2008年07月31日

英会話

2年半くらい前まで英会話スクールに通っていた(と一昨日のブログで書いた)。そこで判ったことが少なくともひとつだけはあって、それはいくら英語を覚えても話題のない相手とは話が出来ないということであった。
こんなことをいうと、いかにも英会話の実力が上がったかのように聞こえるかも知れないが、そんなことはなくて、要するに僕は挫折してしまったのである。

僕は普段の生活においても、人と接するのにかなりプレッシャーを感じる方で、使わなくてもよい気は必要以上に使いまくるくせに、肝心な時には全く気が利かないという難儀な性格をしている。誰かといると沈黙がこわい。話が好きなわけでもないのに、何とかして相手との共通の話題(になりそうなこと)を探して話しかけようとするのだが、すぐにネタが尽きてしまう。だが逆に相手に話しかけられた時には、あまりちゃんと人の言っていることを聞いていないので、チンプンカンプンあるいはしどろもどろになってしまう・・・。

日本人相手だってこうなのだ。ましてボキャブラリーに極端な制限のかかる英会話において、「フリー・トーク」なんか出来るわけがない。
だから、(個人的なことを極端に拡大して一般論として言えば)僕は小学生が英語を習うことになど全く何の意味もないと思っている。
これは、要するに「言葉」の問題ではなくて、「人間」の問題なのです。
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2008年07月29日

読むべきか読まざるべきか〜ハリー・ポッター最終巻

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ハリー・ポッターのシリーズ最終巻(日本語翻訳版)が発売されたねえ、などと妻と話していた。あんたは読むの? 読まないの? などと。
妻には、第6巻「ハリー・ポッターと謎のプリンス」を購入したのに何故か読んでおらず、従ってそれを飛び越えてラストを読むわけにはいかないよなあ〜、というような事情があるようだ。
が、僕にもまた、僕の事情がある。

僕は、第4巻「ハリー・ポッターと炎のゴブレット」までを翻訳本で読んでおり、更に第1巻から第6巻「Harry Potter and the Half-Blood Prince」までを、「Harry Potter and the Goblet of Fire」を除き一応全て原書英国版で読んでいる。
この期間、僕は、英語の本をそのまま読むということにずっとはまっていて、(今はもう止めにしてしまったが)並行するように英会話スクールにも通っていた。
もう2年半くらい前の話である。

僕の事情というのは、つまりどちらを読めばいいのだろうという話で、僕には、「ハリー・ポッターと死の秘宝」を読んだらいいのか「Harry Potter and the Deathly Hallows」を読んだらいいのか、よく判らないのである。

まず、「ハリー・ポッターと死の秘宝」を読むとした場合、「ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団」及び「ハリー・ポッターと謎のプリンス」を翻訳版で読んでいない僕にはちんぷんかんぷんかも知れない、という不安が立ちふさがる。それほどまでに僕の原書読みはいい加減であった(秘儀「知らない単語飛ばし」のオンパレード)。とすれば、僕は今最終巻を日本語で読み始める前に、それに先立つ2巻を改めて(日本語で)読み返さなければならないわけで、はっきり言ってこれは辛い。
だからといって、「Harry Potter and the Deathly Hallows」が今の僕に果たして読めるだろうかというと、それは多分絶対に無理なのである。
道理が引っ込むまでの無理を通すだけの根性あるいは「ノリ」は、今の僕にはもうない。

結論。
いろんなことの顛末がどう決着するのかには興味があるけれど、それにしても、僕には少々長過ぎたようである。
多分読まないな。

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2008年07月28日

スマイル

最近地震が多い。従って、テレビで被災地住民のインタビューなどを目にする機会もまた多くなる。そして、そんな被災者達の受け答えを見聞きする度に、僕はいつも同じようにあることを感じる。それは、何か凶悪な事件が発生した直後の付近住民達の語り口調とも共通する何かである。
彼等は笑う。怖いです不安です、あるいは子供をひとりで外出させられません云々と言うのだが、その言葉とは裏腹に、かなりの確率で彼等は笑っている。
もちろん、そうでない人達も大勢いる。だが、例えば海外において同様の状況が生じた場合人々が取るであろう反応とは、明らかに深刻度が違うように感じられるのである。

多分、彼等は本当には絶望していないのであろう。実際、何とかなる、と思っているのではないか。幸いここは日本だから、まさか死にそうなのを放っておかれることもあるまい。住むところがなければ(かなり不自由だが)仮設住宅も用意されるし、食料にも(贅沢さえ言わなければ)困ることもないであろう。その信頼感にそれぞれ軽重の差はあろうけれども、多分、そのように思っているのだと思う。
しかし、これがアフリカや東南アジアだと、本当にそうはいかないのだ。死にそうになったら放っておかれる。住むところなんか心配している余裕もない。リアルな餓死の可能性が、そこにはある。
これも、全てが全てそうだという話では、もちろんないのであるが。

あれは、義父が重い病気で入院している時のことだった。いつも微笑みを絶やさない感じのいい看護婦さん(当時はそう呼んでいた)がいた。ところが、彼女は義父が最も重篤な状態になった時にもやはり同じように微笑んでいたのである。家族の彼女に対する評価は一変した。
つまり、彼女の笑顔は、ただそこに貼りついていただけだったのである。そのようにしなければとてもやり切れないほどの重圧が彼女にのしかかっていたということなのかも知れないが、僕にはそれがまるである種の植物の種子を覆う刺の生えた硬い殻のように思われた。
彼女の微笑みは被災者達の笑いとは全く種類の異なるものではあろう。だが、地震の被害を伝えるテレビニュースを見ながら、僕には何故かあの時の彼女のことがふと思い出されたのであった。
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2008年07月25日

アナザー・サイド・オブ「ミスター・ロンリー」

サマンサ・モートンから「ハイランド」に来ないかと誘われて「(どうしようかな)わからないや」とつぶやくマイケル・ジャクソン。
ニワトリと「女」が大好きなちびっ子ギャングの「HOT!!!!」。
子供っぽい嫉妬心でしか愛情を表現出来ない老醜のチャップリン。
「羊は自分達で処分する」と冷静に相手に伝える(その時だけは「FUCK」と言わない)エイブ。
ちっとも似てない煙草好きなエリザベス女王。
とにかく芸熱心なサミー・デイビスJr.。
他のみんながそれでも実は持っている「本名」を、もしかしたら本当に持っていないのかも知れないシャーリー・テンプル。
ひょこひょこと、農場を歩くマイケル。
その足取り。
ハングマンの歌を口ずさみながら線路を歩く赤頭巾。
サマンサ・モートンのお尻とお腹。
それを包むデカパン。
イノセントに揺れるバブルス。
ひとりきりじゃないかも知れない僕達。
そしてやっぱり、空飛ぶシスター達。
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あるいは永遠に楽園を失う話〜「ミスター・ロンリー」

ミスター・ロンリーミスター・ロンリー
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映画「ミスター・ロンリー」は、「同じような枠組みなのに異なる結末を持つエピソード」を繰り返す。
僕はもちろん空飛ぶシスター達のことを言っている。そして、売れない物まね芸人達のユートピアのことを。
羊の群れが彼等の相似形として存在していることもまた、僕には明らかであるように思われる。
例えば、「Mister Lonely」「Beat It」「Thriller」「You Are Not Alone」と歌のタイトルで区切られた各章は、そのまま直截的に4コマ漫画の「起承転結」のようなものであろう。その「起承転結」の中で、空飛ぶシスターとマイケル・ジャクソンが、同じようでいて決して同じにはならない物語を演じるのだ。

そこにはあるパターンが存在する。まず「選ばれたひとり」がある状態に陥る。それは「奇跡」かも知れないし(公式HPの中でもこの点は何ら伏せられていないのであえて書くが)絶望による自殺かも知れない。これらを(確実に死に至るウィルスへの感染を含め)「生贄」ととらえることも可能だが、いずれにせよ、最初はとにかく「ひとり」でなければならないのだ。
そして羊は、空飛ぶシスターとマイケル・ジャクソンをひとひねりした環で結ぶ。すなわち、悲劇的な始まりで物まね芸人達と、同様に悲劇的な結末で修道女達と、それぞれ密かに手をつなぐのである。
羊によって結び付けられた両者の始まりと終わりは、全く逆の方向を示している。それはまた、幸福と哀しみが実は全く矛盾しないひとつの事柄でしかないのだという寓意でもあろうか。

ここで僕は、物まね芸人達(とりわけマイケル・ジャクソン)にとっての「始まり」が、やっと最後になって訪れることに気付く。「起承転結」の「転〜結(選ばれたひとりの死)」は実は新たな「起」の提示なのだと考えるのは、あまりにも楽観的に過ぎるだろうか。
しかし、僕は決して楽観しているのではない。新たな「起」は、混沌としている。ある意味、彼(昨日までマイケル・ジャクソンだった男)は、その時永遠に楽園を失い、同時に初めて「人間」になったのだから。

僕達は(そして彼等は)全て、粗末なブルーの衣を激しくはためかせながら永遠に堕ちて行く空飛ぶシスターではないのか。笑いながら、自転車にまたがって、誰かと手をつないで、あるいは祈りながら。
おそらく、ここには全てが晒されている。
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2008年07月21日

我儘なエコ

環境問題への積極的取り組みを推進しなければならない、という企業が増えている。僕の会社も例外ではない。例えば、エアコンの設定温度は今28度に制限することがルール化されている。つまり、室温が28度を超えなければ、エアコンのスイッチが入らないよう設定されているわけである。
その代わり夏場はネクタイをしなくてよいし上着もいらないということになっているが、正直いってこれは相当にきつい。僕は元々暑い中で過ごすことには抵抗のない方で、だから28度という設定温度そのものには何の異存もない。というか、夏なのだから暑いなら暑いでしょうがないと思うのだが、ではいったい何が「きつい」のか。
他でもない。28度という温度の中で仕事をしなくてはならない、ということそれ自体が「きつい」のである。

何を今更、である。馬鹿馬鹿しくて話にならない、というのが大方のご意見であろう。しかし、いくらノーネクタイ上着なしであろうが、28度のムシムシするオフィス内で仕事をするというのは大変な苦痛である。パソコンから発せられる熱も想像以上に不快指数を上昇させる。ちょっとしたことでも何故か腹立たしい。向かいの席の同僚の顔がいつも以上に気に障る。コーヒーが苦い。キーボードの「E」がネバネバする。
間違いなく、環境がストレスを増大させているのである。
こんなことになんの意味があるのか、と思う。仕事の能率だって確実に低下しているだろう。
第一、こんなに難儀して使わなかったエネルギーはいったい何処へ行くのか。確かに会社は電気代を節約出来るかも知れないが、果たしてそれが「エコ」なのか・・・。

究極の省エネは、「暑い夏には仕事なし」だと心の中では思いつつ(我儘なエコ!)、そうもいかんしなあ、と明日もまた僕はノーネクタイ上着なしでエアコン設定温度28度の会社へと向かうのである。
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2008年07月16日

EVOLUTION〜感動的な骨のこと

最近見聞きした中で最も感動した言葉。

<人間の骸骨を持ってきて、骨盤の骨に傾斜をつけ、腿と脚と腕の骨を短くし、手足の骨を長く伸ばし、指節骨をひとつに接合し、顎を長くして前頭骨を短くし、さらに脊柱も長く引き伸ばせば、その骸骨はもはや人間のなきがらではなく、馬の骨である>

これは、「骨から見る生物の進化−EVOLUTION」という写真集に引用された18世紀フランスの博物学者ビュフォンの言葉である。
イスラム教世界やキリスト教徒の間では未だに拒絶され続けているというダーウィンの「進化論」であるが、発表当時は現代よりももっと過激な批判に晒されていた。彼の「種の起源」の発表されたのが1859年のこと。ダーウィンよりほぼ一世紀前の人であるビュフォンは、実は当時既にダーウィン以前の「神にとらわれない学問」である「博物誌(一般と個別の博物誌)」を発表していた。
著者自身が没した後まで刊行の続いた「博物誌」全44巻は、アカデミックな内容にも関わらず大ベストセラーになったという。

冒頭の言葉は1753年のもの。これだけを単純に読めば、馬と人間に大差はない、と言っているようでもあり、また馬と人間にはこんなにも差異があるのだ、と言っているようでもある。
「感動した」と書いたが、それは「驚き」に近い。新鮮なショックが僕を襲い、笑え笑えと刺激したのである。
写真集自体も、実に素敵だ。

骨から見る生物の進化骨から見る生物の進化
小畠郁生(監訳) 吉田春美(訳)

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2008年07月15日

梅雨とバイオリン

葉加瀬太郎が、7月13日付産経新聞に洞爺湖サミットに関連して「音に優しい地球環境」という記事を書いている。

「バイオリニストの自分にとってもサミットは非常に興味深いものだった。なぜなら、良質な音色を奏でるにはきれいな空気が必要だから」と葉加瀬は言う。
ここまでは僕にも頷ける内容である。雰囲気論としては。
しかし、葉加瀬はあらぬ方向から話を具体化して行く。
曰く、バイオリンは非常に高温多湿を嫌う、最適な環境は温度20度・湿度50%である、最も駄目なのは日本の梅雨時のじめじめした天候である、云々。
そして「温室効果ガス排出量が多い日本の都会では、梅雨から夏にかけての季節は、湿度が高いうえに蒸し暑く、弾き手の僕がどんなに頑張ってもまったくもって、よい音色が出なくなってしまう」と無理矢理に環境問題と日本の四季を結び付けてしまうのである。

日本の梅雨が現在特に過ごし辛くなっている原因には、確かに温室効果ガスの影響もあるであろう。だが、梅雨は産業革命が起こる遥か以前からこの国で毎年毎年連綿と続いて来たのである。だいたい、「温度20度・湿度50%」である日が、世界の何処にいったいどれくらいの割合で存在するのか。バイオリンにはよくなくても、「それ以外の日々」が多分世界の当たり前であるし、だからこそ様々な文化も歴史も、そして「音楽」も生まれたのである。
環境破壊につながる現代の種々の事柄は、いずれにせよ解消あるいは改善されてしかるべきだし、また自分でも意識しなければ、とかなりの反省を踏まえて思う。しかし、それは間違っても全世界がバイオリン演奏に適した環境になること、ではない。
それこそ「環境破壊」というものであろう。

「だから、今の時期、日本で演奏するのに最適な環境をつくろうと思ったら、必然的に人工的な装置に頼らざるを得ない。日本に居るときは自宅のスタジオも24時間、エアコンと除湿機をフル稼働にして対処してきた」というあたりには、環境問題を語ることのある種リスクのようなものさえ感じる。
人目に触れる前に、せめて誰か真意を確認するくらいのことをやってやればよかったのに、と思った次第である。

※産経ニュース当該記事へのリンク
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2008年07月14日

「非現実の王国」の大門を前にして

シアター・プレイタウンにて、「非現実の王国で ヘンリー・ダーガーの謎」を観た。
ヘンリー・ダーガー(もしくはダージャー)は(一応働いてはいたのだが)いわゆる「引きこもり」生活をおくって一生を終えた。密かに創作し続けていた妄想物語・画(絵巻)、そして日記など膨大な作品群が死後発掘されるまでは、全く無名の存在であった。それら創作はいわば彼の極私的営みでしかなかったから、一般社会においては評価のされようがなかったのである。

「ヴィヴィアン・ガールズ」を始めとして、彼の作品には多くの「子供達」が登場する。そして、そのほとんどが両性具有の少女である。作品のモチーフとするために収集された多くのパンフレット、雑誌や新聞の切り抜き、そして写真を前にした時、誰もがその量と異様さに圧倒されずにはおられないだろう。
彼が生前周囲の人々から明確な糾弾を受けずに済んだのは、誰も彼の「妄想」を見たことがなかったことと、彼自身のむしろ求道者とでも表現すべき抑圧された寡黙さ故であったのかも知れない、などと勝手に思う。

また、彼は常にキリスト教徒であることと向き合っていた。いや、向き合わずには生きて行けなかった。実際、彼の作品の主題には、常に少女と神(キリスト)が立ち現れるようである。そして、その軍隊あるいは戦争と少女の組み合わせは、宮崎駿はもちろん、数多くのアニメーション等で今やひとつのルーティンとなってしまった感さえある「少々危ういジャンヌ・ダルク」の正に先駆であったとも考えられる。
何故両性具有なのかについては、もはや我々には正解を手に入れる術がない。

ところで、僕にはヘンリー・ダーガーは未だに謎のままである。
何故ならば、「非現実の王国」の大門を前にして、僕は大いに眠りこけ、ついにその下をくぐり抜けることが叶わなかったからである。

ヘンリー・ダーガー 非現実の王国でヘンリー・ダーガー 非現実の王国で
John M. MacGregor 小出 由紀子

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2008年07月13日

箱庭の中の予定調和〜「田村はまだか」

田村はまだか田村はまだか
朝倉 かすみ

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<深夜のバー。小学校クラス会の三次会。四十歳になる男女五人が友を待つ>・・・。
友というのが「孤高の小六」と言われた「田村」であり、それがそのまま本のタイトルにもなっている。
六編から成る連作で、「田村」を待つ間にほぼ一話にひとりの割合で同級生達の人生の断片が語られて行く。それぞれの人生、それぞれの機微。そして、最後には決まって誰かが「田村はまだか」と叫ぶのである。

つまらなくはなかった。しかし、僕にはどうもここで描かれている世界がインチキ臭く感じられてならなかった。小説だから別に虚構でいいのだが、何となく背骨がない感じがするのである。
四十歳過ぎの男女の仲が良過ぎる。心に残った客の言葉を書きとめておくというスナック「チャオ!」のマスターのノートもわざとらしい。いや、そもそも肝心要の「田村」に、僕は全くリアリティを感じることが出来なかった。

田村は、最後の最後にはちゃんと彼等の前に姿を現す。だが、その有様が何ともまた作り事めいている。「ラストに怒涛の感動が待ち受ける」と帯の惹句は謳うが、それはあくまでも作者の箱庭の中で繰り広げられる予定調和的感動でしかないような気がする。
その箱庭はあまりにも狭く、「世界」足り得ていない、と僕は思うのだが。
ラベル:田村はまだか
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猫と語る

無人島に行ったらば、という話を猫としていた。
もちろん、ひとりと一匹で、というシチュエーションだ。
小さな小さな島。
よくひとコマ漫画などに出て来る、椰子の木がたった一本だけ生えている、そんな島だ。
だから、食べるものもほとんどない。
椰子の木には椰子の実がなっているが、お前は果物は食べないよね。

飢えに耐え切れなくなったら、僕はお前を食べるかも知れないよ、と告白する。
お前も僕を食べてもいいんだよ、と付け加える。
生きるためには人は食べるのだ。
生きるためには猫だって食べる。
だから、これは闘いになるだろう。
生きるための、壮絶な闘いだ。

でも。
お前は僕を食べないかも知れないね。
僕も、お前を食べないかも知れない。
だって、お前とはずっと一緒にいたからね。
それに、お前はあんまり美味しそうじゃないからね。
だから、いっそ二人で静かに死のう。
腹をグーグー鳴らして、椰子の木がたった一本だけ生えている、そんな島で。
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2008年07月10日

水木先生可愛すぎます

お父ちゃんと私―父・水木しげるとのゲゲゲな日常お父ちゃんと私―父・水木しげるとのゲゲゲな日常
水木 悦子

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僕は、水木先生の妖怪は信ずるがオカルトは大嫌いな者である。ではその違いは何か。いったい何処で一線を引くのか。
これは実はずっと僕のジレンマであった。オカルトを批判する度に、妖怪に対して何だか後ろめたい気持ちがしてしまうのである。

水木悦子(水木先生の次女)の「お父ちゃんと私―父・水木しげるとのゲゲゲな日常」を読んでいる最中も、僕はかなりドキッとしてしまった。江原啓之がテレビで「魂は永遠で・・・」と話しているのを聞いていた水木先生が、いきなり身を乗り出して来たというのである。
そして水木先生は、「この人の言っとることはお父ちゃんの考える魂の話と一致しとるよ。お父ちゃんも前からそう思っとったんだ(中略)こげな人がテレビで取り上げられるってことは、いよいよ“霊の時代”が来たんだな!」と実に嬉しそうにしていたのだという。
正直いって、僕は困惑した。だって、僕の中で水木先生と江原啓之ほどベクトルの違うものはないからだ。

しかし、水木先生はさすがである。
著者は続ける。
「〜そんなことを思い出しながら、先日父に、『死んだら魂はどうなるか?』と、尋ねたところ、『そりゃお前、死んだら終わりだよ。“無”だ』
えっ!? いつの間に考えが変わってしまったんだ! かなりショックを受けた私だったが、よく考えれば魂が“永遠”か“無”かなんて、それこそ誰も知らないことなのだ」と。

かくて、僕の長年のジレンマは、よく判らないながらも何となく解消してしまったのだった。
悦子さん、ありがとう。

この本の水木先生は本当に活き活きしている。鳥取弁丸出しの会話を読んでいると、正に目の前でゲゲゲの日常が繰り広げられているかのような錯覚に陥る。
全然違うのだけれど、僕はゲッツ板谷の「板谷バカ三代」を思い出してしまった。何というのかなあ。愛にあふれているのですよ(愛にもいろいろあるけれど)。

水木先生は可愛すぎます。

板谷バカ三代 (角川文庫)板谷バカ三代 (角川文庫)
ゲッツ板谷

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2008年07月07日

シリトーを想起させる労働者階級的リアリズム〜「コントロール」

コントロール デラックス版コントロール デラックス版
サム・ライリー, サマンサ・モートン, アレクサンドラ・マリア・ララ, アントン・コービン

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ジョイ・ディヴィジョンには、僅か2枚のオリジナル・アルバムしかない。バンドの中心的存在であったイアン・カーティスが、1980年5月に自殺してしまったからである。2枚目のアルバム「クローサー」が発売される直前の出来事であった。
僕は彼等のリアル・タイムのリスナーではなかった。彼等自身が、僕のリアル・タイムであった70年代パンクに少し遅れてデビューしたこととそれは無関係ではないが、そもそも80年頃には、パンク〜ニュー・ウェイヴがあまりにも拡散し過ぎていて、何もかにもをフォローすることが僕には既に不可能になっていたのである。

「コントロール」は、そんなジョイ・ディヴィジョンのカリスマ、実は若くして結婚し癲癇の発作と治療薬の副作用に怯えながら日々を過ごすナイーヴなマンチェスター青年であったイアン・カーティスの苦悩と鬱屈の日々を丹念に追いかける。数々の「ロック」に彩られているにも関わらず、まるでイギリスの労働者階級の生活を描いた小説でも読んでいるのではないかと錯覚してしまいそうになるくらい地味な映画であった。
実際、この映画を観て僕がまず連想したのはアラン・シリトーの一連の小説だった。シリトーが活躍したいわゆる「怒れる若者達」の時代は、今からもう半世紀以上も昔のことである。

イアンには(後に病気の影響とバンド活動との両立が難しくなり放棄してしまうとはいえ)少なくともちゃんとした職というものがあった。だから、単純にイアンとシリトーを結び付けるのは乱暴なのかも知れないが、しかし、早い結婚、子供の誕生、退屈な日常とそこから脱出する手段としての非日常、地道な生活を望む妻とのすれ違い、何かを創り出したいという熱情と未来という名の重圧・・・。僕はやはりどうしてもそこに伝統的な労働者階級の若者の姿を見てしまうのである。
いや、シリトーの描く若者はもっとずる賢くしたたかであった。もっと生命力に溢れていた。結局そこが「時代」の違いであり、またこの映画の実直なところでもあるのだ、と僕は思う。

ほぼそのままイアン・カーティスだったサム・ライリーはもちろん素晴らしかったが、この映画の労働者階級的リアリズムの実現は、おそらく妻デビーを演じたサマンサ・モートンの存在感によるところが大きい。
アントン・コービンはこれが監督第一作目だというが、何という落ち着きっぷりであろう。
これを「長距離ランナーの孤独」のトニー・リチャードソンが撮ったらどうなっただろうか、などとあり得ないことを妄想しつつ、僕はまたシリトーの小説を思い出しているのだが。

※FORUS秋田8Fシネマパレにて7月18日まで上映中。
 (1)10:20〜 (2)18:30〜


アンノウン・プレジャーズアンノウン・プレジャーズ
ジョイ・ディヴィジョン

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クローサークローサー
ジョイ・ディヴィジョン

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2008年07月06日

「ゲゲゲの女房」を読んで

ゲゲゲの女房ゲゲゲの女房
武良布枝

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「ゲゲゲの女房」を読了してまず感じたことは、「好きなことだけをやる」というのも才能なのだなあ、ということだった。

武良布枝(水木先生の奥様)は、人一倍努力家であった夫(水木しげる)が、「なまけ者になりなさい!」あるいは「がんばるなかれ!」と人に言うのを常々疑問に思っていたのだという。問いただした彼女に夫は、「オレは『なまけもの』になれるように、努力すべきときにうんと努力しておけという意味でいってるんだから」と答えたというのだが・・・。
彼女もこれで納得したわけではない。ただ、夫は「好きなことだけをやりなさい。好きなことは一生懸命やりなさい」ともいっている、と自らが思い汲み取ったその真意の糸口を読者に提示するだけである。

思えば、「好きなことだけをやる」ことを諦めたから、僕はそれを言い訳にしながらこうしてだらだらと生きているわけである。何故諦めたのか。とてもやりとげられる自信がなかったから。そして、多分、そもそも何が本当に好きなのかさえ判らなかったから。
だが、それでも、水木先生の言葉は僕を責めはしない。「好きなことだけをやる」ことから逃げてしまった、あるいは苦悩することさえせずに違う道を歩いてしまった者にも、水木先生の言葉はオアシスのように水分を恵んでくれる。

平易な言葉で、しかも淡々と綴られているから、ついうっかり見逃してしまいそうになるが、「ゲゲゲの女房」の歩んだ道はかなりに厳しい。好きなことだけをやっていた水木先生はまだしも、彼女は何故こんなに厳しい貧乏人生を生き抜くことが出来たのか。
雑誌の編集者が水木先生に「奥さんはどういう人ですか?」と訊ねたところ、「『生まれてきたから生きている』というような人間です」と答えたという素晴らしいエピソードが紹介されているが、本当に彼女はそういう人なのだろう。だからこそ、おそらく水木先生の今日もまたあるのである。

個人的には、淡々と故郷安来市の模様など語っていたかと思ったら突然「屁ばなし」に突入するというあたりが「ゲゲゲの女房」の面目躍如である、と冒頭からもう大笑いしておりました。
布枝さんはすごいなあ。
ラベル:ゲゲゲの女房
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2008年07月05日

両手を放して自転車に乗る人

中学校時代、ハンドルから両手を放して自転車に乗れるのを自慢している同級生がいた。誰も見ていないところで僕もチャレンジしてみたが無理だった。
同級生の多くが乗っていたのは当時流行りのスポーツタイプで、僕の自転車とは大違いだった。勤めていた板金会社の同僚から母が譲り受けてくれた僕の愛車は、それまで乗っていた父の自転車(荷台及びスタンドがごついツノダの実用車)よりは随分と垢抜けてはいたけれどしょせんは中古品で、ドロップ・ハンドルがどうのこうのと言っている同級生達の自転車とはやはり大違いだった。
僕は中学生になってからやっと自転車に乗れるようになったので、そんな自転車でも自分の自転車だというだけでとても嬉しかったのだが。

さて、今日、愛猫を病院に連れて行った帰り、信号待ちの車の窓から外に目をやると、1台の自転車が向こうからやって来るのが見えた。細いタイヤ、細い車体、そしてハンドルはドロップ・ハンドルだ。乗っているのはいい年をした大人だが、両方の手をハンドルから放している。
ああ、こんな自転車なら僕にも手放し運転が出来るだろうか、と(昔を思い出し)一瞬思ったが、彼がハンドルから放した両手を宙に泳がせている様はいかにも中途半端だった。「わざと」な感じがした。その時、彼はふいに腕組みしたのだけれど、それもまた何とも「手持ち無沙汰」かつ不自然な感じなのであった。
背中がむずむずし、僕は何だか意味もなく笑い出したいような気分になった。

もうローティーンではないのだがら、まさか彼が自慢のためにそうしていたとも思えないのだが、おそらく彼はいつもあのようにして自転車に乗っている。走行中なのにわざわざハンドルから両手を放し、時にそれを胸の前で組んだり、またほどいて宙に漂わせたりして。
それを思うと、僕はまた(何故か)たまらなく可笑しくなってしまうのである。
posted by og5 at 15:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月04日

長唄にハマル

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偶然FMラジオから流れて来た邦楽番組を聴いて、「お」と思った。
これが「おおッ」でも「おー」でもないのがいい感じだったと思うのだが、上手く説明は出来ない。
ともかく、その番組がきっかけで、僕は生まれて初めて長唄のCDを買った。

購入したCDの「長唄について」によれば、長唄というのはそもそもは江戸歌舞伎の伴奏用音楽であったという。ところが、これが巷で習い事として流行し始め、江戸末期にはひとつの独立した音楽ジャンルとして確立したのだとか。他ジャンルの地唄の中にも「長歌」という種類があるので、それと区別するため、本来は「江戸長唄」というのが正確らしい。

これまで長唄なんてちゃんと聴いたことはなかった。言葉は知っていたが、それは「お師匠さん」という言葉とひと組になった時代劇の世界のことでしかなかった。
あるいは、幼少の頃、まだ放送休止時間のあった白黒テレビの歌舞伎中継で流れていたのがもしかしたら長唄だったのか、とも思うが、それもまた僕には全く興味のない世界なのであった。

ところが、ラジオから流れて来る長唄は何故か懐かしかった。CD1曲目の「元禄花見踊」を聴いた時も、やはり同様に感じた。そして、20分近くもある曲なのに、少しも退屈しない。
これは僕のDNAの中に邦楽を愛しむ因子が組み込まれていたということか、あるいは単なるBGMだったとはいえ幼少時の記憶が呼び覚まされてそう感じるということなのか、僕には判らない。
判らないが、それでもとにかく長唄は面白い。

調子に乗って同シリーズ「コロムビア邦楽名曲セレクション20」の「小唄」と「端唄」も購入したが、1曲あたりの演奏時間の長い「長唄」の方が僕の好みには合っているようだ。
まったりと流れる時間がたまらない。
ラベル:長唄
posted by og5 at 21:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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