2007年10月21日

少な過ぎる思い出〜「天然コケッコー」

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「天然コケッコー」を観た。
監督が「リンダ リンダ リンダ」の山下敦弘で、脚本が「ジョゼと虎と魚たち」などの渡辺あや。長過ぎるのが難点だが、気持ちよく観た。
出だし、田圃や森が連なる田舎の風景が、「殯の森」のそれとあまりに違うので吹き出しそうになった。「殯の森」のイントロは、それだけで素晴らしい沈黙の神曲だったが、僕にはちょっと立派過ぎて近寄り難かったので、「天然コケッコー」の普通の田舎の光景に少しほっとしたのだ。

小学校から中学校まで全生徒合わせても6人しかいない村の学校に東京から転校生がやって来る。主人公の右田そよと同じ中学2年の大沢広海だ。二人は、ごく自然に互いを好きだと思うようになる・・・。
僕は今「ごく自然に」と書いたが、この映画は(もしかしたら原作の漫画自体が)すごく自然なのである。何かとんでもない事件が起こるとか、そんな派手なことは何ひとつない。だが、ずっと何かがピンと張りつめている。それを「緊張感」と呼んでもいいのではないか、と僕は思う。「天然コケッコー」には、呑気とデリケートが同居している。

そよに好意を抱いている郵便局員のシゲちゃんをわざと一緒に祭りに行くよう仕向ける友人達と、その祭りの夜に起こる残酷で繊細な(しかも自然で当たり前な)言葉のやり取りにも僕は感心したが、やはり一番胸を打たれたのは、東京の高校に行くと言う広海に、そよが離れ離れになってからのことを話すシーンである。
そよは広海の学生服のボタンを繕っている。もうこんなことも出来なくなるとうつむくそよに、郵送するからボタンをつけて送り返してくれ、と広海は言う。線路で転んだら抱き起こしに来てくれるかとそよは問う。広海は、もちろん飛んで来る、と答える。
僕は、二人にはまだあまり思い出がないのだ、と突然気付く。

別れる二人に思い出がたくさんある物語なら、今までにも随分たくさん見て来た。しかし、彼等は若く、出会ってから日も浅く、そして行動範囲もごくごく狭い。
二人にはまだあまり思い出がない。
広海も多分そのことに思い至り、そしてもっともっとそよとの思い出を作ろう、と、いや、もっともっとそよと一緒にいたい、と思ったのだろう。

僕はこの映画がとても好きである。
くらもちふさこの原作も読みたくなったな。

※秋田FORUS8階シネマパレで、10月26日(金)まで上映中です。

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2007年10月16日

チェリー・ダーリンにぞっこん

映画『グラインドハウス/プラネット・テラー』ポスター映画『グラインドハウス/プラネット・テラー』ポスター

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「グラインドハウス」というのは、公式HPによれば「かつてアメリカの大都市周辺に数多く存在し、刺激的なインディーズ系映画ばかりを2〜3本立てで上映していた劇場のこと」だという。そして、本作「プラネット・テラー in グラインドハウス」は、実はタランティーノ監督の「デス・プルーフ in グラインドハウス」とセットで、かつての「グラインドハウス映画」の再現を目論んで作られた「企画物」の片割れなのだという。
「デス・プルーフ」の方は観ていない。上映終了前日にかろうじて「プラネット・テラー」を観て、そのあまりの面白さにガラガラの館内で快哉を叫んだ時には、「相棒」の方は既に上映が終わってしまっていた。
正直なところ、僕は、タランティーノ好みの「70年代の再現」にはあまり興味がない。要するに、映画は面白いか面白くないかである、と思うからで、時にタランティーノの「おひれはひれ」が、僕には鬱陶しく感じられるのだ。
が、しかし、ロバート・ロドリゲス監督の「プラネット・テラー」は、とにかく面白かった。

テキサスの軍事基地で「DC−2」という生物化学兵器が漏出する。辺鄙な田舎町は、このガスに侵され、細胞が変化して「ゾンビ」化してしまった感染者達で溢れかえる。
しかし、中には、これに全く影響を受けない耐性のある者もいた。保安官とその兄JT(究極のソース作りに燃えるステーキハウス屋のオヤジ)、DVに悩むエキセントリックな女医(麻酔注射の早撃ちが得意)、ちょっとイカレタ双子のベビーシッター、そして謎の解体屋エル・レイと元ダンサーのチェリー・ダーリン。
彼等はやがて一致団結して「ゾンビ」の群れ、そして基地の部隊長(ブルース・ウィリス)率いるアメリカ軍に敢然と立ち向かう・・・。
圧巻は何といってもチェリー・ダーリン。彼女は「ゾンビ」に膝から下の右足をもぎ取られるが、恋人エル・レイに、最初は折れた椅子だかテーブルの脚を、最後はマシンガン(!)を「装着」されて、ステージ上で舞うかのごとく、ケレン味たっぷりに敵を撃ちまくるのである。
これがゾクゾクするほどカッコイイ。自分の中で眠っていた「フェチ」が呼び覚まされる不安と快感に、僕は戸惑い、そしてやがて酔い痴れた。

B級映画専門の「グラインドハウス」とゴーゴー・ダンサーにはつきものの「グラインド」。そのダンサーの振り付けがそのまま右脚のマシンガンを撃ちまくるアクションになり、敵の放った火の玉が、華麗に弓なりに反ったチェリーの柔らかな身体の下をくぐり抜けて行く。
僕がこの映画に出て来る「ゾンビ」にわざわざ括弧をつけるのは、これが僕の中における本当の「ゾンビ」ではないからなのだが、まあそんなことはこの際置いておこう。
とにかく僕は、チェリー・ダーリンにぞっこんなのである。

何だか無性に「聖獣学園」が観たくなって来たぞ。
あと、「ヴァネッサ・パラディVSエイリアン」にもちょっと近いかも知れないな。

※何故かポスターはマシンガンが反対側になっている(かなりいい加減)。

聖獣学園聖獣学園
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2007年10月09日

貰った元気の使い道〜「それでも生きる子供たちへ」

「それでも生きる子供たちへ」を観て元気になった。
元気になった僕が一番最初にしたいと思ったのは、「何か買いたい!」ということだった。次に僕は「美味い酒が飲みたい!」と思った。そして最後に、購入したもののある事情から未だ愛情を持てずにいる自転車に、またちゃんと乗ってみよう、と思ったのだった。
物欲に食欲に、最後のは何と呼べばいいのかよく判らないが、とにかくあまり「ご立派」ではない。しかし、僕は確かにこの映画から素晴らしい活力を貰ったのであり、そして、言い訳がましいかも知れないが、その活力ゆえに、何かを買ったり、何かを飲食したりしたい、と強く思ったのである。

生命力が、そうそういつも健康的に、仕事に向かうエネルギーや周囲に無条件で注がれる愛情に結び付くとは限らない。
例えば、前にも書いたが「時計じかけのオレンジ」のアレックスが人間性を取り戻すのと下劣さを取り戻すのはほとんど同義だし、抜け殻のようになってしまった「ミッドナイト・エクスプレス」の主人公(ブラッド・デイビス)に再び魂を吹き込むのは恋人の「性」なのだ。
「お葬式」で、まるで死に触発されたかのように交わる山崎努と高瀬春奈も、そういえば哀しいくらい「生命」を求め、そしてまた同時に飢えていたではないか。
生命力は道徳では測れないのだ。

映画の最後に、サン・テグジュペリの「星の王子さま」の一節が引用されていることを考えれば、原題「All The Invisible Children」はなかなかに意味深長である。「目に見えない子供」とは誰なのか。タンザやウロスやビアンカやビルーとジョアンやジョナサンやチロやソンソンとシャオマオなのか。あるいは彼等が象徴する「不幸」だが「それでも生きている」子供達全てのことなのか。いや、僕はそうではないと思っている。
僕は今充分過ぎるくらいに幸せだが、ブラジルの貧民街で暮らす仲のよい兄妹よりも幸福だとは思わない。「星の王子さま」のキツネが言うように「目に見えないものこそ大事」なのだとすれば、「目に見えない子供」とは僕自身のことだ。そして、「目に見えない子供たち」とは、全ての大人達の中に潜む「子供」のことだ。そうでなくてはならない。そうであればこそ、この映画は観る者に、これ程のエネルギーを与えることが出来るのである。

「自転車にまた乗ろう」の理由はよく判っている。第4話「ビルーとジョアン」のビルーなら、僕が今持っている自転車を見たら飛び上がって喜んで、毎日得意になって乗るのだろうな、と思ったからである。
そうだ、僕もまた得意になってペダルをこごうではないか。

星の王子さま―オリジナル版星の王子さま―オリジナル版
サン=テグジュペリ Antoine de Saint‐Exup´ery 内藤 濯

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2007年09月17日

愛すべき建物

フランク・O・ゲーリーとMIT ステイタセンターのデザインと建設のプロセスフランク・O・ゲーリーとMIT ステイタセンターのデザインと建設のプロセス
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シドニー・ポラック監督の「スケッチ・オブ・フランク・ゲーリー」を観た。
天才と呼ばれるような人達は、才能が並外れているということはもちろんなのだが、何よりその頭の中身自体(物の感じ方とか整理のつけ方とか)がとにかく尋常ではないのだ、とずっと思っていた。
ところが、このフランク・ゲーリーという人からは、ちょっと違う印象を受ける。もっと普通というか、ちゃんと社会生活も送れる常識的な人、というイメージなのだ(セラピーに通っている、というのも、その印象を更に強める)。

とはいえ、彼の構築した作品はどれもすこぶるユニーク。「普通」でも「常識的」でもない。
ハサミで厚紙をジョキジョキと切りながら作る模型は、それがそのまま芸術作品ででもあるかのような彼のスケッチとともに、美しく洗練された魅力に溢れている。
子供の直感と経験を積んだ大人の緻密な計算とが一体となった彼の構造物が、パソコンの3Dデザインや気の遠くなるようなディスカッションの果てに、それでも結局は労働者達の手によって現実のものになって行くということに、僕は感動する。
いわゆる「天才」とイメージが異なって感じられるのは、もしかしたらこの後に控える「工程」のせいなのかも知れない。

「おそ松くん」には、チビ太とイヤミの大工がそれぞれ競い合ってデカパンの家を作る、というエピソードがある。そのイヤミの作る家が、何故か全て出っ歯をモチーフにしたデザインになってしまうのだ。
また、「天才バカボン」には、バカボンのパパが大工の弟子になる話があって、親方のいない間に勝手に作ってしまった家は、「まずげんかんをあけると すぐおトイレになって」おり、便器を通り抜けると台所へ出る。床にあるドアから入る応接間は、床が斜めで普通に立っていることも出来ない。寝室は狭いが、その代わり押し入れは「フトンが一万枚ははいる」広さである。そして、壁には、小さな小さな「ネズミさんのドアー」までついている・・・。

朝の、昼の、そして夕方の陽を受けて、キラキラと表情を変える彼の美しい構造物の壁面を見ながら、実は僕は全然関係のないことを考えていた。
フランク・ゲーリーの作品が町中にあるのは確かに刺激的で、またそれは実際すごく美しくもあるのだが、僕は、昔ながらの制約に縛られたごく普通の家々をも、また深く愛するものなのである。
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2007年09月16日

カルト・ムービー賛歌

スキヤキ・ウエスタン ジャンゴ公式画報スキヤキ・ウエスタン ジャンゴ公式画報

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カルト・ムービーというものがこの世にはある。「ミッドナイト・ムービー」で紹介されている、「エル・トポ」、「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド」、「ピンク・フラミンゴ」等々の唯一無二の映画達。でも、唯一無二なのは、多分これ等の映画を撮ってしまった監督達自身なのである。

「スキヤキ・ウエスタン ジャンゴ」を観た。この肌触りは、間違いなくカルト・ムービーである。しかし、実はそうではない。カルト・ムービーをカルト・ムービー足らしめる「生理」がこの映画にはないのだ。だって、これは監督の三池崇史が、あらゆる憧れとテクニックを駆使して作り上げた、カルト・ムービーへのラブ・レターだから。

「スキヤキ・ウエスタン ジャンゴ」は、文句なく面白い。
まず、スクリーン左右両端を覆っているカーテンがスルスルと引かれて画面がワイド・スクリーンになるのが堪らない。これは「チーム・アメリカ:ワールド・ポリス」でも感じたことだが、こうされると「これから始まるんだ(馬鹿馬鹿しいことが!)」という期待感が否が応にも盛り上がらざるを得ないのである。
僕の中では、何と言っても伊藤英明の存在が絶対的だ。画面に「伊藤英明」とその名前が出ただけで笑い出しそうになる。何だろう、この何とも表現し難い間抜けな感じは。
伊藤英明はヒーローだ。暗い過去を背負っているという設定なのに、そんなことを微塵も感じさせない張りぼて感。ヒーローの条件とは、実は「実際にはいない人」なのだ、ということを改めて実感する。素晴らしいのひと言に尽きる。
そして、香川照之。「ゆれる」はただの序章だった、と僕は笑いながら深く納得した。この映画における香川照之は、もはや人間ではなく妖精である。劇中、シェイクスピアが持ち出されるのも、だからあながち故なきことではない。
告白すれば、僕は桃井かおりを初めていいと思った。顔のでかさはこの際どうでもいい。タランティーノへのオマージュであろう「ブラッディ・弁天」PVのカッコよさはもちろん、今は亡き今村昌平監督へのオマージュかとも思える立ちしょんシーンも、変な話だが実にカッコよかったのである(背中の弁天は、何故か細木数子似だったけれど)。

村長の同時通訳、まるで志村けんみたいなタランティーノの車椅子移動、伊勢谷友介の意味のないカッコよさ、木村佳乃のギリギリで感動的なダンス、「ヘンリー」等々、笑えるポイントを挙げればきりがない。とんねるず石橋の最後が無意味にしつこくてまるで無駄だとは思ったけれど、そんなものは微かな傷だ。
繰り返しになるが、これはカルト・ムービーではない。だが、面白い。
それでいいではないか。
いや、それでいいのだ。

※北島サブちゃんの主題歌「ジャンゴ」も英語で歌ってもらえれば、もっとよかったのにな。

ジャンゴ~さすらい~ジャンゴ~さすらい~
北島三郎

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2007年08月26日

「ボラット 栄光ナル国家カザフスタンのためのアメリカ文化学習」を褒める

萩本欽一は下ネタが嫌いなことで有名である。
誰がやっても受けるから、というのがその理由らしいが、果たしてそうだろうか。
以前このブログでも、「笑点」における三遊亭小遊三の下ネタについて、何故かこの人が言うと下品にならないから不思議だと書いたが、そういうことが確かにあるのだ。

多分、萩本欽一は、笑いに対する姿勢の問題として、安易であるか否かという観点から、「誰がやっても受ける云々」と発言しているのだろうと思うが、では、常識的レベルの不特定多数の笑い(支持)を獲得出来ないかも知れないリスクを犯してまで、これでもかこれでもかと下品に徹する映画「ボラット」の意味は何か。
それはもう、下品にすれば受けるから、などというレベルをはるかに越えてしまっているように僕には思える。
ある者はそのあまりの品のなさに閉口する。またある者はそのあまりの差別的内容と無神経に激怒する。激怒しないまでも呆れ果てる。

おそらく、それは「選別」であり「挑発」であり「挑戦」である。
あまりにセンスのよい「うわさの男」の使い方に唸って、僕はふるいの目をくぐり抜けることに成功した。そうなれば「挑発」は興奮を呼び、「挑戦」は拍手を持って迎えられる。もしあの時僕がふるいの目に引っかかり、ポイと外に捨てられていたら、もちろん「挑発」は反感を呼び、「挑戦」は無視されていただろう。
下ネタは、時に武器になるのだ(当然ながら、「選別」の権利は本来観客にこそあるもので、観客には「観ない」という究極の選択肢があるのだが、それは実は同時に、新しい映画的体験の機会を自ら放棄する、ということをも意味する)。

あの下ネタは安易な受け狙いでもなければ精一杯のギャグでもなく、もちろん練りに練られた必須の下ネタだった。そうしなければ表現出来ない何かがあったのだ、と少なくとも僕は確信している。
だって、あのグロテスクなまでの下品の果てには、妙に清々しい「真実」が見え隠れしていたから。フェリーニの「甘い生活」で乱痴気パーティの果てに訪れる醜い「真実」(怪魚)ではなく、その裏バージョンとでも言うべき、もっと明るくてナンセンスでバイタリティ溢れる肉体的な「真実」だ(僕はここで「彼の再婚」を意識して書いているわけではない)。

下ネタだらけだが安易ではなく、大いに笑えて、最後には清々しい(また同時に少し悲しい)気持ちになれる。世の中には「おバカ映画」というジャンルがあるそうだが、「ボラット」は、決してそこに括られるべき映画ではないだろう。
実は、DVDが出たら絶対買おう、と僕はもう決心しているのだ。

※萩本欽一はこの映画を好きだろうか?
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2007年08月23日

蛭子バイオレンスに癒される〜「歌謡曲だよ、人生は」

歌謡曲だよ、人生は 完全ガイド歌謡曲だよ、人生は 完全ガイド

シンコーミュージック 2007-06-01
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困ったものだ。
せっかく「アキ・カウリスマキ特集」で労働者の悲哀と心意気にどっぷり浸かってお盆明けを迎えたはずなのに、仕事をする気が全く起こらない。
どさくさに紛れて観た「ボラット」がよくなかったのだろうか。

しかし、「ボラット」は、あのマイケル・ムーアと同じ何ものかが底に流れていると漠然と感じさせながらも決して嫌らしくならないという奇跡的な映画で、それはきっと偽善の臭いすら掻き消してしまうグロテスクの連鎖が、僕を有無も言わせず悪夢のようなナンセンスの果てに連れて行ってくれたからに違いない。
「ボラット」はどちらの側にも立っておらず、どちらの正義をも代弁しない。ニュー・ヨークを初めて訪れたボラットのお下劣の数々をバックに、ニルソンの「うわさの男」が、実にセンスよく、何もかにもを包み込むように、ただ流れるだけである。
僕はこれを、新たなカルト・ムービーの誕生だ、くらいに今思っている。

というわけで、今日は急遽会社をずる休みして「歌謡曲だよ、人生は」を観に行った。
どうしても自分自身を元気付けなければならない、と強く感じたのである。
元気付けられましたねえ。

まず、出だしの「ダンシング・セブンティーン」が素晴らしい。これはいったい誰が監督しているのだろう。日本の祭りの手捌き足捌きとオックスの曲が見事はまって一体となって、僕はもういきなり感動の涙の中だ。これは最高のオープニングである。
そして、何といっても蛭子先生監督の「いとしのマックス」が強烈。昔ガロに連載していた頃大ファンで、しかしその後下らないとしか言いようのない作品ばかり見せられ、「ああ、この人はホントに天才だったんだなあ」などと妙な納得をしていたのだが、テレビのバラエティー番組でおちょくられているのを見たりすると妙に腹が立って、心密かに「控え居ろう!」なんて叫んでいた僕は、これでまたこの人を正面切って「天才」と呼べるのだ、と今この上ない喜びに浸っているのである。いや、武田真治も凄いんだけどね。
あと素晴らしかったのは「ラブユー東京」。進捗している現実と無関係に人の唇が「ら〜びゅう」と動くのが秀逸である。
「ざんげの値打ちもない」、「逢いたくて逢いたくて」もよかった。全く違う意味で「女のみち」の宮史郎もよかった(リスペクト!)。
でも、感動したという意味では、「乙女のワルツ」が一番だったりして・・・。

さて、元気にはなった。
しかし、僕のお盆休み(気分)はまだ終わっていない。
それじゃあ駄目じゃん(笑)。

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荒木一郎 神保正明 畠山明博

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2007年08月19日

予告編の楽しみ方

恋人たちの失われた革命恋人たちの失われた革命
ルイ・ガレル クロティルド・エスム モーリス・ガレル

紀伊國屋書店 2007-08-25
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ほぼ1週間も同じ映画館に通い続けていると、何となく予告編とも馴染みになってしまうものである。「アキ・カウリスマキ特集」の各本編の前に、「恋人たちの失われた革命」の予告編が流れる度に、僕は心の中でツッコミを入れて楽しんでいる。

例えば、「一組のカップルが誕生するということは歴史が出会うことだ」という監督の言葉や、「1968年パリ五月革命」、「僕たちは自由を求めていた」などというカッコ良過ぎるキャプションに続き、「フランソワ<二十歳詩人>」と続くと、
<それってつまり「無職」ってことか?>
と、素直な疑問を投げかける。
また、主演のルイ・ガレルを「フランスの奇跡」と紹介されれば、
<お前は「ルルドの水」か?>
・・・。
共演のリリー役の女優に関する「新たなミューズ」というキャッチ・フレーズに到っては、
<新しいミューズは殺菌効果が20パーセントもアップしました>
などと、ついついわけの判らないことを声に出して言ってみたくなる始末なのである。

とは言え、僕は別にこの映画を馬鹿にしているわけではない(当たり前だ)。
モノクロの画面もスタイリッシュだし、わざと「圧」を強めたような台詞の録音按配もカッコいい。キンクスの「This Time Tomorrow」が、フランス映画と何故かぴったりはまっていて、ああこれが「時代」というものなのか、などと妙に感心したりもしているのである(曲の方がちょっと後だけど)。

「恋人たちの失われた革命」は、フィリップ・ガレル監督作品。1968年のパリ五月革命を背景に、フランソワとリリーという若い男女の「愛の誕生と喪失」、そして「情熱と絶望」を描いている(多分)。

※全然関係ないが、今日観て来た「ボラット〜栄光ナル国家カザフスタンのためのアメリカ文化学習」は最高だった。暴れまくりのやりたい放題。嫌いな人は嫌いだろうけど、僕は大好きですね。
「恋人たちの失われた革命」は、シアタープレイタウン秋田で9月7日から上映予定。「ボラット」は、8月24日までFORUS秋田シネマパレにて上映中です。
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2007年08月17日

マッティ・ペロンパーに捧げられた映画

真夜中の虹/浮き雲真夜中の虹/浮き雲
トゥロ・パヤラ カティ・オウティネン アキ・カウリスマキ

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最初に観たのがそんなに昔だったというわけでもないのに、アキ・カウリスマキ監督の「浮き雲」がどんな映画だったのか、僕はほとんど忘れてしまっていた。
「浮き雲」の意味を、(多分)僕は今回初めて知ったのだ。

レストランの給仕長だったイロナと路面電車の運転手だったラウリは、それぞれほとんど同時に職を失ってしまう。4年ローンでラウリがカラー・テレビを買って、すぐの出来事だ。
職業安定所に行っても、飛び込みで自らを売り込んでも、不況のせいもあって2人にはどうしても仕事が見つからない。
実は2人には子供(男の子)がいたのだが、ほんの幼い頃に亡くしてしまっていた。子供もいない彼等に、未来が、墨を流したように茫漠と横たわる。

2人(とりわけイロナ)にとって、「生きる意味」とは即ち「働くこと」だった。彼女は、昔の仲間達を集めて、そしてかつてのオーナーの資金援助もあって、夫と共に「työ」というレストランを開く。字幕では「レストラン・ワーク」と訳されていたが、フィンランド語の「työ」には、行動する、仕事、職務、雇用、労働等の意味があるようだ。
そして、オープン初日、イロナ達の心配を杞憂に変えて見事満杯になった店内には、レストランの前をふさぐように停車したゴミ収集車から降り立った2人の男達の姿があった。

幸福感に満ちて煙草の煙を吐き出すイロナと、その側に寄り添い彼女の肩を抱くラウリ。そして、エンド・ロールで示される故マッティ・ペロンパーへの献辞・・・。

突然、僕は悟った。一瞬にして霧が晴れたかのように、全てが明らかになった。
この映画は、文字通りマッティ・ペロンパーに捧げられた「決意表明」だったのだ。
首になった昔の仲間達とは、そのままいつものスタッフ、キャスト達だろう。そこにはもはやマッティ・ペロンパーはいない。しかし、俺達はやはり映画を作る、と、こんな映画を作り続けて行くのだ、と、カウリスマキと仲間達は(「浮き雲」全編を通し)静かに叫んでいたのである。

これは、僕の勝手な想像だろうか。そうは思わない。だって、「レストラン・ワーク」オープンのテーブルに「招待」されたゴミ収集人は、本当は「パラダイスの夕暮れ」のニカンデル(マッティ・ペロンパー)だったはずなのだから。

映画館からの帰り道、僕は自分の思いつきを妻に語った。「そう云えば・・・」と妻が言いかけた時、僕は遮ってこう問いかけた。
「あの子供の写真、マッティ・ペロンパーの子供の頃の写真だよね?」

職を失った中年夫婦の話は、このようにして僕にその真実を力強く、しかし静かに明かしたのであった。
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2007年08月14日

アキ・カウリスマキ映画の女の顔について

ラヴィ・ド・ボエーム/コントラクト・キラーラヴィ・ド・ボエーム/コントラクト・キラー
アンドレ・ウィリアムズ マッティ・ペロンパー アキ・カウリスマキ

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アキ・カウリスマキ映画やマッティ・ペロンパーに対する想いは妻にはかなわないので、僕は僕の個人的な驚きだけを書くことにしよう。

8月10日から19日まで、秋田有楽町のシアタープレイタウンで行われている「アキ・カウリスマキ特集」に通い、何本かの旧作と新作「街のあかり」を観た僕は、改めて「女優の顔が凄いなあ」と思ったのだった。
美人などまずいない。思わず、何故こんな顔なんだろう、と唸らずにはいられないような面相の女ばかり。しかもそれは、センスの悪さでもリアリズムの追及の結果でもなく、明らかにアキ・カウリスマキの「意思」なのである。

僕がそれを思い知ったのは、旧作「コントラクト・キラー」においてであった。
「コントラクト・キラー」は、ロンドンの水道局を解雇されたフランス人アンリ(ジャン=ピエール・レオー)が絶望の果て「契約殺人」を依頼するが、その直後トウの立った花売り娘マーガレット(マージ・クラーク)と恋に落ちて殺し屋から逃げ回る、という暗くてしみじみとしたコメディだ。
マージ・クラークは、常連カティ・オウティネンなどに比べればまだ可愛げのある方だが、それにしても、映画の常識的な意味における美人では決してない。化粧も濃いし、口紅や、いざという時に選ぶ服の色のセンスもどうかと思う。
だが、僕が打ちのめされたのは、そのすっぴんのどアップだ。

マーガレットは化粧の濃い女である。しかし、アンリと一夜を過ごした後の彼女は化粧を落としており、その顔にはシミがたくさん浮いている。やつれた肌がアップになると、僕達は、彼女の歩んで来た人生さえも(思わず)想像せずにはいられなくなってしまう。
アンリが、そっと彼女の頭部に触れる。
映画は女優を美しく撮る(見せる)ものではなかったのか、などと考えていた浅はかな僕は、その時やっと(アンリの気持ちになって)悟る。僕は今この上なく美しいものを見ているのだ、と。
確かに、アキ・カウリスマキは女優を美しく、そして最上にいとおしく撮り上げたのだ。
あのシミだらけの女の顔の大写しには、愛が満ち溢れている。

例えば、「マッチ工場の少女」のイリス(カティ・オウティネン)の惨めで不機嫌な顔とマーガレットの顔の意味はまた別であろう。
しかし、少なくとも、そこにおちょくりや浅薄な効果狙いはない。
僕の驚きは感動だ。
アキ・カウリスマキは、何故あのような顔の女を撮り続けるのか。
実はそれは単純なことで、彼がそれを美しいと思っているからなのである。
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2007年08月07日

特筆すべき意味のなさ〜「キサラギ」

「キサラギ」は文句なく面白かった。
特筆すべきは、とにかく、中身が何にもないということである。なのにハラハラドキドキするし、笑えるし、わけもなく泣けたりもする。
これは決してけなしているわけではないのだ。
だって、実際すごいことじゃないか。

気にかかる部分は最初からあった。何故彼等があそこに集まって来たのかが理解出来ない。ネット(ファン・サイト)のオフ会のように説明はされているけれど、いや、集まるのなんか絶対的に不自然だ。
しかし、すぐにそんな「不自然」などどうでもよくなってしまう。
それほど、脚本が、演出が、演技が素晴らしいのである。
これはある意味「力技」だが、確信犯だってことは最後の最後で明白になる。
「遅れてきた清純派グラビアアイドル」如月ミキが実際に歌うシーンが画面に映し出されることに、僕は唖然として言葉を失った。そして、更にエースのジョーが・・・。

キム・ギドク監督の「絶対の愛」を「メビウスの輪」の物語だ、と僕はこのブログ上で書いたけれど、よく考えてみれば「キサラギ」だって「メビウスの輪」なわけだ。それも、とんでもなく意味のない「メビウスの輪」だ。
言葉はいつでも次の瞬間別の意味にすり替わる。登場人物の立場もころころと変わる。これは言葉の、論理の、そして真っ当な物語の破壊で、まるで不条理劇を観ているような気分にさせられる(でも、ちゃんとすじが通ってもいる!)。
そうか、そういうことなのかも知れないな。

自分の好みというこもあるのだけれど、僕の中で「キサラギ」の位置付けは非常に高い。そして、改めて思ったけれど、香川照之はすんばらしい。小出恵介も、ユースケ・サンタマリアもよかったな(だいたい、ユースケ・サンタマリアっていう芸名を、誰も不自然に感じていない、という現状が既にもの凄いわけであるが・・・)。
「絶対の愛」を観るまでは、「キサラギ」が今年度ベスト10暫定王者だった、というのは、別に冗談でも何でもない僕の本心で、それはまだちゃんと芽を残していたりするのです。
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「メビウスの輪」と放置された時間の復讐〜「絶対の愛」

時は連綿と続いて行く。人が何を思おうが、何をしでかそうが、そんなことにはお構いなく、ずっと、ずっと、果てしなく一方向に流れて行く。そうであるはずだ。
しかし、キム・ギドクの「絶対の愛」においては、その時が放置される。肉体のリセットによって、それまでの彼女の時間は、ぷっつりと切断されてしまったかのように見える。だが、実は放置されるのは彼女の未来であって、過去ではないことが判る。何故なら、彼女はまた必ずスタート地点に戻って行くからである。
彼女は、同じところをグルグルと回ろうとしているに過ぎない。二人の出逢いから、今現在までを、もしかしたら今度こそは、と半ば期待しながら、もちろん同時に、どうせまた、と半ば絶望しながら、そうして彼女は繰り返す。
「絶対の愛」は、「メビウスの輪」の物語だ。

オランダの版画家M.C.エッシャーには、そのものずばり「メビウスの輪」という作品があって、無限(あるいはどうしても脱け出せない日常)を象徴するかのような輪の上を、赤い大きな蟻が不気味に這い回っているのであった。
セヒは、時(未来)を置き去りにして、自分とジウの「メビウスの輪」を作ろうとした。あるいは、それこそがセヒにとっての「未来」であったのかも知れない。セヒの「メビウスの輪」の上では、サングラスに大きなマスクをかけて顔全体を覆い隠した赤い(あるいは黒い)コートの女が、ジウを追いかけて全速力で走っている。
おぞましい。だが、これはこれでまぎれもなく「メビウスの輪」である。

「メビウスの輪」の中央をずっと最後まで二等分して行くと、テープは大きなひとつの輪となる。ところが、最初テープの端と端を糊付けする時に、捻りを二回入れるとどうなるか。中央から二等分すると、チェーンのように結ばれた、しかし確実に切断された二つの輪が出来上がるのである。
僕は、映画の冒頭とラストで二回繰り返されるシーンを、どうしてもこの「ダブルメビウス」に結び付けてしまう。整形サロンの外で二人の女がぶつかる、あのシーンだ。そして、あれが失敗した「メビウスの輪」のチェーンの繋ぎ目なのだ、と思う。
わざわざ鋏を入れて、「輪」を綻ばせたのは誰か。いや、そもそも二回目の捻りを入れて「ダブルメビウス」を作ってしまったのは誰なのか。
それはセヒでもあり、スェヒでもあり、またジウでもあるだろう。やり直すためのリセットと逃げ出すためのリセットと、そして破滅。
これは、放置された時間が人間に復讐する物語でもある。

そして、僕は、ずっとこの映画のことを考えている。
まるで僕自身が、キム・ギドクという「メビウスの輪」に取り込まれてしまったかのように。
いや、確かに取り込まれてしまったのである。

※セヒがシーツを頭からかぶるシーンなども、実にエッシャーあるいはマグリット的。
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2007年07月29日

「リンガー! 替え玉★選手権」〜オーソドックスで、いいコメディ

スティーヴは会社の上司に昇進願いを受け入れて貰う代わりに、用務員のスターブの首を切るよう命じられる。人のいい彼はスターブに「首」とは言えず、個人的に雇い入れ自分の家の芝刈りをさせることになる。ところが、スターブは芝刈り機で指を切断する事故を起こす。彼の指は外科手術によって元通りにすることが出来る、と医者は言う。期限は二週間以内。しかし、市民権のないスターブは保険にも加入しておらず、子沢山の彼にはもちろん、スティーヴにもそんなお金は捻出出来ない。自責の念に駆られたスティーヴは、叔父ゲイリーの発案にやむなく乗ることになるが・・・。

以上が、「リンガー! 替え玉★選手権」で、主人公スティーヴが身体や知能にハンディ・キャップを持つ障害者のオリンピック「スペシャル・オリンピック」への出場を決心するまでのいきさつである。スティーヴは優勝して賞金を得る。ゲイリーは借金相手から賭け金をせしめる、というわけだ。
元々俳優志望の彼は、「フォレスト・ガンプ」や「アイ・アム・サム」を参考に「役作り」に励む。彼自身は後ろめたい気持ちをずっと抱いているのだが、自らの借金返済もこの大芝居にかかっている叔父ゲイリーは全く意に介さず、あくまでも行け行けドンドンである。
罰当たり?
確かに。

「リンガー! 替え玉★選手権」はとってもオーソドックスで、かつ「いい映画」だった、と思う。「明日、君がいない」と比べてどっちがより「いい映画」だったと思うか、と問われれば、僕は迷わず「リンガー!」と答えるだろう。
だが、「リンガー!」は決して「立派な映画」ではないし、当然ながら、これを全く受け付けない人達もいるに違いない。
もちろん、「立派な映画」、「立派な音楽」、「立派な文学」には「価値」がある。そして、それは別に悪いことじゃないのだけれど、僕にとって大事なことは、「立派じゃない映画」、「立派じゃない音楽」、「立派じゃない文学(小説)」にも、ちゃんと「価値」があるってことなんだ。

スティーヴのインチキに気付いたジョニーやグレンその他「仲間達」が、ベッドの上のスティーヴをじりじりと追い込むシーンには、「フリークス」を思い出させられてついつい笑ってしまった。
また、小雨の早朝練習に励むスティーヴと「仲間達」を競技場の片隅でじっと見つめる「史上最高のチャンピオン」ジミーの横顔が、さり気なく物語に深みを与えていた。
僕が、この映画を「いい映画」だった、と感じるのは、「作者が何を言いたいか」ではなく、よく出来たストーリーとそんな印象的なシーンの数々が、実にバランスよく共存していたからである。
その上で、ちゃんと笑えるコメディだったということは、多分今とても「価値」のあることなのだ。

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2007年07月12日

最後にやって来る強烈なコントラスト〜「明日、君がいない」

ムラーリ・K・タルリ監督の「明日、君がいない」が始まると、僕は少し居心地が悪くなった。予告編を観た感じ、観る前に妻と交わした会話などを思い出して、それにしてもあからさまに「エレファント」だなあ、と改めて思ったのである。

「エレファント」は、コロンバイン高校で起こった銃乱射事件を題材にして作られたガス・ヴァン・サント監督のカンヌ映画祭パルム・ドール(及び監督賞)受賞作で、事件前の高校生達の日常を、視点と時間をずらしながら織り合わせるように再構築するという独特な手法を駆使して作られた素晴らしい映画だった。

高校生達のありふれた日常の中にある日突然起こるショッキングな事件、という点がまず似ている。当然、舞台もほとんとがキャンパスの中だ。そして、「明日、君がいない」においても、視点と時間をずらして事実を多面的にとらえる、という手法がやはり使われている。
僕は思っていたのだ。
大丈夫なのだろうか、と。

しかし、カラーで描かれる「ドラマ」部分とモノクロ画面のインタビュー部分を積み重ねることによって徐々に明らかになる、そしてリアルになって行く高校生達の悩みやアンバランスが、僕のそんな不安をすぐにきれいに消し去ってくれた。
僕の興味は、いったい誰が死ぬのだろう、に変わっていた。

映画の冒頭で、「誰か」が死ぬ。閉じられたドアの向こう側で「誰か」が死に、ドアと床の隙間から「誰か」の血が流れ出す。
確かに「誰か」が死んだのだ。では、いったい「誰」が死んだのか。
高校生達の悩みや問題がシリアスなものだということが明らかになれば明らかになるほど、謎が深まって行き、そして僕の好奇心は刺激された。
正直に言えば、僕は楽しんでいたのだ。

そしてまたしかし、最後にその「誰か」が誰であったのかが明かされた時、僕は震えた。まず、生々し過ぎる「死」の場面に、次いでそのあまりの理不尽さに。
すごいのは、この時、死ななかった高校生達の悩み、数々の問題が、一気に、本当の意味でリアルになったことである。
彼等は生きている。最後まで本当に確かな理由など一切明らかにされず文字通り血の海の中で死んでゆく「誰か」と強烈なコントラストを作って、彼等の「生」が輝く。

この映画の原題は「2:37」という。
この時、「誰か」が死んだ。
ムラーリ・K・タルリは、見事に観客を操り、そして自らが伝えたいことを余すところなく伝え切った。
これはすごい映画である。

※「明日、君がいない」はまだDVD化されていないので。
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2007年06月11日

喪失の物語〜「パリ、ジュテーム」より

「パリ、ジュテーム」の、「妻に別れを切り出そうとしたが逆に不治の病を告白されて別れられなくなってしまう男の話」を、時々思い出す。思い出して、あれが本当に5分あまり(あるいは5分足らず)の作品だったのか、と驚く。

妻に白血病であることを告白された男は、結局死に行く妻を看取ることになる。だが、彼はそうして妻に寄り添う夫を演じながら、彼女に二度目の恋をする。
大嫌いだった妻の料理と鼻歌、いらない物でも捨てられない性格、そして赤いコート。
街角で赤いコートの女を見かける度に、男はそこに妻の幻を求める。
予告編の時から強く印象に残っていた、街路沿いの鉄の格子をパランパランと右手の指先で触れながらあちら側に歩いて行く赤いコートの後ろ姿が、もう永遠に失われてしまったものであることを、僕達は知る。
これは、喪失の物語である。
そして、この喪失は、そうなるためにわざわざ追い求められた喪失なのである。

人は合理的には生きられない。
結局悲しい思いをしなくちゃならないなら、最初から会わなければよかったじゃないか、というのは「星の王子さま」のキツネの台詞だっただろうか。
男の心にぽっかりと空いた、決して二度と塞がれることのない深い穴を、いったいどう言いあらわせばいいのだろう。
そこにある種の甘美を感じると言えば、お前には人生経験が足りないのだ、と笑われるだけかも知れないが。

※これは、映画のノベライズらしいです。
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2007年06月10日

「頭部の兄弟」と「語り尽くせない」話

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「ブラザーズ・オブ・ザ・ヘッド」は、実にカッコよかった。70年代のパンク・ロックが好きな人には堪らない映画だろう。音楽だけではない。映像も、何と言うのだろう、とにかく「そそる」のである。
曲調がそうだ、というわけでもないのだが、僕は映画を観ながらずっとセックス・ピストルズのことを連想していた。「結合体双生児」の兄弟トムとバリーはピストルズのジョニー・ロットンとシド・ヴィシャスの結合したイメージなのだ、という逸話もあるらしく、なるほどと頷かせられる。性格とか生い立ちではなく、「商売」にされて行く過程、そのアンバランス、見ている外界の悪夢のような感覚等々が、アメリカ公演で野次られ、モノを投げつけられて、ステージ上、何も映っていない目を麻痺したように見開くロットンを、どうしようもなく僕に思い出させるのだ。
結合体双生児の物語ではあるが、これはやはり「内なる何者か」の物語であろう。バリーの頭部の腫瘍に宿る三人目の兄弟が、ザ・フーの「四重人格」を想い起こさせる。そういえば、ケン・ラッセルは、ロック・オペラ「トミー」の監督でもあった。
トムがバリーの耳元で何事か囁く時、それはおそらく、バリーの「頭部の兄弟」に対する密やかな信号となって、バリーの鼓膜から脳へとつながる微かな空気を静かに静かに震わせるのである。

「しゃべれどもしゃべれども」は、(変な言い方かもしれないが)驕り高ぶったところの全然ない映画だった。シネマパレにしては観客の年齢層も非常に高く、なるほど映画が人を選ぶのである。
下町の路地の様子が(江戸っ子なんかじゃありゃしない僕にとっても)懐かしかったし、三つ葉(国分太一)とその師匠(伊東四朗)が近所の人達と交わす挨拶の調子も実に気持ちよかった。
映画だが、これは「語り口調」がいい感じなのだ、と僕はそう思う。理屈じゃなくて、何かがじんわりと伝わる。普通の人に普通に届く映画だ。
国分太一の「火焔太鼓」がとてもよかった。僕は落語通ではないから、「ふん、あんなもの」と思う人がいても返す言葉もないが、二つ目が初めて何かを掴んだ瞬間、という意味における映画の中で表現される落語としては文句なく素晴らしかったのではないか。
この人は左利きのはずだが、右手で箸を使ってちゃんと蕎麦を食べていた。
こんなところも、僕には非常に好感が持てるのである。

昨日今日とまた2本の映画を観た。
予告編を観ると、「明日、君がいない」だの、「ボラット」だの、「リンガー!」だの、「歌謡曲だよ、人生は」だの、本当に観たいものばかりで困ってしまう。
もうすぐ夏が来るな。

※どちらの作品も、FORUS秋田8Fシネマパレにて(6月15日まで?)上映中です。

国分太一のしゃべれどもしゃべれども国分太一のしゃべれどもしゃべれども

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2007年06月03日

先週観た三本の映画について

先週の木曜日、急に思い立って会社を早退し、TOHOシネタウンに向かった。
「リーピング」を観るためである。「イナゴ少女」という惹句が、ずっと気になっていたのだ。
「reaping」というのは、「収穫」という意味。「報い」という意味合いもあるようだが、映画としては至極真っ当な「キリスト教の流れを汲む邪教絡みホラー」であった。
確かにイナゴの大群は画面を覆い尽くすが、そしてそれは一人の少女の強い力によって惹き起こされる事象ではあるが、別に彼女が「イナゴ少女」だというわけではなかった。
面白かったけれど、少し物足りない。
主演がヒラリー・スワンクではなく、誰かもっと全然無名の女優だったらよかったのかも知れない。

昨日は映画のはしごをした。
まず朝一番で、松本人志初監督作品の「大日本人」。
初日第1回目なので、混んでいるかな、と(混雑した映画館が不得意な僕は)ちょっと嫌な気がしていたのだが、余計な心配だった。
僕はこの映画を、ヌーベル・バーグなのではないか、と感じている。
連想したのはゴダールの「アワーミュージック」で、しかも「大日本人」からは、ちゃんと「アワー=日本人」の音楽が聴こえて来た。
この人の、いつも少しやり過ぎるサディスティックな感覚は好きになれないし、ではこれは傑作かと問われれば肯定も出来ないのであるが、北野武映画みたいだったらどうしよう、という不安が杞憂に終わったことだけは確かなのであった。

夕方からは「パリ、ジュテーム」を観た。
18人の監督が、パリの様々な街角を舞台に様々な人生を切り取ったオムニバス。
こういう映画は話によって好き嫌いのバラつきがあって難しい。僕には、クリストファー・ドイルのパートは時間の無駄としか思えなかったし、また、ガス・ヴァン・サントの作品も、画面から嫌な臭いを感じてしまって、好きになれなかった。
僕が特に好きだったのは、妻に別れを切り出そうとしたが逆に不治の病を告白されて別れられなくなってしまう男の話と、オスカー・ワイルドの墓を訪れた若いカップルの話、そして腹を刺されて死に行く男と救急隊員の女の話。
そうそう、イライジャ・ウッドの出るヴァンパイアの話もよかったし、眼鏡をかけたちんちくりんな子供が語る(ずっとパントマイムをしている)父と母の話も大好きだ。それに、もちろん、デンバーから憧れのパリにやって来た郵便配達員キャロルが語る「人生の機微」は別格・・・。
それにしても、クリストファー・ドイルの部分さえなければ、とどうしても思ってしまう僕はこだわり過ぎなのだろうか。
だから、オムニバスは(オムニバスを観るのは)難しい。
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2007年05月20日

古典的かつ斬新〜「13/ザメッティ」

まず第一に映像(え)が美しい。モノクロの黒と白で構成された各シーンの素晴らしさは、写真集としてまとめ上げ、手許において、出来れば一日中ずっと観ていたいと思わせるほどだ。
また、台詞による状況説明がほとんどないのもいい。全てが映像によって語られるストイックな構成。それでいて作品全体に漲っている奇妙なイマジネーションとモダンなセンス。
そして何と言っても、これが(予想に反して)勧善懲悪の物語である、という点。
面白かった。カッコよかった。斬新だった。
しかし、そうでありながら、「13/ザメッティ」は古典的な映画でもあった。

富裕者達のアンモラルな遊びのために自らの命をかけてロシアン・ルーレットを行う13人の男達。ぐるりと輪になって、たまたま自分の前に並んだというだけの理由で、見も知らぬ相手(プレイヤー)の後頭部に弾を込めた拳銃を押し付けて、電球の点灯を合図に一斉に引き金を引く。呻き声とともに崩れ落ちる敗者達。頭からはどす黒い血・・・。
だが、意外にも、それは決して観る者の目に必要以上にグロテスクには映らない。
これをもっと残酷にしよう、ショッキングにしようと思えばいくらでも出来たであろう。しかし、ここには徹底的に抑制を利かせた、だからこそ極めて高いレベルで維持される緊迫感だけがある。
純度が高いのである。

まるで硬いガラス質の緻密な物質で作り上げられたひとつの物体のように切れ目ないこの映画の魅力に完璧に囚われながら、それでも実は僕には初めからずっと気になっていることがあった。それは、もしかしたらこの映画はジェットコースターなのかも知れない、という思い、ある種のTVゲームのように、興奮させることそれ自体を目的とする「非・映画」でなければいいのだが、という危惧であった。
「非・映画」はそこかしこに存在する。もちろん、その目的は何も「興奮」だけではない。時には政治的メッセージだったり、あるいはまた単なる自己満足だったりする。共通しているのは、映画が単なる「手段」に堕してしまっている、ということである。
しかし、「13/ザメッティ」の「興奮」の後に来たものは、実にまともな(映画としての)「調和」であった。「13/ザメッティ」は、僕の勝手な危惧を見事に裏切って、最高にバランスよく終わった。

僕は、主人公セバスチャンの暮らし振りを見て、ある懐かしさを覚えた。郷愁と言っては語弊があるかも知れないが、あの「貧しい感じ」は、確かにかつて映画館でよく目にしたものだ。
セバスチャン一家はグルジア移民という設定であるが、それにしても僕は実に久し振りに「地に足のついた貧困」を映画で体験したのである。
「貧困」を底流とする映画というのも、実に古典的ではないか。

※5月25日(金)まで、FORUS秋田シネマパレにて上映中です。
posted by og5 at 14:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月06日

ルドビグの静かな革命

ハリネズミのルドビグは、いつもドジばかりふんでいる。
愚図な怠け者だし、情けないくらい臆病だし、その上ひどい花粉症だ。
いいことなんかありゃしない。
でも、レオドルと一緒に、「イル・テンポ・ギガンテ号」に乗って、ピンチクリフ・グランプリで優勝してから、何かが少し、本当にほんの少しだけ、変わったんだよ。

僕は、それを「ルドビグの静かな革命」と呼ぼう。
そして、ルドビグと一緒に口琴を鳴らそう。

※詳しくは、興奮気味の妻のBLOGでどうぞ! ⇒ Chicken's Everyday
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2007年05月01日

「クィーン」について

「クィーン」が面白かった。以下、断片的な感想を書く。

まず、新首相ブレアの謁見の際、エリザベス女王がハンドバッグを携えていたことに新鮮な驚きを感じた。女性にとっては常識なのかも知れないが、僕には、あのような正式な場で、絶対にその口を開くことなどあり得ないであろうバッグを自らの傍らに置く、ということがとても不思議に思えたのである(そういえば、ダイアナの事故の知らせを受けて、深夜、ガウン姿で廊下に出た時も、女王はやはり手に何か袋のようなものを抱えていた)。

次に、僕が興味を惹かれたのは、女王の歩き方である。
つま先を外に向けて、堂々と歩く。それは、僕が勝手に思っているロイヤルで上品な感じとは程遠く、どちらかと言えば、男っぽく逞しい歩き方であった。
しかし、これが僕には非常に魅力的に映った。
エリザベス女王が実際あのような歩き方をするのかどうかは判らない。ヘレン・ミレン(あるいは監督)が本人のスタイルを研究して、リアルに演じている(もしくは演出している)のかも知れないし、映画を成立させるための「創作」なのかも知れない。だが、その「演出」は、大英帝国の女王たる者、あの逞しい脚がなければとても務まるものではない、と実に強い説得力を持って観る者の心に落ちるのである。

広大な領地内の川のほとりで大鹿と邂逅するシーンについては、様々な解釈が可能であろう。
自らの運転する車で無理矢理川を渡ろうとして立ち往生してしまった女王は、携帯電話で救援を呼ぶ。その助けが来るまでのひと時、川のほとりに腰掛けて、彼女は(多分)ダイアナの事故を知らされて以来初めての涙を流す。そこに、忽然と大鹿が現れる。彼女は、大鹿としばし対峙した後、夫達が鹿撃ちに繰り出していることを思い出し、早くここから立ち去るように、と(鹿に)語りかける。
後にどのようなシーンが展開されるかについて書くのは控えるが、これが多分この映画の最も象徴的かつ重要なエピソードである。
「大鹿」はダイアナだろうか。それとも、エリザベス自身だろうか。
いずれにしても、その「象徴」の運命が、彼女にある重大な決意をもたらすのだ。
ダイアナにも、それによって引き起こされたイギリス国民の集団ヒステリーにも全く興味はない。しかし、この映画は面白かった。それは、これが本当はダイアナの死や英国王室の危機の話などではなく、自らの運命を選択した一人の女性の物語であったからなのだ、と僕は思っている。

映画の冒頭、斜め前方を向いていた女王が、ふいにすっとこちら側に顔を向けるシーンがあった。
その目は何も見ていない目であった。しかし、また同時に、全てを見ている目でもあった。
仮に(映画でも冗談めかした台詞で触れられていたように)、ダイアナの死に英国王室が何らかの関わりを持っていたとしても、この映画は成立する。
そこがすごいところである。
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