2008年10月28日

モンスター

一線を踏み越えてはいけないと思っている。信条というほど大袈裟なものではないが、自分なりの大事な決まりだ。
例えば、テレビを観ていて納得いかなくても決してテレビ局に電話をかけたりはしないこと。町を歩いていて意に沿わない何事かを見つけたとしても安易に役所に苦情を申し立てたりしないこと。
何故かと思う人もいるだろう。テレビ局は公共の電波を使って事業を営んでいるのだから、むしろ監視すべきなのであると。あるいは、市民は税金を納めているのだから、それが正しく使われているかどうか気にかけるのは当然であると。
それもまた正論であるとは思う。しかし、僕の決まりは僕の決まりであり、それはどちらかというと、社会正義よりも自己防衛のための云わば歯止めなのである。

ところで、麻生総理が夜な夜なホテルのバーに通って一杯やっているというので批判されているという。別に「庶民」が批判しているわけではない。だって、いかに総理大臣とはいえ、自分の金で、自分の時間で飲んでいる分には文句のつけようがないではないか(別にそのせいで二日酔いになり公務に差支えが出たというわけでもあるまい)。
つまり、批判しているのは一部の(ご立派な)マスコミだけなのであり、彼等は麻生氏が一日の終わりのささやかな楽しみとしてグラスを傾けるのさえけしからんと言うのである。
これと、いわゆるモンスター・ペアレントといったい何処が違うのか、と思う。
僕にはその違いが一向に判らない。

クレームは人を狂わせる。また、僕はそれほど強い人間でもない。それを知っているからこそ、あえて「苦情言うまじ」と自分自身を戒めているのだが、要するに僕は自分自身をあまり信用していないのである。
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2008年10月26日

八百長

「大相撲に八百長はある」と思っている。これは誰を信じるか、もしくは誰を信じないかというような問題ではなく、あくまでも僕の実感から来る結構決定的な認識で、相当昔の「千代の富士−朝汐」戦がその元となっている。
確か千代の富士の優勝がかかった一番であった。立会いから、朝汐は千代の富士を土俵際まで一気に押し込んだ。僕は朝汐の勝ちを確信したが、その一瞬後、今度は千代の富士が朝汐を一直線に反対側の土俵際まで押し返し、何とそのままあっけなく寄り切ってしまった。
何とも不可解な取り組みであったが、驚いたのは勝った千代の富士がこの時苦笑していたことである。
「おいおい、やり過ぎだよ」・・・その表情はまるでそう語っているかのようだった。

一方で、小泉純一郎元総理が発した「感動した!」でも有名な「貴乃花−武蔵丸」戦がある。前日の無双山戦で右膝を亜脱臼したがそのまま千秋楽に臨み、本割で敗れ同じ星となった優勝決定戦で見事武蔵丸を倒したあの大一番だ。貴乃花は再起不能を覚悟しての強行出場。鬼の形相で手にした横綱最後の優勝であった。
誰もこれを「八百長」とは言わない。僕ももちろんそんなこと思ってもいないが、しかし僕はまた同時に、仮にこれが単に力対力、ガチガチの力勝負でなかったとしても少しも構わないとも思っているのだ。もしそうだとしても、あの感動は少しも色褪せたりしない。それは決して「八百長」ではない。もっと性質の異なる「何か」である。

変な例えかも知れないが、特撮映画のピアノ線が見えたからといって誰も文句なんか言わないだろう。観て面白ければ、あるいは興奮(感動)出来ればいいのであって、野暮は言わないのがお約束というものだ。何故映画の話をしているのかというと、実は大相撲も同じなのではないかと考えているからである。「スポーツ」としての「相撲」と「大相撲」は明確に区別して扱わなければならないものなのではないか、とも思う。
もちろん、行き過ぎた「かわいがり」を含め改めるべき点は多々あるのだろうしチープな「八百長」など論外だが、単純な「スポーツ」論に収斂されてしまうのでは大相撲がますますつまらなくなってしまうばかりではないか、とちょっと心配なのである。

僕の祖父さんは、場所が始まるとテレビを観ながら毎晩自前の星取表を付けていた。そして、それを大事そうに、いつも決まって、愛用していたガラスの徳利とお猪口のしまってある食器棚に「隠して」いた。今、あんなことをやっている人間は、多分いないのだろうな。
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2008年10月15日

「立ち合い」について

13日の夜、NHKの「お宝TVデラックス」を観た。
チャンネルをガチャガチャやっていたら(という表現も古いが)大鵬−柏戸の取り組みが目に飛び込んで来て、懐かしく、そのまま番組が終わるまで観ていた。
「スポーツ大特集 あの感動の舞台裏」というのがその夜のサブタイトルで、だから画面には、大鵬−柏戸以外にも、貴ノ花−輪島などの「名勝負」が次々に映し出されるのであった。

ところで、僕にはその「名勝負」を観ていてとても気になったことがある。
誰も立ち合い時に両手をついていないのである。いや、片手さえついていない。
今角界は様々なスキャンダルで大揺れとなっているが、おそらくはその綱紀粛正の一環として、また「心・技・体」の復活のため、土俵上のマナー改善についても取り組まれているわけである。
しかし、そもそも「黄金時代」の名横綱、名大関からしてそんなマナーなど守ってはいなかったのだ。

元NHKアナウンサーであった杉山邦博氏が語るその当時の大相撲はとても魅力的だ。今でも鮮明に憶えているという大一番を、目を閉じて寸分の狂いもなくスラスラ実況する「杉山アナウンサー」には、本当に胸が熱くなった。
きっと、問題は立ち合いの両手付きの不徹底などではない。
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2008年10月14日

三浦和義事件

「三浦和義事件」という本がある。
推理小説作家・島田荘司のノンフィクションで、そのタイトルが示すように三浦和義をめぐるあの一連の出来事を(執拗に)追いかけている。
この本には誰もが納得するような結論はない。が、正義とは何か、と改めて読む者に(答えようのない問いを)問いかけて来る。

いわゆる「ロス疑惑」は、週刊文春の連載記事「疑惑の銃弾」から始まった。そのこと自体は批判されるべきことではないし、公権力が手を下そうとしない重大な疑惑について世に問うことはマスコミの使命のひとつでもあろう。しかし、それによってある構造が生まれてしまったこともまた事実であり、簡単に言うとそれは「世間(マスコミ)が判断していいのだ」という風潮なのであった。
もちろん、ここには三浦自身の性質も大きく影響している。彼は、明らかにいかがわしい。
だが、法的正義と被告の(あるいはまだ被告ですらない疑わしい人物の)性格とは、それがいかに胡散臭いものであったとしても、決して同じ秤に(それだけを抜き出して)かけるわけにはいかないものなのではないか。

あえて断っておくが、もちろん僕は三浦和義を擁護しているのではない。島田荘司は社会的私刑(リンチ)への嫌悪感からか幾分三浦に肩入れしているようにも感じられるが、しかし、「三浦和義自殺」の号外を、新たな公演のチラシででもあるかのように笑いながら受け止める人々を見ると、あの時蒔かれた種が確実に育っていると厭でも実感せざるを得ないのだ。そして、今こそ僕達は島田の「三浦和義事件」を読み返すべきではないのか、とも思うのだ。

今回の「自殺」についても、擬装自殺に失敗しただけなのではないか、というような見方が世間にはあるのである。そして、三浦和義という人が、そんな想像すら「もしかしたら」と思わせずにはおかないような特殊な人物であったこともまたまぎれもない事実なのである。
真相は闇の中。
でもやはり、僕達は法によらず自ら人を裁くべきではない。

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2008年10月13日

ふわふわ派? ごわごわ派?

世間では「ふわふわタオル」の好感度が随分と高いらしい。
P&GのCMでも、「新しい『ボールド』なら、ごわごわタオルもふわふわ!」などと言っているし、内藤大介も「ああ〜柔らか〜い(ハートマーク)」と実に幸せそうだ。
でも、僕にはこれが納得いかない。
僕は断然「ごわごわタオル派」なのである。

もしかしたら、と思うことがある。
僕の母はガサガサの手をしていた。僕が幼い頃から既にそうで、だから、よく腹痛を起こす子供であった僕は、そんな母の手で腹を撫でさすられているうちに、その「ガサガサ(あるいはザラザラ)」をいつの間にか優しいもの、好ましいものとしてごく自然に受け入れていたのではないか、と思うのである。つまり、その刷り込みがタオルの好みにも少なからず影響しているのではないか、と。
「ふわふわタオル派」の人は、すごくいいとこの子なのかも知れない。

それに第一「ごわごわタオル」の方が機能的にも優れている。
買ったばかりのタオルはちっとも水気を吸わない。ふわふわしていて、さらさらしていて、僕の身体の水分にはあまり興味もなさそうだ。二つ折りにして身体を拭こうとすると、タオル同士でスルスルと滑るばかりでちっとも身体にまとわりつこうとしない。
そう、圧倒的に摩擦係数が少ないのである。

お前に求められている機能の第一は肌触りではなく吸水力だ、と声を大にして言いたい(出直して来い!)。
まあ、タオル相手にそんなにむきになるのもどうかと思うのであるが。
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2008年10月12日

カメラ・アイデンティティ

明日は「体育の日」だ。
「ハッピー・マンデー制度」施行により状況は変わってしまったけれど、かつて「体育の日」といえば10月10日であった。この日は統計的にいって晴れの確率が最も高いと何かで読んだことがあるが、本当かどうかは判らない。
いずれにしても、運動会の季節、なのだろう。
テレビのローカル・ニュースでも、この頃は芋掘りと運動会をやたら目にするような気がする。

数日前にも、あるニュース番組で運動会の模様を紹介していた。そして、そのテーマというのが、最近の親のビデオ・カメラで我が子を争って撮影することの過激化なのであった。
脚立まで持ち込んでの身勝手な場所取りを番組は伝えていたが、別に批判的であるというわけでもなかった。むしろ、さも微笑ましいことであるかのように伝えていた。
それもそのはずで、考えてみればマスコミとビデオ親は同じ穴の狢なのである。

かなり前のことであるが、西馬音内の盆踊りを観に行ってがっかりした経験がある。腹が立ったと言ってもいい。盆踊りそのものは素晴らしかったのだが、踊りの列にまとわりついて撮影する素人カメラマン達が邪魔で邪魔でしょうがなかったのだ。
聞くと、彼等は主催者側に「会費」を払って(正規に)その権利を取得しているのだという。
幽玄な祭りの品というものが、わずかばかりの「会費」と引き換えに売り払われてしまったのである。

いつからか判らないが、カメラは万能らしい。いや、全能らしい。
カメラさえ手にすれば、きっと彼等は「神」にだってなれるのだ。
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2008年10月07日

ハチは何処に行った?

先週、もうそろそろ今年の陶芸はお終いかな、などと思いながら陶芸小屋に入った。まだそんなに寒くはないが、今轆轤で挽いたものを乾燥させて素焼きし、更に施釉した後本焼きに入ると考えれば、1ヵ月などあっという間だ。
11月に入ったら、また別の季節がやって来る。

天気が良かったので戸を開けっ放しにしていたのがまずかった。いつの間にやら、小屋の中をスズメバチがぶんぶんと飛んでいる。小屋の東西にある窓を行ったり来たり。また、時に蛍光灯の灯りに気を取られてみたり。だが、北側にある、スズメバチにしても元々自分がいた昆虫の世界に通じる開け放たれた戸口には、彼は全く興味を示さないのであった。

巣に近づいたわけじゃないんだから、あるいは、一匹だけなんだからと思い、気にせず轆轤を挽き続けようと思うのだが、やはりどうもまずい。気まぐれに小屋の中をあっちからこっちへ、こっちからあっちへと飛び回るスズメバチに、僕は完璧に支配されていた。
要するに、こわかったのである。

僕はとうとう諦めて、道具の後始末もほどほどに小屋を後にした。
当然ながら、小屋の戸は締めてしまった。
だが、翌日もまたその翌日も、こわごわと小屋の戸を開ける僕に、スズメバチは一向にその姿を現さない。せっかく近所のスーパーで殺虫剤まで購入して来たのに、彼はいったい何処まで行ってしまったのか。

広い世界がすぐそこにあるのに、何故虫は外に出ることが出来ないのであろう。
しょせん虫の世界の話だと言われればそれまでなのだが、時に虫はすごく迷惑である。
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2008年10月06日

さるかに合戦

「さるかに合戦」は不思議である。
何が不思議といって、蟹の子供が猿に復讐しようと協力を求めるのが栗と蜂と臼と牛の糞だという点である。生き物でないものが4分の3の割合で含まれている。「協力を求めた」を「使った」に言い換えてもどうも釈然としない。

もし、蟹の子供が本当に親の敵討ちをしたかったのであれば、栗蜂臼牛糞のいずれかの「こらしめ」ポイントの間隙を縫って自らのハサミ攻撃を入れたであろう。しかるに、「さるかに合戦」に蟹自身のトドメはあるか。ない。栗蜂臼牛糞に任せっきりで高みの見物である(というか、後半は殆ど姿を現さない)。
蟹は、ただ泡を吹いていたのだ。

結局、猿は罰が当たって悶絶したに過ぎない。
栗蜂臼牛糞は単なる「道具」なのであって、しかもそれは「蟹の」、ではなく「神の」、である。
だから、芥川龍之介の「猿蟹合戦」における蟹等に対する判決は、不当な矛盾に満ちている、と言うべきであろう。
いわゆる冤罪事件だ。
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2008年10月04日

啓蒙無用

秋田テレビのキャンペーンなのだろう。アナウンサーが楽しそうにエコ活動推進を訴えているスポットを度々目にする。その時、画面下に「この放送に使用している電力は自然エネルギーによってまかなわれている」云々というテロップが流れるのだが、僕はいつも不思議に思っていた。まず「自然エネルギー」というのがよく判らなかったし、「この放送」というように各テレビ番組がそれぞれ分割してそのエネルギー源を使い分けるなどということが可能であるとはどうしても思えなかったからである。

「自然エネルギー」が、地球資源を枯渇させずに電力を得ることの出来るエネルギーを指す言葉だということはすぐに判明した(要するに、太陽・風力・地熱等を利用したエネルギーのこと)。
では、「放送の分割」の方はどうかというと、これが全く判らない。いずれにしてもその他大部分の膨大な放送は相変わらず「枯渇性エネルギー」を使用しているわけだから全然「エコ」になんかならないと思うのだが、彼等はそれを矛盾だとは思っていないのだろう。

いっそ、昔のように夕方の休み時間を取り入れればいいのに、と思う。これは、僕がまだ小学生の頃には普通に行われていたことで、今ほど番組がなかったからなのか、あるいは放送に見合うだけのスポンサーが確保出来なかっただけなのかは不明だが、毎日午後の一定時間帯はテレビ放映が中断されていたのである。これなら各局の放送にかかるエネルギーも、各家庭のテレビ受像にかかる電気代も節約出来る(それに、シンとして薄暗い茶の間は結構居心地のいいものだ)。

考えてみれば、ゴルフ場についてもひと頃は環境破壊の大きな原因のひとつだとして取り上げられていたものだったけれど、当時も今もテレビ局はたんたんとゴルフ中継を流し続けている。一方で環境だエコだと声高に言いながら、他方ではしっかりと都合よく商売をして稼いでいるのだから、そんなものは最初から無視していればいいのかも知れないが、浪費癖があり借金を繰り返してばかりいる親に無駄遣いはよくないと説教を垂れられているような気がして、よせばいいのにむかっ腹が立つのである。

日本以外全部沈没日本以外全部沈没
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2008年09月27日

パン屋のストレス

パン屋では、たいていむき出しのままパンを陳列している。たまに袋入りの時もあるが、そうでない場合の方が多い。
パン屋には、様々な人が出入りする。僕がよく行くパン屋でも、ピーク時には、夫婦者や子供連れの主婦、お昼のパンを物色する作業服の男や休憩時間のタクシー運転手、そしてジイサンバアサン達が狭い店内でひしめき合っている。

僕も意を決して店内に入る。そして、ストレスを溜める。
何がいけないといって、子供連れの主婦が一番いけない。
陳列棚の一段目がちょうど子供のお腹あたりに来る高さになっているせいで、そこにはこの上ないサスペンスが展開されることになる。
「触っちゃ駄目よ!」という声が店内に響くたびに、僕はドキッとする。そしてハラハラする。
子供にトングを与えて遊ばせるという親も結構いる。しかし、これが大間違いなのであって、人は子供だろうが大人だろうが、挟むものを手にすれば挟みたくなるものなのである。だから、当然その子供達も店内の陳列品を独自に物色し始める。そして、挟む。
「駄目ッ! ○○ちゃんっ!」
僕のハラハラは限界に達する。

ところで、塩辛や松前漬けの即売会なども商品はむき出しになっているわけだが、こちらの方は子供が間違って(もしくは悪戯して)手を触れるなどということはまずないと思われるので、あまりストレスは溜まらないのであった。
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太陽とセーター

水温む、は春の季語だが、実は秋の水も何ともいい感じで温いものなのだ、ということを僕は今感じている。

今日の天気は典型的な秋の天気で、晴れたり曇ったり、また強い風が吹いたかと思うといきなりバラバラと雨が降り出したり、といった具合で、実に大忙しの一日であった。
僕は、こんな秋の休日に、昨日轆轤で挽いた徳利にカンナをかけたり、音楽を聴いたりして、ぼんやりと午前を過ごしていた。
そして、その作業の後始末のために、玄関脇の水栓でジャブジャブと道具類を洗っていて、ふと思ったのである。
何て温かい水なんだろう、と。

春の水の温かさは人に希望を与えるが、秋の水の温かさは、これからやって来る淋しい冬を、(しかし)懐かしく人に思い出させる。
それは、いわば太陽とセーターの温かさの違いである。

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2008年09月14日

大いなる助走

<蛾が羽をプルプル震わせているのは、飛び立つために必要となる体温を確保するため、必死になって身体を動かしているのだ>・・・。

僕はこのことを「三人寄れば虫の知恵」で知ったのだと思っていた。これは、 養老孟司、池田清彦、そして奥本大三郎による虫オタク全開の対談本で、虫好きでなくとも大いに楽しめる傑作だが、今朝パラパラと読み返してみたけれど、該当するような記述を見つけ出すことは出来なかった。
いずれにせよ、蛾は準備運動をする生き物で、そのため今まさに叩き潰されようとしているというのに、一向に飛び立たず、羽を小刻みに動かしながら、その辺をうろうろと動き回っているのである。

自分がもし蛾だったら、などと小学生の作文か詩のように想像してみる。
飛び立てないのは、夜になって窓ガラスが冷たくなったのにも気付かず、怠惰に外の景色など眺めていたからだ。どんなに焦っても空中に舞い上がるほどの体温にはまだ程遠い。
ウロウロウロウロウロウロウロウロ。
プルプルプルプルプルプルプルプル。
無闇に粉を飛ばすんじゃないと言われたって、こっちだって好き好んでこうしてるわけじゃない。
ウロウロウロウロ。
プルプルプル。
でも、ああ、もうじきだ。もうじき身体が温まる。温まってエンジンがかかる。
ブルンブルンブルン。
それっ!

大いなる助走は、このようにして終わる。

もしもの時を考えていつも暖かい場所にいればいいのにね。あるいは、最初から蛾になんか生まれて来なければよかったのにね、などと無理な注文をされても出来ないものは出来ないのだ、とあらかじめ考えておいた言い逃れを言う。

<蛾は蛾に生まれるのではない。蛾になるのだ>・・・。

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2008年09月13日

インターネット

いつからかインターネット上の情報の方が既存のメディア媒体のそれよりも信頼がおけると思うようになっている。だが、それはネット情報が新聞よりも正しいから、とか、公平だから、とか、そんな理由によるものではない。いや、よくその匿名性が揶揄されることでも知れるように、ネット情報の正確性、あるいは公平性はすこぶる怪しい。だが、だからこそ、僕はインターネット上を飛び交う「カオス」を、既存のご立派な「ジャーナル」よりもよっぽど信頼するに足るものとして認識しているのである。

嘘もホントもある。これがネット情報を僕が絶対的に信じられる、と思う決定的なポイントである。何故なら、既存メディアにはホントしかないからである。しかも、そのホントが、何故ホントなのか、実は誰も知らないからである。
前段にも書いた通り、ネットは常に匿名性のせいでその信憑性に疑義を呈される。しかし、新聞において、あるいはテレビにおいてさえ、匿名でない情報など実はごくほんの一部を占めるに過ぎないのだ。新聞社名、あるいはテレビ局名が、さも「署名=責任ある発言」であるかのように(あえて言ってしまえば)勘違いされているに過ぎない。

だからこそ、嘘でもいいから「反論」が必要なのだ。最も大事なことは「疑う」ことではないのか。だったら、それは「匿名」でもちっとも構わない。名乗らなければならないから反論も出来ないより、無責任でも反論出来る方がいい。
嘘を含んでいるかも知れないと思われる情報を前にした時、人は慎重になる。そうならざるを得ない。少なくとも、そのような「態度」を喚起するだけでも、インターネットは既存メディアよりも正直だと思う。
インターネット情報は、図らずも「誠実」なのである。
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小人と僕

プライオリティ付けをしっかりして業務に当たっている時ほど、そしてそれがギリギリであればあるほど、予想外の「しなければならないこと」が発生しがちなものである。僕はストレスに弱い。すぐにゲンナリしてしまう。
そんな時(最近)、僕は「ああ、また小人さんが仕事を運んで来た」と思うようにしている。
すると、あら不思議。重苦しい気持ちがまるで嘘のようにすっきりと消えてしまうのである。

僕は元来怠け者である。仕事もあまり好きではない。もちろん、全ての仕事を嫌いだと言うわけではなく、ずっと同じ事を繰り返すような作業、例えば袋貼りとか豆のスジむきとかなら、きっと誰よりも勤勉に勤め上げられるであろう自信があるのだが、残念ながら僕の仕事は「そんなこと」ではない。。
だから、会社勤めは僕にとって非常に大きなストレスになる。それに、会社では、仕事だけではなく、人間関係もまた煩わしい。

9月に入ってからの僕は、多分楽しかった盆休みが長く後を引いているせいだと思うのだけれど、ずっとマイナス思考にとらわれ続けていた。
そこに、小人さんがふいに姿を現した。
余計な仕事を運んで来る小人さんはお荷物だが憎めない。人の悪意や意思疎通の難しさも、一緒に困った顔をして側にいてくれる小人さんを想像すれば、何とか乗り切ることが出来る(ような気がする)。
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2008年08月30日

後ろめたいオリンピック

北京オリンピックが終了して早くも一週間が経とうとしている。
政治とスポーツは別であり区別して考えるべきだ、とか、いや近代オリンピックというものがそもそも政治と切り離すことの出来ない性質を持ったものなのだ、とか、様々な議論が戦わされたが、終わってみれば見事にチベット問題も毒ギョーザも、四川大地震さえもが綺麗さっぱり忘れ去られている(ように、少なくとも僕には見える)。

政治とスポーツを分けて考えるべきであるなら、オリンピックが無事終わった今こそ、人はチベット問題を改めて問わねばならないであろう。しかし、現実がそうなっていないことは明らかである。
そこには、2種類のグループがある。まずひとつは、元々チベットの人権問題等諸問題について深く考えてなんかいなかった人々。そしてもうひとつが、様々な政治的もしくは人道的問題の存在を認識し憂慮していながら、それでもあえて「政スポ分離」を唱えた(もしくは選択した)人々である。
前者は、その「無自覚」故に(自分達ではそれこそ全く未だ無関心であるが故に何も感じていないことをも含め、逞しくはあるが)後ろめたい存在だと定義され得るであろう。だが、後者は、その「自覚」故に、より一層後ろめたい。彼等は「楽しんでしまった」(そして、もし今何もしないなら元々政治とスポーツはオリンピックにおいて一体であったと自ら証明しているも同然なのではないか、と薄々気付き始めているはずの)人々だからである。

かの国におけるスポーツの祭典の成功は、かの国の政治(外交)の成功なのだから、人はもはやかの国を無条件では非難出来ないであろう。
「楽しんでしまった」後何もしない、とはそういうことである。
もちろん、僕もまた中途半端に「楽しんでしまった」中のひとりなのだが・・・。
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2008年08月23日

花やしきでローラーコースターに乗る

武田百合子の文章が大好きだ。特に「遊覧日記」を愛読している。「遊覧日記」の一等最初の話が「浅草花屋敷」で、だからこのかなりレトロな遊園地は、ずっと僕の憧れの場所だった。
その憧れの場所に、18日、妻と一緒に僕はとうとう足を踏み入れた。モレーノ・ヴェローゾの東京ライヴを観るついでにと、妻が浅草行きを企画してくれたのである。

羽田空港から、京急空港線で京急蒲田、泉岳寺を経て浅草へ。乗り換えはないのだが、何故か京急本線、都営浅草線と路線名がころころ変わる(田舎者には理解し難い)。
駅を出て地下道をくぐり、「浅草一丁目一番一号」の看板も誇らしげな神谷バーの前を通り過ぎて左手にずんずん行くと、すぐに雷門が見えて来る。右に風神、左に雷神。テレビでしか見たことのない巨大な提灯が中央にどどんとぶら下がっている。
仲見世を歩く。人込みも気にせずどんどん歩く。洋食屋「グリル・グランド」で妻はオムハヤシ、僕はミックスフライを食し、その後いよいよ花やしきへと向かう。

外観からして既に可笑しい。何しろ浅草寺のすぐ側なのだ。なのに、五重塔と対で建立されたような顔をして「ちびっ子用絶叫マシン『ぴょんぴょん』」が聳え立っている。
入園料(ひとり900円)を支払って園内に入ると、まずそのあまりのごちゃごちゃ感に眩暈を起こす。思ったより人が多いのも、ごちゃごちゃ感に拍車をかける。パンフレットに「古くて、狭くて、こりゃまた愉快!!」とキャッチコピーがあるが、正にその通りだ。
花やしきのシンボルでもあるという「Beeタワー」に乗り、地上45メートルの高さから狭い園内を一望する。一望しながら、「ローラーコースター」に乗る決意を固める。
実は、僕は生まれてこの方、ジェットコースターの類に乗ったことがない。いわば、生まれて初めての経験を花やしきに捧げるわけである。
「ローラーコースター」乗り場は、思いの外混んでいて、長蛇の列が出来ている。結局6回待ちで僕達の番となった。
ギチギチと異音を発しながらコースターがレールを登って行く。「いまにも壊れそうな感じがたまらない!」という売り文句は伊達じゃない。そして、登坂に1分をかけた名物アトラクションは、銭湯に飛び込んだり隣の遊具とぶつかりそうになりながらもすれすれで身をかわしたりしながら、わずか30秒後にはもう終点に滑り込んでいるのだった。
何故か、みんな笑っていた。僕も、妻も、笑っていた。

「浅草は平たい」という武田百合子の言葉を実感する。
五重塔も「Beeタワー」も「ぴょんぴょん」もあるのに、本当に浅草は平たかった。
ラベル:花やしき 浅草
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2008年08月15日

小銭の問題

小銭が嫌いである。
こんなことを言うと、お前はお金を粗末に扱うのか、とか、一円を笑う者は一円に泣くという言葉を知らないのか、とかいろいろと批判されそうであるが、そうではなくて、僕は「余分な小銭」が嫌いなのである。
飲んだ翌日、あるいは何かの支払いのために妻に財布を預けた後など、財布が異常に膨らんでいることがある。五円玉が2枚ある。五十円玉が1枚はしょうがないとして、8枚もの十円玉がそれと同居しているのはいったいどうしたことだろう。五百円玉が6枚の百円玉と共謀して財布を必要以上に膨張させている。あ、一円玉がこんなところに隠れていやがった・・・。
だから、そんな日のコンビニのレジでは、僕はせっせと小銭を吐き出す。そして、まだ少し厚ぼったいが、それでも若干はスリムになった財布をポケットに押し込みながら、ホッと安堵の吐息を漏らすのである。

コンビニやスーパーのレジでは、僕は常に会社の仕事で使う以上の計算能力を駆使している。時には、能力の限界を超えるほどである。
例えば、コンビニのおねえさんに「せんろっぴゃくごじゅうはちえんでございます」と言われると、僕は千円札2枚と百円玉2枚と十円玉1枚、そして一円玉3枚をカウンターに並べる。おつりは五百五十五円だ。ぞろ目で何となく縁起がいいし、硬貨が総数で3枚減少することになる。とても嬉しい。
レジ・カウンターに商品の入ったカゴを差し出した後、とにかくまず僕がすることは、財布の中の小銭の残数を確認することである。各硬貨の枚数をチェックし、打ち込まれる毎に変化するレジの金額表示を見守る。この時僕の胸のレジスターは、おそらくカネゴンのそれのようにカタカタとせわしなく回転していることだろう(んなこたないか)。

時々、僕の差し出した代金を見て悩み始める人がいる。訝しげにレジとお金を見比べている。そのままさっさと打ち込んでくれればいいのに、と思いつつ、僕も何も言えず、ちょっとだけど嫌な空気が流れる。
また、財布の中に8円あるのに代金の端数が「9円」ということがある。せっかく買い物をしたのに、僕の手元には一円玉が更に1枚増えてしまう。
とても悔しい。

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2008年08月04日

「悪魔」と「死神」

鳩山邦夫法相の死刑執行に対して、朝日新聞の夕刊コラム「素粒子」が、同大臣を「死神」と揶揄したことに対して「全国犯罪被害者の会」が質問状を送っていた。
法に則って死刑執行を指示する法相を「死神」と呼ぶことは、法の下の正義(死刑)の執り行われることを望む被害者遺族をも侮辱するものである、というのが彼等の主張である。
そして、この度(3回目の回答)で、朝日新聞側からやっと謝罪の意思が示され、「全国犯罪被害者の会」側もこれを了承したのだという。

「〜犯罪被害者遺族をはじめ多くの方々からのご批判を踏まえたとき、適切さを欠いた表現だったと言わざるを得ない〜」

しかし、果たしてこれが謝罪の言葉だろうか。
そもそも「〜ざるを得ない」というのは、本意ではない、ということの表明ではないのか。

一見謝っているように聞こえるかも知れないけれど、実際はひと言も謝ってなんかいませんよ。謝罪だと受け止めるのは、まあ世間様の勝手ですけどね。

明らかに、朝日新聞はこう言っているわけである。

ビアスの「悪魔の辞典」にでも出て来そうなエピソードだなあ、と思う。
ビアスが一世紀近くも前に著した古典における「悪魔」とは、まぎれもなく「人間」、それもいわゆる「建前と本音」を都合よく使い分ける「人間」そのもののことであろう。
「死神」呼ばわりされた者も、「悪魔」的言説を弄して「謝罪」した者も、共に「人間」なのである。

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※と言っていた自分が、「犯罪被害者遺族」と書くべきところを、当初「犯罪者遺族」と書いてしまっておりました。誠に申し訳ございません。
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2008年08月03日

さらばタリラリラン

赤塚不二夫は僕の憧れの人であった。
小学校三年の時引越しをしたが転校はせず、そのまま同じ小学校にバス通学し続けた僕には、いわゆる普通の意味における「近所の友達」はいなかった。僕は漫画が好きだったので貸し本屋に通った。あるいはまた時には自分で買った週刊誌や月刊誌を、誰もいないしんとした家で読んだ。
小学校高学年の頃から僕は漫画を描き始め、それが友達を作るきっかけにもなった。
他のいろんなことと同じように結局ものにはならなかったが、漫画はやはり僕にとって特別なものだった。
トキワ荘もなんも関係なく、僕はただ赤塚不二夫の漫画が好きだった。

中学生になった僕の2大アイドルは、沢村忠と赤塚不二夫であった。
部屋の壁に、アイドル歌手やロックスターの写真ではなく、ちょび髭を生やしたキックボクサーと片目をつぶったニャロメのポスターを貼っていた。
だから、女の人と一緒に全裸になっている赤塚不二夫をいきなり見せられた時には仰天した。ショックだった。夢が裏切られたと言ってもいいくらいだった。
だが、その夢とはいったい何だろう。
僕にとって赤塚不二夫は、やはりあくまで少年漫画の人であったのかも知れない。

赤塚不二夫を「ギャグの神様」と思ったことは一度もない。
そう呼ばれていたのか、と今回初めて知ったくらいだ。
赤塚不二夫は僕の憧れの人であった。
しかし、僕は、赤塚不二夫が「ギャグの神様」だったから憧れていたのではない。
本当に、ただ友達のように、その漫画が大好きだっただけなのである。

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ラベル:赤塚不二夫
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2008年07月31日

英会話

2年半くらい前まで英会話スクールに通っていた(と一昨日のブログで書いた)。そこで判ったことが少なくともひとつだけはあって、それはいくら英語を覚えても話題のない相手とは話が出来ないということであった。
こんなことをいうと、いかにも英会話の実力が上がったかのように聞こえるかも知れないが、そんなことはなくて、要するに僕は挫折してしまったのである。

僕は普段の生活においても、人と接するのにかなりプレッシャーを感じる方で、使わなくてもよい気は必要以上に使いまくるくせに、肝心な時には全く気が利かないという難儀な性格をしている。誰かといると沈黙がこわい。話が好きなわけでもないのに、何とかして相手との共通の話題(になりそうなこと)を探して話しかけようとするのだが、すぐにネタが尽きてしまう。だが逆に相手に話しかけられた時には、あまりちゃんと人の言っていることを聞いていないので、チンプンカンプンあるいはしどろもどろになってしまう・・・。

日本人相手だってこうなのだ。ましてボキャブラリーに極端な制限のかかる英会話において、「フリー・トーク」なんか出来るわけがない。
だから、(個人的なことを極端に拡大して一般論として言えば)僕は小学生が英語を習うことになど全く何の意味もないと思っている。
これは、要するに「言葉」の問題ではなくて、「人間」の問題なのです。
posted by og5 at 22:29| Comment(2) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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