2008年08月17日

若尾文子・賛

増村保造×若尾文子.jpgそれぞれ別々に観ればまた違う感想が生まれたのかも知れないが、2本一気に観た僕の感想は、とにかく「若尾文子は凄い!」だ。
「刺青」、そして「妻は告白する」。
監督増村保造をはじめとした全ての関係者が、若尾文子の「魅力」にやられている。谷崎潤一郎も、多分やられていただろう。生きていたら、黒川紀章と恋のさやあてを演じたかも知れない。
と、これはまあ僕の勝手な妄想だが、谷崎潤一郎が亡くなるのが1965年のこと。「瘋癲老人日記」だの「卍」だの、谷崎の生前もこの文豪の原作による作品に度々出演していた若尾文子のことを、彼(谷崎)はいったいどう思っていたのだろうか、と僕はまたもやあらぬ妄想に走る。
僕もまた、若尾文子の魅力に完全にやられてしまったのである。

「刺青」のお艶は、とにかくカッコよかった。
常識的に考えればひどい女としか言いようがない。一応は大きな質屋のお嬢様なのだが、手代を半ばそそのかすようにして駆け落ちし、頼った船宿の主夫婦に騙されて女郎屋に身売りされても一向に怯まない。怯まないどころか、むしろ水を得た魚の如くである。お艶に翻弄され、人を殺めたり道を踏み外したりして右往左往する男達の滑稽かつ哀れな様が、逆に「生き物」としての人として間違っているのではないか、とさえ思えて来るほどだ。
だからこそ、お艶が自ら旗本(佐藤慶)に「惚れた」と言い切る瞬間が胸を打つ。
(「惚れた」旗本に愛され過ぎて)フラフラしながら帰宅した明け方、当然ながら嫉妬し詰問する手代に、またも散々勝手な(理屈にもならない)理屈をまくし立てるお艶。
そうだ、この人はどうしようもなく生命力の塊なのだ。
お艶は、決して背中に女郎蜘蛛の刺青を入れられた不遇の女ではない。お艶が女郎蜘蛛を呼び寄せたのだ。だから、悶絶するお艶の背中で、ドクドクと血を流しながら、女郎蜘蛛は「あたし別に何にも悪いことしていないんだけど」とでも言いたげな困った顔をしている。

着物の色が美しい。いや、そればかりではなく、全てにおいて色が深い。そして、土の匂いがする。セットを使用した撮影であることに現在と違いはないであろうに、足元にちゃんと地面のある感じがするのである。映画は匂いをも表現することが可能な表現手段である、と思い知る。
雪の中、駆け落ちする道行、足袋をはけばいいのにと気遣う手代に、自分は裸足が好きなのだ、と返すお艶が妙に心に残っている。

一方「妻は告白する」の彩子は怖い。いや、彩子が怖いというよりも、愛が怖いのだ。
彩子は純粋だ。だから、法廷でも幸田を見る。愛人関係にあるのではないかと疑われている正にその人を、何とも言えない表情で(盗み見るのではなく半ば堂々と)見るのである。
彩子は、二度幸田の勤める製薬会社を訪れる。二度目はあの衝撃的な雨の日の訪問だが、その日はもちろん、裁判が始まったばかりの一度目の訪問においても、周囲の人々の「目」を描くその肌触りは、僕に強くキム・ギドクを想起させる。
純粋な彩子の愛は、人目に触れることを憚られるような「忌避すべき何か」を孕んでいる。日常にはそぐわない、子供連れの母親ならば、その子の目を掌で覆いながら「見ちゃいけません」と言わずにはおられないであろう「何か」を。
彩子の告白に、僕は震える。彩子は、幸田との結婚を望んでザイルを切ったのではない。自分達だけが助かりたくてザイルを切ったのでもなかった。

幸田に拒まれて、よろよろと階段を降りる彩子を、非情のカメラが追う。すがる手摺の危うさ。人々の視線。それでもなお、エレベーターを待つ幸田の婚約者からだけは身を隠そうとする彩子。トイレの鏡に映った自分の顔・・・。
幸田の「誠実さ」など何の役にも立たない。

秋田フォーラス8階シネマパレにて上映中。
8/16(土)〜8/22(金) 入場料金\1,000均一
「妻は告白する」
@10:20〜 A14:00〜 B17:40〜
「刺青」
@12:10〜 A15:50〜 B19:30〜
※8/23からは、第三弾として「赤い天使」を上映予定。


これは、若尾文子へのラブレターである。

妻は告白する妻は告白する
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刺青刺青
若尾文子.長谷川昭男.山本学.佐藤慶.須賀不二男, 増村保造

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タグ:若尾文子
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2008年08月16日

扮装する人々

「ミスター・ロンリー」と、あっと言う間に上映が終わってしまった「P2」との関連性について。

「P2」には、有名な俳優も出ていないし、筋立てもチープである。まあ、どちらかというとB級作品なのであろう。ただし、A級であるかB級であるかはあまり大きな問題ではなく、面白いかどうかがまず第一義だと思っているから、僕にとって「P2」の評価は決して低くはない。もちろん、「面白い」にはいろいろな意味がある。

使える限りの予算内でサスペンスを盛り上げ、観客にショックを与え、ゴアリーな描写が好きな人にもそこそこ満足して貰いつつ、最終的には復讐譚としてのカタルシスも用意されている・・・。
つまり「P2」は娯楽作品として(やや中途半端であるとはいえ)非常にオーソドックス(かつ真面目)なのだが、僕が注目したいのは犯人トムの扮装趣味である。
地下の警備員控え室で、トムがプレスリーのレコードに合わせて踊るシーンがある。プレスリー人形付きカートリッジがレコードの溝をゆっくり滑る。なり切って踊るトム。カメラがなめる部屋の中には、プレスリーのコスチュームを完璧に着込んだトムの写真が飾られている。
このシーンはやや唐突だし、その後も特に何の説明もないので勝手に思い込んでいるだけなのかも知れないが、トムもまた「ミスター・ロンリー」なのだと僕は思ったのである。
アンジェラが意識不明のまま着せられているのも、単なるパーティ・ドレスではなく、明らかにマリリン・モンローのあのドレスであろう。
つまり、トムは、エルビスとマリリンのデートを画策していたのである。

「ミスター・ロンリー」は、有名人になり切ることでしかアイデンティティを保ち得ない(逆に言えば、そもそもアイデンティティのない)哀しい人々を描いていたが、「P2」ではそれがいきなり犯罪者(ストーカー)である。
普通に考えて(様々な意味で)より程度の低い「P2」の方がより常識的である、というのが面白い。それは、作品自体の評価や芸術的な位置付け等と全く関係なく、単に作者(監督あるいは製作者達)の性質(もしくは趣味)を現しているのだ、と僕は思う。
もしかしたら、観客の、か。

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2008年08月15日

温故知新〜「彷徨」

彷徨彷徨
小椋佳

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時々無性に昔聴いていたレコードが聴きたくなる。いいのか悪いのか(少なくとも高校生の頃に比べれば)自由になるお金もあるので、すぐに買ってしまう。
まあ、いいのであろう。
そんなわけで、今回は小椋佳がどうしても聴きたくなって「彷徨」を買った。

まず、圧倒的にこのジャケットである。「聴きたくて聴きたくて」と言っている割には音より先にビジュアルかい、という気もするが、いや、それ程にいいジャケットなのだ。
猫を抱く森和代の背景に後ろ向きにひとりの青年(おそらく岡田裕介)が佇むモノクロ(セピア色の)写真に「彷徨(さすらい)・小椋佳」の文字。裏面右半分を頬杖をつく森の顔のアップが占めているが、光が強く当たって輪郭の飛んだ感じがとても美しい。

さて、肝心のレコードだが、やはり「さらば青春」が素晴らしい。他の曲についても、ドラマ(青春物語)を連想させる何曲かはリリシズムにあふれたとてもいい曲だと思うのだが、それにしても現在の僕にはどうしても退屈に感じられてしまうのだ。
ただ、今回「さらば青春」以上に心惹かれたのが「この汽車は」、特にその歌詞であった(→☆)。
冒頭の「この汽車は機関手がいない」というひと言に始まり、行毎に次から次へと位相をずらしながら思いが移ろって行く。これは青春の自問自答であり、ある意味自動筆記のようなものかも知れないが、しかしそれは決して行方知れずに流れて行きはせず、「それでも走り続ける」自意識へと引き戻されるのだ。

シンプルでありながら聴く者に鮮烈なイメージを喚起せずにおかない「さらば青春」にも改めて強く心を動かされたが、「この汽車は」の歌詞の魅力に気付くことが出来たのが、今回の何よりの収穫であったと思う(→★)。

※当時、岡田裕介と森和代は、庄司薫の芥川賞受賞作「赤頭巾ちゃん気をつけて」などでも共演していた青春映画の(小)スター的存在で、他にも数本同じ顔合わせによる映画・TVドラマがあったはずである。
小椋佳はかなり後年になるまで素顔を人前に出さずに音楽活動を行っていたので、中には岡田裕介を小椋だと勘違いしている人もいたというが、僕は何故か小椋佳という人はきっと原田芳雄みたいな顔をしているに違いない、と思い込んでいた(「さらば青春」を聴く度に、どういうわけだかそう思った)。
タグ:小椋佳 彷徨
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小銭の問題

小銭が嫌いである。
こんなことを言うと、お前はお金を粗末に扱うのか、とか、一円を笑う者は一円に泣くという言葉を知らないのか、とかいろいろと批判されそうであるが、そうではなくて、僕は「余分な小銭」が嫌いなのである。
飲んだ翌日、あるいは何かの支払いのために妻に財布を預けた後など、財布が異常に膨らんでいることがある。五円玉が2枚ある。五十円玉が1枚はしょうがないとして、8枚もの十円玉がそれと同居しているのはいったいどうしたことだろう。五百円玉が6枚の百円玉と共謀して財布を必要以上に膨張させている。あ、一円玉がこんなところに隠れていやがった・・・。
だから、そんな日のコンビニのレジでは、僕はせっせと小銭を吐き出す。そして、まだ少し厚ぼったいが、それでも若干はスリムになった財布をポケットに押し込みながら、ホッと安堵の吐息を漏らすのである。

コンビニやスーパーのレジでは、僕は常に会社の仕事で使う以上の計算能力を駆使している。時には、能力の限界を超えるほどである。
例えば、コンビニのおねえさんに「せんろっぴゃくごじゅうはちえんでございます」と言われると、僕は千円札2枚と百円玉2枚と十円玉1枚、そして一円玉3枚をカウンターに並べる。おつりは五百五十五円だ。ぞろ目で何となく縁起がいいし、硬貨が総数で3枚減少することになる。とても嬉しい。
レジ・カウンターに商品の入ったカゴを差し出した後、とにかくまず僕がすることは、財布の中の小銭の残数を確認することである。各硬貨の枚数をチェックし、打ち込まれる毎に変化するレジの金額表示を見守る。この時僕の胸のレジスターは、おそらくカネゴンのそれのようにカタカタとせわしなく回転していることだろう(んなこたないか)。

時々、僕の差し出した代金を見て悩み始める人がいる。訝しげにレジとお金を見比べている。そのままさっさと打ち込んでくれればいいのに、と思いつつ、僕も何も言えず、ちょっとだけど嫌な空気が流れる。
また、財布の中に8円あるのに代金の端数が「9円」ということがある。せっかく買い物をしたのに、僕の手元には一円玉が更に1枚増えてしまう。
とても悔しい。

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2008年08月04日

「これでいいのだ!」と言うキム・ギドクの「ブレス」

ハンソン刑務所に収監されている死刑囚チャン・ジンは、何度も何度も自殺を繰り返す。それをニュースで知ったヨンは、何故か強烈なシンパシーに囚われ、身内でもないのに足繁く刑務所を訪ねる。
しかし、彼女は本来であればチャンに面会する権利など持たない「赤の他人」でしかない。昔の恋人だと偽るが、誰もそれを本気で信じたわけではない。
では、何故に彼女はチャンに面会することが出来たのか。

ハンソン刑務所には、謎の「保安課長」が登場する。「保安課長」は、何の権利もないヨンを刑務所内に招き入れる。面会室における破天荒な行動を、ほぼことごとく黙認する。しかし、「ちょうどよい塩梅で」面会終了のブザーを鳴らす。時にはヨンと一緒に歌を口ずさみ、踊っていることさえある。自由に監視カメラ(視点)を切り替え、それは時に刑務所の外で雪遊びに興ずる父と子にまでズーム・インする。これは正に「監督」という存在そのものではないのか。

これらから察せられるように、ハンソン刑務所がもしキム・ギドクの内面だとすれば、ヨンは何か。夫の浮気に結婚生活あるいは人生の意味すら見失っってしまった彼女を自らの内面(ハンソン刑務所)に受け入れるということはいかなることなのか。
ヨンは、自分の人生を再現する。歌と壁紙で春夏秋と、絵が好きだったこと、臨死体験、夫との出逢いを振り返る。実はこれは復活の儀式であり、だからこそ冬には舞台装置たる壁紙が存在しない。冬は現在だからだ。そして、冬の歌は、刑務所からどんどん遠ざかって行く時に、夫との二重唱で共有されるのだ。

では、残されたキム・ギドクはどうするのだ。
チャン・ジンはもはやひとりの人格ではないだろう。妻と二人の子供を自ら殺害した男は、キム・ギドク自身だ。だが、同時に、そのチャンにストーカー的恋慕の情を寄せる若い囚人もまたキム・ギドク自身である。牢獄の壁に女の裸体を彫る男も、僕には未だ理解は出来ないがもうひとりの髭の男も、間違いなくキム・ギドクその人なのである。

キム・ギドクは今牢獄にいる。少なくとも、牢獄に例えられる何かを、キム・ギドクは今身内に抱え込んでいる。しかし、その牢獄を、ただ自身の再生のために利用しただけにしか見えないヨンを(そして実際その通りなのだが、その身勝手な女ヨンを)、この映画監督は心から愛しているように見える。
春の歌が「ボン・ボン・ボン・ボン〜」と歌い出されることに、僕は今運命を感じている。
そうだ。今確信したけれど、この映画は本当に「これでいいのだ!」と言っているのだ。
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「悪魔」と「死神」

鳩山邦夫法相の死刑執行に対して、朝日新聞の夕刊コラム「素粒子」が、同大臣を「死神」と揶揄したことに対して「全国犯罪被害者の会」が質問状を送っていた。
法に則って死刑執行を指示する法相を「死神」と呼ぶことは、法の下の正義(死刑)の執り行われることを望む被害者遺族をも侮辱するものである、というのが彼等の主張である。
そして、この度(3回目の回答)で、朝日新聞側からやっと謝罪の意思が示され、「全国犯罪被害者の会」側もこれを了承したのだという。

「〜犯罪被害者遺族をはじめ多くの方々からのご批判を踏まえたとき、適切さを欠いた表現だったと言わざるを得ない〜」

しかし、果たしてこれが謝罪の言葉だろうか。
そもそも「〜ざるを得ない」というのは、本意ではない、ということの表明ではないのか。

一見謝っているように聞こえるかも知れないけれど、実際はひと言も謝ってなんかいませんよ。謝罪だと受け止めるのは、まあ世間様の勝手ですけどね。

明らかに、朝日新聞はこう言っているわけである。

ビアスの「悪魔の辞典」にでも出て来そうなエピソードだなあ、と思う。
ビアスが一世紀近くも前に著した古典における「悪魔」とは、まぎれもなく「人間」、それもいわゆる「建前と本音」を都合よく使い分ける「人間」そのもののことであろう。
「死神」呼ばわりされた者も、「悪魔」的言説を弄して「謝罪」した者も、共に「人間」なのである。

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※と言っていた自分が、「犯罪被害者遺族」と書くべきところを、当初「犯罪者遺族」と書いてしまっておりました。誠に申し訳ございません。
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2008年08月03日

さらばタリラリラン

赤塚不二夫は僕の憧れの人であった。
小学校三年の時引越しをしたが転校はせず、そのまま同じ小学校にバス通学し続けた僕には、いわゆる普通の意味における「近所の友達」はいなかった。僕は漫画が好きだったので貸し本屋に通った。あるいはまた時には自分で買った週刊誌や月刊誌を、誰もいないしんとした家で読んだ。
小学校高学年の頃から僕は漫画を描き始め、それが友達を作るきっかけにもなった。
他のいろんなことと同じように結局ものにはならなかったが、漫画はやはり僕にとって特別なものだった。
トキワ荘もなんも関係なく、僕はただ赤塚不二夫の漫画が好きだった。

中学生になった僕の2大アイドルは、沢村忠と赤塚不二夫であった。
部屋の壁に、アイドル歌手やロックスターの写真ではなく、ちょび髭を生やしたキックボクサーと片目をつぶったニャロメのポスターを貼っていた。
だから、女の人と一緒に全裸になっている赤塚不二夫をいきなり見せられた時には仰天した。ショックだった。夢が裏切られたと言ってもいいくらいだった。
だが、その夢とはいったい何だろう。
僕にとって赤塚不二夫は、やはりあくまで少年漫画の人であったのかも知れない。

赤塚不二夫を「ギャグの神様」と思ったことは一度もない。
そう呼ばれていたのか、と今回初めて知ったくらいだ。
赤塚不二夫は僕の憧れの人であった。
しかし、僕は、赤塚不二夫が「ギャグの神様」だったから憧れていたのではない。
本当に、ただ友達のように、その漫画が大好きだっただけなのである。

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タグ:赤塚不二夫
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2008年07月31日

英会話

2年半くらい前まで英会話スクールに通っていた(と一昨日のブログで書いた)。そこで判ったことが少なくともひとつだけはあって、それはいくら英語を覚えても話題のない相手とは話が出来ないということであった。
こんなことをいうと、いかにも英会話の実力が上がったかのように聞こえるかも知れないが、そんなことはなくて、要するに僕は挫折してしまったのである。

僕は普段の生活においても、人と接するのにかなりプレッシャーを感じる方で、使わなくてもよい気は必要以上に使いまくるくせに、肝心な時には全く気が利かないという難儀な性格をしている。誰かといると沈黙がこわい。話が好きなわけでもないのに、何とかして相手との共通の話題(になりそうなこと)を探して話しかけようとするのだが、すぐにネタが尽きてしまう。だが逆に相手に話しかけられた時には、あまりちゃんと人の言っていることを聞いていないので、チンプンカンプンあるいはしどろもどろになってしまう・・・。

日本人相手だってこうなのだ。ましてボキャブラリーに極端な制限のかかる英会話において、「フリー・トーク」なんか出来るわけがない。
だから、(個人的なことを極端に拡大して一般論として言えば)僕は小学生が英語を習うことになど全く何の意味もないと思っている。
これは、要するに「言葉」の問題ではなくて、「人間」の問題なのです。
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2008年07月29日

読むべきか読まざるべきか〜ハリー・ポッター最終巻

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ハリー・ポッターのシリーズ最終巻(日本語翻訳版)が発売されたねえ、などと妻と話していた。あんたは読むの? 読まないの? などと。
妻には、第6巻「ハリー・ポッターと謎のプリンス」を購入したのに何故か読んでおらず、従ってそれを飛び越えてラストを読むわけにはいかないよなあ〜、というような事情があるようだ。
が、僕にもまた、僕の事情がある。

僕は、第4巻「ハリー・ポッターと炎のゴブレット」までを翻訳本で読んでおり、更に第1巻から第6巻「Harry Potter and the Half-Blood Prince」までを、「Harry Potter and the Goblet of Fire」を除き一応全て原書英国版で読んでいる。
この期間、僕は、英語の本をそのまま読むということにずっとはまっていて、(今はもう止めにしてしまったが)並行するように英会話スクールにも通っていた。
もう2年半くらい前の話である。

僕の事情というのは、つまりどちらを読めばいいのだろうという話で、僕には、「ハリー・ポッターと死の秘宝」を読んだらいいのか「Harry Potter and the Deathly Hallows」を読んだらいいのか、よく判らないのである。

まず、「ハリー・ポッターと死の秘宝」を読むとした場合、「ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団」及び「ハリー・ポッターと謎のプリンス」を翻訳版で読んでいない僕にはちんぷんかんぷんかも知れない、という不安が立ちふさがる。それほどまでに僕の原書読みはいい加減であった(秘儀「知らない単語飛ばし」のオンパレード)。とすれば、僕は今最終巻を日本語で読み始める前に、それに先立つ2巻を改めて(日本語で)読み返さなければならないわけで、はっきり言ってこれは辛い。
だからといって、「Harry Potter and the Deathly Hallows」が今の僕に果たして読めるだろうかというと、それは多分絶対に無理なのである。
道理が引っ込むまでの無理を通すだけの根性あるいは「ノリ」は、今の僕にはもうない。

結論。
いろんなことの顛末がどう決着するのかには興味があるけれど、それにしても、僕には少々長過ぎたようである。
多分読まないな。

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2008年07月28日

スマイル

最近地震が多い。従って、テレビで被災地住民のインタビューなどを目にする機会もまた多くなる。そして、そんな被災者達の受け答えを見聞きする度に、僕はいつも同じようにあることを感じる。それは、何か凶悪な事件が発生した直後の付近住民達の語り口調とも共通する何かである。
彼等は笑う。怖いです不安です、あるいは子供をひとりで外出させられません云々と言うのだが、その言葉とは裏腹に、かなりの確率で彼等は笑っている。
もちろん、そうでない人達も大勢いる。だが、例えば海外において同様の状況が生じた場合人々が取るであろう反応とは、明らかに深刻度が違うように感じられるのである。

多分、彼等は本当には絶望していないのであろう。実際、何とかなる、と思っているのではないか。幸いここは日本だから、まさか死にそうなのを放っておかれることもあるまい。住むところがなければ(かなり不自由だが)仮設住宅も用意されるし、食料にも(贅沢さえ言わなければ)困ることもないであろう。その信頼感にそれぞれ軽重の差はあろうけれども、多分、そのように思っているのだと思う。
しかし、これがアフリカや東南アジアだと、本当にそうはいかないのだ。死にそうになったら放っておかれる。住むところなんか心配している余裕もない。リアルな餓死の可能性が、そこにはある。
これも、全てが全てそうだという話では、もちろんないのであるが。

あれは、義父が重い病気で入院している時のことだった。いつも微笑みを絶やさない感じのいい看護婦さん(当時はそう呼んでいた)がいた。ところが、彼女は義父が最も重篤な状態になった時にもやはり同じように微笑んでいたのである。家族の彼女に対する評価は一変した。
つまり、彼女の笑顔は、ただそこに貼りついていただけだったのである。そのようにしなければとてもやり切れないほどの重圧が彼女にのしかかっていたということなのかも知れないが、僕にはそれがまるである種の植物の種子を覆う刺の生えた硬い殻のように思われた。
彼女の微笑みは被災者達の笑いとは全く種類の異なるものではあろう。だが、地震の被害を伝えるテレビニュースを見ながら、僕には何故かあの時の彼女のことがふと思い出されたのであった。
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