2007年11月24日

雷雨の日の午後の安心

物置小屋を改築して陶芸環境を整えたのが今年の3月末。早いものであれからもう丸8ヵ月近くになる。
その小屋には、今年中にでかしてしまおうと素焼きまで済ました60個以上のカップやら皿やら壷やら鉢やらぐい飲みやら片口やらスプーンやらが、僕達一体どうしたらいいんでしょう、という顔をして肩を並べている。
僕は多分もう今年は本焼きをしない。先週以来の急激な寒さのせいで、何だかタイミングを逸してしまったのである。
あせって無理をしてもろくなことにはならない、と今は思っている。

今日の雷雨はもの凄かった。
ひとりで部屋の模様替えをしていた僕は、慌ててパソコンの電源を切り、コンセントを抜いた。
土砂崩れを起こしたような有様の部屋の中で、猫は不安げにミャアミャアと鳴いている。
シアタープレイタウンに映画を観に行った妻が帰って来てから、雨と雷はますます強くなり、電気を点けていない家の中は真っ暗になった。
食堂の窓からブラインド越しに外を見ると、そこはボルネオの熱帯雨林だった。
行ったことなどないから、本当はどうかなんてまるで判らないけれど。

気持ちのいい雨だね。
そうだね。

暗がりの食堂の椅子に座ってこんな会話を交わしてから、妻がふと「こんな風に感じられるのも、明日が休みだって判ってるからなんだよね」と呟いた。
全くその通りだ、と雨の朝出勤するずぶ濡れの自分の姿を大急ぎで頭の中から追い払いながら、僕は心の底から安心した。
そして、妻の入れた軽やかに苦いコーヒーを飲んだ。
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2007年11月20日

木枯らし吹いて

18日、東京に木枯らし1号が吹いた。その同じ日の夕方から秋田では雪が降り始め、翌朝起きてみたら、屋根も庭も家の前の道路もみんな真っ白だった。
車通勤なのにまだタイヤ交換をしていない者も中にはいて、予想以上に滑る路面でいつものようにスピードを出すわけにもいかず、後続のスタッドレス組をイラつかせている。
僕は、そんな車の空回りするタイヤを横目に見ながら、今シーズン初めてのコート姿で会社に急いだ。

職場でも話題はやはり天気のことが中心となった。
横手では29センチの積雪があったとか、いや(隣の県ではあるが)青森の酸ヶ湯では79センチだったとか。今年は去年のようにはいかないよなあ、などと嘆きながらも、そうやって冬の来るのを少しずつ受け入れているのである。
昼休み、窓の外が真っ暗なのに驚いた。
すぐ近くで、雷が光った。

帰宅途中、ふと児童唱歌「たきび」のメロディーを口ずさみ、「木枯らしピープー」だったか「木枯らしピーピュー」だったかとずっと考えながら家に着いた。どうにも気になってしょうがないので調べてみたら、「木枯らし」ではなくて「きたかぜ」が「ぴいぷう」なのであった。
それにしても、改めて考えてみると「木枯らし」というネーミングの何と味わい深いことか。
何処にも「風」という文字が入っていないのに、僕達にはこれが判る。

「あっしにはかかわりのねえことでござんす」と言いながら、11月が去って行く。

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2007年11月15日

「××ジャパン」待望す

バレーボールW杯女子、今日はまた特に為す術もなくアメリカに敗れてしまったわけであるが、それにしても気になるのはあのキャッチフレーズ、というか妙なニックネームである。
キャプテン竹下の「世界最小・最強セッター」はともかく、「スピード&ビューティ」だの「世界が恐れるニッポンの元気印」だの「鉄腕エリカ」だの「プリンセス・メグ」だの「ミラクル・サオリン」だの(ああ、頭が痛くなって来た)、極めつけは「道産子シンデレラ」だ!
これでは勝てない、ような気がする。

ふと冷静に眺めてみれば、何故かレギュラー全員が「子分肌」である。「俺が、俺が」というエゴを感じない。みんな誰か強烈なリーダーについて行きたがっているのだが、そんなリーダーは何処にもいない。だからきっと今ひとつのところで弱いのだ。

それはともかく。

ちょうど今秋田FORUSシネマパレで「仁義なき戦い」を上映しているせいで思いついたのだが、もし山守の親分(金子信雄)みたいな奴がひとりでもメンバーにいたらどうなのだろうか。いや、どうせなら監督がいい。監督が山守のオヤジなら、少しは展開も変わるのではないか。
失敗は人になすりつける、人は責めるが自分は逃げる、ごまかすためなら平気で泣く、人望はない、だが絶対的に親分で、最終的に(何故か)常に勝っている。
子分は、こんな親分に盃を貰った自分が馬鹿なのだとほとんど必ず後悔するが、組織は確実に大きくなって行く。

「山守ジャパン」、本気で見てみたい。
もし結果が全てなら、最高ではないか。
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2007年11月08日

おふたりさん、いらっしゃい

会社の飲み会の帰り、まだ少し飲み足りないな、とひとりで家の近くの居酒屋に立ち寄った。
暖簾をくぐり、自動ドアの開いた入り口を入ると、威勢のいい声が響く。のべつ幕なくキンキンした声で「いらっしゃいませ」とやっているコンビニエンスストアの店員には憎しみさえ覚えるが、居酒屋の店員は元気な方がいい。
週の半ばの平日ということもあって、店はそんなに混んでいなかった。テーブル席に二組くらい、カウンターにはひとりしか客がいない。
店に入る前から、僕は注文する物を大体決めていた。飲みたいのは生ビールで、食べたいのは塩焼きそばだった。
空いていればいつも座る壁際の席に座り、僕は若い女店員に「生ビール」と告げた。
彼女は、お通しと箸、そしておしぼりを僕と僕の隣のカウンターに並べて、大きな声で「生二丁入りましたーッ!」と叫んだ。
僕は、誰かが一緒に店に入って来たのかな、と思った。でも、僕はひとりだったし、そんな「他人」の姿もない。ところが、僕の隣にもきちんと箸は並べられ、僕のと同じ帆立貝柱の和え物が、小鉢に入ってちょこんと置かれているのである。
僕と「目に見えない誰か」の間に注文書きをはさんだバインダーがひとつしかないことに気付き、僕はやっと彼女が勘違いをしているのだ、と理解した。
両手にジョッキを持ってやって来た彼女に、僕は自分がひとりであることを告げた。
彼女は謝り、ジョッキを僕の前に置き、注文書きを書き直し、「目に見えない誰か」の箸とおしぼりとお通しをお盆に載せて、店の奥へと下がって行った。
僕は生ビールを飲んだ。
それから、僕は僕と一緒に店に入って来たはずの誰かのことを考えた。
そして突然、深い孤独を感じた。
初めから居もしなかった彼は、あるいは彼女は、もうそこにいなかった。
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2007年11月06日

親切の後味

なかなか口に出しては言えない他人の身だしなみというものがある。こう言うと何だか大袈裟だが、要するに本人だけが気付かないちょっとしたアクシデントということだ。

男の場合、よくあるのが、ズボンのチャックを閉め忘れて、不必要に風通しが良くなってしまっているという状態である。が、実はこれは案外声を掛け易い。実際、本当にままあることだからである。
しかし、相手が女性だとそうはいかない。教えてあげた方がいいのかも知れない。でも、声をかけることで逆に恥をかかせることになるのではないか、とも思う。変な目で見られかねない、という、よく考えればおかしな不安も、その根底にはある。

会社に向かって歩いている時、前方を行く女の人の左腰のあたりに、何かがくっついているのに気付いた。その人は短いコートを着ているのだが、そのグレーの地味な色合いの中に、一カ所だけ、葉書大くらいの白い部分があるのだ。遠目には、四角い穴のようにも見える。
僕は、少しだけ歩を速め、その人に近付いて行った。気になって気になってしょうがなかったからである。
実は、それは使い捨てカイロだった。かつてコートの内側(多分更にその下の何処か)に貼られていたものが、何かの拍子にずれて、移動に移動を重ねた結果、ついに自由を手に入れたのだろう。あるいは、脱ぎ捨てた服の重なった中にずっと潜んでいて、ある時その上に置かれたコートにくっつき、今日とうとうそのまま「お出かけ」と相成ったのだ。

結局、僕はその人に声をかけた。何しろ「モノ」がカイロということもあって、あまり悩みもしなかったのだが、しかしそれでも、「何だか悪いことをしたなあ」というイヤな感じは、理不尽にしばらく残っていたのであった。
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2007年11月04日

「転落」あれこれ

最近、階段を下りるのが特に不細工になって来たような気がする。元々敏捷ではないので、トントントン、とは階段を下りられない。反復横跳びなども不得意だったし、何も気にすることはないのかも知れない。しかし、普通に道を歩いていても、時々靴の底が意に反してアスファルトを擦る(つまり、自分で思っているほどちゃんと足を地面から上げて歩くことが出来ていない)ことがあるし、やっぱり年なのかなあ、などと少し心配になったりするのだ。
とにかく、冗談ではなく、ヨタヨタと階段を下りている時、料理上手な若妻が朝の味噌汁のネギを刻んでいるかのようなテンポの良さで、トトトトトッ、と若い奴に後ろから迫られたりすると、それだけでもう脚がもつれて転げ落ちそうになってしまったりするのである。
労災になるのだろうか。

転げ落ちると言えば、カミュに「転落」という小説があった。読んではいない。カミュで読んだのは「異邦人」と「ペスト」だけで、「ペスト」の方が断然面白かったという記憶があるけれど、今読み比べたらどうなのだろうか。
「異邦人」の冒頭に「ママン」という表現が出て来る。これについて、僕はずっと、主人公がマザコンだからこんな言い方をしているのだ、と思っていた。一人称で語る時、わざわざ「お母さんが〜」と言うのは、やはり何か意図があるに違いないと考えたわけである。
しかし、フランスでは、これがごく一般的なことらしい。フランス人は、いい歳をしたひげ面の中年男でも、人と話す時には、誰でもごく普通に「ママン」を使っているというのである。
でも、ホントにそうなのかな、と僕は実は今でもまだ自説を捨て切れないでいる。

コックニー・レベルの二枚目のアルバム「さかしま」には「転落」という曲が入っている。原題は「Tumbling Down」。正確な訳かどうかは別にして、いい邦題だと思う。
当時僕はコックニー・レベル(及びほぼその実態の全てであったスティーブ・ハーリー)のことを、グラム・ロックのカテゴリーの中でとらえていた。レコード会社の売り方も、メディアの評価も、やはり確かにそうだったのであるが、彼等にはどこか二番煎じ、あるいは偽物のイメージがつきまとっていた。僕が彼等をこよなく好きなのも、そんな「匂い」があるからこそではあるのだが。
ところで、スティーブ・ハーリーがいったい誰の影をまとっていたのか、僕は最近になってようやくその本当のところを理解したような気がしている。
それは、ボブ・ディランである。

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2007年10月28日

沈黙の居酒屋

個人情報保護法の施行以来、小学校のクラス連絡一覧表のようなものすら、父兄からの協力が得られず、作ることが出来ない事態になっているのだという。
情報化時代になれば、それで金儲けをたくらむ人間が出て来るのは当然の成り行きで、ただ困るのは、違法にせよ合法にせよ、それら入手した情報が、金になるばかりではなく、命を手に入れて勝手にひとり歩きを始めてしまうということである。
子供を持つ親の身であれば、どうしても神経質にならざるを得ないだろう。それも、理解は出来る。
僕の会社でも、毎日のように、顧客情報漏洩について注意喚起が行われている。酒席では仕事の話を一切するな、という御達しまで出た。
確かに、お客さんの情報や取引先とのあれやこれやが外部に漏れることなど、絶対にあってはならないことだ。「壁に耳あり障子に目あり」という諺は、情報化時代にこそ相応しい。
しかし、と僕は思う。では、居酒屋で僕達はいったい何を話せばいいのだろうか、と。

サラリーマン同士が居酒屋のカウンターに並んで安い酒を飲んでいる。話題は今日の大リーグWシリーズのことと、趣味のゴルフの話。だが、一方は全くゴルフをしないので、相槌を打ちつつも、実はさっきからもうひどく退屈している。
何故こんな所にこんな奴と来てしまったんだろう、と彼は思う。理由はある。上司の仕事のやり方に、課員のひとり残らず全員がどうしても納得の行かない「あること」が起こったのである。一番の被害者が、彼と、今隣りで真っ赤な顔をしているN氏だった。だから、彼はN氏を飲みに誘ったのだ。
しかし、N氏と彼は全く話が合わなかった。共通の話題がないのだ。せめて仕事の話が出来れば、あの嫌な課長の悪口が言えたなら、と思ったが、会社の業務内容に触れざるを得ない事柄を社外で話題とすることは規則でかたく禁じられている。
かと言って、わい談をするのもためらわれた。以前、調子に乗って騒いでいたら、隣り合った席の女性ばかり5人のグループから、露骨に嫌な顔をされたのである。
今では、意図しようがしまいが相手の受け取り方ひとつでセクハラに結び付けられてしまうから、迂闊に冗談も言えない。
彼等二人のストレスは、それを解消しようと立ち寄った居酒屋で、更に濃く深くなって行くのであった。

今、居酒屋で話すことはあまりない。
たまに(本当に、本気で)イニシャル・トークをやっているグループを見かけるが、聞いているこっちまで頭がグラグラして来る。
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2007年10月25日

そんなチキンに騙されて

「偽装」だらけだ。
ミートホープ、白い恋人、赤福と来てついに比内地鶏である。
そういえば、雪印や不二家だってまだそんなに昔の話ではない。
比内地鶏偽装のニュースを初めて聴いた時には、何とも言えない不可思議な気分になった。
嘘だろ、と、ああついに来たか、とがないまぜになった、妙に醒めた感覚である。
今朝観たニュースでは、数日間姿をくらましていた社長が、記者会見で何事かもごもごと釈明していたが、何でも、自殺まで考えて方々を彷徨っていたのだという。

ひどい話だ。
だが、僕は、どうしてもこの事件を強く一方的に非難するという気持ちになれない。
それは、おめおめと姿を現した社長があまりにも情けない田舎爺キャラだったとか、「比内地鶏は今まで一切使ったことがありません」、あるいは「全て私が指示しました」といった案外潔い物言いにちょっと好感さえ抱いたからなどという理由ではなく、単に僕があれら「偽装」の品を、美味しい美味しいと言って喜んで食べていたからなのである。
もしかしたら違う商品かも知れない。いや、しかし、多分「アレ」である。

僕に何を言えようか。僕が、若鶏ではなく親鶏を好む者である、などということももはや何の意味も持たない。確かに、年取った鶏の方が歯ごたえがあって美味しい(と僕は思う)。そして、今回比内地鶏の代わりに使用されていたのは、もう卵を産まなくなってしまった「廃鶏」というそれはそれは安い鶏だったというのである。
これではまるで結婚詐欺にあった女のようなものである。騙されたと聞かされても、どうしてもそれをそのまま信じる気持ちになれない。少なくとも、あの日あの時の彼の言葉に嘘はなかった、と信じたいのだ。

「彼」って、鶏なんですけどね。

※これにも凄い「チキン」が出て来ます。

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ラベル:比内地鶏 偽装
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2007年10月24日

右手と左手の話〜あるパン屋にて

楳図かずおの作品に、「神の左手悪魔の右手」というホラーがある。これは本当にホラーだ。とにかくおぞましく怖い。あまりにダイレクトなので、僕は未だに買うのを躊躇している(本当はコミックスを一冊買ったのだが、あんまり怖くてすぐに売ってしまった)。

さて、これは、先週あるパン屋で経験した出来事である。実は、別に怖くもないし不思議でもない。だが、とりあえず右手と左手に関するエピソードではある。

妻と僕は、先週、そのパン屋で食パンを買った。他にもシナモン・ロールや何かを買ったのだが、詳しくは憶えていない。
食パンは、二斤の大きさで売られていた。しかし、それでは僕達には多過ぎるので、妻は一斤にして欲しいと店員に頼み、ついでにスライスもして貰うことにした。
店員は、レジ・カウンターの下から、透明な手袋を取り出した。
神経質な性質の僕は、衛生に気を使っているのだな、と納得し、心の中で頷いた。
彼女は、右手にその薄い手袋をはめた。
しかし、何故か左手にははめようとはしないのであった。
彼女は、右手だけで注意深く食パンを持つと、僕達に背を向けた。そして、壁際にあるスライサーに片手で器用に食パンをセットし、スイッチを入れた。
スライサーが低く唸ってパンをカットする。切られた端の部分がまず左側面から落ちて来る。彼女は、ごく自然に左手で、つまり素手で、それを受け止める。受け止めて、そして、次々と積み重ねて行く・・・。
僕達は支払いを済ませ、車に乗り込んだ。車の中には、すぐに、焼き立てパンのいい匂いが漂い、そして空間を満たした。

手袋をはめない左手に意味があったのか、それとも、手袋をはめた右手に意味があったのか、僕には判らない。
インドでは左手は不浄の手とされており、だから、カレーを食べる時も、右手だけが使われるという。
冒頭紹介した楳図かずおの漫画では、左右の位置付けがそれとは逆になっており、左手はいわば癒しの装置となっているのだが、果たしてパン屋の彼女は、不浄のパンに秘蹟を行おうとでもしていたのだろうか。
今、僕に想像出来るのは、彼女は多分ヒンズー教徒ではないだろう、ということくらいである。

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2007年10月21日

手鼻をかむ人

スキーのノルディック競技などを観ていると、選手はみな洟を垂らしている。中には鼻の下につららをぶら下げている選手もいて、目のやり場に困る。
マラソンの選手もよく洟を垂らしている。こちらは冬ではないからつらら化はしていないが、その代わり彼等は手鼻をかむ。他の方法で処理をする人達も当然いるわけで、もちろん全員ではないのだけれど、かなりの選手が、これは男女の区別なく、実に上手に「ぴッ」とやる。

今そんなことをする人はいないが、昔は一般市民も道端でごく自然に手鼻をかんでいたのではないか。
僕が子供の頃(昭和40年代)には既に、手鼻をかむなんて公序良俗に反する、下品だと考える方が一般的で、だからたまに見かけてもそれはかなりの年配者か、昔気質の大工やとびといった職人さん達に限られていた。
子供は、職人の「自分にとっての非日常」に憧れを持って接していた。独特の恰好、様々な道具類、でかい弁当箱、実に旨そうに煙草を吸う様子、そして癖のある口調やちょっとこわい感じ。

「手鼻をかむ職人」あるいは「職人の手鼻に憧れる子供」なんて、もしかしたら僕の「創られた記憶」なのかも知れないが、少なくともマラソン選手の手鼻よりはロマンチックである。
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トレンチ・コートの男

一昨日の秋田市の最低気温は7.1℃、最高気温は17℃だった。
昨日の予想は、最低が12℃で最高が18℃。僕好みの「如何にも」な秋の気まぐれ天気だった。

金曜日、会社に向かう途中で、トレンチ・コートを着た男が僕の歩く歩道の向かい側から自転車をこいでやって来るのとすれ違った。
コート姿は、もう珍しくはない。しかし、さすがにトレンチ・コートは今季初めて見た。
僕の中ではまだまだ「そんな季節」ではなかったので、自転車をこいだら体温だって上昇するだろうし暑いくらいじゃないのか、と余計な心配をした。
トレンチ・コートの男は、実際少し辛そうだった。
脱げばいいのに、と僕は思った。

トレンチ・コートの男は、トレンチ・コートを着たまま僕の脇をすり抜けて行った。
トレンチ・コートの男は、多分トレンチ・コートを着たまま出勤したのだろう。
その時ふと、何故かと訊かれても説明など出来ないのだけれど、トレンチ・コートの男のトレンチ・コートの下がパジャマ姿であるような気がして、僕は後ろを振り向いた。
トレンチ・コートの男の後ろ姿は、何だかタガメに似ていた。

自転車をこぐトレンチ・コートの男の足元に、パジャマのズボンの裾が見えたかどうかについては、よく憶えていない。

今、絶滅の恐れがある水辺の生き物たち―タガメゲンゴロウマルタニシトノサマガエルニホンイシガメメダカ (ヤマケイ情報箱)今、絶滅の恐れがある水辺の生き物たち―タガメゲンゴロウマルタニシトノサマガエルニホンイシガメメダカ (ヤマケイ情報箱)
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2007年10月10日

話しかける人

仕事中に話しかけて来る人がいる。まあ、誰だって勤務時間中、同僚とコミュニケーションを取りながら仕事をするのが普通なのだし、無駄なおしゃべりもある意味職場の潤滑油的役割を果たしているわけで、一切の私語を禁ずるなんて会社は僕だって御免だ。だから、話しかけて来ること、それ自体はいい。しかし、相手の都合も考えず、ずっと話しかけ続ける、というのはいったいどういう神経から発する行為なのであろうか。

例えば、いくら僕でも会社に行けば仕事をしないでいるわけには行かないのであるから、締め切りの迫った報告書を作るため、必死になってパソコンのキーを打っていることだってあるわけである。しかし、「話しかけて来る人」はそんなことには頓着がない。
「昨日国体の応援に言ったんだけどよぉ」と彼は言う。
無碍に無視するのも大人気ないと思い、最初は僕も軽く「へえ、何の応援に行ったんですか?」などと水を向ける。
「バスケット」と答えるから、ろくに興味もないのに「あ、優勝したんですよね」と言った僕の言葉を、相手はもう聞いていない。
「そういえば、カメラはやっぱりフィルムだな」と、彼は勝手に話をあらぬ方向に持って行こうとしている。僕には、それを引き止める気はない。とにかく話を切り上げて、報告書に集中したいのだ。
僕の相槌は曖昧になる。適当になる。多分、「迷惑なんだけど」があからさまに全身から立ち上っている。
だが、彼にはそれがまるっきり通じない。

会議中にやたらと話しかけて来る人もいる。発言している人の言ったことをちょっと確認したいとか、自分達の思惑との一致あるいは相違を目配せと共に隣り合った人と確認し合うという程度なら何の問題もないのだ。
だが、進行と何の関係もない話を延々と続ける人がいる。いや、これも最初は確かに発言内容との関連性があったのだが、次第にどんどんずれて行ってしまった結果なのである。
彼にも、「迷惑なんだけど」は全然通じない(おまけに、進行役から僕が注意を受けたりする)。

これ等の人々とは絶対一緒に映画なんか観に行きたくない、と心からそう思う今日この頃なのであった。

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2007年09月30日

9月最後の日に

6.jpg「陶芸小屋」で土を捏ねたりろくろを回したりしていると、身体がねっとりする。僕は元々ねとねとした人間なので、会社で仕事をしている時などもかなりの頻度で粘着成分に全身を覆われているのだが、土をいじっている時の粘り具合はまた格別だ。2〜3時間も小屋にいると、皮膚が半ば土に同化したかのように感じられる。空気中に漂う土の成分が、ピタピタと肌に貼り付いて、そして僕の皮膚呼吸と共に身内に取り込まれて行く。
成形し損じた器や削り屑を再生させてまた使えるようにしようと手で練っていると、爪が削れる。最初は気付かなかったのだが、何気なく頬を掻いた時に、そこに傷がついたのではないかと思うほど神経に障り、確かめてみたら右手指の爪が尖っていた。陶芸用の土には砂も混じっているから、多分ヤスリのように作用するのだろう。手袋をはめればいいのだが、ついつい面倒で素手のまま作業をしてしまうのだ。

2.jpgねっとりした手でねっとりした首筋を撫でて、窓の外を見る。痩せた爪で頭を掻くと、そろそろ床屋に行かなくてはならないとずっと思っている髪の毛までねっとりとしている。
昼過ぎ、結構強い陽が差していたので外に出したサボテンの鉢が、今はもう日陰に入って寂しそうにしている。
風が急に強く吹いて、そこいら中の木々の葉っぱをざわざわと揺らした。
2週も続けて月曜が休みだったので、何となく明日も仕事をしなくていいような気がしていたのだけれど、冷静に考えればそんなわけもなく、僕は今騙されたような、ちょっと損をしたような、そんな妙な気分になっている。
陶芸用に取り付けた玄関先の水栓から出る水は温い。
間違えて一輪だけ咲いたタンポポの花が、場違いに黄色く鮮やかに、9月最後の日を惜しんでいた。
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2007年09月29日

人間の条件

人間はやっかいな生き物である。
成長しないと罪悪感を感じるように出来ている。

例えば、びっくりすると気を失ってしまう山羊がいる。スカンクは敵に襲われると臭いガスを出す。亀は何かあると手足を引っ込めて時が経つのをじっと待つばかりだし、コバンザメなんて奴までこの世にはいるわけである。
もし自分がこれ等動物達と同じ特性を持っていたとしたら、と想像してみる。
僕は、自分では出来もしないのに、すっかり人間教育に慣らされているから、びっくりする度に足をすくませる自分を恥ずかしいと思うだろう。逆襲のためとはいえ、武器がおならというのはちょっとどうか、と悩むに違いない。そして、引っくり返されても何も出来ず、ほとぼりが冷めるまでじっと身を縮めて待ち、そろそろ安全かも、と辺りをうかがってからやっとじたばたと手足を動かし始める臆病さと、自ら荒海を泳ぐ努力もせず、ただただ「親分」にすがり、そのおこぼれを頂戴することだけがヨスガという他力本願、自立精神ゼロのていたらくに、思わず赤面せずにはいられないのである。
しかし、彼等はそれを恥とは思わない。
恥ではないからだ。
身を挺して他者を救う、という行為が、仮に彼等の世界にあったとしても、それは決して、「ここで何らかの行動をとらなければ○○として恥ずかしい」というような、不自然かつ強迫観念的考えに基づくものではないのである。

僕は、あるべき姿と現実のギャップに悩む。
仰天するようなことが起こっても涼しい顔をしていたいし、男らしい手段で敵に相対したい。不合理には毅然と立ち向かいたいし、常に一個の自立した存在でありたいと願う。
今の自分がそうではないからだ。
四捨五入すればもう20年も前の話ということになるのだけれど、肉親の不幸に際し、何となくではあるが(そして、ほんの一瞬のことではあるけれど)、自分が「あるべき姿」に近付いたような、そんな気がしたのはいったい何故だったのだろう、とふと思う。
それは本当に勘違いだったから、僕はすぐにまた元の自分に戻ってしまった。
メッキは剥がれる。
すぐに剥がれるメッキなら最初からしない方がいいようなものだが、それでもメッキをかけようとするのが人間なのだ、とも思う。
自分が決して「金」や「銀」ではないことを知りながら、それでもなおかつそこに近付くよう一生努力し続けるのが人間の条件なのだとしたら、メッキは偽善である。
だが、その偽善は可愛い。
僕は偽善なしでは生きて行けないし、神様もそのへんは大目に見て下さるのではないか、と淡い期待を抱いている。
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2007年09月24日

草を刈る

僕はそもそも庭に雑草が生えていようが、一向に気にしないタイプだ。年に数度義母が頼む庭師は、僕が好きなヒナギクやタンポポやシロツメクサなど、彼が庭木あるいは草花と認めないものを、僕達夫婦がわざわざ植えたローマン・カモミールを含めて全て殲滅してしまうので、反感を抱いているくらいだった。
しかし、この前の台風の前後、どうにも薄気味の悪い事件が起こる。
台風の不穏な風の中帰宅した僕は、庭と駐車場の間に植わっている大きな紅葉の木の周辺の雑草だけが、約1平方メートルほど、四角くきれいに抜かれていることに気付いたのである。
義母に尋ねても知らないと言う。
では、いったい誰の仕業なのか。
確かに、最近の我が家の庭先は草ぼうぼうのすごい状態ではあった。それを見かねた誰かの親切だろうか。いや、しかし、仮に親切だとしても、これはやはり随分と失礼な話である。
僕は猛烈に気分を害した。
こんなことがあった後で「対処する」なんて屈辱的だ、とも思った。
しかし、結局は自分で雑草を何とかしなければ、と決心して、そして「刈払い機」を買った。

20070924135756.jpgせっかく買ったのに、天気が悪くて使わずじまいだった敬老の日から一週間が経った。
曇り空。ひと時、ほんの少しだけ雨粒が落ちて来たが、何とか持ちそうだ。墓参りの後で、やるなら今日だな、と僕は思った。
「刈払い機」本体や燃料である混合ガソリンの取扱説明書にはやたらと気持ちの悪いことが書いてある。やれ火事になるだの、やれ失明するだの、やれ人を死傷させる恐れがあるだの、ととにかくおどろおどろしい。買った直後、最初にこれを読んで、すぐに店に返しに行こうかと思ったくらいである。
再読して、僕は再びびびった。しかし、側に寄って来る猫と弱気を家の中へと追い払い、僕は勇気を振り絞ってエンジン始動のノズルを引いた。

20070924135850.jpgエンジンを切ってもしばらく僕の右手は震えていたが、庭は見違えるようにすっきりした。
ジーパンの裾にはびっしりと草の砕片がこびり付いていた。そこら辺一帯に青い匂いが強く立ち込めている。
プロがやるようにはいかず、刈り残しも多いけれど、妻と一緒に熊手や箒で後片付けした後の庭は、秋の風に吹かれて、気持ちよさそうに小さく揺れていた。
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2007年09月15日

たばねら

「あの時こうしていたら」とか「あそこで反論すれば」とかいった意味のない後悔を戒めて、会社のお偉いさん達はよく「『たられば』を言うな!」と部下を叱る。
だが、今から書こうとしているのは「たられば」ではなくて、「たばねら」である。

先日、6つの小さな鉢にそれぞれ植わっているサボテンを植え替えてひとつにまとめようと思い、適当な大きさの植木鉢及びサボテン用培養土を買いにホームセンターまで行った時、同行した妻の所望で切り売りのネットなどを見ていたその同じコーナーの向かい側の棚に、面白い物があるのを見つけた。
スーパーで売られている青果物(特に長ネギやアスパラなど長くて数本単位で売られている物)を束ねる紫色のテープ、アレが、あったのである。

もちろん、アレはむき出しで売られていたわけではない。僕は、最初「アレ」とは気付かず、ただ単にそのあまりにもユニークなネーミングに興味を惹かれただけであった。
僕は、「たばねらテープ」と記されたその箱をすぐさま開けにかかった。するとそこには、あの見慣れた紫色のテープが、普通のセロテープ様に輪っかになって、ちょっと「あ、見つかっちゃったか」といった感じで収まっているのであった。
僕が、即座に妻を呼んで、(何故か自慢げに)「たばねらテープ」を見せたことは言うまでもない。

「たばねらテープ」があるなら、「たばねら」本体もあるはずだ、と僕は思った。
而して、それはあった。
要するにテープ台であるが、束にした野菜を上から押し付けて、そこにテープを巻き付けながら適当な長さで切断することが出来るようになっている(らしい)。
テープには、紫色の他にもグリーンやイエローがあって、いずれも「FRESH VEGETABLES 新鮮やさい」と白抜きの文字が入っている。
黄色いテープの文字は、ちょっと見づらい。
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ねばならない世界

こんな話を聞いた。
RCサクセションが秋田に来た時、おそらくもう25年ほども前のこと、ある店に、ルードボーイファッションに身を固めた男達がたむろしていた。
「ルードボーイ」というのは、黒いスーツと細いネクタイ、それに山高帽といういでたちをしたある一群の若者達を指す言葉で、スペシャルズなどの2トーン・スカの連中やそのファン達のスタイルを想像して貰えれば判り易いのではないかと思う。クラッシュを支持する若者達も、確か同じような恰好をしていた。
そこに、RCサクセションのライブを観終わった数人の客がやって来る。
僕も多分その同じライブを観ているが、観客の中には忌野清志郎やチャボを真似て化粧をした者も結構いた。そして、その夜その店にやって来たのも、そんな連中だった。
当時としては異様だったツンツンにとがらせた髪、アイシャドーと口紅、イヤリングやブレスレットやネックレスをジャラジャラとぶら下げ、あるいは派手なバンダナを頭に巻いて、はいているのは穴だらけの細身のジーンズにブーツ。だが、彼等の着ているシャツの胸には、同時にまた、金色に輝く小さな熊が、しっかりと縫い付けられていたのである。
「こいつ等は偽者だ」
ルードボーイのひとりは吐き捨てた。
それだけの話なのだが・・・。

考えてみれば、既存のハード・ロックやプログレッシブ・ロックに厭き厭きした職もない若者達がパンク・ロックを始めた、というのも実のところ全くの真実ではなかったわけである。だが、少なくともそれは様々な意味における「閉塞」に対する反動で、そこから派生したニュー・ウェイヴや2トーンなどの動きも、やはりまた、それに呼応した「何ものか」だったはずなのである。
しかし、人は結局「ねばならない」から逃れられない。
革命家が独裁者になったって、もう誰も驚きはしない。壊すだけでは駄目なのだとすれば、いずれはそこに体制が出来上がる。政治的世界だけではなく、音楽だって何だって、壊す者が次の壊される者になるのだ。

ルードボーイ組とゴールデンベア組がその後どうなったのか、僕は知らない。
ルードボーイにとっては、日常から脱け出したつもりで日常を引き摺ったままで、しかもそれに気付いてもいないゴールデンベアが許せなかったのかも知れない。
ゴールデンベアは確かに偽者だ。
だが僕は、こんなささいなエピソードの陰にも潜む「ねばならない世界」の存在に、今かなりうんざりしているところなのである。

※こんな恰好ね。
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2007年09月12日

「?!」について

これ「?」がクエスチョン・マーク。疑問の存在を表すのに使われる。
そして、これ「!」がエクスクラメーション・マーク。驚きを表すのに使われる記号で、「ビックリマーク」などとも呼ばれる。
では、これ「!?」は何か?
更に、これ「?!」は?

実は、僕は「!?」は理解出来るが、「?!」をどうしても理解することが出来ないのだ。
純粋な疑問や驚きがあるのと同じように、ビックリするのと「はてな」がほとんど同時(あるいは全く同時)にやって来ることもこの世にはある。
しかし、疑問を持ったと同時にショックを受けるということが、果たしてあるのだろうか。
僕は、その状況をどうしても想像することが出来ない。

例えば、ほんの少し開いている地下室のドアをおそるおそる覗いてみたら突然中から血まみれの手が突き出て来て顔面をわしづかみにされた、というような状況。
これは「?」の後に「!」が(なるほど)やって来てはいるのだが、僕にはこれは「?!」ではなくてあくまでも「?」+「!」であるように感じられる。
それにひきかえ、何気なく地下室のドアを開けたら見たこともないグニャグニャしたモノが突然目に飛び込んで来て一瞬身を固くした、という場合は、「!」+「?」ではない「!?」的状況が確かにあるように思えるのである。

どうでもいいことだろうか。
どうでもいいことなのかも知れない。
しかし、テレビや漫画や小説や広告等々で、「?!」を目にする度に、僕は何故か堪らなく居心地が悪くなってしまうのである。

ところで、安倍総理の「辞任」は、やっぱり「!?」だよなあ。
posted by og5 at 18:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月06日

鞄の中身

僕は、会社に行く時鞄を持たない。
週に3〜4日は弁当の入った小さな紙袋をぶら下げて行くが、そうでない時は手ぶらである。
同僚には、「え? 手ぶらなの?」と驚かれる。
僕には、彼のその驚きの意味が判らない。
個人情報や会社機密の取り扱いが厳しくチェックされるようになり、また仕事を家に持ち帰るということも建前上は禁止されていることであるから、本来なら会社から家に(鞄に入れて)持ち運ばなければならないものなど、空になった弁当箱くらいしかないはずなのだ。
では、何故彼等は鞄を持って歩くのか。

もし電車通勤をしているのであれば、車内で、あるいは待合室で暇潰しに読む小説や雑誌がその中に入っているのだ、ということはあるかも知れない。
それとも彼等は実は隠れた投資家であって、会社のパソコンとは別に、いつでもどこでも市況が確認出来るように、自前のノート・パソコンを持ち歩いているとでもいうのであろうか。
最初の想像は可能性がなくもないが、二番目の想像は可能性ほぼゼロに近い。
しかも、彼等の鞄は、小説を入れるためだけにしてはやけに立派ででかいのである。

もしかしたら、あれは鞄ではないのではないか。
鞄のように見えるが、実は全体が保温機能を備えた弁当箱になっていて、パカッと開けると超豪華なランチが現れるとか、小さな山水があって、そこの瀧で流しそうめんが楽しめるとか・・・。

昔読んだ漫画で、いつも鞄を持ち歩いている男がいて、実はその中には銃が入っていた、というのがあった。彼はその銃によってアイデンティティを保っている。仕事においても、異性関係においても、誰にも見せないが彼だけはそこにあることを知っている銃の存在が、彼に自信を与え、他者に対する優位を何の根拠もなく保証するのである。
もしかしたら、そうなのかも知れない。
銃こそ入っていないが、いや、それどころか何ひとつ入っていないのかも知れないけれど、あの鞄はやはり彼等にとって、なくてはならないものなのである。

僕も、空の鞄を毎日持ち歩いてみようか。
人生が(遅まきながら)変わるかも知れない。
posted by og5 at 19:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月04日

小さな秋

今朝出掛けにオニヤンマを見た。近所の駐車場、停車中の黒い自家用車のサイドミラーの辺りを、すいーッと横に飛んで行った。
トンボを見たこと自体が、多分今年初めてである。昔は夏休みに見たような気がするオニヤンマであるが、もしかしたら元々秋のトンボだったのかも知れない。

今年は、シャワーの温度でまず秋を感じた。
夏の間は、冷たい、ほとんど水のようなシャワーを気持ちいいと思っていたのに、お盆を過ぎるあたりから温めのお湯を心地よいと感じるようになった。
気が付けば、庭では、セミと秋の虫の合唱の引き継ぎが、いつの間にか粛々と執り行われている。

秋の空は気持ちがいい。秋の空気もまた気持ちがいい。何か、息を吸う度に、その都度空気がずっと遠くからやって来るような感じだ。
夏の暑さにグッタリしていた慢性腎不全の家の猫も、少しばかり食欲を取り戻して元気にしている。これがいつまで続くのかは不明だが、取りあえずはよしとしよう。

僕も秋のお陰で少し元気になった。
秋の空気を吸えば、何となく日々の悩みもほんの少しだけ遠くに行くような気がする。
posted by og5 at 19:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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