2008年09月28日

哀しいけれど優しい「チェブラーシカ」

チェブラーシカチェブラーシカ

ウォルトディズニースタジオホームエンターテイメント 2008-11-21
売り上げランキング : 233

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

わにのゲーナには「哀感」が漂っている。言葉にしてしまうと何だかありきたりで感じが違ってしまうような気もするのだけれど、いや、それはむしろ「諦念」とでも呼ぶべき静かで実体のある孤独か。
わにのゲーナは「諦念」している。そして、それでもなお彼が友を求めずにはいられないのだという事実が、映画「チェブラーシカ」をもの悲しく、しかし優しく彩る。

勝手に、もっと単純にチェブラーシカの可愛らしさや温かいユーモアを前面に押し出したアニメーションだと思っていたので、少なからず驚いた。動物園で「ワニ」として働くゲーナはもちろん、理解し難いほど意地悪な謎の老女(シャバクリャクという名らしい)など、明らかに「脇役」達の方が活き活きとしている。チェブラーシカは、狂言回しの役にさえ立っていないのではないか、と僕は思った。

ゲーナとチェブラーシカが汽車に乗って旅をする3話目が好きだ。ここでもシャバクリャクは意地悪し放題、ゲーナの大切なもの(切符やアコーディオンなど)盗み放題で、そのアナーキーさは遠く地平線にマルクス兄弟のハーポを思い浮かべさせる。
行動に理由も目的もないところが、そしてもしかしたら悪意さえないかも知れないところが、そっくりなのである。

最後、シャバクリャクとチェブラーシカに切符を渡し、自ら汽車の屋根に上るゲーナが悲しい。
しかし、ゲーナの隣りには、すぐにチェブラーシカがやって来る。そして、シャバクリャクもやって来る。
僕はここに至って初めて、チェブラーシカがゲーナにとってかけがえのない存在なのだということを、そしてシャバクリャクでさえもが同じくそのような存在なのだということを理解する。
アコーディオンを弾きながらゲーナが歌う「空色の汽車」が胸にしみる。

※「空色の汽車」は右HPで聴くことが出来ます()。また、公式HPではチラシもダウンロード可。
posted by og5 at 16:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月27日

パン屋のストレス

パン屋では、たいていむき出しのままパンを陳列している。たまに袋入りの時もあるが、そうでない場合の方が多い。
パン屋には、様々な人が出入りする。僕がよく行くパン屋でも、ピーク時には、夫婦者や子供連れの主婦、お昼のパンを物色する作業服の男や休憩時間のタクシー運転手、そしてジイサンバアサン達が狭い店内でひしめき合っている。

僕も意を決して店内に入る。そして、ストレスを溜める。
何がいけないといって、子供連れの主婦が一番いけない。
陳列棚の一段目がちょうど子供のお腹あたりに来る高さになっているせいで、そこにはこの上ないサスペンスが展開されることになる。
「触っちゃ駄目よ!」という声が店内に響くたびに、僕はドキッとする。そしてハラハラする。
子供にトングを与えて遊ばせるという親も結構いる。しかし、これが大間違いなのであって、人は子供だろうが大人だろうが、挟むものを手にすれば挟みたくなるものなのである。だから、当然その子供達も店内の陳列品を独自に物色し始める。そして、挟む。
「駄目ッ! ○○ちゃんっ!」
僕のハラハラは限界に達する。

ところで、塩辛や松前漬けの即売会なども商品はむき出しになっているわけだが、こちらの方は子供が間違って(もしくは悪戯して)手を触れるなどということはまずないと思われるので、あまりストレスは溜まらないのであった。
posted by og5 at 22:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

太陽とセーター

水温む、は春の季語だが、実は秋の水も何ともいい感じで温いものなのだ、ということを僕は今感じている。

今日の天気は典型的な秋の天気で、晴れたり曇ったり、また強い風が吹いたかと思うといきなりバラバラと雨が降り出したり、といった具合で、実に大忙しの一日であった。
僕は、こんな秋の休日に、昨日轆轤で挽いた徳利にカンナをかけたり、音楽を聴いたりして、ぼんやりと午前を過ごしていた。
そして、その作業の後始末のために、玄関脇の水栓でジャブジャブと道具類を洗っていて、ふと思ったのである。
何て温かい水なんだろう、と。

春の水の温かさは人に希望を与えるが、秋の水の温かさは、これからやって来る淋しい冬を、(しかし)懐かしく人に思い出させる。
それは、いわば太陽とセーターの温かさの違いである。

utuwa1.jpg
posted by og5 at 19:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月25日

父親を巡る物語〜「ぐるりのこと。」

「ぐるりのこと。」では、3様の父性が描かれる。第一にカナオ(リリー・フランキー)の自殺してしまった父である。第二に、法廷画家を始めたカナオがそこで出会うベテラン記者・安田(柄本明)である。そして、第三が、妻子をおいて遁走した(プロ野球選手でもあった)妻・翔子(木村多江)の父である。

カナオの父と安田は、それぞれ「逃げた父」、「逃げない父」と言い換えることが出来るかも知れない。カナオが、(亡くしてしまった)我が子に素直な愛情を示せなかったのも、カレーの会における(珍しく感情を露わにした)憤りも、この「逃げた父」の影響だ。
それに引きかえ、安田は逃げない。むしろ、こだわり続ける。安田は子供を交通事故で亡くしており、それが未だに彼の行動あるいは生活の(ある意味)足枷ともなっている。彼は、問い続ける(そして、とらわれ続ける)。「逃げない」とは、つまりそういうことでもある。

翔子の父もまた「逃げた父」である。しかし、後に明らかになるように、それは彼自身の身勝手による出奔というよりも、妻(倍賞美津子)の心的逃走の隠れ蓑としての距離的擬似逃走であった。
彼は、翔子に付き合って、名古屋にいる義父に会いに行く。そして、画用紙にその似顔絵を描く。法廷画家である彼は、日常的に人の顔あるいはその表情を描くことを生業としているわけだが、プライベートにおいては、おそらく彼自身が何らかのシンパシーを強く感じたもの(人)しか描いてはいないはずである。子供、義父、そして翔子・・・。
つまり、翔子の父は、カナオにとってある種触媒のような存在となったのである。

いずれにせよ、このようにして「逃げた父」の中にある事情を理解してしまった彼は、自らの父をも(単純に)ただ憎み拒否し続けるということが出来なくなってしまった。
「ぐるりのこと。」は翔子の心の旅を太い縦糸にしてはいるけれど、実はカナオの父探しの物語でもあったのだ、と思う。
再びカレンダーに×印をつけ始めたこの夫婦に子供が授かるのか(カナオ自身が父親になる機会が訪れるのかどうか)は判らないけれど・・・。
posted by og5 at 21:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月24日

「次郎長三国志」〜(極)個人的泣きどころ

「ぐるりのこと。」でしみじみし、「おくりびと」で嗚咽したのもつかの間、まさか「次郎長三国志」を観てこんなに泣くとは思ってもみなかった。その「心を突き動かされる感覚」は、本当に意外なものであった。

映画は、次郎長(中井貴一)とお蝶(鈴木京香)の祝儀の場面から始まる。しかし、まさにその時、周囲には大勢の捕り方が迫っており、次郎長はやむなくお蝶を後に残し、子分の大政(岸部一徳)らを引き連れ旅に出るはめになる・・・。
実は、僕が(最も)大いに泣いたのは、この導入部から、旅の途中で森の石松(温水洋一)がひと悶着の末一行に加わることになるあたり、そして1年後に清水に戻り本格的に次郎長一家を構えるに至る前半部分なのである。

物語は、それ以降の方が長い。また、お蝶との別れや、それをきっかけとして堪えに堪えていた怒りが一気にあふれクライマックスのチャンバラへとなだれ込むあたりの方が、おそらくはもっとずっと感動的であるはずなのだ。
しかし、僕がしびれたのは、ホントに何でもないような、「旅行けば」のあれやこれやだった。
何て自由なんだろう、と思ったのだ。この伸び伸びした感じは一体何なんだろう、と驚いたのだ。そして、羨ましくて羨ましくてたまらなくなってしまったのだ。
僕は、それこそ嗚咽した。まるで「河童の三平」の三平と狸の喧嘩を見ているようだった森の石松と次郎長達のやり取りや、東海道の青い空、そして彼等の屈託のなさに。

テンポが悪く感じられた後半も、今じわじわと好きになりつつある。
お蝶との約束も反故にして殴り込みをかける次郎長一家はやっぱりカッコいい。
その「大馬鹿者にござんす」な感じが、この映画の真骨頂である。

※前作においても、中井貴一は素敵でしたね。
         ↓
寝ずの番寝ずの番
中島らも 大森寿美男

角川ヘラルド映画 2006-10-18
売り上げランキング : 2585

Amazonで詳しく見る
by G-Tools
ラベル:次郎長三国志
posted by og5 at 21:22| Comment(4) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月21日

寝床

「三人寄れば虫の知恵」を読み返していたら、奥本大三郎が「図鑑を真似して絵ばかり描いていました」と語っている部分を見つけた。「今でも図鑑は見ませんか?」と養老孟司が問いかけると、「枕元に積んであります」と答えている。
「枕元に積む」のだから奥本先生の寝床はベッドではなく和式の布団なのだろう、と思った。そして、そういえば、僕自身も昔は畳の部屋に敷いた布団の上で、枕元に漫画や教科書やそれこそ図鑑などはべらし、時には奥本先生と同じように挿絵の模写なんかしたものだったなあ、などと懐かしく思い出した。

僕が自身の寝床を和式から洋式に切り替えたのは、確か中学校後半のことであった。そして、考えてみれば、僕はその時ひとつの天国を失ったのである。
何故なら、ベッドは空間を切り取るが、和式布団の枕元は、そのまま部屋全体の床とつながっているからで、手を伸ばせば(あるいはごろごろとそこまで転がって行けば)すぐに何にでもアクセス可能な和式布団は、確かに(子供だった)僕の天国だったのである。
これは、あるいは単なる感傷であろうか。

僕の父は、中年になったある年に、さる旅館の布団敷きの仕事に就いた。昔から「ひと儲け」を企む癖のある人で、何度も何度も職を替えたが、結局、この「番頭さん」が一番長続きしたのではないだろうか。
妻と僕は新婚当時の僅か2年足らずの期間だけアパート暮らしをしたが、そこで布団を敷くのは僕の役目だった。シーツをぴんと張って、きちんと敷布団の縁に折り込んで行く僕を見て、妻はよく「日本一布団を敷くのが上手い」と褒めてくれた。
そんなことにまでDNAが影響を及ぼすのかどうか不明だけれど、そう言われると僕はとても誇らしく、嫌いだった父のことも何だかほんの少しだけ好きになるような、そんな気がするのであった。
posted by og5 at 16:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 記憶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月15日

ハンバートハンバート!

まっくらやみのにらめっこまっくらやみのにらめっこ
佐藤良成

ミディ 2008-06-18
売り上げランキング : 804

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

ハンバートハンバートのアルバム「まっくらやみのにらめっこ」を、僕はここ数日間、毎日、繰り返し繰り返し、何度も何度も聴き倒している。

いきなりザ・ウィーザーばりのパワー・ポップ「バビロン」で幕を開ける。「癒し系フォークデュオ」などと評されることもあるという彼等だが、そのサウンドは結構逞しい。佐野遊穂も佐藤良成もとても温かみのある声をしているから、それでそんなことを言われてしまうのかも知れないけれど、いや、別に「癒し系」というのが悪いと言いたいわけではないのだけれど、そんなラベルを貼ってしまうことによって見逃してしまう大切なこともたくさんあるように思われる。

「枯れ枝」、あるいは「静かな家」のような典型的なアコースティック・サウンドの曲にしても、癒されるというよりも胸を抉られる感覚の方が強い。胸を抉られ切なくなることによってこそ得られる「泣いた後」のような状況を「癒された」と呼ぶのなら、彼等は確かに「癒し系」なのかも知れない。だが、それは非常にシビアで、ある意味残酷な「癒し」である。
一方、「大宴会」や「おいらの船」には生命力があふれている。葬式の歌が生命力にあふれているというのも妙な話であるけれど、そこには多分真実がある。これもまた安易な慰めなどでは決してない。

曲作りのほとんどを手がける佐藤良成の歌詞が素晴らしい。また、時に明らかに男の立場で語られるそれらの歌を、女性である佐野遊穂が歌うことによって生じるアンバランスな感じもこのグループの大きな魅力のひとつである。それを、あえて「色気」と呼んでもいいだろう。
(何処までが本当で何処からが虚構であるかは別にして)「透明人間」によって語られる売れてしまったミュージシャンの不安と焦燥は、佐野遊穂の声で歌われてこそあのように胸を打つ。

というわけで、話は尽きないのだが、僕が彼等の他のアルバム全てを一気に注文してしまったことは言うまでもない。
ハンバートハンバートを聴かないで、僕は今までいったい何をやっていたのだろうか。
posted by og5 at 12:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月14日

大いなる助走

<蛾が羽をプルプル震わせているのは、飛び立つために必要となる体温を確保するため、必死になって身体を動かしているのだ>・・・。

僕はこのことを「三人寄れば虫の知恵」で知ったのだと思っていた。これは、 養老孟司、池田清彦、そして奥本大三郎による虫オタク全開の対談本で、虫好きでなくとも大いに楽しめる傑作だが、今朝パラパラと読み返してみたけれど、該当するような記述を見つけ出すことは出来なかった。
いずれにせよ、蛾は準備運動をする生き物で、そのため今まさに叩き潰されようとしているというのに、一向に飛び立たず、羽を小刻みに動かしながら、その辺をうろうろと動き回っているのである。

自分がもし蛾だったら、などと小学生の作文か詩のように想像してみる。
飛び立てないのは、夜になって窓ガラスが冷たくなったのにも気付かず、怠惰に外の景色など眺めていたからだ。どんなに焦っても空中に舞い上がるほどの体温にはまだ程遠い。
ウロウロウロウロウロウロウロウロ。
プルプルプルプルプルプルプルプル。
無闇に粉を飛ばすんじゃないと言われたって、こっちだって好き好んでこうしてるわけじゃない。
ウロウロウロウロ。
プルプルプル。
でも、ああ、もうじきだ。もうじき身体が温まる。温まってエンジンがかかる。
ブルンブルンブルン。
それっ!

大いなる助走は、このようにして終わる。

もしもの時を考えていつも暖かい場所にいればいいのにね。あるいは、最初から蛾になんか生まれて来なければよかったのにね、などと無理な注文をされても出来ないものは出来ないのだ、とあらかじめ考えておいた言い逃れを言う。

<蛾は蛾に生まれるのではない。蛾になるのだ>・・・。

三人寄れば虫の知恵 (新潮文庫)三人寄れば虫の知恵 (新潮文庫)
養老 孟司

新潮社 2001-06
売り上げランキング : 289712

Amazonで詳しく見る
by G-Tools
posted by og5 at 11:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月13日

インターネット

いつからかインターネット上の情報の方が既存のメディア媒体のそれよりも信頼がおけると思うようになっている。だが、それはネット情報が新聞よりも正しいから、とか、公平だから、とか、そんな理由によるものではない。いや、よくその匿名性が揶揄されることでも知れるように、ネット情報の正確性、あるいは公平性はすこぶる怪しい。だが、だからこそ、僕はインターネット上を飛び交う「カオス」を、既存のご立派な「ジャーナル」よりもよっぽど信頼するに足るものとして認識しているのである。

嘘もホントもある。これがネット情報を僕が絶対的に信じられる、と思う決定的なポイントである。何故なら、既存メディアにはホントしかないからである。しかも、そのホントが、何故ホントなのか、実は誰も知らないからである。
前段にも書いた通り、ネットは常に匿名性のせいでその信憑性に疑義を呈される。しかし、新聞において、あるいはテレビにおいてさえ、匿名でない情報など実はごくほんの一部を占めるに過ぎないのだ。新聞社名、あるいはテレビ局名が、さも「署名=責任ある発言」であるかのように(あえて言ってしまえば)勘違いされているに過ぎない。

だからこそ、嘘でもいいから「反論」が必要なのだ。最も大事なことは「疑う」ことではないのか。だったら、それは「匿名」でもちっとも構わない。名乗らなければならないから反論も出来ないより、無責任でも反論出来る方がいい。
嘘を含んでいるかも知れないと思われる情報を前にした時、人は慎重になる。そうならざるを得ない。少なくとも、そのような「態度」を喚起するだけでも、インターネットは既存メディアよりも正直だと思う。
インターネット情報は、図らずも「誠実」なのである。
posted by og5 at 20:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

小人と僕

プライオリティ付けをしっかりして業務に当たっている時ほど、そしてそれがギリギリであればあるほど、予想外の「しなければならないこと」が発生しがちなものである。僕はストレスに弱い。すぐにゲンナリしてしまう。
そんな時(最近)、僕は「ああ、また小人さんが仕事を運んで来た」と思うようにしている。
すると、あら不思議。重苦しい気持ちがまるで嘘のようにすっきりと消えてしまうのである。

僕は元来怠け者である。仕事もあまり好きではない。もちろん、全ての仕事を嫌いだと言うわけではなく、ずっと同じ事を繰り返すような作業、例えば袋貼りとか豆のスジむきとかなら、きっと誰よりも勤勉に勤め上げられるであろう自信があるのだが、残念ながら僕の仕事は「そんなこと」ではない。。
だから、会社勤めは僕にとって非常に大きなストレスになる。それに、会社では、仕事だけではなく、人間関係もまた煩わしい。

9月に入ってからの僕は、多分楽しかった盆休みが長く後を引いているせいだと思うのだけれど、ずっとマイナス思考にとらわれ続けていた。
そこに、小人さんがふいに姿を現した。
余計な仕事を運んで来る小人さんはお荷物だが憎めない。人の悪意や意思疎通の難しさも、一緒に困った顔をして側にいてくれる小人さんを想像すれば、何とか乗り切ることが出来る(ような気がする)。
posted by og5 at 15:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月11日

武富健治の「世界」について

掃除当番―武富健治作品集掃除当番―武富健治作品集
武富 健治

太田出版 2007-03
売り上げランキング :

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

武富健治の短篇集「掃除当番」を読んだ。
これは、「鈴木先生」によって「第11回文化庁メディア芸術祭優秀賞」を受賞した武富の、ほぼ10年くらい前の作品を中心に編まれた、言ってみれば「前夜的」作品集である。
表題作「掃除当番」は、「掃除当番をいつも真面目にやってしまう私」の小さな小さな、しかしまた同時に深い深い物語である。私・丸山康子と、サボりはしないが一所懸命でもない男子二人、そして必ずサボる他の同級生達と教師の正論との間に起こる葛藤が、康子の内面へ内面へと向かう独白によって語られて行く。

初めてこれを読んだ時、僕はすごくショックを受けた。ほんのちょっと右か左へ傾いたらエロ漫画かパロディーにでもなるしかない危ういバランスの上に立って、「純文学」が宮谷一彦の画によって表現されていたからである。
宮谷一彦だけではない。武富健治の作品の後ろには、例えば山田花子(「神の悪フザケ」)、あるいは「永沢君」を描いていた頃のさくらももこの影が、時に垣間見えるような気がする。武富健治の漫画には、何かそういう「古さ」があると思うのである。
もちろん、それは決して悪いことではない。

「掃除当番」があまりに面白かったので、僕はすぐさま本屋に走り、未読だった「鈴木先生」を買って来た。そして、夢中になって読んだ。そこには、まるでドストエフスキーの小説にでも出て来るような(単なる記号ではない)生身の人間がいた。
彼等は都合のよい記号ではないのでぶれる。そのブレが生々しい。「鈴木先生」の中の生徒達は勝手に動いている。もしかしたら武富健治は、登場人物をコントロールしようなどと思っていないのではないか、とさえ思わせる。僕が息をしているこの世界と地続きの何処かで、彼等もまた今確実に息をして生活しているのである。

「掃除当番」も「鈴木先生」も、その同じ「世界」の中にある。

鈴木先生 (1) (ACTION COMICS)鈴木先生 (1) (ACTION COMICS)
武富 健治

双葉社 2006-08-11
売り上げランキング :

Amazonで詳しく見る
by G-Tools
posted by og5 at 19:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 本・雑誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月09日

鼻毛の想い出

高校生の頃、中途半端な演劇部員であった。
演劇部にはマリコさんという先輩がいて、思い当たる節もないが何故か僕のことを可愛がってくれた。
部室で何やかやと話し込んだり、文化祭のフォークダンスに誘って貰ったり。それは僕にとっていわば淡い初恋のようなものであったが、幼稚園でも、小学校でも、中学校でも、そして高校でも、その時々の恋はいつでも常に「初恋」だったなあ、と僕には今何となくそんな風に思われるのである。

ところで、マリコ先輩が笑うと、時々鼻毛がニュッと見えた。笑顔が素敵な人だったから、鼻毛もいつも素敵だった。もしかしたらこっそり煙草を吸っていて、そのせいで他の女子よりも鼻毛が伸びていたのかも知れないが、僕はその鼻毛もコミでマリコ先輩のことをとても好もしく思っていた。
マリコ先輩の鼻毛を見るとホッとした。それは、つまり、マリコ先輩の笑顔にホッとするということとほぼ同義な安心なのであった。

結局、マリコ先輩は高校のクラブ活動の先輩以上の存在にはなり得なかった。しかし、多くの「初恋」がそうであるように、だからこそ想い出は美しい。
意味のないことをいくら重ねても空しいだけだという意見もあるのだが、そしてそれは正論だとも思うのであるが、意味のないことの積み重ねにも、やはり愛しさは宿るのである。
posted by og5 at 21:14| Comment(4) | TrackBack(0) | 記憶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
with Ajax Amazon

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。