2008年09月21日

寝床

「三人寄れば虫の知恵」を読み返していたら、奥本大三郎が「図鑑を真似して絵ばかり描いていました」と語っている部分を見つけた。「今でも図鑑は見ませんか?」と養老孟司が問いかけると、「枕元に積んであります」と答えている。
「枕元に積む」のだから奥本先生の寝床はベッドではなく和式の布団なのだろう、と思った。そして、そういえば、僕自身も昔は畳の部屋に敷いた布団の上で、枕元に漫画や教科書やそれこそ図鑑などはべらし、時には奥本先生と同じように挿絵の模写なんかしたものだったなあ、などと懐かしく思い出した。

僕が自身の寝床を和式から洋式に切り替えたのは、確か中学校後半のことであった。そして、考えてみれば、僕はその時ひとつの天国を失ったのである。
何故なら、ベッドは空間を切り取るが、和式布団の枕元は、そのまま部屋全体の床とつながっているからで、手を伸ばせば(あるいはごろごろとそこまで転がって行けば)すぐに何にでもアクセス可能な和式布団は、確かに(子供だった)僕の天国だったのである。
これは、あるいは単なる感傷であろうか。

僕の父は、中年になったある年に、さる旅館の布団敷きの仕事に就いた。昔から「ひと儲け」を企む癖のある人で、何度も何度も職を替えたが、結局、この「番頭さん」が一番長続きしたのではないだろうか。
妻と僕は新婚当時の僅か2年足らずの期間だけアパート暮らしをしたが、そこで布団を敷くのは僕の役目だった。シーツをぴんと張って、きちんと敷布団の縁に折り込んで行く僕を見て、妻はよく「日本一布団を敷くのが上手い」と褒めてくれた。
そんなことにまでDNAが影響を及ぼすのかどうか不明だけれど、そう言われると僕はとても誇らしく、嫌いだった父のことも何だかほんの少しだけ好きになるような、そんな気がするのであった。
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2008年09月09日

鼻毛の想い出

高校生の頃、中途半端な演劇部員であった。
演劇部にはマリコさんという先輩がいて、思い当たる節もないが何故か僕のことを可愛がってくれた。
部室で何やかやと話し込んだり、文化祭のフォークダンスに誘って貰ったり。それは僕にとっていわば淡い初恋のようなものであったが、幼稚園でも、小学校でも、中学校でも、そして高校でも、その時々の恋はいつでも常に「初恋」だったなあ、と僕には今何となくそんな風に思われるのである。

ところで、マリコ先輩が笑うと、時々鼻毛がニュッと見えた。笑顔が素敵な人だったから、鼻毛もいつも素敵だった。もしかしたらこっそり煙草を吸っていて、そのせいで他の女子よりも鼻毛が伸びていたのかも知れないが、僕はその鼻毛もコミでマリコ先輩のことをとても好もしく思っていた。
マリコ先輩の鼻毛を見るとホッとした。それは、つまり、マリコ先輩の笑顔にホッとするということとほぼ同義な安心なのであった。

結局、マリコ先輩は高校のクラブ活動の先輩以上の存在にはなり得なかった。しかし、多くの「初恋」がそうであるように、だからこそ想い出は美しい。
意味のないことをいくら重ねても空しいだけだという意見もあるのだが、そしてそれは正論だとも思うのであるが、意味のないことの積み重ねにも、やはり愛しさは宿るのである。
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2008年05月21日

フォークと母の想い出

「フォークの背にご飯を載せて食べるなんて、日本人くらいなものです」
昔、永六輔が、日本人のスノッブなことを揶揄してこんなことを言っていた。
レストランでご飯を食べる時どうするのが正しいのか。
今では、フォークの背にご飯を乗せて食べるのがマナーだなどとは誰も言わなくなった。
そもそも正式なコースに「米の飯」が出ることなどないから、こと「ライス」に関しては正しいマナーなどないのだ、という説もあるくらいで、要するに、日本だけのローカルマナー、もしくは単なる勘違いだったということなのであろう。

ところで、実は、僕の母がまさしく「フォークの背にご飯を載せて食べる人」であった。
平成に入って数年後67歳で亡くなった母は、尋常小学校しか出ていない。僕が小学校の頃は、確かずっと小さな板金会社に勤めていたはずだが、そこで後から入って来た高校出の若い女子社員にアルファベットが読めないと馬鹿にされたこともあったらしい。
負けん気の強い母は独学でアルファベットを覚えた。これは「H」だ、これは「E」だ、と雑誌か何かの単語の一部を指差しながらその頃のことを武勇伝のように語る母を、僕は今でもよく憶えている。
そんな母が、デパートの食堂で、まだ小さかった僕にこう教えたことがある。
「レストランでご飯を食べる時はこうするんだ」・・・。
母は、フォークの背にご飯を載せ、そして得意げに口に運んだ。

これは恥ずべきことだろうか。あるいは無知だと言って揶揄されるようなことであろうか。
僕は、未だにあの永六輔の言葉を思い出すと腹が立ち、かつちょっと悲しい気分になってしまうのである。
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2008年04月22日

「レテラ帯」の思い出

いったい何の番組の際流れていたコマーシャルだったのかさえ、今では思い出せない。もしかしたら深夜のスポットCMだったのかも知れないが、僕が中学生の頃に、クラスの馬鹿な男子間で大流行した幻のCMがあったのだ。
「レテラ帯」(れてらたい、と読む)は、別に怪しい商品ではない。今ネット検索で調べてみてもほとんどヒットしないから、一般的知名度はあまりなかったのかも知れないが、そしてまた今ではもう販売すらされていないのかも知れないが、要するにアミアミの、伸縮性に富んだ医療用包帯の一種であったのだ。
ところが、そのCMがとにかくすごかった。

暗い、いかにも予算がなくて照明にお金をかけられませんでした、といった雰囲気が充満する映像。具体的にそのヴィジュアルを表現するのも憚られるほど不細工かつ不健康そうな(何故か下着姿の)モデル。わざと10年間お蔵入りさせていたかようなフィルムの傷み(いや、実際は「新作」なんですよ)。そして極めつけは、オリジナルなことは間違いないが、いったい誰が何の目的でこんな妙な歌を作ったのか、と思わずにはいられないオリジナリティ溢れ過ぎるコマーシャル・ソング。
医療に関わる商品なのに清潔感の欠片もない。誰の好みか、エログロなエッセンスが溢れる返っている。思わず「ピンク映画」、それも「大蔵映画」という単語を思い浮かべてしまう圧倒的ないかがわしさ・・・。

<いくら〜 傷ついたあなたでも〜(あなたでも〜) 優しく〜 優しくつつむレテラ帯〜(レテラ帯〜> ※括弧部分コーラス。
単調かつ短調なメロディーに乗せて、頭部などにレテラ帯を装着したカストリ雑誌から抜け出て来たような半裸のモデルが中途半端にトランポリンをやっている。
激しく動いてもずれないとでも言いたいのか。「ならばもっと活き活きと動け!」と思いつつ、僕のかなりコアな部分を形成するこんな記憶とあんなものが実際にあったのだという「事実」が、平成まで生き延びた僕を少しだけ幸せにする「事実」もまた「事実」なのである。
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2008年02月28日

ドレッシングが来た日

かつて、生で食べる野菜といえば、キュウリ、キャベツ、トマトくらいなものであった。
僕の実家では、生のままの長ネギやラッキョウに味噌をつけてバリバリ食べるという習慣があったが、これはあくまでも特殊な例であろう。
いずれにしても、そこに「野菜サラダ」という感覚はなく、だから味付けも、キュウリなら塩か味噌、キャベツならソース、そしてトマトなら塩とだいたい相場が決まっていたのである。
それぞれ単体の塩味噌ソースを、普通ドレッシングとは呼ばない。僕の実家には、そもそも「サラダドレッシング」という概念が存在しなかった。

お中元か何かの頂き物がどうも「サラダドレッシング」らしい、というのが騒ぎの発端だった。
家中ちょっとうろたえた。ただ言葉としてのみ知っていた別世界のハイカラな液体が、その箱の中には3本も並んでいたのである。
僕達はそわそわと、家の歴史始まって以来の「生野菜盛り合わせ」を準備した。なにしろ「サラダドレッシング」だ。生でなければならない。ほうれん草や白菜のおひたしでは駄目なのだ。
あそこにレタスはあっただろうか。あったかも知れない。パセリはあっただろうか。当然あったであろう。もしかしたら、輪切りにしたゆで卵だって、そこには並んでいたかも知れない。

箱の中から、姉が缶を1本取り出す。そして、缶切りで対角線上に穴を開ける。
とろりと流れ出し野菜に絡み付いて行く金色に輝く液体。
僕達は、何故か少し照れながら、初めての「野菜サラダ」に箸をつけた・・・。

我が家初の「サラダドレッシング」は、実はただの「サラダ油」であった。
それまで、そんなお洒落な缶に入った食用油なんか一度も見たことがなかったから、誰ひとりとして、それが「サラダドレッシング」であることに疑いを持たなかったのだ。
もちろん、ひと口食べた瞬間、僕達は過ちに気付き、箸を置いた。
全員が、無言であった。
そんな、我が家に初めてドレッシングが来た日のことを、僕は今でも時々、ほろ苦く思い出す。

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2008年02月21日

手作り餃子

中国で生産された「手作り餃子」が問題になっている。
「冷凍食品はお弁当に欠かせないので困ります」という街頭インタビューを見て、少なからぬ人が「冷凍食品以外でも弁当は作れるだろうに」と疑問を感じていることであろう。
また、「餃子くらい自分の家で作ればいいのに」という正論も新聞や雑誌などでよく目にするが、問題になっている餃子自体が「手作り」なので、単純に「手作りすればいいのに」と言えないところがちょっともどかしい。

さて、世間で餃子が話題になっているからかどうかは判らないけれど、僕は今日、会社に入ってまだ間もない頃、数名の同僚と一緒にある先輩の家に招かれた時のことを思い出した。
その夜のご馳走のメインはそこの奥さんの「手作り餃子」であり、そして、先輩は、「これだけは自慢出来る『ウチの味』だ」と半ば照れながらもきっぱりと断言したのであった。
僕は、その時、ひどくびっくりしていた。というのも、僕はそれまで「手作り餃子」などというものを一度たりとも食べたことがなかったからである。
実は、初めて食べる「手作り餃子」は、羞恥と狼狽のせいでほとんど味がしなかった。

母は、亡くなるまでネズミのように働いた。子年生まれだったこととは関係ないかも知れないが、元々何かしているのが大好きな人で、父の稼ぐ生活費が足りなかったこともあったのだろう、家事を全てこなしながら、かなり長い期間小さな板金会社に勤めていた。
母は、決して手を抜いていたわけではない。しかし、我が家の餃子は手作りではなかった。
「出来合いの餃子」が僕の常識だったから、家庭で作ったオリジナルな具を皮に包み込んで焼く、などという世界がまさかこの世に存在するなどとは思いもよらなかった。

僕は、何故あの時狼狽し、また同時に恥ずかしいと感じたのだろう。
もちろん、母を恥ずかしいと思ったのではない。そんな家庭環境が恥ずかしかったわけでもない。
強いて言えば知らないことが恥ずかしかったのであり、「手作り餃子」は、僕にとって「豚肉を使わないすき焼き」と同じくらいのカルチャーショックだったのである。
ラベル:手作り餃子
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2008年02月17日

きれいなお姉さん

綺麗なお姉さんの「綺麗」は意味を持った漢字ではなく、「きれい」とひらがなで表記されるべきなのかも知れない。

僕が小学校2年生くらいになるまで住んでいた家の近所に、「ともこさん」というお姉さんがいた。多分、当時中学生くらいだったと思うのだが、そこいら周辺の小さな子供達の面倒をよく見てくれていた。異性に憧れなど抱く知恵がつくはるか前のことではあるから、僕の彼女に対する接し方を的確に表現しようとすれば「なつく」ということになるだろうが、僕にとって「ともこさん」はまさしく「きれいなお姉さん」だった。
「きれい」は「優しい」と同義だったり、「安心出来る」の翻訳だったりする。
「ともこさん」は、今思い返してみれば、そんなに綺麗でもなく、(近所の子供の世話ばかり焼いているくらいだから)同年代の友達もいなかったのかも知れないが、大袈裟に言えば、人間の素晴らしさはそんなこととは関係なく自分にとっての本質をちゃんと見抜くということである。もしくは、より動物的である、ということか。
いずれにせよ、もうすっかり「綺麗」に慣れてしまった現在の僕の目には、おそらく「ともこさん」の「きれい」は見えない。

冬、彼女と僕ともうひとり、僕より更に小さな男の子と3人で、そり遊びをしたのを憶えている。僕はその頃小学校1年生くらいだったろうか。
隣町との境を流れる川と堤防。その堤防に寄り添うように並ぶ集合住宅を左に見てしばらく歩くと、鉄橋に続くむき出しの線路があった。今では考えられないことだが、かつてはこのように、防護柵もない線路が、その地域の子供達の生活と隣接していたのだ。
小さな男の子をそりに乗せ、彼女が引いて僕が押した。そして、やっと線路まで辿り着くと、僕達は途方に暮れてしまった。
暗い空、何もない野原、寒々とした灰色の風景を切るように流れる黒い川と、吹雪の中とぎれとぎれに見える細い線路。僕達の他に、人は、誰もいない。
そこには、楽しいことなど何ひとつなかった。そのことに、突然気付いた。
「帰ろうか」とふいに彼女が言った。
灰色の雪景色を背にした、吹雪の向こうに見える「ともこさん」の顔を、僕は今思い出すことが出来ない。
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2007年11月25日

「砂消しゴム」と「人権」

中学時代、「砂消しゴム」というあだ名のの社会科(公民)の先生がいた。短く刈り込んだ(決して坊主頭ではない)髪型と顔の按配が、製図を書く時などに使うあの灰色と白い部分とに分かれたザラザラの文房具に似ていたため、代々そう呼ばれていたらしい。
その「砂消しゴム」に、僕達は「人権」という言葉を教わった。それは、良いことも悪いこともひっくるめて知恵がつき始め、フォーク・ソングなど聴きながらぼんやりと「反戦」や「反体制」などという言葉の響きに憧れを抱き始めていた14〜15歳の子供には、充分過ぎるほどに刺激的だった。

僕達には教育を受ける権利がある。
僕達と先生は平等だ。
主張が正しいかどうかに大人も子供もない。
僕達には「人権」があるのだ。

ある日、僕を含めた4〜5人の生徒が、その日授業時間中にやらかした何かのせいで職員室前の廊下に正座させられていた。
僕達は、痛み始めた足首や脛をもじもじさせながら、自分達に課せられた不当な懲罰と人権蹂躙、あるいは教育を受ける権利の侵害について小声でゴニョゴニョと、しかし熱く語り合っていた。
僕達の頭の中には、「砂消しゴム」がいた。あの先生なら、この横暴にきっと何事か正しい対処をしてくれるに違いない。
と、正にその時、「砂消しゴム」が職員室の戸を開けて外に出て来た。
「先生、これは人権侵害ですよね?」
誰かがそう問う。
「砂消しゴム」は、困ったように笑った。そして、何も言わずにさっさと帰宅の途についた。
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2007年11月13日

ある暴力

「アフタヌーンショー」という番組があった。
秋田ではテレビ朝日は当時まだチャンネルを持っていなかったから、日本テレビかフジテレビがメインのチャンネルで、本来正午の番組であったにも関わらず、午後の2時から放映されていた。
司会が桂小金治から川崎敬三に替わってからだと思うが、確か、ばばこういちという人が担当するあるコーナーで、それは起こったのだった。

番組には、ある大学のプロレス同好会のメンバーが招かれていた。紹介の仕方は、「今学生の間でプロレスをやるのがはやっている」というような、ごくごく軽いものだったと思う。
だから、力道山っぽかったり、デストロイヤーもどきだったり、いかにもな日系悪役プロレスラーのふん装だったりする大学生達も、最初はすごく嬉しそうだったし、また楽しそうにもしていたのである。

ところが、ばばこういち(確かそうだったと思う)が、急に彼等を非難し始める。学生なのになんだ、というようなやり取りもあったのかも知れないが、僕が憶えているのは、その中のひとりの「ふん装」に対する激しい糾弾である。
「それは弁髪といって中国の人を侮辱するものだ!」と(確か)ばばがひとりの学生を罵った。「別に差別とかそんなつもりはなくて・・・」と彼は弁明しようとしたが、それは間髪を入れず、「意識しない差別が最も悪質だ!」という正論によって粉砕された。
「弁髪」が中国人を侮辱するものなのかどうかについては議論が分かれるところであろうが、どっちにしても彼等、「ゲスト」の大学生達に、もはや逃げ道はなかった。

機嫌良く招き、退路を塞いでから手の平を返したように痛めつけるこの「つるし上げ」は、僕が生まれて初めて意識した、テレビを制作する側の「暴力」であった。そして、これはまた、周到に計算された「陰湿な正義」でもあった。
プロレスに興じる大学生には、何一つ共感するところはない。しかし、彼等は、少なくとも、あの時の「アフタヌーンショー」の作り手ほどには、卑怯でも卑劣でもなかった。
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2007年10月04日

寝小便たれの夢

僕は筋金入りの寝小便たれで、それは11歳の頃まで続いた。逆に、何故そのタイミングでおさまったかというと、小学校の5年生には修学旅行という行事があったからである。
僕は甘ったれだが、またそれ以上に見栄っ張りでもあった。小学生の僕は、多分恥をかきたくなかったのだ。

僕はよくトイレに入る夢を見る。
そのトイレはある寮のトイレで、僕は会社の研修でそこに長期滞在しているのである。
研修は明日で終わる。だから今日は寮で過ごす最後の日ということになる。僕は、食券を持って食堂の長い列に並んだり、二人部屋のドアをノックして同じクラスの研修生達を訪ねて回ったりしている。
浴衣を着た僕は、トイレを探している。いや、トイレはあるのだが、いつも満員だったり、汚れていたりして、どうしても目的を達することが出来ないのだ。エレベーターを使ったり、また時には「木造校舎の3年生の教室につながる階段」を上ったり下がったりして、僕はトイレを探し続ける。
僕は汽車を待っている。研修が終わったのだろうか。大きな鞄を持ち、その中の切符を何度も何度も確かめて、でも結局は乗るべき汽車には乗り遅れてしまう。
僕は汽車に乗っている。その汽車はワンマンバスで、「新屋支所前」のひとつ手前のバス停で、整理券と小銭を運賃箱に入れて僕は下車する。
僕はやっとトイレに入ることが出来たらしい。イルカのショーを見ながら、僕は安心して膀胱を空にしている。だが、そのトイレは詰まっていて、どんどん「水位」が臨界線に近付いて来る・・・。

僕は、はっとして目を覚ます。そして、ああよかった、と安堵する。
僕はふらふらとトイレのドアを開ける。
現実のトイレは、味気はないがいつでも頼もしい。

僕のかつての寝小便癖とこれら夢の間に何らかの因果関係があるのかどうかについては全く定かではない。決して見て楽しい夢ではないが、しかしまた嫌な夢でもない。
これは不思議なことである。
トイレの夢を見るということが一般的にどういう意味を持つのか、またどれくらいの人がどれくらいの頻度で見るものなのかも判らないけれど、僕にとってこれはもしかしたら一種のノスタルジーなのかも知れない。
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2007年09月13日

はな

それは、67歳で亡くなった母の出棺の日の出来事であった。

霊柩車に乗り込んだ僕は、棺の扱いや手順に間違いがなかったかどうか葬儀社の男に訊ねた。車はもう動き出していた。運転しながら男は、「ええ、何も問題はありませんよ。大丈夫です」と言った後、ふと思い出したように、「ただ、お棺に花を入れてあげればよかったなと思いますけどね」と付け加えた。
僕は、取り返しのつかないことをしてしまった、と思った。そのように、悟った。僕は、母にただ一輪の花も手向けずに、棺に釘を打ってしまったのだ。

霊柩車は斎場に着き、母は焼かれて骨になった。
ハナというのが、僕の母の俗名であった。

ある日、母の日に亡くなった僕の母のためにと、妻は大きな大きな花束を用意してくれる(それは豊かな花束だった。美しい花束だった)。
僕は声を出してオイオイと泣く。イタリアン・レストランの駐車場で、おんぼろ車の運転席に座り、僕はとにかくずっとずっと泣き続ける。
助手席で、妻も一緒に泣いている。

その花束は、実は僕のための花束であった。
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2007年09月10日

オーダー

もうかなり前のことである。
休日、ひとりで入った喫茶店で朝食を食べた。
その店のモーニング・セットは、パンと玉子料理をそれぞれ二種類の中から選ぶことが出来るというシステムになっていて、クロワッサンではなくトーストを、スクランブル・エッグではなく目玉焼きを、僕は選んだ。
その頃夢中になっていた佐藤多佳子の「一瞬の風になれ」が佳境に入っていたのでぐいぐい読んでいたら、すぐに大きな皿に乗った僕の朝ごはんが運ばれて来た。
大き目のカップにたっぷり注がれたコーヒーとこんがり焼けたトースト。そしてサラダにベーコン。ところが、玉子料理が目玉焼きではなくてスクランブル・エッグだった。
僕とウェイトレスはほぼ同時にそのことに気付き、まず最初にウェイトレスが「目玉焼きでしたよね」と言った。
「そうですけど・・・」と口ごもって、僕は考えた。
このほかほかと湯気を立てているスクランブル・エッグは、せっかくフライパンで炒られてきれいに皿に盛られたというのに、おそらくは誰の口に入ることもなく捨てられてしまうのである。僕には元々、そこまでして目玉焼きを食べたいという気はない。目玉焼きでなくても、一向に構わないのである。
「これ、捨てることになるんですよね」と僕は訊ねた。
相手は、しかしそれには答えず、「5分くらいで出来ますから」と、もう既に皿ごと引き上げようとしている。
「それを食べますから」と僕は3度申し出た。そして、その3度目で、相手がどうもそう言われて困っているようだ、ということに気が付いた。
店内には、僕の他にもまだ数人の客がいた。僕とウェイトレスのやり取りなど多分誰も聞いていなかっただろうが、僕は人目が気になった。我が儘を言っているのは、僕なのであった。
僕は、遂に諦めた。
相手の言いなりになって、スクランブル・エッグを捨てて、作り直された目玉焼きを食べることに同意したのだ。
目玉焼きは美味しかった。
そして、確かに、それが僕のそもそものオーダーだったのである。
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2007年01月22日

祖母の話

「寝小便たれ」だった僕は、ひと仕事終えてはそっと自分の布団を抜け出して、別の部屋にいる祖母の元へと忍び込んだ。母は仕事をしていたし、僕は毎日のようにやらかしていたから、当然ながら僕の不始末に母は厳しく、祖母が云わば僕の避難場所のようになっていたのであった。
僕が布団にもぐり込むと、祖母は無条件で受け入れてくれた。夜尿症の夜もそうだったが、母あるいは父に叱られて、ただ何となく甘えるために祖母の布団に忍び込むこともあった。
そんな時、祖母はよく昔話をしてくれた。
浦島太郎や桃太郎のようなオーソドックスな昔話も多かったが、時には人形浄瑠璃「傾城阿波の鳴門巡礼歌の段」というようなこともあった。
もちろん、当時の僕がそれと知って聴いていたわけではない。「ととさまの名は〜」とか、「あ〜い〜」とかいう台詞を断片的に記憶していて、後に確認したのである。

祖母の話で一番印象に残っているのは、「祭りの夜の姉弟」の話である。実に中途半端なストーリーで、その後オリジナルを発見することもなかったから、もしかしたら祖母の創作だったのかも知れない。
話の筋は単純である。

祭りの夜、貧しい姉と弟が、親から貰った十円をそれぞれ握りしめて夜店を巡る。二人は幸福である。きらびやかで雑然としたたくさんの出店、その店先に並んだ見たこともないようなピカピカした品々、そして遠くから聞こえて来る賑やかな祭りのお囃子、人々の笑い声・・・。わたあめ、射的、輪投げ、金魚すくい、べっ甲あめ、水風船。あれもしたい、これもしたい、あれも食べたい、これも食べたい。二人はグルグルグルグルと夜店を観て回った。
ところで、二人は今まで一度も金魚すくいというものをしたことがなかった。だから、とうとう一軒の店の前で立ち止まり、ギュッと握りしめていた十円玉を店番の男に渡した。ビニールを張った長方形の水槽の中では、赤やまだらや黒の金魚が裸電球の明かりを反射しながらひらひらと、あるいはスイスイと泳いでいた。最初、姉がやってみたが失敗した。次に、弟も失敗した。それで、お終いだった。
あんなに楽しみにしていた年に一度のお祭りは、二人にとってもう何の意味もないものに成り果ててしまった。二人は、手をつないでとぼとぼと、貧しい父と母の待つ貧しい家に帰った。

人形浄瑠璃もそうだが、祖母は何故こんな話を年端もいかぬ子供に聴かせたのだろう。
「ととさまの名は〜」の方は、まだ、自分が好きなものを口に出して言うのが嬉しくて、僕はただそのだしに使われていただけだったのかも知れないとも思えるが、後の金魚すくいの話の方は全くの謎である。
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2007年01月17日

氷の花やカーテンの葡萄畑のことなど

今日は暖かかった。しかし、朝の内は放射冷却のせいだろうか結構冷え込み、出勤時の道路は薄く凍っていた。自分自身の出勤前に妻を駅まで送ったが、車の窓にも一面にガラス細工の飾り彫りのような模様が出来ていて、爪で擦るとそこだけ白く色が変わった。

小学校低学年の頃、僕はよく家の中でぼんやりしていた。それが冬だと、やはり窓ガラスには氷の花が綺麗な模様を作っていたものだ。
最近では、家の窓ガラスにあのような模様が出来ることなど、まずないと言ってよい。当時はアルミサッシもなかったし、FF式のストーブもなかったから、家の中と外はもっと曖昧だったのだと思う。
とにかく、僕はぼんやりと冬の寒さが作った透明な花を見ていた。いくら見ていても、飽きるということはなかった。

子供の頃の部屋の中には、いつまでも見飽きないものがまだ他にもあった。
そのひとつがカーテンの模様で、その頃我が家の部屋の窓にかかっていた、安物のカーテンの葡萄のツルと房のパターンが、僕にはとても不思議に思えたものだった。
確かに同じ模様なのに、まるで物語を読むように、僕の目は縦に横にそして斜めにその柄を辿った。ひとつが次のひとつに連なって、互いに相手の一部となってまた同じ模様を繰り返す。
氷の花は、隙間風が作る内外の曖昧さの中に咲くが、カーテンの模様は水平に連なって、その境界線の曖昧さを際限なく増幅させて行く。

天井の板の木目など、多分今の子供達は知らないだろうが、あれも見飽きないもののひとつだった。
そして、これにはちょっと怖い部分もあった。
昔のことだから、雨漏りまで行かなくても、滲み出して来た湿気が元々の木目模様に悪戯をすることがよくあって、そのシミが人の顔に見えたり動物の顔に見えたり、時には名前も知らない何かに見えたりするのだ。
当然、「名前も知らない何か」が一番怖かったが、同時にそれはまた妙に懐かしい感じのするものでもあった。
だが、子供の思う懐かしさというのは、今感じる「懐かしさ」とは全く種類の違うものだった。

人間の年代にそれぞれの異なる懐かしさがあるように、季節にも四季それぞれの懐かしさというものがある。
冬には冬の、春には春の、夏には夏の、そして秋には秋の懐かしさがある。
今年は暖冬とはいえ、僕はやはり日本に生まれて来て幸せだった、と思うのだ。
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2006年12月30日

「卒業式の歌」

年末に、何故か卒業式のことを思い出している。
思い出しているのは小学校の卒業式で、その時歌われた歌が僕は大好きだったのである。
普通卒業式といえば誰しも「蛍の光」あるいは「仰げば尊し」を思い出すのかも知れないが、僕にとって卒業式の歌といえば、何といってもそのものズバリ「卒業式の歌」である。

昭和30年代から40年代にかけて僕が通った小学校では、何かことがある度に椅子を胸の前に掲げて体育館まで行進した。イベントの重要度によって「椅子なし体育座り」か「椅子持参行進」かが変わるわけだが、卒業式はもちろん後者である。
卒業生、在校生、先生達は、みんなして実際に式のあるその日まで、何度も何度も本番に向けた練習をした。そして、そのメインがこの「卒業式の歌」の練習だった。

「卒業式の歌」は組曲になっている。
まず冒頭全員で「♪うららかに春の光が〜」と歌い出す。「♪良い日よ/良い日よ/良い日今日は〜」と続く。
次に歌うのは在校生で、「♪仲良く遊んでくださった6年生のお兄さん/やさしく世話してくださった6年生のお姉さん〜」と感謝の気持ちを述べると、それに対して卒業生が「♪ありがとう君たちありがとう〜」と応えるわけである。
僕が特に印象強く憶えているのは先生のパートで、「♪君たちよ先生はいつも待っている〜」と記憶していたのだが、調べてみたら正しくはどうも「待っている」ではなくて「見つめてる」であったらしい。
僕の記憶違いか、あるいは当時の音楽の先生が勝手にアレンジしたものだったのか、今となっては確かめるすべもない。

「卒業式の歌」を思い出したついでに、中学校の卒業式のことも思い出した。
当時、僕達の間では「レザーカッター」というものが流行していた。これは要するに、床屋に行って散髪するのがカッコ悪いという当時の風潮を反映したグッズで、よせばいいのに卒業式を間近に控えたある日、僕は友人数人と互いの髪をこのレザーカッターでカットし合った。
友人達にはなんの問題もなかった。しかし、僕の右耳の上あたりには、完璧なハゲが出来ていた。
僕はマジックでそのハゲを塗り潰して卒業式に出たが、マジックが油性だったために、角度によってそれはピカピカと光を放つのであった。
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2006年12月16日

銀のクレーン

子供の頃、僕は、堤防の外側に長屋のような住宅がずらっと建ち並ぶ、太平川沿いのある町に住んでいた。僕の家は、その「長屋」の手前の、堤防と垂直にぶつかる砂利道に面した左側二軒目にあって、斜め向かいには、父親が新聞社に勤めるT一家が住んでいた。T家には二人の兄弟がいて、兄は僕よりも少し年上、弟は僕より少し下で、僕はもっぱらこの年下の弟の方と遊んでいた。
T家は我が家より裕福だったのだろう。遊びに行くと、自分では決して親に買ってとは言えないようなおもちゃがいくつもあった。銀のクレーンをぶら下げた、赤と黄色の塗料がピカピカ光るクレーン車も、そういうおもちゃのひとつだった。僕は、このクレーン車に、とりわけ長いアームから銀のチェーンで吊り下げられたキラキラ光る銀のフックに夢中になった。
僕は銀のクレーンに恋焦がれ、そしてある日、とうとうその鎖をちぎって盗んでしまった。

悪夢のような日々が始まった。ついに手に入れた銀のクレーンは、宝物として、夏休みの肝油の空き箱にきちんと収められていたが、そしてこっそりとその蓋を開け、蓋を開けた途端に中からピカピカの銀色が見えた時にはドキドキと胸がときめきもしたのだけれど、そこにはずっと払い除けようのない黒い霧のようなものが横たわっており、学校にいる時にも、夜布団の中で眠りに入ろうとするその瞬間にも、いつでも僕を苛むのだった。
結局、僕は罪の重さに耐え切れず、(多分)母親に付き添われて、T家に銀のクレーンを返しに行った。
新品を買って渡したのか、お金で弁償したのか、それともただそのちぎれた鎖とクレーンの残骸をT家の誰かに差し出して許して貰ったのかはもう憶えていない。

友達が大事にしていた蝶の標本を盗んでしまうエミールという少年の話を、僕はそれからしばらく後に国語の教科書で習うことになる。確か「エミールの蝶」という題名だったと記憶していたのだが、調べてもそんな題名の小説はなく、ヘッセ作の「少年の日の思い出」というのがどうやらその作品の元になっていたようだとやっと今日知ったのである。
エミールは、最後その蝶の標本を握りつぶしてしまうのではなかったか、と記憶している。
少なくとも、僕は銀のクレーンを相手に返し謝ることが出来た。あのまま知らんぷりをしたり、銀のクレーンを何処かに捨ててしまったりせずに本当によかった、と思うのだ。

※フォスカさんのブログ「黒い雑記帳」の記事を参考にさせて頂きました。
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2006年10月07日

マイ・ビッグ・フット

足の大きいことが、僕のコンプレックスだった。僕は今、身長175センチで靴のサイズは26.5くらいだから、特に大足というわけでもないのだけれど、小さい頃はもっとバランスが悪かったのだろう。
僕は、しもやけにもひどく悩まされていた。靴下をはくのが大嫌いだったこともその一因だったのかも知れない。僕の足指(特に小指)は、寒い季節になるとしょっちゅう赤くぷっくりと腫れ、チリチリと痛痒く疼き、トックトックと脈打っていた。冷やすといくらかその痒さ痛さは紛れた。しかし、裸足でいると当然血のめぐりが悪くなり、ますます僕のしもやけはひどくなっていった。悪循環であった。
とにかく、僕は足の大きい(少なくとも自分でそう思っている)子供で、その足はしもやけで不恰好に腫れていた。また、足が大きいと笑われたことが、僕の父嫌いの大きな要因でもあった。

中学校に入り色気づく頃には、僕のコンプレックスは最高潮に達し、僕はやがて意識して小さめの内履きや靴を履くようになっていた。この「プチ纏足」は、僕の足の血のめぐりをより一層悪くし、しもやけを悪化させ、指の形をいびつにした。
友達と遊ぶ時も、僕の足はきつい靴の中でいつも悲鳴を上げていた。
水が高い所から低い方へ流れるように、欲求不満や鬱憤も、より低い所、より弱い者へと自然に流れて行く。
僕の中で一番弱いのが、僕の足だった。

不思議なことに、いつ、何がきっかけでこのコンプレックスが解消されたのかを、僕は全く憶えていない。気がつくと、僕はしもやけのない冬をごく普通に毎年迎えるようになっており、靴のサイズにももはや悩まなくなっていた。
僕は、今では(少なくとも)自分の足には、全く劣等感を持っていない。むしろ、自分の足が好きなくらいで、足は大きい方がいいとさえ思う。
実際、(特に男で)足の小さい人(小さい靴を履いている人)を見ると、何だかその人の器が小さいような、信用がおけないような、そんな気がしてしまうほどなのである。
本当は今でもまだコンプレックスが残っていて、この感情はその裏返しなのではないかと考えると、ちょっと嫌な気分になるのだが。

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2006年09月17日

聖なるかな願い

高校生の時のことである。
僕はバスに乗っていた。バスは秋田駅前ターミナルで出発時間を待っており、僕の座った側の窓からは緑屋前の歩道が見えた。
僕は、じっと窓の外を見ていた。実は、あるものを見続けるために、わざとこちら側に座ったのである。
バスに乗る前に、僕は今自分が見ている歩道のちょうどその辺りでひどく逡巡していた。緑屋に向かって左手にある地下道の出口付近に、身体に障害を抱える高校生くらいの男女が数人立ち並んで、募金箱を抱え、懸命に、通行人に何事かを訴えていた。
僕の心の中には強い葛藤があった。そのために、僕はそこから簡単に離れることが出来ず、行きつ戻りつを繰り返していたのである。
結局、僕はそこから逃げ出した。募金箱に僅かな小銭を入れることも出来ず、バスターミナルに向かったのだ。
後悔と自己嫌悪と論理的な言い訳が、僕の中でグルグルと回っていた。

と、広小路側の角を曲がって、一人のシスターが歩いて来るのが見えた。年の頃は60台半ばくらい。眼鏡をかけ、杖を手にし、そして(確か)グレーの頭巾をかぶっていた。
僕の胸はドキドキと高鳴り始めた。僕は、遂に自分に罰が下されようとしているのだと思った。僕の言い訳、自己正当化のための屁理屈の数々が、消し難く、窓にうっすらと映る僕の顔に「恥」として刻み込まれているような気がした。
彼女は、ゆっくりと、募金箱を持った一団に近付いて来る。僕は、もちろん「神」にではないが、何か名前もない大きなものに祈るような気持ちでそれを見つめている。
彼女なら、彼女のような人達なら、何の躊躇もなく彼等に施しをするだろう。僕のような、小市民的な悩みなど微塵もなく、息をするように、ごく自然に、困っている人達を助けるだろう。
しかし、そのシスターは、何の躊躇もなく、身体障害者達の前を通り過ぎた。息をするように、ごく自然に、あまりにもあっけなく。

バスは、ポカンとしている僕を半分その空間に残したまま、黒い煙を吐いて発車した。
我に返った僕は、もうキリスト教なんか信用しないと身勝手に憤ったが、そもそも募金箱に小銭を入れるということ自体、彼等の神とは一切関係のない行為だったのではないか、と今では思う。
この「事件」には、いくつかの教訓が含まれている。
ある場面に遭遇した時に問題になるのは、結局自分自身がどうするかだけなのだということ。見た目やどんな団体に所属しているかだけで人を判断してはいけないということ等々。
この世には聖なるものなどないし、また聖なるものでないものも存在しないのだ。

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2006年09月04日

金座街

昔、秋田駅前には金座街という一画があった。子供の頃の僕も、東京に銀座というきらびやかな街があることだけは知っていたから、秋田はきっと真似をしているのだ、などと何となく思っていた。

金座街には、決して一人では行かなかった。親と一緒であっても、金座街に足を運ぶ機会は年に数えるくらいしかなかった。金座街はごみごみとしていて、まるでマッチ箱を組み合わせた迷路のようで、子供の僕には何だか少しこわい場所だった。

千秋公園の花見の後には、それでもいつも家族揃って金座街に行った。家族揃ってといっても、そこに父がいたかどうかについては記憶が定かではない。そして、食堂やおもちゃ屋や洋服屋が際限なくあるその場所は、僕にはやはり異界だった。

僕は、子供の頃から、予め言い訳を考えてしまうような性格だった。金魚すくいも、何度かやってはみたかも知れないが、上手くいかないことへの恐れや、人に見られているという自意識が僕をカチカチにし、そのことが僕を、わざとモナカを乱暴に水にくぐらせて一瞬にして全てを台無しにしてしまうという行動へと駆り立てた。僕はすぐに、金魚すくいの嫌いな子供になってしまった。

一匹もすくえなかった子供には、金魚すくい屋のおじさんは決まっておまけをしてくれた。赤や黒の小さな金魚の入った透明なビニール袋を手に持って、僕は家族と一緒に金座街の食堂に入った。
注文した中華そばが来るまでの間、食堂のイスの背中に引っ掛けた透明なビニール袋を、僕は飽きもせずに眺めていた。

金魚は、多分すぐに死んでしまったのだと思う。僕には、あのビニール袋を家に持ち帰ったかどうかの記憶すらない。
金座街も、もう何十年も前になくなってしまった。
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2006年08月07日

顎が落ちて来る

顎関節症というのだろうか、医者には行かなかったので正式な症名は不明であるが、20〜30代の頃、僕の顎は頻繁に外れた(僕の顎は右でも左でも構わず、しかし片方ずつ外れるという癖があった)。
一番最初は映画館の中で、その時僕はあるつまらないアメリカ映画を一人で観ていた。

もう題名も思い出せないその青春映画は、みんなに無理矢理生徒会長にされた冴えない男子高校生が、ダンス・パーティだったかダンス・コンペティションだったかを、教師の反対等山積する様々な問題を乗り越えて成功させ、最終的に多くの生徒達の人望を勝ち取る、というストーリーで、とにかく主役を演じる役者が、いくら冴えない男子高校生という設定とはいえあまりに魅力に乏しく、映画館の暗闇の中、僕は途中からもうかなり退屈していたのであった。
退屈すればあくびが出るのは世の必定である。人目があれば口を大きく開けないよう気を遣いもする。手をあてがい、あるいは出るあくびを噛み殺したりもするかも知れない。しかし、そこは映画館の中、しかも上映中の真っ暗闇の中であった。
僕はあくびをした。そして、それは全く開放感に満ち溢れた完璧に自由なあくびだった。僕の顎関節に異変が起こり、殆ど生まれて初めて、そこに関節というものがあるのだと意識したのは正にその瞬間だった。

その時、実は映画はクライマックスを迎えていた。クライマックスに退屈のあくびが出る映画というのもどうかと思うが、しょうがない、出たものは出たのであって、その結果僕の顎は外れてしまったのである。問題は、もうじき映画が終わり照明が点くということであった。醜くて冴えない男子高校生がいい気になって同級生達に祝福されている。僕は口をココロのボスのように開けたまま涎を垂らしている。こんな姿を人に見られたくはない。これは僕にとっては悲劇だが、他人にとっては正に喜劇であろう。笑わせる気もないのに人に笑われるのだけは御免だ。この映画にもう一波乱はないのか。ああもうエンド・ロールが流れ始めた。ああもう曲が終わりそうだ。ああもう映画会社のマークと世界で何番目の映画かというあの読めない数字が・・・。

場内が明るくなった時、幸いにも僕の顎は元の位置に納まっていた。人間、いざとなれば初体験でもどうにかなるものである。
嵌ったとはいえ顎はジンジンと痛んだが、僕はグッタリと固いシートにうずくまり、一人だけ場違いにハアハアと荒い息を吐きながらも、内心ホッと安堵の溜息をついていた。

経験から言うと、顎というのは直線的にいくら力を加えても嵌ってくれるものではなく、一度縦に引っ張って、位置をずらしてから斜めに力を加えてやらないとどうにもならないものである。今ではそんなことは充分身に染みているので、例え顎がまた外れてしまっても焦りはしないだろうが、でも、やっぱり嫌だなと思う。

※これが噂のココロのボスです。
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