2008年07月28日

スマイル

最近地震が多い。従って、テレビで被災地住民のインタビューなどを目にする機会もまた多くなる。そして、そんな被災者達の受け答えを見聞きする度に、僕はいつも同じようにあることを感じる。それは、何か凶悪な事件が発生した直後の付近住民達の語り口調とも共通する何かである。
彼等は笑う。怖いです不安です、あるいは子供をひとりで外出させられません云々と言うのだが、その言葉とは裏腹に、かなりの確率で彼等は笑っている。
もちろん、そうでない人達も大勢いる。だが、例えば海外において同様の状況が生じた場合人々が取るであろう反応とは、明らかに深刻度が違うように感じられるのである。

多分、彼等は本当には絶望していないのであろう。実際、何とかなる、と思っているのではないか。幸いここは日本だから、まさか死にそうなのを放っておかれることもあるまい。住むところがなければ(かなり不自由だが)仮設住宅も用意されるし、食料にも(贅沢さえ言わなければ)困ることもないであろう。その信頼感にそれぞれ軽重の差はあろうけれども、多分、そのように思っているのだと思う。
しかし、これがアフリカや東南アジアだと、本当にそうはいかないのだ。死にそうになったら放っておかれる。住むところなんか心配している余裕もない。リアルな餓死の可能性が、そこにはある。
これも、全てが全てそうだという話では、もちろんないのであるが。

あれは、義父が重い病気で入院している時のことだった。いつも微笑みを絶やさない感じのいい看護婦さん(当時はそう呼んでいた)がいた。ところが、彼女は義父が最も重篤な状態になった時にもやはり同じように微笑んでいたのである。家族の彼女に対する評価は一変した。
つまり、彼女の笑顔は、ただそこに貼りついていただけだったのである。そのようにしなければとてもやり切れないほどの重圧が彼女にのしかかっていたということなのかも知れないが、僕にはそれがまるである種の植物の種子を覆う刺の生えた硬い殻のように思われた。
彼女の微笑みは被災者達の笑いとは全く種類の異なるものではあろう。だが、地震の被害を伝えるテレビニュースを見ながら、僕には何故かあの時の彼女のことがふと思い出されたのであった。
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2008年07月21日

我儘なエコ

環境問題への積極的取り組みを推進しなければならない、という企業が増えている。僕の会社も例外ではない。例えば、エアコンの設定温度は今28度に制限することがルール化されている。つまり、室温が28度を超えなければ、エアコンのスイッチが入らないよう設定されているわけである。
その代わり夏場はネクタイをしなくてよいし上着もいらないということになっているが、正直いってこれは相当にきつい。僕は元々暑い中で過ごすことには抵抗のない方で、だから28度という設定温度そのものには何の異存もない。というか、夏なのだから暑いなら暑いでしょうがないと思うのだが、ではいったい何が「きつい」のか。
他でもない。28度という温度の中で仕事をしなくてはならない、ということそれ自体が「きつい」のである。

何を今更、である。馬鹿馬鹿しくて話にならない、というのが大方のご意見であろう。しかし、いくらノーネクタイ上着なしであろうが、28度のムシムシするオフィス内で仕事をするというのは大変な苦痛である。パソコンから発せられる熱も想像以上に不快指数を上昇させる。ちょっとしたことでも何故か腹立たしい。向かいの席の同僚の顔がいつも以上に気に障る。コーヒーが苦い。キーボードの「E」がネバネバする。
間違いなく、環境がストレスを増大させているのである。
こんなことになんの意味があるのか、と思う。仕事の能率だって確実に低下しているだろう。
第一、こんなに難儀して使わなかったエネルギーはいったい何処へ行くのか。確かに会社は電気代を節約出来るかも知れないが、果たしてそれが「エコ」なのか・・・。

究極の省エネは、「暑い夏には仕事なし」だと心の中では思いつつ(我儘なエコ!)、そうもいかんしなあ、と明日もまた僕はノーネクタイ上着なしでエアコン設定温度28度の会社へと向かうのである。
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2008年07月15日

梅雨とバイオリン

葉加瀬太郎が、7月13日付産経新聞に洞爺湖サミットに関連して「音に優しい地球環境」という記事を書いている。

「バイオリニストの自分にとってもサミットは非常に興味深いものだった。なぜなら、良質な音色を奏でるにはきれいな空気が必要だから」と葉加瀬は言う。
ここまでは僕にも頷ける内容である。雰囲気論としては。
しかし、葉加瀬はあらぬ方向から話を具体化して行く。
曰く、バイオリンは非常に高温多湿を嫌う、最適な環境は温度20度・湿度50%である、最も駄目なのは日本の梅雨時のじめじめした天候である、云々。
そして「温室効果ガス排出量が多い日本の都会では、梅雨から夏にかけての季節は、湿度が高いうえに蒸し暑く、弾き手の僕がどんなに頑張ってもまったくもって、よい音色が出なくなってしまう」と無理矢理に環境問題と日本の四季を結び付けてしまうのである。

日本の梅雨が現在特に過ごし辛くなっている原因には、確かに温室効果ガスの影響もあるであろう。だが、梅雨は産業革命が起こる遥か以前からこの国で毎年毎年連綿と続いて来たのである。だいたい、「温度20度・湿度50%」である日が、世界の何処にいったいどれくらいの割合で存在するのか。バイオリンにはよくなくても、「それ以外の日々」が多分世界の当たり前であるし、だからこそ様々な文化も歴史も、そして「音楽」も生まれたのである。
環境破壊につながる現代の種々の事柄は、いずれにせよ解消あるいは改善されてしかるべきだし、また自分でも意識しなければ、とかなりの反省を踏まえて思う。しかし、それは間違っても全世界がバイオリン演奏に適した環境になること、ではない。
それこそ「環境破壊」というものであろう。

「だから、今の時期、日本で演奏するのに最適な環境をつくろうと思ったら、必然的に人工的な装置に頼らざるを得ない。日本に居るときは自宅のスタジオも24時間、エアコンと除湿機をフル稼働にして対処してきた」というあたりには、環境問題を語ることのある種リスクのようなものさえ感じる。
人目に触れる前に、せめて誰か真意を確認するくらいのことをやってやればよかったのに、と思った次第である。

※産経ニュース当該記事へのリンク
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2008年07月05日

両手を放して自転車に乗る人

中学校時代、ハンドルから両手を放して自転車に乗れるのを自慢している同級生がいた。誰も見ていないところで僕もチャレンジしてみたが無理だった。
同級生の多くが乗っていたのは当時流行りのスポーツタイプで、僕の自転車とは大違いだった。勤めていた板金会社の同僚から母が譲り受けてくれた僕の愛車は、それまで乗っていた父の自転車(荷台及びスタンドがごついツノダの実用車)よりは随分と垢抜けてはいたけれどしょせんは中古品で、ドロップ・ハンドルがどうのこうのと言っている同級生達の自転車とはやはり大違いだった。
僕は中学生になってからやっと自転車に乗れるようになったので、そんな自転車でも自分の自転車だというだけでとても嬉しかったのだが。

さて、今日、愛猫を病院に連れて行った帰り、信号待ちの車の窓から外に目をやると、1台の自転車が向こうからやって来るのが見えた。細いタイヤ、細い車体、そしてハンドルはドロップ・ハンドルだ。乗っているのはいい年をした大人だが、両方の手をハンドルから放している。
ああ、こんな自転車なら僕にも手放し運転が出来るだろうか、と(昔を思い出し)一瞬思ったが、彼がハンドルから放した両手を宙に泳がせている様はいかにも中途半端だった。「わざと」な感じがした。その時、彼はふいに腕組みしたのだけれど、それもまた何とも「手持ち無沙汰」かつ不自然な感じなのであった。
背中がむずむずし、僕は何だか意味もなく笑い出したいような気分になった。

もうローティーンではないのだがら、まさか彼が自慢のためにそうしていたとも思えないのだが、おそらく彼はいつもあのようにして自転車に乗っている。走行中なのにわざわざハンドルから両手を放し、時にそれを胸の前で組んだり、またほどいて宙に漂わせたりして。
それを思うと、僕はまた(何故か)たまらなく可笑しくなってしまうのである。
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2008年06月30日

風の音も、波の音も

日曜日、「JUNO/ジュノ」を観た後で土崎に向かった。「ファンタスティック! チェコアニメ映画祭」を観るためである。
ちょうどお昼だったので、秋田ベイパラダイスの近くにある「ラーメン海王」で妻は広東メン、僕は台湾ラーメンを食べてから、「美味しかったね〜」などとすっかり満足してセリオン駐車場に着いたのだが、そこで一気に気分が落ち込んでしまった。
というのも、セリオンの駐車場に隣接して(というかその敷地内で)営業している中古車販売用のスピーカーがあまりにやかましかったからである。周囲の環境などお構いなしにがんがん流される「音楽」には怒りさえ覚えた。

土崎港。汐の香り。岸壁では釣りを楽しむ人も多い。
しかし、そこには風の音も、波の音もなかった。うるさ過ぎて、自然の音なんか何も聞こえないのである。
そもそも、中古車を売るのに、何故あんな騒音が必要なのか、僕には理解出来ない。
どうして、管理責任者はあれを野放しにしておくのか。
いいと思っているのか。
多分いいと思っているのだろうな、と思うとうんざりするが、「田舎臭い」とは正にこういうことである。
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2008年06月19日

アリンコ大行進

風呂場のタイルの隙間から、大量のアリが這い出して来た。
羽のついたやつもいるが、シロアリではない。
アリは、同じ場所から過去何年間も連続で大量発生していた。そして、それは梅雨時の我が家の風物詩にもなっていたのだが、ある年に、これではいかん、穴から湿気がどんどん入り込んで家の基礎が駄目になってしまう、と決心し、その通路をタイル用ボンドで塞いだのである。
しばらくは大丈夫だった。が、またも彼奴等は蟻酸を駆使しトンネルを貫通させてしまったらしい。
まるで「大脱走」のチャールズ・ブロンソンである。

アリは偉いなあ、と思う。妻ともそんな話をした。
働き者でお人よし。イソップだって大のお気に入りだ。
そんな偉いアリが、応急措置として僕が花王のダヴを使って逃げ道を塞いでしまったせいで、タイルの目地を、あるいはバスタブの縁を右往左往し、ある者はパニックを起こし湯船に飛び込み、またある者はダヴまみれになって悶絶せんとしている。
心が痛む。が、穴をこのままにしておくわけにもいかない。そもそも、何故アリはわざわざ生存の可能性のありもしない他人の家の風呂場になどやって来るのか。元の地面から横に抜けて庭の方にでも行けば、いくらでも新世界が広がっているというのに、何故わざわざ苦難の道を選ぶのか・・・。

アリは馬鹿である。偉いけど馬鹿だ。
アリの巣コロリなどを使ってジェノサイドをするつもりは毛頭ないが、どうか独自に生きてね、と心からお願いしたい。

大脱走大脱走
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サーカスが来る

昔はテレビで定期的にサーカスを放映していた。海外の、今となっては何処のものとも知れないサーカスのダイジェストを、確か毎週流していたはずである。時間は30分間で、日本語のナレーションが入る。有名な声優だったのかも知れないが、名前は記憶していない。
こんなことを思い出したのは、毎朝のように立ち寄るコンビニエンス・ストアで、「キグレNEWサーカス秋田公演」のポスターを見たからである。華やかなライトを浴びて犬の火の輪くぐりを演じる少女を、二人のピエロが舞台袖から覗いている。その内のひとりが理由はよく判らないのだが何だか驚いたような顔をしていて、見た後でちょっと不思議な感覚に陥る、なかなかにユニークなポスターである。

小学生の頃、キグレサーカスの公演を観に行ったことがある。当時はまだ「NEW」がついていなかった。「大」サーカスだったような気もするのだが、定かではない。
一番印象に残っているのは、木製と思しき骨組みだけの巨大な球体の内部をバイクに乗ってグルグルと回転する演目で、テレビの中の外国のサーカスでもそんなものは未だ観たことがなかったので大いに興奮した。
一方、仰向けに引っくり返って足の上で色んなものを操るいわゆる「足芸」には正直がっかりした。芸が未熟だったのではない。演者がお相撲さんみたいな体型をした中年女性で、しかも操るものが俵だったか畳だったか、いずれあまりパッとしない和物だったからである。
何しろ、外国の女性は全て美人だと思っていた頃の話である。日本的な「情緒」に対するコンプレックスもまたあったのだろう。子供の瞳が澄んでいるなんて単なる嘘っぱちに過ぎない。

さて、シルク・ドゥ・ソレイユが日常的に各メディアで語られる今日、日本のサーカスに人々は何を求めるのか。僕は、それは案外かつて僕がコンプレックスを抱いていた日本的「情緒」かも知れないと思っている。
僕の瞳は子供の頃とはまた違った意味で曇っているが、少なくとも曇っていることを理解しているから、もしかしたらあの頃よりもよっぽどありのままに何事かを受け止めることが出来るかも知れない。
そういえば亡くなった母はどういうわけかサーカスとマジックが大嫌いだったなあ、などと考えながら、僕は今雨の音を聴いています。

「キグレNEWサーカス秋田公演」
7月19日(土)〜9月15日(月・祝)
旧空港跡地特設会場にて
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2008年06月16日

梅雨

梅雨は、世間では何となく分が悪い
じめじめしている、カビが生える、鬱陶しい。
でも、僕は梅雨が好きだ。
中川信夫の「東海道四谷怪談」で、天知茂(伊右衛門)が縁側に佇むシーンがあった。雨が降っていた。映画の設定が実際どうだったかは曖昧なのだが、僕の中ではあれが日本の梅雨である。

だいたい僕は湿気が好きなのだ。
部屋の中でぐだぐだしていると、自分がまるで湿度そのものになったような気がして来てひどく安心する。宇宙飛行士は大気圏外のロケットの中で地球は青かったなどと言いながら自分がひとつの原子であったと初めて思い知り人生観を一変させると何かで読んだが、雨の音を聴きながら、思い知る前に既にもう僕はその一部である。

日曜日の朝に、雨の音でぼんやりと目覚めることほど幸せなことはない。
月曜日の雨は憂鬱だが、その憂鬱も実はいとおしい。
青い梅がスーパーの売り場に出るようになって、僕は毎年自分の誕生日が近いことを知る。
妻は今年も梅のジャムを作るだろうかなどと考えながら、僕は既にまたひとつ年を取ってしまったのに、今年の梅雨はなかなか来ない。
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2008年06月15日

なんだかきたないにおいがする

北島康介選手が、この度の競泳水着問題に関連して「鬱陶しい」「泳ぐのは僕だ」「I AM THE SWIMMER」などと発言しているのを見聞きし、さすがだ、実力者は違う、と思っていたのだが、SPEED社のLRなんて僕には必要ない、って意味ではなかったのね。北島選手、北京五輪壮行会を兼ねた競泳のジャパン・オープン200メートル平泳ぎで、LRを着用してちゃっかり世界新記録を出しているではないか。
いや、勝負の世界なのだから(多分)それでいいのだ。勝つための手段はひとつでも多い方がいいに(おそらく)決まっている。

水木しげる先生の名作「河童の三平」において、泳げもしないのに水泳大会の選手に選ばれてしまった河原三平は、何と「肛門から出るガスの噴射」(その推進力)によって勝利を手中に収めるべくイモを食べて訓練に励む。勝利のためならと「へこき虫の精」だって飲む。「へこき虫の精」が人間には効果がないと判ると、薬を飲んだ小人が三平のお尻にしがみつき、自らが強烈なガスを噴射することによって三平をトビウオのごとく空中飛翔させるのだが、やがてエンジンのかかって来た三平自身の肛門とともにニ連発の威力を発揮して見事優勝を果たすのである(観客からは「なんだかきたないにおいがする」というもっともな感想も漏れる)。とにかく、県大会を勝ち抜いた三平は、県の代表としてとうとう国体に出場することになってしまう。今度も魔女花子の差し入れた秘密兵器「ロケットイモ」の威力で圧倒的強さで第1位となるものの、審判団から、三平の空中泳法は「飛び込みだ」と判定され、当たり前と言えば当たり前なのだが、あっさりと失格となってしまうのである。
水木先生は、安易には主人公を「勝ち組」にはしない。

さて、果たして、ウェアや用具のハイテク競争に、そんな奥ゆかしい美学があるであろうか。
僕は、北島選手に対してもスポンサーであるミズノに対しても、何ひとつ批判めいた気持ちを持っている者ではないけれど、スポーツ(オリンピック)というものについて、ひとりの素人としてただ素朴な疑問を感じているだけなのである。
かつて、古代オリンピックは全裸で行われていたという。全裸でもいい、ということ自体に既に選民意識というか、男尊女卑というか、そういうかなり現代では受け入れられ難い思想が絡んでいるらしいのだが、少なくとも競技者間における公平性は担保されていたのだろうと想像出来る。
人類は今、「全裸オリンピック」を復活させるべきなのかも知れない。
まあ、無理だとは思いますけどね。

※水木先生の奥様の初エッセイです。今回のテーマには無関係ですが、あまりにも素敵なタイトルなので、是非紹介したくて載せてしまいました。
          ↓
ゲゲゲの女房ゲゲゲの女房
武良布枝

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2008年06月14日

「異常だ」と言おう

あれは確か日航ジャンボ機墜落事故の時のことだった。
空港ロビーからの実況。緊迫した空気が張り詰める中、被害状況を読み上げるレポーターの後ろで、ずっと小学校高学年くらいの子供がピースサインを出し続けていた。注意する者は誰もいない。場所が場所だけに親も一緒にいただろうに、彼はついに最後まで「野放し」のままだった。
「誰かが注意してやりゃあいいだろうに」というのは、やはり偶然それを見ていたらしいビートたけしのコメントである。
実は、今回の秋葉原の無差別殺傷事件をニュースで見ていて、僕はこの時のことを思い出した。この時の「嫌な感じ」とでも言うべきか。事件はもちろん恐ろしく、犯人のこと、被害者のことを思い暗澹たる気持ちになるのだが、それよりももっと異様に感じられたのは、事件をきっかけに垣間見えてしまった、人々の(あえて言えば)病んだ無意識なのであった。

まずは、犯人の両親の自宅前で行われた謝罪会見である。
どういう正義のためなのかは不明であるが、憔悴し切っているであろう両親に、厳しく、そしてしつこく、決して答えようのない質問を、おそらくそうと知りながらぶつける記者達。被害者にではなく、報道陣に頭を下げ続ける両親。そして、突然、崩れるように倒れ込む母親。激しくたかれるフラッシュ。その間、誰ひとりとして倒れた彼女を助け起こそうとする者はいない。夫の手すら(それはもしかしたら「通り魔の父親」としての立場のせいであったのかも知れないが)、ついに彼女に差し伸べられることはなかった。先に家に入ってしまった夫を追って、やっとのことで、這うようにして玄関に逃れてゆく母親。そして、また激しくたかれるフラッシュ。
あるいは、事件直後の秋葉原の光景である。
あそこで、いったい何人の人間が携帯カメラで写真を撮っていたことだろう。しかし、彼等はいったい何のために写真を撮るのか。それを何に使うのか。誰に見せるのか。信じられないことに、そこには、かわるがわる記念写真を撮り合うメイド服姿の少女達さえいたのである。
そして、ここでも20年以上前の日航ジャンボ機墜落事故の時と同じようにピースサイン。

人間の多様性を認め合うということは、もちろん大切なことである。たとえそこに、あなたとは関わり合いになりたくはない、という選択肢を含んでいるのだとしても。そして、何を以って「正常」と見做すのか、という問いにもまた(おそらく)答えはない。
だが、せめて僕は、これを「異常だ」と言葉に出して言おうと思う。その異常性を確かめ合おうと思う。妻と、家族と、友人と、会社の同僚と、あるいは自分自身と。
そうしないと、あのフラッシュとピースサインを認めたことになるような、そんな気がするからである。
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2008年05月30日

ウミネコ食堂

ベンガルの口みたいな形をしてウミネコが飛んでいる。その鳴き声は、まるで近所のおばさん達のおせっかいのようにやかましい。
いつも不思議に思っていたのだが、何故旭川の川べりにはウミネコがいるのだろう。川反通りを旭川で挟んだ東側の歩道を通るたび、僕はそう思い、またすぐに忘れてしまう。

土手長町通りから見る川反の裏側は結構面白い。川面に真っ直ぐつながって、店の後ろを丸出しにして無防備に佇んでいる。その有様には、川反通り側から見える表向きの顔とはまた別の、繁華街の生活感とでもいうべきしみじみとした懐かしさがあって、偉い人は誰も言わないが、僕は絶対に失ってはならない秋田のかけがえのない風景のひとつだと思っている。
石川某が、秋田を変えなくてはならないとか何とか言って、この愛すべき景観をも無き物にしようと勝手な理屈をほざいていたが、ちゃんちゃらおかしい。

僕には、カモメとウミネコの違いがずっと判らなかった。
実は、カモメは渡り鳥なのだそうだ。つまりカモメは冬季しか日本にはいないということで、調べてみたら、なるほど俳句でも「カモメ」は冬の季語なのであった。
一方、ウミネコはずっと「地元」にいる。「かもめ食堂」という映画があったけれど、もしその場所を愛し、ずっとそこで生活していきたいと思うのであれば、あの店も「ウミネコ食堂」と名付けられていたのだろうな、などといらないことを考える。

と、そんなこととは全く関係なく、今日もウミネコはミャアミャアとうるさく鳴いているわけだ。
「ウミネコ食堂」には癒しも出逢いもないけれど、間違いなく糞だけは落ちている。
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2008年05月29日

和菓子暦

時々、和菓子を買って帰る。
会社から家に帰る途中に「菓子舗榮太楼」があるのだ。
今日買ったのは麩まんじゅうとはすもち。食べ切れるかな、と思ったが、はすもちの方は明後日までもつとのことだったので「じゃあ3個ずつ」と言ったら、最後に残ったはすもちをもう一個おまけしてくれた。

京都には「おばんざい」というのがあって、毎月毎月この日には何を食べるということが決まっているのだそうだ。おそらくそれは、季節によってもまた折々変化して行くものなのであろう。
だから、いわゆる「惣菜」のことを意味しているというよりは、もっと「風習」に近いものなのではないか、などと考えていた。そして、僕は、そんな京の文化に密かに憧れていた。

だが、考えてみれば、僕達が日頃何気なく口にしている和菓子だって、「おばんざい」と同じように毎年毎年繰り返される、四季折々を感じさせてくれる風物のひとつなのではないか。
麩まんじゅう、はすもち。ちょっと前にはかしわ餅、よもぎ饅頭、そして花見だんごに桜餅。
もちろん、一年を通していつでも食べられる和菓子もあるけれど、「季節限定」もまたちゃんと存在するのである。

さて、初めて食べる麩まんじゅうは、大変に美味であった。青海苔の風味と、くにゅっとした食感が、これから梅雨を迎えようという今の季節にぴったりである。
和菓子暦なんてものがもしあるのであれば、是非とも一度観てみたいものだ、などと思った。
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2008年05月16日

同化

時々、あることにハッと気付き自己嫌悪に陥ることがある。それは、同僚や上司の言い回しや口調を我知らず真似していることにふと気付いてしまった時のことで、誰もそんなことを(多分)気にしてなどいないのに、自分ひとりで、自分ひとりのこととしてとても恥ずかしい。

人は、なくて七癖、意外と色んな癖を持っているものである。動作もそうだが、やはり一番印象に残るのが口癖や独特の言い回しで、退屈な会議中などは結構な暇潰しになる。
「俺に言わせれば」って別に知りたくないよ、とか、「〜的な」ってのが多過ぎるんだよ、とか。

何でそんな言い回しをするのだ、という人を、僕は日頃結構小馬鹿にしている(スミマセン)。つまり、また意味もなく「逆に」って言った、とか、「何々といったトコロ」って言うのこれでもう10回目だ、とか心の中で突っ込みを入れているわけである。
だが、だからこそ、いざ自分がその影響を受けて、知らず知らず同じような口調で、同じような言い回しを用いて話をしてしまっていることに愕然とする。

自分は彼らの口調を笑っていたのではないのか。いや、少なくとも「おかしいよなあ」と感じていたのではないのか。では、何故正にその彼等と同じ口調で僕は今話をしているのか・・・。
「日和見」という嫌な言葉が脳裏をかすめる。「寄らば大樹の陰」ということわざも思い出される。
何のことはない、彼等の癖に違和感を覚えながら、実は僕は無意識の内に彼等と同化しようとしていたのである。
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2008年05月09日

回転吉兆(案)

高級料亭「船場吉兆」がまたまた大変なことになっている。
牛肉の産地偽装や消費・賞味期限切れ食材の販売などに続き、今度は客の残した天ぷらや刺身を再利用して別の客に提供していたというこれまたとんでもない事実が発覚してしまったのである。
「ささやき女将」あるいは時にはまた「希代の腹話術師」とも称された新社長・湯木佐知子の「食べ残しではなく手付かずの料理と呼んで欲しい」という「名言」も、しょうもない騒動に更に拍車をかけている。

僕はこのニュースを聞いて二つのことを考えた。
ひとつは、「高級料亭」というところではそんなにも食べ物が粗末に扱われていたのか、ということ(主に客の問題)。もうひとつは、高級料亭といってもそれ程プライドを持って仕事をしているわけではなかったのだな、ということである(こちらは板前の問題)。
そして、僕はあるアイディアを思いついた。

回転寿司が好きではない(理由はブロイラーの鶏になったような気がするから)。しかし、食材の有効活用、「食べ残しではなく手付かずの料理」という建前を正当化しつつコスト・パフォーマンスを維持するには、おそらくこの手法が最適である。
考えてみて欲しい。回転寿司の寿司は正しく「手付かずの食べ残し」ではないのか。ナマモノが多種多様な客でごった返す店内でむき出しのまま長時間空気に晒されているわけである。握られてすぐ客の胃袋に入る場合もあるだろうが、そうでないものの方が(多分)ずっと多い。中には、開店以来ずっと回転しっぱなしのネタだってあるかも知れない。でも、人は気にしない。それは、そこが回転寿司だからだ。それが回転寿司の常識だからだ。ならば、高級料亭もその方式を取り入れればいい。

各お座敷にまずレールを敷こう。そしてそこに、その日のお品書きに従った料理を載せた汽車を走らせるのだ。各お座敷では、客が、隣の部屋を通過して来た料理のうち、自分達の食べたい皿だけをピックアップする。中には取り寄せたのに食べないという馬鹿もいるだろうが、求めてもいないのに目の前に次から次へと豪華な料理が(自分専用として)運ばれて来るよりははるかに無駄がない。
一方板前は、ぐるぐる回るコンテナに残った料理をチェックしながら補充を繰り返す。商談が上手くまとまらず食が進まない客ばかりの日は、コンテナの料理自体が減らないのだから補充もないわけで、つまり最終的な無駄は(純然たる客の食べ残しを別にすれば)コンテナ一周分の料理だけということになるわけである。
ああ、地球に優しい。

もちろん、料理のお代は器の種類毎に決まっていて、例えば魯山人なら皿1枚あたり1万円である。
タグ:船場吉兆
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2008年05月03日

虫の命

暑い日、わざわざアスファルトの上に這い出しているミミズを見かけることがある。しかし、ミミズにとって地上は決してオアシスではない。この不合理な行動の真の理由など僕には判らないが、とにかく、時々ミミズは哀れ干からびて死に至る運命に自ら身を投げ出すのであった。
昨日の朝も、タイル張りの玄関先に、まだまだ元気なミミズが一匹のたくっていた。僕は、それをどうこうしようとも特段思わず、そのまま車に乗って午前の用を足しに行った。
昼近くなって帰宅すると、ミミズは既に一本の黒い棒と化していた。随分縮んでいた。

ミミズが死んだ家の玄関先には、陶芸用にとしつらえた水栓がある。僕はそこで陶芸用品やバケツ、そしてタオルなどをかなり頻繁に洗うわけだが、その水を受ける鉢の部分に、ちょくちょく様々な虫が紛れ込んで来る。
ダンゴムシ、ヤスデ、ハサミムシ。一度など孵化前のセミの幼虫までいたことがある(水を飲みに集まって来るのであろうか)。
そんな虫を見つけた時、僕は何とかそいつ等を外に出してやろうとする。すぐ外は愛しの地面だ。黒く腐った葉っぱをいっぱい含んだ湿った土があるのだ。
虫はそんなこととは露知らず、僕の指先を、あるいは木の枝先を逃れようと必死になる。馬鹿なもので、どんどんどんどん悪い方へ、例えば排水口の方へと向かって行く。
だから、どうにかして鉢の外に虫を逃してやった時には、僕は少々ホッとするのである。

今朝も、鉢に紛れ込んだ1センチくらいの赤いアリを地面に返してやった。
そしてその時、「今助けたアリと昨日のミミズにいったい何の違いがあるだろう。何故僕は一方を見捨て、一方を救おうと考えたのか」と、ふと思った。
僕には、地獄に堕ちた時、仏様に優遇してもらおうなんて考えはこれっぽっちもないのだけれど。
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2008年04月29日

夢でよかった

昨夜、夢を見た。
すごく老けたザ・たっちが、旅番組のレポーターをしていて、旅館の仲居さんに「ちょっと、ちょっとちょっと〜」とつっ込んでいた。
目が覚めて、ああ夢でよかった、と思った。心から。
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2008年04月27日

「す」か「すぅ」か

人と話していて、あるいはテレビ番組を観ていて、あることがすごく気になる。「す」か「すぅ」かということである。
「お早うございます」あるいは「ありがとうございます」などと言う時の「す」を、僕は例えば英語で「ice」と言う時のように子音の「s」で小さく発音するが、子音「s」の後に母音「ウ」をくっつけて、それをすごく強調するようにしゃべる人も今結構いるのである(もしくは「す」と「そ」が混ざったように言う。いずれにしても母音が強い)。
僕には、それがひどく耳障りに感じられるのだ。

昔はテレビのアナウンサーがそんな発音をすることなどまずなかった。日常会話でも耳にする機会はなかったように思う。
あるいは、関西人が「ネクタイ」と言う際「ク」の部分にとても強くアクセントをつけるのと同じように、元々は何処か地方の方言(訛り)だったのが一般化したものか、そういえば関西の芸人は「すぅ」と言っているな、などと考えても本当のところは判らない。
いや、方言ならそれはそれでちっとも構わない。ただ僕は、それが(鼻濁音の曖昧化の時と同じように)いつの間にか「普通」になりつつあることに、違和感を覚えているだけなのである。そしてまた、実際なんて聞きづらいんだろう、と思っているだけなのである。

「唐獅子牡丹」の高倉健が、キメの台詞で「死んで貰いますゥ」と言ったのではやはり締まらない。加賀美幸子さん(元NHKアナウンサー)も、絶対こんな風には発音しないぞ、とも思う。
posted by og5 at 20:52| Comment(1) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

そんな秋田が好きなのよ

4月26日付産経新聞東北欄に面白い記事が載っていた。秋田県庁が事務局となって進めている「秋田県人変身プロジェクト」を取り上げた記事で、そこに紹介されている秋田県民の様々な分野における「1位」がとにかくスゴイのだ。

自殺率、がん・脳血管疾患・肺炎それぞれによる死亡率、出生率及び(人口)自然増加率、婚姻率などがいずれもワースト1位で、多重債務相談件数や不慮の事故による死亡率も全国2位となっている。
一方、ハンドバッグ購入費、子供服購入費、美容院の人口比率、刑法犯認知件数、中学2年の身長(男女共)、小学生の学力調査結果などでも1位となっており、悲しいのか嬉しいのかよく判らない気分になって来る(プロジェクトのホームページで確認したら、使途不明のこづかい県庁所在地別1位なんてのもあった)。

これら順位の調査年度や条件はそれぞれ異なる。必ずしも今現在の秋田の状況を鏡のようにそのまま映し出すものではないかも知れない。しかし、がん死亡率で10年、自殺率や出生率に至っては12年連続でワースト1位なのだから、これはやはり「県民の特質」であることに間違いはないであろう。

ところで、悲しいのか嬉しいのかよく判らない気分になって来る、なんて言いはしたが、僕はこれらの結果に必ずしも落胆しているわけではない。いや、どちらかというと「ますます秋田が好きになったような」気分なのだ。
秋田県人の性格を表す例え話として「俺もやらないからお前もやるな」というのがあるそうだ。自殺はしない方がいいに決まっている。それは当然である。しかし、同時に、この例え話からそこはかとなく漂って来る(ある意味ラテン系的な)気質を、是非ともだらだらと継承して行って欲しいものだなあ、と思ってしまうのもまた事実なのである。

「だから駄目なのだ!」とプロジェクト推進派からは叱られそうだ。
でも、いいなあ秋田。
特に、ハンドバッグ購入費が高いあたりがものすごく好きである。
posted by og5 at 15:48| Comment(3) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月20日

バターがない!

昨日買い物に行ったら、立ち寄った2店のスーパー両方でバターが品切れ状態だった。
1店は「品薄のためお一人様1点までのお買い上げと限定させて頂きます」という張り紙がしてあったが、棚には既に商品がなく、もう1店では、そもそもバターの商品陳列棚自体を見つけることが出来なかった。
バターが店頭から消える(?)というような噂はあった。何でもバターの原材料の生乳生産量が減少しており、その原因のひとつが生産調整で乳牛を減らしたためというのだから、明らかな政策ミスであろう。様々な要因から食料自給率の向上が叫ばれつつある現状であるのに、何とも心細い限りである。

恥ずかしいのは、自分でも一瞬「買い占めなきゃ」と思ってしまったことである。白状すれば、昨日行ったスーパーで、僕はちょっと必死になってバターを探した。3個くらいは買っておいた方がいいかも、などと考えた。「買占め」の規模自体がせこくて何とも情けない。
考えてみれば、バターがないのであればバターを使わなければいいのである。日常のたいていの料理は他のオイルで代用が利く。パンに塗るのも、しばらくはジャムにすればいい。
気の毒なのはどうしてもバターを使わなければならない業界、レストランやパン屋、お菓子屋などで、こちらはバターを使った味そのものが売りなのだから、まさか他のもので代用するというわけにも行かないだろう。

この「バター・ショック」はいつまで続くのだろう。
この際、業界最優先にして、一般消費者に売るのをきっぱり止めてもいいのでは、とも思うが、まあこれはあくまでも高コレステロール保持者の個人的意見である。
いざとなれば、トラを4頭連れて来るという手もないではないが、上手い具合に木のまわりで追いかけっこをしてくれるという保証は何処にもない。

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posted by og5 at 17:11| Comment(3) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月15日

花のかおりに

20080415202105.jpg玄関先で、新聞を取ろうとつま先だって、郵便受けの方に手を伸ばした時、不意にひどい汗臭さが鼻をついた。僕は顔をしかめ、何がそんなに臭うのかと靴箱の上に目をやった。
原因はすぐに判った。それは花瓶に生けられた春の花束だった。

「花のかおりに つつまれて 口づけかわし なみだぐむ♪」とザ・フォーク・クルセダーズの「花のかおりに」は始まるが、花の香りは実は結構強烈だ。
それは当然といえば当然で、植物だって生きているのだから(直接的にはミツバチを誘うためのものであるかも知れないけれど)雄は雌を誘う匂いを発し、またメスはオスを誘う匂いを発しているに違いないのである。花のフェロモンが人間の汗の臭いに感じられたからといって、いったい何の不思議があるだろう。

考えてみれば、春に憂鬱になる人が多いのも、この「香り」のせいかも知れない。ある単一の匂いではなく、そこいら中に充満する圧倒的なフェロモンが、人間の何かを狂わせるのだ。
花の香りはまた猫のマーキングの臭いにも似ているが、春に恋を語らうのは何も猫ばかりではないということであろう。
posted by og5 at 21:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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