2008年10月19日

ラモリスの想い出

赤い風船/白い馬【デジタルニューマスター】2枚組初回限定生産スーベニア・ボックス赤い風船/白い馬【デジタルニューマスター】2枚組初回限定生産スーベニア・ボックス
パスカル・ラモリス, サビーヌ・ラモリス, ジョルジュ・セリエ, ヴラディミール・ポポフ, アルベール・ラモリス

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アルベール・ラモリス監督の「赤い風船/白い馬」が、10月24日より三日間、秋田有楽町のシアタープレイタウンにて上映される。
「赤い風船」はもう20年以上も前に、秋田大学の学園祭で観た。ラモリス監督のファンで、当時所属していた映画自主上映サークルの会合でも、再三同監督の「フィフィ大空をゆく」をプッシュしたが、ついに叶わなかった。
「フィフィ大空をゆく」を初めて観たのはNHKのテレビ放映で、確か土曜の午後、ひとりきりの居間で、まだ中学生の僕は詩情あふれる映像にうっとりしていた。長年憧れていた映画だったので、自主上映が叶わないと決まった途端、しょうがないのでレンタルビデオ屋から借りて観たのだが、高過ぎる期待故かかなり退屈に感じられた。やはり映画館(映写機による上映)で観たかった。
ラモリス監督には「素晴らしい風船旅行」という作品もあって、老科学者と少年の気球による冒険旅行を描いている。この作品においてラモリスが採用した「ヘリヴィジョン」という撮影手法は、多分ヘリコプターから撮影するというだけの代物かと思われ、冒頭のクレジット・タイトルにはずっとプロペラの影が映っていたけれど、これもまたのどかで微笑ましい。
考えてみれば、「赤い風船」も「フィフィ大空をゆく」も、そして「素晴らしい風船旅行」も、全て「空を飛ぶ」ことがテーマあるいはモチーフとなっている。映像が音楽のように沁み込んで来る、広がって行く、あふれ出す。そして、そこに詩が生まれる。
24日が待ち遠しい。

※「赤い風船」の可愛らしい少年はラモリス監督の実の息子パスカルで、「白い馬」にも出演している。ラモリスにオマージュを捧げた「ホウ・シャオシェンのレッド・バルーン」も同時上映される。
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2008年10月13日

「歩いても 歩いても」〜思い出す夏

映画「歩いても 歩いても」サウンドトラック映画「歩いても 歩いても」サウンドトラック
ゴンチチ

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見事だ、とまず思ったのだった。
それは映画が始まってまだ数分も経っていないほんのプロローグ部分を観ていた時のことだった。そして、物語が進むに連れてその思いはますます強くなる。
スクリーンには、他愛もないことを話しながらお昼の準備をする母(樹木希林)と娘(YOU)が映っているだけだ。あるいは、居場所のない家から逃れて散歩する父(原田芳雄)のかくしゃくとした後姿があるだけだ。が、とにかく見事なのだ。
疎遠になっていた息子(阿部寛)が妻(夏川結衣)とその連れ子を伴って家に帰ってからも、映画は一切揺るがない。こういう言い方は妙かも知れないが、しかし今はその他に言葉を思いつかない。

横山医院は、久方振りに大賑わいだ。医院ももう閉めてしまい、普段は年老いた夫婦二人暮らしなのに、今日は次男夫婦と長女夫婦、それにそれぞれの子供達も合わせ全部で7人も「お客様」がいる。
今日は死んだ長男の15回目の命日で、だから、母は大忙しなのだ。彼女の必要以上の張り切り、しつこいくらいの長男の思い出への言及は、父の寡黙な寂しさと表裏一体で思わずしんみりさせられるが、「お祖母ちゃん家」という言葉を巡るユーモアがそれを救ってくれる。
ほぼ何も起こらない。食事をして、言い合いをして、墓参りをして、また食事をして、風呂に入り、一夜明けて帰って行く。
そこにある父と息子の緊張感も、姑と嫁のやり切れないさや当ても、考えてみれば僕達の日常にいくらでも転がっているもので、だが、スクリーンに展開されているのは何とも魅力的な日本の夏であり、日本の家族なのであった。

次男の昔の写真を見る母と妻と子。ひとりでいる父。母が丸ごと抜いて来たので空っぽになってしまった箪笥の引き出し。一転、廊下をかける子供達の足音。そして明るい夏の昼。
是枝裕和という監督は、本当に子供を描くのが上手いと思う。
結局は修繕され得なかった風呂場のタイルと同じように、人生においてもほころびは必ずしも修復すべきものではなく、半分崩れながらも何となく続いて行く。
これは思い出す夏の映画で、息子の墓参りの珍しく化粧をした母と、彼女に引き抜かれたひまわり、そして遠く電車が見える坂道をゆっくりと下る家族を景色として、ゴンチチの音楽が優しく流れる。

※秋田FORUS8階シネマパレにて上映中。
 10/11(土)〜10/31(金)
 (1)10:20〜 (2)15:05〜 (3)19:50〜
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2008年09月28日

哀しいけれど優しい「チェブラーシカ」

チェブラーシカチェブラーシカ

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わにのゲーナには「哀感」が漂っている。言葉にしてしまうと何だかありきたりで感じが違ってしまうような気もするのだけれど、いや、それはむしろ「諦念」とでも呼ぶべき静かで実体のある孤独か。
わにのゲーナは「諦念」している。そして、それでもなお彼が友を求めずにはいられないのだという事実が、映画「チェブラーシカ」をもの悲しく、しかし優しく彩る。

勝手に、もっと単純にチェブラーシカの可愛らしさや温かいユーモアを前面に押し出したアニメーションだと思っていたので、少なからず驚いた。動物園で「ワニ」として働くゲーナはもちろん、理解し難いほど意地悪な謎の老女(シャバクリャクという名らしい)など、明らかに「脇役」達の方が活き活きとしている。チェブラーシカは、狂言回しの役にさえ立っていないのではないか、と僕は思った。

ゲーナとチェブラーシカが汽車に乗って旅をする3話目が好きだ。ここでもシャバクリャクは意地悪し放題、ゲーナの大切なもの(切符やアコーディオンなど)盗み放題で、そのアナーキーさは遠く地平線にマルクス兄弟のハーポを思い浮かべさせる。
行動に理由も目的もないところが、そしてもしかしたら悪意さえないかも知れないところが、そっくりなのである。

最後、シャバクリャクとチェブラーシカに切符を渡し、自ら汽車の屋根に上るゲーナが悲しい。
しかし、ゲーナの隣りには、すぐにチェブラーシカがやって来る。そして、シャバクリャクもやって来る。
僕はここに至って初めて、チェブラーシカがゲーナにとってかけがえのない存在なのだということを、そしてシャバクリャクでさえもが同じくそのような存在なのだということを理解する。
アコーディオンを弾きながらゲーナが歌う「空色の汽車」が胸にしみる。

※「空色の汽車」は右HPで聴くことが出来ます()。また、公式HPではチラシもダウンロード可。
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2008年09月25日

父親を巡る物語〜「ぐるりのこと。」

「ぐるりのこと。」では、3様の父性が描かれる。第一にカナオ(リリー・フランキー)の自殺してしまった父である。第二に、法廷画家を始めたカナオがそこで出会うベテラン記者・安田(柄本明)である。そして、第三が、妻子をおいて遁走した(プロ野球選手でもあった)妻・翔子(木村多江)の父である。

カナオの父と安田は、それぞれ「逃げた父」、「逃げない父」と言い換えることが出来るかも知れない。カナオが、(亡くしてしまった)我が子に素直な愛情を示せなかったのも、カレーの会における(珍しく感情を露わにした)憤りも、この「逃げた父」の影響だ。
それに引きかえ、安田は逃げない。むしろ、こだわり続ける。安田は子供を交通事故で亡くしており、それが未だに彼の行動あるいは生活の(ある意味)足枷ともなっている。彼は、問い続ける(そして、とらわれ続ける)。「逃げない」とは、つまりそういうことでもある。

翔子の父もまた「逃げた父」である。しかし、後に明らかになるように、それは彼自身の身勝手による出奔というよりも、妻(倍賞美津子)の心的逃走の隠れ蓑としての距離的擬似逃走であった。
彼は、翔子に付き合って、名古屋にいる義父に会いに行く。そして、画用紙にその似顔絵を描く。法廷画家である彼は、日常的に人の顔あるいはその表情を描くことを生業としているわけだが、プライベートにおいては、おそらく彼自身が何らかのシンパシーを強く感じたもの(人)しか描いてはいないはずである。子供、義父、そして翔子・・・。
つまり、翔子の父は、カナオにとってある種触媒のような存在となったのである。

いずれにせよ、このようにして「逃げた父」の中にある事情を理解してしまった彼は、自らの父をも(単純に)ただ憎み拒否し続けるということが出来なくなってしまった。
「ぐるりのこと。」は翔子の心の旅を太い縦糸にしてはいるけれど、実はカナオの父探しの物語でもあったのだ、と思う。
再びカレンダーに×印をつけ始めたこの夫婦に子供が授かるのか(カナオ自身が父親になる機会が訪れるのかどうか)は判らないけれど・・・。
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2008年09月24日

「次郎長三国志」〜(極)個人的泣きどころ

「ぐるりのこと。」でしみじみし、「おくりびと」で嗚咽したのもつかの間、まさか「次郎長三国志」を観てこんなに泣くとは思ってもみなかった。その「心を突き動かされる感覚」は、本当に意外なものであった。

映画は、次郎長(中井貴一)とお蝶(鈴木京香)の祝儀の場面から始まる。しかし、まさにその時、周囲には大勢の捕り方が迫っており、次郎長はやむなくお蝶を後に残し、子分の大政(岸部一徳)らを引き連れ旅に出るはめになる・・・。
実は、僕が(最も)大いに泣いたのは、この導入部から、旅の途中で森の石松(温水洋一)がひと悶着の末一行に加わることになるあたり、そして1年後に清水に戻り本格的に次郎長一家を構えるに至る前半部分なのである。

物語は、それ以降の方が長い。また、お蝶との別れや、それをきっかけとして堪えに堪えていた怒りが一気にあふれクライマックスのチャンバラへとなだれ込むあたりの方が、おそらくはもっとずっと感動的であるはずなのだ。
しかし、僕がしびれたのは、ホントに何でもないような、「旅行けば」のあれやこれやだった。
何て自由なんだろう、と思ったのだ。この伸び伸びした感じは一体何なんだろう、と驚いたのだ。そして、羨ましくて羨ましくてたまらなくなってしまったのだ。
僕は、それこそ嗚咽した。まるで「河童の三平」の三平と狸の喧嘩を見ているようだった森の石松と次郎長達のやり取りや、東海道の青い空、そして彼等の屈託のなさに。

テンポが悪く感じられた後半も、今じわじわと好きになりつつある。
お蝶との約束も反故にして殴り込みをかける次郎長一家はやっぱりカッコいい。
その「大馬鹿者にござんす」な感じが、この映画の真骨頂である。

※前作においても、中井貴一は素敵でしたね。
         ↓
寝ずの番寝ずの番
中島らも 大森寿美男

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2008年08月25日

残酷なことも含めての女性・賛〜「赤い天使」

赤い天使赤い天使
有馬頼義 笠原良三

角川映画 2004-11-26
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映画でも小説でも、その「形」にすごく興味がある。もしかしたら間違った受け止め方をしてしまっているのかも知れないというリスクを感じないわけでもないのだが、いかんともし難い。
「赤い天使」を観た時も、僕はまず「形」を考えずにはいられなかった。
それはつまり、西さくら(若尾文子)を巡る3人の男達には、きっと何らかの意味があるのだろう、ということである。

3人の男達には、性的な意味において明らかに象徴的なある役割が与えられている。
ひとり目の坂本一等兵は、内科病棟の他の兵隊達と共に西看護婦に性的暴行を加える。彼は男性として性的に正常であり、それが故に死を免れ得ないであろう前線に送られる。
二人目の折原一等兵は、戦傷によって両腕を失っている。それ以外には何らダメージを受けていない彼は(自らの手が使えないが故に)日々性的苦悩にさいなまれる。西看護婦は彼を救済するが、その救済は、かえって彼の将来の絶望を際立たせ、彼を死へと急き立てる。
岡部軍医は、モルヒネ注射の常習により性的不能者となっている。西看護婦は、彼に亡き父の面影を見い出し、その尊敬の念はたちまちに恋愛感情に移行する。岡部は、彼女の献身的な愛によりモルヒネ中毒から抜け出し、同時に彼のインポテンツも治癒するのだが、おそらくそのせいで過剰に男らしさを取り戻してしまう。それは、岡部を死へと誘う。

3人の男達は皆死ぬのである。だが、彼等は不幸であろうか。
坂本一等兵は蛮行を詫びながら息絶えるが、折原一等兵は自ら命を絶ってしまうが、岡部軍医は敵兵の凶弾に倒れ身ぐるみ剥がされ荒野に打ち捨てられるのであるが、果たして彼等は不幸であろうか。
坂本一等兵は西さくらを恨んではいないだろう。折原一等兵も西さくらを恨んではいないだろう。岡部軍医においては、もちろん言うまでもないことである(胸の薔薇よ)。

西看護婦は、これら3人の男達の死に寄り添い、そして生き続ける。
これはおそらく戦争映画ではなく、まして反戦映画などでもなく、実は純粋に女性賛美の映画なのである。
若尾文子がこの映画を観たくもないと語っているという「逸話」は、これが正しく男のための映画であるという証明でもあろう。

コスプレあり。
そういう意味でもまた、これは先駆的作品である。
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2008年08月17日

若尾文子・賛

増村保造×若尾文子.jpgそれぞれ別々に観ればまた違う感想が生まれたのかも知れないが、2本一気に観た僕の感想は、とにかく「若尾文子は凄い!」だ。
「刺青」、そして「妻は告白する」。
監督増村保造をはじめとした全ての関係者が、若尾文子の「魅力」にやられている。谷崎潤一郎も、多分やられていただろう。生きていたら、黒川紀章と恋のさやあてを演じたかも知れない。
と、これはまあ僕の勝手な妄想だが、谷崎潤一郎が亡くなるのが1965年のこと。「瘋癲老人日記」だの「卍」だの、谷崎の生前もこの文豪の原作による作品に度々出演していた若尾文子のことを、彼(谷崎)はいったいどう思っていたのだろうか、と僕はまたもやあらぬ妄想に走る。
僕もまた、若尾文子の魅力に完全にやられてしまったのである。

「刺青」のお艶は、とにかくカッコよかった。
常識的に考えればひどい女としか言いようがない。一応は大きな質屋のお嬢様なのだが、手代を半ばそそのかすようにして駆け落ちし、頼った船宿の主夫婦に騙されて女郎屋に身売りされても一向に怯まない。怯まないどころか、むしろ水を得た魚の如くである。お艶に翻弄され、人を殺めたり道を踏み外したりして右往左往する男達の滑稽かつ哀れな様が、逆に「生き物」としての人として間違っているのではないか、とさえ思えて来るほどだ。
だからこそ、お艶が自ら旗本(佐藤慶)に「惚れた」と言い切る瞬間が胸を打つ。
(「惚れた」旗本に愛され過ぎて)フラフラしながら帰宅した明け方、当然ながら嫉妬し詰問する手代に、またも散々勝手な(理屈にもならない)理屈をまくし立てるお艶。
そうだ、この人はどうしようもなく生命力の塊なのだ。
お艶は、決して背中に女郎蜘蛛の刺青を入れられた不遇の女ではない。お艶が女郎蜘蛛を呼び寄せたのだ。だから、悶絶するお艶の背中で、ドクドクと血を流しながら、女郎蜘蛛は「あたし別に何にも悪いことしていないんだけど」とでも言いたげな困った顔をしている。

着物の色が美しい。いや、そればかりではなく、全てにおいて色が深い。そして、土の匂いがする。セットを使用した撮影であることに現在と違いはないであろうに、足元にちゃんと地面のある感じがするのである。映画は匂いをも表現することが可能な表現手段である、と思い知る。
雪の中、駆け落ちする道行、足袋をはけばいいのにと気遣う手代に、自分は裸足が好きなのだ、と返すお艶が妙に心に残っている。

一方「妻は告白する」の彩子は怖い。いや、彩子が怖いというよりも、愛が怖いのだ。
彩子は純粋だ。だから、法廷でも幸田を見る。愛人関係にあるのではないかと疑われている正にその人を、何とも言えない表情で(盗み見るのではなく半ば堂々と)見るのである。
彩子は、二度幸田の勤める製薬会社を訪れる。二度目はあの衝撃的な雨の日の訪問だが、その日はもちろん、裁判が始まったばかりの一度目の訪問においても、周囲の人々の「目」を描くその肌触りは、僕に強くキム・ギドクを想起させる。
純粋な彩子の愛は、人目に触れることを憚られるような「忌避すべき何か」を孕んでいる。日常にはそぐわない、子供連れの母親ならば、その子の目を掌で覆いながら「見ちゃいけません」と言わずにはおられないであろう「何か」を。
彩子の告白に、僕は震える。彩子は、幸田との結婚を望んでザイルを切ったのではない。自分達だけが助かりたくてザイルを切ったのでもなかった。

幸田に拒まれて、よろよろと階段を降りる彩子を、非情のカメラが追う。すがる手摺の危うさ。人々の視線。それでもなお、エレベーターを待つ幸田の婚約者からだけは身を隠そうとする彩子。トイレの鏡に映った自分の顔・・・。
幸田の「誠実さ」など何の役にも立たない。

秋田フォーラス8階シネマパレにて上映中。
8/16(土)〜8/22(金) 入場料金\1,000均一
「妻は告白する」
@10:20〜 A14:00〜 B17:40〜
「刺青」
@12:10〜 A15:50〜 B19:30〜
※8/23からは、第三弾として「赤い天使」を上映予定。


これは、若尾文子へのラブレターである。

妻は告白する妻は告白する
円山雅也 井手雅人

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刺青刺青
若尾文子.長谷川昭男.山本学.佐藤慶.須賀不二男, 増村保造

角川エンタテインメント 2007-11-22
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タグ:若尾文子
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2008年08月16日

扮装する人々

「ミスター・ロンリー」と、あっと言う間に上映が終わってしまった「P2」との関連性について。

「P2」には、有名な俳優も出ていないし、筋立てもチープである。まあ、どちらかというとB級作品なのであろう。ただし、A級であるかB級であるかはあまり大きな問題ではなく、面白いかどうかがまず第一義だと思っているから、僕にとって「P2」の評価は決して低くはない。もちろん、「面白い」にはいろいろな意味がある。

使える限りの予算内でサスペンスを盛り上げ、観客にショックを与え、ゴアリーな描写が好きな人にもそこそこ満足して貰いつつ、最終的には復讐譚としてのカタルシスも用意されている・・・。
つまり「P2」は娯楽作品として(やや中途半端であるとはいえ)非常にオーソドックス(かつ真面目)なのだが、僕が注目したいのは犯人トムの扮装趣味である。
地下の警備員控え室で、トムがプレスリーのレコードに合わせて踊るシーンがある。プレスリー人形付きカートリッジがレコードの溝をゆっくり滑る。なり切って踊るトム。カメラがなめる部屋の中には、プレスリーのコスチュームを完璧に着込んだトムの写真が飾られている。
このシーンはやや唐突だし、その後も特に何の説明もないので勝手に思い込んでいるだけなのかも知れないが、トムもまた「ミスター・ロンリー」なのだと僕は思ったのである。
アンジェラが意識不明のまま着せられているのも、単なるパーティ・ドレスではなく、明らかにマリリン・モンローのあのドレスであろう。
つまり、トムは、エルビスとマリリンのデートを画策していたのである。

「ミスター・ロンリー」は、有名人になり切ることでしかアイデンティティを保ち得ない(逆に言えば、そもそもアイデンティティのない)哀しい人々を描いていたが、「P2」ではそれがいきなり犯罪者(ストーカー)である。
普通に考えて(様々な意味で)より程度の低い「P2」の方がより常識的である、というのが面白い。それは、作品自体の評価や芸術的な位置付け等と全く関係なく、単に作者(監督あるいは製作者達)の性質(もしくは趣味)を現しているのだ、と僕は思う。
もしかしたら、観客の、か。

※実人生と映画が交錯する10CCの傑作アルバムです。
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2008年08月04日

「これでいいのだ!」と言うキム・ギドクの「ブレス」

ハンソン刑務所に収監されている死刑囚チャン・ジンは、何度も何度も自殺を繰り返す。それをニュースで知ったヨンは、何故か強烈なシンパシーに囚われ、身内でもないのに足繁く刑務所を訪ねる。
しかし、彼女は本来であればチャンに面会する権利など持たない「赤の他人」でしかない。昔の恋人だと偽るが、誰もそれを本気で信じたわけではない。
では、何故に彼女はチャンに面会することが出来たのか。

ハンソン刑務所には、謎の「保安課長」が登場する。「保安課長」は、何の権利もないヨンを刑務所内に招き入れる。面会室における破天荒な行動を、ほぼことごとく黙認する。しかし、「ちょうどよい塩梅で」面会終了のブザーを鳴らす。時にはヨンと一緒に歌を口ずさみ、踊っていることさえある。自由に監視カメラ(視点)を切り替え、それは時に刑務所の外で雪遊びに興ずる父と子にまでズーム・インする。これは正に「監督」という存在そのものではないのか。

これらから察せられるように、ハンソン刑務所がもしキム・ギドクの内面だとすれば、ヨンは何か。夫の浮気に結婚生活あるいは人生の意味すら見失っってしまった彼女を自らの内面(ハンソン刑務所)に受け入れるということはいかなることなのか。
ヨンは、自分の人生を再現する。歌と壁紙で春夏秋と、絵が好きだったこと、臨死体験、夫との出逢いを振り返る。実はこれは復活の儀式であり、だからこそ冬には舞台装置たる壁紙が存在しない。冬は現在だからだ。そして、冬の歌は、刑務所からどんどん遠ざかって行く時に、夫との二重唱で共有されるのだ。

では、残されたキム・ギドクはどうするのだ。
チャン・ジンはもはやひとりの人格ではないだろう。妻と二人の子供を自ら殺害した男は、キム・ギドク自身だ。だが、同時に、そのチャンにストーカー的恋慕の情を寄せる若い囚人もまたキム・ギドク自身である。牢獄の壁に女の裸体を彫る男も、僕には未だ理解は出来ないがもうひとりの髭の男も、間違いなくキム・ギドクその人なのである。

キム・ギドクは今牢獄にいる。少なくとも、牢獄に例えられる何かを、キム・ギドクは今身内に抱え込んでいる。しかし、その牢獄を、ただ自身の再生のために利用しただけにしか見えないヨンを(そして実際その通りなのだが、その身勝手な女ヨンを)、この映画監督は心から愛しているように見える。
春の歌が「ボン・ボン・ボン・ボン〜」と歌い出されることに、僕は今運命を感じている。
そうだ。今確信したけれど、この映画は本当に「これでいいのだ!」と言っているのだ。
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2008年07月25日

アナザー・サイド・オブ「ミスター・ロンリー」

サマンサ・モートンから「ハイランド」に来ないかと誘われて「(どうしようかな)わからないや」とつぶやくマイケル・ジャクソン。
ニワトリと「女」が大好きなちびっ子ギャングの「HOT!!!!」。
子供っぽい嫉妬心でしか愛情を表現出来ない老醜のチャップリン。
「羊は自分達で処分する」と冷静に相手に伝える(その時だけは「FUCK」と言わない)エイブ。
ちっとも似てない煙草好きなエリザベス女王。
とにかく芸熱心なサミー・デイビスJr.。
他のみんながそれでも実は持っている「本名」を、もしかしたら本当に持っていないのかも知れないシャーリー・テンプル。
ひょこひょこと、農場を歩くマイケル。
その足取り。
ハングマンの歌を口ずさみながら線路を歩く赤頭巾。
サマンサ・モートンのお尻とお腹。
それを包むデカパン。
イノセントに揺れるバブルス。
ひとりきりじゃないかも知れない僕達。
そしてやっぱり、空飛ぶシスター達。
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あるいは永遠に楽園を失う話〜「ミスター・ロンリー」

ミスター・ロンリーミスター・ロンリー
ディエゴ・ルナ, サマンサ・モートン, ドニ・ラヴァン, ヴェルナー・ヘルツォーク, ハーモニー・コリン

ギャガ・コミュニケーションズ 2008-08-08
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映画「ミスター・ロンリー」は、「同じような枠組みなのに異なる結末を持つエピソード」を繰り返す。
僕はもちろん空飛ぶシスター達のことを言っている。そして、売れない物まね芸人達のユートピアのことを。
羊の群れが彼等の相似形として存在していることもまた、僕には明らかであるように思われる。
例えば、「Mister Lonely」「Beat It」「Thriller」「You Are Not Alone」と歌のタイトルで区切られた各章は、そのまま直截的に4コマ漫画の「起承転結」のようなものであろう。その「起承転結」の中で、空飛ぶシスターとマイケル・ジャクソンが、同じようでいて決して同じにはならない物語を演じるのだ。

そこにはあるパターンが存在する。まず「選ばれたひとり」がある状態に陥る。それは「奇跡」かも知れないし(公式HPの中でもこの点は何ら伏せられていないのであえて書くが)絶望による自殺かも知れない。これらを(確実に死に至るウィルスへの感染を含め)「生贄」ととらえることも可能だが、いずれにせよ、最初はとにかく「ひとり」でなければならないのだ。
そして羊は、空飛ぶシスターとマイケル・ジャクソンをひとひねりした環で結ぶ。すなわち、悲劇的な始まりで物まね芸人達と、同様に悲劇的な結末で修道女達と、それぞれ密かに手をつなぐのである。
羊によって結び付けられた両者の始まりと終わりは、全く逆の方向を示している。それはまた、幸福と哀しみが実は全く矛盾しないひとつの事柄でしかないのだという寓意でもあろうか。

ここで僕は、物まね芸人達(とりわけマイケル・ジャクソン)にとっての「始まり」が、やっと最後になって訪れることに気付く。「起承転結」の「転〜結(選ばれたひとりの死)」は実は新たな「起」の提示なのだと考えるのは、あまりにも楽観的に過ぎるだろうか。
しかし、僕は決して楽観しているのではない。新たな「起」は、混沌としている。ある意味、彼(昨日までマイケル・ジャクソンだった男)は、その時永遠に楽園を失い、同時に初めて「人間」になったのだから。

僕達は(そして彼等は)全て、粗末なブルーの衣を激しくはためかせながら永遠に堕ちて行く空飛ぶシスターではないのか。笑いながら、自転車にまたがって、誰かと手をつないで、あるいは祈りながら。
おそらく、ここには全てが晒されている。
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2008年07月14日

「非現実の王国」の大門を前にして

シアター・プレイタウンにて、「非現実の王国で ヘンリー・ダーガーの謎」を観た。
ヘンリー・ダーガー(もしくはダージャー)は(一応働いてはいたのだが)いわゆる「引きこもり」生活をおくって一生を終えた。密かに創作し続けていた妄想物語・画(絵巻)、そして日記など膨大な作品群が死後発掘されるまでは、全く無名の存在であった。それら創作はいわば彼の極私的営みでしかなかったから、一般社会においては評価のされようがなかったのである。

「ヴィヴィアン・ガールズ」を始めとして、彼の作品には多くの「子供達」が登場する。そして、そのほとんどが両性具有の少女である。作品のモチーフとするために収集された多くのパンフレット、雑誌や新聞の切り抜き、そして写真を前にした時、誰もがその量と異様さに圧倒されずにはおられないだろう。
彼が生前周囲の人々から明確な糾弾を受けずに済んだのは、誰も彼の「妄想」を見たことがなかったことと、彼自身のむしろ求道者とでも表現すべき抑圧された寡黙さ故であったのかも知れない、などと勝手に思う。

また、彼は常にキリスト教徒であることと向き合っていた。いや、向き合わずには生きて行けなかった。実際、彼の作品の主題には、常に少女と神(キリスト)が立ち現れるようである。そして、その軍隊あるいは戦争と少女の組み合わせは、宮崎駿はもちろん、数多くのアニメーション等で今やひとつのルーティンとなってしまった感さえある「少々危ういジャンヌ・ダルク」の正に先駆であったとも考えられる。
何故両性具有なのかについては、もはや我々には正解を手に入れる術がない。

ところで、僕にはヘンリー・ダーガーは未だに謎のままである。
何故ならば、「非現実の王国」の大門を前にして、僕は大いに眠りこけ、ついにその下をくぐり抜けることが叶わなかったからである。

ヘンリー・ダーガー 非現実の王国でヘンリー・ダーガー 非現実の王国で
John M. MacGregor 小出 由紀子

作品社 2000-05
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2008年07月07日

シリトーを想起させる労働者階級的リアリズム〜「コントロール」

コントロール デラックス版コントロール デラックス版
サム・ライリー, サマンサ・モートン, アレクサンドラ・マリア・ララ, アントン・コービン

ジェネオン エンタテインメント 2008-09-10
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ジョイ・ディヴィジョンには、僅か2枚のオリジナル・アルバムしかない。バンドの中心的存在であったイアン・カーティスが、1980年5月に自殺してしまったからである。2枚目のアルバム「クローサー」が発売される直前の出来事であった。
僕は彼等のリアル・タイムのリスナーではなかった。彼等自身が、僕のリアル・タイムであった70年代パンクに少し遅れてデビューしたこととそれは無関係ではないが、そもそも80年頃には、パンク〜ニュー・ウェイヴがあまりにも拡散し過ぎていて、何もかにもをフォローすることが僕には既に不可能になっていたのである。

「コントロール」は、そんなジョイ・ディヴィジョンのカリスマ、実は若くして結婚し癲癇の発作と治療薬の副作用に怯えながら日々を過ごすナイーヴなマンチェスター青年であったイアン・カーティスの苦悩と鬱屈の日々を丹念に追いかける。数々の「ロック」に彩られているにも関わらず、まるでイギリスの労働者階級の生活を描いた小説でも読んでいるのではないかと錯覚してしまいそうになるくらい地味な映画であった。
実際、この映画を観て僕がまず連想したのはアラン・シリトーの一連の小説だった。シリトーが活躍したいわゆる「怒れる若者達」の時代は、今からもう半世紀以上も昔のことである。

イアンには(後に病気の影響とバンド活動との両立が難しくなり放棄してしまうとはいえ)少なくともちゃんとした職というものがあった。だから、単純にイアンとシリトーを結び付けるのは乱暴なのかも知れないが、しかし、早い結婚、子供の誕生、退屈な日常とそこから脱出する手段としての非日常、地道な生活を望む妻とのすれ違い、何かを創り出したいという熱情と未来という名の重圧・・・。僕はやはりどうしてもそこに伝統的な労働者階級の若者の姿を見てしまうのである。
いや、シリトーの描く若者はもっとずる賢くしたたかであった。もっと生命力に溢れていた。結局そこが「時代」の違いであり、またこの映画の実直なところでもあるのだ、と僕は思う。

ほぼそのままイアン・カーティスだったサム・ライリーはもちろん素晴らしかったが、この映画の労働者階級的リアリズムの実現は、おそらく妻デビーを演じたサマンサ・モートンの存在感によるところが大きい。
アントン・コービンはこれが監督第一作目だというが、何という落ち着きっぷりであろう。
これを「長距離ランナーの孤独」のトニー・リチャードソンが撮ったらどうなっただろうか、などとあり得ないことを妄想しつつ、僕はまたシリトーの小説を思い出しているのだが。

※FORUS秋田8Fシネマパレにて7月18日まで上映中。
 (1)10:20〜 (2)18:30〜


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2008年06月29日

「妊娠」をめぐる2本の映画

はからずも二日連続で「妊娠」をテーマとした、あるいは誰かが「妊娠」することによって生まれるドラマを描いた映画を観た。
「4ヶ月、3週と2日」と「JUNO/ジュノ」である。

432_img01.jpg「4ヶ月、3週と2日」は、とにかく長い映画だった。上映時間のことではない。また、退屈で長く感じられた、というのでもない。
昔、ダニエル・シュミット監督の「ラ・パロマ」という映画を観た時、途中でかなりぐっすりと眠り込んでしまったにも関わらず、ハッと気付いた時、眠る前と全く同じように、登場人物のひとりがまるで悪夢のように悠然と階段を降りるシーンを(まだ)やっていてひどく驚いたことがあるが、ちょうどあんな感じだ。
いや、その作法は全く異なるのだが、監督の時間に対する感覚がとても独特だという点が、僕の中で両者を結びつけるのである。

物語は、本当は単純である。主人公オティリアがルームメイトの堕胎に引きずり回され、その結果恋人と自分の決定的な違い、自分を取り巻く世界のグロテスクさに気付く・・・。
あえて「本当は」と書いたのは、僕にはこれをチャウシェスク政権と関連付けるという気が更々ないからで、だってそれは映画の中では何ひとつ具体的には述べられていないからである。
このシンプルな話を、クリスティアン・ムンジウ監督がユニークかつストイックな手法でえぐるように描く。そう、えぐるように。オティリアの心理を。そして、夜を。
堕胎医のベベも強烈だが、何といってもルームメイトのガビツァがすごい。「パーティ用のメニュー」を注文する彼女は、だらしなく鈍感で身勝手で、だがとてつもなく強い(と僕は思う)。
観終わった直後はむしろ嫌いだったのだが、時間が経つほどにシーンのひとつひとつが生々しく甦って来る。予告編で観た「新しいヒロインの誕生!」という賛辞には同意しかねるけれど、安易な政治的テーマではない映画的何かを表現する力を持った素晴らしい作品であることはまぎれもない。

「JUNO/ジュノ」もとても良かった。「4ヶ月、3週と2日」とは、全く意味が異なるけれど。
観終わった後でとっても幸せな気持ちになった。いや、冒頭から僕はもうすっかり幸せな気分に包まれていた。ジェイソン・ライトマン監督は「サンキュー・スモーキング」でも音楽の使い方が素晴らしかったが、本作でもそれはちゃんと(いや、更にグレードアップして)継承されている。
ジュノもボーイフレンドも両親もみんな最高だよ。
とにかく、僕は実に久し振りに映画を観て泣いたのであった。
大好きな映画です。

JUNO/ジュノJUNO/ジュノ
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2008年06月22日

つぐなえないことを描く〜「つぐない」

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ジャン=イヴ・ティボーデ イギリス室内管弦楽団

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映画「つぐない」の原題は「atonement」である。これを英和辞典で引くと「償い;(キリスト教の)贖罪」と出て来るから、何となくそのまんまズバリの邦題であるような気もするのだが、あのキーラ・ナイトレイを前面に押し出したポスター、平仮名表記された文字から受けるイメージが、実際に映画を観て丸一日経った今思っている自分自身の印象と全く相容れないのもまた事実なのである。
更に「贖罪」をgooの国語辞典で調べれば、「(1)金品を出したり、善行を積んだりして、犯した罪をつぐなうこと。また、刑罰を免れること。(2)キリスト教で、人々の罪をあがない、人類を救うために、イエス-キリストが十字架にかかったとする教義。和解。」とある。
そこで僕は考える。映画「つぐない」はそのような映画ではないだろう、と。「つぐない」は、むしろ償っても償い切れないこと、償い切れないことそのものを描いた映画であるだろう、と思うのである。
償うことを描くのか、償おうとする人を描くのか、あるいはどのようにしても償えないことを描くのか。目に見えることは、もしかしたら同じかも知れない。しかし、その「意味」はあまりにも違う。

ブライオニーの、本来は美徳であるはずの潔癖さと幼いジェラシーが痛々しい。物語の後半に突然挿入される彼女とロビーの水辺のシーンは、そしてそこでブライオニーからロビーに告げられる「あなたは命の恩人です」というひと言は、もう決してやり直すことの出来ない決定的な過ちを、改めて観る者に意識させずにはおかない。
また、18歳のブライオニーが訪れたセシーリアとロビーのアパート。そこで彼女に求められる「何故」はあまりにも辛い。
おそらく初めて恋心を抱いた人と、美しい姉と、その両者に対して一時に背負わなければならなくなってしまった罪を、ブライオニーは一生かかえて生きるのだ。彼女はどうにかしてその罪を償おうとする。しかし、それは決して償い切れるものではない。
金品を出したり、善行を積んだりしても、その罪は消えない。刑罰は最初から彼女の身に降りかかってはいない。そして、それこそが彼女への罰というもので、「和解」は決して訪れないのだ。

「第二章」とでも言うべき第二次世界大戦のシーンが僕は好きである。やっとの想いで辿り着いたダンケルクの海岸で、僕の目はロビーの目になる。
ああ、そう言えば同じように、僕の目はブライオニーの目となってロビーとセシーリアを追いかけていたのではなかったか。
タイプライターの音、自在に操られる時と意識。
「つぐない」という「意味」以上に、実はこの映画には映画的魅力が溢れている。
タグ:つぐない
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2008年06月15日

「心意気映画」の良作〜「ハンティング・パーティ」

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「ハンティング・パーティ」のアプローチの仕方をとても好ましいと思った。
例えば、あれをシリアスにシリアスに、まるでドキュメンタリーのように作り上げることもひとつの選択肢だっただろう。また、いっそ社会情勢を単なる枠組みとして利用して、ひたすら娯楽性のみを追及することも可能であったはずだ。
しかし、「ハンティング・パーティ」はそのどちらでもない更に別の道を選んだ。その心意気は、クラッシュの「アイ・フォート・ザ・ロウ」をエンディング曲のひとつとしてチョイスしたことに端的に顕れている。公式HPの具合が何だかよくなくて確かめることも出来ないが、クラッシュではない誰かの歌うこの曲の大意を書き出せば、要するに「僕は法と戦い、そして敗れた」ということで、その心は、「LONDON CALLING/ザ・ライフ・オブ・ジョー・ストラマー」の感想にも書いたけれども、「人は負けるようには作られていない。人は殺されるかも知れない、けれど負けはしない」というヘミングウェイの言葉に集約される。
実際に命を賭してサラエボに取材した4名のジャーナリスト達が、リチャード・ギア演じるサイモンの盟友として出演しているのも、そういう意図を快く理解したからなのだろうと推察する。
彼等は、決して「勝つこと」のみにこだわっているのではない。

内容的には全然関係ないのだが、僕はついつい「相棒」のことを思い出す。水谷豊主演、和泉聖治監督の大ヒット作。全体的には悪くなかったこの映画のことを、僕はその政治的無神経さ故にどうしても好きになれなかった。
マスコミに踊らされて「善意の人」を責め立てる大衆を「相棒」は批判しているが、絶妙に焦点をずらして事実と虚構を混同するように観客を誘導し、正当に「自己責任」を求めることそれ自体をさも悪しきこと、謂れのないバッシングであるかのように印象付ける「相棒」の根底に流れる「主張」こそ、僕にとっては恐ろしい「権力」である。その「正義」が、日本映画にしては珍しいほどきちんとエンタテインメントであったこの作品を、根底から楽しめないものに貶めてしまっているのだ。
それに比して、「ハンティング・パーティ」の何と奥ゆかしいことか。
それは、彼等が決して大衆を導こうなどとしていないからだ。俺達はこのように行動するのだ、とそう言っているに過ぎない。負けるかもしれないけれど、いや、多分負けてしまうに違いないけれども自分達はこうするのだ、という宣言。
「ハンティング・パーティ」は、このように理解しなければおそらく「駄目」な映画だろう。
まあ、「駄目」でもいいのだ。それでも、全く構わない。
僕は、愛情を込めて「ハンティング・パーティ」を「心意気映画」の良作と呼ぼう。

※FORUS秋田8階シネマパレにて、6月20日(金)まで上映。
(1)13:30〜 (2)16:00〜 (3)19:00〜
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2008年06月08日

多分みんな興奮し過ぎ〜「アイム・ノット・ゼア」

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トッド・ヘインズ監督作品「アイム・ノット・ゼア」にがっかりした。
実は、この映画にはかなり期待していたのである。予告編もカッコよかったし、何よりケイト・ブランシェットのディラン振りを観るのがすごく楽しみだった(実際はディランではなく、「ジュード・クイン」というディランに似せた架空のパーソナリティを更にケイト・ブランシェットが演じるという重層的仕組みになっている。因みに、ケイト・ブランシェットはアル・パッチーノ主演の「ベニスの商人」でも男装して法博士になりすますポーシャという役柄を演じるはずだったが、妊娠のためそれをリン・コリンズに譲ったとのこと。ここも何だかすごく重層的)。

さて、僕は何故「アイム・ノット・ゼア」に失望したのか。それは、この映画に、トッド・ヘインズ監督が冒頭記している「ボブ・ディランの多様な人生と音楽にインスパイアされて」織り成されたはずの真摯な何物かを何一つ感じ取ることが出来なかったからである。
もちろん、僕の感性が鈍いと言われればそれまでのことだ。だが、ニューズ・ウィーク誌が「ボブ・ディランの素晴らしい全キャリアに匹敵する傑作」とまで高く評価する作品に、観る者が「ノー・ディレクション・ホーム」以上の何物かを求めるのは当然のことであろう。
第三者の評価の責任を作り手に求めるのは筋違いであることもまた承知の上だが、しかし、僕には、これが本当に6人の役者を使ってそれぞれ異なる「ディラン」を演じさせてまでわざわざ織らなければならなかったタペストリーだったのか、という疑問が消し難く強く残っているのである。

僕はかつて本ブログに「『マリー・アントワネット』は長過ぎるPVである」と書いた。
妻は僕に本作品もまた「長過ぎるPV」だったのかと訊ねたが、なるほど「アイム・ノット・ゼア」は「ケイト・ブランシェットの新曲『やせっぽちのバラッド』のPV」だということも(文字通り)可能かも知れず、だとすればヒース・レジャーとシャルロット・ゲーンズブールの安臭いメロドラマにもある意味納得がいくのである。
「アイム・ノット・ゼア」は結局「とらえどころのない映画」というもの以上でも以下でもなかった。みんな興奮し過ぎているのではないか。
「アイデン&ティティ」の方が僕にとって断然「真実」である。
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2008年05月22日

撃たれなかった一発の弾丸〜「ミスト」

「ミスト」は、完璧な映画ではないかも知れないが、非常に面白い映画だった。
面白いと言っては語弊があるだろうか。何故ならば、そのラストはあまりにも強烈過ぎるから。いや、ラストだけではない。ほぼ全編息の詰まるようなギリギリの緊張感が持続する中で、それは突然やって来る。何て幕切れだろう。
だが、これを面白いと言わず何と言おう、と僕はまた思うのだ。

完璧と思えない要素のひとつに、特殊効果の違和感がある。「ミスト」のそれは、何でもありの今の常識からすると、ちょっと浮いた感じがする。最初は、もっと上手く処理出来なかったものか、とも思った。だが、最後にはそんなことはもうどうでもよくなってしまっていた。あれら特殊効果で描かれたモノ達は結局何でもよかったのだ、ということに気付かされたからである。
いっそ全てが「集団妄想」だったとしても物語が成立する。それが凄い。

僕は今、薬局で撃たれなかった一発の弾丸のことを考えている。あの一発の弾丸こそがこの映画の肝だとさえ思う。
「霧」の中の人々は、まるで木の葉のようだ。人間が人間であるために必要不可欠である「意思」も「意志」も、ここでは全く意味を持たない。彼等の選択はことごとく間違っていたとも言えるし、また別の道を選んでいたとしても結果は同じだったろうとも言えるのである。
だからこそ、僕は今あの一発の弾丸のことを考えている。あれこそが「意志」だ。

スティーブン・キングの原作は読んでいないが、映画は小説とはラストが違うのだという。このラストは、絶対に人々の間で語り継がれなければならない。
僕は呆気にとられ、しかしそれでもまだ身を硬くしたままで、目を瞠ってエンド・ロールを観ていた。その後ろに流れる効果音を、僕は僕自身ではない、もはやそこには映し出されてなどいない誰かとなって、ずっとずっと虚ろに聞いていた。
そして、一番最初にあのスーパーマーケットから出て行った女の顔を思い出し、再び身震いした。

※原作「霧」が収録されているスティーブン・キングの短編集。
            ↓
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2008年04月28日

僕の貧弱な「文才」と潜水服の内側

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僕は文章を書くのが苦手である。こんなブログの記事でさえ、実はひどく時間がかかっている。あることを人に伝えようとしても、それを瞬間的かつ的確に表現するということが出来ない。書いて、何度も何度も読み返し、そして書き直してはまた書き直す。時には、おかしな言い回しをしていることに後で気付き、何日も前に書いた記事をわざわざ遡って修正することさえある。
僕が「潜水服は蝶の夢を見る」に感情移入出来なかった原因は、案外そんなところにあるのかも知れない。

時折、文章を妄想するという癖が起こる。その時点においては、僕は素晴らしい文才の持ち主である(そのような気がしている)。しかし、その傑作はたいがい風呂を出る時には消え失せている。あるいは会社に着いた途端に雲散霧消する。たまに僕は茶の間でも夢想するが、その時ちょっとでも家族に話しかけられたらそれでもうお終いである。それ程に僕の記憶は頼りなく、またチャンスは常に僕の手から逃げることばかりを考えている。
ボビーの文章は完璧過ぎる。多分、僕はそのように嫉妬しているのだ。

例えば、雨の日の午後、閑散としたJR駅に人が立っているということを人に伝えようとするだけで、いったいどれくらい多くの異なる表現が考え得るであろうか。ボビーはその中で最良の表現を選択し、気の遠くなるような手法で相手に伝え、「文字」にするのである。「最良の表現」の寿命と煩わしい推敲の存在を、僕はあの映画からついに読み取ることが出来なかった。
だから僕は「潜水服は蝶の夢を見る」にリアリティを感じなかったのかも知れない。あれが実際の実際ボビーの真実であっても、人はあくまでも自分自身の物差しでしか物事を計れないものだから。
posted by og5 at 20:48| Comment(5) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月20日

青春の残像

また「デス・プルーフ」のことである。
最初はノリノリの後半にばかり目が行ってしまっていたが、後に前半のセンチメンタリズムに気付かされ、その奥行きの深さに感動した、というようなことを以前書いた()。

<スタントマン・マイクの、バタフライ=アーリーンに対する残酷な指摘。まだ来ぬ恋人にメールを送るジャングル・ジュリアの純情。雨に濡れて光る脚。女の友情。女だけの週末。「その」直前、ラジオから流れる「デイヴ・ディー、ドジー・ビーキー、ミック&ティッチ(&ピート)」の曲に合わせてドラムを叩く真似をするシャナ。隣であきれたように笑っているアーリーン。
そして、結末。>

実は、僕は最近、あの前半最後のシーンを頻繁に思い出している。
そして、その度に泣きたくなる。

これもやはり自分のブログ記事からの引用になるが、「明日、君がいない」の<最後まで本当に確かな理由など一切明らかにされず文字通り血の海の中で死んでゆく「誰か」と強烈なコントラストを作って、彼等(死ななかった高校生達)の「生」が輝く。>の「輝き」とはまた違った「輝き」がここにはある()。
「明日、君がいない」のそれがあくまでも生きている者達(残された者達)の「特権」であったのに対し、「デス・プルーフ」において、それは実は、他の誰のものでもない、ジャングル・ジュリアの、アーリーンの、そして(地味な地味な)シャナの、絶対的に個人的な永遠の「宝石」なのである。

これは「青春の残像」だ。
そして、それが僕の心のドアを、まるで記憶にかけられた呪いででもあるかのように、繰り返し繰り返しノックするのだ。
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