2006年09月03日

「そんな時代があったんだ」〜「ヨコハマメリー」という青春群像劇

聞き書き 横浜物語―Yokohama Story 1945‐1965聞き書き 横浜物語―Yokohama Story 1945‐1965
松葉 好市 小田 豊二

ホーム社 2003-09
売り上げランキング : 113745

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

「ヨコハマメリー」というのが、このドキュメンタリー映画のタイトルである。しかし、これは「メリーさん」の映画ではない。いや、少なくとも、「メリーさん」だけを深く掘り下げようとした映画ではない。
フィクションである映画がまるで現実のように迫って来ることもあるし、またその逆もある。「ヨコハマメリー」は、ドキュメンタリーでありながら、僕にはまるで「青春群像劇」のように見えた。

終戦から戦後間もない頃の横浜の、それも更に限定された何ヵ所かの盛り場や繁華街に生きた、娼婦や、芸者や、商売人や、学生や、愚連隊や、その他様々な職業や過去や未来を持つ人々の「横浜青春物語」。かつて確実に一世を風靡していた大衆酒場「根岸家」の、今ではもう駐車場になってしまった跡地に立って、元愚連隊と「聞き書き横濱物語」の著者が、ここはカウンターだった、ここにステージがあった、と焼けてしまった自分達の「青春」の図面を再構築するシーンで、ふと呟かれる「そんな時代があったんだ」は、だからこの映画全体を方向付ける重要なキーワードである。
「そんな時代があったんだ」、しかし今はもうそれは何処かに消え失せてしまった。「メリーさん」は、「そんな時代」を大きなバッグに詰めて、ゆっくりと横断歩道を渡る。そして、確実に年老いて行く。

永登元次郎というシャンソン歌手が、「メリーさん」との交流を語りながら、映画の太い縦糸となる。彼は末期がんに侵されており、映画撮影後に亡くなっている。彼は男娼をしていた過去や、恋人の出来た母を「パンパン」と罵り家を出たこと、そんな母に対する済まない気持ちが「メリーさん」と母を重ね合わせて見るきっかけになったこと等を語るが、その話し振りは実に淡々としていて穏やかである。山のような薬や健康食品を飲みながら、煙草だけは止められなかった元次郎の、それが人柄であろう。
今気付いたのだが、インタビューを受ける人々は、概して皆穏やかである。「メリーさん」を熱く語るのは舞踏家や女優であるが、彼等は多分自分自身のことを語っている。

まるで幽霊のようだった、と何のシンパシーもなく「メリーさん」を語る団鬼六は清々しい。「メリーさん」を気持ち悪いと思う人々、彼女と同じカップで紅茶を飲みたくないと言った人々に僕は同調する。「メリーさん」が何者かは判らないが、彼女が引きずっていたものは、人をギョッとさせ、嫌な気分にさせた。それは紛れもない事実なのだ。
この「青春群像劇」において、「メリーさん」が象徴していたものは一体何だったのか。
おそらくその問いに対する答え(正解)はない。彼女に憑いていたものの正体も、やはり誰にも判りはしないだろう。
ただ一つ言えることは、彼女は人に嫌われもしたが愛されもし、そしてそのどちらの感情も持たない人ももちろんいた、ということである。

最後に、映画冒頭とエンディングにおけるテーマ曲「伊勢佐木町ブルース」に対する僕の印象の変化について書かねばならない。
最初、僕は何故「渚ようこ」なのだろう、と思った。何故「青江三奈」ではないのか。
しかし、映画を観終わった時、その理由は明らかになっていた。
「そんな時代があったんだ」という「青春群像劇」を彩るのは、どうしても「現在(いま)の歌手」による「伊勢佐木町ブルース」でなくてはならなかったのである。

天使はブルースを歌う―横浜アウトサイド・ストーリー天使はブルースを歌う―横浜アウトサイド・ストーリー
山崎 洋子

毎日新聞社 1999-10
売り上げランキング : 129015

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

<COLEZO!>青江三奈青江三奈
青江三奈 川内康範 伊戸のりお

ビクターエンタテインメント 2005-09-22
売り上げランキング : 60524

Amazonで詳しく見る
by G-Tools
posted by og5 at 10:29| Comment(5) | TrackBack(1) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月13日

盆休み 妻に隠れて 「サンゲリア」

サンゲリア 25th ANNIVERSARY SPECIAL EDITIONサンゲリア 25th ANNIVERSARY SPECIAL EDITION
ルチオ・フルチ リチャード・ジョンソン オルガ・カルラトス

ビデオメーカー 2005-05-13
売り上げランキング : 21901

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

妻に隠れてルチオ・フルチの「サンゲリア」を観た。
「サンゲリア」は、ジョージ・A・ロメロのゾンビ三部作、ダリオ・アルジェントの「サスペリア」などと共に、70〜80年代ホラーを代表すると称されるイタリアン・ゾンビ映画の傑作である(とそのように言われている)。

ところで、僕は何故今まで、この「傑作」を観ることなく過ごして来てしまったのか。それは、その内容があまりに強烈(そう)過ぎて、そのゴアリーなシーンの数々に果たして自分が耐えられるかどうか自信がなかったから、ということに尽きる。あの有名な、女性の眼球に木片の切っ先が突き刺さるシーンなど、想像するだけでもう具合が悪くなってしまいそうに思えた。映画雑誌などで見るゾンビの造形も、ロメロのものと比較すると何とも泥臭く、スタイリッシュでない分「毒」が強そうに感じられた。つまり僕は、「これは性質が悪い」と勝手に思い込んでしまっていたわけである。
ただ、それでもやはり興味はあった。だからDVDは買っていた。何度かパソコンにセットもした。しかし、逡巡した挙句、その都度結局は止めにしてしまっていた・・・それが実態であった。
実は、とうとう今回この映画を観るに到ったきっかけというのが、「YEAH YEAH YEAHS」のライブDVDであった。妻の留守中に彼等の「Tell Me What Rockers to Swallow」をかけ、カレンOの無茶苦茶エネルギッシュで適当なパフォーマンスを観ていたら、何となく「ノリ」で「サンゲリア」にも手が伸びてしまったのである(カレンOに感謝)。

さて、初めて目の当たりにした伝説の「サンゲリア」に対する僕の感想はというと、それは意外にも「実に渋い」であった。
ストーリーがとてもシンプルだ。無人のクルーザーがニューヨークに流れ着き、これを捜索中の警備員が潜んでいたゾンビにいきなり襲われる。行方不明の父(クルーザーの持ち主)を探す娘アンと新聞記者のピーターが、自家用クルーザーでバカンスを楽しむカップル(ブライアンとスーザン)と一緒に西インド洋に浮かぶ(海図にも載っていない島)マツール島に辿り着くと、そこには死人がゾンビとして蘇える奇病が蔓延していた・・・。
難しい話など一つも出て来ない。しかし、物語は適度な緊張感に包まれながらラストまで(決して必要以上に盛り上がることなく)淡々と突き進む。
最後、島を脱出したアンとピーターの耳に飛び込んで来る、ニューヨークがゾンビだらけになってしまっているというラジオのニュース。そのニュースを聞いた、二人の虚ろな目が堪らない。尊敬するジョージ・A・ロメロ監督のリビング・デッド作品も、(ちょっと毛色は違うけれど)大好きな「悪魔のいけにえ」も、観終わった時そこには大きな大きな虚無感が残され、それがまたこれら70年代ホラーをこの上なく魅力的にしているのだが、この「サンゲリア」にも実に独特かつ濃厚な虚無感が漂っている。もちろんこれらの作品に漂う「気分」はそれぞれ全く異なるのであるが、「虚しい」という括りだけは何故か共通であるような気がする。

適度にお色気も入っているし、血みどろのゲチョゲチョもそんなにひどいわけではなかった。カッチリと締まった、本当にいい(面白い)映画だと思った。
確かに、突っ込み所がないわけではない。クルーザーはいつ直ったのかとか、何百年も前の墓から蘇えるゾンビは骨だけになっているべきではないのかとか・・・。しかし、海の底に意味もなく潜み、襲いかかる鮫の肌を歯で食い破るゾンビという発想には、ただただ「見事」と唸るしかなかった。
これは、やはり、時代の「傑作」なのである。

テル・ミー・ホワット・ロッカーズ・トゥ・スワロウテル・ミー・ホワット・ロッカーズ・トゥ・スワロウ
ヤー・ヤー・ヤーズ

ユニバーサルインターナショナル 2004-11-26
売り上げランキング : 12912

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

posted by og5 at 22:34| Comment(5) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年07月30日

「リバティーン」〜僕は彼を好きか?

ジョニー・デップ・フォトブック ザ・リバティーンジョニー・デップ・フォトブック ザ・リバティーン
ジョニー・デップ・フォトブック制作委員会

廣済堂出版 2006-04-09
売り上げランキング : 81933

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

凄い映画を観た。
その映画とは「リバティーン」のことで、7月27日の木曜日、仕事が終わってから一人で秋田FORUS(シネマパレ)に出かけたのである。
予告編を観た段階では、あまり興味を持つことが出来なかった。だから妻はとっとと一人で映画館に出かけたのだし、僕はその間東京で酔っ払っていたのだ。しかし、妻の感想、またそのブログに対するコメント等を読んでいる内に、僕の中の何かが「観なくてはいけない」と僕を強く急き立てた。そして、観た。観て、本当によかったと思っている。

「リバティーン」は、17世紀ロンドンを舞台にしたジョニー・デップ主演のイギリス映画である。ジョン・ウィルモットこと第二代ロチェスター伯爵(ジョニー・デップ)は、芸術に造詣が深く民衆の人気も高いが、とにかく人に対して辛辣で情け容赦がない。酒色に溺れ、インモラルな放蕩三昧に明け暮れ、ついには梅毒に侵されて死んで行く。冴えない舞台女優リジー・バリー(サマンサ・モートン)の才能を見出し、彼女を愛し、そして彼女をロンドン一の女優に育て上げていく前半はともかく、フランス大使の面前で悪趣味で露骨で悪意に満ちた芝居を上演し、国王チャールズ二世(ジョン・マルコヴィッチ)の不興を買ったばかりか自らの精神のバランスをも崩して落ちぶれ果てて行く後半など、惨め過ぎて正視に堪えない程だ。

ひどい男だ。愛を語る資格があるとも思えないくらいにひどい男だ。ここには、通常映画で語られる美しい人間性も感動的なエピソードもない。誰にも感情移入することが出来ず、社会的正義の達成あるいは挫折に心を激しく揺さぶられるということもない。ここにあるのは、冷酷で身勝手で臆病で狭量で卑怯で小心な男の、ただありのままの姿である。
冒頭、「私はひどい男だ」「私を好きにならないでくれ」と観客に語った男は、最後にまた我々の前に現れ、まだ美しかった頃の姿のままで正面を見据え「これでも諸君は私が好きか?」と繰り返す。フェイド・アウトする声と深まって行く闇の中で、杯のワインを飲み干す彼に、僕達は(映画館のシートとその闇の中に)ポツンと取り残される。
僕は彼を好きか。答えはない。僕は彼を嫌いか。やはり答えはない。
結局、彼の心の深い闇の秘密は最後まで明らかにはされない。息子が死した後、息子が生前描いていた卑猥な絵の束や詩を燃やす母親、その母親への彼の(生前の)接し方、妻が「自分には判っている」と語った彼の心の中の悪魔の来し方、そんな僅かな手がかりから我々は何かを手繰り寄せようとすることも出来るが、そのことにどういう意味があるのかも僕には判らない。
「答えがない」。それが「リバティーン」の答えなのかも知れない。

映画館を出て、会社に自転車を取りに寄った。会社付近の道路を、ビル内でよく見かける数人の他課の連中が歩いていた。自転車置き場でも顔見知りの後輩に会った。彼等は、残業をして今帰宅するところなのだ。僕は、今の今まで自分が観ていた答えのない映画とこの日常生活のギャップにうろたえ、そしてたじろいだ。自分は非常な贅沢をしていたのではないだろうか、とその二時間のことを考えた。
本当に凄い映画を観た。
観て、本当によかった。
posted by og5 at 09:52| Comment(0) | TrackBack(1) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年07月17日

「ブロークン・フラワーズ」〜時は流れ、花は枯れるが

映画「ブロークン・フラワーズ」オリジナル・サウンドトラック映画「ブロークン・フラワーズ」オリジナル・サウンドトラック
サントラ ザ・グリーンホーンズ・ウィズ・ホリー・ゴライトリー ムラトゥ・アスタトゥケ

ユニバーサルクラシック 2006-04-05
売り上げランキング : 5942

Amazonで詳しく見る
by G-Tools
※ストーリーの内容に触れる記述がかなりあります。今後この映画を観る予定があって、まだあまり内容について知りたくない方は、以下の記事を読まない方がいいかも知れません。

ある日届けられた差出人不明のピンクの封筒には、「私はあなたの子供を20年前に身篭ってそして出産した」という手紙が入っていた。その手紙の謎を探るため、おせっかいな隣人ウィンストン(ジェフリー・ライト)の、エチオピア音楽のBGMまでついた完璧なお膳立てにより、ドン・ジョンストン(ビル・マーレイ)は自らの過去に旅立つ。
ジム・ジャームッシュの「ブロークン・フラワーズ」は、そんな風にして始まる。そして、かつて「ドン・ファン」よろしく恋の遍歴を重ねていた頃の女友達を訪ね廻る旅から、何の成果もなくドンが帰宅するラスト近くまでは、僕には、これはゴダールの「アワー・ミュージック」みたいな映画なのかな、というぼんやりとした思いがあった。と言うのは、僕にとって「アワー・ミュージック」は明らかに「言葉の断絶」の映画であって、それと同じものをドンの女巡りにも強く感じたからである。

確かに、レーサーだった夫を事故で失い、現在は(「氷の微笑」の彼女自身のような)露出症気味の娘と二人暮らしをしているローラ(シャロン・ストーン)の場合はともかく、次に訪れる、元フラワーチルドレンで夫と共に不動産業を営むドーラ(フランセス・コンロイ)の場合には、その意思疎通の不全は明白だ。また、三番目に訪ねるカルメン(ジェシカ・ラング)の場合、そのコミュニケーション不全はもっとあからさまで、彼女は動物と会話を交わすことによってそのストレスを解消してやる「動物コミュニケーター」なる仕事をしているが、猫とも普通に意思疎通出来る彼女でさえ、ドンとはほんの日常会話ですら思うようには交わすことが出来ない。そして、四人目のペニー(ティルダ・スウィントン)とは暴力が、五人目のミシェル・ペペとは死が、それぞれのコミュニケーションの成就を阻害する。
ドンは、様々な原因によって、他人との心の交流を妨げられる。彼の言葉は相手に届かない。そしてこれもまた「言葉の断絶」の物語なのだ、と僕は思い込んでしまったのである。

しかし、ラスト近く、左目の痣以外には何の成果もなく虚しく帰宅したドンが、息子だと勝手に思い込んでサンドイッチをおごってやる相手の青年と交わすその言葉を聞いて、僕はやっと自分の勘違いに気付く。ドンは、旅の助言を求められて青年にこう言う。過去でも未来でもなく、現在が一番大切なのだと。
ピンクの封筒が届けられた日、恋人シェリー(ジュリー・デルピー)が家を出て行こうとしているまさにその時に、ドンは彼女に何一つとして言葉をかけてやることが出来なかった。部屋の花瓶にまだ美しく飾られていたピンクのバラにさえ、彼は気付いていなかったのかも知れない。そして、シェリーも今、あの5人の女達(ブロークン・フラワーズ)と同じように「過去」になろうとしている。綺麗に咲いていたバラも、今では枯れ、惨めにしおれた姿を空疎な部屋に晒している。
ドンは、女友達と言葉によって「断絶」しているのではなかった。彼は、彼自身が葬ってしまった、「かつて『現在』だった『過去』」と断絶していたのだ。だから、そこにあるのは「アワー・ミュージック」における「言葉」への不信などではない。ドンという中年男の生き方に対する憐憫が、ただ静かに横たわっているだけである。

作品中ただ一度だけ、ドンが能動的に、しかも全力で行動する場面がある。「幻の息子」を追いかけて、町を走るのだ。その時のアスファルトと靴底のぶつかる音、雨模様の湿った空気の匂い、呆然と立ち尽くす中年男の虚ろな眼差し・・・。
全編を通じて静かでひょうひょうとした空気に包まれていたはずの「ブロークン・フラワーズ」は、突然激しくもがき、ジム・ジャームッシュの作品にしては珍しく、明確で強い事実を観客に突きつけ、そして唐突に終わる。
しかし、だからと言って、この作品の後味が悪いというわけでは決してない。苦いものを美しく仕上げるのもまた、優れた映画監督の力というものである。
時は流れ、花は枯れる。
しかし、そのことが哀しいのではないのだ。
posted by og5 at 14:07| 秋田 ☁| Comment(10) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年07月08日

映画映画している「間宮兄弟」

映画は割とよく観る方だと思うけれど、映画を撮るということについて学んだことなどないし知識もないから、もしかしたらとんでもなく見当外れなことを言ってしまうことになるかも知れないが、ええい言ってしまおう。
「間宮兄弟」は、とても映画映画している。とても絵コンテがしっかりとした映画だという感じがする。これは「大傑作」ではないだろうか。

俯瞰するカメラが、アスファルトの地面に止まる一台の(無人)自転車を捉えている。そこにもう一台がすうっと近づいて来て並び、痩せて背の高い男が降りる。彼が歩いて行く方向には白いフェンスがあり、遠く下方に見える夕景の操車場では、新幹線が、何両も白く長く横たわり、あるいはゆっくり右から左へと移動して行く。小太りの男がフェンスに寄りかかり、ぼんやりとそれを見ている。小太りの男はMDプレイヤーの音楽をイヤホンで聴きながら泣いている。痩せた男が気を引くように変な大股で歩き回ったりするので、小太りの男はその気配にハッとして後ろを振り向く。痩せた男が小太りの男の肩の辺りをポンと叩く。

映画が始まってすぐのこのシーンで、僕はもうジーンと来て泣いていた。これが、後に、失恋した弟(塚地武雅)とそれを探し迎えに来た兄(佐々木蔵之介)の二人がクイズを出し合いながら東京の街を走り抜ける美しいシーンにつながった時には、僕の頭の中には森田芳光監督の出世作「の・ようなもの」の一場面、落語家のタマゴ・志ん魚(伊藤克信)が「しんととしんとと〜」と呟きながら夜の街を歩き続けるあの名シーンが蘇っていた。

演出が(もちろん)しっかりしているということもあるからなのだろうが、ドランクドラゴン塚地の演技がすごく魅力的だった。また、繰り返しのギャグ、兄弟の暮らすマンションの一室をまるでコントの舞台のように四角く切り取って見せる「日常」、意味など多分ないのに気になって気になってしょうがない会話やシーンの数々。きちんと意識的に作り込まれたものが、本当に贅沢に織り込まれ、組み合わせられていた。軽いのに、映画として「濃い」のである。

言い直そう。「大傑作」でなくても構わない。僕はこの映画が大好きである。

※案外これに近い感じかも知れない。
      ↓
キッチンキッチン
吉本ばなな 森田芳光 川原亜矢子

バンダイビジュアル 2002-06-25
売り上げランキング : 23700

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

posted by og5 at 17:22| 秋田 ☔| Comment(0) | TrackBack(1) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「雪に願うこと」は僕にグッドラックと言う

直線200mのばんえい競馬場セパレートコース、その第二障害の坂の半ば、「ハイッ! ハイッ!」と鞭を振るう騎手の声に奮い立ち、崩れ、もつれる砂を両のヒヅメで懸命に掻き、掴み、ふんばり、あるいは「オウッ! オウッ!」と一気に最後の勝負をかけるため、その力を極限まで抑えつけられ、引かれる手綱、ぶるぶるわなわなと震える太い前脚と、そしてぐいと引かれた強い首。
ああ、僕は初めて、馬が立っているのを(それと意識して)見たのだ。馬の前脚、その力こぶを見て、僕は、馬が前脚で立っているということを、やはり初めて知ったのだ。
そして、早朝の訓練場、凍った土の上で熱く湯気を立てる馬糞、左右の鼻穴から強く吹き出される生命の印、逞しい背中から立ち上る熱気と寡黙。
冒頭の雪の平原、帯広の広大な自然を捉えたと同じカメラは、より小さな生命達、馬や人の息吹をも、かけがえのない美しきものとして、僕達の眼となってその網膜に焼き付ける。
僕にとって「雪に願うこと」は、とにかくそんな映画だった。

輓馬「ウンリュウ」は、最後の力を振り絞って、そしてもう一年、後一年の命を手に入れるために重い重いソリを牽く。重いソリを牽き、騎手に鞭を入れられることは、もちろん生き物としての「ウンリュウ」の生にとって必須などであるはずがない。しかし、走りたいのだ。前へ行きたいのだ。いずれ、遅かれ早かれ「馬刺し」になる運命だとしても、ふつふつと湧き上がる闘争心を抑え切ることなど出来ず、そしてアドレナリンを爆発させるあの瞬間に向かって走り出さずにはいられないのだ。そうだ、「命を手にいれるため」などという目的さえ、もはやそこにはない。
一体、必ずいつかは負けると初めから判っているレースに、何故僕達はこんなにもしがみつくのだろう。兄・威夫(佐藤浩市)が弟・学(伊勢谷友介)に吐き出すように言う「俺だって悩んでばっかりだ…」は、レースがいつだって自分自身との闘いだということを僕達に教えてくれる。誰だって、明日は「馬刺し」の運命なのだ。しかし、「長生きするため」などではなく、人は何かに突き動かされて生きて行く。生きて行かざるを得ない。
それが、多分「生きる」ということなのだ。

この映画は、多分特別なことなど何一つ語ってはいない。派手な演出もなければ、殊更感動を煽るような映画的ギミックもない。むしろ、その表現は、極力控え目に控え目にと抑制されている。ばんえい競馬のシーンも、だからこの上なく地味だが、しかし、そこには映画でなければ表現出来ない「力」が漲っている。
そして、この映画は清冽だ。描かれていることといったら「いずれ負けてしまうこと」だというのに、この清々しさは一体何処から来ているのだろう。
厩舎の屋根の上に雪だまを載せる祈りが二度繰り返される。僕は、そこにこそその答えがあるのだと思う。あの儀式によって願い乞われることは、決して「勝てますように」ではない。みんなの看病とそして祈りも虚しく死んでしまった一頭の輓馬がいたが、あの時みんなが祈っていたのは「生きられますように」、すなわち(競馬という意味ではなく)「レースに出続けることが出来ますように」であったはずなのだから。

映画「雪に願うこと」は、このようにして僕達に爽やかな「グッドラック」を送る。
そして、僕の中で今流れているのは、何故か小沢健二の「天使たちのシーン」なのである。

輓馬輓馬
鳴海 章

文藝春秋 2005-11-10
売り上げランキング : 69299

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

dogsdogs
小沢健二

東芝EMI 1997-07-24
売り上げランキング : 57713

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

posted by og5 at 16:16| 秋田 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月17日

安全弁について@〜「嘆きの天使」

僕は規則が好きである。こうあるべきであるという制約は、僕にとって時に枷ではなくて愛しい衣だ。

「嘆きの天使」という映画があって、観るまではタイトルからの連想でロマンティックな映画だとばかり思い込んでいたのが大間違い、踊り子のマレーネ・ディートリッヒへの恋に狂う中年教師の無残な無残な物語であった。そしてその教師が、生徒が持っている踊り子のエロ絵葉書を初めて見咎める運命のその日、授業のために教室に入って来た直後、教卓の上に置いた自分の本が机の辺ときっちり直角になっていないのを神経質に直す場面があって、僕にはそのエピソードがひどくリアルにあの中年教師の性質(性癖)として迫って来たのである。
「そのようなタイプでない人」にはおそらく理解しづらいと思うが、同じような癖を若干なりとも持つ身には妙に生々し過ぎるシーンだった。かの映画の監督あるいは脚本家は、やがて恋に狂う中年男がかろうじてバランスを保っている規則正しい日々のその象徴としてあのようなシーンを用意し、かつあのような性格を彼に与えたのであろうが、それこそが彼の枷であると同時にまた彼を欲望の淵から遠ざける脆い脆い安全弁でもあったのだと思う。

安全弁を抱えたままでは、人は何処へも行くことが出来ない。そもそも、それは何処へも行かないための装置なのだから。しかし、安全弁を抱えた中年教師は、恋に狂い教職も追われたけれど、実は結局最後まで一度だって安全弁を手放すことはなかったのではないだろうか。彼は、狂い、疲れ果て、絶望し、全てを失ったが、前いた場所から一歩だって動いてはいなかった。彼は、失ったのではなくて、最後まで捨てることが出来なかっただけなのだ。

謹厳実直な毎日から絶望の暗黒へ。その距離がほとんどゼロだということは、何と怖ろしいことだろう。
僕が大好きなルールは、僕を救ってくれるだろうか。

嘆きの天使嘆きの天使
マレーネ・ディートリッヒ エミール・ヤニングス ローザ・ヴァレッティ

アイ・ヴィー・シー 2001-08-25
売り上げランキング : 69810

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

posted by og5 at 19:38| 秋田 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月05日

「寝ずの番」で「ステップ!ステップ!ステップ!」

寝ずの番寝ずの番
中島 らも

角川書店 2006-02
売り上げランキング : 47859

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

50歳になる直前に「ステップ!ステップ!ステップ!」を観て、直後に「寝ずの番」を観た。いい感じだ。

「ステップ!ステップ!ステップ!」は、ニューヨークの公立学校で取り入れられているソーシャル・ダンスのプログラムに生き生きと取り組み、時には挫折する子供達の姿を追った瑞々しいドキュメンタリーである。テレビの「ゴリエ杯」など観てウンザリしていた僕は、この実に爽やかで真っ当な、子供への愛に満ちた(あるいは子供へのそれなりの愛をちゃんと持った人々を描いた)映画を観て本当に幸せな気持ちになったのだ。
敗れた生徒達に「あなた達を誇りに思う」と声を詰まらせる教師の気持ちと子供達の現実が胸に迫る。「ゴリエ杯」とは根本的に違うものがそこにはある。いや、違って当然なのだけど、僕には、何故だか「ゴリエ杯」の子供達は、みんな北の天才少年・少女のように見えたのだ。僕には、「ゴリエ」(あるいは何人かのインストラクター達)と「将軍様」の違いがよく判らなかった……。

さて、毒を吐くのはこれくらいにして。

「寝ずの番」がすごくよかった。
中島らもの原作をマキノ雅彦(津川雅彦)が監督したR−15映画で、何故R−15なのかというと、死体と踊るわ、(関西が舞台なので実際は三文字なのだが)四文字言葉は飛び交うわで、とても金曜ロードショーなんかでは放映出来そうもないシロモノだからなのである。
落語家の話である。しかし、映画のほとんど全編は葬式あるいはお通夜の場面で占められており、そこに故人を偲ぶ思い出話などが挿入される。
「死人」は全部で三人。まずは上方落語界の大御所・笑満亭橋鶴(長門裕之)。「ソトが見たい」と言ったのに「ソソ」を見せられた挙句、死んでからも落語の「らくだ」よろしく弟子達に肩を抱えられてカンカン踊りを踊らされる。途中、どう見ても(死んでいるはずの)師匠自らステップを踏んでいるのが最高に可笑しい。
二人目は惣領弟子の橋次(笹野高史)、三人目が橋鶴の妻・志津子(富司純子)と何故か次々と人死にが出る一門なのであるが、売れっ子芸妓だった志津子を巡ってかつて橋鶴とは恋敵だった元鉄工所社長(堺正章)と橋鶴の弟子・橋太(中井貴一)の、三味線を弾きながらの歌合戦から全員入り乱れての大合唱へとなだれ込むラストが圧巻であった(殆どエロエロの替え歌大会なんだけど)。
僕は大いに泣いて、そして笑っていた。とはいえ、ここにはペーソスなどない。艶笑歌を歌いながら全員で(死んだ者までいつの間にか紛れ込んで)グルグルと周り踊るシーンなど、まるでフェリーニの「81/2」である。

♪俺の心は トタンの屋根よ カワラないのを 見て欲しい♪

という歌が心に染みる。

そうだ、しばらく忘れていたけれど「人生は祭り」なのだ。

※これまた美しい映画なのです!
      ↓
緋牡丹博徒 花札勝負緋牡丹博徒 花札勝負
藤純子 加藤泰 若山富三郎

東映 2003-05-21
売り上げランキング : 12154

Amazonで詳しく見る
by G-Tools
posted by og5 at 22:22| 秋田 🌁| Comment(2) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月28日

僕は「ご立派な愛」が嫌い

今日、デヴィッド・クローネンバーグの「ヒストリー・オブ・バイオレンス」を観て来たのである。そして、別に思い出さなくてもいいのに、先週観たフェルナンド・メイレレス監督の「ナイロビの蜂」を思い出し、改めて昨日見た新聞の同映画大ヒット上映中の広告に対する違和感が甦ってしまったのである。

辰巳琢郎「今日私が死ぬとしたら迷うことなく生涯ベスト1。」、おすぎ「愛の深さに胸を打たれました。」、林海象「奇跡とよべる映画の1本。」、大高博幸「エンタテインメントの枠を超えた強烈な問題作。」、デーブ・スペクター「知的で抑制の効いた大人の映画。」、吉田ルイ子「限りなく癒される広大なロマン。」、浜村淳「崇高な人間ドラマがいま、地球をかけめぐる。」……。

しかし、ジョン・ル・カレの原作を、大傑作「シティ・オブ・ゴッド」のメイレレスが監督した「ナイロビの蜂」を観た僕の感想は、残念ながら「ご立派過ぎて近づけない」であった。
確かに、音楽を効果的に使ったスピーディな場面転換やハンディ・カメラ(?)による臨場感溢れる現地の人々の雑然たる生活の切り取り方、そしてケケケと鳴きながら逃げ惑うニワトリを追う冷徹なカメラなど、いかにもこの監督らしい表現はあったと思うのだが、しかし、やはりどうしても僕にはみんなが絶賛するあのテッサという女性が好きになれなかったのである。

正直に言えば、テッサは迷惑な女である。激情型で立場をわきまえない。不正を見過ごすことの出来ない正義感に溢れた人物なのかも知れないが、ただ単に我儘なだけなような気もする。僕は直感的に「追憶」のバーブラ・ストライザンドを連想したが、あのケイティという女性にはまだ苦悩する人間らしさがあった(というか、そういうところもきっちりと描かれていた)。
アフリカで何が行われていようと、僕ならまず自分の生活・安全が第一だ。まして、自分の行動により愛する家族が危機に陥ることが明らかなのだとしたら、もはや考慮の余地さえない。それを卑怯と言われるなら、甘んじて受け入れるしかないのだが……。

新聞広告に話を戻せば、僕には、「愛は、強く、ひるまず、過酷な結末をも受け入れる。人々はそれを愛の勝利というが…。」という丸山和也弁護士の感想だけが唯一まともに思えた。
僕は、「ナイロビの蜂」で描かれているものが「愛」だとも実は思っていないのだけれど、少なくとも丸山弁護士には他の人達には見られない「戸惑い」があるように思えるのだ。

別にあれを「愛」だと言って感動してもいいのだし、また「ヒストリー・オブ・バイオレンス」とわざわざ(全然関係ないのに)比較しなくたっていいのだが、今日、決して「ご立派」ではないが真摯で実に人間臭い「愛」を強く感じたので、何かひと言「ご立派」側に言いたくなってしまったのである。
(「ヒストリー・オブ・バイオレンス」は、6月9日まで、秋田FORUSシネマパレで上映中)

※こちらは文句なしに素晴らしい!
      ↓

シティ・オブ・ゴッド DTSスペシャルエディション (初回限定2枚組)シティ・オブ・ゴッド DTSスペシャルエディション (初回限定2枚組)
アレッシャンドレ・ロドリゲス フェルナンド・メイレレス カチア・ルンジ

アスミック 2003-12-21
売り上げランキング : 6599

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

posted by og5 at 19:33| 秋田 ☁| Comment(0) | TrackBack(1) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月15日

ガトリフは、多分音楽として映画を作っている

ベンゴベンゴ
アントニオ・カナーレス トマティート ラ・パケーラ・デ・ヘレス

日活 2002-03-22
売り上げランキング : 18,360

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

僕は「テーマ」に重きを置いて映画を観ることを極力避けようとしている。どんなに深刻で重要な事柄に突き動かされて作られた映画であろうと、映画として力がなければ問題外だと思う。逆に、何一つ大事なことなど言っていなくても、いい映画はいい映画としてちゃんと成り立つものなのだ。そういうことを信じている。
僕が困るのはそのどちらとも言い難い映画の場合である。そう、例えばトニー・ガトリフの作品のように。

僕は、「愛より強い旅」のラストシーンを信じない。あんなことは自己開発セミナーでもよく起こることだと思う。ある非日常的な経験を通して本当の自分を見つけたような気がする。中にはそれで本当に変わることの出来る人もいるだろう。しかし、多くの場合においては時の流れと共にまたいつもの自分に戻ってしまう。それが普通である。
僕はまた、「ガッジョ・ディーロ」のラストシーンを信じない。第一、あの(母親から仕送りをして貰っている)男が、何故自らの存在(今まで生きて来た歴史)を捨ててまでロマにこだわらねばならないのかが理解出来ない。映画だから説明はなくても構わない。しかし、納得はさせて欲しいと思うのだ。反ロマは最初から「悪」なのか。ならば僕にはあの映画を観る意味はない。決して理解し合うことの出来ない平行線を描こうとしているのか。それにしては思い入れはどうもロマ側に偏っているようだ。ただ一つ確かに言えるとすれば、僕にはロマニーと一緒に暮らすことなど到底出来ないということだ。

しかし、僕は「僕のスウィング」のラストシーンを信じる。あそこにあるのは本当に本当のことで、それ以下でもまたそれ以上でもない。彼等はすれ違い、多分もう二度と会うことなどないのかも知れないが、それは決して不幸ではない。マックスはスウィングを(二つの意味で)結局は理解出来なかったのであり、それはしょうがないことなのだ。
僕はまた、「ベンゴ」のラストシーンを信じる。全編を通して語られるあの映画における相互理解の不全は感動的ですらある。そこにあるのは「孤独」だ。そして、それがやり場のない「情熱」と共にある時、僕達はそのあまりに深い闇に呆然とする。この映画においても物語それ自体はごく断片的にしか語られない。それぞれのエピソードは思わせぶりに途切れ、決して僕達にその全貌を見せようとはしない。しかし、僕はそれでも少しもためらわずカコの物語に入って行くことが出来る。それは、「ベンゴ」においてトニー・ガトリフ監督が誰をも善と悪とに分かつことがないからである。

これ等は全て「テーマ」に特化して僕が今回観たトニー・ガトリフ四作品に関して感じたことである。では、「テーマ」としてではなく「映画」としてはどうか。
トニー・ガトリフ監督のアーカイブ特集を観て僕が何よりも強く感じたのは、これは音楽によって映画を構築しようとする試みなのではないかということである。
そもそも、映画と音楽は常に密接に関わり合って来た。サイレント映画からトーキー映画に移行してからはもちろんのこと、サイレントの時代においてすら(上映に際し会場内で映像とは別に音楽を流すという形ではあるけれど)いつでも音楽は映画に寄り添って来た。また、映画にはミュージカル映画というジャンルもあるし、ある音楽家(ミュージシャン)の人生や演奏会(あるいは野外コンサート等のイベント)そのものを記録するドキュメンタリーという形式も確立しており、そういう意味における「音楽映画」ならば今までにも数限りなくあったわけである。
では、それら既存の「音楽映画」とガトリフ映画は何処が違うのか。
単純に言ってしまえば、ガトリフ映画は映画自体が音楽なのだ。そして僕はそれを「ベンゴ」に特に強く感じるのである。

僕は「テーマ」に違和感を覚えながらも、「映画」としてのトニー・ガトリフ作品に抗えない。しかも「テーマ」に限っても、僕は「愛より強い旅」が、そして「ガッジョ・ディーロ」が大嫌いなのに、また同時に大好きでもある。僕は、こんな変わった映画を無知故かあまり他に知らない(肌合いとしては、あえて言えば北野武映画に似ていると言えなくもない)。
僕は困っている。トニー・ガトリフを好きか嫌いかと問われれば、僕は間違いなく「好き」と答えるしかないのである。

ベンゴベンゴ
サントラ トマティート レメディオス・シルバ・ピサ

ワーナーミュージック・ジャパン 2001-04-11
売り上げランキング : 24,983

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

posted by og5 at 21:31| Comment(3) | TrackBack(2) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月12日

さよなら、スウィング

もっと速く、いや速過ぎる
もっと速く、まだ速過ぎる

壁の割れ目に唾を飛ばして
スプリンクラーにお尻をスウィング
ジャンクギターと君と一緒に
川にはまってゲラゲラスウィング
君が囁く僕のアサガオ
舟に浮かべて波間でキッス

もっと速く、いや速過ぎる
もっと速く、まだ速過ぎる

耳を近づけ大きなアサガオ
ギターを弾けば列車もスウィング
あの世に行ってもリズム刻んで
ステージの上で指先スウィング
花とギターと寝ぐらも一緒に
メラメラ燃えて煙とダンス

さよならスウィング、いや早過ぎる
ゲラゲラスウィング、まだ早過ぎる
さよならスウィング、僕のスウィング
まだ早過ぎる
スウィング スウィング

※「僕のスウィング」に感激して(「トニー・ガトリフ特集」、秋田市シアタープレイタウンにて5/14まで)。
      ↓
僕のスウィング僕のスウィング
チャボロ・シュミット トニー・ガトリフ マンディーノ・ラインハルト

日活 2003-09-26
売り上げランキング : 20,219

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

posted by og5 at 23:39| 秋田 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年04月29日

センチメンタルな彼は「シャワー」を朗読しながら泣いた

詩人と女たち詩人と女たち
チャールズ ブコウスキー Charles Bukowski 中川 五郎

河出書房新社 1996-10
売り上げランキング : 29,302

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

「ブコウスキー:オールドパンク」を観た。
ブコウスキーのことなどまだ少ししか知らないくせにおこがましいとは思うが、僕はこの映画の前半を観ている最中、何だ結局みんなでブコウスキーを褒めてばかりで終わってしまうのか、と思っていた。というのも、実際このドキュメンタリー作品に出て来てブコウスキーのことを語る人達は、妻も元恋人も昔からの友人も自称友人もファンも変なヤク中みたいな男も、誰一人として彼のことを悪く言わないからで、つまり、彼は「オールド・パンク」なのに、初めから認知されている存在として僕達の前に現れるわけである。だから正直に言うと、本人の語りや朗読の会の様子などに興味を惹かれつつも、僕は途中でかなり眠くなっていた。

しかし、ひどいアクネのため高校の卒業パーティにも出られず、記念アルバムの写真さえ他の生徒達と一緒に撮影されるのを拒んだ(しかしアルバムに彼の写真を載せないわけにもいかなかった学校側の「配慮」により、彼の写真だけ綺麗に修整されている)といった「くそったれ!少年時代」でもお馴染みの惨めなエピソードが実写とインタビューによる証言で再現されるあたりから、僕はどんどんこの映画に対する愛情を深めて行った。
そうだ、僕は別にブコウスキーの酔いどれ振りや女性に対する下品な振る舞いや絵に描いたような陳腐な社会からのはみ出し振りが観たかった訳ではないのだ。
パンクといえばすさんでいればいいのか、荒くれていなければならないのか、乱暴で非礼で非常識で薄情で洗練されていなくて誰とも仲良くなれなくて、不幸で悲惨な生き方をした挙句不幸で悲惨な死に方をしなければならないのか。いや、確かに彼ははみ出している。色んなものから。色んな所から。しかし、彼の言動から受ける印象は、一言で言えば「ナイーブ」だ。

全編を通して僕に最も印象的だったのは、彼ブコウスキーがいくつかの局面で度々「驚いて」いることである。彼は実に素直に驚く。それは女に何かを言われた時だったりボノにステージから声を掛けられた時だったりシチュエーションは様々だが、その「驚く」という馬鹿馬鹿しいくらいシンプルな反応を彼が示すということに僕は何故だか強く「驚いた」のだ。
では、彼が素直に驚ける人間であるということは一体どういうことか。それは、彼が瑞々しい感性を持った知的な人間であるということだと僕は思う。彼は知的だ。それは「パンク」と矛盾するか。いや、矛盾などしない。彼は知的に「既成の形式に囚われないという意味において」パンクなのだ。
考えてみれば、「くそったれ!少年時代」もその語り口調は実にジェントルだった。出て来る言葉は四文字言葉だらけのくせに、決してとげとげしてはいなかった。

父親に革砥でぶたれた幼い頃の記憶を、かつて住んだ家の正にその現場で語る彼は何を思っていただろうか。父親が自分を詩人にしたのだと語っていたが、それをそのまま受け取ってしまうのも違うような気がする。妻リンダが彼の死に立ち会った際の、息を引き取る瞬間の彼の変化が、全てを物語っていると思うのは考え過ぎだろうか。彼はやはり、周りの環境も全て含めて「このように生まれて来てしまった」ことと一生闘っていたのだと思う。知的に、ジェントルに、素直に、喘ぎ、あがいていたのである。
それにしても、ブコウスキーにせよサローヤンにせよ、詩人は何故郵便局に勤めるのか。ブコウスキーが故郷をドイツに持ち、サローヤンがアルメニアに心を置き去りにしたままでアメリカに生きたことは、全く別のことだとは思うが僕には非常に興味深い。
二人とも、僕の大好きな作家であり詩人である。

※「ブコウスキー:オールドパンク」〜5月5日まで、FORUS秋田8階シネマパレで上映中。
posted by og5 at 22:27| 秋田 ☁| Comment(2) | TrackBack(1) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月12日

第3の呪い〜「インサイド・ディープ・スロート」

ドキュメンタリー映画「インサイド・ディープ・スロート」を大変興味深く観た。映像のつなぎ方や音楽がかっこよく、当時の空気感もとてもスタイリッシュだった。
リアルタイムではただ漠然としてしか捉えていなかった「ディープ・スロート」という一ポルノ作品が、何故これ程のスキャンダルを惹き起こし、また社会やカルチャー、そして人の意識に様々な影響を与えることになったのかを初めて知った。黒人の公民権運動が思ったより昔のことではなかったということにショックを受けた時と同じように、僕にはこれ等の騒動が70年代のアメリカで起こったことなのだということが驚きだった。

「ディープ・スロート」は、「パンドラの箱」を三つ開けた。一つ目は(アメリカ)社会にとっての、二つ目はリンダ・ラヴレイスやハリー・リームズ等出演者達とジェラルド・ダミアーノ監督を初めとする制作スタッフ及びその関係者達にとっての、そしてもう一つ最後がこの映画を観た観客達にとっての「パンドラの箱」である。
最初の二つがごくスタンダードな意味における「パンドラの箱」であるのに対し、最後の一つはかなり性格を異にしている。もちろん、この3個の箱は微妙に重なり合い、ある時は同じ一つの黒い口を開けていたり、またある時は一つの口から湧き出たカオスがそのまま隣りの口に吸い込まれて行ったりもするわけだが、観客達の箱だけは、常に彼等の完全なるコントロール下におかれている。つまり、開け閉めが自由なのである。

人間は、生まれて、食べて、排泄して、子孫を残して、そして死ぬ。この逃れることの出来ない運命の中にはタブーがある。それは、明け透けに言ってしまえば、「汚いことは誰かにやらせておけばいい」であり、戦争や死刑執行なども当然この中に含まれるだろう。これ等「汚い仕事」を誰かに任せ、彼等を「汚れた者」として意識の、そして社会の外へ追いやることで、僕達は自分の中の「動物」を無きものとして生きている。
「ディープ・スロート」の観客達は、映画によって開けられた「パンドラの箱」の蓋を閉めて、また彼等の日常生活に戻って行く。時々は、また開けてみようと思うこともあるかも知れない。だが、彼等自らがリンダ・ラヴレイスやハリー・リームズになるという可能性は、まず最初の段階で完全に否定されている。そして、その欺瞞は、多分どうしようもなく健康なことなのだ。

「インサイド・ディープ・スロート」は、文句無くカッコイイ映画である。70年代がそうであったように、ある種の高揚感を観る者に与える。しかし、同時に苦い塊りをその裡に置き去りにして行く。僕の裡にもある、このどうにも扱いに困る苦い石は、奇妙なことにやはり70年代に僕が置き去りにして来たものによく似ている。人は、矛盾なしでは生きられない。
映画のラストで、ジェラルド・ダミアーノ監督の娘が火のダンスを踊る。あの突拍子のなさと炎が眼に焼きついて離れない。
「ディープ・スロート」は、おそらく永遠に生き続ける「呪い」の映画である。

※「インサイド・ディープ・スロート」公式サイト
posted by og5 at 16:14| 秋田 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月27日

美しき公式〜「博士の愛した数式」

博士の愛した数式博士の愛した数式
小川 洋子

新潮社 2005-11-26
売り上げランキング :

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

深津絵里演ずる家政婦が新たに任されることになったのは、80分間しか記憶を保つことが出来ない数学博士(寺尾聰)が住む大きな屋敷の離れ。博士の義姉(浅丘ルリ子)は、午前11時から午後7時まで博士の面倒をみること、離れの揉め事は一切母屋には持ち込まないことという条件を彼女に告げる。優れた数学者であった博士が今のような状態になったのは、能を観に行った際の交通事故が原因で、義姉もその事故のせいで右脚に障害を負っていた。博士と家政婦のそれからの毎日は、ある中学の新任数学教師(吉岡秀隆)が生徒達に自己紹介をするという形で語られて行く。彼は家政婦の息子で、当時十歳の彼は博士から「√(ルート)」という名で呼ばれていた・・・。

山田詠美の小説のタイトルを借りて言うならば「僕は数学ができない」のだが、映画「博士の愛した数式」は、そんな僕でさえ愛さずにはいられない愛しい数字であふれている。
友愛数、素数、完全数、虚数、階乗、そしてオイラーの公式。
博士は全ての事柄を数に結び付けて話す。だが、それは決して無味乾燥なものにはならず、深津絵里や「√(ルート)」を幸せな気持ちにさせる。いや、彼等だけではなく、僕もずっとワクワクしながら彼の、そして吉岡秀隆の話を聞いていた。どちらかといえば地味で静かな映画であるが、しかし僕はとにかく最後まで一瞬たりとも退屈することなどなくこの映画を観ていた。「博士の愛した数式」は、とてもユニークな娯楽映画でもあった。

この作品には、「eのπi乗+1=0」という公式(オイラーの公式)が出て来る。そしてこれこそが、本作品の「公式」であると僕は思う。「e」と「π」は共に小数点以下が無限大になる数。「i」は「ルートマイナス1」など本来存在し得ない数を表す「Imaginary Number」と呼ばれる「虚数」のことだそうである。
かつて博士が義姉に宛てた手紙には、自分達はいつまでも「eのπi乗=-1」なのだ(もしくは、でなければならないのだ)としたためられていたはずだ。しかし、ラスト近く、浅丘ルリ子が深津絵里母子にもう博士には近付かないでくれと詰め寄った際、彼は義姉にそっと「eのπi乗+1=0」と書かれたメモを滑らせるのである。

吉岡秀隆が彼の最初の授業を終え教室の窓から外に目をやると、その海岸の波打ち際では父と子がキャッチボールをしている。彼は夢想する。その想像の中では、キャッチボールをしているのは博士と彼で、そばでは母と博士の義姉が静かにそれを見守っている。
あれこそが「eのπi乗+1=0」であり、「0(無)」とはすなわち「完全」を意味しているのではないのか、と僕は思う。何故なら、明らかに彼等だけでは決して答えを導き出すことの出来ない「e」あるいは「π」とは博士と義姉のことであり、(多分)「i」は「√(子供)」のことだからである。そしてもちろん、最後に全てをあるべき答えに導く「1」とは、靴のサイズ「24」の深津絵里であろう(毎日の初対面のその度毎に、博士は彼女に靴のサイズを尋ね、そしてそれが「24」だと知ると、実に潔い数字だと言っては実に嬉しそうに目を細めるのだ)。

この公式は(優れた証明のように)美しい。
そして、クラスの誰かが授業の最後に「√(ルート)」に言った「ありがとう」は、そのまま僕の気持ちでもあったのである。

※秋田FORUSシネマパレで上映中。みなさん、是非観て下さい(ロード・オブ・ドッグタウン」もね!)。
posted by og5 at 20:55| 秋田 ☁| Comment(0) | TrackBack(1) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月25日

素直に素晴らしかった「歓びを歌にのせて」

「歓びを歌にのせて」オリジナル・サウンド・トラック「歓びを歌にのせて」オリジナル・サウンド・トラック
サントラ ヘレン・ヒョホルム レイラ・イルバー・ノルゲン

エイベックス イオ 2005-12-07
売り上げランキング :

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

映画を観ながら何度も大声で叫びたくなった。やはり歌、特にコーラスには力がある。しかしこの映画は、そんな力に多くを頼っているわけでは決してない。
元世界的指揮者ダニエルと、彼が教えることになった田舎の聖歌隊を中心に物語は進んで行くが、その語り口調はとても丁寧で抑制が効いている。正直に白状すれば、鼻血をダラダラと流しながらオーケストラを指揮するダニエルの脳裏をよぎる、まだ幼い彼が一人黄金に輝く畑の中でバイオリンを弾いているシーンから、15歳のソリスト・コンテストの日に母が花束を手に二階の窓際にいる彼に満面の笑みを浮かべて手を振るシーンまでの描き方だけで、僕はもうすっかりこの監督を信頼してしまっていたのだ。

登場人物も実に魅力的である。
何といっても聖歌隊の女性達が素晴らしい。
雑貨屋で働く太陽のような笑顔を持つレナ。最後の最後に彼女はダニエルと愛を確かめ合うけれど、実は最初の出会いから二人は惹かれ合っていたのではないかと僕は思う。だって、彼女の笑顔はダニエルの母親にそっくりではないか。あの笑顔は、何もかも全てを受け入れる絶対的な笑顔である、そんな気がするのである。
また、抑圧的な牧師の妻であるインゲは、聖歌隊でのトレーニングを経て、まるでロシアの大地にいきなり春が訪れるように(「ベルリン・フィルと子どもたち」)解放されていくが、実はマグマのような情熱をその裡にずっと前から秘めていたのであり、歌うことによってそれが(はじけるように)一つひとつ解放されて行く様は最高にチャーミングである。
そして、夫の暴力に堪えながらそれでも歌うことをあきらめずについには自らの誇りを取り戻すガブリエラ。劇中のコンサートで歌われるこの映画の主題歌も彼女が歌っており、あのシーンの素晴らしさも間違いなくこの映画のハイライトの一つであったと思う。

さて、聖歌隊は最後、コーラス・コンテストに出場するために音楽の都オーストリアに向かう。かつての友人達と再会を喜び合うダニエル。その華やかな様を見て自らに引け目を感じその場から立ち去るレナ。そして・・・。
後は実際にこの映画を観た方がいいだろうと思う。
あの、大会場がコーラスに包まれる瞬間を、僕は是非たくさんの人に体験して貰いたいと思うのだ。

※「歓びを歌にのせて」は、3月5日(日)まで、秋田市有楽町のシアタープレイタウンで上映中(というか、金土日しか上映しないので、とにかく是非今すぐ映画館に走って下さい)。
posted by og5 at 17:42| 秋田 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月22日

「カメラ=万年筆≠言葉」

「アワーミュージック」の「アワー」にはどうやら自分は含まれていないようだとこの映画を観た直後に書いた。
ところが、正直に言うと、僕はこの映画のことをあれ以来しょっちゅう考えているのだ。考えて、そしてその度に少し驚いている。僕は何か大きなインチキに引っかかっている、そんな気がしてしょうがないのである(僕がここでインチキと呼んでいるものは、おそらくこの映画に対する世間の評価である)。
自分には荷が勝ち過ぎるものにでも何らかの意味づけをしないではいられない、それこそが僕の俗物根性の顕われではないのかとも思う。しかし、気になるものは(しょうがない)、やはり気になるのだから。

とにかく、最近考えていることを羅列してみよう。
まず、映画自体に意識的に付けられた音楽を除けば、あの映画で最も音楽的だと僕が思うのは「地獄編」であるということ。
音楽的であると同時に最も美しいとも思う。そして嘘がない。ここにあるのは、信じ難いが「調和」である。
逆に、「煉獄編」にあるのは断絶である。
ここで言われていることは、一貫して「言葉は通じない」ということだ。
言葉の集積である本は廃棄される。会話はすれ違う。そして、女子学生オルガは誤解によって殺される。
その知らせを自宅の庭で聞くゴダールは、必要以上に電話のコードをズルズルと長く引きずって歩く。線で繋がっていることが、反対に断絶を際立たせる。彼等は繋がっているが、全く別の場所にいて、別のことを考えている。
庭の花の手入れとオルガの死と、どちらが重いのか果たして一体誰に言えるだろうか。

そして「天国編」には、調和もなければ断絶もない。それどころか、あそこには多分何もないのだとさえ言えるかも知れない。
望遠鏡で遠くを見る少年。ライブハウスの受付係のようにオルガの腕に見えないスタンプを押す水兵。ボール遊びに興じる水着姿の若い男女。オルガに食べかけのリンゴを差し出す男(一度目は拒否され二度目に受け入れられる)。そして、おそらく何も書かれてはいない本を静かに読む青年・・・。
あるものは具象的で、またあるものは抽象的であるあの世界は一体何か。
彼等は一様に何ものかを認証する行為を行っている。そして、そこには何かが完全に欠落している。
それは、「言葉」だ。
前章において、いたる場面ですれ違い、そして廃棄されるべき対象として描かれていた「言葉」は、ここでついにその存在すら失う。
だが、果たして「言葉」さえなければ、僕達は全き相互理解を手に入れることが出来るのだろうか。そして、それは「天国」なのだろうか。

僕は、「言葉」が、あるいはこの映画において「言葉」というものに結び付けられて語られている人間同士の誤解やすれ違いやあらゆるよくないことがなくなってしまったら、この世には「音楽」など存在しなくなるだろうと思っている。そして、ゴダール自身がどのような「音楽」を求めているのか、この映画を観ただけでは僕にはついに感じることが出来なかった(想像は出来る。だが、皮肉なことに、ゴダール自身の「言葉」も我々にはなかなか届かない。彼は、まるで「カメラ=万年筆≠言葉」の実験をしているみたいだ)。
だから、僕は勝手に自分でこう思うしかない。
調子っぱずれだろうが何だろうが知ったことではない。サラエヴォもユダヤ人も関係ない。僕達は好むと好まざるとに関わらず「煉獄」の中で自分達の「音楽」を紡ぎ出すしかないのである、と。
かくして、僕の中では今、ほんの微かながら「アワーミュージック」が流れ始めている。
「アワー」の意味は相変わらず判らないままであるにしても。

CAMERA EGAL STYLOCAMERA EGAL STYLO
ムーンライダーズ

日本クラウン 1995-11-01
売り上げランキング : 15,035

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

posted by og5 at 23:03| 秋田 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月13日

微妙な「THE 有頂天ホテル」

「THE 有頂天ホテル」は、ひとことで言うと「全然面白くなかったということもない映画」であった。
面白かったかと訊かれれば面白くなかったような気もするし、面白くなかったかと訊ねられれば面白かったような気もするのである。

とにかく、リズムの悪い映画だなと思って観ていた。
各エピソードがぎくしゃくと非連続的に連続し、妙に芝居がかった演出と台詞がそれに輪をかける。
先月、WOWOWで「12人の優しい日本人」を観た時には江口洋介のしゃべり方がどうしても古畑任三郎にしか聞こえなくて困ってしまったが、この映画では役所広司の台詞はほとんど「王様のレストラン」の松本幸四郎であったし、川平慈英は一人「オケピ!」の舞台に立っているようにさえ見えた。
笑うべきポイント(であると思われるポイント)で、僕は常に「自分はここで笑ってしまって本当ににいいのだろうか?」と考えていた。

死にたがる演歌歌手「徳川膳武」役の西田敏行が出て来るまでの僕のこの映画に対する評価は、「ぜ〜んぜん駄目!」だった。
だが、何故なのか、その理由は判らないが、西田敏行が現れてから映画は一変する。
突然テンポがよくなり、それまでバラバラだった話の筋が大きなうねりになった。
西田敏行の話し方は、他の役者達とは違っていた。
舞台っぽくない。
それなのに全体が、あっと言う間にビシッと締まったのだ(役の上では彼の首が絞まるのだが)。
多分、西田敏行を見るためだけでも(そして彼のお尻を見るためだけでも)、この映画は観る価値がある。
三谷幸喜はそれでは嬉しくないだろうし、それにしても僕の感想はやはり相変わらず「面白いのか面白くないのかよく判らなかった」なのではあるが。

※佐藤浩市はどういうわけだか渡哲也に似て来たような気がする(あと、角野卓造はカンニング竹山に、松たか子はやっぱりホンコンにその頬骨から口元にかけてがそっくりであった)。
「好きな」三谷幸喜の映画はこの2本。
      ↓
ラヂオの時間 スタンダード・エディションラヂオの時間 スタンダード・エディション
唐沢寿明 三谷幸喜 鈴木京香

東宝 2005-12-23
売り上げランキング :

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

12人の優しい日本人12人の優しい日本人
塩見三省 豊川悦司 中原俊

ジェネオン エンタテインメント 2000-10-25
売り上げランキング : 7,450

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

posted by og5 at 22:27| Comment(4) | TrackBack(1) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月05日

「アワーミュージック」は聴こえたか?

映画でも小説でも音楽でも、それらを受け止める時の僕の心の中には、いつでも相反する二つの気分がある。
それは、ごくあからさまに言ってしまえば、「大衆的に過ぎるのもイヤだけど、インテリぶってるのもごめんだ」である。

作り手は、彼(彼女)の作品を受け取るであろう人々に、どこまで予備知識や教養やセンスを求めるのであろうか。
それは資格か。
では、彼(彼女)の作品は人を選別するのだ。
もしそうだとしたら、なんといけ好かない話だろう。
だからといって、選別に結びつく要素を一切排除し、「あらゆる角度から見て同じように等しく程度の低いバカ」だけのために作品を作らなければならないとしたら、それもまたキツイ話だと思うのではあるが。

僕は、いつも「ポップ」について考える。
「バカ」でも「選民」でも楽しめる「ポップ」について。

心情的には、僕はいくらか「バカ」寄りである。
俗物にはなりたくないのである。
例えば、僕は映画を観る時、出来るだけ予備知識を持たない状態で映画館に行きたいと思う。
パンフレットを買った時も、自分の中でその作品に対する自分なりの気持ちがきちんと出来上がるまでは中身を読みたいとは思わない。
今まで50年近くも生きて来ているので、幸か不幸か完全な「バカ」にはなれないが、それでも出来るだけ白紙に近い場所からスタートしたいとは思っているのだ。
しかし、否応なしに経験は積み重なる。
そうして僕は少しずつ、何に対しても白紙からはほど遠い場所からしか第一歩を踏み出せなくなって行く。
でも、それはしょうがないことだ。

そして、僕はまた「ポップ」について考える。
「バカ」でも「ちょっと知恵のついた元バカ」でも、たっぷり楽しめる「ポップ」について。

「理論」があって、「テクニック」があって、そして「効果」がある。
僕の理想とする「ポップ」には、その全てが備わっている。
もし素晴らしい「理論」があっても、エモーショナルなものを何一つ生み出せないとしたら、その「理論」は立派なくずであろう。
それならば、「理論」など何もないが、熱くて、とにかく相手にエモーショナルな何かが伝わる、そんな「バカ」の方がよっぽどいい。
それは僕が理想とする「ポップ」からはやはり程遠いが、でも少なくとも愛嬌はある。

さて、ゴダールの「アワーミュージック」は、僕の「ポップ」ではなかった。
僕はどうやら、この映画のいう「アワー(我々)」には含まれていないようだ。
ということは、彼等のミュージックと僕のミュージックが違うということで、それが往々にしてこの世に「地獄」を作り出す元になるのだということを、彼等は多分知らないのだろう。

20代の頃に観た「勝手にしやがれ」は「バカ」にも充分に楽しめたのに、「アワーミュージック」に僕は、「相手に伝える気もないメッセージを一方的に言い放つだけの学生の作った映画」しか感じることが出来なかった。
相手に判りやすく「話す」ことは決して恥ずかしいことではないし、「前衛」や「表現方法の追求」と矛盾することでも決してあるまいと思うのだが、ゴダールの頭の中には多分そんなことを考える回路さえないのであろう。
75歳を過ぎてそのようであるということは、ある意味驚くべきことで、また素晴らしいことでもあるとは思う。
隠喩とコラージュと切り返し。
それは一体何のために存在するのだろうと、僕はただ首を傾げるしかない。
何故といって、僕にはゴダールのいう「私達の音楽」が何なのか、ちっとも判らなかったからである。

※また観たくなってしまったが、今観ると退屈なのだろうか。
          ↓
勝手にしやがれ勝手にしやがれ
ジャン・ポール・ベルモンド ジーン・セバーグ ダニエル・ブーランジェ

アミューズソフトエンタテインメント 1999-05-27
売り上げランキング : 11,813

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

posted by og5 at 22:13| 秋田 ☁| Comment(2) | TrackBack(2) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月04日

私的な、極々私的な

一応、去年一年間の映画ベストスリーなど書いてみようと思う。

まずは、観た映画で思い出せるものを全て羅列する。
青文字が今でも面白かったと思えるもので、赤文字がその中でも特に好きなものである。

ネバーランド/父、帰る/モーターサイクル・ダイアリーズ/ベルリン・フィルと子供たち/ニュースの天才/アイ・アム・デビット/ビハインド・ザ・サン/トニー滝谷ベルヴィル・ランデブー真夜中の弥次さん喜多さんミリオン・ダラー・ベイビー/タッチ・オブ・スパイス/パッチギ!逆境ナインコーヒー&シガレッツ姑獲鳥の夏/バッド・エデュケーション/タナカヒロシのすべて/コーラス/愛の神、エロス/海を飛ぶ夢/さよなら、さよならハリウッド/ランド・オブ・ザ・デッド/妖怪大戦争/リンダ・リンダ・リンダイン・ザ・プールメゾン・ド・ヒミコ亀も空を飛ぶ/チャーリーとチョコレート工場/チーム・アメリカ:ワールド・ポリス七人の弔さよならCOLORALWAYS 三丁目の夕日運命じゃない人エイリアンVSヴァネッサ・パラディ/輝ける青春/埋もれ木/ヴィタール・・・。

これ以外にも、観たのを忘れてしまった映画も何本かあるとは思う。
しかし、ということは、少なくとも今現在は自分としてどうでもいいということだと判断して、以上からベストスリーを選ぶことにする。

第1位〜チーム・アメリカ:ワールド・ポリス
第2位〜父、帰る
第3位〜運命じゃない人

なんかとんでもないなあ。
いや、でもちゃんと選考基準はある。

まず、この三本が三本とも「映画」以外のところで感動させるということを拒否しているということである。
まあ、「拒否している」というのはこちらの勝手な思い込みで、作り手側の意思は一切考慮に入っていないわけだが、とにかく独断と偏見で僕はそう思っているわけだ。
そして、これは僕にとってとっても大事なことである。
もちろんテーマがあって、それを「映画」として見事に作り上げていてくれれば、感動したって別にいいわけであるし、「感動させる」もまた高等な技術ではあるわけである。
それに、僕は感動するのも大好きだし(とにかくすぐ泣く)。
だが、時に僕達は、そのテーマによって(言葉は悪いが騙されて)感動してしまうこともよくあるわけだ・・・。
何だかこの三本は、そういった「感動出来るもの」に比べて、よりピュアでとにかく潔いような気がするのだ。

もう一つは、この三本のような映画を僕が他で今まで観たことがないということだ。
とってもユニークだ。
例えば、「コーヒー&シガレッツ」や「輝ける青春」なども全く別の意味で他では観ることの出来ない映画ではあるわけだが、それらとは異なるもっと強く(自ら積極的に)惹かれる魅力を感じる。
まあこれは好みとしか言いようがないのかも知れないが。

また、もし、今年観た映画でも去年から上映されているものであれば選考に加えてよいとしたら、同じようなタイプとして僕は「ふたりの5つの分かれ路」を上げたかも知れない。
ベストかどうかではなく、潔さとユニークという点で同列に並べられると感じるのだ。

最後に、ベストスリーには選ばなかったが、去年観た中で僕が一番強い思い入れを持っている映画はジョージ・A・ロメロの「ランド・オブ・ザ・デッド」であることを、是非ここに記しておきたい。
いや、何となく。

チーム★アメリカ ワールドポリス DVD-BOX (限定生産)チーム★アメリカ ワールドポリス DVD-BOX (限定生産)
トレイ・パーカー マット・ストーン

パラマウント・ホーム・エンタテインメント・ジャパン 2005-12-09
売り上げランキング :

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

父、帰る父、帰る
コンスタンチン・ラヴロネンコ アンドレイ・ズビャギンツェフ ウラジーミル・ガーリン

角川エンタテインメント 2005-04-08
売り上げランキング :

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

運命じゃない人運命じゃない人
中村靖日 内田けんじ 霧島れいか

エイベックス・マーケティング・コミュニケーションズ 2006-01-27
売り上げランキング :

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

ランド・オブ・ザ・デッド ディレクターズ・カットランド・オブ・ザ・デッド ディレクターズ・カット
サイモン・ベイカー ジョージ・A・ロメロ ジョン・レグイザモ

ユニバーサル・ピクチャーズ・ジャパン 2005-12-23
売り上げランキング :

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

posted by og5 at 20:21| 秋田 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月03日

今年のお初〜「空中庭園」、そして「ふたりの5つの分かれ路」

空中庭園空中庭園
角田 光代

文藝春秋 2005-07-08
売り上げランキング :

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

ふたりの5つの分かれ道ふたりの5つの分かれ路

メディアファクトリー 2006-02-24
売り上げランキング :

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

僕は、小泉今日子が嫌いである。
あの猫をかぶったような取り澄ました話し方を耳にすると、ちゃんと歳を重ねられなかった人を、「これが素敵なんですよ」と無理強いされているようで逃げ出したくなる。
「空中庭園」の予告編においても彼女の話し方はやはり「この手」で、僕は最初この映画を観るつもりは全くなかったのだが、「これ、ホラーですよ」というある筋からの情報に惹かれて、正月休み最後の日にシネパレまで足を運んだわけである。
そして、その結果はどうだったか。
これを自分の中で位置付けるのに「ホラー」とはしないと思うけれど、小泉今日子は素晴らしかった。

小泉今日子演じる主人公の絵里子は、夫と子供二人と共に郊外の団地に住んでいる。
彼等のルールは、家族間で絶対に秘密を持たないこと。
しかし、それはいつまでも守り続けることなど到底不可能な約束だし、実際既に破綻を来たしている。
そして、絵里子自身が実は最も大きな秘密を当初から家族に隠して生きているのである。
この「理想」の家族は、彼女が自らの過去を否定し、綿密な計算のもと作り上げた「空中庭園」だったのだ。

娘のマナ(鈴木杏)がコンビニで雑誌を読んでいる絵里子を偶然見つけ、こっそり店に入って背後から肩を叩くシーンの、振り返った絵里子のその顔の強烈さ。
それは、いつでも微笑んでいる理想の母の仮面を脱いだ、本当の絵里子の顔である。
また、母親のさと子(大楠道代)とミーナ(ソニン)の誕生日のシーンも凄かった。
絵里子はさと子を憎んでいる。
そして、ミーナは息子のコウ(広田雅裕)の家庭教師であると同時に夫(板尾創路)の浮気相手でもある。
彼女は段々壊れて行く。
その壊れ方が凄い。
誰の目から見てももうそこには「理想の家族」などないのに、それでもプログラムどおりに食卓を整えたり誕生日のケーキを出したりする小泉今日子には、何か本当に鬼気迫るものがあった。

好きな人にはたまらなく、また嫌いな人にも逆の意味でたまらないであろう絵里子が雨の中真っ赤に染まりながら叫び続けるシーン(写真の中のまだ若い母に幼い絵里子がアイスクリームのヘラをそっと差し出す瞬間の何と衝撃的なことか)を、僕はこの上なく美しいと思う。
果たして、絵里子は自らを再生出来るのだろうか。
実は、彼女以外の家族はみんな最初から彼女のルールなど信じていないようだ。
だから、きっと彼女は再生出来るだろう。
きっと、「空中庭園」ではなく、自分なりの、地に足のついた、彼女自身の「居場所」を見つけ出すことが出来るだろう。
そう信じたい。

僕は、この映画は小泉今日子なくしては成立しなかっただろうとさえ思う。
何故なら、絵里子は小泉今日子自身だと、本心からそう思っているからである。


「ふたりの5つの分かれ路」は、僕にスタンリー・ドーネンの「いつも二人で」を思い起こさせた。
時間の切り取り方がとても鮮やかで、自分とは何一つ関係のない話で感情移入もしていないのに、じわじわと感動が押し寄せて来る。
それは、誰かの生き方がどうとか心の葛藤がどうとかいうこととは全く関係なく、ただ人生というものをそのままポンと目の前に出された感じで、こういうのは時間が経てば経つほど効いて来るのである。
「そのままポンと出す」というのは、もちろん言葉のアヤである。
この映画が、実際はもの凄く手の込んだ「料理」であることは言うまでもない。

※ただ一つだけ気になったこと。
この二人は、一緒にベッドに横たわる時そのたびに位置が反対になっていた。
あれには何か意味があったのだろうか(どう考えても不自然だと思うのだが)。
posted by og5 at 19:20| 秋田 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
with Ajax Amazon

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。