2008年06月30日

全国合唱コンクール秋田予選課題曲

ギバサをください
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風の音も、波の音も

日曜日、「JUNO/ジュノ」を観た後で土崎に向かった。「ファンタスティック! チェコアニメ映画祭」を観るためである。
ちょうどお昼だったので、秋田ベイパラダイスの近くにある「ラーメン海王」で妻は広東メン、僕は台湾ラーメンを食べてから、「美味しかったね〜」などとすっかり満足してセリオン駐車場に着いたのだが、そこで一気に気分が落ち込んでしまった。
というのも、セリオンの駐車場に隣接して(というかその敷地内で)営業している中古車販売用のスピーカーがあまりにやかましかったからである。周囲の環境などお構いなしにがんがん流される「音楽」には怒りさえ覚えた。

土崎港。汐の香り。岸壁では釣りを楽しむ人も多い。
しかし、そこには風の音も、波の音もなかった。うるさ過ぎて、自然の音なんか何も聞こえないのである。
そもそも、中古車を売るのに、何故あんな騒音が必要なのか、僕には理解出来ない。
どうして、管理責任者はあれを野放しにしておくのか。
いいと思っているのか。
多分いいと思っているのだろうな、と思うとうんざりするが、「田舎臭い」とは正にこういうことである。
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2008年06月29日

「妊娠」をめぐる2本の映画

はからずも二日連続で「妊娠」をテーマとした、あるいは誰かが「妊娠」することによって生まれるドラマを描いた映画を観た。
「4ヶ月、3週と2日」と「JUNO/ジュノ」である。

432_img01.jpg「4ヶ月、3週と2日」は、とにかく長い映画だった。上映時間のことではない。また、退屈で長く感じられた、というのでもない。
昔、ダニエル・シュミット監督の「ラ・パロマ」という映画を観た時、途中でかなりぐっすりと眠り込んでしまったにも関わらず、ハッと気付いた時、眠る前と全く同じように、登場人物のひとりがまるで悪夢のように悠然と階段を降りるシーンを(まだ)やっていてひどく驚いたことがあるが、ちょうどあんな感じだ。
いや、その作法は全く異なるのだが、監督の時間に対する感覚がとても独特だという点が、僕の中で両者を結びつけるのである。

物語は、本当は単純である。主人公オティリアがルームメイトの堕胎に引きずり回され、その結果恋人と自分の決定的な違い、自分を取り巻く世界のグロテスクさに気付く・・・。
あえて「本当は」と書いたのは、僕にはこれをチャウシェスク政権と関連付けるという気が更々ないからで、だってそれは映画の中では何ひとつ具体的には述べられていないからである。
このシンプルな話を、クリスティアン・ムンジウ監督がユニークかつストイックな手法でえぐるように描く。そう、えぐるように。オティリアの心理を。そして、夜を。
堕胎医のベベも強烈だが、何といってもルームメイトのガビツァがすごい。「パーティ用のメニュー」を注文する彼女は、だらしなく鈍感で身勝手で、だがとてつもなく強い(と僕は思う)。
観終わった直後はむしろ嫌いだったのだが、時間が経つほどにシーンのひとつひとつが生々しく甦って来る。予告編で観た「新しいヒロインの誕生!」という賛辞には同意しかねるけれど、安易な政治的テーマではない映画的何かを表現する力を持った素晴らしい作品であることはまぎれもない。

「JUNO/ジュノ」もとても良かった。「4ヶ月、3週と2日」とは、全く意味が異なるけれど。
観終わった後でとっても幸せな気持ちになった。いや、冒頭から僕はもうすっかり幸せな気分に包まれていた。ジェイソン・ライトマン監督は「サンキュー・スモーキング」でも音楽の使い方が素晴らしかったが、本作でもそれはちゃんと(いや、更にグレードアップして)継承されている。
ジュノもボーイフレンドも両親もみんな最高だよ。
とにかく、僕は実に久し振りに映画を観て泣いたのであった。
大好きな映画です。

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2008年06月22日

つぐなえないことを描く〜「つぐない」

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映画「つぐない」の原題は「atonement」である。これを英和辞典で引くと「償い;(キリスト教の)贖罪」と出て来るから、何となくそのまんまズバリの邦題であるような気もするのだが、あのキーラ・ナイトレイを前面に押し出したポスター、平仮名表記された文字から受けるイメージが、実際に映画を観て丸一日経った今思っている自分自身の印象と全く相容れないのもまた事実なのである。
更に「贖罪」をgooの国語辞典で調べれば、「(1)金品を出したり、善行を積んだりして、犯した罪をつぐなうこと。また、刑罰を免れること。(2)キリスト教で、人々の罪をあがない、人類を救うために、イエス-キリストが十字架にかかったとする教義。和解。」とある。
そこで僕は考える。映画「つぐない」はそのような映画ではないだろう、と。「つぐない」は、むしろ償っても償い切れないこと、償い切れないことそのものを描いた映画であるだろう、と思うのである。
償うことを描くのか、償おうとする人を描くのか、あるいはどのようにしても償えないことを描くのか。目に見えることは、もしかしたら同じかも知れない。しかし、その「意味」はあまりにも違う。

ブライオニーの、本来は美徳であるはずの潔癖さと幼いジェラシーが痛々しい。物語の後半に突然挿入される彼女とロビーの水辺のシーンは、そしてそこでブライオニーからロビーに告げられる「あなたは命の恩人です」というひと言は、もう決してやり直すことの出来ない決定的な過ちを、改めて観る者に意識させずにはおかない。
また、18歳のブライオニーが訪れたセシーリアとロビーのアパート。そこで彼女に求められる「何故」はあまりにも辛い。
おそらく初めて恋心を抱いた人と、美しい姉と、その両者に対して一時に背負わなければならなくなってしまった罪を、ブライオニーは一生かかえて生きるのだ。彼女はどうにかしてその罪を償おうとする。しかし、それは決して償い切れるものではない。
金品を出したり、善行を積んだりしても、その罪は消えない。刑罰は最初から彼女の身に降りかかってはいない。そして、それこそが彼女への罰というもので、「和解」は決して訪れないのだ。

「第二章」とでも言うべき第二次世界大戦のシーンが僕は好きである。やっとの想いで辿り着いたダンケルクの海岸で、僕の目はロビーの目になる。
ああ、そう言えば同じように、僕の目はブライオニーの目となってロビーとセシーリアを追いかけていたのではなかったか。
タイプライターの音、自在に操られる時と意識。
「つぐない」という「意味」以上に、実はこの映画には映画的魅力が溢れている。
ラベル:つぐない
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2008年06月19日

アリンコ大行進

風呂場のタイルの隙間から、大量のアリが這い出して来た。
羽のついたやつもいるが、シロアリではない。
アリは、同じ場所から過去何年間も連続で大量発生していた。そして、それは梅雨時の我が家の風物詩にもなっていたのだが、ある年に、これではいかん、穴から湿気がどんどん入り込んで家の基礎が駄目になってしまう、と決心し、その通路をタイル用ボンドで塞いだのである。
しばらくは大丈夫だった。が、またも彼奴等は蟻酸を駆使しトンネルを貫通させてしまったらしい。
まるで「大脱走」のチャールズ・ブロンソンである。

アリは偉いなあ、と思う。妻ともそんな話をした。
働き者でお人よし。イソップだって大のお気に入りだ。
そんな偉いアリが、応急措置として僕が花王のダヴを使って逃げ道を塞いでしまったせいで、タイルの目地を、あるいはバスタブの縁を右往左往し、ある者はパニックを起こし湯船に飛び込み、またある者はダヴまみれになって悶絶せんとしている。
心が痛む。が、穴をこのままにしておくわけにもいかない。そもそも、何故アリはわざわざ生存の可能性のありもしない他人の家の風呂場になどやって来るのか。元の地面から横に抜けて庭の方にでも行けば、いくらでも新世界が広がっているというのに、何故わざわざ苦難の道を選ぶのか・・・。

アリは馬鹿である。偉いけど馬鹿だ。
アリの巣コロリなどを使ってジェノサイドをするつもりは毛頭ないが、どうか独自に生きてね、と心からお願いしたい。

大脱走大脱走
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サーカスが来る

昔はテレビで定期的にサーカスを放映していた。海外の、今となっては何処のものとも知れないサーカスのダイジェストを、確か毎週流していたはずである。時間は30分間で、日本語のナレーションが入る。有名な声優だったのかも知れないが、名前は記憶していない。
こんなことを思い出したのは、毎朝のように立ち寄るコンビニエンス・ストアで、「キグレNEWサーカス秋田公演」のポスターを見たからである。華やかなライトを浴びて犬の火の輪くぐりを演じる少女を、二人のピエロが舞台袖から覗いている。その内のひとりが理由はよく判らないのだが何だか驚いたような顔をしていて、見た後でちょっと不思議な感覚に陥る、なかなかにユニークなポスターである。

小学生の頃、キグレサーカスの公演を観に行ったことがある。当時はまだ「NEW」がついていなかった。「大」サーカスだったような気もするのだが、定かではない。
一番印象に残っているのは、木製と思しき骨組みだけの巨大な球体の内部をバイクに乗ってグルグルと回転する演目で、テレビの中の外国のサーカスでもそんなものは未だ観たことがなかったので大いに興奮した。
一方、仰向けに引っくり返って足の上で色んなものを操るいわゆる「足芸」には正直がっかりした。芸が未熟だったのではない。演者がお相撲さんみたいな体型をした中年女性で、しかも操るものが俵だったか畳だったか、いずれあまりパッとしない和物だったからである。
何しろ、外国の女性は全て美人だと思っていた頃の話である。日本的な「情緒」に対するコンプレックスもまたあったのだろう。子供の瞳が澄んでいるなんて単なる嘘っぱちに過ぎない。

さて、シルク・ドゥ・ソレイユが日常的に各メディアで語られる今日、日本のサーカスに人々は何を求めるのか。僕は、それは案外かつて僕がコンプレックスを抱いていた日本的「情緒」かも知れないと思っている。
僕の瞳は子供の頃とはまた違った意味で曇っているが、少なくとも曇っていることを理解しているから、もしかしたらあの頃よりもよっぽどありのままに何事かを受け止めることが出来るかも知れない。
そういえば亡くなった母はどういうわけかサーカスとマジックが大嫌いだったなあ、などと考えながら、僕は今雨の音を聴いています。

「キグレNEWサーカス秋田公演」
7月19日(土)〜9月15日(月・祝)
旧空港跡地特設会場にて
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2008年06月16日

梅雨

梅雨は、世間では何となく分が悪い
じめじめしている、カビが生える、鬱陶しい。
でも、僕は梅雨が好きだ。
中川信夫の「東海道四谷怪談」で、天知茂(伊右衛門)が縁側に佇むシーンがあった。雨が降っていた。映画の設定が実際どうだったかは曖昧なのだが、僕の中ではあれが日本の梅雨である。

だいたい僕は湿気が好きなのだ。
部屋の中でぐだぐだしていると、自分がまるで湿度そのものになったような気がして来てひどく安心する。宇宙飛行士は大気圏外のロケットの中で地球は青かったなどと言いながら自分がひとつの原子であったと初めて思い知り人生観を一変させると何かで読んだが、雨の音を聴きながら、思い知る前に既にもう僕はその一部である。

日曜日の朝に、雨の音でぼんやりと目覚めることほど幸せなことはない。
月曜日の雨は憂鬱だが、その憂鬱も実はいとおしい。
青い梅がスーパーの売り場に出るようになって、僕は毎年自分の誕生日が近いことを知る。
妻は今年も梅のジャムを作るだろうかなどと考えながら、僕は既にまたひとつ年を取ってしまったのに、今年の梅雨はなかなか来ない。
posted by og5 at 22:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年06月15日

「心意気映画」の良作〜「ハンティング・パーティ」

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「ハンティング・パーティ」のアプローチの仕方をとても好ましいと思った。
例えば、あれをシリアスにシリアスに、まるでドキュメンタリーのように作り上げることもひとつの選択肢だっただろう。また、いっそ社会情勢を単なる枠組みとして利用して、ひたすら娯楽性のみを追及することも可能であったはずだ。
しかし、「ハンティング・パーティ」はそのどちらでもない更に別の道を選んだ。その心意気は、クラッシュの「アイ・フォート・ザ・ロウ」をエンディング曲のひとつとしてチョイスしたことに端的に顕れている。公式HPの具合が何だかよくなくて確かめることも出来ないが、クラッシュではない誰かの歌うこの曲の大意を書き出せば、要するに「僕は法と戦い、そして敗れた」ということで、その心は、「LONDON CALLING/ザ・ライフ・オブ・ジョー・ストラマー」の感想にも書いたけれども、「人は負けるようには作られていない。人は殺されるかも知れない、けれど負けはしない」というヘミングウェイの言葉に集約される。
実際に命を賭してサラエボに取材した4名のジャーナリスト達が、リチャード・ギア演じるサイモンの盟友として出演しているのも、そういう意図を快く理解したからなのだろうと推察する。
彼等は、決して「勝つこと」のみにこだわっているのではない。

内容的には全然関係ないのだが、僕はついつい「相棒」のことを思い出す。水谷豊主演、和泉聖治監督の大ヒット作。全体的には悪くなかったこの映画のことを、僕はその政治的無神経さ故にどうしても好きになれなかった。
マスコミに踊らされて「善意の人」を責め立てる大衆を「相棒」は批判しているが、絶妙に焦点をずらして事実と虚構を混同するように観客を誘導し、正当に「自己責任」を求めることそれ自体をさも悪しきこと、謂れのないバッシングであるかのように印象付ける「相棒」の根底に流れる「主張」こそ、僕にとっては恐ろしい「権力」である。その「正義」が、日本映画にしては珍しいほどきちんとエンタテインメントであったこの作品を、根底から楽しめないものに貶めてしまっているのだ。
それに比して、「ハンティング・パーティ」の何と奥ゆかしいことか。
それは、彼等が決して大衆を導こうなどとしていないからだ。俺達はこのように行動するのだ、とそう言っているに過ぎない。負けるかもしれないけれど、いや、多分負けてしまうに違いないけれども自分達はこうするのだ、という宣言。
「ハンティング・パーティ」は、このように理解しなければおそらく「駄目」な映画だろう。
まあ、「駄目」でもいいのだ。それでも、全く構わない。
僕は、愛情を込めて「ハンティング・パーティ」を「心意気映画」の良作と呼ぼう。

※FORUS秋田8階シネマパレにて、6月20日(金)まで上映。
(1)13:30〜 (2)16:00〜 (3)19:00〜
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世界のナベアツは何故面白いか

世界のナベアツが好きである。というか、例の「3の倍数〜」が大好きだ。

ところが、彼を全く面白いと思わない人達も世間には結構多く存在していて、僕はそういう人達の彼に対するかなり辛辣な批評を、インターネットの掲示板やブログで頻繁に目にしている。
彼等の意見の中で最も多いのが、多分「意味がない」である。わざわざ「多分」と書くのは、もちろん僕がそれら批評を全て見ているわけではないことと、実際に読んだものについてもあくまでも僕の受け取り方によるバイアスがかかっている可能性があるからであるが、概ね間違ってはいないだろうと思う。
そして、確かに世界のナベアツには意味がないのだ。

世界のナベアツには意味がない。だが、僕が彼のネタを大好きだと思うのも、正にその同じ理由による。「3の倍数と3がつく数字だけアホになる」ことの何と潔く無意味であることか。「馬鹿」ではなく「アホ」なのもいい。
そして、このネタ最大の醍醐味が「30」以降のアホ連発にあるのは言うまでもない。当初、やがてやって来る「30」台に気付かず、ただ時々のアホに笑い、ネタの推移を見守っていた僕は、「29」あたりでそのことに思い至り、思いっきり感動したのである。
実はここには数字による壮大な物語がある。数字とアホのコラボレーションである。

意味とは何か。日常との結び付きか。情緒か。「そんなことってあるよねぇ」的「意味」の氾濫に食傷気味の僕は、世界のナベアツの「無意味さ」にむしろ清清しさすら覚える。
だから「5の倍数」や「8の倍数」を追加した進化バージョンよりも、オリジナルのシンプルな「無意味」が一番好きなのである。
また、彼を真似てアホになっている人をたまに見かけるが、これは部分だけやっても駄目なのであり、最も重要な「物語」の欠如した「オモロ」は、当然ながらちっともオモロくないのであった。

※それにしても少々悪乗りし過ぎ。
       ↓
世界のナベアツ写真集『3の倍数と3がつくページだけアホになります』世界のナベアツ写真集『3の倍数と3がつくページだけアホになります』
世界のナベアツ

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なんだかきたないにおいがする

北島康介選手が、この度の競泳水着問題に関連して「鬱陶しい」「泳ぐのは僕だ」「I AM THE SWIMMER」などと発言しているのを見聞きし、さすがだ、実力者は違う、と思っていたのだが、SPEED社のLRなんて僕には必要ない、って意味ではなかったのね。北島選手、北京五輪壮行会を兼ねた競泳のジャパン・オープン200メートル平泳ぎで、LRを着用してちゃっかり世界新記録を出しているではないか。
いや、勝負の世界なのだから(多分)それでいいのだ。勝つための手段はひとつでも多い方がいいに(おそらく)決まっている。

水木しげる先生の名作「河童の三平」において、泳げもしないのに水泳大会の選手に選ばれてしまった河原三平は、何と「肛門から出るガスの噴射」(その推進力)によって勝利を手中に収めるべくイモを食べて訓練に励む。勝利のためならと「へこき虫の精」だって飲む。「へこき虫の精」が人間には効果がないと判ると、薬を飲んだ小人が三平のお尻にしがみつき、自らが強烈なガスを噴射することによって三平をトビウオのごとく空中飛翔させるのだが、やがてエンジンのかかって来た三平自身の肛門とともにニ連発の威力を発揮して見事優勝を果たすのである(観客からは「なんだかきたないにおいがする」というもっともな感想も漏れる)。とにかく、県大会を勝ち抜いた三平は、県の代表としてとうとう国体に出場することになってしまう。今度も魔女花子の差し入れた秘密兵器「ロケットイモ」の威力で圧倒的強さで第1位となるものの、審判団から、三平の空中泳法は「飛び込みだ」と判定され、当たり前と言えば当たり前なのだが、あっさりと失格となってしまうのである。
水木先生は、安易には主人公を「勝ち組」にはしない。

さて、果たして、ウェアや用具のハイテク競争に、そんな奥ゆかしい美学があるであろうか。
僕は、北島選手に対してもスポンサーであるミズノに対しても、何ひとつ批判めいた気持ちを持っている者ではないけれど、スポーツ(オリンピック)というものについて、ひとりの素人としてただ素朴な疑問を感じているだけなのである。
かつて、古代オリンピックは全裸で行われていたという。全裸でもいい、ということ自体に既に選民意識というか、男尊女卑というか、そういうかなり現代では受け入れられ難い思想が絡んでいるらしいのだが、少なくとも競技者間における公平性は担保されていたのだろうと想像出来る。
人類は今、「全裸オリンピック」を復活させるべきなのかも知れない。
まあ、無理だとは思いますけどね。

※水木先生の奥様の初エッセイです。今回のテーマには無関係ですが、あまりにも素敵なタイトルなので、是非紹介したくて載せてしまいました。
          ↓
ゲゲゲの女房ゲゲゲの女房
武良布枝

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2008年06月14日

「異常だ」と言おう

あれは確か日航ジャンボ機墜落事故の時のことだった。
空港ロビーからの実況。緊迫した空気が張り詰める中、被害状況を読み上げるレポーターの後ろで、ずっと小学校高学年くらいの子供がピースサインを出し続けていた。注意する者は誰もいない。場所が場所だけに親も一緒にいただろうに、彼はついに最後まで「野放し」のままだった。
「誰かが注意してやりゃあいいだろうに」というのは、やはり偶然それを見ていたらしいビートたけしのコメントである。
実は、今回の秋葉原の無差別殺傷事件をニュースで見ていて、僕はこの時のことを思い出した。この時の「嫌な感じ」とでも言うべきか。事件はもちろん恐ろしく、犯人のこと、被害者のことを思い暗澹たる気持ちになるのだが、それよりももっと異様に感じられたのは、事件をきっかけに垣間見えてしまった、人々の(あえて言えば)病んだ無意識なのであった。

まずは、犯人の両親の自宅前で行われた謝罪会見である。
どういう正義のためなのかは不明であるが、憔悴し切っているであろう両親に、厳しく、そしてしつこく、決して答えようのない質問を、おそらくそうと知りながらぶつける記者達。被害者にではなく、報道陣に頭を下げ続ける両親。そして、突然、崩れるように倒れ込む母親。激しくたかれるフラッシュ。その間、誰ひとりとして倒れた彼女を助け起こそうとする者はいない。夫の手すら(それはもしかしたら「通り魔の父親」としての立場のせいであったのかも知れないが)、ついに彼女に差し伸べられることはなかった。先に家に入ってしまった夫を追って、やっとのことで、這うようにして玄関に逃れてゆく母親。そして、また激しくたかれるフラッシュ。
あるいは、事件直後の秋葉原の光景である。
あそこで、いったい何人の人間が携帯カメラで写真を撮っていたことだろう。しかし、彼等はいったい何のために写真を撮るのか。それを何に使うのか。誰に見せるのか。信じられないことに、そこには、かわるがわる記念写真を撮り合うメイド服姿の少女達さえいたのである。
そして、ここでも20年以上前の日航ジャンボ機墜落事故の時と同じようにピースサイン。

人間の多様性を認め合うということは、もちろん大切なことである。たとえそこに、あなたとは関わり合いになりたくはない、という選択肢を含んでいるのだとしても。そして、何を以って「正常」と見做すのか、という問いにもまた(おそらく)答えはない。
だが、せめて僕は、これを「異常だ」と言葉に出して言おうと思う。その異常性を確かめ合おうと思う。妻と、家族と、友人と、会社の同僚と、あるいは自分自身と。
そうしないと、あのフラッシュとピースサインを認めたことになるような、そんな気がするからである。
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2008年06月08日

先週読んだ2冊の文庫本について

最近あんまり小説を読んでいなかったが、先週仙台出張があったお陰で、長らく買ったまま埃をかぶっていた2冊の文庫本を読み終えることが出来た。
往復の新幹線の中で読んだのが森見登美彦の「太陽の塔」。そして、その勢いを借りて土曜の病院の待合室で一気に読んだのが長嶋有の「猛スピードで母は」である。

「太陽の塔」が新潮社より刊行されたのが2003年12月。僕が妻と一緒に初めて大阪まで太陽の塔を観に行く4年前のことである。作中、「私」の恋人だった水尾さんが、やはり初めて太陽の塔を見るシーンが生々しく描写されているが、まるで自分達の興奮を再現フィルムで見せられているようにドキドキした。
とはいえ、太陽の塔が常に物語において中心的に語られるというわけではない。むしろ、その割合は意外なくらい小さい。「私」が子供の頃に自分の庭のように万博公園あたりを遊び場にしていたこと、水尾さんを何回目かのデートでそこに案内した時のこと、そして最後、太陽の塔を見上げる(幻想とも想い出ともつかない)鮮やかな水尾さんの姿、それを追いかける「私」・・・。
やや散漫でもある物語は、舞台が京都であることも相俟って、度々僕に「ホルモー」の出現を予感させた。もちろん、それはあり得ない混同であって、僕はすぐに清らかな失恋の物語に引き戻される。
そうだ、これは清らかな恋の物語であった。きれいなきれいな純愛の物語であり、また友情の物語であった。

「猛スピードで母は」には、二編の中篇が収められている。表題作と「サイドカーに犬」である。
どちらも子供が主人公で、世間一般的な尺度においてあまり恵まれているとは言い難い環境に生活することを余儀なくされている。だが、「猛スピードで母は」の慎も、「サイドカーに犬」の薫も、決して絶望はしていない。慎と薫の間にはナイーブさにおける相当な隔たりがあるが、根源的な生きる力において彼等にはともに「傷」がないのである。それは、そもそもこの二編の小説自体が強い生命力に支えられているということともつながり合い、読後には実に静かな感銘を与えられる。
一般的な人生における出来事という意味で実に地味なテーマについて語ることしかない「猛スピードで母は」及び「サイドカーに犬」は、派手なエンタテインメント性も感情的なモラルの押し付けを隠し持った劇的クライマックスも一切持たないが、だからこそ潔く実直に心に迫って来る。

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多分みんな興奮し過ぎ〜「アイム・ノット・ゼア」

アイム・ノット・ゼアアイム・ノット・ゼア
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トッド・ヘインズ監督作品「アイム・ノット・ゼア」にがっかりした。
実は、この映画にはかなり期待していたのである。予告編もカッコよかったし、何よりケイト・ブランシェットのディラン振りを観るのがすごく楽しみだった(実際はディランではなく、「ジュード・クイン」というディランに似せた架空のパーソナリティを更にケイト・ブランシェットが演じるという重層的仕組みになっている。因みに、ケイト・ブランシェットはアル・パッチーノ主演の「ベニスの商人」でも男装して法博士になりすますポーシャという役柄を演じるはずだったが、妊娠のためそれをリン・コリンズに譲ったとのこと。ここも何だかすごく重層的)。

さて、僕は何故「アイム・ノット・ゼア」に失望したのか。それは、この映画に、トッド・ヘインズ監督が冒頭記している「ボブ・ディランの多様な人生と音楽にインスパイアされて」織り成されたはずの真摯な何物かを何一つ感じ取ることが出来なかったからである。
もちろん、僕の感性が鈍いと言われればそれまでのことだ。だが、ニューズ・ウィーク誌が「ボブ・ディランの素晴らしい全キャリアに匹敵する傑作」とまで高く評価する作品に、観る者が「ノー・ディレクション・ホーム」以上の何物かを求めるのは当然のことであろう。
第三者の評価の責任を作り手に求めるのは筋違いであることもまた承知の上だが、しかし、僕には、これが本当に6人の役者を使ってそれぞれ異なる「ディラン」を演じさせてまでわざわざ織らなければならなかったタペストリーだったのか、という疑問が消し難く強く残っているのである。

僕はかつて本ブログに「『マリー・アントワネット』は長過ぎるPVである」と書いた。
妻は僕に本作品もまた「長過ぎるPV」だったのかと訊ねたが、なるほど「アイム・ノット・ゼア」は「ケイト・ブランシェットの新曲『やせっぽちのバラッド』のPV」だということも(文字通り)可能かも知れず、だとすればヒース・レジャーとシャルロット・ゲーンズブールの安臭いメロドラマにもある意味納得がいくのである。
「アイム・ノット・ゼア」は結局「とらえどころのない映画」というもの以上でも以下でもなかった。みんな興奮し過ぎているのではないか。
「アイデン&ティティ」の方が僕にとって断然「真実」である。
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