2008年04月13日

サクラ、モクレン。

今年の桜はちょっとだけ不憫である。
というのも、何だか誰からも待ちわびられることのないうちに咲いてしまったような気がするからで、余計なお世話だと言われるかも知れないが、やっぱり少し早過ぎたように思うのだ。
今日はあの人は来ないのかなあなどとひとりで酒を飲んでいるいつもの店、結局待ち人来たらずでも、それはそれでまたいいものだ。
東京ではもう開花したのか、春とはいえ秋田はまだ寒いからなあ・・・。そんな待ちわびる気持ちで通勤途中の固い蕾の薄桜色を見上げることも、日本ならではの季節の楽しみ方のひとつである。
人でも何でも、やや遅いくらいがありがたい。

mokuren_1.jpg今、我が家の裏庭では木蓮の白い花が満開である。「ぼっ」と大きな花びらなのに何処かしら上品な慎み深さを感じさせる。
いつ咲くかなど誰も気にしない花の方が案外趣きがあるものである、なんて考えたりもするけれど、いや、花はただ花で、全ての理屈づけは人間の勝手な思い入れか。
桜も木蓮も、「困ったものですわね」と何故か和服姿の女性の言葉つきで、馬鹿な人間を観察しているのかも知れない。
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2008年04月07日

神様今年もよろしくね

雪解けが早かったわりに肌寒い日が多く、なかなかその気にならなかったけれど、やっと一昨日、今年になって初めての陶芸小屋仕事をした。
去年10月、本焼きするはずがずるずると何も出来ずそのまま冬を越してしまったかなりの数の素焼きの器が、しんとした小屋で僕を待っていた。
毎週土曜日のルーチン・ワークとなっている買い物を済ませたのがほぼ正午。軽い昼食をとってから、意を決して小屋にある素焼きの器のうち約3分の1程度を紙やすりで仕上げ、水を絞ったスポンジで汚れを落とす。高台に撥水剤を塗る。次いで、一冬越してまちまちにひねくれてしまっているバケツの中の釉薬を、一種類ずつふるいにかけて混ざり具合を調節する。
久し振りの施釉にはひどく手間取ったけれど、夕方までにはどうやら準備が整った。
映画を観る予定があったのと、家族揃ってラーメン屋に行くのとで中断したが、夜の8時には火及び電気の神様にお供えをして、二拝二拍手一拝した後、窯詰めを開始した。

およそ24時間後に窯出し。
火と電気の神様に祝福された器はほんの一部だけだったけれど、しかし、今年も始められたということがまずは嬉しい。

080406_1.jpg080406_2.jpg

※それにしてもひどい写真だなあ・・・。
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2008年04月06日

最近思ったことなど

オリンピックがらみでよく言われることは、「スポーツに政治を持ち込むな」である。しかし、そこにはそもそも「政治」が含まれているのではないか。国威発揚、プロパガンダ、そして見せかけの友好。いや、どう考えてみても、含まれていないわけがないのである(何も今回に限ったことではない)。
オリンピックに出るということは、好むと好まざるとに関わらずスポーツ選手自らが「政治」の中に入って行くということに他ならないだろう。とすれば、誰一人としてイノセントのままでいられないのは当然である(それにしても、「五輪」と書いて誰もが「オリンピック」と訓読みする不思議)。

ゴルフの宮里藍選手がティー・ショットの際わざとへその出るウェアで人前に出るのはいわゆる流行のファッションというものなのであろうと思っていたのだが、どうやらそうではないらしい。というのも、デビュー以来もう随分たつのに彼女はずっと(今に至るまで)へそを出し続けているからである。そんなにも見せたいへそというものがこの世にあるのだろうか、と思う。
「へそ自慢」というちょっと間の抜けた言葉が頭に浮かぶ。

世間様は今「暫定税率廃止」で大盛り上がりである。しかし、月に一度しか給油しない僕にとって、それは理解の範疇を超えている。どうせすぐ元に戻るならたった1回こっきりのことだし、ずっと続くなら高い値段でガソリンを買うのもやはり今回限りなのだ。そんなことで、僕は悩みたくない。
もちろん、車あるいはガソリンそのもので生活を維持している人にとっては死活問題である。値下がりすることは絶対的善で、かつ自由競争は無条件で正しいことなのだという前提でしか話をしない人がいるが、その根拠はいったい何なのだろう、とも思う。

「東MAX」こと東貴博の父親・東八郎のことを、あるクイズ番組で「昭和を代表するコメディアン」と紹介していたのだが、それは違うと思った。トリオ・スカイラインは好きだったが、決して王道ではなかった。東八郎はあくまでも脇にいる人であり、だからこそよかったのだとも思う。
ある時代を代表しなければコメディアンは評価に値しないわけではないし、それに、誰かが代表するには、昭和はあまりにも長過ぎると思うのだが。

近頃は、いや近頃も、あまり大したことは考えていない。
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2008年03月26日

チビTの呪い

「ニューヨークの朝は早い、って。何処の朝だって早いッチュウネン!!」というのは、誰のネタだっただろうか。
いずれにしても、朝は早いものと、全世界、だいたい相場が決まっているようである。
しかし、(それにも関わらず)我が家の朝は遅い。
ドタバタしている。
つまり、ネボスケなのだ。

ネボスケの朝は慌ただしい。そういう意味では、我が家の朝も「はやい(速い)」と言えなくもないのだけれど、慌ただしいからこそ、ネボスケの朝は、決まった手順に沿って整然と進行されなくてはならない。
トイレに行く。(パジャマのまま)1階に降り、洗面所でひげを剃る。顔を洗う。朝ごはんを食べる。歯を磨く。洗面所にある整理タンスから下着と靴下を引っ張り出して、それを持って2階に上がる。パジャマを脱ぐ。靴下をはく。シャツを着る。ワイシャツのボタンをはめる。ズボンをはく。ベルトをしめる。ネクタイをしめる。上着をはおる。腕時計をはめる。財布、名刺入れ、ハンカチ、キーホルダー、携帯電話等を、それぞれいつもの決まったポケットに入れて、そして部屋を後にする。

ところが、たまに、洗濯した後で間違って僕の「段」に入れられていたものであろう、2階に持って行ったシャツが妻のものだということがあるのだ。
そんな時、僕は本当にがっかりする。がっかりして、身長が2センチほど縮む。
妻の「チビT」を前にして、靴下とパンツだけという間抜けな格好で、僕はそこに立ち尽くす。
プログラムは中断されてしまった。
僕は、1階に、今度こそ自分自身のシャツを取りに行かなくてはならない。しかし、1階には義母もいるから、パンツ一丁でウロウロするわけにはいかないのだ。
僕はまたパジャマを着る。階段を下りる。整理タンスからシャツを取り出す。今度は一応広げてみて、そのシャツが確かに自分のものであることを確認する。また2階に戻る。パジャマを脱ぐ。シャツを着る。ワイシャツのボタンをはめる。ズボンをはく・・・。

時々やって来るこの状態を、僕は「チビTの呪い」と呼んでいる。そして、そんな時、僕は「出たな、チビT」と小声で呟くのである。
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2008年03月18日

「taspo」導入

「taspo」の導入が始まった。
「taspo」とは、未成年者の喫煙防止を目的としたICカードのことで、制度導入後は、これなしでは自動販売機でタバコを購入することが出来なくなるのである。
(カードを)不正に貸し借りしてでも買いたい奴は買うだろう、とか、登録時に運転免許証等のコピーを提出させるのは個人情報保護の観点から問題があるのではないか、とか様々な指摘があるようだが、個人的には、まあ悪いことではないのではないか、と思っている。

ところで。
何か新たな制度、あるいは新サービスが導入されるといった場合には、首都圏から施行されるのが普通である。東京や神奈川あたりから導入が開始され、次いで各政令指定都市にエリアが広がる。僕の住む秋田なんて、何だって年単位で後回しになるのが当然なのだ、と思っていた。
しかし、不思議なことに、「taspo」はそうではない。
つまり、全部で4次(パイロットエリア〜第3次)に分かれている導入段階の、しょっぱなが九州の宮崎と鹿児島。そして、次が青森、岩手、秋田など東北各県を含む全21道県で、東京は何と一番最後の第3次導入なのである。

これではいつもと全く逆である。いったい何故この順番なのか。
誰からも待ち望まれている新サービスは東京(首都圏)から始めるが、何となく抵抗(あるいは混乱)が予想される制度等については、「地方」で実験して様子を見てから後の対応を考える、ということなのだろうか、などと少しひねくれた考えも頭をかすめる。
もちろん、各自治体の導入判断の後先によるスケジュールの違いもあるのだろうが、常日頃の地方モンのひがみ根性は別にしても、何だかとても特殊で不思議な感じがするのである。
タグ:taspo
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2008年03月16日

春だから

春だから、近所の堤防まで行ってみた。
冬の間ずっと小屋に仕舞い込んでいた自転車を引っ張り出し、タイヤに空気を入れ、出かけた。
堤防のすぐ手前にある、昔住んでいた家は、もうなくなっていた。そこら辺り一帯に、新しい家が建ち並び、かつての面影はもうない。
僕は、堤防に自転車で入って行く。堤防の上は、細く舗装されていて、ゆっくりとカーブしながら左右に続いている。
散歩する人。犬を散歩させている人。川べりで釣りをする人。それを見る人。中には、まだシベリアに帰る決心をつけられずにいる白鳥に、餌をやっている人もいる。
すれ違う人々は、やはり老人が多い。
自転車に乗っている人も、たまにはいる。
堤防には、太い桜の樹が、ずっと向こうまで植えられている。対岸にも、同じように、太い桜の樹が、等間隔で並んでいる。
自転車に乗っていると、張り出した枝が頭に当たりそうになり、思わず肩をすくめる。
桜の樹の幹は、太いのになると3メートル以上もある。そこから伸びた細い枝は、節くれ立って、僕には何だか枯れているように見えた。
堤防の上から川べりまでは、冬を耐えた野の草と枯葉が地面をおおっている。5メートルほど下ると春の川。向こう岸までは約10メートルだ。
ぷかぷかと川面に浮かぶカモや白鳥。案外悪声の鳴き声が響く。それに混じって、時々カラスの声も聞こえる。
もう一ヵ月もすれば、ここは一面ピンクに染まるのだろう。
だが、今はまだふきのとうの季節である。
帰り道、僕は妻に頼まれていたイチゴを3パック買った。
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2008年03月15日

歌詞を書く

テレビの歌番組などで歌詞がテロップ表示されるようになったのはいつ頃からのことであろうか。僕が子供の頃には、もちろんそんな親切な仕組みなどなく、だから好きな歌手の新曲が初めて披露された番組で、もしその歌詞を憶えたいと思えば(そして、「明星」や「平凡」の付録の歌本が待ち切れないとなれば)、僕達はそれを必死になってメモするしかなかった。
筆記はどうしても歌に追いつかない。最初はいいが、すぐに遅れ出す。僕は、「シャボン玉ホリデー」で歌われるザ・タイガースの新曲の歌詞などを、よく姉と1フレーズ交替で書き取ったものだった。

学校で使うノートに、好きな歌の歌詞を丸々書き写すということもよくやった。既に入手済みの「ヤングソング」や「平凡ソング」から、正確にコピーするのである。歌本は、時には同級生から借りた物であったかも知れないが、そこに「知るための記録」としての意味はあまりない。
好きな歌手がいる。憧れのアーティスト、あるいはミュージシャンがいる。もしかしたら、単に心惹かれた歌そのものであったかも知れないけれど、僕は多分それをもっと身近にしようと、もっと自分の中で確固たるものにしようと、大切なノートの1ページを費やしたのである。
それは、どちらかといえば「コピー」ではなく「取り込み」もしくは「共有」であった。そして、それは、おそらく、ある種の「自己主張」、もしくは「表現行為」でもあった。

今では、歌以外の普通の会話にさえ常に流れる録画可能なテロップと、更にはまたインターネットのお陰で、その気になれば、歌詞はいつだって知ることが出来るし、また再確認出来るものになった。
歌詞を書き取る、などということを、僕はもはやしなくなってしまった。
最近、歌詞は、いつだってそこにあるのに疎遠である。
近頃の中高生が、いったい何をノートに書き、また何を書いていないのかについて僕は一切知らないし、自分の好奇心や感性の衰えを、全て「他人」のせいにするわけにはいかないのだけれど。
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2008年03月13日

「夢はかなう」

今回、名古屋国際女子マラソンで高橋尚子選手が、27位という本人にとっても不本意な成績に終わったことを受け、僕が一番強く感じたのは、「夢はかなう」と思っている人、もしくは「夢はかなう」と信じたがっている人がこんなにもいるのか、ということであった。
皮肉を言いたいのではない。僕はとても飽きっぽく、努力する才能にも恵まれていないから、その感覚がただ単に判らないのである。
第一、「夢はかなう」と思っているということは、今現在叶えようとしている夢を持っているということであろう。そんなに多くの人が夢を持って生きているのか、と怠惰な僕はまた唖然とする。

考えてみれば、僕はそもそも、未だかつて一度たりとも叶えるべき夢というものを持ったことがなかった。人並み以下の惨めな人生を歩んで来たというわけではない。自分のことをどちらかと言えば幸運な方だと思っているし、日々のあらゆる欲望も、そこそこ叶えられて来た。
そう、それは夢ではなく欲望だった。あるいは、希望、望み、願いと時に名前を変えながらも、少なくともあまり向上心のない自分自身の身の丈に合った、もっともっと現実的な「何か」であった。

(よい夢でも悪い夢でも)夢は醒める、と僕は思う。それは、人間にとって幸せなことではないだろうか。そう思ってしまうから、「夢はかなう」は僕にとって、やはり永遠にまぶし過ぎる水晶球なのである。
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2008年03月08日

何と言えばいいのでしょう

昨日、妻と待ち合わせ、「4分間のピアニスト」を観た後で、軽く飲もうかということになって、近くの居酒屋に入った。少し待たされてから、奥のテーブル席に案内され、まずはそれぞれ日本酒を頼んだ。妻が「明鏡止水」で僕が「九平次」。長野と愛知の酒である。
酒が来るまでの間、メニューをチェックする。選んだのは、刺身盛り合わせと大根のサラダ。その店はにぎり寿司も注文出来る店だったので、「馬刺しのにぎりもいいね」と言う妻に同意し、〆鯖、まぐろと併せ、二貫ずつ注文することにした。

日本酒が運ばれて来た。開いたままのメニューを見ながら、僕が注文する。
「刺身盛り合わせの三種盛りと、大根のシャキシャキサラダ。それから・・・」
と、僕はしばし絶句する。それは、寿司ダネがずらっと並んだメニューのページを見ながら、「馬」のにぎり寿司をどう相手に伝えたらいいのか、突然判らなくなってしまったからである。
メニューには単純明快にそのものズバリ「馬」と記されている。無難なのは「馬刺し」だと判っているが、それでは何だか違うような気がした。「サクラ」も脳裏をよぎったが気取っているようで気恥ずかしい。しかし、だからといって「う・ま」と発音するのはちょっと・・・。

結局、僕は、照れ笑いでごまかしつつ、「う・ま」と言った。店員はあっさりと「馬刺しですね」と言い、注文を書き留めた。「あ、あと〆鯖とまぐろも」と慌てて付け加える僕のドギマギには、彼は全く気付かないようであった。
店員が去ってから、僕と全く同じことを考えていた、と妻が笑った。
そうなのだ。あの明るく清潔な店内で、「う・ま」と言うのは、本当に気の引けることだった。
相手にそう告げる時の自分の口元の間抜けな感じをまず想像してしまったのが、そもそもの失敗だったろうか。
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2008年02月25日

酒田にて〜「土門拳記念館」、「Bar JOCKAMO」

昨夜は、酒田「Bar JOCKAMO(バー・ジャカモ)」にて、僕も歌詞を書いている秋田のバンド「RUBBER SOLE」が、鶴岡の「マルチ放電」とジョイント・ライヴ。夫婦して午前中に秋田を出発した。
酒田は近いし、行くのも(もちろん)これが初めてではないが、せっかく行くからにはいろいろ楽しみたいと思うのが人情。面倒臭がり屋の僕を気遣いながらも、妻はそれなりに計画を練っていた。

買い物編は省略するが、やはり断然よかったのが「土門拳記念館」である。現在展示中の「土門拳が好きだった仏像」と「風貌」を、二人だけでのんびりと観る。
僕は、特に「風貌」にそそられた。土門拳が撮った各界著名人のモノクロの肖像写真なのだが、そこに付された彼の文章がまた素晴らしいのだ。
「写真とは撮る人のものの見方である」というイサム・野口の写真に添えられた文章の一節に、僕は深い感銘を受けた。そして、自分が今まで戯れに撮った写真のあれやこれやを思い出し、その(技術的にも情緒的にも)ピントのずれた有様に、思わず赤面したのである。
そうか、僕の「ものの見方」は「いい加減」だったのだ!
じっくりと読み直したくて、約1万円する写真集も購入。
ホームページによると、「〜神話の里〜 日向」という企画もあったようなのだが、何故かまるで気付かず見逃したのがちょっと残念である。

さて、夜の部。ライヴは両バンドとも大変に楽しかった。図々しく打ち上げにも居残り、下らないことや馬鹿馬鹿しいことを話した。酔っ払っていたので、人の話した下らなくないことや馬鹿馬鹿しくないことをすっかり聞き逃してしまったような気もするけれど、ジューク・ボックスのアナログな音が心地よかった。

〔追記〕
「RUBBER SOLE」のラッパ担当K君推薦の「三日月軒」で昼に食べたラーメンは非常に美味であった。
いずれにしても、また行かねばなるまい。

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2008年02月16日

ブルブル

冬の朝、積もった雪で、まるでかまくらみたいになってしまった車を前に、途方に暮れることがある。
そんな時、いつも、車に、ある機能がついていればいいのになあ、と思う。
エンジンをかける際、あらかじめ調節しておいた目盛に従って、水浴び後の犬のようにブルブルと、かつ強烈に数回身震いして、勝手に積もった雪を払い除けてくれる、そんな機能である。

いいと思いませんか?
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2008年02月14日

股引の不思議

今年一番の寒気が日本列島をおおっている。
秋田も、当然おおわれている。
よって、妻は股引をはけと気遣い、僕は鏡の中に見慣れぬおっさんを見る。

家には今二枚の股引があって、一枚はくるぶしまでのごく普通のタイプ。もう一枚が膝より少し下までの、云わばステテコ式である。
昨日はスタンダード・タイプをはいて会社に行った。
温かったが、帰宅してからそのまま家の前の雪掻きをしたら大汗をかいてしまった。
股引は即洗濯籠行きとなり、昨日と同じような寒気の今日、だから僕はまだ封を切っていなかった包装をといて、新品のステテコ式股引を取り出し、身に着けたのである。

はいた第一印象が、「寒い」であった。しかし、その内体温が馴染んで暖かくなるのだろう、と高をくくって、僕は身支度を整え会社に向かった。
ところが、一歩家を出た途端、寒さはいよいよ身に沁みた。これは、外に出たが故の寒さではない。ステテコ式股引をはいているが故の寒さなのだ、とその時身体が直感していた。

スタンダード・タイプと比べてステテコ式が保温性において劣る、ということは理解出来る。だって、膝から下がないのだから。
しかし、問題は、パンツ一丁の上に直接ズボンをはいた時よりもなお、ステテコ式をはいた状態の方が寒い、ということなのだ。

家に帰り、ステテコ式を脱ぎ捨てて、やっと僕はサワサワしたステテコ式寒さから開放された。
今、僕は思う。
これって、もしかしたら夏用なのか?
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2008年02月03日

ラーメン談義

ラーメンの好みというのは、本当に人それぞれである。
あるラーメン屋に関して誰かが「美味い」と言うと、必ず「いやそうでもない」と反論する者がある。かと思うと、「あそこのはちょっと味が濃厚過ぎて」という意見には、きっと「あれが深みというものだよ」と返って来るのである。

僕は、美味し過ぎるラーメン屋が苦手である。食べた時は確かに「美味い!」と思うのだが、また行こうとは(滅多に)思わない。同様に豪華なラーメンも嫌いだが、こちらに至ってはそもそも食べようという気さえ起こらない。
反対に、あまり極端に美味し過ぎない、味もグレードもほどほどのラーメン屋には愛着がわく。買い物のついでにちょっと寄ってみようかな、と思う。この「ちょっと感」がいい。

僕がラーメンという食べ物に求めるのは、「豪華ではないが嬉しい感じ」である。言ってみれば貧相なごちそう。日常の中のささやかな「ハレ」とでも言おうか。
だから、よくテレビで、「ラーメンに命をかける男!」みたいな特番をやっているが、僕はあれをあまり好もしくは思っていない。
ささやかな「ハレ」にしては、立派過ぎて胃にもたれるという感じがするのである。

人は俄か評論家には結構厳しい目を向けるものだが、ことラーメン評論となると、規制が若干緩くなるようだ。自分もひと言言いたい、という下心があるせいかも知れない。

※無類のラーメン好き(ブースカが食べているようなタイプのラーメンが好ましいです)。
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2008年01月30日

ピンクの長靴

今日、帰宅途中、家の近くの交差点で信号待ちをしている時、左手から来て左折した車の屋根の上に何か変な物が乗っかっているな、と思ったら子供の長靴だった。
暗かったのであまり確信はないが、ピンク色をしていたような気がする。
出来ることなら教えてやりたい、と思った。しかし、その車(ワゴン車)は、信号に引っかかることも、また左折してから何か障害に出くわすこともなしに、あっと言う間に薄暗がりの中、僕の視界から消え去ってしまった。
何処に向かっているのかは判らないけれど、最後まで靴が落ちませんように、と僕は祈った。
何となく、その長靴が、その家族にとって、非常に大切な物のように感じられたからである。
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2008年01月26日

雪掻き

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二年前、ある事情により家の前にある駐車場が広くなった。広くなったはいいが、その前年の記録的豪雪の記憶もまだ生々しかったので、その5台分の広さ込みの雪掻きを想像するたびに、ひどくうんざりさせられたのも、また事実であった。
幸いにも、去年(駐車場が広くなって初めて迎える冬)は、ほとんど大した積雪もない暖冬だった。
ほっとした。
が、それは腹の中にエイリアンの卵を宿したままのかりそめの「安心」であった。

そして、今年。

シーズン前には、こんな広い駐車場の雪掻きなどやってられるか、と思っていた僕だったが、それでも、もう3〜4度、赤いスノー・ダンプを相棒に雪と格闘している。
普通乗用車12台分の駐車スペース及び公道に続く中央の通路部分を全て完璧に(とは行かないまでも取りあえず全面的に)除雪するにはかなりの労力を要する。
当然、雪の降る日にはその難儀を思い憂鬱になる。
しかし、「いいふりこき」の僕は、いったん事を始めると途中でやめるということが出来ない。
きっちりやろうと思えばその作業には少なくとも30分以上、積雪量によっては小1時間を要する場合もあるのだが、最後の方はへたり込みそうになりながらも(いや、実際何度もへたり込みつつ)、ふらふらと雪を運び続けるのである。

すぐに鼻水が出て来る。
汗が背中をつたう。
手袋をしていても、やがて指先はかじかみ、その内に、吐き気さえして来る・・・。

雪掻きを終えた後、玄関前に立って駐車場を一望した時のあの爽快感を、毎度のことなのに、その時点ではまだ想像することすら出来ずに、「赤い靴」をはいてしまったバレリーナのように、僕は真っ白な駐車場で右往左往する。

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2008年01月24日

神風

今日、未明、信じられないくらいの強い風が吹いた。
それは、軍隊のパレードのようにぐんぐんと近づいて来て、窓ガラスや、屋根や、そして床までもゴゴゴゴゴと揺らしたあげく、前後の脈略もなく、あっという間に過ぎ去って行った。

それまでも、風はずっと吹いていた。
が、それはあくまでも、冬の夜のごく平均的な嵐でしかなかった。
しかし、あの風は、とてつもなく特別な風であった。
間違いなく屋根がはがれる、と思った。朝、起きてから、何故か行方の知れなかった猫のことを、きっと神隠しにあったのだ、と半分信じ込んだほどだった。

ところで、これほどまでに強い風に遭遇した時に、人はそれをいったいどのように受け止めるものなのであろうか。
当の風をこそ自分に対する警告だと思うのか、それとも、あくまでも、徹頭徹尾善良な自己の救済を、風以外の何者かに祈る(求める)だけなのか。

正直に言えば、今朝僕は布団の中でそっと風に許しを乞うていた。
後ろめたい、罰の当りそうなことが、ひとつならずあるからである。
内緒だけどね。
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2008年01月14日

「折込広告ふんどし運動」断固反対

今気に食わない物の一等賞は、何と言っても新聞の折込広告である。というよりも、その折り方である。

一面を半分に折った状態の新聞がある。それを開くと、(たいていは)テレビ・ラジオ欄の間に挟まっていた無駄に枚数の多い折込広告が現れる。折込広告のその時のサイズは、だいたいがA3版より若干小さ目のサイズで、つまり、一面を二つ折りにした新聞の間にちょうど収まるくらいの大きさになっているわけだ(ためしに測ってみたら38×27センチくらい)。
ところが、最近このちょうどいい大きさの折込広告(の束)に「ふんどし」をはかせるのが流行しているらしい。重ねられた折込広告の長い方の辺のひとつを、別の広告が「僕取りまとめ役です」とでも言いたげにはさみ込んでいるのである。
おせっかい、ええカッコしい、自意識過剰、目立ちたがり、というような心ない罵りの言葉が脳裏をよぎる。
新聞というのは、一面の半分折という状態がデフォルトであるかのような顔をしているが、だから折り目も正式にはそのようにしかついていないのであるが、実際は更にそれを半分に折った形で扱われるのが普通だと思う。だが、この「一面の半分折りの更に半分折り」は、「おせっかい」に(他の折込広告とは異なる)変な癖をつけ、それが、畳んだり重ねたりする際、非常に微かな妨げを生む。そして、この「微かな邪魔」が、ものすごく癪に障るのである。

昨年あたりから始まったことのような気もするこの「折込広告ふんどし運動」であるが、正確なところはよく判らない。また、僕の住むエリアの新聞販売所だけの流儀なのか、それとも今や「それ」が折込広告界の主流となってしまっているのかについても定かではない。
が、とにかく癪に障る。
「折込広告ふんどし運動」断固反対である。

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2008年01月03日

午前3時9分

元旦の午前3時9分で腕時計が止まっていた。そのことに昨日気づいた。
年末年始の丸二日間をほとんど腕時計を見ることなしに過ごした僕は、新年早々、まるで何かの暗示のように「時を取り戻さなければ」というメッセージを受け取ったのだった。
そんなこと、言われるまでもなく判っているつもりだ。
腕時計の針が「A HAPPY NEW YEAR!」で止まっていようと、明日から仕事は始まる。

止まったままの時計を、それでも僕は左手首に巻きつけてあちこちへ出かけた。
実家に向かうタクシーの中で最初にそのことに気づいたのだが、昨日はそのまま一日を過ごした。
今日は、映画のついでに何処かで電池の入れ替えをしようと思い出かけたが、駐車場に車を止めるのに予想外に時間がかかったり、バーゲンの混雑と空腹に夫婦揃って意識朦朧となったりして、結局は時を取り戻せないままに帰宅した。

「3時9分」を左手首に巻きつけて、僕は明日の朝仕事始めの職場に向かう。昨日、そして今日もそうしたように、止まっている時計なのに、度々その文字盤を覗き込むのだろう。
僕は確かにメッセージを受け取った。
「時を取り戻さなければ」・・・。
だが、どんな時を、またどのようにして。

それが判らないから困るんだよね。
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2007年12月09日

エキスポランド休園について

太陽の塔38.jpgエキスポランドが休園するという。
今年5月のジェットコースター「風神雷神U」の死亡事故を受けた全面的営業停止の後、徹底した安全点検を行った上で再開された運転だったにも関わらず、主たるアトラクションのひとつ「オロチ」においてまたもトラブルが発生してしまったことや、それによってますます深刻となった信頼失墜を挽回することがこのままでは困難であると判断されたらしい。
事故の前から既に入場者数は芳しくなかったというが、あの事故が起こってしまった後では、経営は更に苦しく、打つ手もほとんどなかったのではないか、と想像される。

観覧車.jpgエキスポランドは、1970年に開催された大阪万博に併せて作られた遊園地で、敷地面積は約20万平方メートル。2005年5月、カエターノ・ヴェローゾ大阪公演の折、大阪モノレールの傾いた車窓に突如現れた「太陽の塔」をドキドキしながら観ていた妻の横顔を思い出す。
そして、エキスポランドは「太陽の塔」の庭だった。広大な敷地に、観覧車やジェットコースターのレールが見える。だが、それは遊園地の一アトラクションではなく、スケールの大きな子供のおもちゃだった。その感覚はおそらく、「太陽の塔」がまるで幼き暴君のように見えたことに起因する。
「太陽の塔」は昭和の子供だった。

観覧車モノ.jpgエキスポランドの公式HPによれば、休園はあくまでも「当分の間」のことだというのだが、営業を再開する日は果たして本当に来るのだろうか。いや、仮に再開出来たとしても、かつてのような賑わいがそこにはあるのであろうか。
僕は「太陽の塔」を死ぬまでに是非もう一度観たいと思っている。その時、「太陽の塔」が淋しい子供の顔をしていたのではあまりにも悲しい。
青空の下、そこで遊ぶ蟻のような人間も込みで、陽の光にギラギラと輝く観覧車やジェットコースターを睥睨する不機嫌な「太陽の塔」であって欲しい、と僕は願っている。
posted by og5 at 17:21| Comment(0) | TrackBack(1) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月05日

靴の階級闘争

妻からは「サラリーマン靴」などと言われながらも、僕はここ最近ずっと履いている自分の靴をとても気に入っていた。何しろ雨の日でも滲みて来ないのだ。そして、雪の日でも滑らないのだ。僕が靴に求めることのほとんど全てはこれで叶えられている。
ところが、今週月曜日に、経年劣化のためその靴が漏っていることが判明した。大した雪ではなかった。ベショベショしたみぞれっぽい雪で、僕はふふふんと半分鼻で笑いながら出勤したのである。
何しろ僕には心強い味方がいる。こんな雪何するものぞ。
しかし、会社までの道のりを半分も行かないうちに、僕の靴下はずぶずぶになっていた。

以前にも、何故革靴はデフォルトで雨が滲み込むように出来ているのだろう、というようなことをちょっと書いた。今また僕は改めてそのことに強い疑問を抱いている。
例えば、靴を二重構造にすることは出来ないのか。あるいは、少なくとも地面から2センチ程の高さまでは縫い目を作らないという設計にすることは出来ないのか(つまり標準的に、という意味)。
無理ではないような気がする。無理ではないでしょう。いや、絶対に無理じゃないよなあ。
では、何故そういった靴をくつらない、いや、作らないのか。
これはもう、多分明らかに意識的に作っていないのである。

おそらく、そういったことはゴム長靴に任せていますから、というようなことなのだろうと思う。
靴の世界にもどうやら差別があって、革靴はゴム長族を自分達よりも一段低く見ているのである。そこには機能的であることへの軽蔑もあるかも知れない。機能を追及することは、エレガンスを失うことと同義である、と多分革靴族は本気で考えているのだ。
由緒正しい革靴族にとっては、だから「サラリーマン靴」など許せない存在であろう。
奴等は裏切り者だ!
裏切り者には「ダサイ」の烙印を!
高貴なる雨漏りよ、永遠なれ!

と、まあちょっと妄想しつつ、土曜には新しい靴を買わなくちゃな、と思っている週半ばなのである。
posted by og5 at 22:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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