2008年08月30日

今判る普遍性〜「光る風」

光る風光る風
山上 たつひこ

小学館クリエイティブ 2008-07
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山上たつひこの「光る風」が復刻された。
少年マガジンに連載されたこの異色作品を僕が初めて読んだのは、朝日ソノラマのコミックスで、全3巻だったと記憶している。
当時、僕は既に山上の「旅立て! ひらりん」の愛読者であった。「旅立て! ひらりん」は、「がきデカ」あるいは「喜劇新思想大系」以前の、いわば夜明け前的状況における山上たつひこの意欲作であったが、今にして思えば、「光る風」から脱皮しようとする山上の必死のあがきだったのかも知れない。

「光る風」は、良くも悪くも「近未来SF」である。描かれる年月日は伏せられているが、明らかに1970年代のいつかだし、エピソードについても、在日米軍や公害問題など、非常にリアルな「日常との接点」をあくまでも保持している。
また、特にその思想的バックボーンは、あからさまに「左翼思想」なのであって、当時の、そして未だその呪縛から解き放たれないままとなっている現在の「大衆」あるいは「知識階級」の「嗜好」を踏襲している。
だから、実に久し振りに本書を読み始めた僕の印象は、最初あまり良いものではなかった。山上たつひこにしても、やはり時代の洗脳からは逃れられないものなのか、というのが僕の正直な感想であった。

しかし、読み進むに連れて、印象はどんどんと変化した。山上たつひこが、時代の空気から逸脱し、普遍的な世界へ一歩また一歩、ずんずんと踏み込んで行ってしまうからである。
思えば、あの「がきデカ」の世界だって同じようなものなのではないか。世間の良識と新たなモラルの間で右往左往する「一般大衆」を、こまわり君だけが冷静に見つめている。しかも、彼は常に拒絶され軽蔑される「フリークス」的存在であり続ける。

「光る風」ファンの多くは、初めて「喜劇新思想大系」を見た時、山上たつひこは気が狂ったのではないか(あるいは当局から洗脳されたのではないか)と思ったという。
だが、洗脳されていたのは、明らかに、「光る風」とその後の山上作品を断層あるものとしてしか受け止められなかった我々読者の方なのである。
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後ろめたいオリンピック

北京オリンピックが終了して早くも一週間が経とうとしている。
政治とスポーツは別であり区別して考えるべきだ、とか、いや近代オリンピックというものがそもそも政治と切り離すことの出来ない性質を持ったものなのだ、とか、様々な議論が戦わされたが、終わってみれば見事にチベット問題も毒ギョーザも、四川大地震さえもが綺麗さっぱり忘れ去られている(ように、少なくとも僕には見える)。

政治とスポーツを分けて考えるべきであるなら、オリンピックが無事終わった今こそ、人はチベット問題を改めて問わねばならないであろう。しかし、現実がそうなっていないことは明らかである。
そこには、2種類のグループがある。まずひとつは、元々チベットの人権問題等諸問題について深く考えてなんかいなかった人々。そしてもうひとつが、様々な政治的もしくは人道的問題の存在を認識し憂慮していながら、それでもあえて「政スポ分離」を唱えた(もしくは選択した)人々である。
前者は、その「無自覚」故に(自分達ではそれこそ全く未だ無関心であるが故に何も感じていないことをも含め、逞しくはあるが)後ろめたい存在だと定義され得るであろう。だが、後者は、その「自覚」故に、より一層後ろめたい。彼等は「楽しんでしまった」(そして、もし今何もしないなら元々政治とスポーツはオリンピックにおいて一体であったと自ら証明しているも同然なのではないか、と薄々気付き始めているはずの)人々だからである。

かの国におけるスポーツの祭典の成功は、かの国の政治(外交)の成功なのだから、人はもはやかの国を無条件では非難出来ないであろう。
「楽しんでしまった」後何もしない、とはそういうことである。
もちろん、僕もまた中途半端に「楽しんでしまった」中のひとりなのだが・・・。
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2008年08月25日

残酷なことも含めての女性・賛〜「赤い天使」

赤い天使赤い天使
有馬頼義 笠原良三

角川映画 2004-11-26
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映画でも小説でも、その「形」にすごく興味がある。もしかしたら間違った受け止め方をしてしまっているのかも知れないというリスクを感じないわけでもないのだが、いかんともし難い。
「赤い天使」を観た時も、僕はまず「形」を考えずにはいられなかった。
それはつまり、西さくら(若尾文子)を巡る3人の男達には、きっと何らかの意味があるのだろう、ということである。

3人の男達には、性的な意味において明らかに象徴的なある役割が与えられている。
ひとり目の坂本一等兵は、内科病棟の他の兵隊達と共に西看護婦に性的暴行を加える。彼は男性として性的に正常であり、それが故に死を免れ得ないであろう前線に送られる。
二人目の折原一等兵は、戦傷によって両腕を失っている。それ以外には何らダメージを受けていない彼は(自らの手が使えないが故に)日々性的苦悩にさいなまれる。西看護婦は彼を救済するが、その救済は、かえって彼の将来の絶望を際立たせ、彼を死へと急き立てる。
岡部軍医は、モルヒネ注射の常習により性的不能者となっている。西看護婦は、彼に亡き父の面影を見い出し、その尊敬の念はたちまちに恋愛感情に移行する。岡部は、彼女の献身的な愛によりモルヒネ中毒から抜け出し、同時に彼のインポテンツも治癒するのだが、おそらくそのせいで過剰に男らしさを取り戻してしまう。それは、岡部を死へと誘う。

3人の男達は皆死ぬのである。だが、彼等は不幸であろうか。
坂本一等兵は蛮行を詫びながら息絶えるが、折原一等兵は自ら命を絶ってしまうが、岡部軍医は敵兵の凶弾に倒れ身ぐるみ剥がされ荒野に打ち捨てられるのであるが、果たして彼等は不幸であろうか。
坂本一等兵は西さくらを恨んではいないだろう。折原一等兵も西さくらを恨んではいないだろう。岡部軍医においては、もちろん言うまでもないことである(胸の薔薇よ)。

西看護婦は、これら3人の男達の死に寄り添い、そして生き続ける。
これはおそらく戦争映画ではなく、まして反戦映画などでもなく、実は純粋に女性賛美の映画なのである。
若尾文子がこの映画を観たくもないと語っているという「逸話」は、これが正しく男のための映画であるという証明でもあろう。

コスプレあり。
そういう意味でもまた、これは先駆的作品である。
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2008年08月23日

花やしきでローラーコースターに乗る

武田百合子の文章が大好きだ。特に「遊覧日記」を愛読している。「遊覧日記」の一等最初の話が「浅草花屋敷」で、だからこのかなりレトロな遊園地は、ずっと僕の憧れの場所だった。
その憧れの場所に、18日、妻と一緒に僕はとうとう足を踏み入れた。モレーノ・ヴェローゾの東京ライヴを観るついでにと、妻が浅草行きを企画してくれたのである。

羽田空港から、京急空港線で京急蒲田、泉岳寺を経て浅草へ。乗り換えはないのだが、何故か京急本線、都営浅草線と路線名がころころ変わる(田舎者には理解し難い)。
駅を出て地下道をくぐり、「浅草一丁目一番一号」の看板も誇らしげな神谷バーの前を通り過ぎて左手にずんずん行くと、すぐに雷門が見えて来る。右に風神、左に雷神。テレビでしか見たことのない巨大な提灯が中央にどどんとぶら下がっている。
仲見世を歩く。人込みも気にせずどんどん歩く。洋食屋「グリル・グランド」で妻はオムハヤシ、僕はミックスフライを食し、その後いよいよ花やしきへと向かう。

外観からして既に可笑しい。何しろ浅草寺のすぐ側なのだ。なのに、五重塔と対で建立されたような顔をして「ちびっ子用絶叫マシン『ぴょんぴょん』」が聳え立っている。
入園料(ひとり900円)を支払って園内に入ると、まずそのあまりのごちゃごちゃ感に眩暈を起こす。思ったより人が多いのも、ごちゃごちゃ感に拍車をかける。パンフレットに「古くて、狭くて、こりゃまた愉快!!」とキャッチコピーがあるが、正にその通りだ。
花やしきのシンボルでもあるという「Beeタワー」に乗り、地上45メートルの高さから狭い園内を一望する。一望しながら、「ローラーコースター」に乗る決意を固める。
実は、僕は生まれてこの方、ジェットコースターの類に乗ったことがない。いわば、生まれて初めての経験を花やしきに捧げるわけである。
「ローラーコースター」乗り場は、思いの外混んでいて、長蛇の列が出来ている。結局6回待ちで僕達の番となった。
ギチギチと異音を発しながらコースターがレールを登って行く。「いまにも壊れそうな感じがたまらない!」という売り文句は伊達じゃない。そして、登坂に1分をかけた名物アトラクションは、銭湯に飛び込んだり隣の遊具とぶつかりそうになりながらもすれすれで身をかわしたりしながら、わずか30秒後にはもう終点に滑り込んでいるのだった。
何故か、みんな笑っていた。僕も、妻も、笑っていた。

「浅草は平たい」という武田百合子の言葉を実感する。
五重塔も「Beeタワー」も「ぴょんぴょん」もあるのに、本当に浅草は平たかった。
ラベル:花やしき 浅草
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2008年08月17日

若尾文子・賛

増村保造×若尾文子.jpgそれぞれ別々に観ればまた違う感想が生まれたのかも知れないが、2本一気に観た僕の感想は、とにかく「若尾文子は凄い!」だ。
「刺青」、そして「妻は告白する」。
監督増村保造をはじめとした全ての関係者が、若尾文子の「魅力」にやられている。谷崎潤一郎も、多分やられていただろう。生きていたら、黒川紀章と恋のさやあてを演じたかも知れない。
と、これはまあ僕の勝手な妄想だが、谷崎潤一郎が亡くなるのが1965年のこと。「瘋癲老人日記」だの「卍」だの、谷崎の生前もこの文豪の原作による作品に度々出演していた若尾文子のことを、彼(谷崎)はいったいどう思っていたのだろうか、と僕はまたもやあらぬ妄想に走る。
僕もまた、若尾文子の魅力に完全にやられてしまったのである。

「刺青」のお艶は、とにかくカッコよかった。
常識的に考えればひどい女としか言いようがない。一応は大きな質屋のお嬢様なのだが、手代を半ばそそのかすようにして駆け落ちし、頼った船宿の主夫婦に騙されて女郎屋に身売りされても一向に怯まない。怯まないどころか、むしろ水を得た魚の如くである。お艶に翻弄され、人を殺めたり道を踏み外したりして右往左往する男達の滑稽かつ哀れな様が、逆に「生き物」としての人として間違っているのではないか、とさえ思えて来るほどだ。
だからこそ、お艶が自ら旗本(佐藤慶)に「惚れた」と言い切る瞬間が胸を打つ。
(「惚れた」旗本に愛され過ぎて)フラフラしながら帰宅した明け方、当然ながら嫉妬し詰問する手代に、またも散々勝手な(理屈にもならない)理屈をまくし立てるお艶。
そうだ、この人はどうしようもなく生命力の塊なのだ。
お艶は、決して背中に女郎蜘蛛の刺青を入れられた不遇の女ではない。お艶が女郎蜘蛛を呼び寄せたのだ。だから、悶絶するお艶の背中で、ドクドクと血を流しながら、女郎蜘蛛は「あたし別に何にも悪いことしていないんだけど」とでも言いたげな困った顔をしている。

着物の色が美しい。いや、そればかりではなく、全てにおいて色が深い。そして、土の匂いがする。セットを使用した撮影であることに現在と違いはないであろうに、足元にちゃんと地面のある感じがするのである。映画は匂いをも表現することが可能な表現手段である、と思い知る。
雪の中、駆け落ちする道行、足袋をはけばいいのにと気遣う手代に、自分は裸足が好きなのだ、と返すお艶が妙に心に残っている。

一方「妻は告白する」の彩子は怖い。いや、彩子が怖いというよりも、愛が怖いのだ。
彩子は純粋だ。だから、法廷でも幸田を見る。愛人関係にあるのではないかと疑われている正にその人を、何とも言えない表情で(盗み見るのではなく半ば堂々と)見るのである。
彩子は、二度幸田の勤める製薬会社を訪れる。二度目はあの衝撃的な雨の日の訪問だが、その日はもちろん、裁判が始まったばかりの一度目の訪問においても、周囲の人々の「目」を描くその肌触りは、僕に強くキム・ギドクを想起させる。
純粋な彩子の愛は、人目に触れることを憚られるような「忌避すべき何か」を孕んでいる。日常にはそぐわない、子供連れの母親ならば、その子の目を掌で覆いながら「見ちゃいけません」と言わずにはおられないであろう「何か」を。
彩子の告白に、僕は震える。彩子は、幸田との結婚を望んでザイルを切ったのではない。自分達だけが助かりたくてザイルを切ったのでもなかった。

幸田に拒まれて、よろよろと階段を降りる彩子を、非情のカメラが追う。すがる手摺の危うさ。人々の視線。それでもなお、エレベーターを待つ幸田の婚約者からだけは身を隠そうとする彩子。トイレの鏡に映った自分の顔・・・。
幸田の「誠実さ」など何の役にも立たない。

秋田フォーラス8階シネマパレにて上映中。
8/16(土)〜8/22(金) 入場料金\1,000均一
「妻は告白する」
@10:20〜 A14:00〜 B17:40〜
「刺青」
@12:10〜 A15:50〜 B19:30〜
※8/23からは、第三弾として「赤い天使」を上映予定。


これは、若尾文子へのラブレターである。

妻は告白する妻は告白する
円山雅也 井手雅人

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刺青刺青
若尾文子.長谷川昭男.山本学.佐藤慶.須賀不二男, 増村保造

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ラベル:若尾文子
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2008年08月16日

扮装する人々

「ミスター・ロンリー」と、あっと言う間に上映が終わってしまった「P2」との関連性について。

「P2」には、有名な俳優も出ていないし、筋立てもチープである。まあ、どちらかというとB級作品なのであろう。ただし、A級であるかB級であるかはあまり大きな問題ではなく、面白いかどうかがまず第一義だと思っているから、僕にとって「P2」の評価は決して低くはない。もちろん、「面白い」にはいろいろな意味がある。

使える限りの予算内でサスペンスを盛り上げ、観客にショックを与え、ゴアリーな描写が好きな人にもそこそこ満足して貰いつつ、最終的には復讐譚としてのカタルシスも用意されている・・・。
つまり「P2」は娯楽作品として(やや中途半端であるとはいえ)非常にオーソドックス(かつ真面目)なのだが、僕が注目したいのは犯人トムの扮装趣味である。
地下の警備員控え室で、トムがプレスリーのレコードに合わせて踊るシーンがある。プレスリー人形付きカートリッジがレコードの溝をゆっくり滑る。なり切って踊るトム。カメラがなめる部屋の中には、プレスリーのコスチュームを完璧に着込んだトムの写真が飾られている。
このシーンはやや唐突だし、その後も特に何の説明もないので勝手に思い込んでいるだけなのかも知れないが、トムもまた「ミスター・ロンリー」なのだと僕は思ったのである。
アンジェラが意識不明のまま着せられているのも、単なるパーティ・ドレスではなく、明らかにマリリン・モンローのあのドレスであろう。
つまり、トムは、エルビスとマリリンのデートを画策していたのである。

「ミスター・ロンリー」は、有名人になり切ることでしかアイデンティティを保ち得ない(逆に言えば、そもそもアイデンティティのない)哀しい人々を描いていたが、「P2」ではそれがいきなり犯罪者(ストーカー)である。
普通に考えて(様々な意味で)より程度の低い「P2」の方がより常識的である、というのが面白い。それは、作品自体の評価や芸術的な位置付け等と全く関係なく、単に作者(監督あるいは製作者達)の性質(もしくは趣味)を現しているのだ、と僕は思う。
もしかしたら、観客の、か。

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2008年08月15日

温故知新〜「彷徨」

彷徨彷徨
小椋佳

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時々無性に昔聴いていたレコードが聴きたくなる。いいのか悪いのか(少なくとも高校生の頃に比べれば)自由になるお金もあるので、すぐに買ってしまう。
まあ、いいのであろう。
そんなわけで、今回は小椋佳がどうしても聴きたくなって「彷徨」を買った。

まず、圧倒的にこのジャケットである。「聴きたくて聴きたくて」と言っている割には音より先にビジュアルかい、という気もするが、いや、それ程にいいジャケットなのだ。
猫を抱く森和代の背景に後ろ向きにひとりの青年(おそらく岡田裕介)が佇むモノクロ(セピア色の)写真に「彷徨(さすらい)・小椋佳」の文字。裏面右半分を頬杖をつく森の顔のアップが占めているが、光が強く当たって輪郭の飛んだ感じがとても美しい。

さて、肝心のレコードだが、やはり「さらば青春」が素晴らしい。他の曲についても、ドラマ(青春物語)を連想させる何曲かはリリシズムにあふれたとてもいい曲だと思うのだが、それにしても現在の僕にはどうしても退屈に感じられてしまうのだ。
ただ、今回「さらば青春」以上に心惹かれたのが「この汽車は」、特にその歌詞であった(→☆)。
冒頭の「この汽車は機関手がいない」というひと言に始まり、行毎に次から次へと位相をずらしながら思いが移ろって行く。これは青春の自問自答であり、ある意味自動筆記のようなものかも知れないが、しかしそれは決して行方知れずに流れて行きはせず、「それでも走り続ける」自意識へと引き戻されるのだ。

シンプルでありながら聴く者に鮮烈なイメージを喚起せずにおかない「さらば青春」にも改めて強く心を動かされたが、「この汽車は」の歌詞の魅力に気付くことが出来たのが、今回の何よりの収穫であったと思う(→★)。

※当時、岡田裕介と森和代は、庄司薫の芥川賞受賞作「赤頭巾ちゃん気をつけて」などでも共演していた青春映画の(小)スター的存在で、他にも数本同じ顔合わせによる映画・TVドラマがあったはずである。
小椋佳はかなり後年になるまで素顔を人前に出さずに音楽活動を行っていたので、中には岡田裕介を小椋だと勘違いしている人もいたというが、僕は何故か小椋佳という人はきっと原田芳雄みたいな顔をしているに違いない、と思い込んでいた(「さらば青春」を聴く度に、どういうわけだかそう思った)。
ラベル:小椋佳 彷徨
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小銭の問題

小銭が嫌いである。
こんなことを言うと、お前はお金を粗末に扱うのか、とか、一円を笑う者は一円に泣くという言葉を知らないのか、とかいろいろと批判されそうであるが、そうではなくて、僕は「余分な小銭」が嫌いなのである。
飲んだ翌日、あるいは何かの支払いのために妻に財布を預けた後など、財布が異常に膨らんでいることがある。五円玉が2枚ある。五十円玉が1枚はしょうがないとして、8枚もの十円玉がそれと同居しているのはいったいどうしたことだろう。五百円玉が6枚の百円玉と共謀して財布を必要以上に膨張させている。あ、一円玉がこんなところに隠れていやがった・・・。
だから、そんな日のコンビニのレジでは、僕はせっせと小銭を吐き出す。そして、まだ少し厚ぼったいが、それでも若干はスリムになった財布をポケットに押し込みながら、ホッと安堵の吐息を漏らすのである。

コンビニやスーパーのレジでは、僕は常に会社の仕事で使う以上の計算能力を駆使している。時には、能力の限界を超えるほどである。
例えば、コンビニのおねえさんに「せんろっぴゃくごじゅうはちえんでございます」と言われると、僕は千円札2枚と百円玉2枚と十円玉1枚、そして一円玉3枚をカウンターに並べる。おつりは五百五十五円だ。ぞろ目で何となく縁起がいいし、硬貨が総数で3枚減少することになる。とても嬉しい。
レジ・カウンターに商品の入ったカゴを差し出した後、とにかくまず僕がすることは、財布の中の小銭の残数を確認することである。各硬貨の枚数をチェックし、打ち込まれる毎に変化するレジの金額表示を見守る。この時僕の胸のレジスターは、おそらくカネゴンのそれのようにカタカタとせわしなく回転していることだろう(んなこたないか)。

時々、僕の差し出した代金を見て悩み始める人がいる。訝しげにレジとお金を見比べている。そのままさっさと打ち込んでくれればいいのに、と思いつつ、僕も何も言えず、ちょっとだけど嫌な空気が流れる。
また、財布の中に8円あるのに代金の端数が「9円」ということがある。せっかく買い物をしたのに、僕の手元には一円玉が更に1枚増えてしまう。
とても悔しい。

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2008年08月04日

「これでいいのだ!」と言うキム・ギドクの「ブレス」

ハンソン刑務所に収監されている死刑囚チャン・ジンは、何度も何度も自殺を繰り返す。それをニュースで知ったヨンは、何故か強烈なシンパシーに囚われ、身内でもないのに足繁く刑務所を訪ねる。
しかし、彼女は本来であればチャンに面会する権利など持たない「赤の他人」でしかない。昔の恋人だと偽るが、誰もそれを本気で信じたわけではない。
では、何故に彼女はチャンに面会することが出来たのか。

ハンソン刑務所には、謎の「保安課長」が登場する。「保安課長」は、何の権利もないヨンを刑務所内に招き入れる。面会室における破天荒な行動を、ほぼことごとく黙認する。しかし、「ちょうどよい塩梅で」面会終了のブザーを鳴らす。時にはヨンと一緒に歌を口ずさみ、踊っていることさえある。自由に監視カメラ(視点)を切り替え、それは時に刑務所の外で雪遊びに興ずる父と子にまでズーム・インする。これは正に「監督」という存在そのものではないのか。

これらから察せられるように、ハンソン刑務所がもしキム・ギドクの内面だとすれば、ヨンは何か。夫の浮気に結婚生活あるいは人生の意味すら見失っってしまった彼女を自らの内面(ハンソン刑務所)に受け入れるということはいかなることなのか。
ヨンは、自分の人生を再現する。歌と壁紙で春夏秋と、絵が好きだったこと、臨死体験、夫との出逢いを振り返る。実はこれは復活の儀式であり、だからこそ冬には舞台装置たる壁紙が存在しない。冬は現在だからだ。そして、冬の歌は、刑務所からどんどん遠ざかって行く時に、夫との二重唱で共有されるのだ。

では、残されたキム・ギドクはどうするのだ。
チャン・ジンはもはやひとりの人格ではないだろう。妻と二人の子供を自ら殺害した男は、キム・ギドク自身だ。だが、同時に、そのチャンにストーカー的恋慕の情を寄せる若い囚人もまたキム・ギドク自身である。牢獄の壁に女の裸体を彫る男も、僕には未だ理解は出来ないがもうひとりの髭の男も、間違いなくキム・ギドクその人なのである。

キム・ギドクは今牢獄にいる。少なくとも、牢獄に例えられる何かを、キム・ギドクは今身内に抱え込んでいる。しかし、その牢獄を、ただ自身の再生のために利用しただけにしか見えないヨンを(そして実際その通りなのだが、その身勝手な女ヨンを)、この映画監督は心から愛しているように見える。
春の歌が「ボン・ボン・ボン・ボン〜」と歌い出されることに、僕は今運命を感じている。
そうだ。今確信したけれど、この映画は本当に「これでいいのだ!」と言っているのだ。
ラベル:キム・ギドク
posted by og5 at 21:12| Comment(1) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「悪魔」と「死神」

鳩山邦夫法相の死刑執行に対して、朝日新聞の夕刊コラム「素粒子」が、同大臣を「死神」と揶揄したことに対して「全国犯罪被害者の会」が質問状を送っていた。
法に則って死刑執行を指示する法相を「死神」と呼ぶことは、法の下の正義(死刑)の執り行われることを望む被害者遺族をも侮辱するものである、というのが彼等の主張である。
そして、この度(3回目の回答)で、朝日新聞側からやっと謝罪の意思が示され、「全国犯罪被害者の会」側もこれを了承したのだという。

「〜犯罪被害者遺族をはじめ多くの方々からのご批判を踏まえたとき、適切さを欠いた表現だったと言わざるを得ない〜」

しかし、果たしてこれが謝罪の言葉だろうか。
そもそも「〜ざるを得ない」というのは、本意ではない、ということの表明ではないのか。

一見謝っているように聞こえるかも知れないけれど、実際はひと言も謝ってなんかいませんよ。謝罪だと受け止めるのは、まあ世間様の勝手ですけどね。

明らかに、朝日新聞はこう言っているわけである。

ビアスの「悪魔の辞典」にでも出て来そうなエピソードだなあ、と思う。
ビアスが一世紀近くも前に著した古典における「悪魔」とは、まぎれもなく「人間」、それもいわゆる「建前と本音」を都合よく使い分ける「人間」そのもののことであろう。
「死神」呼ばわりされた者も、「悪魔」的言説を弄して「謝罪」した者も、共に「人間」なのである。

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※と言っていた自分が、「犯罪被害者遺族」と書くべきところを、当初「犯罪者遺族」と書いてしまっておりました。誠に申し訳ございません。
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2008年08月03日

さらばタリラリラン

赤塚不二夫は僕の憧れの人であった。
小学校三年の時引越しをしたが転校はせず、そのまま同じ小学校にバス通学し続けた僕には、いわゆる普通の意味における「近所の友達」はいなかった。僕は漫画が好きだったので貸し本屋に通った。あるいはまた時には自分で買った週刊誌や月刊誌を、誰もいないしんとした家で読んだ。
小学校高学年の頃から僕は漫画を描き始め、それが友達を作るきっかけにもなった。
他のいろんなことと同じように結局ものにはならなかったが、漫画はやはり僕にとって特別なものだった。
トキワ荘もなんも関係なく、僕はただ赤塚不二夫の漫画が好きだった。

中学生になった僕の2大アイドルは、沢村忠と赤塚不二夫であった。
部屋の壁に、アイドル歌手やロックスターの写真ではなく、ちょび髭を生やしたキックボクサーと片目をつぶったニャロメのポスターを貼っていた。
だから、女の人と一緒に全裸になっている赤塚不二夫をいきなり見せられた時には仰天した。ショックだった。夢が裏切られたと言ってもいいくらいだった。
だが、その夢とはいったい何だろう。
僕にとって赤塚不二夫は、やはりあくまで少年漫画の人であったのかも知れない。

赤塚不二夫を「ギャグの神様」と思ったことは一度もない。
そう呼ばれていたのか、と今回初めて知ったくらいだ。
赤塚不二夫は僕の憧れの人であった。
しかし、僕は、赤塚不二夫が「ギャグの神様」だったから憧れていたのではない。
本当に、ただ友達のように、その漫画が大好きだっただけなのである。

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