2008年10月27日

ブラジル!

ウラ・ベスト集~ブラジルウラ・ベスト集~ブラジル
殿さまキングス

Pヴァイン・レコード 2007-06-15
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殿さまキングスの「ブラジル」。そのジャケット写真。
コーヒー豆とジャングルのコラージュを背景に、カナリア・カラーの文字がゴクラクチョウとカーニバル・ダンサーを上下それぞれ左右に従えて「ブラジルっぽさ」を演出している中、紋付袴姿の4人のメンバーが落語家の襲名披露よろしくこちらに向かって軽く頭を下げている。何だかとっても怪しい。

が、怪しいのはジャケットばかりではない。収録曲は、「恋は紅いバラ」あるいは「けい子のマンボ」などのラテン系リズムを基調としたヒット曲のほかは、どれもこれも初めて耳にするものばかりだ。
しかし、いずれもそのグレードは高い。
かの「幻の名盤解放歌集」にも収録されていた三浦正弘とアロハ・ブラザーズの名曲「ラリラリ東京」をカバーした「メロメロ東京」。ダディ竹千代と東京おとぼけキャッツを彷彿とさせる名演「港町まっさかさま」。下品な歌詞が最高な「鏡よかがみ」。オーソドックスだが聴き応えのある「裏町哀歌」の名唱。「ロロ子は18 流れ唄」の素晴らし過ぎる歌詞・・・。
奄美諸島ハワイブラジルと何故か「日系」周辺をウロウロするだけのワールド・ミュージックも、いかにも殿キンらしくてよい。

宮路オサムの唄を聴くと、強烈にその顔を思い出す。思い出さずにいられない。いや、聴くまでもなく、その歌声を想像しただけであの目元口元が脳裏に浮かんで来てしまうのだ(僕の中では「エンタテインメントな曲を歌っている時の小川知子」と双璧をなす)。
いやとにかく、一聴の価値あり、です。

※そうそう、解説によれば、「恋は紅いバラ」の最高にカッコいい「ウッ!」は、リーダー長田あつしがペレス・プラード本人から直々に指導を受けたものだそうであります。

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ペレス・プラード楽団

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2008年10月19日

演歌じゃない!!

映画「歩いても 歩いても」で、父(原田芳雄)が音楽の好みの問題でむきになり思わず声を荒げてしまうというシーンがある。夕食の食卓、嫁(夏川結衣)が、「(クラシックのレコードが随分ありますけど)他にはどんなジャンルの音楽をお聴きになるんですか?」と訊ねると、「まあジャズかな」なんて結構カッコつけて応えた後で、「でもカラオケで『昴』が十八番だそうじゃないか」と家族に茶化されて思わず怒鳴る、という展開。
その熱いひと言が「『昴』は演歌じゃないだろう!!」であった。

大いに笑ったが、しかし演歌も大好きである僕は同時に少し考えてしまった。谷村新司には何の恨みもないけれど、「『昴』を演歌だなんて言ったら演歌に怒られる」と逆に思ったのである。
家族にとってみれば「昴」も演歌も同じようなものというのがオチなのだろう。しかし、そもそも、「昴」の(多くはこの曲をカラオケで素人が歌う時の)カタルシスと演歌のそれとは全く別物である。つまり、立派過ぎるのだ。
立派じゃないのがいいところ。下世話なところがいいところ。だから、ここが演歌の「キャッチ22」で、実は馬鹿にされることをもって良しとすべきなのかも知れないな、と僕はふと考えた。

今では多くの演歌が(多分ひと頃のニューミュージックブームの影響を強く受けて)それ自体変質してしまっているようにも思われる。
元々流行歌は「世に連れ人に連れ」というくらいだからそれでいいのかも知れないけれど、ご立派な演歌なんてやっぱりあんまり面白くない。
頭の中に急に宮路オサムのニチャッとした顔が浮かんだ。
「殿さまキングス聴かせるぞ!」と相手もいないのに密かに呟く日曜の午後である。

エッセンシャル・ベストエッセンシャル・ベスト
殿さまキングス

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ウラ・ベスト集~ブラジルウラ・ベスト集~ブラジル
殿さまキングス

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2008年09月15日

ハンバートハンバート!

まっくらやみのにらめっこまっくらやみのにらめっこ
佐藤良成

ミディ 2008-06-18
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ハンバートハンバートのアルバム「まっくらやみのにらめっこ」を、僕はここ数日間、毎日、繰り返し繰り返し、何度も何度も聴き倒している。

いきなりザ・ウィーザーばりのパワー・ポップ「バビロン」で幕を開ける。「癒し系フォークデュオ」などと評されることもあるという彼等だが、そのサウンドは結構逞しい。佐野遊穂も佐藤良成もとても温かみのある声をしているから、それでそんなことを言われてしまうのかも知れないけれど、いや、別に「癒し系」というのが悪いと言いたいわけではないのだけれど、そんなラベルを貼ってしまうことによって見逃してしまう大切なこともたくさんあるように思われる。

「枯れ枝」、あるいは「静かな家」のような典型的なアコースティック・サウンドの曲にしても、癒されるというよりも胸を抉られる感覚の方が強い。胸を抉られ切なくなることによってこそ得られる「泣いた後」のような状況を「癒された」と呼ぶのなら、彼等は確かに「癒し系」なのかも知れない。だが、それは非常にシビアで、ある意味残酷な「癒し」である。
一方、「大宴会」や「おいらの船」には生命力があふれている。葬式の歌が生命力にあふれているというのも妙な話であるけれど、そこには多分真実がある。これもまた安易な慰めなどでは決してない。

曲作りのほとんどを手がける佐藤良成の歌詞が素晴らしい。また、時に明らかに男の立場で語られるそれらの歌を、女性である佐野遊穂が歌うことによって生じるアンバランスな感じもこのグループの大きな魅力のひとつである。それを、あえて「色気」と呼んでもいいだろう。
(何処までが本当で何処からが虚構であるかは別にして)「透明人間」によって語られる売れてしまったミュージシャンの不安と焦燥は、佐野遊穂の声で歌われてこそあのように胸を打つ。

というわけで、話は尽きないのだが、僕が彼等の他のアルバム全てを一気に注文してしまったことは言うまでもない。
ハンバートハンバートを聴かないで、僕は今までいったい何をやっていたのだろうか。
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2008年08月15日

温故知新〜「彷徨」

彷徨彷徨
小椋佳

ユニバーサルJ 2006-10-04
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時々無性に昔聴いていたレコードが聴きたくなる。いいのか悪いのか(少なくとも高校生の頃に比べれば)自由になるお金もあるので、すぐに買ってしまう。
まあ、いいのであろう。
そんなわけで、今回は小椋佳がどうしても聴きたくなって「彷徨」を買った。

まず、圧倒的にこのジャケットである。「聴きたくて聴きたくて」と言っている割には音より先にビジュアルかい、という気もするが、いや、それ程にいいジャケットなのだ。
猫を抱く森和代の背景に後ろ向きにひとりの青年(おそらく岡田裕介)が佇むモノクロ(セピア色の)写真に「彷徨(さすらい)・小椋佳」の文字。裏面右半分を頬杖をつく森の顔のアップが占めているが、光が強く当たって輪郭の飛んだ感じがとても美しい。

さて、肝心のレコードだが、やはり「さらば青春」が素晴らしい。他の曲についても、ドラマ(青春物語)を連想させる何曲かはリリシズムにあふれたとてもいい曲だと思うのだが、それにしても現在の僕にはどうしても退屈に感じられてしまうのだ。
ただ、今回「さらば青春」以上に心惹かれたのが「この汽車は」、特にその歌詞であった(→☆)。
冒頭の「この汽車は機関手がいない」というひと言に始まり、行毎に次から次へと位相をずらしながら思いが移ろって行く。これは青春の自問自答であり、ある意味自動筆記のようなものかも知れないが、しかしそれは決して行方知れずに流れて行きはせず、「それでも走り続ける」自意識へと引き戻されるのだ。

シンプルでありながら聴く者に鮮烈なイメージを喚起せずにおかない「さらば青春」にも改めて強く心を動かされたが、「この汽車は」の歌詞の魅力に気付くことが出来たのが、今回の何よりの収穫であったと思う(→★)。

※当時、岡田裕介と森和代は、庄司薫の芥川賞受賞作「赤頭巾ちゃん気をつけて」などでも共演していた青春映画の(小)スター的存在で、他にも数本同じ顔合わせによる映画・TVドラマがあったはずである。
小椋佳はかなり後年になるまで素顔を人前に出さずに音楽活動を行っていたので、中には岡田裕介を小椋だと勘違いしている人もいたというが、僕は何故か小椋佳という人はきっと原田芳雄みたいな顔をしているに違いない、と思い込んでいた(「さらば青春」を聴く度に、どういうわけだかそう思った)。
ラベル:小椋佳 彷徨
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2008年07月04日

長唄にハマル

コロムビア 邦楽 名曲セレクション20 長唄コロムビア 邦楽 名曲セレクション20 長唄
山田抄太郎 今藤長十郎 杵屋五三助

コロムビアミュージックエンタテインメント 2003-10-22
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偶然FMラジオから流れて来た邦楽番組を聴いて、「お」と思った。
これが「おおッ」でも「おー」でもないのがいい感じだったと思うのだが、上手く説明は出来ない。
ともかく、その番組がきっかけで、僕は生まれて初めて長唄のCDを買った。

購入したCDの「長唄について」によれば、長唄というのはそもそもは江戸歌舞伎の伴奏用音楽であったという。ところが、これが巷で習い事として流行し始め、江戸末期にはひとつの独立した音楽ジャンルとして確立したのだとか。他ジャンルの地唄の中にも「長歌」という種類があるので、それと区別するため、本来は「江戸長唄」というのが正確らしい。

これまで長唄なんてちゃんと聴いたことはなかった。言葉は知っていたが、それは「お師匠さん」という言葉とひと組になった時代劇の世界のことでしかなかった。
あるいは、幼少の頃、まだ放送休止時間のあった白黒テレビの歌舞伎中継で流れていたのがもしかしたら長唄だったのか、とも思うが、それもまた僕には全く興味のない世界なのであった。

ところが、ラジオから流れて来る長唄は何故か懐かしかった。CD1曲目の「元禄花見踊」を聴いた時も、やはり同様に感じた。そして、20分近くもある曲なのに、少しも退屈しない。
これは僕のDNAの中に邦楽を愛しむ因子が組み込まれていたということか、あるいは単なるBGMだったとはいえ幼少時の記憶が呼び覚まされてそう感じるということなのか、僕には判らない。
判らないが、それでもとにかく長唄は面白い。

調子に乗って同シリーズ「コロムビア邦楽名曲セレクション20」の「小唄」と「端唄」も購入したが、1曲あたりの演奏時間の長い「長唄」の方が僕の好みには合っているようだ。
まったりと流れる時間がたまらない。
ラベル:長唄
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2008年03月30日

カッコいいジャケット

かつて音楽をレコードで聴いていた時代には、ジャケット買いなどということをよくやったものである。知らないアーティスト、聴いたこともないレコードを、ジャケットのデザインや雰囲気のみで判断し、(時にはひどく迷いもしたが)それこそ衝動的にレジに走った。不思議なことに、あまり失敗したという記憶はない。

さて、僕が今まで出会ったレコード(CD)ジャケットの中で、「これこそ最高傑作!」と思うものはいったい何であろうか。
真っ先に頭に浮かぶのは、ザ・ダムドの「地獄に堕ちた野郎ども」と、スパークスの「キモノ・マイ・ハウス」である。これは優劣つけ難い。

「地獄に堕ちた野郎ども」の方は、真っ黒な中に太い字体で「DAMNED」の文字が黄色く浮かび上がるのを背景に、4人のオリジナル・メンバーが顔中をクリームだらけにして、白目を剥いたり他メンバーの髪の毛にくっついたクリームをなめたりしているもの。これはパイ投げの後というシチュエーションか、はたまた人様の誕生日パーティにでも闖入して滅茶苦茶に暴れまくった挙句の記念撮影か。
原題は「Damned Damned Damned」というのだが、「地獄に堕ちた野郎ども」という邦題もまた素晴らしい(ちなみに「damned」は「呪われた〜、忌々しい〜」という意味。まさにドンピシャである)。

一方「キモノ・マイ・ハウス」のジャケットでは、くすんだ若草色をバックにしてキモノ姿の二人の東洋系女性が艶然と(もしくはグロテスクに)佇む。派手な柄のキモノ。だらしない着こなし。中途半端に剥げかかった白塗りとほつれた髪。明らかにモロその手の女性が「ウチニオイデヨ」と誘っている図である。この怪しいドアの向こうにスパークスの世界があるんですよ、ということなのであろうが、それにしてもそのインチキ臭さが最高である(モデルのひとりが山内テツ夫人であるという話を聞いたことがあるけれど、真偽のほどは定かではない)。

デザインの良し悪しは、媒体がCDになってからもやはりそれなりにその作品の魅力を大きく左右するひとつの要素ではあるが、レコードジャケットほどの磁力はもはやそこにはないような気がする。これはひとえに「大きさ」の問題であろう。何しろ、CDでは、時に解説の字さえ(小さ過ぎて)読めないことがあるのである。
また、美しいという意味ではパティ・スミスの1枚目「Horses」、あるいはブライアン・イーノの一連の作品なども思い起こされるのだが、僕には芸術的に過ぎて今ひとつガツンと来ない。

地獄に堕ちた野郎ども地獄に堕ちた野郎ども
ダムド

テイチク 1996-09-21
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キモノ・マイ・ハウスキモノ・マイ・ハウス
スパークス

マーキュリー・ミュージックエンタテインメント 1997-12-17
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2008年03月11日

「ヒューマン・ルネッサンス」、加橋かつみ

ヒューマン・ルネッサンスヒューマン・ルネッサンス
ザ・タイガース

ポリドール 1994-06-01
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ザ・タイガースのタローこと森本太郎が初めて作曲した曲「青い鳥」は、アルバム「ヒューマン・ルネッサンス」に収録されている。ザ・タイガース屈指の名盤と評価も高い本作では、森本だけではなく、トッポこと加橋かつみも曲作りに取り組んでおり、ヒット曲「廃墟の鳩」をはじめとしてリード・ヴォーカルをとっている曲も多い。
驚くべきことに、これは立派にコンセプト・アルバムで、前年(1967年)既にザ・ビートルズの「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」が発表されているとはいえ、デビュー3作目のGSのアルバムでこの完成度はやはりすごいと思う。

作曲ということに関しては、ザ・テンプターズの松崎由治も、デビュー当時からごく当たり前のようにして優れたオリジナル曲(たとえば「忘れ得ぬ君」など)を作っていたわけで、これは何もザ・タイガースがパイオニアであるなどということではない。有名無名を問わず、オリジナル勝負のGSバンドは他にもいた。しかし、何といってもアイドルの(ある意味当時アイドルでしかなかった)ザ・タイガースがこれを作ったということに、僕は感動するのだ。
これも結局は「作られたもの」でしかない、という見方もあるであろう。実際、演奏面におけるバンドとしての存在感は甚だしく低く、オーケストラによるクラシカルなサウンドが全体の印象を支配している。
しかし、それでもやはり僕は、これは彼等のオリジナルな名盤なのだ、と思う。何故なら、ここには、何かを創造する喜びがあふれている。聴く度にそれがひしひしと伝わって来るからである。

収録されているのは全部で12曲。「光ある世界」で始まり「廃墟の鳩」で終わる37分間は、とにかくヨーロピアンで中世的な魅力と詩的情緒に満ちている。このアルバムで、加橋かつみの果たした役割は大きい。
玉置宏がラジオ番組中、このアルバム発表の翌年起こった加橋の「失踪事件」を、「実に下らねえ」と吐き捨てるように言っていたのを僕は強烈に記憶しているが、実は渡辺プロのヤラセだったという「失踪事件」前から、加橋は強くザ・タイガース脱退を求めていたのだという。
このタイトルを「人間再生」と訳すことが出来るだろうか。その結果はともかく、アルバム「ヒューマン・ルネッサンス」の世界観と、加橋の「失踪・脱退」は、見事にシンクロしている。

パリ1969(紙ジャケット仕様)パリ1969(紙ジャケット仕様)
加橋かつみ

ユニバーサルJ 2006-10-04
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2008年02月26日

「走れコウタロー」考

何の脈略もなくある歌が心に浮かんで、ずっとリピートし続けるということがある。
今日は、小雨の帰宅途中、どうしてだか突然「走れコウタロー」がわいた。
「走れコウタロー」(作詞・池田謙吉、作曲・池田謙吉/前田伸夫)は、ソルティー・シュガーの大ヒット曲。今はもう手元にないけれど、中学生の頃はシングル盤も持っていた。
突然わいた「走れコウタロー」の歌詞は、僕を感動させた。というのも、コウタローが実は失敗してしまったのだ、と(呆れたことに今頃になってやっと)気付いたからである。

コウタローは、「スタートダッシュで出遅れる」し、「どこまでいっても離される」駄目な奴である。一応は「天下のサラブレッド4歳馬」なのであり、ハレのダービーにも出ているのだから、全くの駄馬というわけでもないのだろうが、圧倒的に分は悪い。
だが、「ところが奇跡か神がかり」なことが起こる。コウタローが「いならぶ名馬をごぼう抜き」し、「いつしかトップにおどり出て」しまうのだ。
どうやらコウタローに有り金の全てを賭けていると思しき「おいら」は大喜びだ。

走れ走れ コウタロー
本命穴馬 かきわけて
走れ走れ コウタロー
追いつけ追いこせ 引っこぬけ

しかし、いいことばかりは続かない。調子に乗り過ぎたコウタローは、何と「ついでに騎手まで振り落と」してしまう。
つまり、失格である・・・。

結果が全てだ、という人がいる。また、結果だけが全てではない、という人もいる。
前者が真実なら、コウタローはただのお調子者の馬の骨であるが、後者につきまとう「慰め感」もコウタローにはそぐわない。
コウタローははっきりと失敗したのだ。だが、多分歯をむき出しにして笑っている。
その無意味な元気が感動を呼ぶ。
この時、実は失敗自体が意味を失っているのである。

ソルティ・シュガー茶歌集<走れコウタロー>ソルティ・シュガー茶歌集<走れコウタロー>
ソルティー・シュガー

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2008年02月10日

いしだあゆみの魅力〜「歌手」編

筒美京平 TRACKS筒美京平 TRACKS
いしだあゆみ

コロムビアミュージックエンタテインメント 1998-01-21
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いしだあゆみの声は不思議な声である。
カサカサと風に吹かれてこすれる枯葉のようでもあるけれど、僕には、細い繊維を織り合わせて滑らかに仕上げられた絹のように感じられる。見た目と相俟って線の細いイメージがあるけれど、結構芯が強い。そして艶がある。

いしだあゆみの歌は、その節まわしにも独特の魅力がある。
彼女は、ビブラートをきかせて歌い上げたりはしない。いわゆる「上手い」歌手でもないだろう。しかし、実はものすごくテクニカルに歌を歌っている人なのではないか、と思う。
彼女の声の伸ばし方には大きく分けて3種類あって、ひとつは、ただ棒のように長く息を伸ばす歌い方。ふたつ目が言葉尻に甘えたように「ン」が入る歌い方。そして三つ目が、その節最後の音の頭もしくは長く伸ばした声の途切れる瞬間に「〜(ニョロ)」を入れる歌い方である。
そして、これら3種類の表現が何とも絶妙に組み合わされている。その効果までを考慮して、一小節一小節、スタッフによって(時には彼女を含めて)どの節まわしにすべきかが選択されているに違いない。
ためしに、彼女の大ヒット曲「ブルー・ライト・ヨコハマ」をそのように表記してみれば、「まちのあかりが とてもきれいね よこはまン ぶるーらいとよこはまー〜 あなたとー〜 ふたりー〜 しンあンわせよ〜ー〜♪(以下略)」となる。
僕は、この中で特に「〜(ニョロ)」が大好きである。癖になる、と言ってもいいくらいだ。

いしだあゆみは、絹の声と不思議な「〜(ニョロ)」を含む歌唱法で数々のヒット曲を世に送り出して来た。残念ながら、70年代の「砂漠のような東京で」以降は大きなヒット曲に恵まれていないし、もう本人にもあまりその気がないのかも知れないが、BSフジの音楽ドキュメンタリー「HIT SONG MAKERS 筒美京平編」において、「絵本の中で」を誰かと会話するかのように歌う彼女を見れば、まだまだ多くの魅力と可能性がそこには秘められているような気がするのだが、どうだろうか。

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2008年01月26日

僕らが見た光〜小沢健二のことなど

刹那刹那
小沢健二

EMIミュージック・ジャパン 2003-12-27
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小沢健二は今頃何処で何をしているのだろう、とふと思うことがある。
そういう時は、たいてい彼のある曲(のひとつ)を思い出し心の中で口ずさんだ後であり、その曲は時に「恋しくて」だったり、あるいはまた「いちょう並木のセレナーデ」だったりする。
小沢健二が何処で何をしていようと、僕には全く関係のないことではあるのだけれど、僕は時々彼のことを、何の前触れもなく、このようにして思い出す。

一瞬にして消えてしまう、「永遠」ではないが美しいもの。
小沢健二の曲を聴いて(想い出して)僕が泣きたくなるのは、その無常観があまりにも切な過ぎるからだが、その歌詞は決して押付けがましくはない。むしろ「ポカン」としている。
だが、たとえば、「恋しくて」に出て来る「二人でよく見た映画はなぜだか ”シリアル・ママ”とか”蛇拳”とか」だの、「ブドウを食べたり ”キムチラーメン”を探して夜遅く出かけた」という歌詞が、「そんなことの全て 僕らが見た光 眩しすぎて生々しくて痛むよ とりあえず」に引き継がれる時、僕の胸はただただ狂おしくさざ波立つのである。

ところで、僕は今、「デス・プルーフ」前半の切なさと、小沢健二の歌の切なさを、とても近しいものだと感じ始めている。そして、それはまた、ジャック・ケッチャムの一連の小説にもつながるものなのではないか、と思う。
クエンティン・タランティーノとオザケンと陰惨極まりない(と世間では思われている)作家が、いったいどうして結び付くのか。
それは、少なくとも、何処にだって同質なある「美」というものが存在可能である、ということの証明ではあるかも知れない。

僕が今一番観たい映画は「シリアル・ママ」である。しかし、この傑作は日本では何故か今まで一度もDVD化されたことがないはずだ。
テレビの洋画劇場で観て頭がグラグラした記憶を辿りながら、僕は今小沢健二の「LIFE」を聴いている。

シリアル・ママシリアル・ママ
サントラ L7 バリー・マニロウ

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2007年11月11日

アドリアーナ! アドリアーナ! 喉が渇いた!

Adriana PartimpimAdriana Partimpim
Adriana Calcanhotto

BMG Argentina/Ariola 2004-11-30
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例えば、声がキレイじゃなきゃ歌手になれない、とか、そんなことに反発を覚える気持ちが強かったからこそ、僕はロックというものを聴いて来たのかも知れないのである。
だから、ロックの中でも、テクニック重視の風潮がはびこり出すと、僕はその息苦しさから逃れるように、「演奏なんか下手クソでも出来る」パンク・ロックに、あくまでも「自分ではやらない人」として、ある意味他力本願な無責任さで飛びついたのだ。

また僕は、癒し系などと呼ばれる音楽が大嫌いである。
映画でもよく思うことであるが、何かの目的のために存在する「表現」は、いかにその目的がご立派で有無を言わさぬ真っ当なものであるとしても、そもそもが単なる「手段」でしかない。もしかしたら、「それ」でなくても全然構わないのかも知れないのである。
「映画」がそうであっていいとは思わない。「音楽」もまた、そうであっていいとは思わない。

でも、キレイな声はやっぱりキレイで気持ちいい。
それに癒されたとしても、それは決してその声の罪じゃない。

妻の熱意に引きずられるようにして観に行ったアドリアーナ・カルカニョットのライヴは素晴らしかった。が、僕が本当に彼女のファンになったと自覚したのは、実はほんの最近のことである。
今僕は、とにかく暇さえあればアドリアーナのCDを聴いているのだ。そして、その声にほれぼれしているのだ。

アドリアーナの歌は、僕の下らない反抗心を骨抜きにする。
アドリアーナの歌は、僕を癒しもするが同時にまた孤独にもする。

ああ、喉が渇いた。
聴いても聴いても、僕は彼女の歌をなお渇望する。
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2007年09月24日

第2のビートルズ

アビイ・ロードアビイ・ロード
ザ・ビートルズ

EMIミュージック・ジャパン 1998-03-11
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「第2のビートルズ」という言い方があった。
今でもあるのかどうかは知らない。音楽雑誌を全く読まなくなってしまったからだ。
50年代がプレスリーの時代だったのに対し、60年代をビートルズの時代だという。異論もあろうが、まあ、そういうことになっている。
では、70年代は、というのが「第2のビートルズ」のそもそもの語源である。
バッド・フィンガー、デビッド・ボウイ、ベイ・シティ・ローラーズ、僕の記憶が正しければアバまでもが確かそう呼ばれていた。

結局、「第2のビートルズ」は現れなかった。
それは、当然の話である。
候補として名の上がったアーティストやミュージシャンに魅力が足りなかったとか、力不足だったとか、そんなことではない(いや、実際の話は置いておいて)。彼等に何かが足りなければ「第2〜」に成り得ないのと同じように、仮にビートルズ以上の才能と運に恵まれていたとしたら、それはそれでまた彼らを誰も「第2の〜」とは呼べないのである。
つまり、元々「第2の〜」には意味がないのだ。

しかし、それでも人は、ひと頃「第2のビートルズ」にこだわった。あるいは今でも求めている人はいるのかも知れない。何故だろう。
これは僕の想像だが、それは彼等が抱く欠落感のせいではないだろうか。
今現在、生まれて初めての音楽無我夢中期を送っている少年少女は、間違っても「第2の」何かなど求めたりしないだろう。彼等には多分何もかにもが「第1の」何かであろう。
「第2の」何かを求めるのは、僕達が「第1の」何かを知っており、そこから素晴らしく充実した何物かを受けとったが、しかし今は既にそれを失ってしまったからなのではないか。

音楽ではないが、僕はこのことからウディ・アレンの「アニー・ホール」の1シーンを思い出す。
それは、アニーを失った後の主人公が、ロブスターを茹でている際、ふざけても何の反応も示さない新しい恋人について、何かが違う、と愚痴るシーンであった。
もう詳しくは憶えていないが、それは、やっぱり彼女でなければならないというある「感じ」について語った言葉で、つまり彼にとってアニーは「第1の」ではなく、ただひとりの特別な女性だったのであり、「第2の」アニーなどそもそもこの世に存在しないということなのである。
それでも、人は多分求め続けるのであるけれど。
アニー・ホールアニー・ホール
ウディ・アレン ダイアン・キートン トニー・ロバーツ

20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン 2007-01-26
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2007年04月17日

チーム・アメリカ!? いや、BECK!

GueroGuero
Beck

Interscope 2005-03-29
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暗転したステージでいきなり始まったのは、何とパペット・ショーだった。
「チーム・アメリカ!?」
「いや、BECK(のはず)だ!」
4月14日土曜日、ZEPP仙台、BECKのコンサートは、そのように幕を開けた。

舞台中央には「人形劇」用の舞台内舞台がしつらえてある。そして、それがそのままプロジェクターで背後の大きな画面に映し出される。
ロック・コンサートなどで、実際の演奏をそのままプロジェクターで映し出す、というのはよくある「手」である。大きな会場では、ほとんど豆粒にしか見えないスターを何とかして身近に感じられるように、という配慮もあるであろう。また、画像処理に凝って、アーティスティックな表現を目指す、という場合もあるであろう。
しかし、このBECKのコンサートにおけるプロジェクターの意味は何なのか。

演奏しているのは人形か? それとも人間か?
僕には段々判らなくなる。
というか、そもそも明らかに最初は、人形が演奏するオープニング・ナンバーに導かれるように人間が登場したのである。
そしてスクリーンの人形と人間とはやがてシンクロし始める。
今は確かに人間が演奏している。しかし、いつの間にか、僕はスクリーンに映し出されている人形を人間だと思い込んでしまっているのだ。

ここにあるのは、表面的には「笑い」であり「ユーモア」である。BECK並びにバンドのメンバーと全く同じファッションに身を包んだ人形は、確かに可愛い。実にしっかりと「演奏」もしている。立ち位置も換え、楽器も持ち替える。
だが、人形がついには「PUPPET CAM」を手に、実際に演奏している人間を追うに至って(そしてその画像がプロジェクターに映し出されるに至って)、僕の哄笑は約1/2ほど驚愕の叫びに変わる。
もはやこの人形には生命が宿っている。

「ユーモア」が「ナンセンス」に取って代わられ、玉ねぎの皮のように(あるいはマトリョーシカのように)際限なく脱ぎ捨てられて行く真実が僕に眩暈を起こさせる。
このショーは結構グロテスクだ。大笑い出来るし、演奏もカッコイイが、同時にまた、不条理劇のように観る者を不安に陥れる何かを隠し持っている。
まるで、マルクス兄弟の鏡のシークエンスである。
ああ、面白くて堪らない。

我輩はカモである我輩はカモである
グルーチョ・マルクス レオ・マッケリー ハーポ・マルクス

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2007年04月08日

音楽は、時に自分で選択するもの

白い暴動  (紙ジャケット仕様)白い暴動 (紙ジャケット仕様)
ザ・クラッシュ

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「音楽は、時に自分で選択するものだ」などと言ったら、そんなこと当然ではないか、と笑われるであろうか。
確かに、人がCDショップで何枚かのCDをレジ・カウンターに差し出す時、それは彼あるいは彼女が選択したものであることに間違いはない。ラジオから、テレビから、誰かの曲が流れて来た時、それが気に入らなければ、人はチャンネルを替えてしまうことが出来る。また、同じように、気に入った曲が現れるまで、チャンネルを切り替え続けることも可能なわけであり、この場合もやはり音楽は(間違いなく)彼あるいは彼女に選択されているのである。
しかし、それは僕が今言おうとしている「選択」ではない。

僕が初めてキンクスの曲を耳にしたのは、みのもんたがDJを務めていた「オールジャパンPOP20」という番組だった。曲は「ローラ」である。
「ローラ」は、キンクスにとって「ユー・リアリー・ガット・ミー」以来の大ヒット曲ということになっているが、当時の僕が受けた印象はごく地味なものでしかなかった。ランクも確か20何位かそこらで、その頃の他のヒット曲とは明らかに異質なサウンドと相俟って、僕の食指は全く動かなかった。
そしてその数年後、僕が初めて買ったキンクスのレコードは「プリザベイション<第1幕>・<第2幕>」であった。このおそろしく聴きづらい壮大な失敗作を、僕は必死になって聴いた。「耳にした瞬間から虜になった」からではない。取っつきにくさを克服するために、そしてこれを何とかして好きになるために、必死になって聴いたのである。

初めてクラッシュの「白い暴動」を聴いた時も、それは僕には異質なものであった。遊びに来た友達に聴かせたら、「パンクって、歌下手くそなんだな」と言われた。
その友達と僕は、同級生だった中学の頃、一緒にフォークソングを作って歌っていた。正直に言えば、ジョー・ストラマーの歌は、僕にとってもやはり「下手くそ」だったのであり、決して親しみ易いと言えるような代物ではなかった。しかし、この時も僕は「白い暴動」を必死になって聴き続けた。

どうして僕は「「プリザベイション<第1幕>・<第2幕>」を、そして「白い暴動」を、あんなにむきになって、繰り返し繰り返し、意地になって聴いたのだろう。
僕は、それが僕の「選択」だったからなのだと思う。「好きだった」のではない。「好きになるべきだ」、と自分で決意したのだ。
「音楽は、時に自分で選択するものだ」とは、そういう意味である。
そして、残念ながら、僕は今そういう音楽を持てないでいる。

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2007年03月19日

初恋の丘

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由紀さおり 山上路夫 渋谷毅

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初恋の人はいったい誰だったのか、と何度考えただろう。中学生の頃、僕はもうぼんやりとそんなことを考えていた。高校の頃も、そして卒業して田舎の郵便局に勤め始めた頃も、僕はやはり時にそんなことを考えては、無駄に時を過ごしていた。

こんなことを思い出したのは、昨日ある人の夢を見たからである。
「初恋の人」は、夢の中で、僕と並んで何故か漫画を描いていた。彼女の描く物語とその画があまりにも素晴らしくて、僕は嫉妬している。でも、その嫉妬は半分尊敬の入り混じった複雑なもので、僕は夢の中でも彼女には好きだとなかなか言えずに、関係のないどうでもいいことばかり言っているのであった。

彼女は、僕の中学の頃の同級生である。彼女は、僕の「初恋の人」ではあるが、しかし本当の意味の初恋の人ではない。僕は、中学になるまでにも随分いろんな人を好きになって、そしてまた何度目かのある春にその人を好きになったのだ。
人は、多分「初恋の人」を作り上げるのである。その人その人の長い、あるいは短い時間の中で巡り合った何人かの人の中から、一番自分に相応しい、言ってみれば自分が求める物語に最もぴったりと隙間なく当て嵌まる相手を選りすぐって、そして思い出にするのだ。

「初恋の丘」というのは、由紀さおりの1971年のあまりヒットしなかったシングルである。大ヒット曲「夜明けのスキャット」が1969年、「手紙」「生きがい」が1970年の作で、吉田拓郎が作った「ルーム・ライト」をはじめ一風変わった由紀さおり独自の歌謡曲の世界が展開されるまでにはまだ2年ばかりを要する。
この曲の歌詞は北山修が書いている。
幼稚だった僕は、あまりリアルではなく深くもない北山修の歌詞に居心地のよさを感じていたのだが、今では同じその歌詞に普遍を感じている。

いつからあの人が僕の「初恋の人」として確定したのだろうか、と思う。
その後のいくつかの恋が、それまでとそんなに違っていたとも思わない。
だが、何かが過去になったのだ。
そして、僕は多分、それを正式な思い出として位置付けたのである。

由紀さおり全曲集~35周年記念~コレクションI由紀さおり全曲集~35周年記念~コレクションI
由紀さおり 山上路夫 いずみたく

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2007年02月11日

LIFE'S A GAS

電気の武者電気の武者
T.レックス

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水木しげる先生が「本日の水木サン」で言っている「屁のような人生」とは一体どのような人生なのであろうか、と考えていたら、「あ、そう言えば」とT.レックスの「電気の武者」を思い出した。
「電気の武者」は、彼等が人気絶頂だった1971年の作品で、トニー・ヴィスコンティがプロデュースを務めている。
僕が思い出したのは、このアルバム中の「LIFE’S A GAS」という曲で、歌詞は次のようなものであった。

<惑星のように君を愛してたのかも知れない/君の心を星に縛りつけて/でもそれは意味のないこと/全く意味のないことだ/人生は面白い/ずっとそうだといいな・・・>

「Life's A Gas」という歌詞の「a gas」には「fun」という意味もあるので勝手にこう訳したのだが、「gas」自体には「wind」、つまり「おなら」の意味もあり、そんなことから水木先生のお言葉との関連性を妄想したのである。

これ以外にも「電気の武者」に収録されている曲には、「マンボ・サン」、「コズミック・ダンサー」、「モノリス」、「プラネット・クィーン」などといった宇宙系のものが多い。
妖怪漫画の第一人者でありながらオカルトとは最も遠い場所に位置する水木先生と、アルバム・タイトルとは裏腹に実は結構アコースティックで渋い「電気の武者」を作り上げたマーク・ボランの歌詞世界には、何処か共通する部分があるような気がする、と僕は思っている。
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2007年01月30日

三百六十五歩のテイク・ファイヴ

三百六十五歩のマーチ/真実一路のマーチ/ウォーキングマーチ三百六十五歩のマーチ/真実一路のマーチ/ウォーキングマーチ
水前寺清子 星野哲郎 小杉仁三

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「三百六十五歩のマーチ」という歌がある。昭和43年の水前寺清子の大ヒット曲で、次のように始まる。

「♪しあわせは歩いてこない/だから歩いてゆくんだね/一日一歩/三日で三歩/三歩進んで二歩さがる♪」

僕は、この歌の歌詞を思い出す度に、いつも、何て不合理なんだろう、と思う。

だって、3日で3歩進んでそれから2歩下がるということは、結局5日で1歩しか進んでいないということで、365日でやっと73歩、タイトル通り365歩前へ進むには、何と5年の歳月を要するということになってしまうのである(最後は2歩下がる前に「365歩」に到達する、とか、じゃあ閏年をどうするんだ、とか色々あるけど、まあこの際無視)。

怠け者の僕は、「三歩進んで二歩さがる」くらいなら、5日間の内4日寝ていてラスト1日でそっと1歩足を前に出す、あるいはゆ〜っくり5日かけて1歩分(程度)前へ進む、でいいじゃないか、と思ってしまうのだけれど、まあ、こんなことばかり考えているから、僕の体脂肪率はなかなか下がらないのかも知れないな。

※「テイク・ファイヴ」は、このアルバムで聴くことが出来ます。
Wikipediaによると、『曲名の「テイク・ファイヴ(Take Five)」は、「5拍子」と「(5分程度の)休憩をしよう」という略式英語の2つを掛けたものである。その名のとおり、リズムは4分の5拍子(4分の3拍子+4分の2拍子)、曲の長さは5分24秒である』とのこと。
        ↓
タイム・アウトタイム・アウト
ザ・デイヴ・ブルーベック・カルテット デイブ・ブルーベック ポール・デスモンド

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2006年12月12日

「LOVE」を聴く

LOVE (DVDオーディオ付)LOVE (DVDオーディオ付)
ザ・ビートルズ

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ザ・ビートルズの新作「LOVE」を聴いた。
実はこのアルバムには悪意を持っていて、元々は購入する気もなかった。悪意というのは勝手な先入観であり、また偏見でもあったわけだが、具体的に説明するとそれは以下のようなものであった。

言うまでもなくビートルズは既に解散してしまっている。それどころかメンバーの内二人までがもはやこの世にはいない。だから「新作」など発表出来るわけがない。
また、今回のアルバムには全面的にジョージ・マーティンとその息子が関わっていて、過去の音源をコラージュしたりサンプリングしたりといった「改編」を行っているのだというが、しかしそれならば、ザ・ビートルズの「LOVE」ではなくて、マーティン親子の「LOVE」とすべきではないのか。
そもそも、ソロになってからオノ・ヨーコと一緒に「LOVE&PEACE」に邁進していたジョンならまだしも、現役の頃のビートルズが自分達のアルバムに「LOVE」などといういかにもへなちょこなタイトルをつけるわけがない。ここにはなんのひらめきも感じられないではないか・・・。

しかし、と僕はやがて思った。好きか嫌いかは別にして、まずは聴いてみなければ始まらない、文句を言うのはそれからだ、と。

はっきり言って、「LOVE」はビートルズだった(当たり前か)。
しかし、前評判やら何やら、色んな情報とそれに基づく偏った想像が頭の中で勝手にかつ激しく渦巻いていたので、実際に聴いてみるまで、僕はそんな単純なことにさえ思い到らなかった。
確かに、「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」のストリングスの昂揚に導かれ、「ア・ハード・デイズ・ナイト」のギターと「ジ・エンド」のドラム・ソロをイントロとして唐突に「ゲット・バック」が始まった時には(他にも何やらいろいろと混じってるけど)、そのあまりのカッコよさに唖然とし、心の中で思わず「ウヒャァ!」と叫んでしまった程だったが、それにしても(どうやっても)、これはやはり「ビートルズの音楽」以外の何ものでもないのである。
むしろ、一曲目「ビコーズ」の控え目な「加工」の方が余程違和感があり、ある意味ジョージとジャイルズ親子の才能(というかセンス)が強く感じられる、と言ったら考え過ぎだろうか。

ザ・ビートルズは既に解散してしまっており、メンバーも半分はあの世の人となってしまった。だからこれはやはり「新作」ではなく、あくまでも一種のベスト盤なのだと思う。
そして、ジョージ・マーティンは、かつてそうだったように、ここにおいても(息子と共に)やはり最高のプロデューサーなのだ。

アルバム・タイトル「LOVE」だけは認めたくないが、これは実に楽しいアルバムである。
posted by og5 at 23:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月22日

人は「僕は誰とも違う」と皆同じように思っている

Ultimate CollectionUltimate Collection
The Kinks

Sanctuary 2004-09-13
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このブログによくコメントをくれるFumingから、「あのIBMのCMで使われてるキンクスの曲持ってる?」と訊かれたことがある。
その「IBMのコマーシャル」というものを観たことがなかったので即答出来なかったのだが、ネットで調べてみたらそれが「I'm Not Like Everybody Else」という曲であることが判った。試聴してみたら、確かに聞き覚えがあった。が、僕の持っている「FACE TO FACE」にはボーナス・トラックが収録されておらず、他のベスト盤・企画盤にも該当曲は見当たらなかった。多分、以前ベストか何かで持っていたのだが、中古屋にでも売ってしまったのだろう。

遅ればせながらIBMのCMも観た。なるほど、カッコイイ。結構な歳の男女が、「人と同じ人生なんか嫌だ」っぽいことを叫んでいる(というか、まあ、この曲の歌詞がそういう歌詞なのだ)。
しかし、と僕は思った。というのも、この曲「I'm Not Like Everybody Else」の邦題は「僕はウヌボレ屋」というのであって、邦題が適当なこともよくあることではあるけれど、原曲の歌詞を読んだ限りでは、極々妥当な訳し方なのではないかという気がしたからである。
つまり、この曲の「I」は、自分は誰とも違うのだ、人と同じであるということなど受け入れられない、と強く主張するのだが、そう言えば言うほど、「誰だってそうなんだよ!」というツッコミが、天上の何処かからチラチラと聞こえて来てしまうのだ。
だって、レイ・デイヴィスが作った曲だもの。

「人と違う」ことと「人と同じでしかない」ことの狭間で揺れ動く市民の心を、レイ・デイヴィスはよく歌にする。彼は、そのどちらがいいなどと別に断言するわけではなく、ただ人はそのように思うものなのだ、という事実が示されるだけだ。
これは皮肉だろうか。きっと実生活では嫌な奴に違いないレイ・デイヴィスではあるが、その言葉の裏側には案外優しさが見え隠れしている。
だから、IBMのあのコマーシャルにおける「I'm Not Like Everybody Else」は、僕にはちょっとカッコよ過ぎる。ザ・キンクスの様々な曲を聴いて僕が勝手に受け取っていたメッセージは、実は、あのように声高に「自分」を主張し過ぎるとその内足元をすくわれるよ、ということだったのである。

Face to FaceFace to Face
The Kinks

Sanctuary Midline 2004-04-26
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2006年10月18日

「NO DIRECTION HOME」と夜明けの口笛吹き

ボブ・ディラン ノー・ディレクション・ホームボブ・ディラン ノー・ディレクション・ホーム
マーティン・スコセッシ ボブ・ディラン ジョーン・バエズ

パラマウント・ホーム・エンタテインメント・ジャパン 2006-06-23
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驚くのは、ボブ・ディランが、「こんなのはフォークじゃない」と非難されていたことである。
コンサート会場出口で、あるファンは「(ディランは)大衆に迎合している」と言い、その「ロック」転向を蔑むように笑った。彼(このファン自身)は大衆ではないのだろう。また、彼が言うところの「フォーク・ソング」は、大衆の音楽ではないのだろう。
多分、この時、ボブ・ディランは、既にアイドルだったのだ。
彼がもしアイドルでなかったならば、これほどまでに非難されることはなかっただろう。

彼は、音楽以外の何物かを背負っていた。表向きにはたまたま「フォーク・ソング」と呼ばれていたけれども、それは実は大衆の欲望だったのだと思う。
彼には、大衆にこびへつらう義理もなかったし、そういう感性も(もしかしたら)なかったから、気持ちのおもむくままに自分自身の歌を作った。彼は、もしかしたら、自分が背負わされていたもの、あるいは勝手に結び付けられていたあるイメージに、本当に無自覚だったのかも知れない。が、もし、自覚しつつあえて「ロック」に転向したのだとしたら、それもまた驚くべき反射神経である。

ボブ・ディランは「フォークじゃない」と非難されたが、70年代にはインテリの評論家に「ロック」じゃないと批判された多くのバンドやミュージシャンが存在した。インテリにとっては、自己投影して自分に都合のいい何事かを都合よく物語ることの出来る都合のいいものこそがいつだって真実である。だから、彼等を単純に信用することは出来ない。彼等は、決してそう告白することなしに、いつでも自分にしか興味がないからだ。
そして、困ったことに、それは何もインテリだけの特権ではないのだ。

ジャンル(あるいはステレオタイプの一切の取り決めごと)にとらわれない、ということが確かに一時期「ロック」の謳い文句ではあった。しかし、人は、とらわれないということにさえとらわれてしまう生き物である。つまり、何ものにもとらわれないのが「ロック」だと言えば、その「何ものにもとらわれない」ということにこだわるあまり、自ら拘束衣の中に自分自身を押し込めてしまうのである。
そして、ここに「何ものにもとらわれてはいけない音楽」という、世にも不自由なジャンルが誕生する。

牧歌的に自身の裡にある雛型に当てはめて音楽を選別するか、わけの判らない理屈の自家中毒に陥って何でもかんでも取りあえず拒んでみせるか、それは結局全く同じことなのだと僕は思う。「NO DIRECTION HOME」を観て僕が感じたのは、ロックでもフォークでもいいのだ、というごく単純なことであった。
呼び名などどうでもいい。
スタイルなどどうでもいい。
何か心にグッと来る物があるかどうか、心にグッと来る「何か」を感じる心を持ち続けることが出来るかどうか、ただそれだけが夜明けに誰にも聞こえない口笛を吹き、そして「これ」と「それ」とを分かつのだ。
posted by og5 at 22:06| Comment(4) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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