2008年05月30日

ウミネコ食堂

ベンガルの口みたいな形をしてウミネコが飛んでいる。その鳴き声は、まるで近所のおばさん達のおせっかいのようにやかましい。
いつも不思議に思っていたのだが、何故旭川の川べりにはウミネコがいるのだろう。川反通りを旭川で挟んだ東側の歩道を通るたび、僕はそう思い、またすぐに忘れてしまう。

土手長町通りから見る川反の裏側は結構面白い。川面に真っ直ぐつながって、店の後ろを丸出しにして無防備に佇んでいる。その有様には、川反通り側から見える表向きの顔とはまた別の、繁華街の生活感とでもいうべきしみじみとした懐かしさがあって、偉い人は誰も言わないが、僕は絶対に失ってはならない秋田のかけがえのない風景のひとつだと思っている。
石川某が、秋田を変えなくてはならないとか何とか言って、この愛すべき景観をも無き物にしようと勝手な理屈をほざいていたが、ちゃんちゃらおかしい。

僕には、カモメとウミネコの違いがずっと判らなかった。
実は、カモメは渡り鳥なのだそうだ。つまりカモメは冬季しか日本にはいないということで、調べてみたら、なるほど俳句でも「カモメ」は冬の季語なのであった。
一方、ウミネコはずっと「地元」にいる。「かもめ食堂」という映画があったけれど、もしその場所を愛し、ずっとそこで生活していきたいと思うのであれば、あの店も「ウミネコ食堂」と名付けられていたのだろうな、などといらないことを考える。

と、そんなこととは全く関係なく、今日もウミネコはミャアミャアとうるさく鳴いているわけだ。
「ウミネコ食堂」には癒しも出逢いもないけれど、間違いなく糞だけは落ちている。
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2008年05月29日

和菓子暦

時々、和菓子を買って帰る。
会社から家に帰る途中に「菓子舗榮太楼」があるのだ。
今日買ったのは麩まんじゅうとはすもち。食べ切れるかな、と思ったが、はすもちの方は明後日までもつとのことだったので「じゃあ3個ずつ」と言ったら、最後に残ったはすもちをもう一個おまけしてくれた。

京都には「おばんざい」というのがあって、毎月毎月この日には何を食べるということが決まっているのだそうだ。おそらくそれは、季節によってもまた折々変化して行くものなのであろう。
だから、いわゆる「惣菜」のことを意味しているというよりは、もっと「風習」に近いものなのではないか、などと考えていた。そして、僕は、そんな京の文化に密かに憧れていた。

だが、考えてみれば、僕達が日頃何気なく口にしている和菓子だって、「おばんざい」と同じように毎年毎年繰り返される、四季折々を感じさせてくれる風物のひとつなのではないか。
麩まんじゅう、はすもち。ちょっと前にはかしわ餅、よもぎ饅頭、そして花見だんごに桜餅。
もちろん、一年を通していつでも食べられる和菓子もあるけれど、「季節限定」もまたちゃんと存在するのである。

さて、初めて食べる麩まんじゅうは、大変に美味であった。青海苔の風味と、くにゅっとした食感が、これから梅雨を迎えようという今の季節にぴったりである。
和菓子暦なんてものがもしあるのであれば、是非とも一度観てみたいものだ、などと思った。
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2008年05月22日

撃たれなかった一発の弾丸〜「ミスト」

「ミスト」は、完璧な映画ではないかも知れないが、非常に面白い映画だった。
面白いと言っては語弊があるだろうか。何故ならば、そのラストはあまりにも強烈過ぎるから。いや、ラストだけではない。ほぼ全編息の詰まるようなギリギリの緊張感が持続する中で、それは突然やって来る。何て幕切れだろう。
だが、これを面白いと言わず何と言おう、と僕はまた思うのだ。

完璧と思えない要素のひとつに、特殊効果の違和感がある。「ミスト」のそれは、何でもありの今の常識からすると、ちょっと浮いた感じがする。最初は、もっと上手く処理出来なかったものか、とも思った。だが、最後にはそんなことはもうどうでもよくなってしまっていた。あれら特殊効果で描かれたモノ達は結局何でもよかったのだ、ということに気付かされたからである。
いっそ全てが「集団妄想」だったとしても物語が成立する。それが凄い。

僕は今、薬局で撃たれなかった一発の弾丸のことを考えている。あの一発の弾丸こそがこの映画の肝だとさえ思う。
「霧」の中の人々は、まるで木の葉のようだ。人間が人間であるために必要不可欠である「意思」も「意志」も、ここでは全く意味を持たない。彼等の選択はことごとく間違っていたとも言えるし、また別の道を選んでいたとしても結果は同じだったろうとも言えるのである。
だからこそ、僕は今あの一発の弾丸のことを考えている。あれこそが「意志」だ。

スティーブン・キングの原作は読んでいないが、映画は小説とはラストが違うのだという。このラストは、絶対に人々の間で語り継がれなければならない。
僕は呆気にとられ、しかしそれでもまだ身を硬くしたままで、目を瞠ってエンド・ロールを観ていた。その後ろに流れる効果音を、僕は僕自身ではない、もはやそこには映し出されてなどいない誰かとなって、ずっとずっと虚ろに聞いていた。
そして、一番最初にあのスーパーマーケットから出て行った女の顔を思い出し、再び身震いした。

※原作「霧」が収録されているスティーブン・キングの短編集。
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2008年05月21日

フォークと母の想い出

「フォークの背にご飯を載せて食べるなんて、日本人くらいなものです」
昔、永六輔が、日本人のスノッブなことを揶揄してこんなことを言っていた。
レストランでご飯を食べる時どうするのが正しいのか。
今では、フォークの背にご飯を乗せて食べるのがマナーだなどとは誰も言わなくなった。
そもそも正式なコースに「米の飯」が出ることなどないから、こと「ライス」に関しては正しいマナーなどないのだ、という説もあるくらいで、要するに、日本だけのローカルマナー、もしくは単なる勘違いだったということなのであろう。

ところで、実は、僕の母がまさしく「フォークの背にご飯を載せて食べる人」であった。
平成に入って数年後67歳で亡くなった母は、尋常小学校しか出ていない。僕が小学校の頃は、確かずっと小さな板金会社に勤めていたはずだが、そこで後から入って来た高校出の若い女子社員にアルファベットが読めないと馬鹿にされたこともあったらしい。
負けん気の強い母は独学でアルファベットを覚えた。これは「H」だ、これは「E」だ、と雑誌か何かの単語の一部を指差しながらその頃のことを武勇伝のように語る母を、僕は今でもよく憶えている。
そんな母が、デパートの食堂で、まだ小さかった僕にこう教えたことがある。
「レストランでご飯を食べる時はこうするんだ」・・・。
母は、フォークの背にご飯を載せ、そして得意げに口に運んだ。

これは恥ずべきことだろうか。あるいは無知だと言って揶揄されるようなことであろうか。
僕は、未だにあの永六輔の言葉を思い出すと腹が立ち、かつちょっと悲しい気分になってしまうのである。
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2008年05月17日

梶井基次郎「檸檬」について

梶井基次郎の「檸檬」を読んだ。
すると、20代の中頃に読んで全く心を動かされなかったこの僅か10ページばかりの掌編は、およそ25年経った今になって、まるでハンマーのように僕の頭を強く、かつ鮮烈に打ったのだった。
心ではなく頭だ。そして、それはハンマーだった。

若い僕が鈍感過ぎたのか、それとも今の僕が年取って何事かを理解したつもりになっているだけなのか、それは判らないが、当時特に注意を払わなかった丸善と「私」の内面、あるいは丸善の書棚に並ぶ画本と「私」の精神もしくは創作活動というものの対比、その隠喩を、僕は今回初めてしっかりと受け止めることが出来たような気がする。
おそらくは作者自身であろう「私」のかかえる「不吉な塊」と丸善を安易に結び付けることは誤りかも知れない。しかし、少なくとも「以前にはあんなに私をひきつけた画本」、それらをさんざん観た後で「以前には好んで味わっていた」「あまりに尋常な周囲を見廻すときのあの変にそぐわない気持」が、今では彼をただ疲労させ、憂鬱にさせるだけである、という部分には、明白な暗示があるだろう。

それは、あまりにも明白なことで、だから、何故かつてそのことに思い至らなかったのか、と僕は不思議でならなかった。そして、もしや、と思い、どちらかといえば硬質な印象を受ける梶井基次郎の文章を、また冒頭から繰り返し、声に出して読んでみた。
読みながら感動する。読みながら、清冽な水が身体の中に流れ込んで来るのを感じる。決して「声に出して読みたい日本語」的行為ではなく、声を出して「檸檬」を読むことには、「詩」を丸ごと根源的部分で受け止める力があった。いや、それ以前に、そもそも「檸檬」は一篇の確立された「詩」であった。
かつて僕が「檸檬」を正面から受け止められなかったのは、この作品を「詩」として一塊(ひとかたまり)に受け止める、という準備が、まだ自分自身の中に出来上がっていなかったからなのではないか・・・。
そう思った。

そして、
あるいはこの文庫本は、丸善に仕掛けられた時限爆弾のように、ゆっくりと版を重ねながら、本屋の片隅でこの時を待っていたのかも知れない。
などと考えてみた。

※画像がないのが残念である。装丁が一番好きな新潮文庫版。
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2008年05月16日

同化

時々、あることにハッと気付き自己嫌悪に陥ることがある。それは、同僚や上司の言い回しや口調を我知らず真似していることにふと気付いてしまった時のことで、誰もそんなことを(多分)気にしてなどいないのに、自分ひとりで、自分ひとりのこととしてとても恥ずかしい。

人は、なくて七癖、意外と色んな癖を持っているものである。動作もそうだが、やはり一番印象に残るのが口癖や独特の言い回しで、退屈な会議中などは結構な暇潰しになる。
「俺に言わせれば」って別に知りたくないよ、とか、「〜的な」ってのが多過ぎるんだよ、とか。

何でそんな言い回しをするのだ、という人を、僕は日頃結構小馬鹿にしている(スミマセン)。つまり、また意味もなく「逆に」って言った、とか、「何々といったトコロ」って言うのこれでもう10回目だ、とか心の中で突っ込みを入れているわけである。
だが、だからこそ、いざ自分がその影響を受けて、知らず知らず同じような口調で、同じような言い回しを用いて話をしてしまっていることに愕然とする。

自分は彼らの口調を笑っていたのではないのか。いや、少なくとも「おかしいよなあ」と感じていたのではないのか。では、何故正にその彼等と同じ口調で僕は今話をしているのか・・・。
「日和見」という嫌な言葉が脳裏をかすめる。「寄らば大樹の陰」ということわざも思い出される。
何のことはない、彼等の癖に違和感を覚えながら、実は僕は無意識の内に彼等と同化しようとしていたのである。
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2008年05月09日

回転吉兆(案)

高級料亭「船場吉兆」がまたまた大変なことになっている。
牛肉の産地偽装や消費・賞味期限切れ食材の販売などに続き、今度は客の残した天ぷらや刺身を再利用して別の客に提供していたというこれまたとんでもない事実が発覚してしまったのである。
「ささやき女将」あるいは時にはまた「希代の腹話術師」とも称された新社長・湯木佐知子の「食べ残しではなく手付かずの料理と呼んで欲しい」という「名言」も、しょうもない騒動に更に拍車をかけている。

僕はこのニュースを聞いて二つのことを考えた。
ひとつは、「高級料亭」というところではそんなにも食べ物が粗末に扱われていたのか、ということ(主に客の問題)。もうひとつは、高級料亭といってもそれ程プライドを持って仕事をしているわけではなかったのだな、ということである(こちらは板前の問題)。
そして、僕はあるアイディアを思いついた。

回転寿司が好きではない(理由はブロイラーの鶏になったような気がするから)。しかし、食材の有効活用、「食べ残しではなく手付かずの料理」という建前を正当化しつつコスト・パフォーマンスを維持するには、おそらくこの手法が最適である。
考えてみて欲しい。回転寿司の寿司は正しく「手付かずの食べ残し」ではないのか。ナマモノが多種多様な客でごった返す店内でむき出しのまま長時間空気に晒されているわけである。握られてすぐ客の胃袋に入る場合もあるだろうが、そうでないものの方が(多分)ずっと多い。中には、開店以来ずっと回転しっぱなしのネタだってあるかも知れない。でも、人は気にしない。それは、そこが回転寿司だからだ。それが回転寿司の常識だからだ。ならば、高級料亭もその方式を取り入れればいい。

各お座敷にまずレールを敷こう。そしてそこに、その日のお品書きに従った料理を載せた汽車を走らせるのだ。各お座敷では、客が、隣の部屋を通過して来た料理のうち、自分達の食べたい皿だけをピックアップする。中には取り寄せたのに食べないという馬鹿もいるだろうが、求めてもいないのに目の前に次から次へと豪華な料理が(自分専用として)運ばれて来るよりははるかに無駄がない。
一方板前は、ぐるぐる回るコンテナに残った料理をチェックしながら補充を繰り返す。商談が上手くまとまらず食が進まない客ばかりの日は、コンテナの料理自体が減らないのだから補充もないわけで、つまり最終的な無駄は(純然たる客の食べ残しを別にすれば)コンテナ一周分の料理だけということになるわけである。
ああ、地球に優しい。

もちろん、料理のお代は器の種類毎に決まっていて、例えば魯山人なら皿1枚あたり1万円である。
ラベル:船場吉兆
posted by og5 at 22:43| Comment(2) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月08日

アンバランスな救急車が来るよ〜鳥居みゆきの怖さ

鳥居みゆき ハッピーマンデー鳥居みゆき ハッピーマンデー
鳥居みゆき

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鳥居みゆきをテレビで観るのは怖い。だが、それは、突然何かまずいことを言い出すのではないか、というような怖さではない。鳥居みゆきの存在そのもの、鳥居みゆきがテレビに映っているというそのこと自体が怖いのだ。
テレビで観る鳥居みゆきは不穏である。思わず目を逸らしたくなる。だが、その時、僕の中には、同時に、鳥居みゆきをしっかりと観ていたい、という相反する気持ちも確かに存在している。

鳥居みゆきが演じているのは明らかに「狂女」である。
「狂女」に魅力を感じるのは異常なことか。
しかし、ある番組にて、何も書かれていない真っ白な画用紙で繰り広げられる彼女の紙芝居を観た時に、僕は本当に驚いたのだ。いや、「マサコ」にも充分驚いてはいたのだが、それはまだ「不気味」で済ませられる範疇のものであった。だが、あの紙芝居には、何というのか、目の前が急に明るくなるような、強烈なワクワク感があったのである。

鳥居みゆきが、興奮のため我を忘れてあらぬ事を口走ったり、サービス精神の高揚に突き動かされて何事かを仕出かしてしまう、などということはおそらくない。そういう意味では彼女はとても安定しているのだが、しかし、アンバランスに安定した彼女の存在そのものが僕の「日常」を強く揺さぶり不安定にする。
そして、「こんなものをテレビに映すべきではない」という矛盾した気持ちを同時に抱えながらも、その不安定を、僕は今どうやら、いわゆる「お笑い」ではない魅力的なものとしてとらえ始めているらしいのだ。

アンバランスな救急車が来るよ
「ピーポーピーポー」と
人々に警告を発しながら

※「お笑い芸人歌のうまい王座決定戦」で中島みゆきの「銀の龍の背に乗って」を歌う鳥居みゆきは、非常にエモーショナルであった。僕は、あれを実にパンク的なパフォーマンスだと思った。
ラベル:鳥居みゆき
posted by og5 at 18:59| Comment(11) | TrackBack(0) | TV・芸能人 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月07日

dadada

君のサイクルと
僕のサイクルは
微妙にずれながら
転がって行く

爪をたててよdadada
フンと言ってよdadada

生きるマニュアルも
死者のバイブルも
君には意味がない
文字は空しい

いつかまた
会えるかな
何処かで
会えるかな
それはただの
軌道のいたずら
だけど

爪をたててよdadada
フンと言ってよdadada

君のサイクルと
僕のサイクルは
微妙にずれながら
転がって行く
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2008年05月03日

虫の命

暑い日、わざわざアスファルトの上に這い出しているミミズを見かけることがある。しかし、ミミズにとって地上は決してオアシスではない。この不合理な行動の真の理由など僕には判らないが、とにかく、時々ミミズは哀れ干からびて死に至る運命に自ら身を投げ出すのであった。
昨日の朝も、タイル張りの玄関先に、まだまだ元気なミミズが一匹のたくっていた。僕は、それをどうこうしようとも特段思わず、そのまま車に乗って午前の用を足しに行った。
昼近くなって帰宅すると、ミミズは既に一本の黒い棒と化していた。随分縮んでいた。

ミミズが死んだ家の玄関先には、陶芸用にとしつらえた水栓がある。僕はそこで陶芸用品やバケツ、そしてタオルなどをかなり頻繁に洗うわけだが、その水を受ける鉢の部分に、ちょくちょく様々な虫が紛れ込んで来る。
ダンゴムシ、ヤスデ、ハサミムシ。一度など孵化前のセミの幼虫までいたことがある(水を飲みに集まって来るのであろうか)。
そんな虫を見つけた時、僕は何とかそいつ等を外に出してやろうとする。すぐ外は愛しの地面だ。黒く腐った葉っぱをいっぱい含んだ湿った土があるのだ。
虫はそんなこととは露知らず、僕の指先を、あるいは木の枝先を逃れようと必死になる。馬鹿なもので、どんどんどんどん悪い方へ、例えば排水口の方へと向かって行く。
だから、どうにかして鉢の外に虫を逃してやった時には、僕は少々ホッとするのである。

今朝も、鉢に紛れ込んだ1センチくらいの赤いアリを地面に返してやった。
そしてその時、「今助けたアリと昨日のミミズにいったい何の違いがあるだろう。何故僕は一方を見捨て、一方を救おうと考えたのか」と、ふと思った。
僕には、地獄に堕ちた時、仏様に優遇してもらおうなんて考えはこれっぽっちもないのだけれど。
posted by og5 at 11:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月02日

二次検診の待合にて「乳と卵」を読む

乳と卵乳と卵
川上 未映子

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川上未映子の「乳と卵」を面白いと言っていいものかどうか、正直なところ少々悩んだ。というのも、この芥川賞受賞作は、かなりあけすけに女性のあれやこれやに触れていると思われるからである。だから、男の僕が、とついつい気弱になってしまうのだ。こんなのフィクションよ、と誰か物の判った女性にひと言言って貰えれば随分気も軽くなるのだろうが、今のところそんな人は(実生活においても書籍やインターネット上においても)現れていない。
要するに、僕は「乳と卵」を非常に面白いと思ったのである。

初めは読み辛かった。独特な言葉のリズムについて行けなかった。ちょっと読んで、何だか樋口一葉に似ているな、と思ったが、僕にとっては何故か明治時代の「にごりえ」の方がまだとっつき易かった。センテンスは読点でこちらからあちらへと一見とりとめもなく連続するが、「にごりえ」ほどに長くはない。時々混ざる大阪弁とやや唐突に現れる「あります」などという殺人犯の手記のような言い回しがいい按配にアクセントとなる(少し、町田康のことも連想した)。
そして、「乳と卵」の読み辛さは、ちょっと慣れると、逆に大きな魅力となって僕をぐいと掴んでしまった。

東京の「わたし」のアパートに、大阪に住んでいる姉と姪がやって来て、また帰って行くまでの僅か二日間の出来事。ガリガリに痩せてしまった姉は豊胸手術に偏執している。姪はひと言も言葉を発せず、人とのコミュニケーションは全てノートによる筆談でとり行う。
姪の日記もどきの文章と「わたし」の一人称語りが(不定期ながら交互に現れては)思いがけず合理的に物語を運んで行く。僕はその姪・緑子の「日記」に、ものすごく心を動かされた。
「乳と卵」は、ややグロテスクではあるが、可笑しみのある幸福な小説であった。

読む楽しみが半減するからと後回しにしておいた「選評」を読むと、池澤夏樹が「樋口一葉へのオマージュが隠してあるあたりもおもしろい」と書いていた。なるほど、と思う。
一センテンスが長い文章。「女のこと」が主題であること。そういえば樋口一葉の「たけくらべ」の主人公の名は「美登利」であった。姪の名「緑子」と、これはやはり無縁ではないだろう。
そして、もうひとつ、「わたし」から手渡された五千円札のスカシ(もちろん、樋口一葉)に関する緑子の感想は、その夜の出来事をさり気なく暗示していた。自らの「内と外」の考察につながる「ロボコン」の思い出と共に、僕の最も好きなエピソードのひとつである。

※ちなみに、僕が読んだのは「文藝春秋3月号」に掲載されたものです。
posted by og5 at 15:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 本・雑誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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