、歌丸の前後左右には、一般のばあさんじいさんおばちゃんおっちゃんねえちゃんあんちゃん時たまこどもが、素人の顔をしてぎこちなく(でも何となく若干晴れやかに)テレビカメラのこちら側(お茶の間)を見ていたりするわけである。
僕の今一番気になっていることは、歌丸が座っているあのシートは、番組が始まってからいったいどうなるのだろう、ということである。
歌丸が楽屋に移ってからはそのまんま空席になってしまうのか。
それとも、元々あそこには誰かが座っていたのであり、番組の最初だけその席を司会者に譲っているだけなのか。
とすれば、演芸が始まる頃には、「どうも済みません、どうも済みません」といった純日本的光景があそこら辺で展開されるということになるわけであるが・・・。

「あれ」はいつから始まったのであろう。
円楽時代には、確かにこのスタイルだった。一般人とは明らかに異なる顔の大きさが、否が応でも「芸人」を感じさせずにはおかなかった。
観客席に円楽は似合わなかったと僕は思うが、歌丸は結構似合っている。
本人も何となく嬉しそうである。
posted by og5 at 19:59| Comment(0) | TrackBack(0) | TV・芸能人 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

サクラ、モクレン。

今年の桜はちょっとだけ不憫である。
というのも、何だか誰からも待ちわびられることのないうちに咲いてしまったような気がするからで、余計なお世話だと言われるかも知れないが、やっぱり少し早過ぎたように思うのだ。
今日はあの人は来ないのかなあなどとひとりで酒を飲んでいるいつもの店、結局待ち人来たらずでも、それはそれでまたいいものだ。
東京ではもう開花したのか、春とはいえ秋田はまだ寒いからなあ・・・。そんな待ちわびる気持ちで通勤途中の固い蕾の薄桜色を見上げることも、日本ならではの季節の楽しみ方のひとつである。
人でも何でも、やや遅いくらいがありがたい。

mokuren_1.jpg今、我が家の裏庭では木蓮の白い花が満開である。「ぼっ」と大きな花びらなのに何処かしら上品な慎み深さを感じさせる。
いつ咲くかなど誰も気にしない花の方が案外趣きがあるものである、なんて考えたりもするけれど、いや、花はただ花で、全ての理屈づけは人間の勝手な思い入れか。
桜も木蓮も、「困ったものですわね」と何故か和服姿の女性の言葉つきで、馬鹿な人間を観察しているのかも知れない。
posted by og5 at 18:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月08日

気になるCM

地方のCMは息が長い。もちろん僕は秋田のことしか知らないわけだが、平気で10年以上同じものを流し続けていたりする。
たとえば、さすがに最近は観た記憶がないのだが、ある酒のCM。家族揃ってピクニック。もう70歳は越えているであろう老人(祖父)が、由井正雪を演じた時の成田三樹夫みたいな長髪を風になびかせて遠くを見ている(ちょっと寂しそう)。
また別の日本酒のCMでは、能面を作る職人さん(この人もかなりの老人)がノミをふるう瞬間が映し出され、「この酒で百歳まで」という秋田ではかなり有名なキャッチ・コピーがかぶさる。
失礼ながらこのお二人はまだご存命なのか、などと余計な心配をしてしまうくらいどちらも長年にわたって放映され続けていた。

最近では(といっても、これももう最初にオン・エアされてから相当な年数が経過していると思うのだが)、エフエム秋田のCMが静かに記録更新中である。
「なりきりB・BOY/19歳」、「笑いすぎOL/26歳」、「鼻歌まじりお嬢様/21歳」、「うなずき会社員/32歳」、とそれぞれ四者四様でラジオを聴く若者が映し出され、最後にかなり投げやりなナレーションが「気になるなら聴いてみな」と言い放つ(記憶違いもあるかも知れないが、大体こんな感じ)。これなど、年齢が明記されている分、違和感が強い。
彼等はいったい今何歳なのか。今でもなりきっていたり笑いすぎていたり鼻歌まじりだったりうなずいていたりするのか。はっきりいって、ラジオ番組の中身より、こっちの方がよっぽど気になるのである。

と、ここまで書いて来て、エフエム秋田の件のCMを今年度になってからまだ観ていないということに気がついた。そもそも毎日放映しているCMではなかったので、たまたま見逃しているだけかも知れないが、もしやなりきりB・BOYの身に何かあったのではないか、とこれまたひどく気になってしょうがない。
posted by og5 at 18:19| Comment(0) | TrackBack(0) | TV・芸能人 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月07日

神様今年もよろしくね

雪解けが早かったわりに肌寒い日が多く、なかなかその気にならなかったけれど、やっと一昨日、今年になって初めての陶芸小屋仕事をした。
去年10月、本焼きするはずがずるずると何も出来ずそのまま冬を越してしまったかなりの数の素焼きの器が、しんとした小屋で僕を待っていた。
毎週土曜日のルーチン・ワークとなっている買い物を済ませたのがほぼ正午。軽い昼食をとってから、意を決して小屋にある素焼きの器のうち約3分の1程度を紙やすりで仕上げ、水を絞ったスポンジで汚れを落とす。高台に撥水剤を塗る。次いで、一冬越してまちまちにひねくれてしまっているバケツの中の釉薬を、一種類ずつふるいにかけて混ざり具合を調節する。
久し振りの施釉にはひどく手間取ったけれど、夕方までにはどうやら準備が整った。
映画を観る予定があったのと、家族揃ってラーメン屋に行くのとで中断したが、夜の8時には火及び電気の神様にお供えをして、二拝二拍手一拝した後、窯詰めを開始した。

およそ24時間後に窯出し。
火と電気の神様に祝福された器はほんの一部だけだったけれど、しかし、今年も始められたということがまずは嬉しい。

080406_1.jpg080406_2.jpg

※それにしてもひどい写真だなあ・・・。
posted by og5 at 22:42| Comment(3) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月06日

仕組みだけでは気持ちが悪い〜「うた魂(たま)♪」

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栗原 裕光 小路 幸也

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今日は朝からルミエール秋田に「うた魂(たま)♪」を(ひとりで)観に行った。
面白くないこともなかったが、合唱がテーマなのに主人公と合唱部の他メンバーとの関わりがあまりにも希薄。それに、主演の夏帆が「天然コケッコー」の時とは別人みたいに変に見える。いつもたいてい口をぽかっと開けて笑っていて、明らかにおかしい。これは多分演出がまずいのである。誰かに似ているなあと思いながら見ていたのだが、そうだ、「うた魂(たま)♪」の夏帆は宮崎美子みたいに見えるのだ(ついでに言うと、薬師丸ひろ子は三浦友和に似ていた。顔の色までそっくりだった)。

「面白くないこともなかった」と書いたが、それはこの映画にある仕組みのせいである。恋愛、クラブ活動、挫折、友情、そしてクライマックスの「大会」。だが、仕組みだけで面白いというのは実は気持ちが悪い。それは、この映画のラストで、合唱コンクール北海道予選会場全体がひとつになる感動的シーンの「何故」となって僕に突きつけられた踏み絵でもある。
歌に一番必要なのは「心」だ、とこの映画は言う。僕も「心」派ではあるのだけれど、意味もなく感動させられるのは非常に怖い。
「うた魂(たま)♪」は、ちょっと全体主義的で、人を馬鹿にしている。

※淡谷のり子はかつて、「今の歌手はテクニックがないから『歌に心を込める』などと言うのだ」と憮然として批判していた。感情をも表現し得るテクニックというものも、この世にはあるのだろう。
posted by og5 at 15:18| Comment(0) | TrackBack(1) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

最近思ったことなど

オリンピックがらみでよく言われることは、「スポーツに政治を持ち込むな」である。しかし、そこにはそもそも「政治」が含まれているのではないか。国威発揚、プロパガンダ、そして見せかけの友好。いや、どう考えてみても、含まれていないわけがないのである(何も今回に限ったことではない)。
オリンピックに出るということは、好むと好まざるとに関わらずスポーツ選手自らが「政治」の中に入って行くということに他ならないだろう。とすれば、誰一人としてイノセントのままでいられないのは当然である(それにしても、「五輪」と書いて誰もが「オリンピック」と訓読みする不思議)。

ゴルフの宮里藍選手がティー・ショットの際わざとへその出るウェアで人前に出るのはいわゆる流行のファッションというものなのであろうと思っていたのだが、どうやらそうではないらしい。というのも、デビュー以来もう随分たつのに彼女はずっと(今に至るまで)へそを出し続けているからである。そんなにも見せたいへそというものがこの世にあるのだろうか、と思う。
「へそ自慢」というちょっと間の抜けた言葉が頭に浮かぶ。

世間様は今「暫定税率廃止」で大盛り上がりである。しかし、月に一度しか給油しない僕にとって、それは理解の範疇を超えている。どうせすぐ元に戻るならたった1回こっきりのことだし、ずっと続くなら高い値段でガソリンを買うのもやはり今回限りなのだ。そんなことで、僕は悩みたくない。
もちろん、車あるいはガソリンそのもので生活を維持している人にとっては死活問題である。値下がりすることは絶対的善で、かつ自由競争は無条件で正しいことなのだという前提でしか話をしない人がいるが、その根拠はいったい何なのだろう、とも思う。

「東MAX」こと東貴博の父親・東八郎のことを、あるクイズ番組で「昭和を代表するコメディアン」と紹介していたのだが、それは違うと思った。トリオ・スカイラインは好きだったが、決して王道ではなかった。東八郎はあくまでも脇にいる人であり、だからこそよかったのだとも思う。
ある時代を代表しなければコメディアンは評価に値しないわけではないし、それに、誰かが代表するには、昭和はあまりにも長過ぎると思うのだが。

近頃は、いや近頃も、あまり大したことは考えていない。
posted by og5 at 13:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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