2008年09月15日

ハンバートハンバート!

まっくらやみのにらめっこまっくらやみのにらめっこ
佐藤良成

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ハンバートハンバートのアルバム「まっくらやみのにらめっこ」を、僕はここ数日間、毎日、繰り返し繰り返し、何度も何度も聴き倒している。

いきなりザ・ウィーザーばりのパワー・ポップ「バビロン」で幕を開ける。「癒し系フォークデュオ」などと評されることもあるという彼等だが、そのサウンドは結構逞しい。佐野遊穂も佐藤良成もとても温かみのある声をしているから、それでそんなことを言われてしまうのかも知れないけれど、いや、別に「癒し系」というのが悪いと言いたいわけではないのだけれど、そんなラベルを貼ってしまうことによって見逃してしまう大切なこともたくさんあるように思われる。

「枯れ枝」、あるいは「静かな家」のような典型的なアコースティック・サウンドの曲にしても、癒されるというよりも胸を抉られる感覚の方が強い。胸を抉られ切なくなることによってこそ得られる「泣いた後」のような状況を「癒された」と呼ぶのなら、彼等は確かに「癒し系」なのかも知れない。だが、それは非常にシビアで、ある意味残酷な「癒し」である。
一方、「大宴会」や「おいらの船」には生命力があふれている。葬式の歌が生命力にあふれているというのも妙な話であるけれど、そこには多分真実がある。これもまた安易な慰めなどでは決してない。

曲作りのほとんどを手がける佐藤良成の歌詞が素晴らしい。また、時に明らかに男の立場で語られるそれらの歌を、女性である佐野遊穂が歌うことによって生じるアンバランスな感じもこのグループの大きな魅力のひとつである。それを、あえて「色気」と呼んでもいいだろう。
(何処までが本当で何処からが虚構であるかは別にして)「透明人間」によって語られる売れてしまったミュージシャンの不安と焦燥は、佐野遊穂の声で歌われてこそあのように胸を打つ。

というわけで、話は尽きないのだが、僕が彼等の他のアルバム全てを一気に注文してしまったことは言うまでもない。
ハンバートハンバートを聴かないで、僕は今までいったい何をやっていたのだろうか。
posted by og5 at 12:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月14日

大いなる助走

<蛾が羽をプルプル震わせているのは、飛び立つために必要となる体温を確保するため、必死になって身体を動かしているのだ>・・・。

僕はこのことを「三人寄れば虫の知恵」で知ったのだと思っていた。これは、 養老孟司、池田清彦、そして奥本大三郎による虫オタク全開の対談本で、虫好きでなくとも大いに楽しめる傑作だが、今朝パラパラと読み返してみたけれど、該当するような記述を見つけ出すことは出来なかった。
いずれにせよ、蛾は準備運動をする生き物で、そのため今まさに叩き潰されようとしているというのに、一向に飛び立たず、羽を小刻みに動かしながら、その辺をうろうろと動き回っているのである。

自分がもし蛾だったら、などと小学生の作文か詩のように想像してみる。
飛び立てないのは、夜になって窓ガラスが冷たくなったのにも気付かず、怠惰に外の景色など眺めていたからだ。どんなに焦っても空中に舞い上がるほどの体温にはまだ程遠い。
ウロウロウロウロウロウロウロウロ。
プルプルプルプルプルプルプルプル。
無闇に粉を飛ばすんじゃないと言われたって、こっちだって好き好んでこうしてるわけじゃない。
ウロウロウロウロ。
プルプルプル。
でも、ああ、もうじきだ。もうじき身体が温まる。温まってエンジンがかかる。
ブルンブルンブルン。
それっ!

大いなる助走は、このようにして終わる。

もしもの時を考えていつも暖かい場所にいればいいのにね。あるいは、最初から蛾になんか生まれて来なければよかったのにね、などと無理な注文をされても出来ないものは出来ないのだ、とあらかじめ考えておいた言い逃れを言う。

<蛾は蛾に生まれるのではない。蛾になるのだ>・・・。

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2008年09月13日

インターネット

いつからかインターネット上の情報の方が既存のメディア媒体のそれよりも信頼がおけると思うようになっている。だが、それはネット情報が新聞よりも正しいから、とか、公平だから、とか、そんな理由によるものではない。いや、よくその匿名性が揶揄されることでも知れるように、ネット情報の正確性、あるいは公平性はすこぶる怪しい。だが、だからこそ、僕はインターネット上を飛び交う「カオス」を、既存のご立派な「ジャーナル」よりもよっぽど信頼するに足るものとして認識しているのである。

嘘もホントもある。これがネット情報を僕が絶対的に信じられる、と思う決定的なポイントである。何故なら、既存メディアにはホントしかないからである。しかも、そのホントが、何故ホントなのか、実は誰も知らないからである。
前段にも書いた通り、ネットは常に匿名性のせいでその信憑性に疑義を呈される。しかし、新聞において、あるいはテレビにおいてさえ、匿名でない情報など実はごくほんの一部を占めるに過ぎないのだ。新聞社名、あるいはテレビ局名が、さも「署名=責任ある発言」であるかのように(あえて言ってしまえば)勘違いされているに過ぎない。

だからこそ、嘘でもいいから「反論」が必要なのだ。最も大事なことは「疑う」ことではないのか。だったら、それは「匿名」でもちっとも構わない。名乗らなければならないから反論も出来ないより、無責任でも反論出来る方がいい。
嘘を含んでいるかも知れないと思われる情報を前にした時、人は慎重になる。そうならざるを得ない。少なくとも、そのような「態度」を喚起するだけでも、インターネットは既存メディアよりも正直だと思う。
インターネット情報は、図らずも「誠実」なのである。
posted by og5 at 20:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

小人と僕

プライオリティ付けをしっかりして業務に当たっている時ほど、そしてそれがギリギリであればあるほど、予想外の「しなければならないこと」が発生しがちなものである。僕はストレスに弱い。すぐにゲンナリしてしまう。
そんな時(最近)、僕は「ああ、また小人さんが仕事を運んで来た」と思うようにしている。
すると、あら不思議。重苦しい気持ちがまるで嘘のようにすっきりと消えてしまうのである。

僕は元来怠け者である。仕事もあまり好きではない。もちろん、全ての仕事を嫌いだと言うわけではなく、ずっと同じ事を繰り返すような作業、例えば袋貼りとか豆のスジむきとかなら、きっと誰よりも勤勉に勤め上げられるであろう自信があるのだが、残念ながら僕の仕事は「そんなこと」ではない。。
だから、会社勤めは僕にとって非常に大きなストレスになる。それに、会社では、仕事だけではなく、人間関係もまた煩わしい。

9月に入ってからの僕は、多分楽しかった盆休みが長く後を引いているせいだと思うのだけれど、ずっとマイナス思考にとらわれ続けていた。
そこに、小人さんがふいに姿を現した。
余計な仕事を運んで来る小人さんはお荷物だが憎めない。人の悪意や意思疎通の難しさも、一緒に困った顔をして側にいてくれる小人さんを想像すれば、何とか乗り切ることが出来る(ような気がする)。
posted by og5 at 15:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月11日

武富健治の「世界」について

掃除当番―武富健治作品集掃除当番―武富健治作品集
武富 健治

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武富健治の短篇集「掃除当番」を読んだ。
これは、「鈴木先生」によって「第11回文化庁メディア芸術祭優秀賞」を受賞した武富の、ほぼ10年くらい前の作品を中心に編まれた、言ってみれば「前夜的」作品集である。
表題作「掃除当番」は、「掃除当番をいつも真面目にやってしまう私」の小さな小さな、しかしまた同時に深い深い物語である。私・丸山康子と、サボりはしないが一所懸命でもない男子二人、そして必ずサボる他の同級生達と教師の正論との間に起こる葛藤が、康子の内面へ内面へと向かう独白によって語られて行く。

初めてこれを読んだ時、僕はすごくショックを受けた。ほんのちょっと右か左へ傾いたらエロ漫画かパロディーにでもなるしかない危ういバランスの上に立って、「純文学」が宮谷一彦の画によって表現されていたからである。
宮谷一彦だけではない。武富健治の作品の後ろには、例えば山田花子(「神の悪フザケ」)、あるいは「永沢君」を描いていた頃のさくらももこの影が、時に垣間見えるような気がする。武富健治の漫画には、何かそういう「古さ」があると思うのである。
もちろん、それは決して悪いことではない。

「掃除当番」があまりに面白かったので、僕はすぐさま本屋に走り、未読だった「鈴木先生」を買って来た。そして、夢中になって読んだ。そこには、まるでドストエフスキーの小説にでも出て来るような(単なる記号ではない)生身の人間がいた。
彼等は都合のよい記号ではないのでぶれる。そのブレが生々しい。「鈴木先生」の中の生徒達は勝手に動いている。もしかしたら武富健治は、登場人物をコントロールしようなどと思っていないのではないか、とさえ思わせる。僕が息をしているこの世界と地続きの何処かで、彼等もまた今確実に息をして生活しているのである。

「掃除当番」も「鈴木先生」も、その同じ「世界」の中にある。

鈴木先生 (1) (ACTION COMICS)鈴木先生 (1) (ACTION COMICS)
武富 健治

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2008年09月09日

鼻毛の想い出

高校生の頃、中途半端な演劇部員であった。
演劇部にはマリコさんという先輩がいて、思い当たる節もないが何故か僕のことを可愛がってくれた。
部室で何やかやと話し込んだり、文化祭のフォークダンスに誘って貰ったり。それは僕にとっていわば淡い初恋のようなものであったが、幼稚園でも、小学校でも、中学校でも、そして高校でも、その時々の恋はいつでも常に「初恋」だったなあ、と僕には今何となくそんな風に思われるのである。

ところで、マリコ先輩が笑うと、時々鼻毛がニュッと見えた。笑顔が素敵な人だったから、鼻毛もいつも素敵だった。もしかしたらこっそり煙草を吸っていて、そのせいで他の女子よりも鼻毛が伸びていたのかも知れないが、僕はその鼻毛もコミでマリコ先輩のことをとても好もしく思っていた。
マリコ先輩の鼻毛を見るとホッとした。それは、つまり、マリコ先輩の笑顔にホッとするということとほぼ同義な安心なのであった。

結局、マリコ先輩は高校のクラブ活動の先輩以上の存在にはなり得なかった。しかし、多くの「初恋」がそうであるように、だからこそ想い出は美しい。
意味のないことをいくら重ねても空しいだけだという意見もあるのだが、そしてそれは正論だとも思うのであるが、意味のないことの積み重ねにも、やはり愛しさは宿るのである。
posted by og5 at 21:14| Comment(4) | TrackBack(0) | 記憶 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月30日

今判る普遍性〜「光る風」

光る風光る風
山上 たつひこ

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山上たつひこの「光る風」が復刻された。
少年マガジンに連載されたこの異色作品を僕が初めて読んだのは、朝日ソノラマのコミックスで、全3巻だったと記憶している。
当時、僕は既に山上の「旅立て! ひらりん」の愛読者であった。「旅立て! ひらりん」は、「がきデカ」あるいは「喜劇新思想大系」以前の、いわば夜明け前的状況における山上たつひこの意欲作であったが、今にして思えば、「光る風」から脱皮しようとする山上の必死のあがきだったのかも知れない。

「光る風」は、良くも悪くも「近未来SF」である。描かれる年月日は伏せられているが、明らかに1970年代のいつかだし、エピソードについても、在日米軍や公害問題など、非常にリアルな「日常との接点」をあくまでも保持している。
また、特にその思想的バックボーンは、あからさまに「左翼思想」なのであって、当時の、そして未だその呪縛から解き放たれないままとなっている現在の「大衆」あるいは「知識階級」の「嗜好」を踏襲している。
だから、実に久し振りに本書を読み始めた僕の印象は、最初あまり良いものではなかった。山上たつひこにしても、やはり時代の洗脳からは逃れられないものなのか、というのが僕の正直な感想であった。

しかし、読み進むに連れて、印象はどんどんと変化した。山上たつひこが、時代の空気から逸脱し、普遍的な世界へ一歩また一歩、ずんずんと踏み込んで行ってしまうからである。
思えば、あの「がきデカ」の世界だって同じようなものなのではないか。世間の良識と新たなモラルの間で右往左往する「一般大衆」を、こまわり君だけが冷静に見つめている。しかも、彼は常に拒絶され軽蔑される「フリークス」的存在であり続ける。

「光る風」ファンの多くは、初めて「喜劇新思想大系」を見た時、山上たつひこは気が狂ったのではないか(あるいは当局から洗脳されたのではないか)と思ったという。
だが、洗脳されていたのは、明らかに、「光る風」とその後の山上作品を断層あるものとしてしか受け止められなかった我々読者の方なのである。
posted by og5 at 19:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 本・雑誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

後ろめたいオリンピック

北京オリンピックが終了して早くも一週間が経とうとしている。
政治とスポーツは別であり区別して考えるべきだ、とか、いや近代オリンピックというものがそもそも政治と切り離すことの出来ない性質を持ったものなのだ、とか、様々な議論が戦わされたが、終わってみれば見事にチベット問題も毒ギョーザも、四川大地震さえもが綺麗さっぱり忘れ去られている(ように、少なくとも僕には見える)。

政治とスポーツを分けて考えるべきであるなら、オリンピックが無事終わった今こそ、人はチベット問題を改めて問わねばならないであろう。しかし、現実がそうなっていないことは明らかである。
そこには、2種類のグループがある。まずひとつは、元々チベットの人権問題等諸問題について深く考えてなんかいなかった人々。そしてもうひとつが、様々な政治的もしくは人道的問題の存在を認識し憂慮していながら、それでもあえて「政スポ分離」を唱えた(もしくは選択した)人々である。
前者は、その「無自覚」故に(自分達ではそれこそ全く未だ無関心であるが故に何も感じていないことをも含め、逞しくはあるが)後ろめたい存在だと定義され得るであろう。だが、後者は、その「自覚」故に、より一層後ろめたい。彼等は「楽しんでしまった」(そして、もし今何もしないなら元々政治とスポーツはオリンピックにおいて一体であったと自ら証明しているも同然なのではないか、と薄々気付き始めているはずの)人々だからである。

かの国におけるスポーツの祭典の成功は、かの国の政治(外交)の成功なのだから、人はもはやかの国を無条件では非難出来ないであろう。
「楽しんでしまった」後何もしない、とはそういうことである。
もちろん、僕もまた中途半端に「楽しんでしまった」中のひとりなのだが・・・。
posted by og5 at 14:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月25日

残酷なことも含めての女性・賛〜「赤い天使」

赤い天使赤い天使
有馬頼義 笠原良三

角川映画 2004-11-26
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映画でも小説でも、その「形」にすごく興味がある。もしかしたら間違った受け止め方をしてしまっているのかも知れないというリスクを感じないわけでもないのだが、いかんともし難い。
「赤い天使」を観た時も、僕はまず「形」を考えずにはいられなかった。
それはつまり、西さくら(若尾文子)を巡る3人の男達には、きっと何らかの意味があるのだろう、ということである。

3人の男達には、性的な意味において明らかに象徴的なある役割が与えられている。
ひとり目の坂本一等兵は、内科病棟の他の兵隊達と共に西看護婦に性的暴行を加える。彼は男性として性的に正常であり、それが故に死を免れ得ないであろう前線に送られる。
二人目の折原一等兵は、戦傷によって両腕を失っている。それ以外には何らダメージを受けていない彼は(自らの手が使えないが故に)日々性的苦悩にさいなまれる。西看護婦は彼を救済するが、その救済は、かえって彼の将来の絶望を際立たせ、彼を死へと急き立てる。
岡部軍医は、モルヒネ注射の常習により性的不能者となっている。西看護婦は、彼に亡き父の面影を見い出し、その尊敬の念はたちまちに恋愛感情に移行する。岡部は、彼女の献身的な愛によりモルヒネ中毒から抜け出し、同時に彼のインポテンツも治癒するのだが、おそらくそのせいで過剰に男らしさを取り戻してしまう。それは、岡部を死へと誘う。

3人の男達は皆死ぬのである。だが、彼等は不幸であろうか。
坂本一等兵は蛮行を詫びながら息絶えるが、折原一等兵は自ら命を絶ってしまうが、岡部軍医は敵兵の凶弾に倒れ身ぐるみ剥がされ荒野に打ち捨てられるのであるが、果たして彼等は不幸であろうか。
坂本一等兵は西さくらを恨んではいないだろう。折原一等兵も西さくらを恨んではいないだろう。岡部軍医においては、もちろん言うまでもないことである(胸の薔薇よ)。

西看護婦は、これら3人の男達の死に寄り添い、そして生き続ける。
これはおそらく戦争映画ではなく、まして反戦映画などでもなく、実は純粋に女性賛美の映画なのである。
若尾文子がこの映画を観たくもないと語っているという「逸話」は、これが正しく男のための映画であるという証明でもあろう。

コスプレあり。
そういう意味でもまた、これは先駆的作品である。
posted by og5 at 22:26| Comment(3) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月23日

花やしきでローラーコースターに乗る

武田百合子の文章が大好きだ。特に「遊覧日記」を愛読している。「遊覧日記」の一等最初の話が「浅草花屋敷」で、だからこのかなりレトロな遊園地は、ずっと僕の憧れの場所だった。
その憧れの場所に、18日、妻と一緒に僕はとうとう足を踏み入れた。モレーノ・ヴェローゾの東京ライヴを観るついでにと、妻が浅草行きを企画してくれたのである。

羽田空港から、京急空港線で京急蒲田、泉岳寺を経て浅草へ。乗り換えはないのだが、何故か京急本線、都営浅草線と路線名がころころ変わる(田舎者には理解し難い)。
駅を出て地下道をくぐり、「浅草一丁目一番一号」の看板も誇らしげな神谷バーの前を通り過ぎて左手にずんずん行くと、すぐに雷門が見えて来る。右に風神、左に雷神。テレビでしか見たことのない巨大な提灯が中央にどどんとぶら下がっている。
仲見世を歩く。人込みも気にせずどんどん歩く。洋食屋「グリル・グランド」で妻はオムハヤシ、僕はミックスフライを食し、その後いよいよ花やしきへと向かう。

外観からして既に可笑しい。何しろ浅草寺のすぐ側なのだ。なのに、五重塔と対で建立されたような顔をして「ちびっ子用絶叫マシン『ぴょんぴょん』」が聳え立っている。
入園料(ひとり900円)を支払って園内に入ると、まずそのあまりのごちゃごちゃ感に眩暈を起こす。思ったより人が多いのも、ごちゃごちゃ感に拍車をかける。パンフレットに「古くて、狭くて、こりゃまた愉快!!」とキャッチコピーがあるが、正にその通りだ。
花やしきのシンボルでもあるという「Beeタワー」に乗り、地上45メートルの高さから狭い園内を一望する。一望しながら、「ローラーコースター」に乗る決意を固める。
実は、僕は生まれてこの方、ジェットコースターの類に乗ったことがない。いわば、生まれて初めての経験を花やしきに捧げるわけである。
「ローラーコースター」乗り場は、思いの外混んでいて、長蛇の列が出来ている。結局6回待ちで僕達の番となった。
ギチギチと異音を発しながらコースターがレールを登って行く。「いまにも壊れそうな感じがたまらない!」という売り文句は伊達じゃない。そして、登坂に1分をかけた名物アトラクションは、銭湯に飛び込んだり隣の遊具とぶつかりそうになりながらもすれすれで身をかわしたりしながら、わずか30秒後にはもう終点に滑り込んでいるのだった。
何故か、みんな笑っていた。僕も、妻も、笑っていた。

「浅草は平たい」という武田百合子の言葉を実感する。
五重塔も「Beeタワー」も「ぴょんぴょん」もあるのに、本当に浅草は平たかった。
ラベル:花やしき 浅草
posted by og5 at 14:57| Comment(2) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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