2008年10月17日

愉快な「ジーヴズ」

ジーヴズの事件簿 P・G・ウッドハウス選集1 (P・G・ウッドハウス選集 (1))ジーヴズの事件簿 P・G・ウッドハウス選集1 (P・G・ウッドハウス選集 (1))
岩永 正勝 小山 太一

文藝春秋 2005-05-27
売り上げランキング : 171194

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

ジュンク堂書店で本棚の間をぶらついていて偶然に見つけたP・G・ウッドハウスの「ジーヴズの事件簿」は、今やなくてはならない僕の夜の友(ナイトキャップ)となっている。

英国の上流階級に属するバーティ・ウースターというちょっと頼りない(しかもかなりお馬鹿な)若主人が語り手である。ジーヴズは彼の執事で、ご主人様が目覚めるとちょうど二分後に完璧な紅茶を持って部屋に入って来るという特技を持っている。
やっと半分くらいまでしか読み終えていないから断定は出来ないのだが、あえて言ってしまえば「ジーヴズの事件簿」の中に「事件」はない。「CASE」というよりも「PROBLEM」であり、それは他人にとっては本来全くどうでもいい話である。
世話好きの叔母に無理強いされた結婚相手から逃れたり、惚れっぽい親友の窮地を救ったり、滞在先のアメリカにやって来た同郷の男に芝居に出るのを止めさせるため四苦八苦したり・・・。
だが、それがひとたびP・G・ウッドハウスの手にかかると、本当に面白くて面白くてしょうがない「お話」になってしまうのである。

芝居好きの男「シリル・バシントン=バシントン」についてバーティとジーヴズが交わす会話が最高だ(以下引用)。

「聞いたことのない名前だ。おまえは聞いたことがあるか、ジーヴズ?」
「バシントン=バシントンというお名前は存じております。三つのバシントン=バシントン家に分かれておりまして──シュロップシャーのバシントン=バシントン、ハンプシャーのバシントン=バシントン、それにケントのバシントン=バシントンでございます」
「イギリスもずいぶんバシントン=バシントンを貯めこんだもんだ」
「さようでございますね」
「急に品薄になる恐れはなさそうだな?」
「はい、おそらくは」

あまりセンスのよくないバーティがおかしな色のシャツや靴下を買って来るたびにジーヴズとの間がギクシャクするのも可笑しい。
いや、これは実に面白い本ですよ。
posted by og5 at 21:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 本・雑誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月11日

武富健治の「世界」について

掃除当番―武富健治作品集掃除当番―武富健治作品集
武富 健治

太田出版 2007-03
売り上げランキング :

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

武富健治の短篇集「掃除当番」を読んだ。
これは、「鈴木先生」によって「第11回文化庁メディア芸術祭優秀賞」を受賞した武富の、ほぼ10年くらい前の作品を中心に編まれた、言ってみれば「前夜的」作品集である。
表題作「掃除当番」は、「掃除当番をいつも真面目にやってしまう私」の小さな小さな、しかしまた同時に深い深い物語である。私・丸山康子と、サボりはしないが一所懸命でもない男子二人、そして必ずサボる他の同級生達と教師の正論との間に起こる葛藤が、康子の内面へ内面へと向かう独白によって語られて行く。

初めてこれを読んだ時、僕はすごくショックを受けた。ほんのちょっと右か左へ傾いたらエロ漫画かパロディーにでもなるしかない危ういバランスの上に立って、「純文学」が宮谷一彦の画によって表現されていたからである。
宮谷一彦だけではない。武富健治の作品の後ろには、例えば山田花子(「神の悪フザケ」)、あるいは「永沢君」を描いていた頃のさくらももこの影が、時に垣間見えるような気がする。武富健治の漫画には、何かそういう「古さ」があると思うのである。
もちろん、それは決して悪いことではない。

「掃除当番」があまりに面白かったので、僕はすぐさま本屋に走り、未読だった「鈴木先生」を買って来た。そして、夢中になって読んだ。そこには、まるでドストエフスキーの小説にでも出て来るような(単なる記号ではない)生身の人間がいた。
彼等は都合のよい記号ではないのでぶれる。そのブレが生々しい。「鈴木先生」の中の生徒達は勝手に動いている。もしかしたら武富健治は、登場人物をコントロールしようなどと思っていないのではないか、とさえ思わせる。僕が息をしているこの世界と地続きの何処かで、彼等もまた今確実に息をして生活しているのである。

「掃除当番」も「鈴木先生」も、その同じ「世界」の中にある。

鈴木先生 (1) (ACTION COMICS)鈴木先生 (1) (ACTION COMICS)
武富 健治

双葉社 2006-08-11
売り上げランキング :

Amazonで詳しく見る
by G-Tools
posted by og5 at 19:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 本・雑誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月30日

今判る普遍性〜「光る風」

光る風光る風
山上 たつひこ

小学館クリエイティブ 2008-07
売り上げランキング : 3301

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

山上たつひこの「光る風」が復刻された。
少年マガジンに連載されたこの異色作品を僕が初めて読んだのは、朝日ソノラマのコミックスで、全3巻だったと記憶している。
当時、僕は既に山上の「旅立て! ひらりん」の愛読者であった。「旅立て! ひらりん」は、「がきデカ」あるいは「喜劇新思想大系」以前の、いわば夜明け前的状況における山上たつひこの意欲作であったが、今にして思えば、「光る風」から脱皮しようとする山上の必死のあがきだったのかも知れない。

「光る風」は、良くも悪くも「近未来SF」である。描かれる年月日は伏せられているが、明らかに1970年代のいつかだし、エピソードについても、在日米軍や公害問題など、非常にリアルな「日常との接点」をあくまでも保持している。
また、特にその思想的バックボーンは、あからさまに「左翼思想」なのであって、当時の、そして未だその呪縛から解き放たれないままとなっている現在の「大衆」あるいは「知識階級」の「嗜好」を踏襲している。
だから、実に久し振りに本書を読み始めた僕の印象は、最初あまり良いものではなかった。山上たつひこにしても、やはり時代の洗脳からは逃れられないものなのか、というのが僕の正直な感想であった。

しかし、読み進むに連れて、印象はどんどんと変化した。山上たつひこが、時代の空気から逸脱し、普遍的な世界へ一歩また一歩、ずんずんと踏み込んで行ってしまうからである。
思えば、あの「がきデカ」の世界だって同じようなものなのではないか。世間の良識と新たなモラルの間で右往左往する「一般大衆」を、こまわり君だけが冷静に見つめている。しかも、彼は常に拒絶され軽蔑される「フリークス」的存在であり続ける。

「光る風」ファンの多くは、初めて「喜劇新思想大系」を見た時、山上たつひこは気が狂ったのではないか(あるいは当局から洗脳されたのではないか)と思ったという。
だが、洗脳されていたのは、明らかに、「光る風」とその後の山上作品を断層あるものとしてしか受け止められなかった我々読者の方なのである。
posted by og5 at 19:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 本・雑誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月29日

読むべきか読まざるべきか〜ハリー・ポッター最終巻

Harry Potter and the Deathly Hallows (Harry Potter 7)(US)Harry Potter and the Deathly Hallows (Harry Potter 7)(US)
Mary GrandPre

Arthur A. Levine Books 2007-07-21
売り上げランキング : 55

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

ハリー・ポッターのシリーズ最終巻(日本語翻訳版)が発売されたねえ、などと妻と話していた。あんたは読むの? 読まないの? などと。
妻には、第6巻「ハリー・ポッターと謎のプリンス」を購入したのに何故か読んでおらず、従ってそれを飛び越えてラストを読むわけにはいかないよなあ〜、というような事情があるようだ。
が、僕にもまた、僕の事情がある。

僕は、第4巻「ハリー・ポッターと炎のゴブレット」までを翻訳本で読んでおり、更に第1巻から第6巻「Harry Potter and the Half-Blood Prince」までを、「Harry Potter and the Goblet of Fire」を除き一応全て原書英国版で読んでいる。
この期間、僕は、英語の本をそのまま読むということにずっとはまっていて、(今はもう止めにしてしまったが)並行するように英会話スクールにも通っていた。
もう2年半くらい前の話である。

僕の事情というのは、つまりどちらを読めばいいのだろうという話で、僕には、「ハリー・ポッターと死の秘宝」を読んだらいいのか「Harry Potter and the Deathly Hallows」を読んだらいいのか、よく判らないのである。

まず、「ハリー・ポッターと死の秘宝」を読むとした場合、「ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団」及び「ハリー・ポッターと謎のプリンス」を翻訳版で読んでいない僕にはちんぷんかんぷんかも知れない、という不安が立ちふさがる。それほどまでに僕の原書読みはいい加減であった(秘儀「知らない単語飛ばし」のオンパレード)。とすれば、僕は今最終巻を日本語で読み始める前に、それに先立つ2巻を改めて(日本語で)読み返さなければならないわけで、はっきり言ってこれは辛い。
だからといって、「Harry Potter and the Deathly Hallows」が今の僕に果たして読めるだろうかというと、それは多分絶対に無理なのである。
道理が引っ込むまでの無理を通すだけの根性あるいは「ノリ」は、今の僕にはもうない。

結論。
いろんなことの顛末がどう決着するのかには興味があるけれど、それにしても、僕には少々長過ぎたようである。
多分読まないな。

「ハリー・ポッターと死の秘宝」 (上下巻セット) (ハリー・ポッターシリーズ第七巻)「ハリー・ポッターと死の秘宝」 (上下巻セット) (ハリー・ポッターシリーズ第七巻)
松岡 佑子

静山社 2008-07-23
売り上げランキング : 1

Amazonで詳しく見る
by G-Tools
posted by og5 at 22:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 本・雑誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月16日

EVOLUTION〜感動的な骨のこと

最近見聞きした中で最も感動した言葉。

<人間の骸骨を持ってきて、骨盤の骨に傾斜をつけ、腿と脚と腕の骨を短くし、手足の骨を長く伸ばし、指節骨をひとつに接合し、顎を長くして前頭骨を短くし、さらに脊柱も長く引き伸ばせば、その骸骨はもはや人間のなきがらではなく、馬の骨である>

これは、「骨から見る生物の進化−EVOLUTION」という写真集に引用された18世紀フランスの博物学者ビュフォンの言葉である。
イスラム教世界やキリスト教徒の間では未だに拒絶され続けているというダーウィンの「進化論」であるが、発表当時は現代よりももっと過激な批判に晒されていた。彼の「種の起源」の発表されたのが1859年のこと。ダーウィンよりほぼ一世紀前の人であるビュフォンは、実は当時既にダーウィン以前の「神にとらわれない学問」である「博物誌(一般と個別の博物誌)」を発表していた。
著者自身が没した後まで刊行の続いた「博物誌」全44巻は、アカデミックな内容にも関わらず大ベストセラーになったという。

冒頭の言葉は1753年のもの。これだけを単純に読めば、馬と人間に大差はない、と言っているようでもあり、また馬と人間にはこんなにも差異があるのだ、と言っているようでもある。
「感動した」と書いたが、それは「驚き」に近い。新鮮なショックが僕を襲い、笑え笑えと刺激したのである。
写真集自体も、実に素敵だ。

骨から見る生物の進化骨から見る生物の進化
小畠郁生(監訳) 吉田春美(訳)

河出書房新社 2008-02-20
売り上げランキング : 12951

Amazonで詳しく見る
by G-Tools
posted by og5 at 21:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 本・雑誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月13日

箱庭の中の予定調和〜「田村はまだか」

田村はまだか田村はまだか
朝倉 かすみ

光文社 2008-02-21
売り上げランキング : 2593

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

<深夜のバー。小学校クラス会の三次会。四十歳になる男女五人が友を待つ>・・・。
友というのが「孤高の小六」と言われた「田村」であり、それがそのまま本のタイトルにもなっている。
六編から成る連作で、「田村」を待つ間にほぼ一話にひとりの割合で同級生達の人生の断片が語られて行く。それぞれの人生、それぞれの機微。そして、最後には決まって誰かが「田村はまだか」と叫ぶのである。

つまらなくはなかった。しかし、僕にはどうもここで描かれている世界がインチキ臭く感じられてならなかった。小説だから別に虚構でいいのだが、何となく背骨がない感じがするのである。
四十歳過ぎの男女の仲が良過ぎる。心に残った客の言葉を書きとめておくというスナック「チャオ!」のマスターのノートもわざとらしい。いや、そもそも肝心要の「田村」に、僕は全くリアリティを感じることが出来なかった。

田村は、最後の最後にはちゃんと彼等の前に姿を現す。だが、その有様が何ともまた作り事めいている。「ラストに怒涛の感動が待ち受ける」と帯の惹句は謳うが、それはあくまでも作者の箱庭の中で繰り広げられる予定調和的感動でしかないような気がする。
その箱庭はあまりにも狭く、「世界」足り得ていない、と僕は思うのだが。
ラベル:田村はまだか
posted by og5 at 14:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 本・雑誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月10日

水木先生可愛すぎます

お父ちゃんと私―父・水木しげるとのゲゲゲな日常お父ちゃんと私―父・水木しげるとのゲゲゲな日常
水木 悦子

やのまん 2008-03
売り上げランキング : 6299

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

僕は、水木先生の妖怪は信ずるがオカルトは大嫌いな者である。ではその違いは何か。いったい何処で一線を引くのか。
これは実はずっと僕のジレンマであった。オカルトを批判する度に、妖怪に対して何だか後ろめたい気持ちがしてしまうのである。

水木悦子(水木先生の次女)の「お父ちゃんと私―父・水木しげるとのゲゲゲな日常」を読んでいる最中も、僕はかなりドキッとしてしまった。江原啓之がテレビで「魂は永遠で・・・」と話しているのを聞いていた水木先生が、いきなり身を乗り出して来たというのである。
そして水木先生は、「この人の言っとることはお父ちゃんの考える魂の話と一致しとるよ。お父ちゃんも前からそう思っとったんだ(中略)こげな人がテレビで取り上げられるってことは、いよいよ“霊の時代”が来たんだな!」と実に嬉しそうにしていたのだという。
正直いって、僕は困惑した。だって、僕の中で水木先生と江原啓之ほどベクトルの違うものはないからだ。

しかし、水木先生はさすがである。
著者は続ける。
「〜そんなことを思い出しながら、先日父に、『死んだら魂はどうなるか?』と、尋ねたところ、『そりゃお前、死んだら終わりだよ。“無”だ』
えっ!? いつの間に考えが変わってしまったんだ! かなりショックを受けた私だったが、よく考えれば魂が“永遠”か“無”かなんて、それこそ誰も知らないことなのだ」と。

かくて、僕の長年のジレンマは、よく判らないながらも何となく解消してしまったのだった。
悦子さん、ありがとう。

この本の水木先生は本当に活き活きしている。鳥取弁丸出しの会話を読んでいると、正に目の前でゲゲゲの日常が繰り広げられているかのような錯覚に陥る。
全然違うのだけれど、僕はゲッツ板谷の「板谷バカ三代」を思い出してしまった。何というのかなあ。愛にあふれているのですよ(愛にもいろいろあるけれど)。

水木先生は可愛すぎます。

板谷バカ三代 (角川文庫)板谷バカ三代 (角川文庫)
ゲッツ板谷

角川書店 2003-08
売り上げランキング : 12780

Amazonで詳しく見る
by G-Tools
posted by og5 at 19:53| Comment(2) | TrackBack(0) | 本・雑誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月06日

「ゲゲゲの女房」を読んで

ゲゲゲの女房ゲゲゲの女房
武良布枝

実業之日本社 2008-03-07
売り上げランキング : 3353

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

「ゲゲゲの女房」を読了してまず感じたことは、「好きなことだけをやる」というのも才能なのだなあ、ということだった。

武良布枝(水木先生の奥様)は、人一倍努力家であった夫(水木しげる)が、「なまけ者になりなさい!」あるいは「がんばるなかれ!」と人に言うのを常々疑問に思っていたのだという。問いただした彼女に夫は、「オレは『なまけもの』になれるように、努力すべきときにうんと努力しておけという意味でいってるんだから」と答えたというのだが・・・。
彼女もこれで納得したわけではない。ただ、夫は「好きなことだけをやりなさい。好きなことは一生懸命やりなさい」ともいっている、と自らが思い汲み取ったその真意の糸口を読者に提示するだけである。

思えば、「好きなことだけをやる」ことを諦めたから、僕はそれを言い訳にしながらこうしてだらだらと生きているわけである。何故諦めたのか。とてもやりとげられる自信がなかったから。そして、多分、そもそも何が本当に好きなのかさえ判らなかったから。
だが、それでも、水木先生の言葉は僕を責めはしない。「好きなことだけをやる」ことから逃げてしまった、あるいは苦悩することさえせずに違う道を歩いてしまった者にも、水木先生の言葉はオアシスのように水分を恵んでくれる。

平易な言葉で、しかも淡々と綴られているから、ついうっかり見逃してしまいそうになるが、「ゲゲゲの女房」の歩んだ道はかなりに厳しい。好きなことだけをやっていた水木先生はまだしも、彼女は何故こんなに厳しい貧乏人生を生き抜くことが出来たのか。
雑誌の編集者が水木先生に「奥さんはどういう人ですか?」と訊ねたところ、「『生まれてきたから生きている』というような人間です」と答えたという素晴らしいエピソードが紹介されているが、本当に彼女はそういう人なのだろう。だからこそ、おそらく水木先生の今日もまたあるのである。

個人的には、淡々と故郷安来市の模様など語っていたかと思ったら突然「屁ばなし」に突入するというあたりが「ゲゲゲの女房」の面目躍如である、と冒頭からもう大笑いしておりました。
布枝さんはすごいなあ。
ラベル:ゲゲゲの女房
posted by og5 at 20:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 本・雑誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年06月08日

先週読んだ2冊の文庫本について

最近あんまり小説を読んでいなかったが、先週仙台出張があったお陰で、長らく買ったまま埃をかぶっていた2冊の文庫本を読み終えることが出来た。
往復の新幹線の中で読んだのが森見登美彦の「太陽の塔」。そして、その勢いを借りて土曜の病院の待合室で一気に読んだのが長嶋有の「猛スピードで母は」である。

「太陽の塔」が新潮社より刊行されたのが2003年12月。僕が妻と一緒に初めて大阪まで太陽の塔を観に行く4年前のことである。作中、「私」の恋人だった水尾さんが、やはり初めて太陽の塔を見るシーンが生々しく描写されているが、まるで自分達の興奮を再現フィルムで見せられているようにドキドキした。
とはいえ、太陽の塔が常に物語において中心的に語られるというわけではない。むしろ、その割合は意外なくらい小さい。「私」が子供の頃に自分の庭のように万博公園あたりを遊び場にしていたこと、水尾さんを何回目かのデートでそこに案内した時のこと、そして最後、太陽の塔を見上げる(幻想とも想い出ともつかない)鮮やかな水尾さんの姿、それを追いかける「私」・・・。
やや散漫でもある物語は、舞台が京都であることも相俟って、度々僕に「ホルモー」の出現を予感させた。もちろん、それはあり得ない混同であって、僕はすぐに清らかな失恋の物語に引き戻される。
そうだ、これは清らかな恋の物語であった。きれいなきれいな純愛の物語であり、また友情の物語であった。

「猛スピードで母は」には、二編の中篇が収められている。表題作と「サイドカーに犬」である。
どちらも子供が主人公で、世間一般的な尺度においてあまり恵まれているとは言い難い環境に生活することを余儀なくされている。だが、「猛スピードで母は」の慎も、「サイドカーに犬」の薫も、決して絶望はしていない。慎と薫の間にはナイーブさにおける相当な隔たりがあるが、根源的な生きる力において彼等にはともに「傷」がないのである。それは、そもそもこの二編の小説自体が強い生命力に支えられているということともつながり合い、読後には実に静かな感銘を与えられる。
一般的な人生における出来事という意味で実に地味なテーマについて語ることしかない「猛スピードで母は」及び「サイドカーに犬」は、派手なエンタテインメント性も感情的なモラルの押し付けを隠し持った劇的クライマックスも一切持たないが、だからこそ潔く実直に心に迫って来る。

太陽の塔 (新潮文庫)太陽の塔 (新潮文庫)
森見 登美彦

新潮社 2006-05
売り上げランキング : 1216

Amazonで詳しく見る
by G-Tools


猛スピードで母は (文春文庫)猛スピードで母は (文春文庫)
長嶋 有

文藝春秋 2005-02
売り上げランキング : 7908

Amazonで詳しく見る
by G-Tools
posted by og5 at 21:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 本・雑誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月17日

梶井基次郎「檸檬」について

梶井基次郎の「檸檬」を読んだ。
すると、20代の中頃に読んで全く心を動かされなかったこの僅か10ページばかりの掌編は、およそ25年経った今になって、まるでハンマーのように僕の頭を強く、かつ鮮烈に打ったのだった。
心ではなく頭だ。そして、それはハンマーだった。

若い僕が鈍感過ぎたのか、それとも今の僕が年取って何事かを理解したつもりになっているだけなのか、それは判らないが、当時特に注意を払わなかった丸善と「私」の内面、あるいは丸善の書棚に並ぶ画本と「私」の精神もしくは創作活動というものの対比、その隠喩を、僕は今回初めてしっかりと受け止めることが出来たような気がする。
おそらくは作者自身であろう「私」のかかえる「不吉な塊」と丸善を安易に結び付けることは誤りかも知れない。しかし、少なくとも「以前にはあんなに私をひきつけた画本」、それらをさんざん観た後で「以前には好んで味わっていた」「あまりに尋常な周囲を見廻すときのあの変にそぐわない気持」が、今では彼をただ疲労させ、憂鬱にさせるだけである、という部分には、明白な暗示があるだろう。

それは、あまりにも明白なことで、だから、何故かつてそのことに思い至らなかったのか、と僕は不思議でならなかった。そして、もしや、と思い、どちらかといえば硬質な印象を受ける梶井基次郎の文章を、また冒頭から繰り返し、声に出して読んでみた。
読みながら感動する。読みながら、清冽な水が身体の中に流れ込んで来るのを感じる。決して「声に出して読みたい日本語」的行為ではなく、声を出して「檸檬」を読むことには、「詩」を丸ごと根源的部分で受け止める力があった。いや、それ以前に、そもそも「檸檬」は一篇の確立された「詩」であった。
かつて僕が「檸檬」を正面から受け止められなかったのは、この作品を「詩」として一塊(ひとかたまり)に受け止める、という準備が、まだ自分自身の中に出来上がっていなかったからなのではないか・・・。
そう思った。

そして、
あるいはこの文庫本は、丸善に仕掛けられた時限爆弾のように、ゆっくりと版を重ねながら、本屋の片隅でこの時を待っていたのかも知れない。
などと考えてみた。

※画像がないのが残念である。装丁が一番好きな新潮文庫版。
           ↓
檸檬 (新潮文庫)檸檬 (新潮文庫)
梶井 基次郎

新潮社 1977-12
売り上げランキング : 33871

Amazonで詳しく見る
by G-Tools
posted by og5 at 12:15| Comment(3) | TrackBack(0) | 本・雑誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月02日

二次検診の待合にて「乳と卵」を読む

乳と卵乳と卵
川上 未映子

文藝春秋 2008-02-22
売り上げランキング : 2783

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

川上未映子の「乳と卵」を面白いと言っていいものかどうか、正直なところ少々悩んだ。というのも、この芥川賞受賞作は、かなりあけすけに女性のあれやこれやに触れていると思われるからである。だから、男の僕が、とついつい気弱になってしまうのだ。こんなのフィクションよ、と誰か物の判った女性にひと言言って貰えれば随分気も軽くなるのだろうが、今のところそんな人は(実生活においても書籍やインターネット上においても)現れていない。
要するに、僕は「乳と卵」を非常に面白いと思ったのである。

初めは読み辛かった。独特な言葉のリズムについて行けなかった。ちょっと読んで、何だか樋口一葉に似ているな、と思ったが、僕にとっては何故か明治時代の「にごりえ」の方がまだとっつき易かった。センテンスは読点でこちらからあちらへと一見とりとめもなく連続するが、「にごりえ」ほどに長くはない。時々混ざる大阪弁とやや唐突に現れる「あります」などという殺人犯の手記のような言い回しがいい按配にアクセントとなる(少し、町田康のことも連想した)。
そして、「乳と卵」の読み辛さは、ちょっと慣れると、逆に大きな魅力となって僕をぐいと掴んでしまった。

東京の「わたし」のアパートに、大阪に住んでいる姉と姪がやって来て、また帰って行くまでの僅か二日間の出来事。ガリガリに痩せてしまった姉は豊胸手術に偏執している。姪はひと言も言葉を発せず、人とのコミュニケーションは全てノートによる筆談でとり行う。
姪の日記もどきの文章と「わたし」の一人称語りが(不定期ながら交互に現れては)思いがけず合理的に物語を運んで行く。僕はその姪・緑子の「日記」に、ものすごく心を動かされた。
「乳と卵」は、ややグロテスクではあるが、可笑しみのある幸福な小説であった。

読む楽しみが半減するからと後回しにしておいた「選評」を読むと、池澤夏樹が「樋口一葉へのオマージュが隠してあるあたりもおもしろい」と書いていた。なるほど、と思う。
一センテンスが長い文章。「女のこと」が主題であること。そういえば樋口一葉の「たけくらべ」の主人公の名は「美登利」であった。姪の名「緑子」と、これはやはり無縁ではないだろう。
そして、もうひとつ、「わたし」から手渡された五千円札のスカシ(もちろん、樋口一葉)に関する緑子の感想は、その夜の出来事をさり気なく暗示していた。自らの「内と外」の考察につながる「ロボコン」の思い出と共に、僕の最も好きなエピソードのひとつである。

※ちなみに、僕が読んだのは「文藝春秋3月号」に掲載されたものです。
posted by og5 at 15:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 本・雑誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月24日

フレガタキ薔薇

薔薇は生きてる薔薇は生きてる
山川 弥千枝

創英社 2008-02
売り上げランキング : 25774

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

新聞の書評欄にて、「美しいばらさわって見る、つやつやとつめたかった。ばらは生きてる」あるいは、「はきたる血、目の前にして看護婦のおどろいた顔じっと見つめる」という歌を見て、僕は即座にこの本を買おうと決めた。この本とは、1917年に生まれ、僅か16歳で肺結核のためこの世を去った山川彌千枝の「薔薇は生きてる」のことである。
この本は、実は短歌集ではない。全部で300頁以上あるうちの、それはたった20頁ほどを占めるに過ぎない。「薔薇は生きてる」は、およそ120ページが「小品」と題された8歳から16歳までに書かれた作文、次いで短歌、後は日記や手紙、そして関係者の回想などで構成されている。
つまり、これは早世した少女の記念文集なのである。

歌人の穂村弘や芥川賞作家・川上未映子が解説を書き、帯には緒川たまきの「永遠の少女」を愛しむ素直な気持ちが記されている。
感動は量ではないから、そして断片的なものであろうと力強く光り輝くものは確実にこの世に存在するのだから、彼等の言葉は真摯だしまた嘘であるはずもない。先に例に挙げた二つの短歌をはじめとする作品群はもちろんのこと、後に歌にしようと母親に書かせていたという「肺臓を出して床にたたきつけたくなった」を含む文章など、山川彌千枝は僕の心の中にももうしっかりと深く鮮やかなイメージを刻みつけてしまっている。
しかし、僕は、この「本」を読むという行為そのものに、どうしても馴染むことが出来ない。ある違和感を覚える。特に、8歳の子供の作文を読むということが、僕にはどうしても普通のことではないように思えてならないのである。

「山川彌千枝」という少女を巡る世界、「門外漢」の僕などが決して踏み込んではいけない世界が、ここにはある。
僕は、多分この本をこれ以上読むことが出来ない。
posted by og5 at 21:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 本・雑誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月23日

「鴨川ホルモー」〜マキメはやめられない!

鴨川ホルモー鴨川ホルモー
万城目 学

産業編集センター 2006-04
売り上げランキング : 504

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

万城目学のデビュー作「鴨川ホルモー」を読んだ。
玉木宏主演でTVドラマ化もされた「鹿男あをによし」の舞台が奈良だったのに対し、本作では隣接する古都・京都が物語の舞台となっている。作者は大阪府出身で京都大学法学部卒とのことだから、奈良にしても京都にしても非常に親しみのある、ある意味描き易い「背景」なのだろうが、とにかくこの「鴨川ホルモー」、デビュー作にして文句なしの一大エンタテインメント。その「やめられなさ度」の高さと来たら、「鹿男〜」以上であった。

全くの予備知識なしに本書を手にした僕には(誰だってそうだろうが)、まずそもそも「ホルモー」の意味が判らない。冒頭「はじめに」において、主人公・安倍の一人称によって語られる第一声も、「みなさんは『ホルモー』という言葉をご存じか」である。
その語るところによれば、「ホルモー」とは、「敵と味方それぞれ十人ずつ」、「相手と競い、勝敗を決める」のを目的とした「一種の競技の名前」で、競技を続けられなくなった競技者が発しなければならない叫び声がその名の由来なのだという。これが、京都の地で、遠く平安の時代から秘密裏に引き継がれて来たというのだから、そしてまた「柳田國男先生や折口信夫先生に訊ねることができたとしても、わかりはすまい」というのだから、読者としては、もう素直に説明を聞き、物語に身をゆだねるしか他に道はない。
すなわち、この「はじめに」は、主人公の口を借りた作者・万城目の「荒唐無稽宣言」なのである。

その「宣言」どおり、物語はこの上もなく荒唐無稽に突き進む。
ポイントは、ここにはちょっと書けない、「ホルモー」を巡る陰陽五行や「オニ」絡みのあれやこれやの荒唐無稽が、小難しい学問的解説に堕すことなく、かつ安倍の冴えない大学生活(切ない片思い、高村との友情、自己嫌悪、サークルメンバーとの反目等々)と不思議に調和しているということであろう。「鴨川ホルモー」は、とんでもないエンタテインメント作品であるばかりでなく、ちょっと懐かしい、ホロリとさせられる青春小説としても成立しているのだ。

実は、僕はこれから、本書のサイド・ストーリー集ともいうべきオムニバス「ホルモー六景」を買いに行くところである。
マキメは、どうにもやめられない・・・。
posted by og5 at 16:41| Comment(2) | TrackBack(0) | 本・雑誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月20日

松太郎をどうする?

のたり松太郎 (20) (小学館文庫)のたり松太郎 (20) (小学館文庫)
ちば てつや

小学館 2004-08
売り上げランキング : 233522

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

ちばてつやの「のたり松太郎」をちゃんと読んだことがなかったので、思い切って小学館文庫をまとめ買いした。
この作品は、帯の惹句によれば、ちばてつやの「最高傑作」あるいは「最大傑作」ということになっている。しかし、僕はこの「最高(最大)傑作」を読みながら、途中で何度もうんざりし、「もう止めようかな」と思ったことを告白せねばならない。
その理由は単純明快であって、松太郎に我慢がならなかったからである。

松太郎は乱暴者である。成人近い年齢になりながら中学校に通い、そこでも落ちこぼれている。近所でも、ただの鼻つまみ者でしかない。憧れの女教師を強姦しそこね、退学になって職を探しているうちに、ひょんなことから大相撲の地方巡業に乱入し、力士をぶちのめしたことから各相撲部屋の親方連の目に留まりスカウトされる、という筋書きで物語は進む。
松太郎の素行は雷神部屋に入門してからも改まることはない。相変わらずただただ粗暴で怠惰なだけの日々を送り、そこでたまたま知り合った田中(秋田出身。普段は大人しいが酒乱の気あり)と一緒に部屋を追い出されてしまう。
物語はここから二人の奇妙な友情と、引き取って貰った伊勢駒部屋での力士としての生活に移行して行くが、結局最後まで松太郎は(幕内優勝をしてさえ)松太郎のままである。

松太郎は一切成長しない。いや、それでも別に構わないのだ。「おれは鉄平」の鉄平だって(その親父も込みで)成長とは無縁だし、ある意味世間の常識から外れたニヒリズムこそ、ちば漫画の魅力であると言えるかも知れないからだ。
しかし、松太郎は、もういい加減いい歳をした大人なわけである。鉄平はモラトリアムでも許容されるが、いかに一般社会から切り離された大相撲という特殊な世界に住んでいようと、松太郎にそれが許されるべきではない(周囲に与える「被害」の度合いが違い過ぎる)。

最終巻、物語は駒田中(田中清)のエピソードで幕を閉じる。驚くべきことに、ここに至って、松太郎はもはやいてもいなくてもよい存在になり果てている。さすがはちばてつや、それでも充分に面白いし、何しろ田中は愛すべきキャラクターであり、申し分なく感動的でもあるのだが、僕には、結局ちばてつやが松太郎を扱いあぐね、描き切ることを放棄してしまったようにしか思えなかった。
「真っ白な灰」にならず、「そこ」から逃げ出しもしないアウトローの物語は、おそらく失敗した。
「松太郎をどうする?」
連載途中から、ちばてつやは、ずっとこう思っていたのではないだろうか。
posted by og5 at 19:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 本・雑誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月02日

漫画の大きさについて

文庫本サイズの漫画を最初に売り出したのは小学館だったと記憶している。とすれば、それは多分「小学館文庫」で、つげ義春の「ねじ式」などが最も初期のラインナップだったはずだ。決して主流になっているとは思わないが、今では各社が同サイズの漫画本をコンスタントに出し続けている。
僕は当初、文庫本サイズで漫画を読むことにすごく抵抗があった。月刊週刊の少年漫画雑誌や貸本漫画を読んで子供時代を過ごした僕には、慣れ親しんだ画や活字の大きさがあったからで、文庫本以前からあったコミックス単行本サイズが許容出来るギリギリのラインだったのである。

ところで、つい最近、やはり漫画には適したサイズってものがあるのだなあ、と改めて思い直す機会があった。それは、お昼を食べようと入ったラーメン屋で、「ビッグコミックスペリオール」を読んだ時のこと。漫画は「新・味いちもんめ」であった。
「新・味いちもんめ」は、コミックスでもう20巻を数える。「新」とつくくらいだから「新」なしの「味いちもんめ」も当然あって、そちらなど何と単行本33巻に達する(原作者急逝のため中断。その後「新」として再スタートし、未だ連載中)。
僕は、この作品が大好きである。しかし、単行本及び文庫本でしか読んだことがなかった。

秋田市出身で、元々はちばてつやのアシスタントをしていたという倉田よしみの画を、はっきりいって僕はずっと野暮ったいと思っていた。もちろん、連載を続ける中で確実に洗練されて来てはおり、連載初期と現在では、単行本レベルで見比べても、その技量には明白で大きな差がある。
しかし、僕がラーメン屋で受けた感銘は、決して本人の技術的上達にのみ起因するものではなかった。
雑誌の版の大きさ。ざらざらした安い紙の肌触り。そして、そこにくっきりと、ある時は太く、またある時は細く軌跡を残す、まるで息遣いが聞こえて来るような、描線の、生々しくも柔らかなインクの色合い。ああ、この大きさなのだ。この大きさでなければ表現し得ない世界が、確かにあるのだ。
そう思ったわけである。

それにしても、(今ふと思ったのだが)「雑誌」の方が実は贅沢だなんて、いかにも漫画らしい価値観の逆転具合ではないか。

新・味いちもんめ 20 (20) (ビッグコミックス)新・味いちもんめ 20 (20) (ビッグコミックス)
倉田 よしみ あべ 善太

小学館 2007-08-30
売り上げランキング :

Amazonで詳しく見る
by G-Tools
ラベル:味いちもんめ
posted by og5 at 09:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 本・雑誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年02月13日

VOW!!

ニッポンの笑い VOW!! [別冊宝島1501] (別冊宝島 1501 ホ-ム)ニッポンの笑い VOW!! [別冊宝島1501] (別冊宝島 1501 ホ-ム)

宝島社 2008-02-07
売り上げランキング : 2359

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

別冊宝島「世界最大の『お笑い投稿』本 ニッポンの笑いVOW!!」を買った。
表紙裏の挨拶文によれば、「爆笑投稿、ニッポンの笑い VOW!!です。もう30年なんですよ。くだらないですねえ。意味がないですねえ。でも面白い。おかしい。尽きない。弊社、別冊宝島1500号突破記念のお祭りに乗じて、作ってみました。」ということらしい。
「VOW」とは「VOICE OF WONDERLAND」の略。新聞や雑誌の誤植、あるいは怪しい看板、街で見かけた微妙な物体などを読者が重箱の隅をつつくように投稿するコーナーで、単行本ももうかなりの数出ているはず。世に「VOW」の種は尽きまじ、である。

さて、今回は特別版ということで、著名人がVOWについて語り、特に気に入っていると思しきVOWネタをそこで一緒に紹介するコーナーなどもあったのだが、久し振りに見るその「クラシックス」がまた面白い。
特に可笑しかったのが、清水ミチコのページにあるネタ。
その写真はシド・ビシャスとナンシー・スパンゲンのパンクなツーショットなのだが、キャプションが、何と「シド&ビシャス」となっているのである(そういえば昔、「もんた&よしのり」というのもあったような気がする)。
しりあがり寿のご推薦、シーナ・イーストンの写真に「シーラ・イーストン」(もちろん、シーラ・Eとの混同)とキャプションがついているのも最高で、どちらも思わず声を出して笑ってしまった。

ところで。
思いがけずシド&ナンシーの写真なんか見たからか、僕は意味もなく和泉聖治監督の映画「魔女卵」で、主演の渡辺祐子が「うちはナンシー・スパンゲンになるんや!」とか何とか叫ぶシーンを思い出していた。
我王銀次も死んでしまったんだよなあ、などと感慨に浸る。
何故だろう。
ああ、日曜日「LONDON CALLING〜」を観たことと、何処かでつながっているのかも知れないな。

トゥー・ファースト・トゥ・リヴ(CCCD)トゥー・ファースト・トゥ・リヴ(CCCD)
シド・ビシャス

EMIミュージック・ジャパン 2004-03-10
売り上げランキング : 65199

Amazonで詳しく見る
by G-Tools
ラベル:宝島 VOW
posted by og5 at 20:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 本・雑誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月29日

頑丈な骨格の中のスリル〜「罪と罰」

罪と罰 (上巻) (新潮文庫)罪と罰 (上巻) (新潮文庫)
ドストエフスキー

新潮社 1987-06
売り上げランキング : 16425

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

ドストエフスキーの「罪と罰」を読んでいる。
新潮文庫で上下二巻。それぞれが500頁近くもある大作である。
ロシア文学ではこの程度の長さは普通なのかも知れないという変な先入観もあるけれど、本当のところはよく判らない。

さて、僕がこの文庫本を手にするのには、いくつかのきっかけ(暗示)があった。
ひとつ目は、ウディ・アレンの映画「マッチポイント」。主人公クリス(ジョナサン・リース・メイヤーズ)は、まるで自らの犯罪とラスコーリニコフの言う「犯罪の権利」を重ね合わせ妄想を補完するかのように「罪と罰」を読んでいた。その姿がずっと印象に残っていた。
ふたつ目は、青木雄二「講談社文庫 ナニワ金融道7」の本人によるあとがきで、「ナニワ〜」を書いたのは「罪と罰」のあるシーンに触発されたからだと述べられていたこと。青木は、ラスコーリニコフと「呑んだくれの退職官吏」マルメラードフが、偶然出くわした居酒屋で交わす会話を引用し、「たいへんな驚愕と感動を覚え」た、と語っている。
そして最後が、昨年シアタープレイタウンで行われたアキ・カウリスマキ特集。今思えば、アキの「罪と罰」は、あまりにも大胆な「映画化」であった。

このようないくつかの(云わば)シグナルを受けて、僕の中でドストエフスキー(特に「罪と罰」)は、知らず知らず大きく、「読みたいもの」あるいは「読まなくてはならないもの」としてクローズ・アップされていた。
最初は、その厚さにびびった。
が、読み始めると、これが以外にもスラスラと物語に入って行くことが出来る。重厚かつ長大なのに、読んでいて退屈するということがない。安定しているのに、スリリングなのである。
とにかく、骨組みが太い。やたら人と事象が入り乱れて話の筋があっちへ飛んだりこっちへ飛んだりする最近の小説に慣れてしまった身には、いかにも旧式に感じられる。しかし、だからこそ、その頑丈な骨格の中で描かれる物語は、たっぷりと時間をかけて登場人物の精神に深く深く入り込み、また読者である僕の心に対しても充分な熟成と発酵を促し、ほとんど主人公ラスコーリニコフと同時進行で「罪と罰」を体験することが出来るのだ。

1000頁の果てに、いったいどのような地平が開けているのか。または出口もない地下室の閉塞が待ち受けているのか。
僕のリアルかつスリリングな体験である「罪と罰」は、いよいよ後半へと突入する。

罪と罰 (下巻)罪と罰 (下巻)
ドストエフスキー 工藤 精一郎

新潮社 1987-06
売り上げランキング : 33282

Amazonで詳しく見る
by G-Tools
posted by og5 at 22:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 本・雑誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月12日

ジョン・コリアに困る

ナツメグの味 (KAWADE MYSTERY)ナツメグの味 (KAWADE MYSTERY)
ジョン・コリア 垂野 創一郎

河出書房新社 2007-11
売り上げランキング : 130306

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

ジョン・コリア「ナツメグの味」に困っている。
「悪魔と詩人と女たち」という帯の謳い文句。そして「マネキン人形に恋した青年、幸せな夫婦を脅かす怪鳥、夜の百貨店に巣くう影のような人々。悪魔的な笑いと奇想に満ちた異色短篇傑作集」という紹介文に惹かれて買ってしまったのだが、全17話の内、まだやっと3話目までしか読み終えていない。

第1話「ナツメグの味」はすんなりと読み終えることが出来た。面白いとも思った。だが、第2話「特別配達」でつまづいてしまった。
ストーリーがつまらないのではない。この第2話は惹句にもある「マネキン人形に恋した青年」の話で、正に奇想である。しかし、これを最後まで読み通すことが僕には非常に苦痛であった。
その語り口調に、むず痒いような、独特の居心地の悪さを感じてしまう。僕は、ふっとある既視感にとらわれた。この居心地の悪さを、僕は以前にも感じたことがある・・・。
すぐにインターネットで「ジョン・コリア」を検索してみた結果、僕の予想は当たっていた。僕がジョン・コリアの短編集を読むのは、実はこれが初めてではなかったのである。

二十代の頃、僕が読んだのは、「ザ・ベスト・オブ・ジョン・コリア」という文庫本であった。そして、その時もやはり今回と同じく、最後まで読み通すのに苦労したのであった。
僕がジョン・コリアに辿り着いたのは、赤塚不二夫の「おそ松くん」→「O・ヘンリー短編集」→「サキ短編集」→「ジョン・コリア」という道筋だった。「おそ松くん」にはよくO・ヘンリーの翻案ものが登場したし、底意地の悪い僕が本家O・ヘンリーからじきにサキへと手を伸ばし、そしてジョン・コリアに対しても興味を持つようになったのは、ごく自然なことであった。だからこの「結果」は、僕にとって非常に意外なものだった。

訳が悪いのだ、とその時の僕は結論付けた。しかし、「ザ・ベスト・オブ〜」の訳者・中西秀男は、今回の「ナツメグの味」には関わっていない。
短編集「ナツメグの味」は、「ザ・ベスト・オブ〜」にも収録されていた4作を含んでいる。明らかになったそんな「事実」も、ますます僕を困らせる。
posted by og5 at 16:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 本・雑誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月03日

「万年筆=カメラ」〜樋口一葉の魅力に目覚める

にごりえ・たけくらべ (新潮文庫)にごりえ・たけくらべ (新潮文庫)
樋口 一葉

新潮社 1949-06
売り上げランキング : 100663

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

篠原有司男のブログ記事に触発されて、樋口一葉「にごりえ・たけくらべ」(新潮文庫版)を読んでいる。年末年始、酒びたりでぐだぐだ過ごしていたため、まだ「にごりえ」と「十三夜」しか読み終えていないが、僕は非常に新鮮な驚きを感じている。
「小説」なのだが、まるで「映画」を観ているようなのだ。いや、「映画」ではなく、「場面」というべきか。

極端に句点の少ない文章は、それぞれのひと区切りを映画のワン・カットと見做すことも出来ようか。
たとえば「にごりえ」の冒頭。「おい木村さん信さん寄つてお出よ」と菊の井の酌婦「お高」が道行く男に声をかけ、体よく断られたのを朋輩「お力」がなだめ、二人の年恰好からいでたちまでを述べた後、「お力」が何やらわけありの手紙を出しそびれているのを、「お前などはその我ままが通るから豪勢さ」と「お高」があきれ、再び「表を通る男を見かけて寄つてお出でと夕ぐれの店先にぎはひぬ。」と結ぶまでが、何と文庫本の約2頁分である。
これは映画のワン・カットにしても随分と長い。しかし、信じられないことに、この2頁が、ポンとひとつの「場面」として(「言葉」による状況説明ではなく、あくまでも「映像」として)、一気にこちら側に届いて来る。そして、それが全編を通して持続するのである。
こんなに映像的な「文学」を、僕は今まで体験したことがなかった。

「にごりえ・たけくらべ」は短編を集めたものだから、それぞれの物語は短い。「にごりえ」も「十三夜」も、運命に弄ばれるように取り返しのつかない選択をしてしまった、あるいは気にも留めずにある運命の曲がり角を曲がってしまった人々(男女)の悲哀が、実に淡々と描かれている。良いも悪いもなく、その人生の一場面は、ただありのままに、一見無造作に切り取られたものであるかのごとく提示される。しかし、この「切り取り方」が、何とも絶妙なのだ。
ヌーベル・バーグの監督達は、「カメラ=万年筆」と宣言し、斬新な作品群を世に送り出した。樋口一葉は、万年筆(おそらくは筆)をカメラのごとく駆使し、本当に数えるほどの作品のみを残して、僅か24歳の若さでこの世を去ってしまった。
この時代(明治)の他の作家達をよく知らないから、この文体が真に「革命的」と呼ぶべきものなのかどうか判断はつかないが、僕の中で、樋口一葉は今最高にカッコいい「表現者」として輝いている。
posted by og5 at 19:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 本・雑誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月24日

ポッキー好きの鹿に会える「鹿男あをによし」

鹿男あをによし鹿男あをによし
万城目 学

幻冬舎 2007-04
売り上げランキング : 3071

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

最近、本屋の店先で何の予備知識もないままただ何となく面白そうだなと思ったその第一印象だけで買った本を立て続けに読んでいる。
万城目学(まきめまなぶ)の「鹿男あをによし」もそんな一冊。

話は単純というか複雑というか、とにかくひと言で説明すると、「神経衰弱」を理由に研究所を追い出され奈良の女子高校に臨時講師として赴任して来た主人公が、いにしえより地下の大なまずを鎮めるため営々と続けられて来た儀式を執り行うための必須アイテム「目」を、鹿(何故かポッキー好き)の「運び番」となってわけも判らず捜し求めるというもので、彼の他にも狐や鼠の「使い番」、そして彼と同じく鹿に選ばれた「使い番」も入り乱れて、大エンタテインメントを繰り広げるのである。
面倒臭い理屈はほとんど出て来ない。この手のストーリーにありがちな余計な薀蓄は二の次で、読者は単純に物語を楽しむことが出来る。何しろ、鹿、狐、鼠の(本来ならややこしいことこの上ないと想像される)やり取りが、そのまま奈良、京都、大阪の3つの女子高の体育大会「大和祭」として描かれるので、何とも楽チンなのだ。
でも、この判り易さって、結構すごいことなのではないだろうか(狐の「使い番」とのやり取りに若干の矛盾があるけれど、まあそれもさほど気にはならない)。

実は、このよく出来たエンタテインメント小説を読み終えて僕が思ったのは、「奈良に住んでみたいなあ」ということだった。これは僕にとっては意外なことで、何故ならそれまであまり奈良を好きではなかったからである(特に嫌いでもなかったが)。
奈良に行ったことは、今まで二度しかない。一度は修学旅行で、二度目は義父の病気療養先を見舞って、である。
憶えているのは、柿の葉寿司が美味しかったこと。チャイの味。ゴマ豆腐。抹茶の爽やかな苦味。
せっかく古都奈良を訪れながら印象に残ったものが全部食べ物というのは自分でもどうかと思うが、抹茶などはちょっと足を伸ばして立ち寄った京都での記憶が交じり合っているのかも知れない。
いずれにしても、あれ程好きだった津島佑子の「ナラ・レポート」を読んだ時にさえ感じなかった奈良への憧れを、「鹿男〜」は僕に感じさせてくれた。
これは特筆しておくべきであろう、と思う。
ラベル:万城目学 奈良
posted by og5 at 17:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 本・雑誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
with Ajax Amazon

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。