2008年10月26日

八百長

「大相撲に八百長はある」と思っている。これは誰を信じるか、もしくは誰を信じないかというような問題ではなく、あくまでも僕の実感から来る結構決定的な認識で、相当昔の「千代の富士−朝汐」戦がその元となっている。
確か千代の富士の優勝がかかった一番であった。立会いから、朝汐は千代の富士を土俵際まで一気に押し込んだ。僕は朝汐の勝ちを確信したが、その一瞬後、今度は千代の富士が朝汐を一直線に反対側の土俵際まで押し返し、何とそのままあっけなく寄り切ってしまった。
何とも不可解な取り組みであったが、驚いたのは勝った千代の富士がこの時苦笑していたことである。
「おいおい、やり過ぎだよ」・・・その表情はまるでそう語っているかのようだった。

一方で、小泉純一郎元総理が発した「感動した!」でも有名な「貴乃花−武蔵丸」戦がある。前日の無双山戦で右膝を亜脱臼したがそのまま千秋楽に臨み、本割で敗れ同じ星となった優勝決定戦で見事武蔵丸を倒したあの大一番だ。貴乃花は再起不能を覚悟しての強行出場。鬼の形相で手にした横綱最後の優勝であった。
誰もこれを「八百長」とは言わない。僕ももちろんそんなこと思ってもいないが、しかし僕はまた同時に、仮にこれが単に力対力、ガチガチの力勝負でなかったとしても少しも構わないとも思っているのだ。もしそうだとしても、あの感動は少しも色褪せたりしない。それは決して「八百長」ではない。もっと性質の異なる「何か」である。

変な例えかも知れないが、特撮映画のピアノ線が見えたからといって誰も文句なんか言わないだろう。観て面白ければ、あるいは興奮(感動)出来ればいいのであって、野暮は言わないのがお約束というものだ。何故映画の話をしているのかというと、実は大相撲も同じなのではないかと考えているからである。「スポーツ」としての「相撲」と「大相撲」は明確に区別して扱わなければならないものなのではないか、とも思う。
もちろん、行き過ぎた「かわいがり」を含め改めるべき点は多々あるのだろうしチープな「八百長」など論外だが、単純な「スポーツ」論に収斂されてしまうのでは大相撲がますますつまらなくなってしまうばかりではないか、とちょっと心配なのである。

僕の祖父さんは、場所が始まるとテレビを観ながら毎晩自前の星取表を付けていた。そして、それを大事そうに、いつも決まって、愛用していたガラスの徳利とお猪口のしまってある食器棚に「隠して」いた。今、あんなことをやっている人間は、多分いないのだろうな。
posted by og5 at 18:50| Comment(17) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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